詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(41)

2024-09-05 13:00:03 | こころは存在するか

 谷川俊太郎の詩集に『世間知ラズ』というのがある。私は、これを「世間知(せけんち)・ラズ」と読んでいた。「ラズ」と呼ばれている「世間知(世間の常識、だれもが知っていること)と理解し、さて、「ラズ」って、何? そこで、ずいぶん悩んだ。もちろんこれは「世間知らず(せけんしらず)」と読むのだが、カタカナ語が苦手な私は「せけんしらず」ということばが思いつかなかったのである。
 笑い話にもならない、どうでもいいことなのだが。でも、私はなぜ「世間知(せけんち)・ラズ」というような、常識はずれの「読み方」をしてしまったのか。カタカナ難読症が原因と簡単に断定できるのだろうか。

 このことを、和辻哲郎「自叙伝の試み」を再読していて、突然、思い出したのである。

 姫路生まれ、姫路育ちの西脇が、東京に出てきたときのことを「半世紀前の東京」のなかで書いている。そこに、こういう文章が出てくる。

都会育ちのものに特有な繊細なセンスが田舎者には欠けているとか、都会育ちのものの頭の働きが非常に敏活であるのに対して田舎者のそれは遅鈍であるとか、それに伴ない前者は世間知が豊富であるに対し後者はそれに乏しいとか、

 「世間知」ということばが出てくる。私は、この和辻のことばを覚えていたのか、と驚いたのである。ちなみに、「世間知(せけんち)」ということばは、私のもっている広辞苑には載っていない。たぶん、和辻独自のことばなのだろう。それを、私は無意識に覚えていて、谷川の詩集を見たとき「せけんち・ラズ」と読んでしまったのだろう。
 何度も繰り返されることばではなく、一度見ただけのことばなのに、それを単独で覚えているというのは不思議なことだが、何かしら、和辻のことばには私の「肉体」そのものに触れてくる「自然」がある。
 「自伝の試み」のなかで描かれているのは明治20年代(1890年代)は和辻の幼年時代だが、それは私の幼年時代の昭和30年代(1950年代)に似ている。いや、姫路の1890年代は、私の育った能登半島の付け根の小さな集落の1950年代よりもはるかに進んでいる。半世紀すぎても、私の済んでいた集落は姫路の「文化」から遠く遅れている。ただ、「自然(山や川)」だけが「同じ年代」を生きている。西脇の描く「自然」は私の知っている「自然」と非常によく似ている。そのために、和辻の文章のリズムが、非常になじみやすい。和辻は「私の知っていること」を書いている、という気持ちで読むことができる。
 「自然」は似ている。違うのは、「世間知」である。
 「世間(社会)」のなかで流布していることが、違う。和辻は、その「違い」を東京に出てきて実感している。(幼少時代も、ほかの村のこどもと西脇が違うことを少し感じているけれど、東京へ出てきて感じた「違い」ほど大きくはない。)このときの和辻の「印象」、それを象徴する「世間知」ということばが、私の「肉体」のなかで、長い間眠っていたことになるのだろう。
 ことばの「影響」というのものは、なんと、不思議で、強いものなのか。

 「世間知(せけんち)」と関係するかどうかわからないが、私には、忘れることのできない「貧乏」と「世間知らず(せけんしらず)」を結びつける思い出がある。私は「世間」には属していない、私の属している世界は別のところにある、と感じる思い出がある。
 小学一年のときの「終業式」。私は、それがどういうものか知らないから、いつものように学校へ行った。すると担任の先生(石田先生と言った)が、私を呼び止める。そして私の親戚の2年生の女子を呼ぶ。その女子に向かって、こう言う。「きょうは修行式なのだから、修三を家につれていって服を着替えさせてこい。修三の母親にそう言え」。ああ、「式」のあるときは、いつもと違う服を着るのか、ということを私は初めて知った。たぶん、母も初めて知ったのだと思う。そういう「世間知」から遠いところで、私は生きていた。たぶん、ツギのあたった服を着ていたのだろう。それでは「式」にふさわしくないと石田先生は思って、世話をしてくれたのだろう。
 この石田先生は、なぜか私のことをよく覚えていてくれたようで、私のめい(15歳くらい年下)が小学一年生のとき、めいの担任になり、「谷内修三を知っているか」と聞いたそうである。「谷内」という姓は、能登では珍しくない名前である。姓から判断しただけではなく、顔か何かが似ていたのかもしれないが、そのことを姪から聞かされびっくりしたことがある。それくらい、私の田舎では「時間」がゆっくり流れているということかもしれない。
 話は脱線するが。
 私は和辻が姫路での幼少、青年時代を描き、さらに東京と姫路を都比較しながらいろいろ書いているのを読みながら、1950年代の、私の貧乏をいろいろ思い出す。
 先に書いた姪は、私の上の兄の娘だが、その兄と私は15歳くらい離れている。子供時代、一緒に遊んだ記憶は、私には、ない。私が小学の高学年のとき、就職先から家に帰ってきた。私は兄を何と呼べばいいのかわからず、両親に尋ねた。「おじ」というのが、その答えだった。「おじ」というのは、私の育った地方では「二男」(あるいは、弟)を意味する。私が兄を「おじ」と呼ぶのは変なのだが、なぜ、「おじ」と呼ぶかというと。実は、私にはもうひとり兄がいて、その兄は「おじ」が家に帰ってきたあと、やはり家に帰って来た。兄は「あんま」である。「あんま」のつぎが「おじ」。私は兄を名前で呼んだことはない。私は名前で呼ばれたが。
 また脱線したが、そのおじが、あるいはあまんが着ていた15年以上前の「学生服、学生ズボン」を私は履いて小学校へ通っていたことがある。海水パンツも、兄のお下がりだった。そういうものを買う余裕が私の家にはなかったということである。習字の道具(筆、すずり)も、最初は、先に書いた親戚の女子に借りて、つかっていた。あとで言えの中のがらくたをかたづけて、その下から兄たちがつかっていた硯と筆をみつけだしてつかったと思う。
 敷布団はなく、「ドン・キホーテ」の旅籠屋のなかに出てくるように、藁の上に布をかぶせて敷布団にしていた。藁を換えると、藁を干していたときの太陽の匂いがする。ふかふかする。そのときのことを、私の肉体は覚えている。こんなこともあって、私は清水哲夫の「スピーチ・バルーン」のなかの「標準語訳」の部分に、かみついたことがある。肉体が感じることばのリズムが標準語訳には反映されていないからである。
 中学生になるころ、私は私の部屋をもらったが、その部屋の窓は格子でできているのだが、ほんとうに格子があるだけ。ガラスも障子もない。つまり、風がそのまま入ってくる。だから、冬などは、そこで勉強するということなどできない。寝るときだけ、板戸の向こうの部屋で寝る。寝るための部屋だから、電灯は小さな裸電球があるだけだが、それも電気代がもったいないと、ほとんどつけなかった。私は体が弱くて、医者から「9時に寝て、6時に起きるように」と言われていたのだが、9時まで起きていることもなかった。夕食を食べると、8時前には寝ていたと思う。
 中学を卒業すると、兄弟はみんな就職した。小学生のとき、私が、新聞の広告の裏か何か絵を描いていたら、おじが「お前は絵が好きだから、映画館の看板描きになれ」と言われた。私もそのつもりになっていた。
 そういう生活だったから、和辻が描いている明治の姫路は、私にとっては、和辻が見た東京のようなものである。いや、それ以上である。そんな「ずれ」が刺戟になって、「世間知」ということばが「せけんち」として、私の肉体に残ったのかもしれない。私の肉体の中には、そして、そういう「ずれ」が、いまでも、たくさん残っている。それは、かなり頻繁に、噴出してきて、私を驚かせる。私が書いていることの多くは、その「ずれ」を出発点としている。

 「世間知」に対峙することばはなんだろうか。「自然知」、あるいは「肉体知」かもしれない。私が和辻に感じるの親近感は、その「自然知」「肉体知」に対するものだが、このことを書くのはなかなか難しい。
 でも、いつかは書きたい、書けたらなあ、と思う。「こころ(精神)」は存在しない。しかし「自然」「肉体」は存在する。「肉体」が「肉体」のまま出合える「場」を取り戻したい。修業「式」という「世間知」から遠くにいたときも、私も母も生きていた。そのことを「守りたい」。

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