正月早々、面白い能を観た。
歌舞伎でお馴染み「鳴神」のオリジナル版と言うべきか、美女の色仕掛けに陥落した仙人を主人公にした話「一角仙人」である。
能の方は、天竺波羅奈国の話になっているが、元々、インドの「マーハバーラタ・リシャシュリンガ(鹿角物語)」が原典で、中国や朝鮮を経て日本に伝来し、「今昔物語」や「太平記」に出ているのを、金春禅鳳が作曲したもので、歌舞伎の方も、この古典から想を得たと言うのなら、オリジナルと言えようが、とにかく、同じ主題の話で、両方とも、舞台芸術としての展開が面白い。
私などは、若い頃に、同類の話で、久米仙人が、飛行の術の途中、久米川の辺で洗濯していた若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って空から墜落したと言う話を聞いて、人間いくら修業を積んだ高潔な人物でも、女性には弱いのだと知って、嫌に安心したのを覚えている。
解説に登場した林望先生が、異常な話を題材にして、人間の普遍的な真実を炙り出した話として鑑賞するようにと言った話をされていたが、正に、高潔な仙人の、酒好き女好きの本性を曝け出して堕落させると言う強烈なメッセージを観客に叩きつける舞台で、華麗な舞あり、仙人と解放された竜神との戦闘スペクタクルありで、非常に興味深い能舞台であった。
この一角仙人の出生から興味深く、
路上で放尿していた仙人が、雌雄の鹿の激しい濡れ場を見て触発されて、興奮が高じて洩精してしまい、その下に生えていた草の葉っぱを牝鹿が食べてしまったので妊娠し、この牝鹿が無事出産し誕生したのが、額にひとつの角が生えた子供で、名づけて一角仙人、この話の主人公である。
日本のみならず、世界各地にある異類婚姻譚の一種と考えれば良いのだろうが、あの豊満な女体を強調した男女融合の歓喜仏を寺院などの壁面に満艦飾のように彫りつけたインドの大らかな話であるから、面白い。
能では、元々、アイ狂言で、この一角仙人誕生の秘話をアイが語るシーンがあったようだが、今では省略されているのは、刺激が強いからだろうかと林先生は仰る。
要するに、獣性と人間性を併せ持った一角仙人が、いくら、修業を積んだ高潔な仙人に変身したとしても、先祖返りしたのであるから色に弱いと言うのは当然であろうと言うことで、話の辻褄が合う。
一方、歌舞伎の「鳴神」の方は、
日本の話となり、世継ぎのない天皇が、鳴神上人に寺院建立を約束して皇子誕生の願をかけさせ、見事これを成就させたのだが、天皇が寺院建立の約束を反故にしたので、怒った上人は、呪術で雨を降らす竜神を滝壷に封印してしまう。国中が旱魃に襲われ、困り果てた天皇が、色仕掛けで上人の呪術を破ろうと、内裏一の美女・雲の絶間姫を送り込む。姫の色仕掛けに上人も抗しきれず、思わずその身体に触れて戒律を犯し、酒に酔いつぶれて眠ってしまったので、その隙を見て姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け、竜神がそこから飛び出すと豪雨となり、姫は逃げ去る。
と言う話になっていて、ドロドロした前段のインドの鹿角の話はなくなって、聖人君子の色に弱い話だけが炙り出されてシンプルになっている。
太平記では、一角仙人が、ある日大雨に足を滑らせ山から転落してしまったことに腹を立て、雨を降らせる竜王を洞窟に押し込めてしまうと言う締まらない話になっているので、歌舞伎の方が人間臭くて良いと思う。
私が最初に「鳴神」を観たのは20年以上も前のロンドンで、勘三郎の鳴神上人、玉三郎の雲の絶間姫で、苦痛を訴える姫の体を摩りながら柔らかい胸の膨らみに触れた時の恍惚境を彷徨うような表情の勘三郎を見て、これでは籠絡するのは当然だと思って観ていた記憶がある。
その後、歌舞伎の舞台で、観ているのだが、あの時観た勘三郎と玉三郎の美しい舞台の印象は強烈に残っている。
さて、能の「一角仙人」の舞台だが、当然、同じ色仕掛けで、仙人が籠絡すると言うテーマの舞台であっても、勿論、俗に言うラブシーンもなければ、それとはっきりと分かるシーンもないので、省略に省略を重ねて研ぎ澄ました幽玄な舞の中に、それを感じなければならない。
浅見真洲のツレ/旋陀夫人に酒を注がれて、ほろ酔い機嫌の山本順之のシテ/一角仙人が、夫人の実に優雅な美しい魅力的な舞姿に誘い出され共に舞うのだが、最初は見よう見まねでぎこちなく、段々調子があって来てシテとツレの相舞が続く。
ちぐはぐだった足踏みのリズムが、段々、調子が合ってくるのが、愛の交感の高まりであろうか。
この相舞の愛の交感だが、仙人は踊りながら夫人に近づき、触ろうとすると夫人が離れ、着きつ離れつ、この僅かに触れるか触れないかの瞬間が、仙人の籠絡への引き金なのであろうが、能楽初歩の私には、息を凝らして凝視していないと決定的瞬間が何時なのか分からない。
最後に、たっぷりと夫人に酒を注がれて酩酊して正気を失ってしまうのだが、その姿を確認すると、旋陀夫人が、さっさと足早に橋掛かりに消えて行くのが興味深い。
その後は、仙人の霊力が消滅してしまったので、泰山鳴動して、舞台正面に据えられた黒い大きな円筒形の作り物が二つに割れて、可愛い子方の竜神が現れて、一角仙人に襲いかかって戦いとなる。
竜神は、丁度、竜を象った兜を被った、赤い長髪を靡かせた鏡獅子の子獅子のような可愛いいでたちで、刀を振り上げて、一角仙人を追っかけて戦う姿が、面白い。
世阿弥の夢幻能とは一寸違った舞台性のある面白い曲の能を観た思いで、楽しいひと時を過ごすことが出来た。
この日、同時に演じられたのが、万蔵たちの和泉流狂言「文相撲」であったが、これも、面白かった。
歌舞伎でお馴染み「鳴神」のオリジナル版と言うべきか、美女の色仕掛けに陥落した仙人を主人公にした話「一角仙人」である。
能の方は、天竺波羅奈国の話になっているが、元々、インドの「マーハバーラタ・リシャシュリンガ(鹿角物語)」が原典で、中国や朝鮮を経て日本に伝来し、「今昔物語」や「太平記」に出ているのを、金春禅鳳が作曲したもので、歌舞伎の方も、この古典から想を得たと言うのなら、オリジナルと言えようが、とにかく、同じ主題の話で、両方とも、舞台芸術としての展開が面白い。
私などは、若い頃に、同類の話で、久米仙人が、飛行の術の途中、久米川の辺で洗濯していた若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って空から墜落したと言う話を聞いて、人間いくら修業を積んだ高潔な人物でも、女性には弱いのだと知って、嫌に安心したのを覚えている。
解説に登場した林望先生が、異常な話を題材にして、人間の普遍的な真実を炙り出した話として鑑賞するようにと言った話をされていたが、正に、高潔な仙人の、酒好き女好きの本性を曝け出して堕落させると言う強烈なメッセージを観客に叩きつける舞台で、華麗な舞あり、仙人と解放された竜神との戦闘スペクタクルありで、非常に興味深い能舞台であった。
この一角仙人の出生から興味深く、
路上で放尿していた仙人が、雌雄の鹿の激しい濡れ場を見て触発されて、興奮が高じて洩精してしまい、その下に生えていた草の葉っぱを牝鹿が食べてしまったので妊娠し、この牝鹿が無事出産し誕生したのが、額にひとつの角が生えた子供で、名づけて一角仙人、この話の主人公である。
日本のみならず、世界各地にある異類婚姻譚の一種と考えれば良いのだろうが、あの豊満な女体を強調した男女融合の歓喜仏を寺院などの壁面に満艦飾のように彫りつけたインドの大らかな話であるから、面白い。
能では、元々、アイ狂言で、この一角仙人誕生の秘話をアイが語るシーンがあったようだが、今では省略されているのは、刺激が強いからだろうかと林先生は仰る。
要するに、獣性と人間性を併せ持った一角仙人が、いくら、修業を積んだ高潔な仙人に変身したとしても、先祖返りしたのであるから色に弱いと言うのは当然であろうと言うことで、話の辻褄が合う。
一方、歌舞伎の「鳴神」の方は、
日本の話となり、世継ぎのない天皇が、鳴神上人に寺院建立を約束して皇子誕生の願をかけさせ、見事これを成就させたのだが、天皇が寺院建立の約束を反故にしたので、怒った上人は、呪術で雨を降らす竜神を滝壷に封印してしまう。国中が旱魃に襲われ、困り果てた天皇が、色仕掛けで上人の呪術を破ろうと、内裏一の美女・雲の絶間姫を送り込む。姫の色仕掛けに上人も抗しきれず、思わずその身体に触れて戒律を犯し、酒に酔いつぶれて眠ってしまったので、その隙を見て姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け、竜神がそこから飛び出すと豪雨となり、姫は逃げ去る。
と言う話になっていて、ドロドロした前段のインドの鹿角の話はなくなって、聖人君子の色に弱い話だけが炙り出されてシンプルになっている。
太平記では、一角仙人が、ある日大雨に足を滑らせ山から転落してしまったことに腹を立て、雨を降らせる竜王を洞窟に押し込めてしまうと言う締まらない話になっているので、歌舞伎の方が人間臭くて良いと思う。
私が最初に「鳴神」を観たのは20年以上も前のロンドンで、勘三郎の鳴神上人、玉三郎の雲の絶間姫で、苦痛を訴える姫の体を摩りながら柔らかい胸の膨らみに触れた時の恍惚境を彷徨うような表情の勘三郎を見て、これでは籠絡するのは当然だと思って観ていた記憶がある。
その後、歌舞伎の舞台で、観ているのだが、あの時観た勘三郎と玉三郎の美しい舞台の印象は強烈に残っている。
さて、能の「一角仙人」の舞台だが、当然、同じ色仕掛けで、仙人が籠絡すると言うテーマの舞台であっても、勿論、俗に言うラブシーンもなければ、それとはっきりと分かるシーンもないので、省略に省略を重ねて研ぎ澄ました幽玄な舞の中に、それを感じなければならない。
浅見真洲のツレ/旋陀夫人に酒を注がれて、ほろ酔い機嫌の山本順之のシテ/一角仙人が、夫人の実に優雅な美しい魅力的な舞姿に誘い出され共に舞うのだが、最初は見よう見まねでぎこちなく、段々調子があって来てシテとツレの相舞が続く。
ちぐはぐだった足踏みのリズムが、段々、調子が合ってくるのが、愛の交感の高まりであろうか。
この相舞の愛の交感だが、仙人は踊りながら夫人に近づき、触ろうとすると夫人が離れ、着きつ離れつ、この僅かに触れるか触れないかの瞬間が、仙人の籠絡への引き金なのであろうが、能楽初歩の私には、息を凝らして凝視していないと決定的瞬間が何時なのか分からない。
最後に、たっぷりと夫人に酒を注がれて酩酊して正気を失ってしまうのだが、その姿を確認すると、旋陀夫人が、さっさと足早に橋掛かりに消えて行くのが興味深い。
その後は、仙人の霊力が消滅してしまったので、泰山鳴動して、舞台正面に据えられた黒い大きな円筒形の作り物が二つに割れて、可愛い子方の竜神が現れて、一角仙人に襲いかかって戦いとなる。
竜神は、丁度、竜を象った兜を被った、赤い長髪を靡かせた鏡獅子の子獅子のような可愛いいでたちで、刀を振り上げて、一角仙人を追っかけて戦う姿が、面白い。
世阿弥の夢幻能とは一寸違った舞台性のある面白い曲の能を観た思いで、楽しいひと時を過ごすことが出来た。
この日、同時に演じられたのが、万蔵たちの和泉流狂言「文相撲」であったが、これも、面白かった。