1988年頃だったと思うが、ロンドンのウエストエンドのクイーンズ・シアターで、初めてミュージカル「レ・ミゼラブル」を観た。
しかし、今回、映画版のミュージカルを観て、また、新しい感動を覚えて感激している。
私は、オペラが好きなので、オペラにしてもミュージカルにしても、歌のある映画にも興味を持っており、舞台芸術には生の良さはあるけれど、はるかに、分かり易くてリアルで臨場感に富んだ映画の魅力に魅せられることが多くて、意識して見ている。
今回も、沢山の囚人たちが「囚人の歌 Look Down」を歌いながら、巨大な船の船底で波をかぶりながら一列縦隊になって綱を引く冒頭のスペクタクル・シーンから観客を圧倒する迫力で、非常にドラマチックな素晴らしい映画である。
フランス革命の壮大なシーンも、視覚的な美しさのみならず、躍動感を高揚させて、物語のスケールを増幅していて面白い。
このミュージカルの英語版は、1985年初演であったから、私が観たのは、丁度、人気が出始めた頃で、その翌年に、ロイド=ウェバーの「オペラ座の怪人」が、ハー・マジェスティーズ・シアターで始まり、ロンドンのミュージカル界の人気を二分していた。ミュージカルやバレー、オペラが好きであった娘に促されて、両方とも何回か、劇場に通って鑑賞した。
その当時の記憶は、特定のメロディやシーンの一部くらいで、殆ど鮮明には残っていないのだが、最近、発売された、夫々の25周年記念公演の素晴らしいDVDを観て、当時の舞台を思い出しながら、感動を新たにしている。
映画とミュージカルの舞台とは、当然、鑑賞の仕方も印象も随分違うのだが、映画の場合には、まず、第一に舞台的な場所の制約が殆どないので、自由に製作できる分、非常に物語に添ったリアルな表現が出来るために、臨場感が違ってくる。
ミュージカルの舞台は、いくら芝居的な手法を使って公演しても、やはり、舞台芸術であるから制約があり、シェイクスピア戯曲が台詞で聴かせて感動させるように、歌唱で客を魅了しようとするので、どうしても歌唱力が強調される。
これは、オペラの場合も同じで、私には、「トスカ」で、強烈な思い出がある。
実際の舞台で鑑賞したのは、ロンドンのロイヤル・オペラで、マリオ・カヴァラドッシはパバロッティ、次は、ロンドンの北の郊外ケンウッドでのロイヤル・オペラの野外コンサート形式の特別公演で、マリオ・カヴァラドッシはプラシド・ドミンゴ、トスカはマリア・ユーイング、スカラピアは、ユスチアス・ディアスであった。
それなりに、素晴らしい公演で、楽しませて貰った。
ところが、当時、BBCテレビが、原作に基づいて、場所と時間を完全に原作に合わせて、オペラ作品をライブで撮って、同時に放映したのである。
最後のサンタンジェロ城のシーンなどは、夜明けだったと思うのだが、とにかく、放映時間を待って鑑賞するのだから、この24時間は、時間調整が大変であった。
しかし、このライブ放映オペラ・プロジェクトは、その迫力と言い臨場感と言い、私には極めて強烈で、終生忘れられない印象を残した。
ドミンゴ、マルフィターノ、ライモンディ、メータと言うベスト・キャストは言うまでもなく、実際の時間に合わせて、実在するローマの教会や宮殿、古城を舞台にして、ストーリーそのままのオペラを鑑賞できたのであるから、実際映画になっているドミンゴやカバイバンスカの映画版「トスカ」とは一味も二味も違った、数段上の感動的な「トスカ」であった。
この番組を録画したけれど、英国方式なので廃却して、残念ながらなくなっており、帰ってからDVDでも買おうと思ったのだが、出ていなくて買えない。
前置きが長くなり過ぎたのだが、いずれにしろ、この映画「レ・ミゼラブル」は、アフレコではないミュージカル映画なので、このライブ版トスカに近く、迫力と臨場感が抜群である。
さて、ミュージカルの舞台とこの映画との違いだが、まず、
コゼットへ仕送りするために、失業したので娼婦となってどん底の生活に落ちぶれたフォンテーヌ(アン・ハサウェイ)が歌う「夢やぶれて I dreamed a dream」だが、ミュージカルの舞台では、資金画策に貧民窟に出かけて行って身ぐるみ剥がれる前に歌われるのだが、これは、演技よりも、オペラの表現に近くて、歌唱力で観客に訴えかけるので、歌手は熱唱する。
しかし、この映画では、身を売って憔悴し切って瀕死の状態になって横たわった姿で歌われており、
製作陣がこだわって、前述したように、すべての歌を実際に歌いながら、生で収録する撮影方法を取ったので、役者の感情のほとばしりがそのまま歌声となって溢れ出すので、観客に与える強烈な印象は数倍上で、ハサウェイの熱演は、まさに特筆ものである。
「初めて客に体を売ったフォンテーヌが、絶望に打ちひしがれて声を振り絞るさまに、トム・フーパー監督をはじめその場にいたスタッフたちは圧倒されて言葉を失くし、その場に立ち尽くしたと言う」のだから、凄いの一語に尽きる。
あのきれいなハサウェイが、髪を切られて傷まみれの見るも無残な姿に変わり果てて、這いずり回りながらの熱演は感動的で、その為に、幕切れ前の、死期を迎えたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)を天国へいざなう姿の崇高さは、素晴らしい余韻を残して清々しい。
この映画は、ジャン・バルジャンとそれを執拗に追い続けるジャベール(ラッセル・クロウ)が両輪となって進行する映画だと思うのだが、私は、フォンテーヌ同様、女性陣の活躍も忘れてはならないと思っている。
箒を持って「幼いコゼット Castle on a Cloud」を歌いながら登場するコゼットの可愛さそのものが、ジャン・バルジャンの献身的な無償の愛と無上の幸せを示す導入部として格好のシーンだが、一寸、マンマ・ミーアの印象が強烈過ぎて多少気にはなるのだが、コゼットを演じるアマンダ・セイフライドも恋する乙女の初々しさを実に上手く演じている。
ミュージカルの舞台でもそうだが、必死になってマリウスを思いつめて片思いで死んで行くエポニーヌ(サマンタ・パークス)も素晴らしい登場人物で、「オン・マイ・オウン In My Life / A Heart Full Of Love」など感動的な歌を歌っていて胸を打つ。
夢破れて死んでゆくフォンテーヌなど3人の女性陣の愛の軌跡が、この物語を豊かにしている。
さて、舞台やミュージカル俳優からキャリアをスタートして、ハリウッドのトップスターとなったジャックマンだが、ジャン・バルジャン役を喉から手が出るほど望んだと言うのだが、いざ決まると、あまりにも誰もが熟知した有名な役柄故に、プレッシャーや責任に身が引き締まる思いだったと述懐している。
やはり、キャリアが功を奏したのか、歌について、
「生で歌いながら演技するというのは、キャラクターがそのときに感じた気持ちをそのまま表現できる自由や楽しさがあり、歌のトーンもスピードも、演技に忠実に合わせられるので、自分自身が列車を運転しているようなものだ。」とか、
「舞台ならば、客席の奥まで聞こえるように声を張り上げ高らかに歌うところを、映画ではよりキャラクターの気持ちに添って表現できた。」と語っているのが興味深く、非常に情感豊かに噛みしめるように歌っていたのが印象的であった。
ジャベールのラッセル・クロウは、単なる嫌味な悪役になるのではなくて、役目一筋の忠僕に徹しながらもどこかに人間の弱さと温かさを秘めたスケールの大きな演技をしていて、文句なしに上手いと思った。
マリウスのエディ・レッドメインは、実に素直な演技で、正に、好男子である。
テナルディエ夫妻(サシャ・バロン・コーエン&ヘレナ・ボナム=カーター)の悪辣さと底抜けの悪賢さは、この映画の正に主題であるLes Miserablesの典型的な代表選手であり、あのフランス革命前後の無知と悲惨に象徴されていた人間の生への飽くなき渇望と足掻きを描いていて秀逸である。
「民衆の歌(The People's Song)」など多くの重唱や合唱の、大地を揺るがすような歌声が素晴らしい。
付記するが、この映画も凄いが、25周年記念の公演のDVDの素晴らしさも特筆もので、稀有にも生存しているオリジナルキャストやスタッフが、カーテンコールで総出演して、まず、4人のジャン・バルジャン俳優が、「彼を帰して Bring Him Home」を、そして全員で、「ワン・デイ・モア(One Day More)」を熱唱するのだが、正に圧巻で、30年近くも世界中の大衆から愛され続けている秘密が良く分かる。
コピーした2ショット。
このビクトル・ユーゴーの物語は、強烈な格差と貧困にあえぐ民衆が必死になって生きながら、自由平等友愛を求めて戦ったフランス革命を絡ませながら、明日への夢と希望を高らかに謳っているように思うのだが、あれから、250年近くも経つにも拘わらず、今でも、同じように深刻な格差と貧困が、グローバルベースで残っているのは、どうしたことであろうか。
