ベルリンの壁崩壊はいつだったか
ベルリンの壁崩壊は、いつだったか。1989年11月9日。これを思い出せる人はだんだん少なくなってきている。というか。それを知らない人が増えてきている。もう30年以上前になるからだ。テレビでちらりと見た、という記憶は30代後半の人にはあるかもしれない。しかし、このとき起きたことを「衝撃」として受け止めた記憶を持っている人は40代後半からだろう。つまり、「世界地図」を頭に描き、そこに政治を重ねることができる(世界政治の意識を持つことができる)年代を「高校卒業=18歳」と仮定すると、ベルリンの壁崩壊をしっかり把握しているのは、いまの50歳くらいからなのである。
そして、その2年後、1991年末にソ連が崩壊した。新しい国が次々に「独立した」。「ソ連」というのは「概念/理念」であり、「概念」の束縛から、それぞれの「民族/文化(ことば)」が独立した。私がそれ以前に覚えていた「チェコスロバキア」は「チェコ」と「スロバキア」にわかれたし、「ユーゴスラビア」はさらに複雑で「スロベニア」「クロアチア」「マケドニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」と分離独立した。もっともこれは、テキトウに書いているので正確ではないかもしれない。こんなことは、よほど地理と歴史に詳しくないとわからない。
で、こんなよくわからないことを書き始めたかというと。
いま、ロシア侵攻によって起きていることが、どうしても、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体のときに起きたこととは逆方向の動きに感じられるからである。「ソ連(東欧=社会主義国)」というのは、ひとつの「概念/理念」で結束していた「組織」であって、その「組織(理念)」の内部には「文化(言語)/民族」が「理念」とは別に存在し続けていた。「理念」が拘束をやめると「民族」が「文化/言語」にもとづいて「独立」した。「民族/言語/文化」というのは、たぶん「無意識になってしまった連帯力」であり、それは「理念」を超越している。このことを忘れて、「理念」をふりかざしても、結局、その「理念」は破綻するしかない、と私は思っている。「ソ連」の崩壊と、それにつづく「民族独立」の動きから、私は、そう考えている。
ところが。
NATOは、逆のことをしようとしている。いくつもの民族、文化(言語)をNATOという「理念」によって「統一」しようとしている。これは、絶対に、できるはずがない。民族、文化(ことば)に対して「自立意識」をもっている人間がいる限り、それを「超越」した枠組みは常に批判され続ける。「理念」からはみ出して生きる、支配を嫌って自由に生きるのが人間の「宿命」のようなものだからである。
いま、フィンランド、スウェーデンのNATO加盟をめぐってトルコが反対しているが、こういうことはこれからも起きるし、さらにNATOの拡大を、「理念の押しつけ」と感じ、対抗する動きはさらに高まるだろう。ロシアだけではなく、多くの国が不安を感じるだろう。
NATOの主要国(そして、その主要国になったつもりでいる岸田=安倍)は、NATOが拡大すればNATOは安定すると思っているだろうが、きっと逆である。
NATOは、新しい「植民地主義」なのである。「軍国主義」と「資本主義」が組み合わさった強力な支配体制であり、それは次々に「仮想敵国」をつくあげることで「連帯」を強化し、その強化された「アメリカ軍国主義的資本主義」の支配下で固有の文化(民族/ことば)が奪われていく。より合理的にものをつくり、売りさばくには「多様な言語/多様な文化」はじゃまである。「ひとつの言語/ひとつの文化」の押しつけがはじまるだろう。すでに日本では、「論理国語」だかと「低学年での英語教育」がはじまっている。
それくらいでは、固有の「文化/ことば」が崩壊しない、と考える人は多いかもしれない。しかし、きっと反動のようにして、別の動きがはじまる。
アイデンティティを否定する動きに対しては、かならず、反発が生まれる。「概念/理念」で人間を支配できるのは100年もつづかないのである。ソ連の誕生、ソ連の崩壊、その後の周辺国の動きを見れば、それがわかる。
かつて「西欧」の植民地であったインド、アフリカの国々が、いま起きているNATO拡大の動きをどう見ているか。その視点を忘れてはならない。もし寄って立つべき「視点」があるとすれば、「植民地」であることを拒絶して「独立した国」の「視点」だろう。「支配の理念」ではなく「独立の理念」から、いま起きていることを見つめなければならない。
アメリカの支配下を生きることが「独立」と思い込んでいる岸田=安倍には、絶対に見ることのできない世界がある。
「支配」ではなく、「多様な生き方(文化)の共存」という視点から見つめなおさない限り、ロシア・ウクライナの問題は解決しないと思う。ロシアは最終的には敗北するだろうが、それは決してNATOの勝利にはつながらない。「理念」は絶対に「勝利」できない。世界は「支配-被支配」でできているわけではないからだ。
ロシアは必ず敗北する。私はそれを確信している。しかし、ロシアがウクライナから撤退した後、ヨーロッパがNATOに完全支配された後、そこに「自由で安全な世界」が確立されるとは思わない。アメリカの資本主義と、その資本主義が引き起こす幻の自由は、それぞれの民族・文化を駆逐しようとして動くはずだ。それに抵抗する運動がかならずおきる。
スペインというか、キリスト教というべきか。コロンブスが引き起こした南北アメリカ大陸の「制圧」に対して、いま、少しずつ抵抗(反撃)の動きがはじまっているが、21世紀は、そこから大きく変わっていくと思う。多様な文化(民族/言語)の共存の先にしか、人間が生き残る方法はない。
単純に、日本のことを考えればわかる。老人がどんどん増え、働き手がいなくなる。社会が成り立たなくなる。どうしたって他の国からの人的支援に頼るしかなくなる。多くの国から、多くの言語を持った人間を受け入れ、共存するしかないのだ。日本が「多文化/他国語化」していくしかない。そうでなかったら、日本人が日本にやってくる外国人労働者のように、中国やインドへ「出稼ぎ」に行くしか方法がない。その「出稼ぎ」に行った中国やインドで、「日本人」は「日本語/日本文化」をどうやって引き継いでいくか。ここでも「国語(日本語)」や「日本文化」というものが問題になってくる。
これから考えなければならいないのは、そういうことなのだが。
こういうことは、ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体を現実問題として見た記憶のない世代は思いつかないだろうと思う。
安倍や岸田のように、自分を「欧米の白人」と思っている人間にも思いつかないだろう。金さえあれば「自由」で「豊か」だと思っている人間には、想像もつかないだろうが、世界は変わっていくのだ。変わっているのだ。
プーチンの言っていることを支持するつもりはないが、ウクライナ侵攻の「理由」がロシア系住民への圧迫(暴力)であったことを、いま一度、思い返すべきである。「国語/文化」の問題は、21世紀のいちばん大きな課題だ。