詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(44)

2013-09-08 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(44)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「おのれのヘドロ」という作品。「ヘドロ」は汚いものという「比喩」として定着してしまっているかもしれない。だから、一見すると、「流通言語」で書かれた「流通概念」という感じが少しするのだけれど……。

こころの浅瀬で
もがいていてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない

偽善
迎合
無知
貪欲

 「こころの浅瀬」と「こころの深み」という対比も定型であるのだけれど。うーん、なぜ浅瀬にいてはいけない? なぜ「こころの深み」に潜らないといけない? 自分でわざわざ「ヘドロ」を見つけ出さないといけない?
 そんなに真剣に自己反省しないといけないのかなあ。

自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積している
捨てたつもりで溜まるもの
いつまでたっても減らぬもの

 あ、「ヘドロ」はたしかに気づかぬうちに溜まるものだろうけれど、最後の一行。「減らぬもの」。「溜まりつづけるもの」は、あたりまえのことだけれど「減らない」。けれど「減らない」ということを私たちは(私だけ?)、なかなか気がつかない。それはもしかすると絶対に減らないもの、絶対に捨てきれないものかもしれない。
 じゃあ、どうすればいい?
 と質問し、答えを探していけば、うーん、うるさい「倫理の教科書」みたいになるから、谷川は書かない。

 谷川はどこかとても「論理的」なところがあって、その論理で生活をととのえ、ことばをととのえる。最後の2行(3行、かもしれない)には「堆積する」「溜まる」を「減らぬ」ということばで説明し直している。「論理の経済学」から言うと、この言い直しは無駄、饒舌である。過剰である。
 でも、それが過剰だからこそ、そこに詩が生まれる。
 「減らぬもの」と言いなおされたとき、はっと、肉体の奥で動くものがある。「堆積する」「溜まる」と「減らぬ」は違うのだ。「減らぬ」ではなく、「減らせない」のである。「捨てたつもり」ということばもあるが、「捨てる」をつかえば、この「減らぬ」は「捨てられない」でもある。
 「こころのヘドロ」は捨てられない、減らせないものなのである。
 谷川は「事実」を念押ししている。その、繰り返しのなかに、念押しするということばの動きのなかに、谷川の「生き方(思想/肉体)」がある。
 ふと、どんなことでも念押しし、くりかえし、ことばにして確かめている谷川の姿が浮かんできた。



地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
銀の鈴社
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谷川俊太郎『こころ』(43)

2013-09-07 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(43)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「問いに答えて」は「いつ詩がかけるんですか?」あるいは「どうやれば詩がかけるんですか?」という「問い」に答える形で書かれたものだろう。「問い」そのものは書かれておらず、「答え」だけが書かれている。

悲しいときに悲しい詩は書けません
涙をこらえるだけで精一杯です
楽しいときに楽しい詩は書きません
他のことをして遊んでいます

 スマップのクサナギなんとかが、演技について「こらえても出てくるのが出てくるのが涙なのに、役者はむりやり涙を流す」というようなことを言っていたが、感情と表現は、それくらい乖離している。
 谷川が書いているのは「詩を書く」を「ことばで表現する」ということについて書いたものだ。「悲しいとき/楽しいとき」で「書けません/書きません」と動詞の活用を微妙にかえている。「書きません」は「書けるけれど書きません」なのかな? 微妙なニュアンスの違いがあるのかもしれないけれど、その違いはよくわからない。
 それよりも。
 「涙をこらえるだけで精一杯です」は、もしかしたら、「肉体の詩」では? 懸命に涙をこらえて何かをしている人、その姿を見たとき、ことばにならないものが直に肉体につたわってくる。肉体でおぼえている何かが、こらえきれない悲しみが、ふいに思い出される。反応してしまう。それはことばをつかわずに受け止める詩かもしれない。
 肉体が詩であるとき、ことばの詩は必要ないのだ。
 楽しく遊ぶ人の姿も、それだけで喜びがつたわってくる。

