日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

・日常・創る・彩る・考え・綴る
・フジノ会・探検団・かめの会(俳句)
・家庭菜園 ・ めばえ・成長・収獲

鉄道史講座

2015年10月11日 | 紀  現場にアタック、何でも

常磐線の歴史
                    (東京・上野駅から宮城県・仙台駅)

 

                        ▼講師
                         三宅俊彦氏  (鉄道史研究家)     著 書

                        ▼場所
                         葛飾区郷土と天文の博物館

 

現場にアタック、見たり、聞いたり、試したり。

好奇心で、常磐線の歴史にアタックしました。

2時間の座学講義でした。皆さん熱心に聞き入った。

 


葛飾区郷土と天文の博物館玄関


画像は、むかしの帝釈人車鉄道(柴又~金町間)


一説には、かつて帝釈人車鉄道(現・京成 金町線)で使われていた車両が
笠間人車軌道を経て松山人車軌道へ、来たものだとも言 れています。

 


80余名の方が熱心に講義を聞かれた



三宅俊彦氏  (鉄道史研究家)

 

   ← クリック拡大 →     

むかしの常磐線資料

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬県・嬬恋山歩   その3 完

2015年10月09日 | 紀  旅行、葛ハイ山行

無事下山が土産!!秋の四阿山を楽しむ DB
総括

 

                     参加人員54名、大型バス1台

                     ◎健脚組A班⇒四阿山(2354m)頂上へ、=・・・・・・・・・・・・・22名

                     ◎一般組B班⇒頂上へ至らず2183m地点で折り返す=・・・・・32名
                        我は、B組参加。 浦倉山へ

 

この山行きは、葛ハイだけでなく、
葛飾一般区民の方も募集しての『秋のハイク・区民行事』でした。

リフトから見たスキー場、紅葉、遠望の草津白根山、噴煙を上げる浅間山、秋の一日を満喫しました。
途中急な登り、大きな石に阻まれながらの道、一面に広がるササの群生。

怪我することなく下山できたことが、何よりのお土産でした。


後期高齢者が往く


熊さんが出そうな群生、クマ笹


参加者54名 女性の方が多し


眩しい紅葉でした。

 


時間に余裕(A班を待つ時間に)浦倉山に
往復40分の足を延ばす

 リーダーの皆さん、そして山友さんお世話様でした。

 

DB   『群馬・嬬恋山歩』

 

 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬県・嬬恋山歩 その2

2015年10月08日 | 紀  旅行、葛ハイ山行

世代交代
若木はグングン伸び、老木は朽ち果てる

 

山に入ると

秋の紅葉がことのほか煌びやかに見える。

青い空、吹き抜ける風

木が種を落とし、発芽し、林を形成する。

木材が、建築材としての価値を発揮するのは、植林して70年と言う。

人の一サイクルもまた同じ。

わが身を鍛えようと、後期高齢者が嬬恋山歩に挑戦しました。 

 



芽を出し
 



風倒木の上に若木が育つ

成長し・・・・

幹を形成し



成林になりました

林冠を整え

 

枝を張り、やがては枯れていく

 

そして朽ち果てる

 

人間の一生を見ているようで、

愛おしい

歳月人を待たず

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬県・嬬恋山歩 その1

2015年10月06日 | 紀  旅行、葛ハイ山行

百名山・四阿山(あずまやさん)2354mに登る
=キノコを採る=

 

スキー・リフト利用の山登り、紅葉が始まって綺麗でした。

女性の中できのこ博士が居り、これ食べられるキノコよと皆さんに伝授していた。

今晩このキノコで料理しますから、縄文さんご招待します。

1升つるって来てね!!と冗談交じりに。

 


6人乗りスキーリフトから下方を見る、浅間山方向?

