詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)

2011-05-16 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(13)(「現代詩手帖」2011年05月号)

これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福の真理であると思う。
                                 (40ページ)

 このことばは、少し変な具合に響いてくる。私がふつうつかわない形でことばが動いている。「幸福の真理」の「真理」が重たいのである。それを、さらに「思う」ということばが追いかけている。
 そこに、和合独特の、大震災の被災者独特の何かがある。
 「これまでと同じように暮らせることだけが、私たちが求める幸福である」ということばと比較すると、和合の書こうとしている「何か」がわかる。
 和合は、幸福について考えているが、その幸福はふつうの幸福ではない。大震災のあとでは、ふつうの幸福は考えられない。「真理」を考えたい。「真理」を手に入れたい。「幸福の真理」を手に入れたい。
 「幸福の真理」とは「真実の幸福」とは違うのか。
 たぶん違う。
 「真実の(ほんとうの)幸福」ではなく、「幸福の真理」。そういうときの「真理」とは何か。和合は、これまで「意味」ということばをつかっていた。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。
                                 (38ページ)

 この「意味」に「真理」は近いと思う。「意味」とはその「事象」の「定義」である。単なる定義ではなく、定義づけるということを含んだ定義である。大震災--それをどう定義するか。定義は、いつでも、あと(事後)からしかできない。そして、その定義における「意味」とは何か。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 「そこに意味はあるか」とは「そこに(その意味に)価値はあるか」ということかもしれない。「意味(価値)」はある、と私は思う。
 いま、和合がやっていることに結びつける形で言えば、何かを定義すること--何かをことばでとらえなおすこと。それは、ことばを生き返らせることである。大震災で「沈黙」してしまったことばを、もう一度、甦らせることである。
 和合は、そういうことをしている。
 どこがことばの再生か--そのことを、私は、はっきりとは指摘できない。けれど、和合がこうしてことばを動かしているかぎり、和合のことばは死んではいない。和合はことばを死なせないということを繰り返すことで、ことばを甦らせようとしているのである。
 だから、と、いえばいいのかどうかわらかないが、そういうことは、新しい劇的なことばをつかっておこなわれるわけではない。いつもつかっていることばを組み合わせながら、そのことばを、いままでとは少し違った形で動かすことでおこなわれるのである。

幸福の真理。

 これは、先に書いたように「幸福」とだけ書いても「文章」は成り立つ。けれども、和合は「幸福の真理」と書くことで、「幸福」と「真理」にいままでとは違う何かをつけくわえようとしている。何かを「幸福の真理」ということばの組み合わせで甦らせようとしている。和合の「肉体」のなかで生まれようとしている何かを引き出そうとしている。生み出そうとしている。
 和合の書いている「幸福の真理」--このことばの「真理」は、私が書いたこと以外にも、いろいろに読むことができるだろう。その「いろいろな読み方」のなかに、何かが動く。その「いろいろな動き」そのものが、それこそ「真理」というものかもしれない。
 ことばにできない何か。ことばになろうとする何か。

幸福の真理。

 「真理」は和合には何であるかがわかっている。しかし、まだ、それを「真理」以外のことばで言いなおすことができない。--その、苦しみのようなもの、切実な渇望のようなものを、私は感じる。それは、ことばにならない。「思う」ことしかできない。「思う」ことで、なんとか、それをことばにしようとしている。和合の、その「思い」が、とても重い。ずしり、とつたわってくる。

 そして、なんと不思議なことだろう。
 幸福の真理--それは、いつもと違った暮らしではない。たとえば、突然の金持ちになるとか、突然何かができるということとは関係がない。「これまでと同じように暮らせること」。「同じ」であることが「幸福」。「幸福」だけではなく「幸福の真理」。
 和合は、ここでは「幸福」を定義しなおしているのである。「幸福」の「意味」を考え直しているのである。

本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
                                 (39ページ)

 「幸福」の見方(定義の仕方)が変わったのである。「幸福の真理」も変わったのである。変わったばかりだから、まだその「真理」をうまく「定義」しなおすことができない。「意味」を明確に語ることができない。
 --私の書いていることは、どうも、どうどうめぐりになるが、どうどうめぐりをしながら少しずつ進んでいくしかないのかもしれない。

 「幸福の真理」ということばを書いたあと、和合のことばは少し、そういう形而上学的な次元(?)から離れる。そこに、あ、不思議な「幸福の真理」を私は感じるのである。

タマネギを、たくさんいただいてきた。箱いっぱいに。近所のおじさんが作ったものをくれたのだ。しかし実はタマネギが苦手である。玄関にその箱を置いて、じっと見ている。ついこの間まで、あった、僕の毎日…。
                                 (40ページ)

 「しかし実はタマネギが苦手である」が、とてもいい。「物の見方や考え方が変わりました」と和合は書いていたのだが、変わらないもの、変われないものがあるのだ。「肉体」あるいは「本能」のようなものはかわれない。「いのち」は変われないのだ。そして、その「変わらない-変われない」ものこそ、「真理」であり、それがあるということが「幸福」なのだ。それをもちつづけるということが、きっと「幸福」なのだ。
 私は変なことを書いている--と承知しながら書いているのだが……。
 「タマネギが苦手」ということが、つい、この間まで、あった。それが「毎日」であった。「同じ・暮らし」であった。それを「苦手」という「肉体の感覚」で和合はつかみとっている。「タマネギが苦手」というのは、まあ、何とも言えないばかばかしい(?)好みの問題だが、その「無意味」なことがらが、実は大切な「幸福な真理」ではないかと私は思う。
 「タマネギが苦手」というようなことを言わず、食べるものがないならそれを食べるしかないという「現実」があっても、それでも「タマネギが苦手」と思うこころ、思う肉体。その「反応」のなかに、不思議な「幸福の真理」を私は感じる。「タマネギが苦手」という反応こそが「これまでと同じ」だからである。そういう「これまでと同じ」を肉体が抱え込んで「暮らす」こと--それこそが「私(和合)たちが求める幸福の真理」に違いない。



入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(12)

2011-05-15 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(12)(「現代詩手帖」2011年05月号)

また揺れた。とても大きな揺れ。ずっと予告されている大きな余震がいよいよなのかもしれない。階段を下まで行って、揺れながら、階段の先の扉を開けようか、どうしようか、悩んだ。放射能の雨。
                                 (40ページ)

 「悩んだ」。だれもがつかうこはである。和合は、ここではじめてつかっている。それまでもいろいろなことを「悩んだ」はずである。

家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくてはいけないのか。
                                 (39ページ)

 の「決断しなくてはいけないのか」は「悩み」そのものだろう。また「事象」「事後」「意味」についてあれこれ考えていたのも、「悩み」に含まれるだろう。こころ・意識が動き、それが「答え」のないことばになるとき、ひとは「悩んでいる」。どうしようかまよっている。わからずにいる。
 これは、ごく普通のことなのかもしれないが、和合は、そのことをていねいに書いている。こころ・意識・精神としてだけではなく、そこに「肉体」を結びつけながら、ていねいに書いている。「階段を下まで行って」という動きが、不思議と私のこころに届いてくる。まず「肉体」が動き、それを追いかけるようにして、こころ・意識・精神が動いてくる。あ、「悩み」というのは、こんなふうに「遅れて」やってくる--ということが、印象に残るのである。「悩み」が「悩み」として自覚される(反芻され、意識化される)までには、「時間」が必要だということが、印象に残る。
 次の「つぶやき」に、その「悩み」とつながることばが出てくる。

ガソリンはもう底を尽きた。水がなくなるか、食料がなくなるか、心がなくなるか。アパートは、俺しかいない。
                                 (40ページ)

 まず、ガソリンからことばが動く。ガソリン→水→食料→心。数えあげるものがなくなったとき、心が「対象」としてあらわれる。それは、それまでこころがガソリン、水、食料といっしょにあったからだ。こころは単独では存在せず、何かと結びついている。対象があって、こころがある、という「二元論」ではなく、「対象=こころ」という「一元論」が、ガソリン=こころ、水=こころ、食料=こころ、を経て、「こころ=こころ」にたどりついているのである。こころが、こころを対象とするとき、それが「悩み」になるのだ。
 前の部分で「悩んだ」と書いたから、和合は、ここでようやく「心」ということばをつかい、こころの存在を自覚している。
 38ページに、「家族の健康が心配です」という表現があり、その「心配」のなかに「心」という文字がつかわれ、そこにも「心」はあるのだが、この「心」は「家族の健康」という対象と結びついている。「家族の健康」という「対象」に「配られている」。(心を配ることが「心配」ということである。)
 そして、この「心」の存在を自覚したとき、和合が「詩の礫」を書く「理由」(書く根拠)もはっきりする。
 こころをなくさないためである。

 大震災のなかで、何をどうしていいか、わからない。何が起きたかも、実はわからない。そこから、どうやって生きていけばいいのか。「肉体」はたしかに「生きている」。ここにある。しかし、「こころ」は? こころは、何と結びついていいかわからず、うろたえている。何とも結びつくことができずに、そこに「いる」(ある)。

震災にあいました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。

 「詩の礫」のこの書き出しの「落ち着いた」は、こころがようやく結びつく対象を見つけ出した、こころを対象に結びつけながら(一体のものとして)動かすことができるようになったということだろう。「ありがとうございました」は、和合を「励まし」てくれたひとに結びつけることばなのだ。
 「ありがとう」ということばのなかで、和合は、「他者」とともに生きているのだ。
 多くの被災者たちも繰り返した、この「ありがとう」には、「励ましをありがとう」(援助をありがとう)を超えて、「あなたが(つまり、被災しなかった私たちが)、こうやっていっしょに生きていてくれてありがとう」という意味合いを含んでいるのだと思う。だから、私は震えてしまうのだ。私がこうやって生きているのは、ごく自然なことのように私は感じているが、生きてこうしてここにいるということは、何かの力によるものなのだ。そのことを、被災者の「ありがとう」から、私は感じずにはいられない。「ありがとう」と言わなければいけないのは私の方なのだ。「被災者のみなさん、生きていてくれてありがとう」と言わなければならないのは、私たちの方なのだ。それなのに、被災者から「ありがとう」と言われてしまう。