しかし、今回、映画版のミュージカルを観て、また、新しい感動を覚えて感激している。
私は、オペラが好きなので、オペラにしてもミュージカルにしても、歌のある映画にも興味を持っており、舞台芸術には生の良さはあるけれど、はるかに、分かり易くてリアルで臨場感に富んだ映画の魅力に魅せられることが多くて、意識して見ている。
今回も、沢山の囚人たちが「囚人の歌 Look Down」を歌いながら、巨大な船の船底で波をかぶりながら一列縦隊になって綱を引く冒頭のスペクタクル・シーンから観客を圧倒する迫力で、非常にドラマチックな素晴らしい映画である。
フランス革命の壮大なシーンも、視覚的な美しさのみならず、躍動感を高揚させて、物語のスケールを増幅していて面白い。
このミュージカルの英語版は、1985年初演であったから、私が観たのは、丁度、人気が出始めた頃で、その翌年に、ロイド=ウェバーの「オペラ座の怪人」が、ハー・マジェスティーズ・シアターで始まり、ロンドンのミュージカル界の人気を二分していた。ミュージカルやバレー、オペラが好きであった娘に促されて、両方とも何回か、劇場に通って鑑賞した。
その当時の記憶は、特定のメロディやシーンの一部くらいで、殆ど鮮明には残っていないのだが、最近、発売された、夫々の25周年記念公演の素晴らしいDVDを観て、当時の舞台を思い出しながら、感動を新たにしている。
映画とミュージカルの舞台とは、当然、鑑賞の仕方も印象も随分違うのだが、映画の場合には、まず、第一に舞台的な場所の制約が殆どないので、自由に製作できる分、非常に物語に添ったリアルな表現が出来るために、臨場感が違ってくる。
ミュージカルの舞台は、いくら芝居的な手法を使って公演しても、やはり、舞台芸術であるから制約があり、シェイクスピア戯曲が台詞で聴かせて感動させるように、歌唱で客を魅了しようとするので、どうしても歌唱力が強調される。
これは、オペラの場合も同じで、私には、「トスカ」で、強烈な思い出がある。
実際の舞台で鑑賞したのは、ロンドンのロイヤル・オペラで、マリオ・カヴァラドッシはパバロッティ、次は、ロンドンの北の郊外ケンウッドでのロイヤル・オペラの野外コンサート形式の特別公演で、マリオ・カヴァラドッシはプラシド・ドミンゴ、トスカはマリア・ユーイング、スカラピアは、ユスチアス・ディアスであった。
それなりに、素晴らしい公演で、楽しませて貰った。
ところが、当時、BBCテレビが、原作に基づいて、場所と時間を完全に原作に合わせて、オペラ作品をライブで撮って、同時に放映したのである。
最後のサンタンジェロ城のシーンなどは、夜明けだったと思うのだが、とにかく、放映時間を待って鑑賞するのだから、この24時間は、時間調整が大変であった。
しかし、このライブ放映オペラ・プロジェクトは、その迫力と言い臨場感と言い、私には極めて強烈で、終生忘れられない印象を残した。
ドミンゴ、マルフィターノ、ライモンディ、メータと言うベスト・キャストは言うまでもなく、実際の時間に合わせて、実在するローマの教会や宮殿、古城を舞台にして、ストーリーそのままのオペラを鑑賞できたのであるから、実際映画になっているドミンゴやカバイバンスカの映画版「トスカ」とは一味も二味も違った、数段上の感動的な「トスカ」であった。
この番組を録画したけれど、英国方式なので廃却して、残念ながらなくなっており、帰ってからDVDでも買おうと思ったのだが、出ていなくて買えない。
前置きが長くなり過ぎたのだが、いずれにしろ、この映画「レ・ミゼラブル」は、アフレコではないミュージカル映画なので、このライブ版トスカに近く、迫力と臨場感が抜群である。
さて、ミュージカルの舞台とこの映画との違いだが、まず、
コゼットへ仕送りするために、失業したので娼婦となってどん底の生活に落ちぶれたフォンテーヌ(アン・ハサウェイ)が歌う「夢やぶれて I dreamed a dream」だが、ミュージカルの舞台では、資金画策に貧民窟に出かけて行って身ぐるみ剥がれる前に歌われるのだが、これは、演技よりも、オペラの表現に近くて、歌唱力で観客に訴えかけるので、歌手は熱唱する。
しかし、この映画では、身を売って憔悴し切って瀕死の状態になって横たわった姿で歌われており、
製作陣がこだわって、前述したように、すべての歌を実際に歌いながら、生で収録する撮影方法を取ったので、役者の感情のほとばしりがそのまま歌声となって溢れ出すので、観客に与える強烈な印象は数倍上で、ハサウェイの熱演は、まさに特筆ものである。
「初めて客に体を売ったフォンテーヌが、絶望に打ちひしがれて声を振り絞るさまに、トム・フーパー監督をはじめその場にいたスタッフたちは圧倒されて言葉を失くし、その場に立ち尽くしたと言う」のだから、凄いの一語に尽きる。
あのきれいなハサウェイが、髪を切られて傷まみれの見るも無残な姿に変わり果てて、這いずり回りながらの熱演は感動的で、その為に、幕切れ前の、死期を迎えたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)を天国へいざなう姿の崇高さは、素晴らしい余韻を残して清々しい。
この映画は、ジャン・バルジャンとそれを執拗に追い続けるジャベール(ラッセル・クロウ)が両輪となって進行する映画だと思うのだが、私は、フォンテーヌ同様、女性陣の活躍も忘れてはならないと思っている。
箒を持って「幼いコゼット Castle on a Cloud」を歌いながら登場するコゼットの可愛さそのものが、ジャン・バルジャンの献身的な無償の愛と無上の幸せを示す導入部として格好のシーンだが、一寸、マンマ・ミーアの印象が強烈過ぎて多少気にはなるのだが、コゼットを演じるアマンダ・セイフライドも恋する乙女の初々しさを実に上手く演じている。
ミュージカルの舞台でもそうだが、必死になってマリウスを思いつめて片思いで死んで行くエポニーヌ(サマンタ・パークス)も素晴らしい登場人物で、「オン・マイ・オウン In My Life / A Heart Full Of Love」など感動的な歌を歌っていて胸を打つ。
夢破れて死んでゆくフォンテーヌなど3人の女性陣の愛の軌跡が、この物語を豊かにしている。
さて、舞台やミュージカル俳優からキャリアをスタートして、ハリウッドのトップスターとなったジャックマンだが、ジャン・バルジャン役を喉から手が出るほど望んだと言うのだが、いざ決まると、あまりにも誰もが熟知した有名な役柄故に、プレッシャーや責任に身が引き締まる思いだったと述懐している。
やはり、キャリアが功を奏したのか、歌について、
「生で歌いながら演技するというのは、キャラクターがそのときに感じた気持ちをそのまま表現できる自由や楽しさがあり、歌のトーンもスピードも、演技に忠実に合わせられるので、自分自身が列車を運転しているようなものだ。」とか、
「舞台ならば、客席の奥まで聞こえるように声を張り上げ高らかに歌うところを、映画ではよりキャラクターの気持ちに添って表現できた。」と語っているのが興味深く、非常に情感豊かに噛みしめるように歌っていたのが印象的であった。
ジャベールのラッセル・クロウは、単なる嫌味な悪役になるのではなくて、役目一筋の忠僕に徹しながらもどこかに人間の弱さと温かさを秘めたスケールの大きな演技をしていて、文句なしに上手いと思った。
マリウスのエディ・レッドメインは、実に素直な演技で、正に、好男子である。
テナルディエ夫妻(サシャ・バロン・コーエン&ヘレナ・ボナム=カーター)の悪辣さと底抜けの悪賢さは、この映画の正に主題であるLes Miserablesの典型的な代表選手であり、あのフランス革命前後の無知と悲惨に象徴されていた人間の生への飽くなき渇望と足掻きを描いていて秀逸である。
「民衆の歌(The People's Song)」など多くの重唱や合唱の、大地を揺るがすような歌声が素晴らしい。
付記するが、この映画も凄いが、25周年記念の公演のDVDの素晴らしさも特筆もので、稀有にも生存しているオリジナルキャストやスタッフが、カーテンコールで総出演して、まず、4人のジャン・バルジャン俳優が、「彼を帰して Bring Him Home」を、そして全員で、「ワン・デイ・モア(One Day More)」を熱唱するのだが、正に圧巻で、30年近くも世界中の大衆から愛され続けている秘密が良く分かる。
コピーした2ショット。
このビクトル・ユーゴーの物語は、強烈な格差と貧困にあえぐ民衆が必死になって生きながら、自由平等友愛を求めて戦ったフランス革命を絡ませながら、明日への夢と希望を高らかに謳っているように思うのだが、あれから、250年近くも経つにも拘わらず、今でも、同じように深刻な格差と貧困が、グローバルベースで残っているのは、どうしたことであろうか。