詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

奇妙な夢(「こころは存在するか」、番外1)

2024-10-31 11:23:06 | こころは存在するか

 中井久夫に呼ばれて、小さな飲み屋に行った。ちょっと頭を下げて挨拶をし、顔を上げると中井久夫が古井由吉に変わっていた。そこへ大岡昇平が入ってきた。L字形のカウンターに座って、私はふたりが並んで話しているのを斜めから見る形で見ていた。大岡昇平が鞄のなかから一冊の本を取り出した。ずいぶん昔に書いたものだが、どこかに紛れてわからなくなっていた。全集にも収録していなという。「読んでみるか?」と、突然、大岡昇平が私に言った。「はい、感想を書かせていただきたい」。私はなれない敬語をつかって、そう答えた。
 その瞬間、それまで見ていた夢を奥底から破るようにして、大岡昇平があらわれて「おい、書くといっていたあの感想はどうした」と怒鳴った。

 そこで、目が覚めた。
 中井久夫が夢に登場するところまでは理解できる。実際に会ったことがあるし、交流もあった。なぜ、古井由吉、大岡昇平があらわれたのか。古井由吉の文体が好きで、私は全集を持っている。大岡昇平も大好きで、大岡は、私の読んだ限りでは魯迅と並んで正直なひとである。だが、古井由吉も大岡昇平も、全集に収録されている全作品を読んだわけではない。その、私の読んでいない作品のなかに、何か、私にとって大事なことばがあるのかもしれない。びっくりして目覚めた頭で、そんなことを考えた。
 たぶん、そうなのだろう、と思う。
 私は少し思い立って、死ぬまでに読み通すための本のリストを想定していた。いまは第一歩として和辻哲郎を読んでいるが、一年間で読み通す予定が大幅に遅れている。古井由吉も大岡昇平も、そのリストには組み込まれていなかったのだが、大岡昇平はなんとしても読まなければいけないという「啓示」なのかもしれない。
 そして、それはたぶん「正直」と関係があるのだ。「書くといったじゃないか、なぜ、まだ書かないのだ」と叱られているのだ。私は「正直」を貫いていない。「書く」と言ったのなら書かなければならない。
 ここからは、きょうみた夢とは関係がなくなるのだが。
 私には「夢」がある。書こうと計画している二冊の本がある。詩集と評論。どれも構想(頭の中のメモ)だけで、書き散らしたことばはメモにさえなっていない。それを書かなければならない。なんとしても書き始めるときなのだ。そう気づいた。
 私はどう考えてもあと数年のいのちなので、これは、かなりむずかしいことなのだが、そうなのだ、読んで何かを思っているだけではだめなのだ。それをことばにしなければなさらないのだ。「正直」とは、自分のことばをつらぬくことなのだ、と突然気づいたのである。

 こんなことは書いて他人に言うことではないのだが、書くことで自分の怠け癖を直したい。「正直」を貫く方便として書いておこうと思った。会ったこともない古井由吉と大岡昇平がわざわざ夢にまであらわれてきてくれたのだから、そのことに対して「返礼」しなければ、と思う。


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オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」

2024-10-26 17:15:28 | 映画

オリバー・パーカー監督「2度目のはなればなれ」(★★★★、キノシネマ天神、スクリーン2、2024年10月26日)

監督 オリバー・パーカー 出演 マイケル・ケイン、グレンダ・ジャクソン

 映画がはじまってすぐ、あれっと思う。映像が少しかわっている。いまの映画は「市民ケーン」以降、スクリーンの全体がくっきりと映し出されるのがふつうである。ところが、この映画は、「ぼける」。遠景に焦点があたっているときは近景がぼける。近景に焦点があたっているときは遠景がぼける。言いなおせば、「視野」が狭い。しかし、「視野が狭い」という印象はおきない。たぶん、「視覚」というものは、そういうものなのだろう。見たいものを見る。見たくないものは、存在していても見ない。これは、高齢になるとますますその傾向が強くなるから、映画は「老人の視点(老人の視野)」を強調しているともいえる。
 で、これは私がうっかりしていたのだが、最後は、その「狭い視野」が消えて、言いなおすと「ぼやける」が消えて、全部がくっきり映し出されていたかもしれない。これは私の目が「ぼやける/くっきり」の世界になれてしまって、そのことを意識しなくなったのかもしれないが、そうではなくて、ほんとうに「全部がくっきり」にかわっていたのかもしれない。そして、その「全部がくっきり」が、主人公のかかえていた問題が解決した、ハッピーエンディングになったということを象徴しているかもしれない。だから、このことは、最後のシーンの「くっきり」は保留にしておくが……。