 


リフト山頂駅広場にて


何故こんな木をUPしたの!、
お答えします。
登山道の”力木”です。
この白樺の木に捉まりながら登るため、樹皮が磨かれスベスベになりました。
恩義の白樺木

 


世代交代
浅間山を撮りましたが見えません。


木に植生した、キノコ


キノコ博士から伝授され採りました。
シロフサタケ

 


バス駐車場のホテル前で

 

heikouさん、葛飾山男さん遅くなりました。
あちこちの、現場アタック、神出鬼没しているもので・・・・・・・。
これが我の性分なのかもしれません。
以後マジメニUPします。

 

 

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸・TOUKYOU 技とテクノ展

2015年10月06日 | 紀  現場にアタック、何でも

脳の活性化見て歩き

テクノ機器内蔵の案内嬢が、「イラッシャイませ」

 

銀座で『山崎豊子展』見た後、有楽町・東京国際ホーラム展示場へ。

人口ロボット、アンドロイド・≪アスナちゃん≫が、自動車の案内をしていた。

いきなりイラッシャイませには、びっくりした。

 

 この展示会は、企業創出の機会、事業の拡大、技とテクノの融合を目的として、開催された。

 


人間かと思った・・・・?


三輪乗用車の案内です

 

 目、口、首振り、手、身体の諸操作は、ややぎこちないが人間味がありました。

1ケ月ほどの前新聞に、

介護の現場でも移動や手作業にロボットが、

介助として登場する日もそう遠くはないでしょう、という記事が載っていた。。

 

カンヌ映画祭でも活躍
日本の映画コンテンツとかを宣伝するための、ジャパンパビリオンでも人気。、

洋服を脱ぐと
このようなハイテクIC機器が、組み込まれています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山崎豊子展、  於・高島屋

2015年10月05日 | 紀  現場にアタック、何でも

 人間=山崎豊子


 

『不毛地帯』『白い巨頭』など、本やドラマ、映画などを通して、

多くの反響を呼ぶ作品を世に送り出した作家・山崎豊子。

その社会性の強いテーマや複雑に絡み合う人間模様は、徹底した取材から来た。


1924年大阪船場生まれ。新聞記者として、

事実を追い続ける取材への姿勢、世間や人間の本質をとらえる観察眼を養い、

上司である記者・作家・井上靖の背中を見つめて、作家の道に。

生涯書き続けた数々の作品は、故郷である今はなき大阪・船場の風俗や習慣、

戦争の悲劇を伝えたいという思いが込められていた。


また高度成長期に渦巻く社会の不条理を問わなければという強い信念で登場人物には

想像を超えた人間ドラマが生まれた。

 

 

展示会場はすべて、カメラ撮影は禁止です。
買い求めた、『山崎豊子、ガイドブック』を参考にしまとめた。



 

会場入り口周辺には、山崎豊子の実家・『小倉屋山本』老舗昆布屋のつくだ煮、京都のお菓子などが売られていた。
現在は、暖簾を守る4代目、山崎の甥にあたる・山崎博史社長が守っておられる。

 

 山崎豊子展を見て感じたこと

1、徹底した現場取材・人間観察

  現場や現地は宝の山と言う。「現場百辺、理自ら通ず」という言葉があります。
徹底して現場取材を行うと、自然とそこから真実が掘り起こされドラマが生まれてくる。「証拠の認定は事実による」の合言葉に、徹底した現場主義を貫き取材した。言葉を地を這いつくばうように資料を集めた作家であろう。

 易しい道と、困難の道との二つの道があれば、あえて難しい道を選ぶと言っていた。その理由はおそらく豊富な素材、材料、ドラマ、宝が一杯あるからであろう。
簡単な道をゆったり行くのと違い、取材を終えゴールしたときには多くの宝(素材・ネタ)を得ているのだろう。

2、写真、フィルム、カセット録音、整理保存

  展示会場にカメラ、カセットが数台置かれ、その脇には沢山の画像フイルム、カセットテープがうず高く積まれていた。
これこそが作家・山崎豊子の原点であったかと改めて見た。
『大地の子』取材に当たっては、尋ね歩いて大地(中国へは数限りなく、)、会った人は500人以上を超えていた。

3、正義は勝つ

  地を這って歩くような取材の果てには、数々の小説(ドラマ)が生まれた。
登場人物、想像を超えた人間ドラマが生まれ、読者の心を揺さぶった。反感、ののしられ、こんな小説書いて!!
○裁判で負けても小説(ドラマ)には、負けない。
○血みどらの果てに、必ず真実が生まれる。
○正義は必ず勝つ、ドラマ(小説)が命、作家・山崎豊子の原点

多くの展示品、多くの見学者で詳細を見ることができなかったが、作家・山崎豊子の生きざまは、ひしひしと伝わってきた。

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

街歩き、千葉/市川・真間、手児奈霊堂 ⑤ 完

2015年10月03日 | 紀  旅行、葛ハイ山行

伝説を基に

 

