熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

納富 信留 著「プラトン哲学への旅: エロースとは何者か」(2)

2024年10月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最後のソクラテスのエロース論だが、
   原書では、マンティネイア(Mantineia)のディオティマという女性に聴いた話ということで、ソクラテスとディオティマの問答を再現した形で展開されているようだが、この本では、「饗宴」に入り込んだ筆者が彼女から秘儀を聴く。

   難しいのだが、とりあえず、納富先生の説明を要約すると、次のとおり、
   エロースは、美しくも善くもなく、また醜くも悪くもない、死すべき者と不死なる者の間にいるもので、神ではなく神霊(ダイモーン)である。エロースは人間と神々の間に介在し、通訳・伝達・結合を担う数多くのダイモーンの一つである。
   エロースは、父ポロスと母ペニヤの間に生まれ、アプロディテのお供となった。
   エロースは、母から貧しさと欠乏を受け継ぎ、柔和で美しいという状態からほど遠く、硬直して乾いた裸足の放浪者である。父譲りの才能を発揮し、また美しい者・善い者を追い求める策士であり、勇敢で大胆で向こう見ずのところがあり、手強い狩人であり、常に策をめぐらし、知見の追求に熱心であり、生涯を通じて愛知者であるフィロソフォスであり、同時に比類なき魔術師・薬剤師・ソフィストである。
   エロースは死なき者でも滅ぶべき者でもなく、花咲き・生き・死にを繰り返す。しかし取得したものは絶えず溢れ出て消え失せるので、困窮することもなければ富裕になることもなく、智慧と無知の中間にい続ける。

   人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求し、そうしたエロースを熱心に追求し、熾烈な努力を示す者が進む道・採る行動は、肉体でも魂でも、調和した美しいものの中に、子供を産むことである。
   人間は肉体にも魂にも胚種を持っていて、一定の年頃になると生産することを欲求し、美しい者に対して強烈な昂奮を感じて求める。
   そうした出産の営みは、死すべきもの滅ぶべきものにとっては、滅びざるもの、永遠なるもの、不滅なるものとなるのであるから、愛の目的は不死である。エロースが、善きものが常に自分自身のものになることを求めている以上、善きものと共に不死を欲するのは必然である。
   死すべき本性は、永遠に存在し不死であることを、できる限り求めることであり、しかし、それは、生むという方法によってのみ可能で、古いものに代わって新しい別なものをつねに残していく新陳代謝であるからである。

   人間は、魂においても身ごもっており何かを生み出そうとする。芸術という生産は、已むに已まれぬ要求によって生み続けている。
   肉体の交わりが生み落とす子供にもまして、魂が生み出したものが重要である。徳ある生き方を送る人、芸術や学術を創造する人、法律を制定して国家の礎を築く人等々、彼らが生み出した子供たちは、人々に不滅の記憶を残し、永久の名声と幸福をを齎すと感じており、自分が生きた証であり、魂の生産である。

   さて、美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、
   その次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考えるようになる。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさである筈である。精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
   次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
   美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行く。

   美とは、常に美しくあり、美しくなることも、なくなることもない。まさにそれ自体単一の相として常にある、そういった美であり、これが美のイデアと呼ばれる。この永遠、「常にある」とは、ずっと続くという意味ではなく、時間そのものを超えると言うことである。
   美を愛し求めるという道程は、実はこの終極に至るための道程であった。この美そのものを対象とするこの学びへたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識すること、美そのものを観照する時に、人間にとってその生が生きるに値するものとなる。というのである。

   このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うことであろうか。

   さて、ダイーモンのエロースが、何故、愛の象徴になったのかよく分からないが、
   人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求して、調和した美しいものの中に、子供を産む。死すものである運命を甘受して、出産によって永遠の生命を維持しようとする。ということは良く分かる。
   肉体の愛による出産は、低次元の愛だと言うことであるが、愛し合う二人にとっては、最高の希求である。
   私など、高邁なソクラテスのエロース論はともかく、ファウストのように若返って、憧れのマドンナに再会して、このソクラテスのエロースの話を語り合えばどれだけ楽しいか、たわいない戯言を考えている。
   
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納富 信留 著「プラトン哲学への旅: エロースとは何者か」(1)

2024年09月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   プラトンの「饗宴」はまだ読んではいないのだが、手っ取り早くと思って、『饗宴』のなかに、語り手の「私」(「現代からの客人」)が列席し、ソクラテスら演説者たちと「愛(エロース)」をテーマに競演する、類を見ない教養新書 だというので手に取った。「愛(エロース)」と言うと、何となく色っぽい感じがするのだが、「哲学(フィロソフィア)」という言葉は「知(ソフィア)」を「愛し求める(フィレイン)」という意味の合成語であって、哲学=愛であることが説かれているという。 

   私が知っていたのは、ギリシャ喜劇詩人アリストパネスの話、人間がゼウスに真っ二つに分断されたという話である。
   かって人間は球形をしていて、手足が4本、顔や生殖器が2つあった。男性と女性、その2つに加えて、両性を具有するアンドロギュノスと呼ばれる男女の三種類が居て、それぞれが太陽、大地、月の子だった。その人間が、腕力が強くて傲慢で放埓のあまり、神々に戦いを挑んだので、怒ったゼウスは、人間を半分に切断して力を弱めておとなしくさせた。
   人間は、その頃の記憶から、自身の片割れを常に探し求め、抱擁してできるだけ一緒に居たいと欲し、その喜びを求めている。
   エロースとは、人間が「全体」という本性を要求するその統合者であり、治癒者なのだ。と言うことである。

   難しい話はともかく、アリストパネスは、パートナーが死んだら、別のパートナーを求めていくと言っているので、この人でなければならない掛け替えのない人、自分の本当の片割れを求めるというのではなく、また、個人と個人の愛が問題なのではなく、あくまで、種族の間で愛が成立することが説明されている。のである。
   エロースは、自分にはないもの、より美しくより素晴らしいものを希求するのであるから、求めるベターハーフは、自分より美しくて賢い者であってしかるべきだと言うことであろうか。
   自分の片割れだと言われると、一寸逡巡するが、これでホッとした。

   私は、一目ぼれというか、直覚の愛を信じている。
   この話とアリストパネスの愛とどんな関係があるのか分からないが、自分の片割れ、ベターハーフを探し求めるという話は、非常に面白いと思っている。