 この映画で、私がいちばん感動したのは、主人公がノルマンディーで元ドイツ兵と出会うシーンである。かつての敵。殺し合った関係。しかし、そのとき、そこに「憎しみ」は存在しない。ただ「悲しみ」だけが共有される。不思議な「和解」が一瞬にして、全体をつつむ。
 何があったのか。
 主人公が、ふと漏らすことばがある。「無駄なことをしてきた」。何が無駄だったのか。殺し合ったことである。戦争の過程で、何人もの人間が死んだ。殺そうとして殺した人間(敵)もいるが、殺すつもりがなかったのに死なせてしまった人間もいる。ただ戦争を遂行する(兵士の役割を果たす)ということだけを考えていたのだが、それが仲間を死に追いやったということもある。もし戦争をしなかったら、そういうことはなかったのである。
 それはイギリス人もドイツ人もかわらないだろう。悲劇を体験してきた人間だけが共有する「実感」だろう。
 このことを、多くのことばをつかわず、ただ見つめ合い、テーブルの上で手を重ね合うという行動だけで表現していた。とても美しい。
 この、主人公の漏らした「無駄」ということばを、主人公の妻は、こんな形で繰り返す。
 「戦後、私たちはいっしょに生きてきた。してきたことは、小さな、つまらないことかもしれない。しかし、そこに無駄はひとつもなかった」。このときの「戦後(戦争が終わったあと)」という一言が、とても強い。私の胸には、ずしりと響いてきた。
 この「無駄」が「呼応」する。いろいろな「名目」はあるだろう。しかし、だれかを「殺す」ということほどの「無駄」はない。そういう「無駄」をしなくても、ひとは生きていける。華々しい出来事は何もないかもしれない。しかし、同時に、華々しい「無駄」もないのである。それが「生きる誇り」(生きてきた誇り)である。その「誇り」を取り戻すために、主人公は、共同墓地へ行く。友の墓の前で祈る。彼に同行する男も、また同じように。そのとき、その男が毎日繰り返し口にしてきた詩が語られる。それは、死んでしまった人間への、「もう無駄はしない」という強い決意のように迫ってくる。

 あらゆる世界で「無駄」が排除されようとしている。「話し合っても無駄」(戦争しかない/武力行動しかない対立解消の手段はない)というのが、「戦争支持者」の主張だろう。「話し合い」は彼らから見れば「時間の無駄」なのかもしれない。しかし、その「無駄」をつづけつづければ、それは無駄ではなくなる。何があっても武器はとらないということをつづきつづければ、戦争はおきない。人間が「無駄に」死んでいくことはない。
 戦争で、実際に親しい人間を失ったひとだけが「無駄」に気がつくというのでは、あまりにも悲しすぎる。
 この映画は、いま拡大しつづける戦争に対して、何か有効なことをなしうるか。この映画が与える高価は「無駄」(無力)でしかない、というひともいるだろう。だが、そうであったとしても、この映画に加わったひとは言うだろう。「私のしたことは、ちいさなことである。しかし、私は何一つとして無駄なことはしていない」と。
 で、もうひとつ、忘れがたいシーン。
 主人公を助けるアフリカ系の元兵士。彼は、こころの傷のために、少し主人公たちに迷惑をかける。それが次の朝、主人公にであって謝罪する。それに対して主人公が何か言う。それに答えて、元兵士が何か「立派なこと」を言おうとする。そのときの態度が、いわゆる「軍人風」である。この態度を主人公が、静かに批判する。「そういう軍隊式の反省はやめろ」と。「きみは病んでいる」と。
 ああ、いいなあ。
 「戦争反対」は世界中で叫ばれている。安倍も叫んだし、岸田も訴えた。石破も言うだろう。しかし、そのときの「戦争反対」ということばの奥に動いているのは、どういう精神か。たとえば「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない」というとき、そこにはたとえば主人公の友人の「死ぬのはいやだ、死ぬのは怖い」という気持ちは含まれているか。含まれていないだろう。「祖国のために亡くなった兵士の精神を忘れない、そのいのちを無駄にしない」というとき、それは新たな「無駄」をするということだろう。

 声高ではない。だが、はっきりと「ことば」が聞こえる。こういう映画をつくることができるひとがいることに、深く感謝したい。「私は何一つ無駄なことはしなかった」といえるのはすばらしいことだ。
 この映画のなかの主人公の、友人の墓に祈ること、それは「無駄」ではない。もしなにかしてきたことのなかに「無駄」があったとしても、その「無駄」は、その瞬間にすべて消えた。「ぼやけ」ていたものは何一つなくなり、世界は「くっきり」したものにかわった。この「くっきり」を感じたから、私は、主人公がフランスから帰ってくるシーン以後、スクリーンに「ぼける/くっきり」の差を感じなくなったのかもしれない。
 もう一度見るということはないから、私がそう感じた通りの撮り方だったかわからないのだが。


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こころは存在するか(43)

2024-10-20 12:41:09 | こころは存在するか

 私はスペインの友人から、スペイン語をならっている。その友人が、こんな「課題」を出した。

Si Mahoma no va a la montaña, la montaña va a Mahoma.
Explica el significado de la frase y escribe algún ejemplo.