 では、詩はなぜ必要なのだろう。
 ことばはなぜ必要なのだろう。
 逆に言えば、どうして詩は生まれてくるのか。

<美>にひそむ<真善>信じて
遠慮がちに言葉を置きます
あなたが読んでくだされば
心が活字の群れを<詩>に変える

 詩は、書かれるものではなく「読まれるもの」。
 この「定義」にしたがえば、たとえば涙をこらえるひとも、「涙をこらえている」と「肉体」が読み取ったとき(読んだとき)、その姿が「詩」に変わる。つまり、読み取った「肉体(こころ)」が対象を詩に変える。
 ことばや、そこに起きていることは、いわば素材。
 ということになるかもしれない。

 谷川は詩を書くひとが詩人ではなく、詩を読むひとが詩人なのだ、と「問い」に対して答えている。
 これも「意味」が強い作品だ。



 谷川が

心が活字の群れを<詩>に変える

 と書いている「心」を私は「肉体」ということばのなかに取り込んでしまいたいという思いがあるのだけれど、(私は「肉体」と「こころ」を二元論ふうに分けたくはないのだけれど)、これはまた別の問題だね。

 また「肉体がおぼえていること」を「身についている」というように言い換えることができる。「身にしみついている」というとさらに感情/精神的な印象があるかもしれないが。
 で、この「身についているもの(こと)」が、あるとき、ふわーっと「肉体」から浮遊するときがある。何が原因かわからないが、偶然の引き金が、そういうことを引き起こす。その偶然の浮遊/離脱/解放(?)をことばで掬い取ると、秋亜綺羅の詩的方法になる。--というのは、付録のようなメモだけれど、ちょっと書いておく。そして、その対極の肉体の必然の詩が、池井昌樹の詩なのだけれど、というのも付録のメモ。


あるでんて
クリエーター情報なし
トルバドールカフェ
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谷川俊太郎『こころ』(42)

2013-09-06 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(42)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「白髪」も「意味」が前面に出た作品。

嘘じゃない
でも本当かと問われると怯む
隠してるんじゃない
言葉を探しあぐねて
堂々巡りしてしまうんだ
せめぎあう気持ちは
一言では言えない
言えば嘘になる
だから歯切れが悪いんだ
言葉ってしんどいな
静寂が欲しい
ちょっと休戦しよう

 たしかにあらゆることは「一言では言えない/言えば嘘になる」。でも、たくさん言っても嘘になるかもしれない。余分なことを言ってしまえば。
 ほんとうのことは「せめぎあう」ところにある。矛盾したところにある。だから一言では言えない……かな?
 ちょっと不思議なのが、「静寂が欲しい」。ことば、発言の反対は静寂? 私は、ふと静寂ではなく、沈黙かなと思ったのだが、そうじゃないね。やっぱり静寂だね。
 沈黙はひとりですること。
 静寂はひとりではない。最低、ふたり。ふたりが黙るとき静寂がやってくる。
 ということは。
 この詩のなかには「ふたり」がいる。
 対話しているのだ。
 だれかに「弁明」しているのではなく、谷川が谷川と対話している。書きながら、これでいいのか、これがほんとうか、と自問している。書いたことばを読み直して、対話している。自問という対話はだれかが注文をつけるわけではないのだけれど、だからこそ終わるのがむずかしいかもしれない。
 自問の休戦--それが静寂だね。

 ひとりではなく、ふたりだから、最後の1行。2連目の独立した1行は

きみも白髪が増えたね

 と、唐突に「きみ」という二人称が出てくることになる。
 と「意味」はつながっているのだけれど。
 「意味」はつながりながら、それまでの「自問」で問題にしていたことが、ふっと消える。そして、そこに「問題(抽象的なことがら)」ではなく、「肉体」がふっとあらわれる。
 その瞬間、何か、軽くなるね。息が抜けるね。あ、ほんとうに「休戦」だ。この呼吸が詩だ。

こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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谷川俊太郎『こころ』(41)

2013-09-05 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(40)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 女になって詩を書く--ということを谷川はしばしば行っている。「五時」も、そういう一篇。

誰かは知らない
でも誰かを待っている
そう思いながら座っている
西日がまぶしい
生まれたときから待っている
そんな気がする
恋人には言わなかった
夫にも言っていない
待っていたのはこの人
と思ったことが一度だけあった
(たぶん早とちり)