   議論は、美しい神エロースを讃嘆する弁論の競争から、美を求めるエロースの真理を語る哲学の吟味へ、美の賛美から愛の本質へと展開されていくのだが、
   途中で、脱線してしまったが、次にソクラテスのエロースについて考えたい。
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旅は道づれツタンカーメン 高峰 秀子; 松山 善三

2024年09月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   1980年6月に出版された 高峰 秀子と 松山 善三共著の『旅は道連れツタンカーメン』、もう、半世紀近く前のエジプト旅行の紀行記録であるから、古色蒼然とした昔の海外旅行の雰囲気がムンムン漂っていて、実に懐かしい。
   当時、私は、ブラジルで仕事をしていて、帰国したころで、直後に、文革が終わって門戸を開いた中国を訪れた激動の時代であったので、時代離れをしたエジプトの雰囲気が面白かった。
   アジアや欧州や南北アメリカなどには旅行経験があり、結構旅をしているのだが、残念ながら、アフリカ大陸には機会がなくて、エジプトには行ったことがない。
   ギリシャ・ローマの歴史に興味を持ち、世界史、特に、東西交渉史を意欲的に勉強してきたのだが、肝心の4大文明の発祥地のうち、訪れたのは黄河だけで、エジプト、メソポタミア、インドには行っていない。

   さて、この本のエジプト漫遊だが、歴史行脚にのめり込んで期待に胸を膨らませて感嘆頻りの夫君と、不本意ながら旅に出た妻との往復書簡風の旅行記。ちぐはぐ珍道中の雰囲気が、二人の夫婦生活での人間関係が増幅していて、非常に面白い。エジプト古王朝の歴史を追求して死生観を展開する善三と、バカでかいピラミッドを何のために作って人民を苦しめたのかという何事にも動じない秀子。スフィンクスは実在したが雌が居なかったので絶えてしまったという脚本家の善三を秀子は笑い飛ばす。冒頭から面白い。

   善三は、目的があってエジプトに行ったので、事前に知識情報を蓄えて理論武装しており、結構、旅日記に託して、エジプトの歴史や文化芸術、地理、国民性など詳細に書いていて、それなりにエジプト旅行記になっている。
   ギザのピラミッドからスタートして、アスワンハイダム、アブ・シンベル、王家の谷、ツタンカーメン、カイロ博物館、アレクサンドリアなど、中身の濃いエジプト旅行記である。
   一方、秀子は、行き当たりばったりの旅日記で、食べ物や出会った人々との交流や印象などじかの描写が多くて、エジプトのムンムンとした雰囲気を醸し出している。この旅日記を縦線にして、夫・ドッコイとの結婚話や子供をつくれなかった思いなど、人間秀子の生きざまを横線にして、随所に生身の心情を吐露していて味わい深い。
   善三の普通の旅行記に、秀子の温かい旅日記が、多彩な彩を添えていて面白い、そんな本である。

   善三の趣味というか意向で二人はアフガニスタンにも行っていて、旅行記を著しているのだが、なぜ、欧米ではなく中東なのか、
   秀子は、一人でパリに行って生活していた。

   高峰秀子の映画は、随分見た。
   高峰 秀子の「わたしの渡世日記 上下」も読んでレビューしているが、秀子の本は他にも結構読んでいて、稀有な体験をした偉大な名優なので、非常に含蓄がある中身の濃い本なので印象深かった。
   久しぶりに、高峰秀子文化を楽しんだ。
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10歳までに読みたい世界名作

2024年09月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日書いたように、3年生の孫娘に読書習慣を付けたくて、インターネットで本を検索していたら、「10歳までに読みたい世界名作」という恰好のタイトルが出てきた。ほかにも参考になる資料もあるのだろうが、学研の記事なので信用に値する。先に選択した「小学館 世界の名作」で、本を選んであるので、追加資料として、参考になればと思ったのである。

   口絵写真は、その第一期の8冊である。
   学研の説明では、「10歳までに読みたい世界名作」シリーズとは、
   時代を超えて世界中で読みつがれてきた名作。
長い間、読みつがれてきたということは、それだけたくさんの人々が、「これはおもしろい!」と太鼓判を押した証拠。そこには、生きるために必要なエッセンスがつめこまれています。

   それ以降で小学館のとダブっているのは、アルプスの少女 ハイジ、西遊記、ふしぎの国のアリス、シンドバッドの冒険、フランダースの犬、家なき子、十五少年漂流記
   ほかで私でもよく知っているのは、ロビンソン・クルーソー、巌窟王、三銃士、海底2万マイル、長くつ下のピッピ、宝島、などであろうか。
   
   これを見ていて気付いたのは、私の子供のころから、丁度、70年以上も前のことになるのだが、子供への推薦図書世界の名作のタイトルが、ほとんど変わっていないと言うことである。
   あの頃は、終戦の直後で日本は貧しくて学制や教育も激変期で、子供が世界の名作に勤しむと言った雰囲気はなかったと思うのだが、その後の印象だとしても、日本の教育が、それほどぶれていなかったと言うことであろうか。
   古典の揺るがぬ価値というべきか、子供の世界においても、良いものは良いのである。

   子供を取り巻く環境は激変して、子供の価値観も問題意識も感性も様変わりしてしまったが、世につれ人につれ、新世代の子供たちが、どのように世界の名作に対応するのか、興味津々である。
   
   
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孫娘に世界の名作を読ませよう

2024年09月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日日経を読んでいたら、子供が動画ばかり見ていて本を全く読まなくなって困っているという記事が掲載されていた。
   我家の3年生の孫娘も似たり寄ったりで、私のパソコンをハイジャックして、ゲーム感覚で動画を見ている。

   わが小学生の頃は、テレビもなければパソコンもなし、ナイナイ尽くしの貧しい生活を送っていたので、読書が恰好の遊びであり愉しみであったので、疑いもなく、本は子供の大切な友であった。

   さすれば、読書習慣がなくなり、動画やゲームで、パソコンやテレビ漬けの子供を、どうして、これらから引き離して、本を読ませるのか、容易なことではない。
   勿論、読む読まないにかかわらず、両親は、子供のために、結構色々な本を買って与えている。
   孫娘に、一冊何でも良いから本を選んで持ってくるように言ったら、小学館の世界の名作の「アンデルセン童話」を持ってきた。
   大型本で、個々の童話に応じて綺麗な挿絵が描かれていて、本文も簡略ながら本格的な翻訳であり、全く手抜きのない絵本と子供用単行本の中間の位置づけの本で、丁度、小学校中学年に頃合いの本である。

