熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ロンドンでの夜の社交:観劇の楽しさ

2015年08月13日 | 生活随想・趣味
   この口絵写真は、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の正面で、ROHのHPページから借用したので、絵のように美しい。
   実際には、劇場街の繁華な場所にあり建物が込み入っているので、この写真のように綺麗に写真は撮れないのだが、「マイ・フェア・レディ」の冒頭に登場するコベントガーデンの市場に面していて、昼夜娯楽を楽しむ人や観光客で賑わっていて、面白い店や露店、それに、エキゾチックなレストランなどもあって、楽しいところである。

   来月、久しぶりに、音楽監督のアントニオ・パッパーノに率いられて、このロイヤル・オペラ・ハウスが来日して、「マクベス」と「ドン・ジョヴァンニ」を上演すると言うので、非常に楽しみにしている。
   ロンドンには、5年在住していて、その間、ROHのシーズン・メンバー・チケットを持っており、その前はアムステルダムから度々、そして、その前後は出張や旅毎に訪れていたので、この劇場には、もう何十回も訪れて、オペラを鑑賞しており、特別な思い入れがある。

   さて、この劇場には、その他に、親しく付き合っていた英国人と、誘いつ誘われて、社交の場としても随分訪れる機会があった。
   折角、ロンドンに居ながらゴルフ趣味のない私は、アスコットやクリケットなどの観戦にも誘われて愉しんではいたが、専ら、英国人との社交は、オペラ・バレイやクラシック音楽、そして、シェイクスピアなどのパーフォーマンス・アーツが主体であった。

   チケット取得が至難の業のグラインドボーンには、メンバー権を持っているジムなどが、毎年招待してくれたので、逆に私の方は、ロイヤル・オペラに招待することとなり、他の英国人の友人たちと誘い誘われて楽しんだのも、ロイヤル・オペラが多かったので、当時は、我々も、一寸したロイヤル・オペラの通であったと言えようか。
   尤も、オペラだけでも、大アリーナや公園、古城などでの野外オペラなども含めて、色々なチャンスがあった。

   社交としてのオペラ鑑賞は、共に夫婦同伴で、会食を伴うので、夕刻から深夜まで、結構長い付き合いとなる。
   問題はレストランで、色々なケースがあるが、私は、大通りを隔てたテムズ河畔のザ サヴォイ ホテルのレストランを予約して置いて、シアター・メニューで会食することが多かった。
   普通は、大体、開演が7時半くらいだったので、食事は、観劇前に済ませることが多かったが、アフター・シアターの時もあったし、時間によっては、途中で切り上げて、休憩やアフター・シアターに帰って来て、会食を続けることも許されていたのである。
   オペラ・ハウスの周りには、劇場が沢山あり、ビフォア―やアフター・シアター・メニューを設けたレストランも結構あるのだが、やはり、寛げるのは高級ホテルなのである。

   ミシュランの星付きのレストランだと、到底、7時過ぎに会食を終えるのは無理で、一度、当時、ロンドンで唯一の3つ星のガブローシュへ、予約して置いて終演後出かけて行ったが、竈の火を落としていて、真面には会食できなかった。

   もう一つの方法は、オペラ・ハウスの中で、会食することである。
   この口絵写真の2階の窓裏が小さなレストランになっており、もう一つは、1階客席外の廻廊状のロビーが俄かレストランとなって、そこに並べられた食卓に着いて、休憩時間に、分けて会食すると言うことである。
   この廻廊には、売店もあって、周りの手すりなどを利用して客が飲食をしているのだが、ウエイターは、サーカス師並の奮闘である。
   私は、一度、この俄かレストランで会食したが、要するに、観客が移動したり寛ぐ場所で、すれ違うのさえ気を使うほどの狭いスペースに座って、衆人監視下での食事であるから、心穏やかではなかったが、楽しめたのであるから不思議なものである。