 この女は、若くはない。「夫」が登場する。しかし、新婚ではないだろう。子どもが詩に登場しないのは、子どもがいても独立していっしょに住んでいないからだろう。そういうことを想像させる。
 「待っている」に、どう接近していけばいいだろうか。
 つまり、
 なぜ「探している(探していた)」ではないのか。
 いまを生きている女たちは「待っている」ということばに自分を重ねるか、「探している」ということばに自分を重ねるか。--どちらを、いまを生きている女とみるか。

あ もう五時
スイッチを入れなきゃ

 何のスイッチを入れるのか。「待っている」という動詞を生きてきた女なら炊飯器のスイッチを入れることになるのだろうか。
 読みながら、想像力が「流通概念」としての女のなかを動いているのを感じる。
 きのう読んだ詩に「新しい入り口」ということばがあったが、この最後の2行は「新しい入り口」になるだろうか。
 「新しい入り口」だけが詩ではない、と言えば、まあそうだが。

 なじんだ場所へ帰っていくためのことば、なじんだ時間へ帰っていくための詩というものだろうか。



夜のミッキー・マウス
谷川俊太郎
新潮社
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谷川俊太郎『こころ』(40)

2013-09-04 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(39)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 詩は「意味」が変わる瞬間に生まれる。視線の向きがかわり、いままでなかったものが「あたらしい意味」になって動く瞬間に生まれる。
 「出口」は、そういう作品。

自分で作った迷路に迷って
出口を探してうろうろしている

 たしかに、こころの迷路は自分で作ったものだろう。そうであるなら、

いっそ出口はないと得心して
他でもないここに出口ならぬ
新しい入り口を作ってはどうか

 「出口」を「入り口」へ転換する。「出る」のではなく「新しい世界に入る」と思えば、どこにでもその「入り口」はできる。
 これはレトリックというものだね。
 でも、現実はそんな具合にレトリック通りに自分にははねかえってこないね。レトリックは現実には反映されないね。

 「意味」というレトリックでおわる詩は、すこし味気ない。
ともだち
谷川 俊太郎
玉川大学出版部
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谷川俊太郎『こころ』(39)

2013-09-03 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(39)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「遠くへ」にも東日本大震災の影響が感じられる。どうしても、そこに書かれていることを東日本大震災の被災者と結びつけて感じてしまう。被災者の「こころ」を谷川がことばにしていると感じてしまう。

心よ 私を連れて行っておくれ
遠くへ
水平線よりも遠く
星々よりももっと遠く
死者たちと
微笑みかわすことができるところ
生まれてくる胎児たちの
あえかな心音の聞こえるところ
私たちの浅はかな考えの及ばぬほど
遠いところへ 心よ
連れて行っておくれ
希望よりも遠く
絶望をはるかに超えた
遠くへ

 「希望よりも遠く/絶望をはるかに超えた/遠くへ」というのは「論理的」に考えると、奇妙である。「希望」と「絶望」は対極にある。その「対極」の、どっちへ行けば「遠い」のか。「希望」の遠くに「絶望」があり、「絶望」の遠くに「希望」があるのではないのか……というのは「論理」の「屁理屈」だね。
 「論理」というのは、いつでもそういう「間違い(屁理屈)」にまみれてしまう。
 「希望」とか「絶望」とか、そんなことばであらわすことのできないはるかな遠く、まだことばになっていない遠くへ行きたいのだ。そういうことばにならないことは、矛盾した形のことばでしか言い表すことができない。
 矛盾だけが「真実」に触れる。その「触れ方」が詩、である。

 ああ、けれど、不思議でしようがない。
 「私」は「心」に対して、遠くへ連れて行ってと言う。そのとき「心」って何? どこにある? 自分以外のだれかに対して、遠くへ連れて行って、と私は言っているのではない。
 だから、これも「流通論理」で考えると、奇妙なことになる。実現不可能なことのように思える。
 でも、「流通論理」を捨てさえすれば、すぐに、それが「わかる」。谷川の書いていることばの「切実さ」が「わかる」。「意味」ではなく、つまり、ほかのことばに言い換えることのできる何かではなく、言い換えることのできない、「矛盾」のなかにある「気持ち」が「わかる」。

 谷川は、どんな気持ちにも「なる」ことができる詩人なのだ。谷川は、たとえば少女、たとえば若い女性の気持ちを代弁するのではない。東日本大震災の被災者の気持ちを代弁するのではない。そのひとの気持ちに「なる」。そのひとに「なる」。そのひとの「肉体」に「なる」。
 その「他人になる」力に、私は、詩を読むたびに触れる。「なる」ときの、ことばにならない不思議な動きが「肉体」に直接つたわってくるのを感じる。




谷川俊太郎詩集 (ハルキ文庫)
谷川 俊太郎,中島 みゆき
角川春樹事務所
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谷川俊太郎『こころ』(38)

2013-09-02 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(38)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ありがとうの深度」が書かれたころ、私は「ありがとう」ということばを頻繁に読んだ。「ありがとう」と言っているのは東日本大震災の被災者であった。もっといろいろなことを要求してもいいのに、ただ繰り返しだれもが「ありがとう」と言っているように感じられた。
 谷川も、その「ありがとう」を聞いたのだろうか。

心の底からこんこんと
泉のように湧き出して
言葉にするのももどかしくて
静かに溢れるありがとう

 それはほんとうに「心の底からこんこんと」湧いてきてたことばのよう感じられた。あふれてくる感じが、とても美しい。美しさを教えられる思いがした。「こんこんと/泉のように湧き出して」というのは谷川の発明した比喩(言い回し)ではないが(よく耳にする常套句といえるものだが)、それはいまだからそういうふうに言えるのであって、あのときは「常套句」と思わなかった。「常套句」を超える「こんこん」が被災者の「ありがとう」にあって、その美しさがすべてを新しくしているのだと思った。

気持ちの深度はさまざまだが
ありがとうの一言に
ひとりひとりの心すら超えて
世界の微笑がひそんでいる

 たしかにあのとき「ありがとう」は「ひとりひとり」のこころを超えたのだと思う。「ありがとう」は互いにほほえみあっているのだ。

 おもしろいと言えばいいのか、不思議と言えばいいのか……。
 「深度」ということばが3連目に出てくるが、その3連目には同時に「超えて」ということばも出てくる。「深度」は深さ。「超える」は逆に高さを思い浮かべないだろうか。「深度(深さ)」なら、論理的には「潜って」という感じがしないでもないのだけれど、でも、この詩の場合は「超えて」でないといけない、というのも「本能的」にわかる。それは、なんといえばいいのだろう、「肉体」で「超える」というよりも、もっと違うもので「超越する」という感じ。「超える」を超えて(?)、はてしない、絶対的という感じだ。
 「深度」ということばが、そういう感覚を目覚めさせる。
 論理の矛盾をたたき壊して、新しい何かを瞬間的にぶつけてくるのが詩だね。


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谷川 俊太郎
福音館書店
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谷川俊太郎『こころ』(37)

2013-09-01 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(37)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「言葉」を読むと、ああ、東日本大震災のあとの衝撃から、ことばがやっとことばとして動くことができるようになったのだ、という感じがする。「出来事」ではなく、ことばは遅れてあらわれる、のである。

何もかも失って
言葉まで失ったが
言葉は壊れなかった
流されなかった
ひとりひとりの心の底で

 ひとはことばを失う。どう語っていいか、わからない。ことばが出てこない。でも、そういうときも、ことばは「壊れた」のではなかった。
 「壊れなかった」という「出来事」が「言葉」といっしょに遅れて、いま、あらわれたのである。ことばが動いて、「言葉は壊れなかった」という「事実」を「出来事」として、いま、ここに、「あらわす」。そのことばのなかから「言葉は壊れなかった」という事実が出来事としてあらわれる。
 そういうことは、すぐには起きない。どうしても「遅れて」やってくるしかない。
 でも、遅れてやってくるからこそ、それは「ああ、そうだったのだ」という感じで、ころろの奥底をつかむ。

言葉は発芽する
瓦礫の下の大地から
昔ながらの訛り
走り書きの文字
途切れがちな意味

言い古された言葉が
苦しみゆえに甦る
哀しみゆえに深まる
新たな意味へと
沈黙に裏打ちされて

 ここには、不思議な「矛盾」のようなものが満ちている。「発芽する」ことばは、新しいことばではない。それは「昔ながらの訛り」「言い古された言葉」である。つまり、私たちが「覚えている」ことば。それが、いま「肉体」の奥から「発芽」してくる。新しい種がまかれて、それが発芽するのではなく、私たちの「肉体」のなかに生き残っていたことば、壊れなかったことばが、もう一度、生きはじめる。
 「発芽する」は「甦る」なのである。そして「発芽する」は単に大地から生まれることではなく、その大地の内部へ「深く」根を張ることでもある。「発芽する」は天に手を伸ばすと同時に、地の奥に深く根をのばす。
 そうやって、ことばは「新たな意味」になる。
 「意味」が大事なのではなく、きっと「新たな」が大事なのだ。