   世界名作全集の中から、適当な本を選んで読ませようと思って、インターネットでどんな本が良いか、どの会社の本が良いかなど検索を始めたが、どれも甲乙つけがたく、これという決定版はない。
   この小学館の本は、20年以上も前の出版だが、まずまずと思ったので、参考のために、「グリム童話」と「イソップ物語」を買って読ませたら、結構効果的であった。
   興味を持てば、一寸背伸びして岩波の少年文庫や本格的な世界文学作品に移行すれば良いので、とりあえず、3年生のうちは、このシリーズの中から適当な本を選んで、読ませることにした。
   とにかく、成功するかどうかわ分からないが、本を読む習慣をつけることである。
   子供時代の勉強の基礎は、なによりも読解力なので、その涵養のためにも、読書は必須である。

   一応、読むべき本がどんな本なのか、インターネットを叩いて検索した。
   学研が、「10歳までに読みたい世界名作」を発表している。30冊ほどで、先の小学館の本と重なっている本もあるが、参考として、これらの推薦図書から適当に追加すれば、十分だと言う気がしている。
   
   当然、日本の本も選ぶべきだが、録画していた「日本昔話」を見ており、多少の知識があるので、世界の名作の読書に目鼻がついてからにしようと思っている。
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プラトン:ソクラテスの弁明ほか

2024年08月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に、パルテノンについて書いた。
   倉庫の奥から、「プラトン ソクラテスの弁明ほか」を引っ張り出して、久しぶりにページを繰った。学生時代に読んだ旧版ではなく新しい中公クラシックスなのだが、それでも20年前の本、しかし、田中美知太郎訳で懐かしい。
   この本を9年ほど前に読んで、レビューしたのだが、感慨は全く変わっていないので、借用する。高邁な哲学理論は、さておくとして、とにかく、優しい語り口が嬉しい。

   「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスが裁判にかけられて死刑を宣告させた一連の裁判の模様をプラトンが弁明風に展開したもので ある。
    ソクラテスの告発者は、反対派のアニュトスが、危険人物としてソクラテスを排除しようとして若いメレトスなど3人を直接の訴人に立てたもので、
   ソクラテスの罪状は、「国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンを祭るなど、青年に対して、有害な影響を与えている」と言うものであった。
   ソクラテスは、デルポイに出かけて神託を受け、自分より知恵のあるものがいるかと尋ねたら、巫女は、より知恵のあるものは誰もいないと答えた。
   この神託の理解に苦しんだソクラテスは、各界の代表的な知者たちを調べて歩いた結果、
   彼らも自分も、善美にかかわる重要事について何も知っていない。しかし、彼らは「知らないのに知っている、知っていると思っている」のに対して、自分は「知らないから、そのとおりに、また、知らないと思っている」。このちょっとした違いで、自分の方がより知者だということらしい。(無知の知)神ならぬ人間の望み得る精一杯の知なのだ。と悟る。
   ソクラテスは、政界はじめ高名な人物を相手にして問答しながら仔細に観察して、多くの人に知恵のある人物だと思われており、自分自身もそうだと思い込んでいる人物が、実はそうではないと言うことを、はっきり分からせてやろうと行脚し続け、ソクラテスに傾倒した若者たちにも、そうするように勧めた。
   こうした厳しい対話や詮索の結果、やり玉に挙がってコテンパンに論破されて遣り込められた人物たちが、ソクラテスはけしからんと腹を立て、多くの者たちからも、嫉妬や憎しみを受けることになった。

   続いて、「クリトン」は、プラトンの友クリトンが、獄中のプラトンを訪ねて、必死になって脱獄を説得するのだが、ギリシャを愛するが故に悪法も法であり、それに従うのが正義だと突っぱねる感動的な対話を綴ったものである。 
   そして、さらに、「クリトン」で、
   ” 「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ。」その「善く」というのは、「美しく」とか、「正しく」とかということと同じだ。”と言っており、アテナイ人に対する告発も容赦がない。
   ”世にもすぐれた人よ、君はアテナイ人であり、知と強さにおいて最も偉大な、最も名の聞こえた国の一員でありながら、金銭を出来るだけ多く得ようとか、評判や名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂を出来るだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか。”
   金と評判と名誉への志向と、知と真実と魂を優れたものとすることへの志向との、平明にまた力づよく語られたこの対比は、プラトン哲学の基底をなす明確な構図を形づくることになる。息のつづくかぎり哲学することを止めない。たとえ幾たび殺されようとも、決してこれ以外のことをすることはありえない。と、死刑判決を必然の成り行きとして見定めて、「死」でもって、彼が守り通した哲学を成就させたのである。  

   ソクラテスが毒盃を仰ぐ臨終での対話を綴った「パイドン」では、
   ”死に臨んで嘆き悲しむ人を君が見たら、それは、その人が知の求愛者(ピロソポス)ではなく、身体の求愛者(ピロソーマトス)だったことの十分な証拠ではないだろうか。そして、その同じ人は、金銭の求愛者でもあり、名誉の求愛者でもある。”
   自然万有を、「知の求愛者=善く生きる」の「精神」原理と、「身体の求愛者=ただ生きる」を導く「生き延び」原理によって、プラトン哲学における基本路線の構図の見取り図が完成するのだと言う。

   口絵写真は、私が、ニューヨークのメトロポリタン美術館で撮ったソクラテスが毒盃を仰ぐ寸前の絵の写真である。ソクラテスやプラトンの片鱗に触れて胸を熱くした青春時代を思い出しながら、長く佇んでいた。
   ところで、在学中に、まだ、田中美知太郎教授が、京大で教壇に立たれていたようだったのだが、文学部の教室に潜り込んで講義を聴かなかったのを残念に思っている。  
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「ニューヨーク・タイムズ」が見た第二次世界大戦 天皇制維持

2024年08月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   積読の本を整理していて、”「ニューヨーク・タイムズ」が見た第二次世界大戦 上下”を見つけた。   
   興味深い記事の連続で、読めば面白いのであろうが、日本の終戦時の記事が書いてある最終章の2件だけ読んでみた。
   8月15日に近づくと、どうしても、日本の終戦のことが思い出される。まだ、5歳であったが、かすかに、戦争の記憶が残っている。

   読んだ記事は、
   「1945年8月15日 日本降伏、戦争は終わった! 天皇、連合軍の支配を受け入れる マッカーサーが総司令官に」
   「忠実で善良な国民に告げる 天皇の詔勅(玉音放送)」である。