稀にみる美人なるが上の、悲しい伝説

身なりはそまつだったが、とても美しい手児奈。多くの男性から結婚を求められたが、
「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。

もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」となやみ、
海に行く(当時は真間山の下は海だった)。

そのころ、日没になろうとしていた。
「そうだ、あの太陽のように。」と思って海に身投げしてしまった。という伝説から手児奈霊神堂が作られた。 

 


入口のそれぞれの掲示板


葛ハイの仲間は進む

 

 
  お地蔵さん                           手水処



手古奈本堂


この池に身投げしたとか・・・??昔は海でした。

ふるさとの山静かなる師走かな    吉田冬葉

 

     大門通り・万葉歌パネル

      ◎ 葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ (山部宿禰赤人)

        現代語訳:
          葛飾の真間の入江になびいている玉藻を刈ったであろう手児名のことが思われる。 
 

  ◎ 葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ  (高橋虫麻呂)

        現代語訳:
          葛飾の真間の井を見ると、立ちならして水を汲んだであろう手児名が偲ばれる。
 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代から忘れ去られたように・・

2015年10月02日 | 文学  五行歌

手押し井戸ポンプ

 

  
                      手押しポンプ                          案内路地盤

 

 なつかしぃ~

  みなが言った

  何故 此処に

                                       きっと

             便利していたのでしょう

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

真間山・弘法寺に行く途中。

なにげなく鎮座する手押しポンプ

横に水道蛇口があるから、現在は使っていない事が一目瞭然でわかる。

駅近くの1等地に、土地の有効活用したらと思った。

存在自体が価値観であろう

余計な心配でした。

                                             北区を街歩きで見た、手押しポンプ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大根の間引き

2015年10月02日 | 自然  葛飾貸農園、菜園・国府

現在の菜園状況

 

相変らず、手間のかからないダイコンとネギです。

種まき時と、最初の手入れだけで、後はホッタラカシです。

御すそ分けに仕様と、たくさん作りました。

 


大根間引きした後、一本仕立て


浅漬けや、みそ汁に入れて食べました。

    
ネギ畑                                             ニンジン


植え付け時が肝心と!! ビニールで覆う(スパーレジ袋)
案外これが功を奏したようで、虫食いの跡が見られません。

 
キャベツ                                         白  菜

 

ここの菜園責任者(地主の代行=地代集金係)が見えたので、

集金ですか?と言うと、

そんなにセカナくても結構です。11月の初めまでにお願いします。

代行さんは温厚な方で、沖縄出身

現役時代、校長先生をなされていた方だそうです。

集まれば和気愛々

人類はみな兄弟と言った付き合いです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供銀行

2015年10月01日 | 文学  コラム・エッセイ

標語&運動靴の思い出

 

                     知らない土地

                        初めて出会う人

                           臆せず向かい合えるのは

                自由な子供時代があったからだ。

 


私の巣立った小学校です。
現在は取り払われ木造→コンクリート2階建てに改装された。

 

 

標語の思い出

朝のホームルーム(HR)が、先生の挨拶で始まった。

「皆さんは、”子供銀行”があることは知っていますね。お小遣いの中から少しでも貯金しましょう。

一人ひとりは少なくても、学校全体では、大きな預金額になります。

学校では、たくさん貯金してもらうため、また銀行に関心を持ってもらうために

標語を作ってもらうことになりました。   一人一点です。

あすの朝までに先生のところに出して下さい」

という言葉から、朝のHRは、標語作りに充てられた。

それから1日が過ぎて、翌朝のHRの時間に提出した。

   ・ 貯金日は 笑顔で通帳 差し出そう

これが、私の標語でした。

それから1週間ほどが過ぎて、担任の先生から、君のが入選した。

月曜日、校長先生から表彰されるから・・・・・・・と、良かったねぇ~と褒められた。

純真無垢、ほめられた時、とても嬉しかった。

校長先生から、副賞として運動靴を頂いた。

当時運動靴は配給制で、貴重なものでした。

昭和24~25年?の頃の若き思い出である

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

       何故このような記事を書いたか
≪あすへの話題・朗読の醍醐味≫の日経新聞(10月1日)に誘発された。    

 

                               

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする