夏風邪がまだ直りきらない頃、ま、家事をしたくもないし、と昼間にビデオ鑑賞。
「マクベス」を見る。監督は「戦場のピアニスト」と同じ、ロマン・ポランスキー。
原作はかのシェークスピアの4大悲劇、です。
未読。映画だと数時間で内容が判る。真に便利。オンナは何食わぬ顔をしていながら怖い、ということを言いたかったのか。ハァ~。
森が動いてマクベス自滅。
「サルトルとボーボワール」コレも録画で。
一昨年、友人が誘ったときは時間が合わなくてスルーしたもの。
お互いの自立を認めた契約結婚だった、とか私たち団塊世代にとっては、高校、大学時代の時代の旗手だった。ボーボワールの「娘時代」(活字も細かく分厚い本だった!)を読んでいた高校時代が懐かしい。旅行でパリに行く、とっいたら、ボーボワールやマリー・キュリーが歩いたであろうソルボンヌ大学界隈を散策したい、そんなミーハーな私でした。
シモーヌ・ド・ボーボワールと「ド」がついているから、貴族階級だとは了解していたけれど、映画序盤で没落貴族の家庭の発想が、「自立しなくてはならない」ボーボワールを誕生させたのだと思った。日本で盛んに話題になった60年代、70年代から随分時は過ぎて、今の目で見ると、彼女の掲げた旗はたなびいていたけれど、彼女の送った人生は本当に充実していたのだろうか、そう問いかけたくなった。
サルトルのエゴに付き合わされたのではないだろうか。ま、2人とも時代の寵児になったのだから、ヨシ、なのかもしれないけれど。
「終戦のエンペラー」を映画館でみる。
エンペラーは昭和天皇のこと。マッカーサーが敗戦処理で厚木基地に降り立ってから、戦争責任は天皇にありやなしや、を丁寧に描いた作品でした。
マッカーサーとの会見(よく目にする、ふたり並んだあの写真の場面)のとき、天皇のとったといわれている行動と、それを聞いた当事者のマッカーサーの施策がテーマなのでしょう。
「中国激流 -13億のゆくえ-」岩波新書 興梠 一郎 著を読んでいる。
中国現代史の専門家。NHKの日曜討論で、中国との外交問題がテーマのときの事情通らしい発言に、つい著書を読んでみたい、という思いで読み始めた。
なかなかウンザリの話題で、手に余る(トホホ。苦笑)
お金の流れの余りの汚さ、のためである。集まるところにお金は積みあがっていく。不正の行列。高い地位にあり、正しい政治をするという誇り、は見えてこない仕組み。
「党の書記」の権限が絶対であり、裁判の判決にも、党の書記の意向に副わざるをえないという「中国!」コレでは、庶民が正しく生きようとしても、報われる日は来ないのです。
天安門事件の翌年、中国人留学生の世話をしたことがあります。頭でっかちな私は(苦笑)、日本のことを紹介しようと、連れ立って裁判所の傍聴に行きました。
裁判は公開されており、民間人であっても、おかしいと思えば国を相手に訴訟できるのです、とか、帰り道、新聞社の前を通りながら、新聞は政府の不正を記事にすることもあるのですよ、と話したものです。
彼は、ほぉ~と、聞いていました。そして、中国はまだ人権よりも、国を豊にすることが優先なのです、と語っていました。天安門事件の余韻が大な私たち日本人でしたが、中国北部の大学の医師だつた彼には、北京の事件が遠いことなのだろうか、とそこで話を終わりにしたことを覚えています。
不正の列挙でもてあまし気味ではありますが、一般人の権利意識も着実に生まれてきています。この本は2005年発行。時の流れは止まりません。情報が世界を飛び回る時代、不公正がまかり通り続けられるものではありません。利権にフトコロを肥やしてきた幹部の人たちも、自分の財産を米国などの国外で保管しようとしているという流れ。為政者層が自国を信じなくなっているということですから、このままの状態は続かないのでしょう。
「中国=キライ」の大合唱ではなく、こんなきちんと実態を踏まえた本を出す専門家がいるってことは、心強いです。でも、もてあまして、つまみ食い読書です。
