詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(40)

2024-09-01 23:53:49 | こころは存在するか


 和辻哲郎「自叙伝の試み」に、何度も何度も読み返してしまう文章がある。和辻の母が蚕から生糸をつくり、それをさらに織っていく。それは「本質的」に、工場でつくるものとかわりがない。自分で紡いだ生糸を、

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定に入れないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「労力を勘定に入れない」。このことばが、いつも胸に迫ってくる。たしかに昔の人は、「労力を勘定に入れない」で仕事をした。いまは「休憩」さえも勘定に入れる。どちらが正しいというのではなく、ただ、私は、その「労力を勘定に入れない」という生き方が美しいと思う。

 和辻が描いている「母たちの時代の人」というのは明治20年代(1880年代後半)だが、その時代には「労力を勘定に入れない」人がいた。そして、和辻がこの「自叙伝の試み」を書いた昭和30年代(1950年代)にも、そのことばがそのまま「通用」する生活があったのだ。

 それにしても。
 和辻が生まれた姫路市の明治なかごろの風景と、私が育った氷見市の昭和30年代は、なんと似ているのだろう。というか、昭和30年になっても、私の集落は姫路の明治のなかごろに追いついてはいない。絹織物を織るというような文化的なことを私の母はしていなかったが、かわりに「むしろ」を織っていた。むしろ織り機というものがあり、私もこどものときむしろを織らされた。
 私が和辻の文章に弾かれるのは、和辻の文章の奥に動いている「自然(山や川、空)」の感じが私の知っている自然に近いからかもしれない。自然の呼吸が、どこかで私にひびいてくるからだろう。
 和辻は、和辻の家で「みそ」をつくるときのことを書いている。私も、家でみそをつくるときの様子を見ていた。大豆がふかしあがる。何の味もついていないのだが、私はその大豆を食べるのが好きだったことなどを思い出すのである。和辻の祖父が、蔵の中でコメに大きなうちわで風を送っている場面など、なんとも不思議な気持ちで読んでしまう。ふと、収穫したばかりの米を納屋の倉庫に入れた日、父が、米の番をして、その納屋で眠ったときのことを思い出したりする。
 あらゆるところに「労力を勘定に入れない」仕事があった。そして、それはなんというのか、自分よりも、「自分の作ったもの」を大事にする仕事に思えるのである。自分のかわりに、自分のつくったものが「生きていく」。「生きていく」というのは「他人(自分以外のもの、もちろん家族を含む)」のなかへ動いていくということである。
 和辻の祖父のコメの「せわ」など、その代表的なものだ。コメは和辻の祖父がつくったものではない。しかし、そのコメがまずくならないように風を送るという「労力」が、おいしいコメとして家族の中に「生きていく」。それは「高い」とか「安い」では、とらえることのできない何かだ。和辻は母のつくった絹織物を、母たちにしてみれば「呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである」と書いているが、単に「安い」だけではないものが、そこに動いていると感じる。
 和辻の文章には、なにかこういう「生きていく」ものをすくい取り、定着させることばがある。
 それは、やはり、「思想」というよりは「倫理」というものだろうなあ、と思う。

 

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青柳俊哉「バラを解く」ほか

2024-09-01 13:51:12 | 現代詩講座

青柳俊哉「バラを解く」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年08月19日)

 受講生の作品。

バラを解く  青柳俊哉

バラの深部へむかう。交配を重ねるものの寓意として、バ
ラがあまりにも人間的な美にとざされているから。

表層から花芯へ一枚一枚花弁を摘みとる。秘密を被うよう
に重なりあい密集するものの中へ分け入る。蜜のながれる
花糸を一つ一つ解いていく。裸になった花柱を摘みとる。
指先は黄色い脂粉にぬれた。

