日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

6月7日8日の飛鳥、斑鳩紀行。

2016-06-16 13:05:50 | 旅行・休養

いつもの友人との3人旅。2月ぐらいに予約したのですが、この60代にとっては6、7、8で覚えやすい日程でした。

7日の朝9時発の近鉄特急で飛鳥を目指す。

下調べによると、飛鳥も法隆寺界隈も足の便が悪いのか、旅行ガイドにはレンタサイクルの案内が多い。

我ら60代。大丈夫かしらと思いつつ、小回りが利くし、、、とレンタサイクルバージョンを想定して、車内で自転車で回るコース説明などをしていた。

特急は途中一駅の停車があっただけでサッサと進む。大和八木で乗り換えて、飛鳥で下車した途端に、雲行きが怪しくなってきた。

雨。

レンタサイクルは急遽取りやめ。ウン十年前以来だった石舞台めぐりなどはおじゃんかと覚悟もしたけれど、コースの総距離が遠くもないし、タクシーで回ろうか、誰となく提案がでて、駅前の観光案内に相談。1~2時間の観光タクシーもあり、とのこと。Kさんがちょうど駅前に留まっていたタクシーと1時間5250円でとの交渉してくれた。

雨がざぁざぁ降る中を手始めに高松塚古墳、高松塚壁画館を見る。この60代がのろまそうに見えたのか、駐車場待機の運転手さんが入ってきて、見どころ(見落とさないようにと)ポイントを示してかつ説明してくれる。なんと便利。あぜ道に毛の生えたような細い道を踏み外さないようにタクシーに戻る。

天武・持統陵はタクシーの中で運転手さんの説明を聴いて通り過ぎる。

聖徳太子の生まれた(お産まれになった)橘寺を見学。見たかったら二面石はこちらです、と運転手さんがサクサクと案内。

飛鳥寺を見る。建物は何度も火災にあっているけれど、本尊様は一寸たりとも動いていません。よって、聖徳太子も曽我入鹿も皆様が座っていらっしゃるその場所にお座りになられたと思います、との解説に、ありがたみ大いに上がる。私は仏像そのものよりも、その時代を率いて生きた人々に関心があるタイプです。

例えば聖徳太子の2歳の像と16歳の像があり、2歳でお経の一部を口にし、合わせた手から良い香りがして、指の間からお釈迦様の骨が零れ落ちたとかの説明があった。その言い伝えをそのまま受け入れる熱心さはないけれど、さぞかし聡明なお子さんで双葉のころから英知が垣間見られたのだろう、と想像する。

そこでの仏様だったか、大きな仏像をまじまじと見上げると、異様に手が長い。デフォルメした彫刻というのもあるけれど、これっておかしくない? な~んて疑問を持ってしまう不届きものです。仏像通の友人に話すと、衆生に広く手を差し伸べるために仏像の手はどれも長いのよ、と。そんな理由なのか、と聞いたのだけれど、いくつもの仏像を見てどれもに異様さを感じたわけではないその仏像の手はあまりにも長かった。施主さんの意向?仏師の力量?どっちだろうとひそやかに思ったりしていた。

それから石舞台。石舞台は巨大な石でできた石棺だけれど、本来は土で覆われていたものが、年月を経て巨石がむき出しになったものです。本来の古墳の姿の参考にと曽我稲目(入鹿の父親)の古墳を先にタクシーで案内してもらう。観光案内ベテランの運転手さんの配慮です。ありがたや~。

運転手さんによると、考古学の学者さんらもお客さんとして乗せておられるそうで、まだまだあちこちに古墳があるだろうと思われるけれど、費用のねん出ができないので、もうこれ以上発掘はしないのだそうです。キトラ古墳も管理に費用の問題で、そっとふさいでおくことになった、とか。飛鳥の里にはまだまだ古代が眠っています。

飛鳥資料館前でタクシーおしまい。ここまでで1時間。ワタシ「おつりはいりません」って初めて言った。勿論1万円札で、ではありませんよ。苦笑

資料館前におしゃれなお土産屋兼レストランがあったので、資料館に入る前に食事することに。

何食べたかな~。もうウル覚え。確かなんとかカツ定食だった(※)。お上品な(お肉3キレほど)かつ丼で胃に重くはなかった。デザートの葛餅はお店で作った感じがして、さすが葛の名所と思った。(※)メニューはヒレかつめしセット。レシートで判明。苦笑