   今では、もうそんな風景は消えてしまって、口絵写真左側のガラス張りの立派な建物が併設されて、素晴らしく雰囲気のあるレストランや色々な豊かに寛げるパブリックスペースが出来ていて、今昔の感となっている。
   スカラ座のように美術館の併設や、METのような所縁の歌手たちの豊かな絵画展示のロビーはないが、立派な最高峰のオペラハウスであることには間違いなかろう。
   劇場正面のファサードは凄く華麗で、オペラ座の怪人の舞台であるパリオペラ座のように、素晴らしい階段ホールなどのある王宮のような劇場もあるが、去年書いたように、ロシアのマリインスキー劇場やボリショイ劇場でもそうだが、欧米の古いオペラ・ハウスやミュージカル・シアターには、殆ど目ぼしいパブリック・スペースはなくて、あっても貧弱なので、風格と雰囲気なりムードには欠けるが、日本の劇場の方が、スペースに恵まれているので、休憩時は過ごし良いのかも知れない。
   
   それまでに、フィラデルフィアやサンパウロでも、METなどへも出かけて、オペラ鑑賞をしていたので、ロンドンの頃には、どんな演目のオペラでも、それなりに楽しむことが出来ていたので、プログラムには好き嫌いがなく、その点は助かったのかも知れない。
   とにかく、固い話はやめて、相客のMR&MRSを楽しませながら、自分たちもエンジョイすると言う芸当をやりおおせたのも、若さゆえか、懐かしい思い出である。
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八月納涼歌舞伎・・・「逆櫓」「京人形」

2015年08月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   ニッパチと言うが、二月はともかく、八月は、何となく、暑さの所為もあって、観劇から足が遠のく。
   特に、日本では、納涼と銘打たれても、そうである。
   ヨーロッパに居た時などは、いくら寒くても、秋深くなり始めてからのシアター・シーズンでの観劇には、それなりの情趣と楽しさがあって、シェイクスピアを聴いても、オペラを観ても、あるいは、オーケストラを聴いても、トータルで楽しめたのを思い出すと、やはり、会食を楽しみながら、観劇を交えた夜長の過ごし方は、文化であったような気がする。

   ひらかな盛衰記の「逆櫓」は、歌舞伎の舞台でも、結構見ているのだが、このブログでは、文楽の方で2回書いているだけなので、歌舞伎の方では、印象が弱かったのかも知れない。
   芝居としては、後半の結末が、出来過ぎて腰砕けであるが、前半の取り替えっ子になった子をめぐる祖父と母親、そして、御曹司の乳母との人間模様が面白い。

    大津の宿の騒動で間違えて連れ帰った若君(そうとは知らずに)を、船頭権四郎(彌十郎)とおよし(児太郎)が、槌松として大切に育てているのだが、ある日、腰元お筆(扇雀)が、笈摺に書いてあった所書きを頼りに訪ねて来て、若君を返せと言う。
   自分たちの孫・子供に会いたいばっかりに、必死になって大切に育てて来た子供を理不尽にも返せと言うのであるから、権四郎は、怒り心頭に達して若君を殺して首にして戻すと言う。
   この若君は、実は木曽義仲の遺児駒若丸で、追っ手に踏み込まれながらも、取り替えっ子で命が助かると言う設定で、お筆としては若君安泰で取り返したい一心だが、祖父の権四郎と母およしにしては、自分の子が間違われて身替りとして殺されたことを知り、理不尽にも、可愛がって育てた槌松までも連れ帰ろうとされるのであるから、正に、断腸の悲痛。
   この前半のシーンは、世話物として、実に上手くストーリーが組み立てられていて、この悲痛と、義理と人情の柵に泣く三人三様の熱演は見もので、ベテランの彌十郎、成熟の扇雀、全力投球の若手のホープ児太郎が、実に上手くて感動的である。
   文楽では、お筆の簑助が良かった。

   ところが、前述したように、それからのストーリー展開が、不自然と言うか、無理にこじつけたような話になっていて、面白いのだが、一気に大詰めに向かうので消化不良になり、主役のおよしの夫船頭松右衛門(橋之助)の大立ち回りも、ショーに終わってしまう。
   三人の修羅場の後、奥の障子があくと、その家の主人船頭松右衛門が、威儀を正して、若君を小脇に抱えて現れる。
   実は、松右衛門は、義仲の重臣樋口次郎兼光で、主君の仇を討つために、逆櫓の技術で梶原に近づき、義経の船頭となって義経を討とうと考えたのだと明かして、わが子となった槌松が、主君のために身代わりになったとその忠義を褒めると、権四郎父娘は、(仕方なく)納得してめでたしめでたし。