   この天皇陛下の詔勅については、テレビのドキュメントや映画などでさわりだけは聞いてはいるのだが、恥ずかしい話、全文を読んだことがなかったので、あらためて読了し、時流に迎合することなく、日本の使命と歩むべき道を正しく国民に告げているので、感激さえ覚えた。

   ところで、ポッダム宣言を受諾して無条件降伏して、大過なく終戦処理を終えて復興し、今日の日本があるのは、当時の日本国民にとって最も重要であったのは国体の維持であろうと思う。
   詔勅の後半の冒頭に、
   「帝国の国体は守られ、私は常に国民とともにあり、忠実で善良な国民の真心に信を置いている。(朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ)」と述べられている。
   この「帝国の国体は守られ、」と宣告できたのには根拠があったのである。
   
   この国体の維持について、先の15日の記事に触れていて、
   8月11日に、連合国を代表してバーンズ国務長官の名で日本政府の申入れに回答した覚書に、ポッダム宣言が日本の天皇の「君主」としての「特権を否定する」ことがないという理解のもとで、8月10日に日本から送られてきた降伏の申し出への返答として明記されている。
   バーンズ長官が実際に書いた文言は、日本国民の自由意思で選択された場合には天皇制度を残すことができるかもしれないが、天皇は東京にいる連合国軍最高司令官の権威の下に置かれ、正式かつ公の行動は総司令官の責任の下でなされるという内容であった。という。

   しかし、バーンズの回答は、もう少し曖昧だったようである。
   歴史的追跡の余裕がないので、ウィキペディアのその部分を引用させてもらうと、
   この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」と記している。

   結局、紆余曲折を経ながら、象徴天皇制として新憲法が制定されて今日に至っている。 
   立憲君主国イギリスとよく似た民主主義体制を取っているが、歴史的にも伝統を重んじる国であるためにも、安定した政体であろう。


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大統領選:ハリス対トランプ

2024年07月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   米大統領選は「ハリス対トランプ」で再始動、100日間の短期決戦となり接戦が予想されている。

   ハリスは、23日、ウィスコンシン州で遊説を開始し、黒人女性歌手ビヨンセさんの曲「フリーダム」(自由)が流れる中で登壇して、「私たちは未来のために戦う」と宣言して、トランプが「米国を暗い過去に戻そうとしている」と述べて対比を強調した。 
   私が注目したのは、この点で、先日、トランプが、すでに賞味期限切れになってしまったと述べた本旨でもある。トランプの「MAGA」など、アメリカ経済社会の後ろ向きへの逆転政策であって、益々、アメリカを窮地に追い込む。轟音を轟かせて大変革を遂げているグローバル世界に背を向けて、国際社会から隔離遊離を策して「アメリカ第一」を追求しても、時代の流れに逆行するだけである。

   興味深いのは、ハリスの「検察官対重罪犯」かという対決戦略で、
  ハリスは、元検察官という自らのキャリアに言及して、「女性を虐待する略奪者、消費者からだまし取るペテン師、自分の利益のために規則を破る詐欺師、あらゆる種類の加害者と私は対決した。だからドナルド・トランプのようなタイプを知っていると私が言う時、どうか話を聞いてほしい」と、大統領経験者として史上初めて重罪で有罪評決を受けたトランプと、犯罪者と対峙してきた元検事の姿を対比させた。 ことである。

   経済問題が最大の争点となろう。
   インフレに対するバイデン政権の対応の不手際がハリスの足を引っ張るであろうが、トランプの経済政策の悪さは、スティグリッツ教授の見解を紹介したのでここでは言及しない。
   注目したいのは、「中間層の強化」こそハリス政権を特徴付ける目標になると公約した。点で、これはトランプの対極にあるアメリカ経済の構造改革であり起死回生の経済政策で、これが実現できれば朗報となる。
  さらに選挙キャンペーンの中心と位置付ける有権者の経済的不安解消に向け、医療と育児、有給家族休暇の拡充に重点を置くアジェンダもアピールしており、福祉国家生活重視を推し進めるであろう。

   さて、問題は、ICT革命、AI時代の開花で選挙運動を妨害する偽情報の台頭である。
   しかし、フェイクニュースなど偽情報の最大の発信元はトランプで、トップメディアが、嘘八百口から出まかせの虚偽情報を2万回以上も発言したと報じたトランプの虚偽と欺瞞に満ちた偽情報の垂れ流しは、AIどころの比ではない。
   むしろ、恐ろしいのは、アメリカの覇権を認めず分断を策して政治経済社会の崩壊を目論む専制国家等敵対国からの偽情報操作であろう。

   まだ、民主党の副大統領候補も決定していないし、ハリスの戦略戦術も確定したわけでもないので、まだ、確たることは言えないが、攻撃主体のトランプが弁舌さわやかで知的水準の高いハリスに攻められて防戦に苦慮するはず、9月のテレビ討論会の丁々発止が愉しみである。
   アメリカの良識が、民主主義を堅持し続けることを祈りたい。


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アメリカの深刻な分断に思う

2024年07月15日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   驚天動地のトランプ暗殺未遂事件、
   ここまでアメリカの民主主義の闇が浸透したのかと思うと、恐ろしくなる。

   私がアメリカに住んでいたのは、1972年からの2年間、ニクソン大統領の時代で、ウォーターゲイト事件がアメリカ社会を震撼させていた。
   結局ニクソンは、この事件で、私がアメリカを離れて少ししてから辞任した。
   しかし、ベトナム戦争を終結させ、キッシンジャーと中国に渡って国交を開くなど偉大な業績を残したのである。

   私が問題にするのは、このことではなく、当時のアメリカでは、思想的というか政治的な深刻な二極化はなかったということである。
   貧困の撲滅などの実現を主張した「偉大な社会」を掲げた民主党のハンフリーと大統領選挙で戦った時の争点は、公民権運動やベトナム反戦運動の過激化などであって、今日のように、国家を分断する深刻な保守とリベラルの相容れぬ対立ではなかったのである。