花冠は消失しても、茎の内部にはさらに深いバラの層がひ
ろがり、花弁は透けて重なり、肉体の空へ屈折している。
この細い透明な維管束をながれるものは何か。

美の影がながれる。生の個別性から死の全体性へ回帰しよ
うとする意志、隠された内的な欲動---。バラは遥かな
先行者であり、人はバラの表象である。

 一行目に「寓意」ということばがある。「寓意」ということばをつかうと、詩は、非常に難しくなる。「寓意」をどこまで深めていくことができるか、読者は期待するからである。そして、その「深さ」はときに「複雑さ」にかわってしまうことがある。「複雑」になると、しかし、問題は違ってきてしまう。「謎(解き)」になってしまうことがある。
 少し言いなおしてみる。
 「寓意」と書かなくても、(説明しなくても)、詩に登場する「バラ」を「バラ」と思って読む人は少ない。では、なんと思って読むか。「バラ」のとらえ方と思って読む。つまり、そこには「バラ」が描かれているではなく、バラと向き合った人間(詩人)がいるのであり、読者が読むのは「人間」なのである。「寓意」とことわらなくても、必然的に「寓意」のようなものが生まれてしまう。それが、ことばの運動だからである。
 受講生は、どんな「寓意」をくみとったか。
 「四連目に詩人の思考の深さがある」「人生をバラに表象している」「表層から深部へ向かう流れがいい」
 うーん、抽象的だ。質問を変えてみるのがいいのかもしれない。「自分には書けないなあ、と思ったことばは?」
 「秘密を被うように重なりあい密集するものの中へ分け入る。」「肉体の空へ屈折している。」「美の影がながれる。」「バラは遥かな先行者であり、人はバラの表象である。」
 「自分には書けない」は「自分と青柳とは違う」という「違い」の発見であり、また、単に「違いの発見」ではなく、つまり「青柳の発見」であるだけではなく、「そういう行を書いてみたい」という「自分の発見」でもあるかもしれない。
 さて。
 「寓意」であるからには、私は「バラ」を描いているとは読まない。むしろ「交配」を描いているものとして読む。「交配」とは「交合」である。「花弁を摘む」ということばは、たとえば吉岡実の「サフラン摘み」を思い起こさせる。「秘密」「蜜」「ながれる」「密集」「わけいる」「裸」「指先」「ぬれる」。
 どこまで持続できるか。
 三連目で、青柳は「茎の内部」を描き、さらに「維管束」を経て、四連目で「生」と「死」という哲学の中でことばをまとめるのだが、「寓意」ではなく「論理」になってしまった感じがする。「謎」が自分自身(読者自身)にはかえってこなくて、青柳の「思想/思考」のなかで整理されていくのを感じる。
 「思考」は整理するものではなく、むしろ、乱すもの、ではないだろうか、と私は思う。とくに詩は、論文ではないのだから、ことばの整合性は必要としないときがある。
 二連目は、これまでの青柳のことばの運動からみると新しい展開であり、そのことばが「茎の内部」、さらに「維管束」へと、ふつうはつかわないことばへと進んだのだから、そのまま「植物」を離れずに、「人間/肉体」に重ねてほしかった。「人間の内部の動き」に重ねてほしかった。
 ことばが加速して「生/死(いのち)」に昇華するのもいいが、少しことばの展開が早すぎる。長さにとらわれずというのは、講座で取り上げ、みんなで語り合うときに少し難しい問題を抱え込むことになるが、気にせずに、「隠された」「欲動」をもっと具体的にことばにし、読者を混乱させてほしいと思う。

紫の光る君  池田清子

まず
へたの周りにくるりと切れ目を入れましょう
次に
縦に四本のすじを引きましょう
ただそれだけで
二本でも三本でも
魚焼きグリルに イン

両面焼きの場合
途中九十度回転させて
あとは
お気のすむまで

紫のてかりが
少しずつ
身に影を落として
枯れていく

大好きな光る君が
自ら身を引き
大好きな素朴な君へと
変わっていく

栄養があるのかないのか
食べ過ぎてよいのかわるいのか

何と(馬鹿馬鹿しい)
深い味わい

 最終連。「他愛ない」「頑是ない」「池田さん特有の書き方」「深い味わいと直結しない」「池田さんの底知れない多様性」。いろいろな声が出たのだが。
 私は、最終連は、もっと他の書き方があると思う。
 「焼きなす」をつくって食べる。それは当たり前のようなことであって、当たり前ではない。というか、このことばのなかには、実は、これまでだれも書かなかったことばがある。
 たぶん。
 受講生の一人が「両面焼きの場合」という一行がおもしろいと言ったが、そのおもしろさは「事実」を書いているからであり、そして「両面焼きのグリル」で焼きなすをつくることはあっても、それを詩にしたひとはいないだろう。だいたい「両面焼きグリル」そのもの自体が新しいから、だれも詩に書いていないのである。直前の「魚焼きグリルに イン」も、新しい書き方である。
 そうした「新しいことば」をていねいにつなげていけば、それだけで詩になるか。じつは、ならない。「対象」と、それを「言語」にするときの作者の「位置」、つまり「距離感」が「一定」でないと、単に「新製品の宣伝」になってしまう。
 この詩ではなすに包丁で切れ目をいれるところから、途中でなすを回転させるところまできちんと描き、その動きの中に「イン」「両面焼き」といういままで存在しなかったことばがきちんとおさめられている。どのことばも「日常で使いこなすレベル」で統一されている。この統一された「ことばの距離感(作者の立ち位置)」が詩なのである。つまり、読者は「作者の立ち位置」、作者そのものを読むのである。「焼きなす」の作り方を読むのではなく、つくっている(食べている)詩人の「人間性」を読むのである。
 さて、最後。
 食べ物の味をことばにするのは難しい。でも、ことばにしてほしい。「深い味わい」では、味が伝わらない。舌触り、歯触り、におい。やわらかさ。あまさ。「切れ目」はどうなったのか。「紫の皮」はどうしたのか。
 この作品に「セクシャリティーを感じる」と語った受講生がいたが、食べることは、たしかにセックスとも関係する。池田にそういう意図があったかどうかは関係なく、読者は、自分の好みに従って読む。その「読者の好み」をからかうように書いてみるのもおもしろいと思う。
 この講座を始めるとき、私は「嘘を書いてみよう」という言い方をしたことがある。どんな嘘も「ほんとう」を交えないと嘘にならない。焼きなすをつくる。皮に切れ目を入れる。その「ほんとう」を書いたあと、ことばをどこまで動かしていけるか。たとえば、切れ目は、どうなったのか。ことばを動かしながら、自分をどこまで変えていけるか。自然に変わっていくときは、自然に変わればいい。しかし、自然に変わらないときは「わざと」変わるのである。
 西脇順三郎は「現代詩は、わざと書くもの」と言ったが、「わざと」書いた瞬間に、なにかがうまれることもある。


