日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

この時が来たのですね。北陸新幹線。

2015-03-15 07:07:33 | 私の雑感あれこれ
長らく新幹線が来る、新幹線が来る、と謳い文句みたいでした。
3年前に脳梗塞で倒れた母を励ますお医者さんの言葉も
「新幹線を見ないで死ぬわけにいかんだろ」
なんです。うふふ
念願成就。母は元気(現在98歳)で、100歳が見えてきた、と言っています。

さて、北陸線。
テレビ画面では、「新幹線がトンネルから間もなく姿を現すでしょう」と司会者の声。
「画面上方に映っているのは日本海、富山湾です。黒部郊外の田園風景の中を新幹線は進んでいきます」と。

私の町はあのあたり。旧街道の道筋はあれかしら、と目で探す。たくさんの知り合いがうっすらと雪景色のこの地域に暮らしているはずだ。画面からの映像には町の音は聞こえません。

体験乗車をした女性キャスターは、「すごい景色! 右に日本海が見えて、左に雪のアルプスが…」と感動を伝えます。
汽車に乗ると、その景色が普通だったのに、そんなにまで感動するって、そちらのほうに驚きです。…多分「営業用の驚き」もあるのでしょう。同じ日本だし、首都圏≒日本ってわけじゃないのですから。苦笑

かつて、国鉄の北陸本線は直江津から米原までの幹線でした。
そう、国鉄だったのです。朝の6時42分、私の最寄駅始発の汽車が私の通学列車でした。
始発の客車だから、必ず40分余りの乗車時間は座れます。英単語調べは、いつも列車の中、のやっつけ仕事の私でした。苦笑

私達のように列車で通う学生は汽車通といわれていました。朝6時半前に家を出て、帰るのは夕方5時過ぎ。1本遅くなると6時半になりました。
そんなこともあって、汽車通では、部活動をする人は滅多にいませんでした。

私達の中学校(1学年330人余り)からその高校に進学したのは、男子は20人ほどもいたでしょうが、女子では5人でした。
私以外の女子の皆さんは、教育熱心な家庭の育ちに見えました。
私、担任の先生が親に勧めて、その汽車通する学校に行けたのです。私の中では、親に負担かけることになる、という気持ちがありました。勿論、その学校への進学ヤメ、にはなりたくないから、決して口にはしませんでしたけれど。地元の高校に進学するのと比べて負担をかけているとしたら、通学定期代だな、と思っていました。ひと駅の乗車券が10円だったような気がします。高校のある市までの乗車券は片道90円でした。勿論、通学定期券を購入しました。割引率が一番いい6か月定期券を購入しました。日割りして、1乗車の料金にすると9円でした。しっかり覚えています。9割引きになっているのだ、助かる~、と。
そのときの私15歳でした。

モクモクと煙を吐いて走っていた汽車がディーゼルとなり、その後電車に。そして運営形態は国鉄が民営化されJRとなりました。帰省の際に利用したりしますが、電車にかつての面影はありません。
そして、昨日のテレビでは、北陸新幹線はJRが運営するけれど、在来線はJRから切り離されて、3つの地域に分断されて第3セクターが運営することになった(ている?)とのこと。
地元住民へのインタビューに、通学定期も値上がりして…という言葉が耳に入ってきた。

大々的にプラス効果の北陸新幹線デビューがテレビからお茶の間に流された一日だったけれど、通学の足は廉価に確保されたいものだ、と、はっと昔のことがよみがえった一瞬でした。きっとその他の諸手当がなされているから、それだけでは比較しようないのが実態なのでしょうけれど。

新幹線をたびたび利用する立地に暮らしてウン十年。東京が遠い、東京が近くなった、といういいかたも、地元当事者の思いとは違うでしょうね。
長距離を走る在来線がなくなり、これまでの特急が姿を消して不便、とも。
地元の方々の思いはそれぞれ。

長らく遠く離れて暮らしていますが、昭和40年代、9割引きの学割の恩恵を忘れていない、昔女の子がいる、という印(しるし)を書き留めておきます。




コメント (4)
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