詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(2)

2022-06-01 09:34:36 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(2)(2022年05月29日、日本の詩祭座談会)

 「ことばの肉体」についての補足。
 秋亜綺羅は、私の詩の読み方は、作者に寄り添いすぎている、というようなことを言った。
 でも、「ことばを読む」というのは「ことばの肉体を読む」ということ。どうしたって、深入りする。ある意味で、セックスになると書くと、書きすぎだから、ここはちょっと控えておいて、きのうのつづき。
 「肉体」の場合。たとえば、道でだれかがうずくまっている。腹を抱えてうずくまって、うめいていれば「腹が痛いんだ」と思う。座り込んで(あぐらをかいて)左手を抱えてうめいていれば、転んで左手を骨折でもしたんだろうか、と思う。片足で立って(右足を地面につけないようにして)、うめいていれば、右足をどうかしたんだろうと思う。これは「自分の肉体」と「他人の肉体」を重ねることで感じることだ。まったく他人の、離れたところにある「肉体」なのに、その「痛み」を感じる。
 こういうことって、「ことば」を読むときに起きない?
 「ことば」にも手もあれば足もあるし、目もあればきっと内臓や骨だってあるに違いないと思う。その「ことば」の動きが、「私のことばの動き」を刺戟してくる。私のことばも同じことを体験したことがある(私には、それをことばにはすることかできなかったけれど)と思う。そして、これがわたしのことばが求めていたことばだと思う。いま、わたしのことばの肉体は、その動き方を覚え、それを自分のものにしようとしていると感じる。また、この部分は、どうしても動かすことができずに苦しんでいる、と思う。それもまた、「ことばの肉体の動き方」なのだ。あれっ、これって、妙に気持ちがいい、と思うこともある。あ、「ことば」はこんなふうな動きができるのか、という感じ。ここに、私の「ことばの肉体の快感」が隠れていたのか。(たとえば、「鉄腕アトム」の「ららら」だね。)あるいは逆に、これはおかしいな。この「動き方」はおかしいなあ、とか。

 私はあるとき、25メートルしか泳げないという友人にクロールとクイックターンを教えたことがある。友人の動きを見ながら、腕の伸ばし方、水をかくときの力の入れ方、他の部分の筋肉のゆるめ方。そういうことを少しずつ、私の知っている知っている形にととのえていく。そうして2000メートルを一緒に泳げるまでになった。私のできるところまでなら、相手に教えることができる、と思った。
 たぶん詩を読むとき(ことばを読むとき)、同じように感じるのだ。あ、これは私の知らない動きだ。この動きを追いかけていけば、きっと違う世界にたどりつける、という感じ。私のことばももっと自由に動き回れるという感じ。あるいは逆に、こんな動きをしていたらつまずき、倒れ、怪我をするだけと感じることも。(もちろん、つまずく、というのもとても大切な動きだとは思うけれどね。)
 で。
 「肉体」というのは、「意味」ではなく、あくまでも「動き」なのだ。「動き」をつかむときに、私は「肉体」ということばをつかうのだ。
 もちろん、「運動の肉体」を例にとっても、見てて、あ、そうか、とわかっても絶対に自分にできない動きというのもある。フェルプスを見ても、とても参考にならない。自分には絶対にできないからだ。
 そういうふうに、「ことば」でも、うわーぁ、すごい。とてもまねできない。参考にならない。生まれたときから人生をやりなおさないと(生まれ変わらないと)、こんな「ことば」の使い方はできない、と思うことがある。