   深く検証する余裕がないのだが、
   「経済だ、バカ “It’s the economy, stupid.” 」で、ブッシュに勝ったクリントン時代には、まだそれほど問題ではなかったように思う。
   しかし、この間、ベルリンの壁やソ連の崩壊で世界がフラットになって資本市場が拡大して、ICT革命とグローバリゼーションの拡大が呼応して、中印など新興国の経済的台頭で、一気に、グローバル経済の発展拡大を引き起こした。
   同時に、アメリカ経済の地位が低下し始めて、リーマンショックに端を発する2008年の世界金融大危機以降、経済格差の異常な高まりで、アメリカの資本主義が暗礁に乗り上げた。
   格差と貧苦に泣き、エスタブリッシュメントに反旗を翻した国民大衆が立ち上がって、「We are the 99% ウォール街を占拠せよ」が勃発し、
   現状を批判し否定して檄を飛ばしたポピュリズムの極致トランプ現象が出現した。

   しかし、問題は深刻である。
   トランプが叩き潰そうとしている民主主義が国民の福利厚生安寧に如何に大切かを知らずに、
   保守党が堅持しようとしている弱肉強食の市場万能の市場資本主義システムが富者強者を利するだけであって国民の益にはならないということに気づかずに、
   そして、第2次トランプ政権が、弱者の見方では決してないことを知らずに、
   アメリカ国民の多くは、トランプを鳴り物入りで囃し立てている。
   知的水準の格差、民度の格差が、アメリカを窮地に追い込んでいる。
   
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また、PLALAのメールアドレスが盗まれた

2024年07月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
  遅い午後、外出から帰ってOutlookでメールを開こうとしたらフリーズしたままで画面が動かい、メールが開けない。
   少しすると、小さな画面が表れて、IDとPWを打ち込めと指示が出た。ログイン指示だと思って、打ち込んだが、画面には送受信エラーが出ただけで変化がない。
   PWは、先月末のメールアドレス盗難事件で変更した新しいのを何度も確認して打ち込んだが、作用しない。IDはメールアドレスであり間違いないので、PWが不具合ということである。
   先のトラブルは、PWを盗まれてメールを乗っ取られて悪質メールを拡散されるのを察知したPLALAが、PWを急遽変更して悪化を回避したと聞いていたので、この事件の再来かと嫌な予感がした。

   PLALAに電話して聞いたら、やはり、PLALAのWevメールからメールが盗まれて、危機回避のために、PWを変更したので、メールの送受信ができなくなったということであった。
   急遽PWを変更してOutlookを開いたら、怒涛のように新規メールが飛び込んできた。2000に近いメール量である。
   その大半、というよりも殆ど全てが、Mail Administratorなどの受信拒否連絡メールであった。
   
   前回は、窃盗者に勝手に2件のオプションが申請されてメールが発信されて、その拒否通知の Mail Administratorで150通くらいで治まったが、今回はその10倍以上。
   時間切れで、PLALAとの連絡電話は切れて、翌日、専門スタッフから電話するということになった。
   前回と同じことをして、このオプションを消すのであろうが、この鼬ごっこがいつまで続くのであろうか。
   
   前述したように、PLALAへ電話して、はじめてメール窃盗の話が分かって対処しているのだが、PLALAからは、メールPWを変えろというメール案内だけ。
   大々的にPLALAからMAが盗まれて私のようなケースが起こっているのかと聞いたら、いくらかそんな電話があるという返事である。
   インターネットで、「PLALAメール障害」など類似の検索をしたが、DOCOMOからの、3月の「 PLALAの インターネット接続サービスに関する重:要なお知らせ(通信障害等)」があるだけで、一切私のケースのような障害報告はない。

   2週間足らずの間に、2回もメールアドレスが盗まれるという不祥事、
   DOCOMOというべきか、NTTグループのセキュリティシステムはどうなっているのか。

   このPLALAのメールアドレスを放棄して新しいメールに切り替えるのが一番良いのであろうが、もう20年近くも使っているので、影響が大きい。
   それに、このパソコンがダウンして先月初期化したので、メールアドレスなどすべて消去してしまったので追跡のしようがない。

   さて、どうするか。
   傘寿を超えたITディバイドの老人には死活問題である。
   PLALAからの電話を待って、続報する。

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平川 祐弘 著「日本人に生まれて、まあよかった」

2024年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「自虐」に飽きた、すべての人に贈る辛口・本音の日本論! 日本人が自信を取り戻し、日本が世界に「もてる」国になるための秘策とは? 教育、歴史認識、国防、外交―比較文化史の大家が戦後民主主義の歪みを一刀両断!というこの10年前の新書版。
   積み上げた本の山を崩していて、どこかで見た名前だと思ったら、ダンテの「新曲」やボッカッチョの「デカメロン」で読んだ山川先生の本である。

   日本の良さとは関係ないが、この本の序章で述べている見解などが、私自身の経験ともダブっていて興味深いので、一寸触れてみたい。
   まず、著者の思想遍歴であるが、当時東大ではマルクス優位で、駒場寮で不破哲三と同室であったが、唯物史観には違和感があって、一種のオカルト集団だと思った。しかし、資本主義に対する社会主義の優位は当然のことと思っていた。という。
   「朝日新聞」や「世界」の読者で、南原繁や大内兵衛などの進歩的知識人を糾合した平和問題懇談会などの論壇主流の考えに従っていたのだが、イデオロギーには信を置かず、教養部では地道に複数の外国語を学んだ。フィロソフィー(哲学)ではなく、フィロロジー(外国語)を重んじた。その人文主義的アプローチのおかげで、真面な人生を送れた。マルクスに打ち込んだ人は、みなさん政治的にも学問的にも世間の役立たずになった。というのが面白い。

   ここで考えるべきは、一つの教条的な思想哲学に入れ込んで学ぶよりは、幅広くリベラルアーツを学んだ方が常識人というか、バランスの取れた人間を育成できるということであろう。専門教育の中途半端とリベラルアーツ教育の貧弱さが、日本の教育の欠陥であろうか。

   著者より10年くらい後の安保騒動で学生運動が熾烈を極めていた頃の京大だが、元々、経済学部の教授陣の7割がマル経であったので、文句なしにマルクスであった。
   ところが、私自身は、高校時代から「世界」を購読していて、かなり、進歩的思想には興味を持っていた。
   しかし、なぜか、マルクスには何の興味もなく主義信条にも関心がなく、学生運動やサークル活動に参加していなかったので、人並みに、学生集会に参加し、河原町通りなどでのデモ行進には参加したものの、安保反対運動や学生運動には無縁であった。
   ゼミは、理論経済学の大家岸本誠二郎教授を選んだので、マル経とは関係なかったし、ケインズやシュンペーターやガルブレイスなどを独習していた。
   サミュエルソンの「エコノミクス」で、近経の基礎を叩き込んだおかげ困ることはなかったし、その後、アメリカのビジネススクールでのマクロとミクロの経済学でブラッシュアップできたと思っている。
   今頃になって、マルクスの偉大さを斜めから垣間見て、少しは、勉強すべきであったと後悔している。