 「もしマホメッドが山へ行かないのなら、山がマホプッドの方へゆく。この諺の意味を説明し、その具体例を書け」
 何のことか、その諺自身の「意味」もよくわからない。山が動くということはありえない。だから、何かを熱望したとき、常識では考えられないことが起きる、くらいの「意味」を想像し、こんな文章を書いた。(私の「解釈」は完全な間違いなので、結果的にとんちんかんな作文になってしまったのだが、何かしら友人を刺戟したようである。で、ちょっと書き残しておくことにした。)

Al leer un libro, a veces tengo experiencias extrañas.
Leer un libro significa visitar al autor del libro. Quiero saber sobre el autor. Poco a poco me gustan las ideas del autor y quiero leer más.

Mientras sigo leyendo sus libros, un día el autor me visitará. A veces me encuentro con palabras que me dan fuerte impresión, como si el autor viniera a mí desde dentro del libro, en lugar de que yo entrara en él.

"Aislamiento(鎖国)" de Tetsuro Watsuji(和辻哲郎). Un barco español dió la vuelta al mundo. Cuando regresó a España, descubrió que la fecha de su cuaderno de bitácora era un día diferente a la fecha de España.
Ahora todo el mundo conoce la línea de fecha internacional. Pero en esa época nadie lo sabía. Se puede decir que descubrió la línea internacional de cambio de fecha. Esta es una hazaña aún mayor que la llegada de Colón a América, yo lo pienso.
Desde que encontré este artículo, Tetsuro Watsuji me ha gustado aún más. Cuando amo a alguien, esa persona me busca. El me ama más que le amo.
 
 訳しみてると、(というのは、変な言い方だが)、こんな感じになる。

本を読んでいると時々不思議な体験をする。本を読むということは、その本の著者を訪ねること。私は、作者について知りたい。読むにしたがって、少しずつ作者の考え方が気に入り、もっと読みたくなってくる。
そして、その著者の本を読み続けていると、ある日、著者が私を訪ねてくる。時々、私が本の中へ入って行くのではなく、著者が本の中からやって来たかのような、強く印象に残る言葉に出会うことがる。

和辻哲郎の『鎖国』。そこに、こういうことが書かれている。スペインの船が世界一周した。船がスペインに戻ったとき、航海日誌の日付がスペインの日付と異なることに気づく。
今では誰もが日付変更線を知っている。しかし、当時は誰も知らなかった。航海日誌をつけていた人は日付変更線を発見したとも言える。これはコロンブスのアメリカ到達よりもさらに偉大な偉業だと私は思う。
この文章に出合ってから、私は和辻哲郎がさらに好きになった。私が誰かを愛するとき、その人は私を探す。彼は私が彼を愛する以上に私を愛してくれる。そして、誰にも告げなかったことを、私に語ってくれる。

 こういうことを、私はしばしば体験する。私が本を読んでいるのだが、それがいつのまにか立場が逆転して、筆者が私に何か「秘密」を語ってくれているような気持ちになる。そして、そういうことが起きるのは、筆者が私のことを好きだからなのだ。筆者は、私を探して本のなかから姿を現しているのだ。
 これはもちろん「ひとりよがり」なのだが、私は自己中心的な人間だから、「ひとりよがり」の瞬間が、いちばん幸福である。
 で。
 スペイン語では書けなかったことを、書いておく。
 なぜ「鎖国」のあの文章が好きなのか。
 アメリカ大陸は、そこに存在する。たとえコロンブスがたどりつかなくても、誰かがたどりつく。それは「客観的」というか、目に見える「事実」だからである。ところが「日付変更線」は、目に見えない。いまは便宜上、太平洋の真ん中ら引かれているが、それは「世界時間」の基準がロンドンにあるからである。もしそれが東京、あるいは北京、さらにはニューヨークにおかれていたら日付変更線の位置は違ってくる。「客観的」には存在しないものが、「存在させられている」。
 そして、なによりもおもしろいのは、それを「発見」(あるいは発明)したのは、「思考」である。さらにその「思考」を支えているのが、「航海日誌」をつけるという、地道な日々の積み重ねであるということなのだ。もし、航海士が毎日日記をつけるということをしていなかったら、「日にちが違う」ということに、だれも気がつかなかった。
 「世界」を統一的にながめ、そこに起きていることを知るためには「日付変更線」が必要ということに、だれも気がつかなかった。