 
ジ イノセント  堤隆夫

殺した側の論理が いつの間にか奇妙に腐乱した果実から
手のつけられぬ程 増大した悪性腫瘍となり 無辜の肉体を殲滅する
加害の責任を問えない
問えば 人権侵害というイノセントな良識派よ

善もない 悪もない 正義もない 恥もない
どこまで行っても泥濘のこの地よ
ああ この地はいつからこのようになったのか

この敗戦の大いなる代償が 被害者の人権が雲散霧消し
加害者の人権が跳梁跋扈する 戦後民主主義なる
日本租界の 今なのか

殺される側の論理は怒り
怒りは真実の鏡
きっちりと社会責任を問うことこそが 
この地に住む人間の尊厳 そして誇り
その静かなる規範の遵守こそが 今 一番大切なこの国の同一性

汝は何時迄 負け犬で満足しているのか
汝は何時迄 自らの責任をマジョリティーに転嫁し
一人卑怯者の不遇を装い続けるのか

無恥の砂漠で もうこれ以上 生き恥を曝さないで欲しい
なぜならば わたしはあなたを理屈ぬきに愛しているから
それは あなたに対する感愛
感愛 そうそれはわたしがあなたに抱くカナシミノココロ
不条理の森に蔓延する カナシミノココロの空気
その空気の百合の公共圏―――その連帯感のエナジーで
わたしとあなたは もう一度奮い立つ
そのことこそが愛 感愛
そして わたしとあなたとの共生の志
そして 生き続ける希望

 堤の詩の魅力は、畳みかけるリズムにある。「善もない 悪もない 正義もない 恥もない」という一行があるが「善も悪も正義も恥もない」という具合には、堤は書かない。最初のことば「善」が「悪」を引っ張りだしたのか、「善」と書く前に「悪」があらわれて「善」を誘い出しているのか。それは、わからない。そういうことを考えさせないリズムである。「どこまで行っても泥濘のこの地よ/ああ この地はいつからこのようになったのか」の二行のなかの「この地」という繰り返しについても同じことがいえる。泉から吹き出す水が、吹き上がりながら、下の水にもぐりこみ、みわけがつかなくなる。そこに「勢い」がある。この「勢い」が堤の「人間性」である。「勢い」がひとつひとつのことばを鋭角的にしているのである。
 「論理」というか「意味性」が強い詩なのだが、考えさせない。考えさせないというと誤解を与えるかもしれないが、読んだ人に考える時間を与えずに疾走する。そのスピードを借りて、「その空気の百合の公共圏」というような、異質なものが突然あらわれる。「論理」の運動を突き破って、「論理」の奥から、論理になる前のものが噴出してくる。もちろん堤には、そのことばの脈絡がわかっているのだが、読者にはわからない。しかし、それはわからなくてもいいものなのだ。ただ、読者はびっくりすればいい。いつか、興奮が静まったとき、その「突然」のもっている「意味」が明らかになるかもしれない。ならないかもしれない。それがわからなくても、このリズムが堤のことばなのだとわかれば、それでいいのだと私は感じる。
 堤の書き方は、青柳とも池田とも違うが、違っているからこそ、そこにはそれぞれの「譲れない真実」というものがある。

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Estoy Loco por España(番外篇454)Obra, Javier Messia

2024-09-01 12:48:22 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia 

Se encuentran las arenas y las olas en nuestra playa .
Cuando la luz del sol la toca, refleja oro, y cuando la sombra de la luna la toca, se vuelve azul claro.
Las arenas y las olas se separan después de tocarse, y el sol y la luna se miran para separarse.
La belleza estaba en todas partes, pero la eternidad no estaba en ninguna parte.
Como sabíamos, siempre llega el momento en que no lo estamos esperando.
¿Puse podría escribir las palabras que dijiste en tu corazón, o podría escuchar mal lo que te dije?
Estaba escribiendo un poema en mi memoria que decía: "Estabas leyendo un poema que aún no había sido escrito".

 砂と波が出合う私と君の海辺。太陽の光が触れると金色に反射し、月の影が触れると青く澄んだ。砂と波は触れ合ったまま別れ、太陽と月は別れるために見つめ合う。美しさはどこにでもあったが、永遠なんて、どこにもなかった。わかっていたことだが、時間はいつも待っていないときにやってくる。君がこころのなかで言ったことを私がことばにしたのか、私が言ったことを君が聞き間違えたのか。君はまだ書かれていない詩を読んでいた、という詩を私は記憶の中で書いていた。

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