   ところで、ロンドンに居た時に、マルクスが住んでいた旧宅の跡地を何回か訪れている。
   ロンドンのウエストエンドの繁華街に、「クオバディス」というイタリアン・レストランがあって、その上階の屋根裏部屋がその家である。マルクスは、ここから、それほど遠くない大英博物館に通って勉強していたのである。薄暗い小部屋が並んでいて、当時そのままだとオーナーは言っていた。
   マルクス主義者にとっては聖地のはずだが、訪れる人は殆ど居ない。

  もう一つ付記しておきたい日本の良さは、
  東アジア諸国の中で日本のように言論の自由が認めれれている国に生を受けたことは、例外的な幸福であると感じています。私はこの類まれな幸福を誇りに思い、言論の自由、」表現の自由を尊ぶ者として、その事実を率直に公言することを憚りません。という指摘である。
   私は、ビジネスや私的旅行で世界各地を歩いてきて、特に不自由を感じたことがなかったが、学者として、多くの留学生や訪問教授と付き合い、西洋のみか東アジア諸国の大学で講義や講演を体験してきた著者にとっては深刻な問題であったのであろう。

   若いころは、ビジネスで東南アジア各地も走り回ったが、21世紀に入ってからは、台湾と中国への観光旅行だけである。
   しかし、最近では、何がひっかるかわからないので、もう、行きたくない。
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PS:ダロン・アセモグル「それ自体が労働者びいきにならなければ、民主主義は死滅する」

2024年06月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
プロジェクト・シンジケートのダロン・アセモグルの論文「それ自体が労働者びいきにならなければ、民主主義は死滅するIf Democracy Isn’t Pro-Worker, It Will Die」が興味深い。

   民主主義は、約束された成果が達成されていないため、先進国全体で危機に瀕している。中道左派と中道右派が、賃金停滞、格差拡大、その他の好ましくない傾向と密接に結び付いているという事実から、極右と過激派政党は恩恵を受けて勢力を拡大している。
   民主主義が、国民の支持と信頼を取り戻すには、より労働者寄りで平等主義的になる必要がある。というのである。

   論点を抄訳すると、次のとおり。
   世界中で民主主義がますます緊張し、権威主義政党からの挑戦が激化していることは、すでにわかっていた。調査によると、民主主義制度への信頼を失っている国民の割合はますます増えている。極右が若い有権者に浸透していることは特に憂慮すべきである。今回のEUの選挙が警鐘だったことは誰も否定できない。
   しかし、この傾向の根本原因を理解しない限り、制度の崩壊や過激主義から民主主義を守る取り組みは成功しそうにない。
   先進国全体で民主主義が危機に陥っている理由は、制度のパフォーマンスが約束された水準に達していないことである。米国では、所得分布の底辺と中間層の実質所得は1980年以降ほとんど増加しておらず、政治家もそれについてほとんど何もしてこなかった。同様に、ヨーロッパの多くの国では、特に 2008 年以降、経済成長が鈍化していて、最近低下傾向にはあるが若者の失業率は、フランスや他のヨーロッパ諸国では長い間、大きな経済問題となっている。

   西側の自由民主主義モデルは、雇用、安定、高品質の公共財を提供することになっていた。第二次世界大戦後、このモデルはほぼ成功したが、1980 年頃からはほぼすべての点で不十分であった。左派と右派の両方の政策立案者は、専門家によって設計され、高度な資格を持つテクノクラートによって管理される政策を宣伝し続けた。しかし、これらの政策は繁栄の共有をもたらさなかったのみならず、2008 年の金融危機の条件を作り出し、成功の痕跡をすべて剥ぎ取った。ほとんどの有権者は、政治家は労働者よりも銀行家のことを気にしていると結論付けた。

   民主主義が経済成長、腐敗のない政府、社会と経済の安定、公共サービス、格差の少なさを実現しているという直接的な経験を持つ有権者は、民主主義制度を支持する傾向があるが、これらの条件を満たさなければ支持を失うのは当然のことである。
   さらに、民主主義の指導者は国民の大部分の生活条件の改善に貢献する政策に焦点を当てているにもかかわらず、国民と効果的にコミュニケーションをとることに成功していない。
   民主主義の指導者は、国民のより深い懸念にますます無関心になっている。フランスの場合、これは部分的にマクロンの横暴なリーダーシップスタイルを反映している。しかし、これはまた、制度に対する信頼のより広範な低下、そしてソーシャルメディアやその他のコミュニケーション技術が(左派と右派の両方で)二極化した立場を促進し、国民の多くをイデオロギーの反響室に追い込む役割を果たしている。
   政策立案者や主流派の政治家も、大規模な移民がもたらす経済的、文化的混乱に鈍感であった。ヨーロッパでは、過去10年間で中東からの大量移民について国民のかなりの割合が懸念を表明したが、中道派の政治家(特に中道左派の指導者)はこの問題への取り組みが遅かった。それが、スウェーデン民主党やオランダ自由党などの反移民極右政党に大きなチャンスをもたらし、その後、これらの政党は与党の公式または非公式な連立パートナーとなった。

   先進国における共通の繁栄を妨げる課題は、AIと自動化の時代には、さらに大きな問題となろう。気候変動、パンデミック、大量移民、地域および世界の平和に対するさまざまな脅威が、すべて懸念事項となっている時代である。
   しかし、民主主義は依然としてこれらの問題に対処するのに最も適している。歴史的および現在の証拠は、非民主的な政権は国民のニーズに応えにくく、恵まれない市民を支援する効果が低いことを明確に示しており、証拠も非民主的な政権が長期的には最終的に成長を低下させることを示している。