 ここから、私は、さらに考えるのである。
 私は詩の感想を書き、小説の感想を書き、映画の感想を書いている。そのとき、「感想の出発点」となるのは、私の「くらし」である。航海士が「日誌」をつけるように、私は、毎日ことばを「動かしている」。それは必ずしも「記録」としてのこしているわけではないが、肉体のなかにはその記憶が積み重なっている。
 それが、ある日、だれかの「ことば」と出合う。そして、その瞬間、「あ、このひとのことばは、私のことばと違っている」と気づく。同じことばなのに、何か違う。それは世界一周した航海士が「日付が違う」と気づくのに似ている。「いま、ここに、おなじ日にいるはずなのに、それが違ってしまうということが起きる」。
 「日付変更線」ではなく、私は、ある瞬間「自他区別線」というものを発見するのである。
 私が、そのことを強く意識したのは、谷川俊太郎の「女に」を読んだときだった。その詩集のなかに、一回だけ「少しずつ」ということばが出てくる。そのことばのつかい方は、私の知っている意味だったけれど、私はそんなふうにつかったことがなかった。あ、これが谷川俊太郎なのだ、と気がついたのである。
 そして、それは私が谷川俊太郎を探し当てたというよりも、何かしら、谷川俊太郎が私に会いに来てくれたという感じの驚きだった。
 現実には、そういうことはありえない。しかし、そういう非現実が起きる、ということを私は感じている。「ひとりよがり」なのだけれど。

 何かが「好き」になるとき、いつも、そういうことが起きる。
 前回、詩の講座で入沢康夫の「未確認飛行物体」を読んだときも同じである。「大好きな」ということばが、向こうからやってきた。私が探し出すのではなく、入沢康夫の「大好きな」ということばが、私の方に会いに来てくれた。
 こういうとき、私は、興奮してしまう。
 で。
 どうしても少し補足しておきたいのだが、こういうとき、その「自他」の「日付変更線」になりうることばというのは、いわゆる哲学用語の解説書に書いてあるような「特別なことば」ではなく、私が日常的に、無意識につかっていることばである。谷川の「少しずつ」も、入沢の「大好き(な)」も、意味も考えずにつかっている。そして、意味も考えずにつかっているからこそ、そこに「意味」があらわれたとき、びっくりする。
 航海士が「日誌」を大事なものとして書き続けたように、谷川は「少しずつ」を、入沢は「大好きな」を、しっかり大切につかいつづけてきた。その結果として、それがある瞬間に「輝く」。そして、その「輝き」は、「日付変更線」の「発見」のように、生きていれば自然に出合うことがあるものではなく、あくまでも「主体的」にことばを動かしていくときにだけ、その「主体」のなかにあらわれてくるものなのである。

 ほんとうは、ここまでをスペイン語で書きたいが、書けないなあ。

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杉惠美子「秋の時計」ほか

2024-10-19 22:46:44 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の時計」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月07日)

 受講生の作品。

秋の時計  杉惠美子

彼岸花が咲いています
蜻蛉がわたしのまわりを飛んでいます

少し肌寒くなってきました

散歩するひとも少し増えたような

まわりの視線も少しずつやわらかくなっています

幾度となく風を脱ぎ
混濁の渦を離れました

重心を少し下げて
静かにしていたいと思います

すべてを 一度に語ろうとせずに
慎ましく
じわじわと

誰かと話してみたいと
少し 想うことがあります

 詩の感想をいろいろ聞いたあと、ちょっと受講生の感想(指摘)で物足りないところがあったので、杉に「この詩で工夫したところは?」と訪ねてみた。「少し、ということばをたくさんつかった」という返事が返って来た。
 それについて、やはり、私は気がついてほしかった。詩を読んだり、小説を読んだりするとき、どうしても「意味」というか、全体の「内容」に目が向きがちである。もちろん、そういうことも大切なのだが、「細部」に動いている作者の意識がとてもおもしろいときがある。
 この詩では一連目以外には「少し」ということばが各連につかわれている。
 「いや、五、七連目にも『少し』は書かれていない」という反論があると思うが。
 たしかにそうなのだが、ここがとても大事。
 「少し」は書かれていないが、それに通じることばが書かれている。「幾度となく風を脱ぎ」の「幾度」には「少し」が隠されている。「少しずつ」脱ぐから、それが「幾度」にもなる。「一度に」ぱっと脱いでしまえば「幾度」にはならない。
 私が言い換えた「一度に」は七連目には、ちゃんと書かれている。そして、それは「すべて」と対比されている。さらに「じわじわと」ということばも補われている。「じわじわと」というのは「少しずつ」に似ている。
 そうだとしたら。
 最終連(だけではないが)の「少し 想うことがあります」の「少し」にも、何かしら「特別な思い」がこめられている、もしかしたら五、七連目のように「少し」とは違うことばで伝えたいものがあるのかもしれない。
 その証拠にというと変かもしれないが「少し」のあとに「空白」がある。ほかの部分では「少し」はそのあとのことばに直接つづいていた。しかし、ここには「一呼吸」がある。言いたいことをさがし、踏みとどまっている呼吸が動いている。
 この呼吸に、自分の呼吸をあわせることができたとき、杉の詩は、読者にとってもっと深いものになる。

