日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

随分遠くまで来たものだ。

2011-08-11 09:25:16 | ふりかえり
ひとりひとりに思い出があり、の類のまったくの雑文です。

距離ではありません。
時間的に、の話です。

中学3年のいつ頃だったでしょうか。
家庭訪問で、担任のN先生が、玄関の上り框に腰掛けて、母と話している光景を覚えています。
母はかしこまって聞いています。
おぼろげな記憶なのですが、先生は、進学する高校の話題も、もちかけたように記憶しています。
昭和39年。通知表を親に見せないで保護者欄の印鑑を、こそっと押して返却したり、なにかの保護者のサイン欄に、自分で崩し文字の苗字を代筆して提出する、ぐらいはしていた中三でした。私なりの、親との距離感、生意気の証だったのでしょう。
「U高校(※)へ進学できるのだから、させてやらないと」
N先生が母を説得していました。
(※)その中学から汽車で通学可能な進学校。私の学年は1学年330名余り、8クラスの中学校から、女子は5名進学しました
昨今のように、進学塾もない時代。どこの高校へどれだけの偏差値が、など話題にも上らない時代です。
先生が母親を説得してくれて、母親が父親を説得して、そして、私は、早朝1時間余りかけて汽車で通う高校へ進学希望している女生徒になったのです。
あの頃でも、民間の中学生統一のテストが実施されていました。団塊の世代という言葉もまだない頃ですが、戦後生まれはいつも、コレまで最高、なのです。いつも受験人口は前年より増える、というニュースが当たり前の時代でした。
東京オリンピックがあった年です。

何十年振りかで出席した同級会の時点で、そのN先生は、故人でした。
その先生が、あの家庭訪問で母親を説得していなかったら、違っていたでしょうね。

受験したのは、その高校一つだけ。
今の人たちにしてみれば、不思議でしょうね。入学できなかった場合、どうするの?と。
夜、勉強したあと、電気を消して布団の中に入り、進学校の制服姿で駅へ向かう自分を想像しながら眠りについたものです。そして、もし、もしダメだったら、町に一つある紡績工場の女工さんになるのか、と。その頃の中卒の月給は11,000円から13,000円でした。
取り越し苦労、って、笑われるかも知れないけれど、私って、いつも、万一が気になる性分ですので、中卒のときの初任給も、3年後の高卒のときの初任給も覚えているのですよ。

ずっと後になって、母は、あのN先生、自分に産まれた女の子にお前と同じ名前付けてたよ、って聞いたことがあります。
どうでもいいことなので、聞き流しただけですが、
あの中学3年の頃から、随分遠くに来たものだと、そう思う次第です。


コメント
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