   その後は、鎌倉方に身元の割れている松右衛門が、逆櫓の稽古に出たところ、捉えるようにと命令を受けていた3人の船頭たちに襲われ、浜で、多くの捕り手に囲まれて大立ち回りを演じる。
   そこへ、鎌倉勢の畠山重忠(勘九郎)が、権四郎を伴い現れたので、松右衛門は、権四郎が自分の素性をバラしたと怒るが、若君助命のために猟師の子槌松だと認めさせるべく、権四郎を、訴人したのだと言われて
   委細承知で、武士の情けで、若君の命が保障されたのを確認すると、おとなしく、松右衛門は、縄に掛かって、幕となる。
   何故か、大碇も登場して来るし、「義経千本桜」の「渡海屋」「大物の浦」の焼き直しの舞台を観ている感じであった。

   女形では傑出した成駒屋にあって、唯一とも言うべき豪快な拡張高い立役を演じている橋之助の船頭松右衛門実は樋口次郎兼光は、やはり、座頭役者の風格十分で、如才のない世話物風の役柄から一変して、重量感十分の樋口は流石。
   それ程力まなくても、と思わないでもなかったが、逆櫓を魅せる舞台にした貫録は、納涼と銘打つのが惜しいくらいであった。

   このような人情味溢れた、しかし、程良く押し殺しながらも心情を激しく吐露するような舞台を務めると如何なく本領を発揮するのが彌十郎。
   何時も匂うような若い女性の、何とも言えないようなしとやかさ優しさをほんのりと匂わせる姿が印象的なのが児太郎。
   品と風格、それに、成熟した高貴な上臈然とした色香さえ感じさせる扇雀。
   この三人が、思い思いの苦悩と心の葛藤をぶっつけ合って修羅場を演じる舞台は圧巻であった。

   この舞台の三人の船頭役で、橋之助の子息国生と宣生が、立派な役者として成長して来たのが頼もしく、勘三郎の部屋子の鶴松とともに、中々新鮮な爽やかな舞台を務めていて興味深かった。
   この鶴松は、後の演目「京人形」で、可憐な娘おみつを綺麗に演じていて、好印象を与えていた。


   「京人形」は、二回目くらいだが、左甚五郎が、美しい太夫に恋をして忘れられずに、太夫と生き写しの京人形を彫り上げて、その人形が動き出して戯れると言う話を舞踊形式に仕立てて、常磐津連中と長唄連中の華やかな樂の奏に乗せて繰り広げられる華麗な舞台。
   いわば、自ら彫った理想の女性像に恋をしたピグマリオンの日本バージョンと言うところで、このようなことが可能なら、必死に腕を磨いてでも、愛しのマドンナを彫ってみたいと思うのだが。「マイ・フェア・レディ」ともなると、感動的なストーリーになる。
   甚五郎の勘九郎の軽妙な芸も味わい深いが、七之助の京人形が品があって美しい。
   達者な芸の女房おとくの新悟、それに、奴照平の隼人と井筒姫の鶴松の絵のような若いカップル、夫々が存在感を示して楽しく、30分くらいの小品だが、魅せる舞台であった。
   
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孫を連れて「トミカ博 in YOKOHAMA」

2015年08月11日 | 展覧会・展示会
   パシフィコ横浜 展示ホールで開かれている、トミカの工場が見学できる!?~と言う触れ込み「トミカ博 in YOKOHAMA」に、私も人並みに、4歳の孫を連れて出かけた。
   8月8日(土)~16日(日)の9日間開催と言うことなので、一番人出が少ないであろうと考えて、昨日の月曜日に出かけたのだが、大変な人ごみでごった返していた。
   入り口の記念写真を撮るコーナーから、大変な長い行列で、ほんの一分足らずのワンショットを撮るのさえ難行苦行。親もそうだが、幼い子供たちも良く耐えている。

   少し前まで、孫は、ディズニーアニメのプレーンズに興味を持っていたので、プレーンズに登場するミニプレーンズを片っ端から買い求めて、遊びを誘うプレーンズ・トミカ・ワールドと言った込み入ったシステムおもちゃなどにも手を広げ、随分、トミカのお世話になったが、今は、
   テレビ朝日の「手裏剣戦隊ニンニンジャー 」の方に興味が移って、バンダイの手裏剣戦隊ニンニンジャー ギター忍撃 スターソードガン、手裏剣戦隊ニンニンジャー 変身デバイス 忍者スターバーガーや手裏剣戦隊ニンニンジャー 変身忍刀 忍者一番刀 などと言った剣か銃か分からないケタタマシイ音声や電子音が鳴り響くおもちゃを振り回して喜んでいる。

   これまでに自分自身買って貰ったおもちゃが相当ある上に、それに加えて、長女の中学生の孫から一式引き取ったトミカやバンダイその他の膨大なおもちゃが所狭しと犇めき合っているので、部屋はおもちゃの倉庫と化してしまっている。
   それでも、次から次へと新しいおもちゃに目が移り、テレビの子供番組のアニメで、これでもかこれでもかと、おもちゃのPRを流し続けるので、たった4歳の幼児にも拘わらず、おもちゃに関する知識は尋常ではないのにびっくりする。

   平かなとカタカナ、数字は読めるので、自分で、ビデオレコーダーを操作して録画番組やDVDは自由に見ているし、多少のコンピューター操作なら出来るので、テレビゲームのイロハくらいは全く問題なく、このトミカ博でも、器用に、ディスプレーを見ながら、画面を操作している。
   正に、幼児の世界にも、ICT革命の波は押し寄せて来ており、おもちゃの世界も、ハードソフトともに、デジタル化、ICT化によって、今や様変わりである。

   トミカ工場が見学できると言うことだったが、自分の意図したプラモデルが、指示に従ってトミカの技術者が組み立てると言うコーナーがあったが、とにかく、待ち時間が、尋常ではない。
   孫は、2台のミニカーを走らせてルーレットに落とし込んで色を合せるゲームをやったが、これさえも待ち時間30分で、何のことはない、景品のミニカーは、商品相当品と言うだけの話である。
   
   

   いずれにしろ、折角、行ったのであるから、少し、空いている場所をぬって、暫く遊んでいたが、子供が楽しめると言う雰囲気でもなく、孫も執着がなかったので、程ほどに会場を出た。
   会場出口に、トミカ製品の即売所があったが、こっちも大変な人波で、キャッシャーも混んでいて長い列。

   どうせ、ここでは定価で売っているのであろうから、大船のヤマダのRABIに立ち寄って、孫の欲しいおもちゃを買って帰った。
   蛇足ついでに、おもちゃの値段にも、何故、これ程差があるのか分からないのだが、カメラや電化製品と同じで、ネットや量販店の価格は、何割も安い。
   たかがおもちゃではあるが、ミニカー程度なら、何百円の差だが、一寸電子機器などが組み込まれた製品にもなると、何千円も差が出て、もう一つおもちゃが買えるのである。
    
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「春雨じゃ、濡れてまいろう」は日本だけ?

2015年08月10日 | 海外生活と旅
   「春雨じゃ、濡れてまいろう」
   これは、月形半平太が、馴染みの芸子と料亭から外に出て見たら、しっとりとした春雨が夜の風情を醸し出して、ほろ酔い気分には気持ちよく、思わず呟いた言葉とか。
   好きな女と酔いが回って夢見心地でしっぽりと春雨に濡れて味わう幸せなひと時・・・粋なシーンである。
   
   何故、こんな話から始めるのか、それは、
   デイヴィッド・ピリングの「日本―喪失と再起の物語」を読んでいて、「国家の品格」の藤原正彦と、自然との調和について議論していて、雨に対する日本人と英国人の対応の違いについて語っているのを面白いと感じたからである。
   自然を愛する筈の日本人は、雨がぱらつくとすぐに傘をさし、にわか雨が降っただけであっという間に雨傘で埋め尽くされる、それ程、雨に濡れるのを嫌がるが、英国人の著者は、びしょ濡れになっても平気だし、雨傘なんて持とうと思ったことさえない、
   つまり、自分の方が豊かな自然と調和していると思いませんか、と言う。
   この雨に対する国民感情の差に、思い至ったのである。

   日本人には、何となく、英国紳士と言えば、雨が降っても降らなくても、何時もアンブレラを抱えて歩いている姿が定着している感じであるが、確かに、言われてみれば、あれは、いわば、紳士のアクセサリーと言うべきか、私の経験では、英国では、雨の時に、傘を使っている人が少なかったような気がする。

   傘で思い出すのは、英国在住ながら文化勲章を受けた世界的に高名な経済学者森嶋通夫教授とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス構内を歩いていた時に、雨がぱらついて来たので、傘をさしかけたら、「そんなこと、しーないな」と言われたことがある。
   大先輩でもあるし、偉大な経済学者でもあり尊敬していたので当然だと思ったのだが、今考えてみれば、イギリスでは、小雨に濡れるのは平気で気にしないと言うことだったのかも知れないと言う気がしている。

   イギリスでは、防水の利いたバーバリーやアクアスキュータムのコートが普及しており、ハットやハンチングなど帽子が結構重宝されていて、常備着のような態をなしているのだが、これなどは、何時雨が降っても、少々の雨なら平気だと言う生活の知恵であろうか。
   しかし、確かに、日本人の雨と傘との関係は神経質なくらいであり、英国人の方が、雨に無頓着だと言うことは、5年間の英国在住の経験から言えそうな気はしている。

   ここで、考えなければならないことは、雨に対する国民感情の差も大切であろうが、むしろ、雨の質であり、雨の降り方の違いにあるような気がする。
   日本の雨は、春雨に始まって、五月雨、時雨、梅雨、狐の嫁入り、氷雨・・・等々、最近のゲリラ豪雨など含めれば、場所と季節によって千差万別であり、時間によっても微妙に変化する。
   これに比べて、イギリスの雨は、原則的には極端な差がないにしても、もう少し単純と言うか、比較的豪雨が少なくて単調であったような気がしている。
   車での生活が多かったが、確かに、8年間のヨーロッパの生活では、折り畳み傘など携帯用の傘は持ったことはなかったし、大雨に難渋したと言う記憶もない。

   雨のことで思い出すのは、サウジアラビアの雨である。
   砂漠地帯が延々と続いていて、殆ど、雨などとは縁のない国なのだが、出張の時に、一度だけ、大雨が降って大洪水(?)に見舞われたことがあった。
   バーレン空港は、大雨で空港の建物は、ズタズタ。
   サウジアラビアの砂漠は、延々と俄か湖に覆われて、高低差のあるところは滝のように濁流が渦巻き、風景が一変してしまっていた。

   興味深かったのは、提携先の地元会社が、その日は休日にして、社長一家が、我々日本からの出張者を誘って、濁流が渦巻く暴れ川と俄か滝を見に行くために、日帰りツアーを行ったのである。
   郷に入っては郷に従えで、ネゴの進捗が気になったが、日本では、何のことはない、一寸した田舎の川が増水して暴れていると言った感じの風景を楽しみにつきあった。
   しかし、砂漠の民にとっては、干天の慈雨どころの比ではなく、豪雨の齎す天変地異は、正に、途轍もない自然の脅威なのである。

   前述したように、日本には、どう表現すれば良いのか分からないくらいの変化に富んだ雨が降るのだが、サウジアラビアでは、雨は、すべて雨。
   降り出したら、正に、日本の花見や紅葉狩りと同じように、弁当を持って見物に行く。

   また、日本には季節によって、無数の花が咲き乱れるのだが、寅さんが、どんな花でもタンポポでしょ、と言ったように、サウジアラビアでは、花は、花だと聞いたことがある。
   その代わり、日本は、ラクダは、ラクダだが、サウジアラビアでは、ラクダは、歳や性別、親族関係などによって、色々な呼び方で使い分けられているのだと言う。

   さて、本題に戻るのだが、確かに、日本は四季の変化が激しくて自然環境や自然現象の移り変わりについては、千差万別で、世界でも珍しい国であり、日本人の自然への対応なり感受性の豊かさには定評があるのであろうが、私は、藤原教授が言うほど、日本人が特別だとは思っていないし、ピリングの見解にも納得している。
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「モン・サン=ミシェル」は「行ってはいけない世界遺産」なのか

2015年08月09日 | 海外生活と旅
   ニューズウィークの電子版を観ていたら、「こんな人は、モン・サン=ミシェルに行ってはいけない Mont Saint-Michel」と言う記事が載っていた。
   『行ってはいけない世界遺産』を著した花霞和彦の記事のようである。