 感想が少し逆戻りしてしまった。

 「心がなくなるか」--そう書いたとき、和合は、こころをなくしてはいけないと決意している。こころをなくさないために、「詩の礫」を書こうとしたのだ。こころをなくさないために、「私は作品を修羅のように書きたいと思います」(39ページ)と書いたのだ。
 そして、そのときの「心」は、和合だけのこころではない。「ありがとうございました」ということばで、私たちとつながるこころなのである。
 私たちは、和合のことばをとおして、被災者とつながる。そのこころこそ、なくしてはならないものだろう。

だいぶ、長い横揺れだ。賭けるか、あんたが勝つか、俺が勝つか。けっ、今回はそろそろ駄目だが、次回はてめえをめちゃくちゃにしてやっぞ。
                                 (40ページ)

 「地震の揺れ(その力)」を、次は「めちゃめちゃにしてやっぞ」という強いこころ--そのこころと、私たちはつながらないといけないのだ。

 なんだか説教臭い感想になってしまったが……。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)

2011-05-14 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(11)(「現代詩手帖」2011年05月号)

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かなあ。
                                (39ページ) 

 「聞こえる」というのは不思議なことである。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 と和合が書いたとき、「聞こえる」ことのやすらぎをどんなふうに意識していたのかわからないが、こうやって「聞いてしまった声」に出会うと、やはり「聞く・聞こえる」というのはとても重要なことなのだと思う。
 ここで和合が聞いていることば「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの。」には、「意味」がない。そのこどもの声は、なぜ震災か起きたのか、震災が何を教えようとしているのかという「答え」とはまったく関係かない。また、和合たちが水を求めて並んでいることとも無関係である。つまり、あと何十分したら水が手に入るとか、あるいは水はひとりペットボトル3本分だとか--そういう「情報」をまったく含んでいない。何の「目的」ともつながらない。「無意味」である。
 そして、その「無意味」が人間を人間に戻してくれる。
 人間がどんな具合に生きているかを「教えてくれる」。震災は何を教えたいのかわからない。けれど、和合が聞いたこどものことばは「教えてくれる」。可愛らしさを。無邪気なよろこびを。お父さんといっしょに寝て、いっしょに起きる。いつもならお父さんが「起きろよ」とこどもに言うのかもしれない。けれど、その日はこどもの方が先に目を覚ました。そして、そのことがこどもにはとてうれしいできごとだったのだ。震災のなかでも、そういう「暮らし」があるのだ。「暮らし」のなかには、「声」が響きあって、その「声」を私たちは聞きあうのだ。
 そこで「聞きあう声」、その「無意味な声」(意味を必要としない声)こそが、私は「思想」だと思う。「肉体」だと思う。こういう「声」を聞きあうために、私たちは生きているのだと思う。「思想」とか「哲学」とか、いろいろなことば(声)があるが、そのことば、その声が、こどもの何気ないことば(声)の美しさ、よろこびをきちんと把握できなければ、そんなものは何にもならない。どんな「思想」「哲学」のことばよりも、和合がここで書いている「可愛らしい」にまさることばはない。
 和合は「可愛らしい顔」と書いているだが、あ、このすばやいことばの「わたり」もいいなあ。「声」(ことば)を聞いて、そのことばを「可愛い」と思う。それがそのまま「目」に伝染(?)するのだ。「耳」が可愛いと感じたことが「目」につたわり、その「目の」なかでこどもは「可愛らしい笑顔」になるのだ。「声(ことば)」を聞かなくても、こどもは可愛らしい笑顔だったかもしれないが、聞いたからこそ、「可愛らしい」が増加するのだ。
 そして、その耳→目と「肉体」を動いたことばは、自然に、和合の「肉体」の「思想」そのものを揺さぶる。きのう会ったおばあちゃん。おばあちゃんは、こどものような可愛らしい笑顔をしていたわけではないと思うのだが、こどもの可愛らしい笑顔をみて、和合はおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんは、とてもつつましやかだった。気配りをする和合に遠慮して、家まで送ろうといえば「家は近いんだ」と答えていた。そこには和合には迷惑をかけたくないという思いがある。あ、そういう「遠慮」ではなく、いまこどもが発したような無邪気なよろこび--そういうものをおばあちゃんの「声」をとおして聞きたいなあ。そういう「声」とつながりたいなあ、そういう気持ちが和合の「肉体」のなか動いているのを感じる。

 他人の(見知らぬひとの)、「暮らしの声」を聞いて、和合はやっと自分の中から響いてくる「肉体」そのものの「声」を聞き取る。それを聞こえるままに言ってみるようになる。

シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ。ノンデナイ。ノメルミコミハ、ナイ。
                                 (39ページ)

 「暮らし」が、震災後なかったわけではないだろうけれど、それは「ことば」にならなかった。「声」にならなかった。「声」は単純には出てこないのだ。ほんとうに言いたいことは、なかなか姿をあらわさないのだ。そういう「声」が動きだすまでには、時間がかかる。そして、時間だけではなく、他人と出会うこと、他人の「声」を「聞く」ということが必要なのだ。
 ことばは他人と触れ合って動いているのだ。生きていくのだ。そして、生きていくとき、ことばは「目的」だけをめざしているわけではないのだ。
 いつでも「他人」の揺さぶりに揺さぶられながら、揺さぶられることで「肉体」を思い出し、「肉体」に還り、あらためて動きはじめるのだ。

続々と避難していきます。避難所にいたから分かりますが、そちらも大変です。頑張りましょう。
                                 (40ページ)

 だれにかけたことばかわからないが、たぶん、ツィッターのだれかのことばに反応してのことなのだろう。静かな、おだやかな「対話」である。「コーヒーガ、ノミタイ」と自分の「声」を正直に出すことによって、その声をだれかが聞き止めることによって、ことばが和合ひとりで支えなくてもいいものになった--という不思議な安定感がある。何でもないことばなのだけれど、その何でもないことばになるまでが、ほんとうに大変なのだと思う。「ありがとうございました」「南相馬市を救ってください」「腹が立つ」というふうに動いてきたことばが「頑張りましょうよ」と静かに手をとりあっている。
 この「つながり」のなかで、「頑張り」と同時に「哀しみ」も手をとりあう。

避難所で二十代の若い青年が、画面を睨みつけて、泣きながら言いました。「南相馬市を見捨てないで下さい」。あなたの故郷はどんな表情をしていますか。私たちの故郷は、あまりにもゆがんだ泣き顔です。
                                 (40ページ)

 こらえてもこらえても、こらえきれないものが涙である。そして、その涙が実際にながれままでには、その「こらえてもこらえても」という不思議な時間がある。不思議な「肉体」がある。
 信じられないことがおき、ことばにならない苦しみがあり、ことばにならないから涙も流れないのだが、それが、触れ合って、「肉体」があることを確かめあって、こらえてもこらえてもこらえきれないまでになる。

 何ができるだろう。私に何ができるだろう。いまは、ただ、私は和合のことばを読んで、それを受け止めたいと思っている、としか言うことができない。



にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)

2011-05-13 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(10)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。

行方不明者は「行方不明者届け」が届けられて行方不明者になる。届けられず、行方不明者になれない行方不明者は行方不明者ではないのか。
                                 (39ページ)

 わからないこと、理不尽なこと--それを和合はていねいにことばにしている。ことばにすることで、わからないことや理不尽なことは解決するわけではないのだが、そのときそのとき、感じたことをことばにしないではいられない。
 「行方不明者」のことばのなかに「なる」ということばが出てくる。
 「行方不明者」にひとはなりたくてなるわけではないのだが、この「なる」ということばに、私は、不思議な感じがした。どう書けばいいのかわからない何かを感じた。あっ、と思った。
 「なる」というのは、変化である。
 人間は生きているとき「ある」と「なる」を行き来する。「いる」と「なる」を行き来すると言った方がいいのかもしれない。
 いま、和合は、「ここ」に「いる」。そして、ことばを「書く」。そのとき和合は「いる」を超えて、ことばを書くひとに「なる」。
 詩を書いているのだから「詩人」に「なる」と言うべきか。
 この「なる」は「行方不明者」ということばを主語にするととても悲しくてやりきれないが、ほかのことばを主語にすると、生きることに、すこし明るさが見えてくるような気がする。
 きのう書いたことばを別の形で言いなおすと、ひとは大震災に遭って哀しく「なる」、そしていま起きたことに対して怒りを感じるように「なる」(怒るように「なる」)、その怒りをうまく組織化すれば、それは力に「なる」。
 「なる」は、いや、そんな抽象的なことではないというか、もっと身近なことでもあるのだ。「なる」とは「自分」が自分でなく「なる」ということ。自分を超えること。そして、その自分を超えることというのは、同時に自分の深みを降りていくこと--ほんとうの自分に「なる」ということでもある。
 自分でなくなりながら、自分でなくなることによって、自分に「なる」。
 そういうことを、私は、ふと感じた。
 「なる」ということばをつかったあと(発見したあと)、和合が書いていることは、そして、和合が和合ではなくなり、そうすることでほんとうの和合に「なる」ということである。