飛鳥資料館。名前から思うに、ここでひとまとめに飛鳥を味わえると思っていたけれど、総論的な資料館ではなかった。1982年に発掘された山田寺東回廊の展示がありました。ちょっと私の興味、イマイチで貴重な資料には申し訳ないです。いままであわただしく見学、移動を繰り返してきたので一休み。

資料館から橿原神宮前までバスを利用。宿泊ホテルは駅前なのでウルトラ便利。…こんなこともあって、名所めぐりにはレンタサイクルを使い、駅前で乗り捨てを考えていたのです。

ホテルのお風呂は温泉。お肌がツルツルに感じる泉質で満足。食事はフランス料理の基本コースだったのですが、思ったよりGOODでした。翌朝のバイキングはこの系列のリゾートホテルの中では一番満足と言っていいほどでした。

さて翌朝は晴れました。斑鳩の里行きです。

法隆寺はJR法隆寺から歩いて20分です。近鉄郡山からJR郡山へと歩いて15分の負担は覚悟していたのですが、ふと見たホテルフロントのガイドによると、近鉄「筒井」から法隆寺前までのバスがあることがわかりました。JR法隆寺~法隆寺間20分も、二つの郡山駅間の15分も歩かなくてもいいことになります。法隆寺駅前でレンタサイクルを借りて巡る案もボツになりました。ほっ。

路線はスマホでサクサク検索できる世の中です。なんと便利。パソコンを持ち歩いているのと同じなんですね。近鉄電車で30分足らずで「筒井」到着。15分間があってバスで法起寺まで行く。

①法隆寺、②中宮寺、③法起寺、④法輪寺の4つを見るとの計画でした。奈良の某女子大卒で、仏像通の人がメンバーなので、私にとってマイナーなお寺も教えてもらいました。結構近距離にあるので、③の入り口という名前の付いたバス停で下車して、③、④、②、①という順に見て回りました。

法起寺の三重の塔

事前検索で④のお寺の仏像写真が素敵だったので、その期待が田舎道歩きも背中を押してくれました。結構バス停から④そして③へは距離がありました。暑かったし。こんな程度で「距離があると感じる(遠い)」なんて、飛鳥時代の人とは感覚が違うでしょうね。

②はあの弥勒菩薩の中宮寺です。拝観料無料とあります。これまであっちでもこっちでも拝観料ばかりでしたのに、なんで?と思ったら、弥勒菩薩さんは今韓国へ出張中で、私が拝観したのはレプリカだったのです。精緻だからちっとも素人の私には区別がつかないのですけれどね。

①では、たくさんの修学旅行生に出会いました。私が先回夢殿にきたのも中学3年の修学旅行でしたもの。まさしくあれからウン十年、、、です。私の百済観音のイメージも中3の時のものです。今も昔もまことにスレンダー。

法隆寺夢殿

今回の斑鳩の里めぐりは、仏像よりも五重塔よりも、夢殿よりも、学び舎としての講堂にこころが惹かれました。伽藍の中で講堂だけは焼失して時代が新しかったりでした。世界遺産の価値としては古いものがいいのでしょうが、なんだか、学ぶためにお寺にやってきた当時の学僧をどのお寺に行ってもしのびました。塔があって、金堂があって、そこを行き交って講堂で学ぶ若き学問の徒。きっと優秀な人材だったのだろうな~とか、思いめぐらしました。当然学問が嫌いなのに身分格式で入れられていた人もいたのは、今も昔も通じるところあり、でしょうけれど。

法隆寺のエリアは堂々としています。逆コースから廻ったらしく、最後は正門通りを出て、「筒井」を通るバスに乗りました。

近鉄筒井から大和八木で乗り換えて、7日にスタートした駅に戻りました。

60代のになってふたたびの飛鳥、斑鳩の里めぐりは、遠い先人たちの知恵の具現として感じることができました。病や飢饉、災害から救われ、平安な暮らしをと願うところは、いにしえも今も通じるところです。

■ 読んでいただいてありがとうございました。どちらかというと骨格だけの文章になりました。近日中に加筆予定あり。

 

 

 

 

 

 

 

