記念講演会
講師・平櫛田中彫刻美術館 館長、平櫛弘子氏
平櫛弘子さんは、平櫛田中氏のお孫さんにあたる方です。
彫刻師 平櫛田中と葛飾の係わり合いは郷土と天文博物館に詳しい。
講演の内容
平櫛弘子氏講演
田中の幼少期については家系図を示し、また館長の親から聞かされた話を興味深く話された。
愛情、制作意欲、家族の病気、エピソードについて様々な面から、特に幼少期については詳細にされた。(伝聞内容を事細かに)
平櫛家は、病気で亡くなる方が次々出て、家が途絶える。跡取りは、男女に係わらず最初に生まれた子を継がせることに決まっていた。弘子さんが跡を継ぎ現在に至っている。(↑の講演者)
平櫛田中は、岡山県・後月郡西江原村(現・井原市西江原町)の田中家に生まれる。明治5年1月15日、田中倬太郎として・・・。幼くして平櫛家に養子に入る。平櫛家と田中家の姓をとり、通称・平櫛田中とする。その後実家に帰ったりまた戻ったりして少年時代に辛酸をなめた生活を体験している。
田中は15歳で、木彫に興味を覚え、大阪に出る。1893年(明治26年)に、人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。この間に多くの彫刻家との親交があり、これが後年になってから大きく花開く礎になったと言う。以来、百歳をこえても現役の彫刻家として活躍しました。その芸術の特徴は、優れた写実力と深い精神性、そして彩色に抜群の力を振るう。
葛飾区には、昭和14年~44年?)お花茶屋に工房を設け、上野の居宅から京成電車で通い、大作の≪鏡獅子≫をここで完成させている。昭和45年住み慣れた台東区上野から、小平に転居して昭和54年107歳で亡くなっている。
学問もなく、世に大作を輩出し、芸大の教授まで上り詰めたのは、田中自身の才能と努力は勿論のことですが、取り巻く多才な多くの人達の力添えによるところが大きい。・・・と付け加えた。≪講演要旨から≫
私の好きな言葉
今日もお仕事、おまんまうまいよ、
びんぼうごくらく、ながいきするよ
六十、七十は鼻たれ小僧、
男ざかりは、百から百から、わしもこれからこれから
・・・・・以下略・・・
言葉との出会いは、
50歳前後の頃、玉川上水緑陰を多摩川取水口から流れに沿って歩いていた。
フト目に入ったのが小平に在る美術館でした。何気なく門を入る。迎えるように額縁が玄関にデンと掛けられていた。
≪六十,七十は鼻たれ小僧・・・≫のーーーーことばに胸を刺される思いがした。
全く知り得ていなかった人物。奥深い言葉と力強い書、彫刻のすばらしさに触れて酔った。
感動したことが数日前のように蘇る。
博物館の掲出された看板
葛飾区立郷土と天文博物館
素晴らしい名作が出展され、企画展を盛り上げています。
今月6月17日(日)までです。
わしがやらねば たれがやる
郷土の生んだ偉人です!
井原市の田中博物館には何度も行きました。
最初に行った時には、彼の名言の書かれた暖簾を買って帰りました
トンちゃんは岡山でした。
偉人の繋がり・・・・、お孫さんの話を聞いてきました。
≪60,70は鼻たれ小僧・・・・!!!
度肝を抜かれました。
ドドド含蓄のある言葉です。
湧いてきますね。
あっちが痛い こっちが悪いって探してる場合じゃないですね。。
だってまだ鼻たれ小僧ですもん。。。
名字が二つ重なった名前は聞いたことがありますが
その人が彫刻家だとさえ知りませんでした。。
でも
>六十、七十は鼻たれ小僧、
これは聞いたことありますね。。。
ちょっと関節痛で嫌だった気持が
しゃんとしましたよ・・
今日は月がきれいな北九州です。
福山駅には釣り人の像もあります。
知っているようで知らなかったのが
まさか岡山県の西荏原で生まれたとは!
しかも田中家とは
まさか我が家と血縁関係はないけれど
めぐりめぐれば親類筋
およ世とびっくりしています。
傑作の詩&応援歌ありがとうございました。
六十、七十は鼻たれ小僧、
の言葉、このblogの中でたくさん使い記しました。
お目にかかって以来、虜になりました。
・・・・・・・・・が、思うに任せないのが身体の節々です。
公演を聴き終えてやはり、若いとき苦労をした人間は立派に育つのだ・・・・・と。
学問もなく芸大の教授まで上り詰めた、
植物博士の、牧野富太郎に似ているのかナァ・・・・・と思ったりした。
平櫛田中の名は知ってましたが、どんな有名人か初めて知りました。
そうすると我々はハナタレ小僧になりますね。
もうそろそろハナタレ小僧の年齢を過ぎようとしてます。
何時までハナタレ小僧のままではいられませんね。
平櫛田中美術館には全く気がつかず惜しいことをしました。
107歳まで生きられましたか。
百から百からですね。
尊敬していた岡倉天心の自ら制作したブロンズ像に
毎朝、うやうやしく敬礼をして出勤していたというエピソードも
田中の人柄を表しているようで、感動しました。
お話によれば、
100歳を過ぎてからも、ノミときずちを持って工房に入っていた・・・・という。
田中にすれば、60,70歳は鼻たれ小僧であったのでしょう。