スーパーに3時間並んだ。入れてもらって、みんなと奪い合うようにして品物を獲った。おばあちゃんが、勢いにのれずにしゃがみこんだ。糖尿病でめまいがしたと言った。のりまきと、白米と、ヨーグルトを取ってあげた。

 スーパーに並んでいるとき和合は和合のままで「ある」。みんなと品物を奪い合ったときも和合のままで「ある」。ところが、和合は和合のままで「ある」ことができない。自分のために品物を「獲る」ということだけに自分を集中できない。おばあちゃんに出会う。おばあちゃんはうまく品物を手に入れることができない。それを知った瞬間、和合は和合で「ある」ことをやめて、おばあちゃんのために品物を「取ってあげる」人間に「なる」。
 和合は最初からひとに気配りをする人間で「ある」。突然親切な人間に「なった」わけててはない--というひとがいると思う。たしかにそうなのだろうが、そうであったとしても、そこには変化がある。「なる」という変化がある。おばあちゃんに出会い、和合はひとに親切な人間に戻るのである。
 他人、他者は、ひとを本来のひとに戻してくれる力を持っている。和合はおばあちゃんに出会って、本来の自分に「なる」。「戻る」とはほんとうの自分に「なる」ということなのだ。
 これにつづくことば、そこに描かれいる和合の自画像は、とても静かで気持ちがいい。

放射能が降っています。静かな夜です。

 最初の方に、和合は「静か」ということばを、そういう文脈でつかっていた。私は、ふとそのことを思い出す。私が和合のことばと行為を突然「静か」だと感じたのだが、そのときの「静か」と和合が「静かな夜です」と書いたときのことばはどこかで重なるかもしれないと感じた。「静か」のなかで、沈黙のなかで、和合は多くのひとに出会っているのではないのか。多くのひとの「声にならない声」に身を寄せて、やさしい、親切な人間に「なって」いたのではないのか。
 詩は、次のようにつづいていくのだ。

おばあちゃんに尋ねた。「ご家族の方をお呼びしますか」。おばあちゃんは一人暮らしなんだ」と教えてくれた。家まで送りましょうか。「家は近いんだ」

翌朝5時に、水をもらうために並んだ。すでに長蛇の列だった。1時間ぐらい経って、みぞれが降ってきた。男の子がお父さんに笑い顔で言った。「お父さんよりも僕の方が先だったね、起きたの」。その可愛らしい顔を見て、私は思った。おばあちゃん、水、大丈夫かな。

 「私は思った」。誰でもが何かを思うのだけれど、この和合の書いている「思った」はなんと美しいのだろう。
 他者、他人を思う--そのとき、和合はほんとうの和合に「なる」。ほんとうの和合に戻ることができる。他者につながる--そのとき、ほんとうの和合に「なる」。
 そこに、ほんとうに不思議な不思議な「静かさ」がある。
 この「静か」な感じは、和合が最初に書いていた「ありがとうございました」にほんとうに似ている。私が、多くのひとの「ありがとう」のことばにふれて驚いたときの印象に似ている。
 和合をはじめ大震災の被災者が「ありがとう」というとき、和合たちはだれかとつながっている。だれかを思っている。その思いが「ありがとう」に含まれているのだと感じた。その「静かな」つながりを思うとき、胸が震える。

 そして、ここにある「会話」と、それ以前の、

この震災は何を私たちに教えたいのか。

 を比較すると、和合の「肉体」のつながりの「静かさ」が、またとても深いものに見えて着る。震災は何も語らない、何を教えたいのか語らない。そういう不気味な「静かさ」、肉体を不安にする静けさ(耳が聞こえない、という不安、震災が語ることばが聞こえないという恐ろしい静けさ)とは違った「触れ合い」のたしかさを感じる。
 見知らぬおばあちゃんを、「静かに」思いやり、ことばを交わすことができるやすらぎ。「不安」が解消するわけではないのだが、そこには、ことばが「聞こえる」やすらぎがある。



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)

2011-05-12 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(9)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

絶対安全神話はやはり、絶対ではありませんでした。大熊、広野、浪江、小高、原町。野、町、海。夜の6号線から見えた、発電所の明かり。
                                 (39ページ)

 和合の激しい怒りは「天体の精神力」に対する怒りである--と、私は、最初はそう思った。けれど、怒りというのは、そういう「抽象的」な存在に対して向けつづけるのはなかなかむずかしい。
 だから、その矛先(?)を和合は、「安全神話=原発」に向ける。
 その瞬間、少し、不思議なことが起きる。
 和合の意識が「天体の精神力」から原発に向かった瞬間、その原発とともに、なつかしい町、和合にとって親しんできた町がいっしょに浮かび上がってくるのだ。
 怒りは、そして、そのとき、和合の個人のものから、そこに書かれている町全てのものになる。
 同時に、怒りは、怒りでありながら、少し静まる。怒りは、少しなだめられる。あ、こんな言い方はよくないのかもしれないが、怒りは和合の知っている町によって吸収され、少し違ったものになる。町名を書いたとたんに、その町がいとおしくなり、「天体の精神力」のことを一瞬忘れる。
 怒りよりも、いとおしさの方が強いのだ。怒りよりも哀しみの方が強いのだ。怒りたい。怒りたくてしようがない。でも、そのこころは、なつかしい町を思うと、急に哀しくなる。
 ああ、あの町はどこへ行ってしまったのか。
 激しい怒りのあと、和合のことばはいったん静まる。
 思い出している。和合にとって親しみのある町を。それは、いま見ているのではなく、記憶の町だ。そして、いくつかの町名をことばが横切るとき、その名前のそこから「野、町、海」という名前以前のものが浮かび上がる。
 固有名詞以前のものが浮かび上がる。それぞれにつけられた町の名前、そしてその前にあった固有名詞以前の「自然」。「自然」と向き合いながら、少しずつつくりあげてきた町。その歴史が名前のなかにある。その名前をつけたひとびとの暮らしがある。
 和合は、町を思い出しながら、ひとびとの暮らしと歴史を、つまり「時間」を行き来しているのだ。往復しているのだ。
 そして、とても悲しいことに、その「時間」のなかには、当然原発も入ってくるのだ。

夜の6号線から見えた、発電所の明かり。

 「見えた」ということばが「過去」であること、「歴史」であることを語っている。かつて、その明かりは輝かしく見えたかもしれない。頼もしく見えたことがあったかもしれない。そんな記憶をも往復しながら、和合のことばは動いている。

父と母に避難を申し出ましたが、両親は故郷を離れたくないと言いました。おまえたちだけで行け、と。私は両親を選びます。

家族は先に避難しました。子どもから電話がありました。父として、決断しなくては鳴りません。

 和合の両親が故郷を離れたくない(避難したくない)のは、故郷が「歴史」だからである。両親の「時間」だからである。そこには、両親自身の「時間」を超える「時間」が、「歴史」がある。野や海が町にかわってきた「歴史」。野や海を町に変えてきた両親の、さらに両親の、そのまた両親の「時間」がある。ひとは、「歴史」を手放しては生きていけない。「歴史」を手放すことは、たぶんこころを手放すことなのだ。
 「天体の精神力」、あるいは原子力(放射能)の「力」(破壊力)と向き合うとき、こころは何もできない。防御の方法がない。方法がないのだけれど、ひとはこころを手放すことができない。
 「天体の精神力」に怒りながらも、破壊された町、取り残された町をみると、その瞬間から、いとおしさや哀しみがこみあげてきてしまう。怒りを突き破って、哀しみが溢れてしまうのだ。

ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。

 これは、和合自身のこころに対する「怒り」かもしれない。もっと怒らなければならないのに、怒り方がわからないのだ。「天体の精神力」や「原発」に対して、どうやって怒ればいいのかわからない。ことばの動かしようがない。
 だから、ことばは、とても内省的(?)になる。ことばは、ことばの中で「論理」を動かして行く。

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか。

 同じような、論理そのものを追究することばは、最初の方にもあった。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。

 和合のことば、和合の怒りは、そういう論理を潜り抜けながら、少しずつ「精神力」になっていくのかもしれない。和合は、そういうことばを通りながら「精神力」を高めようとしているのかもしれない。
 「事実」を書き、その「事実」とともにある「こころ」を書き、追いつくことのできない「天体の精神力」に怒り、追いつけないことばを哀しみ、哀しみの中で同じ暮らしを生きている人間に触れ、その人々の哀しみと怒りをともに生きて、そこからもう一度、和合自身のことばの「論理」の力を試してみる。ことばを「論理的」に動かすことで、何かをつかもうとしている。
 「答え」のためではなく、「答える」ためのことばの運動--その力を求め、和合のことばは動くのだ。

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

ところで腹が立つ。ものすごく、腹が立つ。

 それは、たしかにそうなのだが、そのことばだけでは戦えない。怒りだけでは戦えない--そのことに和合は苦悩している。「精神力」は苦悩している。
 どうすることもできない破壊、そして死にふれて、和合のこころは哀しみ、その哀しみを怒りにかえ、そしてその怒りを、いま「力」にかえることを考えている。

 そして、私は、唐突に思い出すのだが、和合は最初のことばを「ありがとうございました」とはじめていたが、この「感謝」のことばは、「力」のための「連帯」の形だったのかもしれない。哀しみを怒りに、怒りを力にかえるためには、一人ではできない。だれかいっしょに手をとりあわなければならない。その「手」のつなぎあい、連帯を感じて、和合は「ありがとう」と言ったのかもしれない。
 多くの被災者も連携こそが「力」であることを知っていて、「ありがとう」と言ったのだろう。被災者の「ありがとう」にこころが震えてしまうのは、あ、私もその連携にくわわることができるかもしれない、何かできるかもしれないと、自分の力に気がつく--自分の何かをめざめさせられるからかもしれない。