 きのう読んだ詩では「シヴァ神」が「新たな意味」になりきれていなかった。「破壊と創造」ということばといっしょに書かれていたが、そのときは「破壊」の「意味」しか動いていない。「破壊」の衝撃が強すぎて、「創造」の「意味」がどんなふうに動いているわからない。
 それが、いまでは、わかる。
 「苦しみ」「哀しみ」とより合わさって、ことばが動きだすとき、そこには、まだことばになりきれない愛だろうか、喜びだろうか、なんと名づけていいのかわからないものが動きはじめる。「苦しみ」をやわらげ、「哀しみ」をなぐさめる何かかもしれないけれど、正確にはどう呼んでいいか、わからない。
 なぜなら、それは
 「新たな」
 何かだからである。「新たな(意味)」には、まだ、「名前」はない。その「名前」は発芽したことばが花を咲かせ、実を結んだときに、やっとわかる。「新たな意味(名前)」は、やはり「遅れてあらわれる」しかない。

 でも、私たちはわかっている。どんなに「遅れて」あらわれても、それは必ずあらわれる、ということを。

生きる
谷川 俊太郎,松本 美枝子
ナナロク社
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谷川俊太郎『こころ』(36)

2013-08-31 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(36)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「シヴァ」は東日本大震災の翌月に発表される予定だったが、遅れて発表された。「事実」をことばとして受け入れる準備が、たぶんだれにもなかった。そのことを朝日新聞の担当者が配慮して、発表を見合わせたのだろう。

大地の叱責か
海の諫言か
天は無言
母なる星の厳しさに
心はおののく

文明は濁流と化し
もつれあう生と死
浮遊する言葉
もがく感情

破壊と創造の
シヴァ神は
人語では語らず
事実で教える

 地震、津波の描写よりも、いま、こうやって、大震災から間を置いて読んでみると2連目の「浮遊する言葉」が気になる。見たものをなんとかことばにしようとして、ことばになりきれていない。「浮遊」している。「浮遊」して、「シヴァ神」という「神話」(でいいのかな?)に頼っている。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』のなかで「出来事は遅れてあらわれた。」と書いた。出来事が出来事になるにはことばが必要だが、そのことばはすぐにはやってこない。「知らないこと」が起きたので、その「知らないこと」をどう書いていいのかわからない。
 そういう困難が谷川にもあったのだと思う。
 東日本大震災について書きたい--けれど、それが「肉体」のなかにうまく入って来ない。肉体のなかからことばが出てこない。「人語」にはならない。で、「頭」で知っていること、シヴァ神が出てきたのだと思う。

 ことばが動くには、ほんとうに時間がかかる。ことばは、遅れてやってくるしかないのだと思う。
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紀伊國屋書店
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谷川俊太郎『こころ』(35)

2013-08-30 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(35)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「まどろみ」という作品の「話者」は「老人」である。「老い」と抽象化して、誰とは書いていないが、谷川も高齢者なので、その「老い」を谷川と思って読むこともできる。

老いはまどろむ
記憶とともに
草木とともに
家猫のかたわらで
星辰を友として

 「星辰を友として」ということばにちょっと驚く。どういう意味でつかっているのかな? 星? うーん、宇宙かな……。星そのものではなく、星のある「場」とういことかな? 「友として」と「とともに」「かたわらで」にはどんな使い分けがあるのだろうか。「意味」はきっと重なり合っているのだと思う。
 まどろんでいるとき、「老い」は何をしているのか。