   読んで見たが、モン・サン=ミシェルでは、プレサレ羊とオムレツが有名で、オムレツを食べたが高くて美味しくなかったとかで、何故、「モン・サン=ミシェルに行ってはいけない」のか、よく分からない。どうも、遠くてぽつんとある世界遺産なので、コストパーフォーマンスが悪いと言うことのようである。

   著者の真意を知りたくて、アマゾンで、この本の説明書きを見たら、
   ”見どころ×コストパフォーマンス 行ってガッカリしないためのリアルガイド
   モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、ガラパゴス諸島、アマルフィ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウス、ナスカの地上絵、アンコール……
   高いお金をはたいて、長時間の移動に耐えて、やっとたどり着いたら「え? たったこれだけ!?」とガッカリした経験はないでしょうか?
   いまや世界に1000件以上もある世界遺産。限られたお金と時間の中で選ばなくてはいけません。
   本当に行く価値があるのか、値段と時間と労力に見合うのか、ガイドブックの美辞麗句に惑わされず、しっかり検討しましょう。
   数多くの世界遺産に足を運んだ著者が、コストや体力度などのデータとともに、20の世界遺産を徹底検証。”
   と言うことらしい。
   このような世界遺産への旅のアプローチは、私には全く論外で、まず第一に、旅行用のガイドブックなどの埒外の旅であり、世界遺産の世界遺産たる所以を全く分かっていないと言う以外に言いようがない。

   多少は世界遺産を見て歩いた経験のある私自身の感想だが、人類が営々として築き上げてきた人類の貴重な遺産や自然の造形した神秘に対する一種の冒涜であり、基より、コストパーフォーマンスを考えるのなら、最初から旅をするなと言うことである。
   写真家土門拳が、不自由な体を吊り上げられて撮った日本第一の建築と称賛した三佛寺投入堂の写真の凄さが示しているように、崇高な歴史遺産には、人知を超えた価値と魂が凝縮されているのである。

   私は、モン・サン=ミシェルには、2度訪れている。
   直接日本から行ったのではないので、コストは限られているので偉そうなことは言えないが、一度は、出張先のレンヌからタクシーで、二度目は、ノルマンデー旅行の時に、サンマロからシェルブールへ向かう途中車でアプローチし、夫々、一日過ごしただけだが、アップダウンの激しい島内をあっちこっち歩いて、フランスの中世の宗教都市にタイムスリップした思いで、感動しながら時を過ごした。

   さて、花霞氏の記事だが、
   ”結論としては、モン・サン=ミシェルは、対岸のバス乗り場から眺めるシルエットがクライマックスであります。でも、せっかくなので島内に入り、修道院も見学しましょう。しかし、有名店のオムレツには注意してください。どうしても名物オムレツを食べたいなら、・・・”
   ”でも、せっかくなので島内に入り、修道院も見学しましょう。”と言うに至っては何のためにモン・サン=ミシェルに行くのか、何をか況やであり、
   「こんな人は、モン・サン=ミシェルに行ってはいけない」のは当然である。

   花霞氏の本『行ってはいけない世界遺産』には、
   モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、ガラパゴス諸島、アマルフィ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウス、ナスカの地上絵、アンコール……
etc.が掲載されているようだが、私の行ったのは、 モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウスくらいだが、夫々、感動と感激の一語に尽きる思い出ばかりである。
   これらについては、これまでに、このブログで何度か記事にしているので蛇足は避ける。

   この口絵写真は、フランス政府のHPから借用した写真である。
   私が撮った何百ショットの写真があるのだが、倉庫に眠っていて探せないのが残念である。
   欧米などの旅には、必ずミシュランの英語版のグリーンとレッドのガイドブックを持って歩いているが、旅は、その地を訪れて物見遊山すれば良いだけではなくて、その地の歴史や文化などにも敬意を払って、それなりの知的武装なり心の準備をして行くのは当然だと思っている。
   特に、歴史的な世界遺産は、永く熾烈な歴史の風雪に耐えぬいた人類の永遠の英知が凝縮されている貴重な財産であって、アダや疎かで見過ごせるものでは決してない筈だと思っているので、人類の偉大さ崇高さに感動しながら、どっぷりとその環境に没頭して時を過ごしたいと願い続けている。
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国立能楽堂・・・宝生流能「善知鳥」に思う

2015年08月08日 | 能・狂言
   昨日は、歌舞伎座で橋之助の「逆櫓」を観て、国立能楽堂に出かけた。
   「働く貴方に贈る」と銘打った企画公演なので、開演が、7時からでいつもよりは遅いのだが、気の所為か壮年期の男性観客が多いような感じであった。
   この公演の能が、「善知鳥」と言う猟師をシテにした実に陰惨な暗いテーマの曲で、何故、ビジネスマン相手に選曲されたのか、考えさせられた。
   
   夢幻能の手法で、
   諸国一見の僧:ワキ(大日方寛)が、越中立山で、不気味な老人:前シテ(辰巳満次郎)に会って、亡くなった猟師の霊前に簑と傘を手向け、片袖を猟師の妻子に届けるように頼まれて別れる。妻子に袖を届けるとそれは残されていた衣の袖であり、僧が猟師の霊を弔うべく読経していると、漁師の亡霊後シテが現れて、回向に感謝して、生前の殺生に明け暮れた人生を悔やみつつ、「うとうやすかた」と呼ばれる鳥の親や雛を捕えていた姿を再現する。猟師の亡霊は、空の親鳥が流すなみだが血の雨となって降って来るのを杖を捨てて笠で避け、地獄で化鳥の鷹となった善知鳥に目を抉られ肉を切り裂かれ、絶えることのない責め苦を受け、僧に救いを求めて消えて行く。

   ところで、善知鳥は、チドリ目ウミスズメ科の鳥で、平らな砂地に卵を産み外敵から隠そうとするのだが、丸見えで、母親が「うとう」、雛は「やすかた」と鳴き交わす習性があり、猟師がそれを真似て雛を捕ると言う。
   この漁師は、生まれながらに士農工商と言った生業には程遠く、琴棋書画を嗜むような身でもなく、夏の暑さも冬の寒さも知らぬほど、明けても暮れても殺生に没頭していたと、悔恨に涙する。
   生業としての善知鳥殺しには、脇目もふらず技を磨いて没頭していたのであろう、亡霊として現れて、子供恋しさに近づいて髪をかき撫でようとすると、煩悩の雲に隔てられて子供は消えてしまい、この自分の子を思う断腸の悲痛を思うと、自分が犯した殺生が引き起こした善知鳥親子の悲しさ辛さが痛い程身に染みて苦しい。
   優雅な美しい舞もなく、この生業の様と断腸の悲痛を、シテは舞い続けて、観客の胸を締め付ける。
   

   子を思う親の気持ち、親子の情愛の深さとと尊さをテーマにした曲かも知れないが、私には、シテの漁師の運命の深刻さの方が、身に沁みて迫ってくる。
   歴史や地理に興味があるので、人々の生きざまについては、ことある毎に関心が向くのだが、悲惨極まりない歴史の数々や世界中に広がっている紛争地域の存在など色々なことを考えると、自分が、実に幸せな時代に生き、幸せな場所に生きているなあと、しみじみと思うことが多い。

   今、広島や長崎へ原爆が投下されて70年、それに、終戦記念日が近づいてくると、あの第二次世界大戦の悲惨で壮絶な耐えがたい模様が、我々日本人の最大の話題として登場し、平和と平穏で幸せな生活が、如何に、大切かと言う思いが人々の心を占める。
   私自身、勿論、安穏で平安無事な人生ばかりではなく、間一髪で死を免れた経験も幾度かあるが、今、これまでの人生を振り返ってみて、この時代に日本人として生きていることが、如何に幸せなことか、しみじみと噛みしめている。
   イスラム国の台頭で逃げ惑うシリアなど中東の難民の逃避行など、世界の紛争地帯や独裁国家下の庶民の苦しみなどを思うと居た堪れない気持ちになる。

   あの悲惨な終戦後の日本を微かに思い出の中で感じつつも、今や、空襲警報のサイレンで逃げ惑うこともなければ、公序良俗に反しない限りどんなことを言っても信じて行動しても咎められることもないし、大手を振って街を歩くことが出来る。