 私に、では、何ができるのか。
 いまできるのは、ただ、和合のことばをどう読んだか、を書くことだけである。だから、書きたい。書かずにはいられない。




After
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)

2011-05-11 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(8)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 人間の意思を超えて動く「天体の精神力」、そしてその「精神力」が引き起こす「事象・物事」は、「意味」を奪っていく。「大切な人」を奪っていく。その「天体の精神力」と戦い、「大切な人」と「意味」を、どうやって奪い返すか。
 (ふと、ここまで書いてきて、--私は「大切な人」「私の全て」が、また「意味」であると気づいた。「意味」は「精神力」で作り出すもの--と定義するとき、「大切な人」や「故郷」は「作り出すものではない」という声も私のなかから聞こえてくるが、そうではないかもしれない。「大切な人」や「故郷」も「精神の力」でつくりだすものなのだ。「私」を積極的に「他者」にかかわらせていくこと、かかわらせながら、そこに「大切」を結びつけるとき、人は普通の人から「大切な人」になり、ある土地が「大切な故郷」になる。)

 「意味」は、急にはつくれない。それでも、和合はことばを動かす。「精神力」ということばをつかったあとに書いていることば--それをなぜ書いたのか。そこには何が書かれているのか。
 じーっと、見つめてみる。耳をすましてみる。

私の大好きな高校の体育館が、身元不明の死体安置所になっています。隣の高校も。
                                 (39ページ)

 ここから、「天体の精神力」と向き合う「人間の精神力」を引き出すのはむずかしい。「意味」も、どうしたら引き出せるのか、私にはわからない。
 けれど、ひとつのことばに、私はこころを奪われる。

私の大好きな

 あ、「大好き」というのは「大切」ということではないだろうか。
 「あなたには大切な人がいますか」とは「あなたには大好きな人がいますか」ということなのである。あるいは「私の全て」と言えることなのである。「故郷は私の全てです」とは、「故郷は私の大切なものです」であり、また「故郷は私の大好きなところです」でもある。
 それはまた「己の全存在を賭けて」もいいと思えるもののことである。「大好き」なものに、人は自分の全てを賭ける。
 和合は、「天体の精神力」というものに向き合ったあと、もう一度「いま」「ここ」を見つめなおしている。そして、そこにある「事実」(事象)と自分の「感情」を向き合わせている。「精神力」というおおげさなものではなく、もっと「自分らしさ」そのもののようなものを向き合わせている。「精神力」は、発揮したいけれど、なかなか「精神力」にはたどりつけない--そういうむずかしさがある。
 むずかしさを承知で、それでもことばを動かす。その動き。それについて考えるとき、ひとつ思い出すことがある。
 「大好きな」に似たことばは、「大切」より以前にも書かれていた。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸」ということばがあった。「大好き」とは「気に入って」と通い合う。「大好き」「大切」「気に入る」これは、みな同じである。そして、それはみな「身近なもの」と結びつく。「天体」という手の届かないものではなく、常に手の届くもの(手の届く相手)を対象としている。
 「精神」は、目に見えないものである。「精神力」は考えはじめると、よくわからないものである。けれど、大切なもの、大好きなもの、気に入ったものは手が届く。あるいは、手に触れたものである。和合は「精神力」というものをめざしている。「意味」をめざしているけれど、そういうものにたどりつくための出発点には、手に触れるものを据えている。そこから出発しようとしている。何か、手に触れるものを大事にしながら、ことばを動かしている。「大切なもの」とは、結局、常に手に触れていたいものだからかもしれない。
 この「大好き」「大切」「気に入る」ということ、そして身近な手に触れることができるものから語りはじめる、そのものとともにある「感情」から語りはじめる--それこそ、和合の選んだ「精神」かもしれない。
 架空のものではない、手に触れることのできないものではない。そうではなくて、必ず自分が知っていて、なじんだもの、手に触れることができるものを離れずにことばを動かす。その先にしか「精神」はない、と和合は知っているだろう。

 あ、でも、ほんとうにむずかしい。

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。


私が大好きな高校の体育館が、身元不明者の死体安置所になっています。隣の高校も。

 ここには、同じことばが書かれている。同じことが書かれている。いや、同じことではないのだが、「整理」してしまうと、「同じ」になってしまうしかないことがらへと、ことばは何度も帰ってしまう。それだけ、いま起きていることは激しいことなのだが、それにしても、ことばを、先へ先へと進めていくことはとてもむずかしいのだ。
 何が起きたか、まだ誰にもわからない。
 だから、同じことを何度も何度も繰り返し書いてみる。書きながらことばが動くのを和合は粘り強く待っている。
 「精神」が動かないなら、それが動きはじめるまで、自分が目にすることができるもの、知っていることをただ書いてみる。
 ここに和合の正直がある。
 この正直は、次の部分にとてもよくあらわれている。

また地鳴りが鳴りました。今度は大きく揺れました。外に出ようと階下まで裸足で降りました。前の呟きの「身元不明…」あたりで、です。外に出ようたって、放射能が降っています。

 ただ、ありのままを書く。「精神力」が必要なことはわかっているが、「精神力」はうまいぐあいに動いてはくれないのだ。動かないものを動かす前に、わかることを書く。自分のそのままを書く。どんなことでも、書くというのはことばを動かすことである。
 そうすると、その正直な動き、正確に何かを書いたことばの動きにあわせるようにして、正直そのものが噴出してくる。

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをむちゃくちゃにしてやるぞ。

 あ、すごい。この怒りはすごい。これは「天体の精神力」に対する怒りである。
 「天体の精神力」が大震災を引き起こしている。「天体の精神力」は和合が何かを「大好き」であることが気に食わないらしい。それが、どうした。俺には大好きなものがある。大切なものがある。「己の全存在を賭け」るべきものがある。そのことを書くのだ。そして、それを書くことで「てめえ(天体の精神力)」をむちゃくちゃにしてやる。そうすることで、「天体の精神力」から「大切なもの」を奪い返してやる。
 和合は、ここで、はじめて怒っている。

 私は大震災でいちばん驚いたことを、被災者が「ありがとう」ということばをいうことだと書いた。怒りのことばではなく、まず「ありがとう」と言う。そのことはほんとうに衝撃的だった。和合も「ありがとうございました」と「詩の礫」を書きはじめていた。
 それが、ここでやっと、怒っている。
 正直に、ただ正直に、いま起きたこと、それを正確に書いたとき、その正直から怒りが噴出してきたのだ。正直が、正確が、怒りを励ましたのだ。
 「精神力」というものがあるとすれば、この正直、正確としっかりと結びついたものに違いないと私は思う。



RAINBOW
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)

2011-05-10 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(7)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「放射能の雨の中で、たった一人です。」と「一人」を意識するとき、「一人」以外が見えてくる。それは「南相馬市」であり、「故郷」であり、「家族」であった。「故郷」を和合は「私の全て」とも書いていた。
 このことを和合はまた書き直している。

あなたには大切な人がいますか。一瞬にして失われてしまうことがあるのだと…少しでも考えるなら、己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。
                                 (39ページ)

 「私の全て」を和合は「大切な」ということばで言いなおしている。言わなければならないとき、ひとは何度でも繰り返す。繰り返すだけではなく、何度も言いなおす。それはひとことでは言えないからである。ことばに「意味」があるとして、そのことばでつたえられる「意味」はかぎられている。だから、少しずつ言いなおし、同時に繰り返す。
 「故郷は私の全てです」は「故郷は私の大切なものです」ということになる。そして、いま私は「大切なもの」と書き直してみたのだが「故郷」はもちろん「もの」ではない。「故郷は私に大切な場です」と言いなおせば、少しは正確になるのか。そうでもないだろう。「故郷」とは「場=空間」でもない。それを超えている。だから、和合は言い換えてみる。

あなたには大切な人がいますか。

 「故郷」と呼ばれていたのは「場」であると同時に「大切な人」だったのだ。

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。

 ということばは、

あなたにとって「大切な人」とはどのようなものですか。私は「大切な人」を捨てません。「大切な人」は私の全てです。

 ということと、同じ「意味」なのである。そして、「大切な人」は「家族」でもある。つまり、「私(和合)」と同時に生きている人のことである。「同時に生きている人」は、「一家」を超えて、その地域全体に広がる。そのとき、「故郷」というものがもう一度ことばとしてあらわれてくる。
 ことばは言いなおされ、繰り返され、少しずつ「意味」を回復してくるのだ。和合は言い直し、繰り返すことで、ことばを回復させようとしているのだ。

 きょう読んでいる3行には、ひとつ不思議なことばがある。「世界」である。

(大切な人を)己の全存在を賭けて、世界に奪われてしまわない為の方法を考えるしかない。

 和合がこう書くとき、「世界」は「故郷」ではない。「世界」のなかに「故郷」があるが、それは「世界」とは合致しない。「地球」でもない。いままで和合がつかってきたことばで言いなおすなら、それは何になるだろうか。和合は何を言い換えて「世界」と言っているのだろうか。
 ここで書かれていることは東日本大震災であり、津波である。大震災、津波が「大切な人」を奪っていった。大震災(津波)のことを、和合は「事象」と呼んでいた。ここでいう「世界」は「事象」の言い換えなのである。
 でも、その「事象」に「大切な人」を奪われないためには何をすればいい?
 強固なビルを建てる? 強固な、そして巨大な防潮堤をつくる?
 ああ、そんなことは、いまは間に合わない。次のときのためにもちろんそうすることは重要だが、それとは違うことも和合は考えている--と私は思う。
 「事象」ということばは、こういう文脈でつかわれていた。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。

