詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベルリンの壁崩壊はいつだったか(2)

2022-06-03 10:30:10 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻後、しきりに「台湾有事」が話題になっているが、このテーマは、世界で起きていること(市民が抱えている問題)とアメリカの世界戦略の「違い(ずれ)」を明らかにしている。
 ベルリンの壁崩壊後、世界で起きたことは「民族の自立/文化の多様性」への動きである。「ソ連」という「頭で作り上げた国家」が拘束力をなくした後(理念をなくした後)、「国家」から解放された市民(民族)が本来の「国」を意識し、動き始めたのだ。「東欧」での様々な国の「独立」は「ソ連」という「国家意識」の解体と同時に起きたのだ。「ワルシャワ条約機構」とは「ソ連という国家意識の延長(拡大)」だったのである。
 「民族/文化の自立」を中国に当てはめると。
 「台湾」ではなく、たとえば「新疆ウイグル自治区」こそが「焦点」である。少数民族に対する弾圧が問題になっている。この弾圧からの開放は「少数民族」が「独立」することで解決する。ユーゴスラビアからのいくつもの国の「独立」のように。
 しかし、アメリカ資本主義(軍国主義)は、この問題では中国の「国家戦略/人権弾圧」を批判こそすれ、「新疆ウイグル自治区有事」とは決して言わない。なぜか。それは「地理学」と関係している。「新疆ウイグル自治区」は大陸の内部にあり、アメリカは「新疆ウイグル自治区」との「接点(国境)」を持ち得ないからである。「台湾」は違う。太平洋を通じてつながっている。日本も近い。いつでも「台湾」を拠点(基地)にして中国へ攻撃をしかけることができる。「新疆ウイグル自治区」をアメリカの基地にするのは、とてもむずかしい。軍備の補強が「空路」にかぎられてしまう。いわゆる「制空権」は中国が支配している。アメリカが支配することはむずかしい。
 アメリカの世界戦略は、「土地」と関係しているが、「個人の理想(思想)」とは関係がない。「民族の自立」とは関係がない。「文化」とは関係がないのだ。
 台湾と中国の間には、たとえば中国と「新疆ウイグル自治区」との間にある「文化的対立」はない。「民族的対立」はない。厳密にいえば違うだろうが、漢字文化を生きている。中国語を生きている。つまり、同じ民族なのだ。この同じ民族を対立させるとしたら、それは「イデオロギー」であって、そういうものは「文化の自立/民族の自立」とは関係がない。「イデオロギー」が解体すれば、一瞬にして「和解」してしまう。この好例を、私たちは「東西ドイツの統一」を通して知っている。東ドイツ出身のメルケルが首相になるくらいである。「ことば」が同じなら、「民族」はあっと言う間に融合する。
 この逆が、東ヨーロッパで起きたいくつもの国の「独立」。「ことば/民族」が「国家意識」が解体した瞬間に、あっと言う間にそれぞれのアイデンティティーにしたがって、分離・独立したのだ。
 朝鮮半島の南北対立も、「国家意識」(政治体制)が解体すれば(どちらの、とは言わない)、民族はあっと言う間に融合するだろう。「国語/民族/文化」が同じなのに、それが「国家」にわかれてしまうのは、生きている市民のせいではなく、「政治体制」にしがみつく権力者のせいなのである。権力者が「自己保身」に固執する限り「分断国家」の悲劇は起きるのだ。

 ここからもうひとつの問題が生まれてくる。ヨーロッパ(特に、いわゆる西欧)は、いろいろな国からの「移民」を受け入れている。その結果として、「国家」は「多重文化化(文化の多様性)」へ向かって動く。そのとき、この「文化の多様性」に対する不満が、昔からそこに住んでいた市民の間から生まれる。「文化の多様性」を「自分の文化への侵害/自分の生きる権利への侵害」と受け止める市民が出てくる。いわゆる「極右」の運動というのは、それに通じる。フランス大統領選でマクロンが苦戦し、ルペンが票を伸ばしたのも、これに関係する。ロシアのウクライナ侵攻によって「物価高」が進んだことも要因だが、背後には、「民族/文化」の問題がある。これは、イギリスではEUからの脱退という形で起きた。背後にはじわじわと進む「文化の多様化」に対する不満があると思う。「文化の多様化(多民族の移住)」によって、昔からそこに生きてきた市民が圧迫を感じ始めている。
 この「圧迫」からの開放は、NATOの拡大によって解消されるということは絶対にない。NATOはロシアを(あるいは、このあと中国を)仮想敵国として浮かび上がらせることで、NATOを「国家理念」にしようとしているだけだ。「仮想敵国」がなくなれば、いや「敵国」というものがなくなれば「軍事同盟」など意味が持たない。軍事によって「国家」を維持するということは意味を持たない。敵が侵攻して来ないからだ。
 そのとき、つまり「敵(国家)」が消え、NATOがワルシャワ条約機構のように解体したとき、それまでNATOという「理念」で支配されていた多くの民族が、もう一度、「独立」するだろう。いろいろな国から移住してきた「民族」が「団結」し、ある地域に終結し、「独立」を求めるということが起きるかもしれない。

 文化の多様性、個人の尊厳の重視、という視点からアメリカの世界戦略(NATOを中心とした軍事資本主義)を見直さない限り、世界に平和は来ない。NATOのもたらす見かけの「平和」は軍事産業をもうけさせるだけのものである。アメリカはいま、ウクライナに武器を大量に与え、戦争を長引かせようとしている。つまり、アメリカ軍需産業の利益が増え続けるようにしている。ロシアが撤退した後、アメリカの「資本主義」がウクライナを支配するだろう。農産物の生産システムをアメリカ資本がのっとってしまうだろう。より合理的なシステムをつくり、ウクライナ人を労働者としてこきつかい、搾取をはじめるだろう。そのとき、多くの市民は、アメリカの資本主義とは何かを知るのだ。ヨーロッパをアメリカの「植民地化」する実験がウクライナでおこなわれたことを知るのだ。戦争が終わっても小麦の値段は下がらない、ひまわり油の値段も下がらない。アメリカの言うがままの価格で、すべての商品が世界を支配する。ものが世界を支配するのではなく、アメリカの設定した「価格」が世界を支配する。
 これを最初に批判するのは、だれだろうか。岸田(安倍)では絶対にない。マクロンでも、ショルツでもないなあ。

 

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