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書いてみます。福島の被災地訪問のこと。

2016-06-16 07:33:11 | 社会問題

いくつかの行事でてんてこ舞いしていました。

その中の一つに、某団体での県外研修として、被災地福島を訪ねました。
どうだった?と尋ねられて返答できるように、自分なりに書き留めておこうと思います。


中京圏から福島までのバス旅なので、早朝7時に35名を乗せたバスは出発しました。
宿泊先のスパリゾートハワイアンズ到着予定は16時です。
なんと9時間。昼食もバスの中でお弁当という強行軍。
60代が多数というメンバー構成ですから、トイレ休憩を適度にはさみながらの走行です。
膝に弱点を抱えている私としては、休憩に下車するたびにストレッチ。エコノミー症候群対策でもあります。

早目のスタートが功を奏したのか、東京をスムーズに通過できたこともあり、1時間早く到着しました。
日帰り客も利用している温泉で長旅の疲れを流してから、宿泊ホテルの被災状況の話を聴きました。


■ いわき市のスパリゾートハワイアンズでの講話
いわき市は明治16年から昭和51年まで東北一の炭鉱(常磐炭鉱)地帯であったところに、炭鉱に代わる雇用創出の産業としてできたフラダンスで話題の温泉施設(昭和41年)です。
2011年の3月11日には、ホテル宿泊客が約1000名、日帰りバス客が約1500名、従業員が約300名おり、従業員がお客様を1階フロアや駐車場と安全と思われる場所に避難誘導した。
ライフラインが遮断されることはなかったので、情報は入ったけれど、高速道路は通行止めとなり、他の道路も通行困難なところがあちこちにあり、2500名のお客様を東京方面へどうしたら送ることができるかが課題だった。
翌12日の朝、従業員が東京までの2つのルートで走れないかを試走してみた。国道6号線ルートは途中津波被害で通行不能になっており、国道4号線ルートは何とか通行OKだと連絡がホテルに届いたのは、夜の11時だった。

ホテルのバスで送れるのは630名。あと9台のバスが必要で、民間のバス会社にご無理をお願いして、13日の朝に帰宅のバスが出ます、とお客に伝えることができた、とのこと。

13日の朝9時に、18台のバスがホテルを出発。東京の各所に着いたのは夜の11時でした。

地震発生から帰宅の連絡をするまでのお客様の様子、食事のことを質問しました。
情報が入っていたこと、ホテルに全員の5日分の食糧在庫があることを伝えていましたので、混乱はありませんでした。むしろ、他の被災地の方々の受け入れの打診がありましたが、当座はこちらのお客様のを無事送り届けることで頭がいっぱいで、そこまでの余裕はありませんでした。
従業員の方々の事情についても質問。
勿論、自宅が地震被害にあっている従業員も大勢いますので、従業員は家族も心配ですので、ローテーションを組んでお客様の世話をしました。勿論食料は無償提供だったとのこと。
いわき市のホテル所在エリアは3.11の本震の後にも、M7、震度6弱の大きい余震が来て、ホテルのフロアにも大きな亀裂が入ったそうです。



■ 13日朝8時出発、雨の中、双葉郡楢葉町へ向かう。
ふるさと案内人の方(語り部)にバスに同乗してもらい、被災地域の案内をしてもらう。

楢葉町のほとんどの地域は福島第一原発から半径20キロ圏内にあります。
3月12日の原発事故で、町の判断で全町民に避難指示が出て、いわき市(上記ホテルはいわき市です)方面への非難が開始された。
4月22日20キロ圏内 警戒区域設定され、一時立ち入りにも時間制限というエリアです。

ちなみに、福島県双葉郡には6町2村があり、双葉町と大熊町の境界のに東京電力の第一原発6基、楢葉町に4基あります。この地域は福島のチベットと言われ、冬場は都会に出稼ぎに出るという貧しい村で、50年前福島県出身の方が東電の社長だった時に、県知事との間で、なんとか住民の暮らしを豊かに、と考えたことから、原発誘致の話が持ち上がった、ということらしいです。

2012年6月以降 避難先の会津美里町やいわき市に楢葉町の避難民用の仮設住宅が作られて、楢葉町の皆さんが入居。
学校はいわき市に仮設の学校が作られていが、多くはそれぞれの避難先の地域の学校に通っている。
来年にも、楢葉中学の敷地に、小学校、中学校、保育所などを一か所にまとめたものが作られる予定。果たしてどれだけの子供たちが戻ってくるかが問題だ、ということです。