 「事象」に遅れて「意味」が生まれる。「事象」はそれまでの「意味」を根こそぎ奪っていく。大震災は、それまでのことばで考えられていた意味をたしかに奪っていった。だから、大震災を語ることばが、いまは、まだないのだ。手さぐりで、和合は、そのことばを探している。
 「物事」ということばも、もぼ「事象」と同じつかわれ方をしていた。
 「事象(物事)」はまた、「大切な人」を奪っていった。それを「奪われてしまわない為に」何をすべきか。
 あ、和合は、ことばをとてもていねいにつかいわけている。「事象・物事(大震災)」は「大切な人」を奪っていった。命を奪われた。けれど、その「大切な人」が奪われて「しまわない」為に何をすべきか。どんな方法があるが。
 言い換えると、「奪われた」大切な人を、その奪っていった「事象・物事」から、どう奪い返すか。
 「いのち」は奪い返せないかもしれない。亡くなった人を生き返らせることはできない。けれども、「意味」はどうだろうか。「意味」は奪い返せるかもしれない。

あなたに大切な人がいますか。

 これは、あなたに「大切な意味」がありますか?でもあるのだ。「大切な意味」をもっていますか? いま、起きたこと、いま起きている「事象・物事」に全ての「意味」が奪われ、どんな「意味」も見つけることができないでいる。そこから、どんな「意味」を語ることで、いま起きたことと戦うのか--どんなふうに「睨みつけ」、「私」を世界と向き合わせるのか。「大切な意味」をどうやって生み出すか--生み出すことによって、奪われた「意味」を奪い返すか。
 この答えは簡単には出ない。ただ、「考えるしかない」。
 この「考える」こと、これが「命のかけひき」そのものになる。「事象」が「命」を奪っていく。奪っていった。それを奪われたままにしておくのではなく、奪われてしまわないように、奪い返す--それを考える。
 でも、むずかしい。

 「世界」はもしかすると、「事象」を超えるものかもしれない。「世界」は人間のかかわることのできないものを含んでいるかもしれない。--と思うのは、次のことばがあるからだ。

世界は誕生と滅亡の両方を、意味とは離反した天体の精神力で支えて、やすやすと在り続けている。

 「世界」は「事象」を超えて、「事象」が起きた「宇宙(天体)」全体を指している。「天体の精神力」ということばが、そのことを語っている。「世界」は「天体の精神力で支え」られている。
 そして、ここでも「意味」「離反」ということばがつかわれている。「意味」「離反」は最初は、次のようにつかわれていた。

物事と意味には明らかな境界がある。それは離反していると言っても良いかもしれません。

 そのことばは、「世界は誕生と滅亡の……」に重ね合わせると、「世界」(事象・物事をのみこむ天体)と「大切な人・大切な意味」との間には、明らかな境界があり、「離反」している。「世界(事象・物事)」は人間とは違った「精神力」で動き、存在しつづけている。「天体」の運動はたしかに人間の運動とは違う。人間が何をしようが天体は関係なく動いている。
 ここで和合か書きたいことが、私にはよくわからないが、気にかかることがひとつある。
 ここで、和合は「精神力」ということばをつかっている。「天体の精神力」。和合は大震災を、人間の範疇、あるいは地球という範疇を超えて、宇宙のできごととしてとらえると同時に、そこに「精神力」を見ている。
 「天体の精神力」とは、しかし、何?
 わからない。
 わかるのは、いや、私がおぼろげに感じるのは、いま、人間こそ「精神力」を必要としていると和合が感じているに違いない、ということだ。
 人間の思いとは完全に乖離した「精神力」(離反した「精神力」)が「天体」を支えている。そして、それが人間から「大切な人」を奪いさっていく。それを奪いさられたままにしておくのではなく、人間の側に取り戻すには、「人間の精神力」が必要だと和合は感じている。
 「世界」が「意味」を奪いさっていくなら、その「意味」を奪い返すのもまた「精神力」なのだ。
 そして、「人間の精神力」とはどんな方法で、そこにあるということを示すことができるか。また、それはどんな方法でうごかすことができるのか。
 ことばを動かすこと。
 和合は、そう明確には書いていないが、私は、そう感じる。ことばを動かす。そのことばのなかに「人間の精神」がある。
 「意味」ではなく「精神」。
 「意味」に対して「精神(精神力)」で和合は戦おうとしている。「たった一人」で。私は、その戦いの側に立ちたい。私のことばは、まだ動かない。和合のように大震災とは向き合うことができない。だから、和合の側に立ち、和合のことばに沿う形で、私のことばが動いていけるようにしたい。
 いま、そう思っている。


地球頭脳詩篇
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)

2011-05-09 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(6)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 いままでのことばが大震災で無効になった、無意味になった。それを沈黙のなかで確認する--このことを、和合は、「頭」で感じているのではなく、「肉体」ではっきりとつかんでいる。「肉体」そのもを、ことばの無効性、無意味性、沈黙--静けさと向き合わせている。

今、これを書いている時に、また地鳴りがしました。揺れました。息を殺して、中腰になって、揺れを睨みつけてやりました。命のかけひきをしています。放射能の雨の中で、たった一人です。


息を殺して

 ここに和合の「静かさ」の「肉体」がある。息を殺すは、声を出さないというのに等しい。ことばを発しない。ことばを自分の「肉体」の内部にため込むのである。
 ことばは、ある。
 ことばは、いま、和合の「肉体」のなかに宿り、生まれようとしている。その生まれようとしているものを、大事に育てている。それが産声を上げるまで、じっと耐えている。その「静けさ」。
 和合は「静けさ」で「沈黙」と戦っている。沈黙を強いる何かと戦っている。いままでのことばを無効にした力と戦っている。その準備としての「静けさ」。
 それは、次の、

中腰になって、

 に力を込めて書き込まれている。「中腰になって」というのは、いつでも動ける準備をしてということである。それは「肉体」の命を守るための準備なのだが、それはそのまま、ことばの準備、意味の準備であり、また意志の準備である。
 意志というのは……。

揺れを睨みつけてやりました。

 この「睨む」という「肉体」の動きの中にある。「睨む」とき、意志が強く動いている。そして、「睨む」とき、ひとはことばを発しない。息を止めて(息を殺して)、ひとは「肉体」そのものになる。
 このとき、和合の選びとった「静か」を中心にして動いている力そのすべては、

命のかけひき

 そのものである。
 和合は、そのかけひきを、

放射能の雨の中で、たった一人です。

 と書いている。
 和合を「ひとり」にしてはならない。和合のことばをなんとか受け止めなければならない。
 しかし、私にできることは、和合のことばを、こうやって採録しながら、ただ寄り添うことだけである。



にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)

2011-05-08 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(5)(「現代詩手帖」2011年05月号)

私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。

このことに意味を求めるならば、それは事実を正視しようとする、その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。
                                 (38ページ)

 きょう引用した最初の2行は、いわゆる「事象」を描いている。「南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。」はニュースでいう5W1Hが書かれている。いつ=きのう、どこで=南三陸海岸に、誰が(何が)……した=1000人の遺体が(1000人が遺体となって)、流れ着いた、どのように=波に押し流されて(漂流して)、なぜ=震災による津波で犠牲になったから。--書かれていないこともあるが(私が勝手に補ったこともあるが)、それはすでにだれもが知っている「事実」だから省略されたのだ。「震災で多くの犠牲者が出た」ということは、だれもが知っているから、書き漏らしてしまうのだ。和合が知っているから、知らず知らず、省略してしまったのだ。事実を書くにしろ、自分の意見を書くにしろ、こんなふうに書き漏らしてしまうものこそ、そこに書かれていることの核心であり、思想である--というのは、私が文章を読むときの基本的な考え方である。
 そして、この「事象」に和合は、和合自身の特別な視点を書き加えている。南三陸海岸を個人的な場所として説明している。「私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた」ということばを南三陸海岸につけくわえている。
 「事象」に「個人」をかかわらせていくとき、ことばは必然的に動く。和合自身のことばが動きだす。これが次の2行になる。その最初のことば、

このことに意味を求めるならば、

 これは、とても重要である。「意味」め最初から存在するのではない。それは「求める」という行為をとおして見つけ出すもの、あるいは作り上げるものである。
 和合はこれに先立ち、

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 と書いていた。「事象」の「事後に生ずる」意味--それは、「事象」のあとで、ひとが求め、見つけ出すものなのである。
 だからこそ、問題である。
 人が死んだ。大勢の人間が死んだ。地震、津波の犠牲になった。そのことに「意味」を求めるとはどういうことなのか。なぜ、人が死んだことに対して意味を求めなければならないのか。そこに意味があっていいのか。むしろ、そこに意味がない方が、納得できるのではないだろうか。意味--というのは、しばしば「価値」と同じだからである。人が大勢死んでしまったことに「意味」などあってはならないはずである。
 そのあってはならないはずの「意味」を人間は求める。探してしまう。
 そして、和合は、次のことを発見する。

 それ(求めている「意味」)は事実を正視しようとする、その静けさに宿るものであり、

 大勢の人が死んだことに「意味」などあっていいはずがない。「意味」は事実を正視する(しっかりみつめる)、そのときの「静けさ」のなかに「宿る」ものである。自然に生まれてくるものである。生まれようとしてくるのである。
 和合は、ここでも「静か」(正確には「静けさ」)に向き合っている。
 この「静か」は、まだ、ことばが生まれてこない「静かさ」である。それはまた、いままでのことばが無効になったことを確認する「静かさ」である。「沈黙」である。それまでの、いままでの「流通言語」は、いま起きた「事象(出来事)」の前で完全に無効になった。いままでのことばでは、何も言えない。いままでのことばでは「意味」にたどりつけない、「意味」を語ることができないことを実感することである。