「マクベス」を見る。監督は「戦場のピアニスト」と同じ、ロマン・ポランスキー。
原作はかのシェークスピアの4大悲劇、です。
未読。映画だと数時間で内容が判る。真に便利。オンナは何食わぬ顔をしていながら怖い、ということを言いたかったのか。ハァ~。
森が動いてマクベス自滅。
「サルトルとボーボワール」コレも録画で。
一昨年、友人が誘ったときは時間が合わなくてスルーしたもの。
お互いの自立を認めた契約結婚だった、とか私たち団塊世代にとっては、高校、大学時代の時代の旗手だった。ボーボワールの「娘時代」(活字も細かく分厚い本だった!)を読んでいた高校時代が懐かしい。旅行でパリに行く、とっいたら、ボーボワールやマリー・キュリーが歩いたであろうソルボンヌ大学界隈を散策したい、そんなミーハーな私でした。
シモーヌ・ド・ボーボワールと「ド」がついているから、貴族階級だとは了解していたけれど、映画序盤で没落貴族の家庭の発想が、「自立しなくてはならない」ボーボワールを誕生させたのだと思った。日本で盛んに話題になった60年代、70年代から随分時は過ぎて、今の目で見ると、彼女の掲げた旗はたなびいていたけれど、彼女の送った人生は本当に充実していたのだろうか、そう問いかけたくなった。
サルトルのエゴに付き合わされたのではないだろうか。ま、2人とも時代の寵児になったのだから、ヨシ、なのかもしれないけれど。
「終戦のエンペラー」を映画館でみる。
エンペラーは昭和天皇のこと。マッカーサーが敗戦処理で厚木基地に降り立ってから、戦争責任は天皇にありやなしや、を丁寧に描いた作品でした。
マッカーサーとの会見(よく目にする、ふたり並んだあの写真の場面)のとき、天皇のとったといわれている行動と、それを聞いた当事者のマッカーサーの施策がテーマなのでしょう。
「中国激流 -13億のゆくえ-」岩波新書 興梠 一郎 著を読んでいる。
中国現代史の専門家。NHKの日曜討論で、中国との外交問題がテーマのときの事情通らしい発言に、つい著書を読んでみたい、という思いで読み始めた。
なかなかウンザリの話題で、手に余る(トホホ。苦笑)
お金の流れの余りの汚さ、のためである。集まるところにお金は積みあがっていく。不正の行列。高い地位にあり、正しい政治をするという誇り、は見えてこない仕組み。
「党の書記」の権限が絶対であり、裁判の判決にも、党の書記の意向に副わざるをえないという「中国!」コレでは、庶民が正しく生きようとしても、報われる日は来ないのです。
天安門事件の翌年、中国人留学生の世話をしたことがあります。頭でっかちな私は(苦笑)、日本のことを紹介しようと、連れ立って裁判所の傍聴に行きました。
裁判は公開されており、民間人であっても、おかしいと思えば国を相手に訴訟できるのです、とか、帰り道、新聞社の前を通りながら、新聞は政府の不正を記事にすることもあるのですよ、と話したものです。
彼は、ほぉ~と、聞いていました。そして、中国はまだ人権よりも、国を豊にすることが優先なのです、と語っていました。天安門事件の余韻が大な私たち日本人でしたが、中国北部の大学の医師だつた彼には、北京の事件が遠いことなのだろうか、とそこで話を終わりにしたことを覚えています。
不正の列挙でもてあまし気味ではありますが、一般人の権利意識も着実に生まれてきています。この本は2005年発行。時の流れは止まりません。情報が世界を飛び回る時代、不公正がまかり通り続けられるものではありません。利権にフトコロを肥やしてきた幹部の人たちも、自分の財産を米国などの国外で保管しようとしているという流れ。為政者層が自国を信じなくなっているということですから、このままの状態は続かないのでしょう。
「中国=キライ」の大合唱ではなく、こんなきちんと実態を踏まえた本を出す専門家がいるってことは、心強いです。でも、もてあまして、つまみ食い読書です。
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