 「ことば」の場合は、その「動き」は、なんといえばいいのか、「構文」だけではない。「音」や「リズム」がともなう。
 その音楽について。
 座談会の途中で、谷川俊太郎からどんな音楽が好きかと質問があり、私はとまどった。杉本真維子は「以前は音楽を聞きながら詩を書いたが、いまは書くときは音楽を聞かない。昔聞いていたのは……」と、私の知らないグループ(?)の名前を言った。秋も、まあ、今に通じるだれそれの名前を言った。吉田拓郎の「人間なんてララララ」という話も途中で出た。私は、「音楽」は「声」につながるので、美空ひばりが好きと答えた。ついでに、松任谷由実や中島みゆきは曲は美しいが「声」が嫌いなので、ぞっとする、と言った。どうにも我慢ができない「声」なのである。そういうことは美空ひばりにもあって(このことは、会場では言わなかった)、「津軽のふるさと」という曲は少女時代の「声」がすばらしい。晩年(?)になってからの「声」は、どうも曲にあっていない。歌い方が曲にあっていない、と私は音痴のくせして、生意気にもそう思う。
 詩を読んでいるときも、これはいい詩なのかもしれない。でも、どうにも「声」が気に食わないと思うことがある。「意味」はわからないではない。でも、その「意味」を追いかけ続ける気持ちになれない。「音」が嫌いなのだ。
 「ことばの音楽」について話が広がったとき、谷川は「調べ」を大切にしているといった。この「調べ」というのは「旋律」のことかもしれないが、私には「和音」と言っているように聞こえる。リズムも旋律も、それが単独であるときよりも、別のものが重なってくるときに、突然おもしろくなることがある。いままで存在しなかった何かがふいに生まれてくる。その驚き。
 これは谷川が、少女のことば、赤ん坊のことば、中年の男のことばと、いろいろな「ことば」を詩の中で繰り広げることと関係しているかもしれない。それで展開されているのは旋律、リズムというよりも、谷川と他人との「共同作業」、つまり「和音づくり」なのだ。ハーモニーなのだ。
 私は「音楽」のない世界で育ってきたからなのか、この「和音」の感覚が持てない。どうしても単独の「自己主張」になってしまう。「ひとりの声」の、その「声」にのみ耳を傾けてしまう。
 多くの人も、たぶん「ひとりの声」を張り上げる。その強さ、美しさを主張する。谷川ももちろん彼自身の「声」を聞かせるが、同時に、他人の「声」を生かす工夫をしている。
 私が大好きな「父の死」は、言ってみれば「交響曲」である。様々な楽器(人物)がそれぞれの音/声を出し、それが調和して、世界を広げていく。「先生死んじゃった」という男の生々しい声が詩の中でとても調和しているのは、谷川が人間の「声」の「和音」に精通しているからだろう。

 この印象は、座談会のときよりも、谷川の家で話したときの方が、いっそう鮮明に迫ってきた。
 私たちの話を聞き、それを受け止めて、それから静かに反応し始める。それは「和音」を探して語っているような感じでもある。私はわがままな性格だから、そういうときどうしても「和音」ではなく、単独の谷川の「声」を聞きたくなり、話しているテーマから脱線して、別なことを語ってしまうのだが、どんなに脱線しても、すーっと「和音」の世界になってしまう。
 こういうことができるのは、やはり耳がいいからだと思う。他人の声と自分の声を聞き分け、それを「調べ」に変えていくことができる。
 たしかに、どんな「音」にもそれにあった「和音」があるだろうと思う。どんな色にも、それにあった色の組み合わせがあるように。決まりきった「定型/パターン」ではない、新しい組み合わせがあるだろうと思う。
 「和音の誕生」に向き合う、という気持ちで谷川の詩を読むといいのかもしれない。

 私はテレビを見ないので知らないのだが、秋が谷川の絵本「ぼく」を話題にした。谷川の詩に、だれかが絵をつけて、絵本にした。「ことばだけでは伝えられないのも、絵だけでは伝えられないものが絵本では実現できる」。それはいま書いたことばで言い直せば、谷川のことばと誰かの絵の「和音」なのだ。絵があるので「和音」という言い方は的確ではないかもしれないが、違うものが出会うことで、その瞬間に生まれてくる新しい存在。谷川が言う「調べ」には、そういう要素(そういう新しい「肉体」)が含まれていると思う。
 

コメント
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