   それでもなお、民主的な制度と政治指導者は、公正な経済の構築に新たな取り組みをする必要がある。それは、多国籍企業、銀行、および世界的な懸念よりも、労働者と一般市民を優先し、適切な種類のテクノクラシーへの信頼を育むことを意味する。グローバル企業の利益のために政策を押し付ける無関心な役人ではだめで、気候変動、失業、不平等、AI、そしてグローバリゼーションの混乱に対処するには、民主主義国は専門知識と国民の支持を融合させる必要がある。
   これは容易なことではない。なぜなら、多くの有権者が中道政党を信用しなくなっているからである。フランスのジャン=リュック・メランションに代表される極左派は、労働者への献身や銀行やグローバルビジネスの利害からの独立という点で主流派政治家よりも信頼性が高いが、左派のポピュリスト政策が本当に有権者が望む経済をもたらすかどうかは不明である。
   これは中道政党が進むべき道の1つを示唆している。彼らは、グローバルビジネスや規制のないグローバリゼーションへの盲目的な忠誠を拒否し、経済成長と不平等の低減を組み合わせる明確で実行可能な計画を提示するマニフェストから始めることができる。また、開放性と移民に対する合理的な制限の許容との間でより緊密なバランスを取る必要がある。
   議会選挙の第2回投票で国民連合に対抗して十分な数のフランスの有権者が民主派政党を支持すれば、マクロンの賭けはうまくいくかもしれない。しかし、たとえそうなったとしても、従来通りのやり方を続けることはできない。民主主義が、国民の支持と信頼を取り戻すには、より労働者寄りで平等主義的になる必要がある。

   以上が、アセモグルの主張だが、
   危機に瀕している民主主義を救済するためには、そのパフォーマンスに失望して信頼を失っている重要な担い手である労働者や一般市民の安寧と生活水準をレベルアップすることによって、中道政治の支配体制を取り戻す以外に道はない、ということであろうか。
   私が興味を持ったのは、ワシントン・コンセンサスを皮切りとした、そして、EUのブラッセル官僚に至る独善的強権的に民主主義の政策を操ってきたテクノクラートの政治経済政策管理が、資本主義の方向性を誤って民主主義を窮地に追い込んできたという強烈な糾弾である。
   国際機関や官僚機構の主導を許して、 高邁な哲学思想を欠いた為政者や政治家に支配されたリーダー不在の世紀末から今日にいたる政治経済社会体制が、民主主義を弱体化させてきたということである。


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W・チャン・キム 他著「ブルー・オーシャン・シフト」

2024年06月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   W・チャン・キム & レネ・モボルニュ 著の「ブルー・オーシャン戦略――競争のない世界を創造する」の続編である。長い間積読であったのを、パソコン故障で手持無沙汰となって、書棚から引き出した。
   このブルーオーシャンの本は、クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」に関する一連の本とともに、イノベーション論で最も感化を受けた本である。
   さて、この本は、更に進めて、あらゆる組織が、レッド・オーシャンからブルー・オーシャンへシフトして、どのようにして新たな成長をつかみ取るか、その戦略と方法を説いていて興味深い。

   レッド・オーシャンは、大多数の企業が競争する既存の企業界を指し、ブルー・オーシャンは、無競争で全く新たに創造される業界すべてを指し、利益や成長は次第にここから生まれるようになる。血みどろの既存市場での競争に明け暮れて呻吟するレッド・オーシャン企業の競争の理論に対して、競争を無意味にする市場創造の理論である「ブルー・オーシャン戦略」を解き明かす。

   さて、今回面白いと思ったのは、「攪乱的イノベーション」という概念である。
   クリステンセンは、イノベーションを「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」に分けて、後者の革命的イノベーションについて詳細に論じて一世を風靡した。
   ところが、キムたちは、このクリステンセンの「破壊的イノベーション  disruptive  innovation 」を破壊的ではなく、「攪乱的イノベーション」と訳して、disruptive(混乱を起こさせる、妨害する)とdestructive(破壊的)とに明確に使い分けている。このように使い分けると、クリステンセンの破壊的イノベーションは「攪乱的イノベーション」であって、低位のテクノロジーから支配的イノベーションへと進化してリーダー企業を凌駕してゆく、イノベーターのジレンマの過程が良く分かる。

   ところで、シュンペーターの説いたのは、「創造的破壊 creative destruction 」である。
   経済成長の真のエンジンは、新市場の創造であり、この創造は破壊によってもたらされる。破壊が起きるのは、イノベーションが従来の技術や既存の製品・サービスに代替することによってであり、代替なしには破壊は起きない。
   創造的破壊が、優れた技術、製品、サービスが登場して、従来のものに取って代わることによって起こるのだが、現実には多大の影響力を持つクリステンセンの説く前述の「攪乱的イノベーション」が重要である。
   最初は劣った技術なのでトロイの木馬として登場して、やがて、優れた技術や製品に進化して、市場リーダーを駆逐する。市場を揺るがせるような技術ではなかったので新参者を無視して看過したリーダー企業が気付いた時には既に手遅れとなって駆逐されてしまう。

   尤も、非攪乱的創造も生まれている。
   セサミストリートやマイクロフィナンスのグラミン銀行などその例で、それに、ICT分野でも多数生まれている。
   イノベーションは、多岐にわたっているのである。

   注目すべきは、技術イノベーターは、卵を産むかもしれないが、自分たちで孵化させるわけではない。その卵を孵化させて商業的な成功へ導くのは、他の企業家であって、例えば、
   世界最初のPCを発明したのはMITSだったが、新しいPCのマスマーケットを支配したのは、アップルとIBMであった。
   ダーウィンの海や死の谷を越えて、イノベーションを企業化するのは大変なのである。
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本への志向が変ると言うこと

2024年05月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、「旅心を刺激する本」と言うことで私見を書いたが、ふっと気付いたのは、昔と違って、大分本の読み方が変って来たのかも知れないということである。
   勿論、学生の頃とビジネスマンの頃と引退後との読書傾向が変ってくるのは当然なのだが、それよりも、自分自身のものの考え方なり、興味関心が変化してきたという方が大きいかも知れないと言う気がしている。

   まず、私の読書だが、考えてみれば、今まで、本にのめり込んでとか、夢中になって本を読むとかいった感じで、読書することは殆どなかった。どちらかというと、本を読もうとそのつもりになって努力して読むと言った傾向の方が強かったような気がする。
   だからと言って、それが苦痛だと言うことでは全くなくて、新しい知への遭遇が嬉しくて、ドンドン本を読みたいたいと言う気持ちが勝って読書を続けてきた。