放射能が降っています。静かな夜です。

 和合は、「静か」ということばを、最初に、そのような文章で書いた。この「静か」は音が聞こえてこないという「物理的な現象」を超えて広がっている。ことばが、それまでのことばがすべて沈黙してしまったことを語っているのだ。その沈黙と、つまり、いままでのことばの無効と和合は向き合っている。
 そして、いままでのことばが無効であると実感したから、ことばを書きはじめたのだ。何かを語らなければならない。ことばを、死なせてはいけない……。

 和合が実感した、それまでのことばの無効性は、次のように言いなおされている。

その一時の静けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いかもしれない。

 無効性の確認--それは意味ではなく、無意味であることの確認である。いままでのことばが無効になった。それはいままでのことばの意味が否定され、無意味になったということである。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(4)

2011-05-07 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(4)(「現代詩手帖」2011年05月号)

放射能はただちに健康に異常が出る量では無いそうです。「ただちに」を裏返せば「やがけは」になるのでしょうか。家族の健康が心配です。

そうかもしれませんね。物事と意味には明らかな境界があるそれは離反していると言っても良いかもしれません。
             (38ページ、以下「現代詩手帖」2011年05月号のページ)

 ここにはいくつかのことが書かれている。ひとつは、ことばの問題。
 「もの全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょうか。」と先に和合は書いていた。「事象」と「意味」が、ここでは「物事」と「意味」ということばでとらえ直されている。「事後」と前に書かれていたことは、ここでは「境界」ということばでとらえ直されている。「事後」というとき、その「後」ということばから私は「時間」を連想した。「境界」ということばからは「空間」を連想する。「意味」は「時間」と「空間」の2種類の「間」を感じている。「間」は、ここでは「離反」ということばになっている。
 私は、これを乖離と呼んできたが、和合は、ここでははっきりと「離反」と書いている。
 「離反」。離れているだけではない。それは「反発」しあっている。いっしょになろうとはしないのだ。
 ことばは、何かを裏切っている。いま、語られていることばは何かを裏切っているという思いがあるのかもしれない。それは、言いなおすと、和合はことばに疑いをもっているということである。いま、流通していることば--それは、裏切りを隠していないか。
 「ただちに健康に異常は出ない」とは「やがては健康に異常が出る」ということを「意味」しないか。
 もし、そうであるなら、「物事」と「意味」の間に「境界」があり、「物事」と「意味」が「離反」しているだけではなく、ことばが、「意味」とも「離反」しているということになる。
 ことばの「意味」は、流通していることばをどおりではないのだ。
 「物事」が動いていくなら、ことばも動いていく。「物事」に空間があり、時間があるなら、ことばもその空間と時間を生きてみないことには、ほんとのう「意味」にはなりえない。
 ことばと意味は離反している。だから、それは動かしてみて確かめなければならない。どんなふうに動き、どんなことばとつながるか、確かめてみないと、そこにどんな「意味」がひそんでいるのかわからない。
 「意味」もきっと変化する、つまり成長するものなのだ。

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 ことばは遅れてやってくる。意味も遅れてやってくる。そして、遅れてやってくるものは、過去を引きずっており、それが動くとき過去が見える。意味は、過去といまをつなぎながら成長する。
 もし、そういう「意味」の成長に意味があるとすれば(何か注意をはらって読みとらなければならないものがあるとすれば)、それは何だろう。
 ことば、意味とともに生きている「私」そのものの変化かもしれない。
 ことばを追いながら、和合は変わっていく。

家族の健康が心配です。

 これは、だれもが口にする「当たり前」のことばである。しかし、当たり前のことばであるからといって、それが当たり前に出てくるとはかぎらない。「ただちに」が「やがては」になることを知ったとき、その動きのなかで、和合は自然に「家族のことが心配です」と思った。その「自然」が和合の変化である。
 正月の神社へのお参りで家族の健康を願うのとは違う「意味」が、ここにはある。

 それは、何が、どう違うのか。

 行きつ、戻りつしながら書くしかないのだが、正月に家族の健康を祈るとき、その祈りは「いま」と「将来」との間に「境界」を設定していない。時間はどれだけ過ぎていっても、いつまでも「いま」である。ところが、大震災、そして原発事故のあとでは、この「いま」はあすは「いま」とはまったく違った時間であるかもしれないのだ。ことばは、いつでも、その瞬間その瞬間と厳しく結びついている。
 事象、物事とことば(意味)は離反しているが、その離反は、事象・物事とことば(意味)を硬く結びつけようとするからこそ意識される離反なのだ。
 結びつけようとして、結びつけられない。結びつけるたしかなものがない。あるのは、どうすることもできない「境界」であり、「事後」の「後」ということば、意味である。そこに「心配」というものが、切実に入り込むのである。

 ああ、それにしても、と私は思う。
 こういうときでも「私の健康」ではないのだ。家族の健康なのだ。和合はまだ「私を助けてください」とは言っていない。和合は「ありがとうございました」と自分の気持ちを語ったあとは、「相馬市を救って下さい」「家族が心配です」と、自分を離れた場所で、ことばに祈りを込めている。ことばを、自分ではないもののために動かしている。




黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(3)

2011-05-06 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(3)(「現代詩手帖」2011年05月号)

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。

 これは、「事実」を書いていると同時に、こどばの「理不尽」を書いている。ことばは、それが不可能なことでも言えてしまうのだ。和合は、このことばを書きながらそのことを意識していたかどうかはわからないが、私はことばの理不尽を感じた。
 きのう読んだ部分に、

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。

 ということばがあった。これも「事象」と「ことば」の間には「ずれ(乖離)」があることを語っている。
 ことばが、いまほんとうに必要なことを語れない。語られることばは「いま」を直接語ることがない。何かの「ずれ」を含んでしまっている。そのもどかしさが、ことばの奥に動いている。
 「静か」とは、この「ずれ」のことかもしれない。
 ことばが「もの」と対応しない。
 外から帰って手を洗う水がない。顔を洗う水がない。--これは、「水」という「もの」がない、という「事実」を告げているのだけれど、それだけではないのかもしれない。ないのは、「水」ではなく、「水がない」ということを告げる「ことば」がない、ということかもしれない。
 「水がない」と言えれば「水がない」ということばが「ある」と考えるのは、必要とする「水」をいつでも手に入れることができる状況があってのことなのかもしれない。「水がない」といっても、「水が必要だ」といっても、そのことばが「水」を、いま、ここにもたらさないなら、それはことばそのものが不在だということかもしれない。
 ことばは、そのことばが「有効」であるときだけ、ことばでありうるのかもしれない。
 そう考えたとき、私は、はっとするのである。どきっとしてしまうのである。
 私は最初に、大震災の被災者が「ありがとう」ということばを口にすることに衝撃を受けたと書いた。
 それは、もしかすると、被災者が「ありがとう」ということばしか「有効」ではないと知っているからなのではないのか。直感しているからではないのか。いま、ここで起きていること--それは、どんなに語っても、「事象」(出来事)と乖離してしまう。必要なことと乖離してしまう。
 唯一、被災者の「肉体」と乖離しないことば--それが「ありがとう」だったのかもしれない。
 それは、支援する人、あるいは救助する人に対して向けられていたことばである以上に、もっとほかのものに対して発せられていたことばかもしれない。
 「ありがとう」ということばを聞いて、私は(私は直接、ありがとうと言われたわけではないのだが)、「いいえ、お礼を言いたいのは私の方です。生きていてくれてほんとうにありがとう」と言いたい気持ちになったのだが、この「生きていてくれてありがとう」は、もしかすると被災者たち自身の声にならない声だったかもしれない。自分自身に対してそう言いたい。でも、まわりには亡くなったひとたち、行方不明のひとたちがたくさんいる。自分自身に対してさえ、そのことばを言うのは、少しはばかられる。でも、助けてくれた人に対してなら「ありがとう」と言える。だれかに対して「ありがとう」と言いながら、そのことばを自分に言い聞かせていたのかもしれない。
 自分自身との、声にならない対話、静かな静かな対話だったのかもしれない。そういう要素を含んでいるのかもしれないと思うのだ。
 もっともっと言ってもらいたいと思う。誰それに対してではなく、自分自身に対して「生きていてくれてありがとう」と言ってもらいたい。私は、その「ありがとう」につながりたいと思う。生きていて、その生きていることに対する不思議な感情のそばに身を置きたいと思う。
 自分自身のいのちに対して「ありがとう」と言ったあとでしか、言えないことばがある。自分のいのちを確認したあと、はじめてひとは他人のいのちに気がつくのである。

私が暮らした南相馬市に物資が届いていないそうです。南相馬市に入りたくないという理由だそうです。南相馬市を救って下さい。

 和合は、やっと「救って下さい」ということばを書いている。私はリアルタイムでツィッターを読んでいたわけではないので「震災に遭いました」ということばを書いてから、この「救って下さい」ということばを書くまでの「時間」を知らないけれど、こうやってことばを読んでくると、この「救って下さい」があらわれるまでが、とても長く感じられる。
 「救ってください」の前に、まず「ありがとうございました」ということばがあることに、また、あらためて驚くのである。
 「震災に遭いました。助けてください。」と和合は書いてもいいのだ。いや、そんなまだるっこし言いい方ではなく「助けてください。震災に遭いました。」と「助けてください」からはじめてもいいのだ。誰だっていのちの危険を感じたときは「助けと」と叫ぶところから始める。でも、和合をはじめ、多くの人々は「ありがとうございました」からはじめ、「助けてください(救ってください)」を後回しにしている。しかも、その「助けてください」は「私を」ではないのだ。和合は「私が暮らした相馬市を」と言っている。「暮らした」と過去形なのは、和合は、いまは南相馬市に暮らしていないからだろう。南相馬市は、和合のいまの暮らしの場所ではない。いわば、他人の場所。他人を助けてくださいと言っているのだ。
 他人の場所。他人。--しかし、それは「他人の場所」でもなければ、「他人」でもない。

あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。

 南相馬市。それは「故郷」である。「故郷」とは自分が生まれ、育った場所である。そこには当然、自分と一緒にそだった人がいる。暮らしがある。「私」が存在するのは、そういう場所と、そういう人がいたからである。生きていくとき、「他人」は存在しないのだ。それは「私」なのだ。
 私は、いま、ここで、こうして生きている。ありがたいことに、生きている。だから、別の場所で、いきようと必死になっているもうひとりの「私」、もうひとりの「私たち」を助けてください。
 その「もうひとりの私たち」が「ありがとう」というまで、私はそのひとたちのそばを離れない。捨てない。
 和合は、そう語っているのだ。



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(2)

2011-05-05 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(2)(「現代詩手帖」2011年05月号) 

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

 このことばの「意味」にも、私は驚いてしまった。ことばとは、たしかに「意味」なのだ。私が「ありがとう」に驚いたのは、その「意味」が感謝を越えているからだ。「ありがとう」の意味は「感謝」である。感謝の気持ちをつたえるのが「ありがとう」である。しかし、私が聞き取るのは「感謝の気持ち」ではない。「感謝の気持ち」以上の何かである。その「何か」が、私にはわからない。だから、驚く。衝撃で立ち止まる。「文字」は「ありがとう」と読むことができる。その「音」を知っている。しかし、こんなときに、そのことばを聞くということを予想していなかったのだ。私は予想していなかったことばを聞いたとき、「意味」がわからないのだ。わかるのは知っていることばだけなのだ。
 大震災以後、それまでとはまったく違ったことばが動きはじめている。そのことを私は「ありがとう」から実感した。実感をしたけれど、まだ、「意味」はわからない。
 大震災の被災者が「助けてくれ」「馬鹿野郎」「おれは怒っている」というのなら、「意味」がわかるような気がする。けれど「ありがとう」はわからない。
 大震災に遭い、それでもなおかつ「ありがとう」という。そこには、どんな「意味」があるのだろうか。それまで私たちがつかってきた「ありがとう」と、「意味」のうえで、どんなふうに違っているのか……。

 そしてまた、こんなことも考える。
 和合は、いま「意味」について考えている。大震災に「意味」はあるのか。これは、また、不思議なことである。
 ひとは、どう生きるか、これからどうしようかということだけを考えるのではないのだ。ことばは、これから先へ向かっていくときの人間の行動を支えるだけではないのだ。和合の被災の瞬間の状況を私は知らないが、たぶん身を守ることをまず考えたと思う。逃げる。いのちを助けるということを考えたと思う。無我夢中の、その時間をすぎて、いま、和合は「意味」を考えている。

ものみな全ての事象における意味など、その事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

 「意味」はたしかに「事後」(あとから)生まれるものかもしれない。つまり、あとから付け足すものかもしれない。それは、ことばととても似ている。何かが起きたとき、ことばは置き去りにされる。ことばよりも先に守らなければならないものがあるからだ。そして、その守らなければならないもの、いのちを守り通したあと、ことばがやってくる。それは自分の外からなのか、自分のなかならなのか。わからない。けれど、阪神大震災を体験した季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いたように、あらゆることが「遅れて」あらわれる。いま、和合には、「意味」ということばが「遅れて」やってきた。
 「全ての事象」(季村が「出来事」と呼んだものと同じだと思う)と、それを語ることば、それのもっている「意味」の間には「時差」(遅れ、あるいは乖離)がある。人間は、どうしても「遅れて」しまう。出来事のスピードにおいついていけない。ことばは、「遅れ」ながら手さぐりをして進む。
 そして、いま、和合は「意味」ということばと出会っている。向き合っている。
 「事象」と「意味」に時差がある。「意味」が「遅れ」てくるなら、その「遅れ」の「意味」とは何かと問いかけている。
 それは、もしかすると「事象」と「意味」との「乖離」そのものを問題にしているということかもしれない。「事象」というのは目の前にある。「もの」とともにある。「意味」はどこに? 「目の前」の「もの」にではなく、「私」のなかにあるのかもしれない。あるいは、「もの」と「私」の「間」にあるのかもしれない。これも、はっきりとは言えない。わからない。
 「意味」がわからない--を和合は言いなおしている。ことばを動かして、別のことばで追い直してみている。

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればいいのか。

 「意味」のわからないものを、和合は「何」と呼んでいる。「それ、何?」というとき、ひとは「もの」について尋ねているのだが、また同時に「意味」も問いかけているのだ。その「もの」はどういう「意味」を持っているのか、と。
 「もの」(あるいは出来事、事象)と「意味」が分離・乖離しているとき、私たちはどうしていいかわからない。「私」をどのように動かしていいのかわからない。ことばがうまく動かないように、「私」そのものが動かない。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 わからなくなったとき、ひとはどうするのだろう。和合は、知っていることばを繰り返している。すぐ前に「放射能が降っています。静かな夜です。」と和合は書いている。知っていることばに頼って、もう一度「私」というものを確かめ、そこから出発し直そうとしている。
 ひとは、そうやって何度でも同じ場所から出発し直す。立ち上がる。そのために、ことばがあるのかもしれない。
 そして、立ち上がるたびに、ことばは少しずつかわりもする。
 最初は、

放射能が降っています。静かな夜です。

 だった。しかし、繰り返したとき、

放射能が降っています。静かな静かな夜です。

 にかわっている。「静かな」が2回繰り返されている。「静かな」と1回書くだけでは足りないのだ。「静か」のなかに、さらに「静か」がある。和合は「静か」に気がついた。そして、次に「静か」を聞いている。耳を澄ましている。「静か」のなかに「肉体」を動かして行っている。
 そして、そこには、

この震災は何を私たちに教えたいのか。

 に呼応するもの、呼びかけあうものがある。「何を教えたいのか」--その声が聞こえない、その静けさ。
 物理的な物音だけではなく、ある事件が、できごとが(事象が)、人間に語るはずのものがある。それが「聞こえない」。その「静けさ」。そのことを和合は「肉体」として感じている。


 一方に、何かわけのわからない「意味」があり、他方に、「肉体」がある。「肉体」の動きがある。「静かな静かな」と繰り返されたことばのなかに、私は和合の「肉体」を感じた。和合が「肉体」を感じはじめているのを感じた。
 何を信じればいいか。
 きっと、「肉体」なのだ。「静かな」に気づき、その「静かな」を確かめようと耳をすまし、その「静かな」のなかに隠れている「音」を聞こうとする力。
 その力の方向に、私もついていきたいと思う。





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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」

2011-05-05 23:00:00 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(「現代詩手帖」2011年05月号)  

 和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」はツィッターで発表されたものである。私もツィッターに登録しているが、ツィッターでは和合の詩を読んでいなかった。目の状態が悪く、パソコンモニターで文字を読むのは苦手だからである。
 その最初の書き込み。

震災に遭いました。避難所に居ましたが、落ち着いたので、仕事をするために戻りました。みなさんにいろいろとご心配をおかけいたしました。励ましをありがとうございました。

 被災者のひとのことばについて1、2回書いたことがある。そのとき驚いたのと同じ衝撃を、和合のことばからも感じた。

励ましをありがとうございました。

 なぜ、ありがとうなのだろう。被災して苦労している。和合の家族のことはよくわからないが、被災者のなかには家族を失ったひともいるだろう。そういうひとも、まず「ありがとう」という。そのことばに、私は震えてしまう。
 私は直接「ありがとう」と言われた人間ではないのだが、間接的に聞いても、驚く。実際に、面と向かって「ありがとう(ありがとうございました)」と言われたら、私はどうしていいかわからなくなりそうである。
 何もできない。どんなことばを語ればいいのかもわからない。いま、ここで、私は平穏に生きている。無事に生きている私こそが、みなさん、生きていてくれてありがとうございました、と言わなければならないのに、逆に「ありがとう」ということばを聞いてしまう。
 これはいったい、どういうことなのだろう。

 わからない。

 わからないことが、たしかに起きているのだ。そして、そのわからないことを、なんとかしてことばにしようとしている。そして、その最初のことばが、和合の場合、「ありがとうございました」なのだ。
 そのことば、「ありがとう」は和合にとっては何回も言ったことばかもしれない。大震災に遭う前にも何度も口にしていることばであると思う。だれもが、しばしば口にすることばである。おそらく「ありがとう」ということばを言ったことのないひとはいないだろう。
 --あ、何を書きたいかというと、最初に出てくることばは、きっとそういうものなのだ、と私は思う。
 何かとんでもないことが起きたとき、私たちはすぐには、そのとんでもないことに向き合うためのことばを言うことができない。知っていることしか言えない。とんでもないことは、私たちの知らないことである。だから、それはことばにはならなず、まず、知っていることばを口にして語りはじめるしかないのである。
 そのとき、いったい、どんなことばを選ぶか。「ばかやろう」「おれはおまえを許さないぞ」ではなく、和合は「ありがとうございました」を選んでいる。多くのひとも同じように「ありがとう」を選んでいる。それはもしかすると、「ありがとうございました」ということばに選ばれているということかもしれない。もう、そういうときは、ことばを選ぶということはできない。きっとできない。ことばの方が人間に近付いてきて、人間の口を借りて動いていくのだ。「ありがとうございました」ということばは、和合を選んで、いま、ここで動きはじめたのだ。
 そして、そのだれもが知っていることばでありながら、それが実際に動きはじめるまでに、和合の場合、6日間かかっている。
 先の文章につづいて、

本日で被災6日目になります。物の見方や考え方が変わりました。

 「物の見方や考え方が変わ」る、変わった--だからといって、それがすぐ、ことばになるわけではないのだ。変わってから、実際に動きはじめるまでに6日間かかっている。このことは、とても重要だと思う。すぐにはことばは動かない。そして動きはじめても、すぐには「物の見方や考え方が変わ」ったはずの、そのことを語れない。
 知っていることばで、「ありがとうございました」から始めてしまう。
 いや、その同じようにしか見えない「ありがとうございました」こそ、一番変わった何かを明らかにすることばかもしれないけれど、どこがいままでの「ありがとうございました」と違うのか、これだけではよくわからない。
 わからないけれど、やっぱり変わっているのだと思う。私は確信している。何度も何度も新聞で同じような「ありがとう」を読んだけれど、そのたびに、私は泣いてしまう。知らないひとの、知らないひとへ向けた「ありがとう」なのに、胸が震えて苦しくなるのである。
 「ありがとう(ありがとうございました)」ということばの中にある力--それを、和合のことばを読むことで知りたいと思う。切実に、知りたいと思う。
 和合のことばは、猛烈なスピードで書かれている。私は、そのことばをできるかぎり、ゆっくりと読んでいきたいと思う。
 きょうは、もう少し、書いてみる。

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。

放射能が降っています。静かな夜です。

 私たちは、ことばを知っているようで知らない。そして、ことばを知らないから、とても不思議なことが起きる。
 たとえば、和合が書いている「静かな夜」の「静か」。これはどいういう「意味」になるのだろう。音がない、ということだろうか。たしかに大震災で人間の活動がとまっているから、音は少ないかもしれない。けれど、その「静か」は、たとえば学校が休み、工場が休みというときの「静か」とは完全に違っている。違っているにもかかわらず、そこに「静か」ということばがやってきてしまう。
 ほんとうは「静か」ではありえないだろう。被災者たちは、物音のかわりに、自分の感情(物思い)と向き合っている。そこでは、何かが激しく動いていると思う。けれど、どんなに動いても、やはり「静か」なのだ。ことばがないのだ。声がないのだ。ことばにならない。声にならない--その苦しいような「静か」が、ここでは書かれているのだ。
 「ありがとう」には、この「静か」と同じ何かが動いている。ほんとうに語りたいことはほかにある。けれど、それはまだことばにならない。声にならない。何かが強い力で、ことばを、声を押さえつけているのだ。




入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)

-0001-11-30 00:00:00 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 03月23日の「詩の礫」。余震が続いている。

たくさんの馬の背に 青空 たくさんの馬の背に
                                 (57ページ)

 和合は、余震(地震)と馬のイメージを持ちつづけている。大地の底の馬。その疾走。それが大地だけに終わらず、「青空」と対比されている。

余震。何億もの馬。空に駆けあがろうとしているのだろうか。息を殺して、現在を黙らせるしかない。
                                 (57ページ)

 この、地底の馬と青空の結びつきのあとに、突然「息を殺して、現在を黙らせるしかない」が突然やってくる。
 「しー。余震だ」(40ページ)ということばをふいに思い出す。
 息を殺して、余震を受け止める。そのとき、和合は何かを聞こうとしていた。聞こえない「声」を聞こうとしていた。私は、そんなふうにして和合のことばを読んできた。
 また、和合が地震に対して「けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ」と書いてきたこともはっきり覚えている。
 ふたつのことばを連続させて考えるなら、余震から何かを聞き取り(それは余震そのものではなく、和合の生きている様々な現実を含むだろうけれど)、余震を超えることばを書く、ことばによって大震災を乗り越えるという決意ということになるだろう。
 それはいまもかわらない。
 
余震。茶碗を洗っている。息を殺して、現在を洗いつくすしかない。

余震。原稿用紙に文字を埋める。また余震。埋め尽くすしかないのだ、震える現在を。
                                 (57ページ)

 「現在」を書くことが「余震」を乗り越えることなのだ。
 でも、「息を殺して」は何だろう。息をひそめる、息を止める--それは、「しーっ」につながるけれど(私のなかでは、つながるけれど)、よくわからない。
 わからないまま、読み進むと、次のことばに出会う。

余震。揺れている。私が揺れているのかもしれない。揺れている私が揺れている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている私を揺すぶる。
                                 (57ページ)

 大地ではなく、「私が揺れているのかもしれない」。
 大地が揺れているのではなく、「私が揺れている」というのは間違いである。間違いであるけれど、ことばは、そう考えることができる。人間は、そう考えることができる。混乱・動揺。「かもしれない」がそれを増幅する。疑惑。
 これは、人間の精神の運動である。そして、これもまた「現在」のひとつのあり方である。人間のあり方であり、ことばのあり方である。
 和合はそういうことを意識しているのかどうかわからないが、私の「現在」をそんなふうに描いている。
 その、「動揺する私」という「現在」を、和合は「息を殺して」黙らせようとしているのか。--これは、何だか、ややこしい。「動揺する私」という「現在」はことばにするとき、「黙る」とは逆の運動になる。
 和合はきっと、和合自身にもわからないことばの領域を動いているのだ。
 ここには、ことばになりきれない何かがある。
 「私が揺れているのかもしれない」以後のことばは、「精神(こころ)」のことであると読むのは簡単だが、精神だけではないかもしれない。「肉体」も含んでいるかもしれない。実際に、和合は彼自身の肉体を揺さぶりながら、何かをつかもうとしている。
 その揺さぶりの中には、ここには引用しなかったが、余震のたびにパソコンをもって二階から一階へ降りるというような運動もある。和合の「揺れる」には、左右上下の「揺れ」だけではなく、もっと大きな「移動」が含まれている。「段震災」の「揺れ」のあとでは、「揺れない起点」の設定(仮説)のありようが違ってくる。--これは、しかし、やはり「説明」が難しい。ややこしい。私は、そんなふうに感じている、というしかないことがらである。

 和合は、和合自身にもわからないことばの領域を動いている。(誰にもわからない領域かもしれない--つまり、ほんとうの「詩」の生まれてくる領域かもしれない。そうに違いない、と私は信じている。)

 途中、買い出しに行き、トマトを買う。そして、「熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。」(58ページ)というような美しいことばをはさみながら(そういう「現在」をことばで埋めつくしながら)、和合のことばはまた別の次元へと達する。

余震。揺れていない。私が揺れていないのかもしれない。揺れていない私が揺れていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない私を。
                                 (59ページ)

 57ページに書かれていたことばとはまったく逆になっている。書くことで、和合は和合が揺れていないことを確認したのだ。(そういう意味で、省略された「引用部分」というか、引用してこなかった部分の方が重要なのかもしれないが……。)書く、ことばを動かす--そのとき、和合はたしかにそこに存在する。そして、そのことばがたとえば「涙を流すトマト」と結びつき、あるいは防護服なしで献身的に働く南相馬市の職員と結びつき、無念の思いで牛乳を棄てる酪農家と結びつくとき--和合のことばはさらに揺らぎないものになる。「大震災」に対する怒りはさらに明確になる。--つまり、揺らがないことになる。 
 この強い確信。
 けれど、その確信の一方で、和合は不思議なことも感じるのだ。

詩よ。お前をつむごうとはすると余震の気配がする。お前は地を揺すぶる悪魔と、もしかすると約束を交わしているのか。激しく憤り、口から涎を垂れ流し、すこぶる恐ろしい形相で睨んでいるのだな、原稿用紙の上に首を出し、舌なめずりする悪魔め。
                                 (59ページ)

 和合が書いていることばが「余震」を呼んでいる。誘っている、と感じてしまう。ことばは、書くと現実になる--そのことばの力が、和合のことばにもあるかもしれない。そういうことを感じている。もし、そうなら和合のしていることは、してはいけないことである。それこそ「しーっ」「息を殺して」ただ黙っているしかない。
 書くことは、禍をまねく。ことばは、ことばが語る禍をひきよせる。
 和合のしていることは、「矛盾」そのものになる。「余震」に打ち勝とうとして、「余震」を呼び込むことになる。
 この「矛盾」を和合は、どう超えるか。

詩よ。筆で書き殴る度に余震の気配が濃くなる。決着をつけなくてはなるまい。これから先、俺の筆を少しでも邪魔しないようにな。いくら地を動かそうとも、俺の握力は詩を掴んで離さぬぞ。少し顔を出したら、のど元をかみ切ってやるぞ、悪魔め。
                                 (59ページ)

 禍を呼び込む悪魔としてのことば。それと戦いながら、それを上回ることばを書いていく。そう和合は誓うのだ。もう、和合は「揺らがない」。悪魔には魂を売ることはしない。負けはしない。

詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
                                 (60ページ)

 「詩を書く」その決意を書きつづけると、実際に詩がやってくる。「揺れる/揺れない」ということばの間を動き回っていたことが遠い昔のように感じられる。そういう美しいことばが、和合の一日の終わりにやってくる。

わたしは 何を待っているか四月の波打ち際で波の到来を想う
風の音をずっと聞いていると

わたしの情熱があんなふうに 湧きあがる 春の雲が立ちあがっているのが分かる水平線の上あたり風の音を味わう

風の音 少し弱めに風の音 少し強めに今日はあなたに わたしの心を伝えたいと想う風の音 かすかに

風の音 やさしく風の音 変わって風の音 もっと強くあなたをいつも想っていますよ

あなた 大切なあなた
                                 (60ページ)


地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社



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