私がわたしであること  堤隆夫

人々の群れの中にいることによってしか
分かり得ない本当のことを知った
人々と共に住むことによってしか
教科書では学べないことがあることを知った

人々と共に働き 共に喜び 共に涙することによってしか
私がわたしであることを
確かめることができないことがあることを知った

杖をついて歩いた時
ゆっくり歩くことの幸せがあることを知った
片手に杖を持ち もう一方の手で
あなたと手をつなぐ幸せを知った

一人になった時 単調な日々の有り難さを初めて知った
眠れない日々が続いた時
羊水の中にいた時の記憶が蘇り
亡き母のかなしみの愛を知った

死の恐怖を眼前に感じながら うつむいていた時
ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た

失うことによってしか得ることのできない
愛があることを知った

失うことによって より深まる愛があることを知った

 堤の詩にも、杉の詩と同じような「繰り返し」と、その「変奏」がある。「しか/知った」が繰り返される。途中で消える。(ただし、「知った」は、繰り返される。)そして再び「しか/知った」があらわれる。
 なぜ、途中で「しか」は消えたのか。
 「しか」があるときは、そこには「人々」ということば、複数の人間の存在があった。「しか」が消えたとき、「人々」のかわりに「あなた」「母」が登場する。そして同時に「一人になった」ということばが動く。「私」が「一人になった」のは、「人々」(複数)が「あなた」「母」という「一人」があらわれたときである。
 「しか」は「唯一」ということでもあるが、この「しか=唯一」という、どこかに隠れている意識が「あなた」「母」を呼び寄せたともいえる。
 そして、この「しか/知った」という組み合わせは、最終連では大きく変わって「より」「知った」という形になる。
 ここで、私は質問してみた。最終連を「しか/知った」という形で言いなおすと、どうなるか。

 失うことによって「しか」深ま「らない」愛があることを知った

 これは、直前の「失うことによってしか得ることのできない/愛があることを知った」に非常に似ている。繰り返しのリズムを優先するならば「失うことによってしか深まらない愛があることを知った」でも同じである。「意味」はシンプルに伝わるだろう。
 しかし、堤は、そうしたくなかった。「しか/知った」では言い足りないものがある。そして、それは「あなた」「母」と強い関係がある。「より」強い気持ちを明確にしたい、それが「しか」ではなく「より」ということばを選ばせているのである。
 これは堤が選んだことばなのか、それとも詩が堤に選ばせたことばなのか。
 堤は「自分が選んだ」と言うかもしれない。しかし、私は詩が、そのことばを堤に選ばさせたのだと感じる。天啓、のように「より」ということばがやってきたのである。その天啓に身を任せることができたとき、ひとはほんとうに詩人になる。
 何を書いているかわからない。しかし、書いたあとで、ああ、そうだったのだと詩人自身が気がつく。そういう「個人」をはなれたことばの動きがあるとき、詩は、ほんとうに輝かしい。
 この詩には「知った」を含まない連がひとつある。その「ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た」の「視た」は「知った」に、とても似ているといえるだろう。「見る」ことは「知る」ことでもある。ここで、しかし「知る」をつかわずに「視る」ということばをつかっているのも、とてもおもしろい。「知る」をつかって別の表現がなりたつはずだが、それを押し退けて「視る」があらわれている。ここから「知る」と「視る」の違いについて哲学的に考え始めることもできるはずである。
 そうした「誘い」を促すのも、詩の、超越的な力だと思う。

聖餐  青柳俊哉 

隔絶した僧院の日々


空の微点へ凄まじく吸われる雲 
飢餓する子どもたちの生をおもう  

朝霧の隼(はやぶさ)王の食卓
白鳥と孔雀の胸肉の白ワイン蒸し
みつばのお浸しに霧がそそぐ 霧をすする
 
祭壇に子たちのアーモンドをそなえる
 
バラを敷きつめて女(め)鳥(とり)と交わる
 
口腔から胃へ激しい痛みと嘔吐
ながれる汚物 羽にかわるバラの花
 
生きることは異物と交わりそれに同化することであった
 
 
僧院の肥沃な花から女が飛び立つ

 青柳の詩には、杉、堤の詩をとおしてみてきた「繰り返し」はないように見える。しかし、ひとは何かを繰り返さないと何も言えない存在である。というか、ことばとは、ひとことですべてを言い表すことができない、何か不完全なものである。言いたいことを言おうとすると、繰り返しのなかに少しずつ「変化」をまじえながら、それを補強するしかない。
 「生きることは異物と交わりそれに同化することであった」という行があるが、「異物」と「同化」が、繰り返されていると言えるだろう。異物が異物のまま離れて存在するのではなく、「同化」する。そのために「交わる」。
 この異物が異物のまま「離れて」存在することを「隔絶して」存在すると言いなおせば、それは書き出しの一行に通じる。「隔絶した」と書き始めたとき、詩は「異物」を引き寄せ、「異物」は逆に「同化」を引き寄せ、それが「交わる」という動詞を必要としたのだろう。
 「書く」というよりも「書かされる」詩。
 やってくるのは「天啓」だけではない。「悪魔のささやき」もやってくるだろう。「悪魔のささやき」を拒み、「天啓」だけを選択するということができるかどうか。どうやって、その区別をするか。その判断の基準を「直覚」するのも、大切なことだと思う。

未確認飛行物体  入沢康夫

薬罐だつて、
空を飛ばないとはかぎらない。

水のいつぱい入つた薬罐が
夜ごと、こつそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。

天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切つて、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに早かないんだ)
そのあげく、
砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 受講生のひとりがみんなで読むために選んできた詩。みんなにどこが好きか(印象的か)と聞くと、最後の三行という返事が返ってきた。
 ここには不思議なことばがある。
 詩は、「美しい」ということばをつかわずに「美しい」を表現するものという定義のようなものがあるが、それを流用して言えば「大好き」ということばをつかわずに「大好き」を表現するのが詩かもしれない。
 小中学生ならいざ知らず、入沢康夫のような高い評価を受けている詩人が「大好きな」ということばをつかっているが、それでいいのか。
 というのは、まあ、意地悪な「いちゃもん」。
 この詩では、私は、「大好きな」ということばがいちばん大事だと思う。「大好きな」ということばのために、この詩はある。

砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
その白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 でも、詩は(その意味は)成立するし、学校の試験では、「作者はこの花についてどう思っているか、あなたのことばで書きなさい」という質問が出るかもしれない。「大好き」という答えを正解とするかもしれない。
 言わなくても、わかる。
 でも、言った方がいいのである。
 頭のいいこどもは、「お母さん大好き」と言わないことがある。言わなくてもお母さんが大好きなことはお母さんは知っている。でもね、お母さんは、わかっていても、そして時には嘘であっても「お母さんが大好き」とこどもが言ってくれるのをまっている。言ってくれると、うれしい。「大好き」と、ことばにするのことはとても大切なことなのである。
 そして、もし私がこの詩のなかの「白い花」だったとしたら、水を注いでもらったことよりも「大好き」と言われたことの方が、はるかにうれしいだろうなあと感じるのである。
 入沢の詩は、そういうことをテーマとして書いているわけではないだろうが、私はそういうことを思うのである。「大好き」と書くことによって「大好き」がとても美しいことばになる。大切なことばになる。平凡なことばのようで、平凡ではなく、唯一のことばになる。
 入沢は技巧的というか、人工的な詩人だが、彼がこんなふうに「大好き」ということばをとても自然に、力強く書いているというのは、とても楽しい。こんなふうに「大好き」ということばを詩に書けたらいいなあと心底思う。

 

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山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

2024-10-13 12:33:25 | 考える日記

山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

監督・脚本 山中瑶子 出演 河合優実

 山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」は、たいへんな評判らしい。カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したことも、その「好評」を後押ししているようだ。河合優実が主演した「あんのこと」、あるいはグー・シャオガン監督、ジアン・チンチン主演「西湖畔に生きる」もそうだが、「好きになれる人物」が登場しない映画、あ、この役者が演じたこの瞬間をまねして演じてみたいと感じさせてくれるシーンがないと、私は、その作品が好きになれない。
 「好き」ということばは誰でもがつかうが、その定義はむずかしい。私は「好き」というのは、その瞬間に、自分自身が消えてしまうことだと定義している。たとえば「ぼくのお日さま」の主人公は、少女がアイススケートをしているのを見て、フィギュアスケートが瞬間的に「好き」になる。そして、コーチが少女に指導していたことを耳にして、ふとその回転をまねしてみる。あるいは「リトル・ダンサー(ビリー・エオット、だったけっけ?)」でふと見てしまったバレエにひきつけられ、ボクシングをしているのに、ピアノのリズムで動いてしまう。さらに、彼は入学試験の面接で、踊っているとはどういう気持ちかと聞かれて「好き」というかわりに「自分が透明になる」と答える。この「透明」は私が言う「自分が消えること=好き」と同じだと私は感じている。「自分」というものがいなくなる、「自分」が消えて、「自分」では制御できない「肉体」が動き始める。そこには「感情」も「理性」もない。ただ「世界」だけが存在する。「世界と一体になる」という感じである。「好き」とは「世界との一体化」と言いなおすことができる。
 で、ここから「ナミビアの砂漠」を見直す。
 主人公(名前は忘れた)の河合優実は、一緒に暮らしている男(前半と後半は別の人間、つまりふたり)に対して、突然「暴力的」になる。いったん男の存在を否定し始めると、抑えが利かなくなる。徹底的に暴れる。これは、どうしてなのか。私の定義では、その瞬間が「好き」だからだ。男に対して暴言を吐き、暴力を振るう。その瞬間が「好き」なのだ。女は怒っているが、怒っている自覚はないだろう。「夢中」になっている。「無我」になっている。それしか「無我/自分が消え世界と一体化する瞬間」が存在しないのだ。
 それ以前は(それ以外の時間は)、どう「世界」のなかで存在しているのか。女が「暴力的」になる前には伏線がある。最初の伏線は、最初の男に対する伏線は、喫茶店で聞いた「ノーパンしゃぶしゃぶ」の会話である。こんな話題を、いまの若者が知っているのというのは私には驚きだったが、その「ノーパンしゃぶしゃぶ」で女が感じているのは、女は男の欲望の対象だ、という不満である。これが札幌出張の男が風俗店へ行ったことを知り、「怒り」となって爆発する。もしかすると、彼女は、その風俗の女であったかもしれないのだ。いま一緒に暮らしているが、それはほんとうに愛しているからなのか。それとも、セックスの対象とみなされているのか。これは、男が否定しようがしまいが、関係ない。彼女は、そう信じ、傷つくのである。そして、その傷に耐えられず、暴力的に反抗する。男の行為を否定する瞬間、彼女は「無我」になる。あるいは、「ほかの女と一体になる」と言えばいいか。風俗店で男とセックスをした女になる。「世界」になる。男が女を傷つけている世界そのものに向かって「無我」になる。暴力的になっているときだけ、彼女は男の世界から「解放」されるのである。それは世界を解放したい欲望と言いなおすことができる。
 もうひとりの男に対する暴力は、男が前につきあっていた女の「胎児のエコー写真」を見つけたところからはじまる。こどもはどうなったのか。堕胎した/堕胎させたのだろう。つきあっていた女は傷ついただろう。その傷を、男は、どうやってつぐなうのか。男は「小説」を書いている。きっと「小説」のなかで、自分の気持ちを「清算」するのだろう。そう思った瞬間から、暴力的になる。ここでも、女は、男の前の女、妊娠し、堕胎させられた女そのものになる。「無我」になっている。彼女が怒るのではなく、男の前の女になって怒る。
 ふたりの男は、女が「無我」になっていることに気がつかない。自分の目の前にいる、一個の「肉体を持った女」しか見えていない。女と「和解」するには、男も「無我」になるしかないのだが、それは、できない。男(ふたり)が女と暮らし始めたとき、暮らし始めようとしたとき、たぶん男にも「無我」の一瞬があったはずであるが、いまは、それを「再現」できない。男の行為が徹底的に否定されているわけだから、「無我」になれない。「無我」の「無」と「否定」の結果たどりつく世界ではなく、「肯定」のゆえに、自然とたどりついてしまう世界だからである。
 女が「安定」する、つまり世界が「好き」で満たされるのは、セラピーを受けているときではなく、スマートフォンで「ナミビアの砂漠」のシーンを見ているときである。オアシス(?)にシマウマが水を飲みにやってくる。こないときもあるが、くるときもある。それを「無我」になって見ている。「目的」もなく、ぼんやりと。この「無我」は「肯定」の結果ではないが、すくなくとも「否定」のゆえの世界ではない。
 「西湖畔に生きる」には、マルチ商法にのめりこむ女(母)が登場するが、彼女は息子から説得されても、そこから抜け出せない。家も売り払い、商法にのめり込む。言われるままに、大量の商品を買い込まされる。彼女は「買い物をしているときの自分が好き」というようなことを言う。「好き」とは、やはり「無我」なのだ。夫に逃げられ、新しい男との仲も引き裂かれ、彼女が「無我」になれるのは「金を使っているとき」だけなのだ。


 「好き」の結果、たどりつく世界は、たしかにおもしろくはある。山中瑶子は脚本を書き、映画を撮っているとき、たしかに「好き」なことをしているのだと思う。だから、その「無我」の充実感がスクリーンにあふれている。河合優実は、演技をしているときが「無我」なのだろう。だが、これは「頭」で整理した感想であって、無意識に書いてしまう感想ではない。「反感」の方がはるかに強い。
 私は「無我」を見るのが、ほんとうに大好きである。
 たとえば、私がいちばん好きな「木靴の樹」には、ミネクの両親が、ミネクのノートを開き、学校で習って書いた「L」を見ながら、「これはエルという字だ」という。そのとき、父親は字を読んでいることを忘れ、「無我」になって、ミネクになってノートにエルの字を書き続けている。ああ、ノートに「L」を書きたい、と私は思う。
 そういう瞬間が、「ナミビアの砂漠」を見ているとき、私には訪れない。「ぼくのお日さま」でも「リトル・ダンサー」にも、そういう瞬間はある。ビリーの父が、スト破りをする瞬間、あるいはビリーの合格を知って、道を書けていくシーン、仲間に自慢しに行くシーンは、私自身がバスに乗っているし、道を走っている。

 カンヌの「批評家」がどういう評価をしたのか、私は知らない。「評判」をあおっている日本の批評家(?)の意見も、私は調べたわけではない。ただ、二、三、ネットで見かけた記事(動画)では、彼らは「登場人物が好き」とは言っていなかった。あのシーンを自分でもやってみたいと言っていなかった。私は、そういう批評は嫌い。「マトリックス」を見たあとは、弾丸を身を反らして避けるシーンをしてみたり、やくざ映画を見たあとは肩をいからして映画館を出るという人の「行為」(肉体の変化)が好き。
 「頭」では、私は何かを好きになれない。

 「好き」の補足。
 私は和辻哲郎の文章が好きである。何度も書いたことだが「鎖国」には、世界一周をしてきた船がスペイン沖でスペインの船と出合う。そして、そのとき航海日誌をつけていた男が「日付が一日違う」ということに気がつく。この文章を読むとき、私は、和辻なのか、航海日誌をつけていた男なのか、それとも航海日誌をつけていた男に「きょうは○日だ」と告げた男になっているのかわからない。ただ「あ、日付変更線は、この発見があったからできたのだ」と思う。そして、そう思ったのは、私なのか、和辻なのか、あるいは航海日誌をつけていた男なのかもわからない。人間の区別がなくなる。全員が「無我」になる。そして「事実」が「真実」になる。そういう瞬間へ導いてくれることばが、私は好きである。

 

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Estoy Loco por España(番外篇457)Obra, Javier Messia

2024-10-12 21:34:39 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia

Hay orden y desorden que lo niega.O hay una unidad que convierte el desorden en orden.
Lo que escribo es contradictorio. Sin embargo, hay algunas cosas que sólo pueden decirse de manera contradictoria.

¿Este trabajo es dos en uno? ¿O están las dos obras más estrechamente integradas en una sola? ¿Se encontraron los dos o se separaron?
Lo mismo sucede dentro de cada obra. Está dividido en partes superior e inferior. O la parte superior y la inferior se encuentran. ¿Lo que está en el centro separa la parte superior e inferior? ¿O la parte superior y la inferior están unidas?
Incluso si es algo que separa a los superiores de los inferiores, o tal vez sea porque están tratando de hacerlo, se llaman fuertemente unos a otros.
Al escuchar esas voces, ¿la división y/o conexión en el centro emite una voz que ahoga las voces de arriba y de abajo, o un silencio que se traga las voces de arriba y de abajo?

Mis palabras están siempre confundidas.

秩序と、それを裏切る乱れがある。あるいは乱れを秩序にかえる統一がある。
私が書いていることは、矛盾している。しかし、矛盾した形でしか言えないことがある。

この作品は、ふたつでひとつなのか、それともそれぞれ個別の作品がよりそってひとつになっているのか。
ふたつは出会ったのか、それともわかれたのか。
ひとつの作品のなかにも同じことが起きている。上下にわかれている。あるいは上下が出会っている。中央にあるものは、上下をわけているのか。あるいは上下を結びつけているのか。
たとえ、それが上下をわけるものであったとしても、あるいはわけようとしているからこそなのか、強く呼び掛け合っている。
また、その声を聞きながら、中央の分断/接続が発するのは、上下の声をかき消す声か、あるいは上下の声を飲み込む沈黙か。

私のことばは、どこまでも乱れていく。

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