雨降りの道路は人気もなかったけれど、朝夕の時間帯は作業関係の車が列をなして、東京にも負けないほどの渋滞になるそうです。
2014年8月 コンビニが営業再開。復旧作業員の必要なものが置いてあるのが特徴だとか。
2015年6月 常磐線が楢葉町まで復旧。線路はその先の富岡町には届いていません。
窓の外には、きちんと区画された田園風景が広がっています。でもほとんどが雑草が青々としています。所々に田植えをしたところがありましたが、これらは放射能含有量を調べるために試に耕作しているそうです。人の姿はありませんでしたが、さみしい光景でした。


「ここなら商店街」と看板がかかったプレハブの施設がありました。お土産が売っているのではなく、簡易食堂のような場所でした。
2015年9月 避難指示解除。解除された自宅は、ネズミ、野生動物のハクビシンやアライグマで荒らされとても住めるような状態ではなかった。
原発より近い双葉町(現在も帰還困難区域)からの避難者のためのコンパクトタウンが作られていが、もう5年も経過しているので、全国に散らばって避難している方のどれだけが入居のために戻ってこられるかは不明です、と。

地震発生後避難を呼びかけていたパトカー

上記パトカーに乗っていた方の説明。

線量計 0.288μsv/h


■ 楢葉町に北接する富岡町(さらに事故があった原発に近づく)で、今日二人目の語り部さんの話を聞く。
上記楢葉町は避難指示解除されて500名余が帰町したけれど、富岡町は朝の9時~16時まで、出入りOKとはなりましたが、夜通しいることはできないので、まだ住めません。10ベクレル以下の廃棄物の最終処分場があり、山積みされたフレコンバック(1トンは入る黒いごみ袋)があちこちで目につきました。
常磐線富岡駅の駅舎は津波で跡形もなく、駅より浜辺替わりも民家が並んでいたとのことですが、目の前には雨降る海辺しかありません。
富岡町の中でも放射線濃度の高い区域は帰還困難区域となって遮断されています。
帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域、などと汚染度によって区域分けがなされており、被災者の補償金額もそれぞれ異なるそうです。よって、避難所で仲良く茶飲み話をしていた人たちが、受け取っている補償金の違いに気分を害して翌日からは顔を見せない、とか住民同士の感情のもつれも頻発しているようです。

線量計  1.96μsv/h

 

前方は禁止区域

関係者以外入ることはできません。

■ 塩屋岬で語り部の話を聞く。
朝からの雨は止むことなく、バスの中での話になりました。
薄磯地域は津波被害にあったところです。7.2mの防潮堤がありましたが、8~9mの津波が来ました。
800名の住民のうち、160名が死亡した。
事故を起こした第1原発までは50キロで、雨と風向きの関係で放射能被害は少なかった。原発事故による避難区域の人には、一人当たり月額10万円(無税)が毎月出ているが、津波被害者への補償はありません、と。

語り部さんも津波経験者です。
地震の時は海岸から200mの自宅にいたそうです。まもなくして、3時頃に津波が来るという情報を聴いた。テレビはダメでもラジオで。
3時10分になっても津波は来なかったので、海まで様子を見に行った。
海辺に付いたら、普段の海と違って、真っ黒いものが目の前を覆った。沖に向かって、水深3m、6m、10mのところがの水底が見えるのです。これは津波だとビックリして引き返し、神社の高いところに向かった。神社の階段を10段ほど登って振り返ったら、くぐってきた神社の鳥居が見えなかった。

津波の10数分間の記憶が今もないそうです。保身本能でそうなっているのかもしれません。
それほどまでに、すごい体験をご自身がなさったということです。

現在も除染作業の現場監督で働いていらっしゃるという、その語り部さんの次の言葉が心に残っています。

自然災害は仕方がない、とは言いますが、命を失ったのは自然災害のせいだけではありません。津波に対する判断ミスが命をも失わせるということを自覚しないととつくづく思います。
避難指示が出ていないことをなじるのは間違いです。責任を人に求めないで、自分を守る判断はまず自分でしなくてはならない、ということです。


 

長くなりました。
まだまだ加筆訂正すると思いますが、ひとまず投稿しておきます。














 

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