   この傾向は、学生時代の経済学などの専門書の読み方と似ている。
   知識を吸収するためには、難しい本であっても、ドンドン新しい本に挑戦して、視野を広めて深掘りする必要があり、その継続であった。
   丁度、古社寺など歴史散歩に明け暮れてて日本文化を勉強したいと、真善美の追求に目覚め始めた時期でもあったので、何の抵抗もなく、この方は、趣味と実益を兼ねてと言うことでもあり、読書の幅が広がって行った。
   尤も、もっと深く知りたいと言う思いで本を読んでいるので、能狂言などをはじめとして、結構、気を引き締め努力して読まなければならないこともあったが、それも読書の醍醐味でもあった。

   さて、最近の読書だが、現役を離れて随分経つので、経営学関係の本からは大分距離を起き始めて来て、興味は、イノベーション以外には、資本主義や民主主義の動向など歴史的というか世界観の展開に移ってきた感じである。文化文明論や歴史関係の本を引っ張り出すことが多くなってきた。

   何冊か同時に並行読みするのも、私の読書方法だが、専門書などは、結構この方法が有効で、このブログでも備忘録を兼ねてブックレビューしているので検索しながら、過去の知も引き出して参考にしている。

   ところで、今並行読みしているのは、ボッカッチオの「デカメロン」、
   100話あるので、小刻みに読んでいる。
   愛の交歓をテーマにした艶笑話という巷の評価かも知れないが、決してそんな低俗な作品ではなく、主に、ルネサンス初期のイタリアを舞台にした喜怒哀楽、生身の人間模様を活写した文学作品で、ルネサンス裏面史を観ていうようで面白い。 
   時折、ダンテの「神曲」も、この辺りの話と相通じているので、並行読みに加えることもあって、期せずして、ダ・ヴィンチやミケランジェロに飛ぶこともある。ルネサンス・イタリアにはポケットが沢山あって興味深いのである。

   変ったと言えば、このように、メインの専門書の読書からはみ出して、あっちこっち興味の向くままに、本の谷間をステップし始めたと言うことであろうか。

       
   
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旅心を刺激する本と言うのだが

2024年04月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   インターネットを叩いていて、「日経BOOKプラス ~ 本に学ぶ、明日が変わる」の「東京・吉祥寺 街々書林 旅心を刺激する魅惑の本屋さん」の記事に出くわした。
   2023年6月、「旅先への興味と敬意」をコンセプトにした、「旅する本屋 街々書林」が、東京・吉祥寺にオープンした。観光ガイドのみならず、紀行、エッセー、歴史、民族、地誌、言語など、「旅」を起点としたさまざまな本がそろう。当店のコンセプトを格好良く言えば、「旅先への興味と敬意」です。と言う。
   旅行ガイドや旅行記、紀行、エッセーなどと共に、たくさんの歴史の本や人文書があるという旅の本の専門書店であろう。

   さて、私自身読書ファンであって傘寿を越えた今も毎日読書を続けており、旅についても、学生時代から現役引退後もかなりの期間、内外の旅を続けてきた。私自身の読書と旅の関わりはかなり濃密であり、その関係というか遍歴はどうであったのか、はたと考えてみた。

   もう60何年も前の学生時代は、当時、学割周遊券やユースホステルが安かったので、苦学生でも長旅が出来たので、九州と北海道の一周の旅に出た。幸いに、京都での学生生活であったので、京都や奈良など近畿地方の古社寺や歴史散歩に明け暮れていた。
   それでは、旅心を刺激したとか旅の参考にした本は何だったのかと言うことだが、地方の旅では、一応、交通公社の観光ガイドが頼りではあったが、殆どは学校で勉強した知識が参考に寄与した程度で、副読本は、あまり読まなかった。
   しかし、京都や奈良の旅というか芸術文化行脚には、和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」をはじめとして、歴史建造物、仏像、絵画、庭園、文學歴史などの関係本、源氏物語や平家物語など、随分読み漁って、理論武装して歩き回った。
   こうなると、読書が旅を刺激し旅が読書を刺激する、
   現役時代でも、出張が多くて土日を挟んで、かなり、地方を回る機会があって歴史や文化に触れてきたのだが、この場合にも読書と旅の好循環を経験してきている。

   海外の旅については、海外生活が14年で、1泊以上した国が、30カ国くらいになっており、世界の人々と切った張ったの激務ではあったが、私のような凡人には、見るべきものは見たと言う心境である。
   ギリシャ・ローマの文化や歴史に憧れて、パルテノンの丘にいつ立てるか、恋い焦がれた京都の学生時代が無性に懐かしいが、やはり、旅への憧れを触発したのは、世界の歴史や文化文明論、そして、写真や絵画、欧米のガイドブックなど多くの書物から得た世界への飽くなき思い。
   海外への門戸を一気に開いてくれたのは、奇しくも、フィラデルフィアへの大学院留学、
   海外業務と異郷の地で、寸暇を惜しんで、異文化異文明の遭遇渦巻く激流を噛みしめながら歩き続けてきた。

   ヨーロッパの旅行には、ミシュランのグリーンブックとレッドブック、そして、地図を携えて出かけた。必要に応じて、クックの時刻表や訪問国のガイドブックを使うことがあったが、旅行のスケジュール作成や旅行の手配一切は自分で独自でやって来たので、事前には、十分な情報を得て検討を重ねたつもりである。
   特に、イタリアやドイツやと言った、あるいは、ロマチック街道やスイスアルプスやと言った個別の情報に拘らずに、自分のそれまでの知識の総合で押し切り、現地に行けばミシュランガイドと現地情報で十分であった。

   めぼしい欧米の美術館博物館、歌劇場やホール、歴史遺産などには、現地で住んでいてアクセス自在だったので、ぶつけ本番で十分であった。特に、ダ・ヴィンチとフェルメールの絵画作品を殆ど鑑賞出来たのは本当に幸せだと思っている。
   シェイクスピア劇場へは小田島雄志の翻訳本を携えて通いつめ、結構シェイクスピア関連本も読んだ。
   しかし、このシェイクスピアもそうだし、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうだし、本格的に関係本の大著を読んだり、ダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」などを読んだのは最近であって、思い出を反芻している感じである。

   もう、体力的にも無理で、旅、特に、海外旅行を完全に諦めてしまったので、もう少し、外国の文化伝統歴史というか、その姿を本格的なバックグラウンドから見つめ直したいと言う気がしている。
   一見は百聞にしかずと言うが、実際に現地を旅して旅の本を読む楽しみは、格別であり、
   グラナダのアルハンブラ宮殿やコルドバのメスキータを観てイスラム文化を思うと、パレスチナのガザも違って見えてくる。
   
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