老いは夢見る
一寸先の闇にひそむ
ほのかな光を
まどろみのうちに
世界と和解して

 そうだねえ。世界と対立したまま、まどろむということはむずかしい。うつらうつらしているのは、世界と和解しているからだ。
 で、そのあと、

老いは目覚める
自らを忘れ
時を忘れて

 まどろんで、夢見て、目覚める--その「主語」を谷川は「老い」と書いているが、ここに書かれていることは「老い」に限られたことだろうか。
 「星辰を友として」という表現は若者にはできないけれど、若者もやはり、記憶や草木や家猫とともにまどろみ、そのときは世界と和解しているだろう。そして、目覚めるとき、やっぱり自分のことを瞬間的に忘れている。時間を忘れている。--これも、また、人間誰にでもあてはまることだと思う。
 それなのに。
 「老い」ということばが主語であるときの方が、「若者」が主語であるときよりも、この詩はぐいと迫ってくるように感じられる。だからこそ谷川は「老い」を主語にしているのだけれど、
 うーん、
 なぜだろう。なぜ「老い」が主語の方がぴったりと感じるのだろうか。
 私が「老い」の領域に近づいているからか。
 そして。
 ああ、老いたら、こんなふうにまどろみから目覚めたいと感じたいと思っているからだろうか。自分が何歳であるか忘れ、いまが何時かも忘れ、まったく新しい瞬間の誕生そのものとして目覚めたいと思っているからだろうか。
 若いときは自分が誰であるか、何ものかを忘れてはいけないし、何をするべきときなのかを忘れてはいけないけれど、老いたら、そういうことを忘れて、「放心」して生きる--それが、人間の「理想」かもしれない。
 なんだかよくわからないが、ここには不思議な「しあわせ」がある。

ことばあそびうた (また) (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
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谷川俊太郎『こころ』(34)

2013-08-29 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(34)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「丘の音楽」には、わからないところがある。

私を見つめながら
あなたは私を見ていない
見ているのは丘
登ればあの世が見える
なだらかな丘の幻
そこでは私はただの点景

 「登ればあの世が見える」の「あの世」というのは、「死後の世界」ということだろうか。でも、その丘は「丘の幻」、幻であって、実在しない。なぜ「あの世」ということばがここにあるのか、わからない。
 しかし、そういうものを見つめる「あなた」にとっては、「私はただの点景」であるのは、わかる。「私」の見ることのできないものに夢中になっている「あなた」には「私」は見えないだろうと思う。

音楽が止んで
あなたは私に帰ってくる
終わりのない物語の
見知らぬ登場人物のように
私のこころが迷子になる
あなたの愛を探しあぐねて

 「丘」は音楽が聞こえているときだけ存在したのか。音楽のなかにある丘なのか。そうだとすれば、「あの世」もまた音楽といっしょに、音楽が存在するときだけ存在しているのだろうか。
 「あの世」は「永遠」ではないね。
 音楽が鳴っているときは「あの世」を見ていて、音楽が鳴り止むと「この世」に帰ってくる「あなた」。その「あなた」に戸惑っている。

 これは、ほんとうに「愛」のことを書いているのかな? ひとへの愛のことをかいてるのかな? 「あなた」への愛を探しあぐねている「私」のことを書いているのかな?
 それとも谷川の音楽への愛について書いているのだろうか。
 音楽を聞くとき、谷川は「あの世」を見ているのだろうか。
 そして、そのときの音楽とは、具体的にはどんな音楽なのだろうか。どの音楽でも「あの世」が見えるのかな?
 わからないけれど、音楽を聴くとき「あの世」に谷川がいるのなら、うーん、谷川を愛するひとは、かなり戸惑うね。「迷子」にならざるを得ない。
 「あの世」が「現実」ではなく、「没我の世界」の比喩だとしても。
夜のミッキー・マウス
谷川俊太郎
新潮社
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谷川俊太郎『こころ』(33)

2013-08-28 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(33)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「手と心」を読みながら、すけべっていいなあ、と思う。年齢に差がない。そして国籍にも差がない。人間のすることは同じだ。その「同じ」が全部を引き寄せる。

手を手に重ねる
手を膝に置く
手を肩にまわす
手で頬に触れる
手が背を撫でる
手と心は仲がいい

 「手と心は仲がいい」かどうかわからないけれど、手はこころのいうことを聞いて動いてくれる。いや、それとも手の動きに合わせてこころが動くのかな?
 で、ここまでは、すけべもそんなにたいしたこと(?)はないのだが、2連目はどうかな? 「こころ」は朝日新聞の夕刊に連載された。そのページは子供も読むページだったと思うけれど(私は子ども向けのページだと思って読んでいたけれど)、うーん、

手がまさぐる
手は焦る
手が間違える
手は迷走しはじめる
手ひどく叩かれる
手はときには早すぎる
心よりも

 これって、すけべな手が、「だめ」と叱られて、手をたたかれるってことだよね。こういうことって、若いときにも、中年のときにも、谷川のような老人になっても起きることなんだね。
 これを、子供にも、平気で、ことばとして差し出す。ここが、不思議。
 人間って、いったいいくつからすけべなんだろう。
 ここに書いてあることば、それが肉体の動きとして「見える」のは何歳からだろう。わからないけれど、きっと、このことばを読むことができる年齢の人間なら、そのまますぐわかるし、ことばが読めなくても、そういう肉体の動きを見たことがあれば、きっとすぐわかる。

 最後の2行が、まあ、「意味」なんだろうけれど。鑑賞のポイント(分かれ道)なんだろうけれど、私は「意味」から離れて、つまり「文学」に背を向けて、もっと切実な問題として(すけべになって)、考えてみたい。

手はときには早すぎる
心よりも

 この手は、女の体をまさぐった手? それとも間違えたふりをして微妙なところへのびてくる手をたたいた手? どっちのことを言っているのだろう。相手のこころに気を配るよりも、まず自分の欲望で動いてしまう手(肉体)を「早すぎる」と言っているのか。それとも、そんなふうに動いてくる手を拒んでしまった手に対して、「だめ」と叩いたりしなければよかったと思っているのか。
 つまり、というか、なんというか……。
 で、すけべは、それからどうなるの?
 いたずらな手は叩かれておしまい? 叩いておしまい?
 そうじゃないかもしれない。それが刺戟になって、「早すぎる」展開が、さらに加速することもあるよね。
 というところまで妄想すると、うーん、これは子供の妄想を通り越しているかな?



女に
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎『こころ』(32)

2013-08-27 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(32)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心よ」という詩は「矛盾」している。

心よ
一瞬もじっとしていない心よ
どうすればおまえを
言葉でつかまえられるのか
滴り流れ淀み渦巻く水の比喩も
照り曇り閃き翳る光の比喩も
おまえを標本のように留めてしまう

 比喩にしてつかまえると、それは「標本」のようになってしまう。だから、それはつかまえたとこにはならない--ということは、動いたままの心をつかまえたいということなのだけれど、
 うーん、
 動き回っていたらつかまえたことにならないよね。
 で、思わず「矛盾している」と書いてしまうのだが、実は、それが矛盾とは感じられない。
 こういうところが詩の不思議なところ。
 そして谷川の詩の不思議なところ。

 比喩をつかって、あることをつかみとる。ふつうは、そこで詩が完結する。ところが谷川は、そういう完結を自分で否定して、つかみとったものを捨て去る。
 矛盾したもの、というよりも、矛盾する力に詩の秘密を見ているだ。
 かけ離れたもの(日常ではであうはずのないもの、いわば「矛盾」に通じるようなもの)の出会いに詩があるというけれど、その詩は固定してしまうと、もう詩ではなくなる。手術台の上でミシンとこうもり傘が出合ったときに詩が生まれたとしても、その出会いを繰り返してしまうと、もう詩ではなくなる。繰り返せば、もう「矛盾(新鮮な出会い)」ではなくなる。

 矛盾する力とは、でも、何だろう。

音楽ですらまどろこしい変幻自在
心は私の私有ではない
私が心の宇宙を生きているのだ
高速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「矛盾する力」とは「私を否定する力」と言いかえることができるかもしれない。「私」を否定するとき「私」が存在する--という矛盾の中から生まれてくる「真実」とは、この世には「宇宙」があるということかもしれない。「私」を産み出す宇宙--それと谷川の詩はつながるのだ。

谷川俊太郎の33の質問 (ちくま文庫)
谷川 俊太郎
筑摩書房
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谷川俊太郎『こころ』(31)

2013-08-26 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(31)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 詩の話者はだれか。「午前四時」という作品。

枕もとの携帯が鳴った
「もしもし」と言ったが
息遣いが聞こえるだけ
誰なのかは分かっているから
切れない

無言は恐ろしい
私の心はフリーズする

 谷川自身とも読むことができる。ところが、私は、谷川自身よりも、谷川ではないだれか、若い女性を思い浮かべてしまう。若いといってもティーンエイジャーではない。18歳くらいから20代の後半くらいまでの女性を思い浮かべてしまう。
 さらに電話をかけてきた相手は男で、彼とは恋愛関係にあったのだが、いまは関係がややこしくなっている、というようなことまで思い浮かべてしまう。
 そして、そういう状況にある若い女性が、こころを凍らせているところを想像する。
 なぜだろう。
 最近(といっても、数か月というよりは、ここ 2- 3年)、ストーカーなどが話題になっているからだろうか。「無言電話」がいやがらせとして社会的に「認知」されているからだろうか。
 そうだとして。
 どうして谷川は若い女性を「話者(主人公)」にして詩を書くことにしたのだろうか。いや、どうして私は谷川が若い女性を「話者」にしていると感じたのだろうか。
 どこかで、私は若い女性を「枠」にはめてとらえているのだろうか。

 この疑問は疑問として、そのまま保留して。
 次の展開に私は驚く。

言葉までの道のりの途中で
迷子になった二つの心を
宇宙へと散乱する無音の電波が
かろうじてむすんでいる

朝の光は心の闇を晴らすだろうか

 これが、若い女性のことばとは思えない。--というのは、私が若い女性をある一定の「枠」でとらえているという証拠であり、谷川は、「流通女性像」にとらわれず、自在にことばを動かすことで、そこに新しい女性を産み出していることになる。
 「宇宙へと散乱する無音の電波が」の「宇宙」は、私には「谷川語」に見える。その「谷川語」をかかえたまま、谷川は若い女性になっていく。若い女性と「ひとつ」になる。この「融合」の仕方が、なんともすごい。
 自在とは、こういうことをいう。谷川以外に、こういうことばの展開はできないと思う。「私の心はフリーズする」というようなことばをつかったあとでは、どうしたって「やばくない?/やばいっすね」というような、「若者ことば」を動かすことで「話者」を浮かび上がらせがちだが、そういう「読者」の想像力(流通想像力)を谷川は、すばやく裏切って、詩をさらに別次元へと切り開いていく。







こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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谷川俊太郎『こころ』(30)

2013-08-25 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(30)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 谷川はときどき少女(女性)を「話者」にして詩を書く。私はその詩がとても好きだ。「絵」も、その一篇。

女の子は心の中の地平線を
クレヨンで画用紙の上に移動させた
手前には好きな男の子と自分の後姿(うしろすがた)
地平に向かって手をつないでいる

 地平線を画用紙の上に移動させたのは、地平線によってできる野原(?)にふたりの姿を描きたかったからだ。頭が地平線の上にあるのではなく、あくまで地平線の下。地平線は遠く、その向こうは見えないのだけれど、そこにあるものを一緒に信じて歩いてゆくふたり。

何十年も後になって彼女は不意に
むかし描いたその絵を思い出す
そのときの自分の気持ちも
男の子の汗くささといっしょに

わけも分からず涙があふれた
夫に背を向けて眠る彼女の目から

 3連目が、突然世界を変える。「夫」は「男の子」と同じ人物だろうか。違う人物だろうか。同じ人物だとしても、むかしとは「雰囲気」が違ってしまったのだろう。「手をつないで」ではなく「背をむけて」という具合に。
 で、その突然の変化が、分裂になるのではなく「ひとつ」になる。「起承転結」の「転結」が一気におしよせた感じで、最初の「絵」を切なく浮かび上がらせる。楽しい、ほほえましい絵が、一気にせつなくなる。
 うーーん、短編小説のようだ。

 そう思うと同時に、あ、このこころの急激な変化は女そのものだ。男はこういう急展開の変化をしないなあ、とも思う。女が、くっきり、見える。
 ジョイスの「ダブリン市民」のなかの「死者たち」のラストのようでもある。
 すごい変化なのに、女はかわらないんだなあ、とも思う。かわらないから「せつない(かなしい)」ということも起きる。
 こういうことを10行で書いてしまうのはすごいなあ。


すこやかにおだやかにしなやかに
谷川 俊太郎
佼成出版社
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