   終戦後、貧しくて苦しい生活が続いたが、一生懸命に頑張れば、それなりの門戸が少しずつ拓けて来て、人生に明るさが見えてきた。
   何の特別なバックグラウンドもなかった私自身が、大学時代に学生歌として歌っていた、”フィラデルフィアの大学院を出て、ロンドン・パリを股にかけ・・・”を地で行く幸せを掴んで、見るべきものを見続けて来ることが出来た。
   原子や分子、分解すれば、いすや机と同じものの集合体である自分自身が、自分と言う命を持って現に生きていると言う奇跡中の奇跡を感じて、感動することがしばしばだが、同時に、幸せな時代に幸せな日本に生きていることに感謝しなければならないと思っている。

   自分のことばかりで、人様にとって善き自分なのかは自信はないのだが、幸せな星の下に生きているのであるから、善き生き方をしたいと念じている。

   追記ながら、この日、宝生和英宗家が、金子直樹との対談で、非常に興味深い話をして、感銘深かった。
   その中で、能と歌舞伎を対比して、歌舞伎は感情を動かせる芸能だが、能は感情を鎮める、心を穏やかにする芸能だと語っていた。
   さて、先の能「善知鳥」を観て聴いていて、むしろ、私の感情は、橋之助の「逆櫓」以上に動いたのだが、見方が悪かったのであろうか。
   
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猛暑日連続の日々

2015年08月07日 | 生活随想・趣味
   梅雨があけてほっとしていたら、一気に暑い夏日の連続で、東京では、猛暑日が1週間も続いていると言う。
   気象庁によると、
   ”猛暑日、真夏日とは、一日の最高気温がそれぞれ摂氏35度以上、30度以上になる日のことで、真冬日とは一日の最高気温が摂氏0度未満の日のことをいいます。なお、一日の最高気温が摂氏25度以上になる日は夏日といい、一日の最低気温が摂氏0度未満になる日を冬日といいます。”ということである。
   また、”気象庁の観測は1日の中で一番高い気温を最高気温、1日の中で一番低い気温を最低気温として記録している”ので、毎日決まった時間の温度を観測発表している新聞社とは時間帯が 違うと言うことらしい。

   この鎌倉に移転して来て2年弱になるのだが、前に居た千葉の気候とは、微妙に違う。
   千葉の時は、印旛沼に近くやや内陸部であったのだが、この鎌倉は、江の島に近く海岸に接近しているので、かなり、浜風を味わう環境にある。
   しかし、海に近いことは、夏期には、湿度が非常に高くなると言うことで、特に午後などには、一気に湿度が高まるようで、非常に蒸し暑くなる。
   真夏の炎天下でも、取り込みが遅くなると、洗濯物が乾いていないことがあるのに気付いてびっくりした。

   さて、これまでに、結構あっちこっち歩いて来たので、私の暑さ経験を思い出しているのだが、記憶にあるのはそれ程鮮烈なものはないのに驚いている。
   暑い暑いと、その度毎に感じてはいても、記憶の世界には、それ程残っていないのである。

   私の暑さ経験は、温度よりも湿度に影響されることの方が多いようで、まず、今でも覚えているのは、バンコクの空港に下り立った時で、機内から空港ターミナルに歩き始めた時の地から湧き上がるような湿度の高い熱風の凄まじさを感じた時である。
   もう一つは、大阪での蒸し暑さに苦しんだ日々の思い出で、今でも、夏に大阪を訪れると、早く切り上げて帰りたいと思う。

   もう一つは、当然のこととして、ブラジルのアマゾンの河畔のマナウスとベレンの暑さで、ホテルのエアコンをガンガンつけても利かなくて、眠れなかったのを思い出す。
   尤も、年間温度の殆ど変化のない温かいサンパウロに居たので、温度の変化に敏感だったことも影響していたかも知れない。
   そう言えば、その後日本に帰ってから体調を整えるのに苦労したように思う。

   南米やアジアの熱帯地帯やサウジアラビアなどにも行っているが、特に、暑かったと言う思いでもないので、昔のことなので、若さで乗り切れたのであろう。
   この頃、歳の所為か、暑さ寒さに敏感になったような感じであるが、いずれにしろ、季節の変化によって移り変わる生活環境を楽しみながら生活しているのであるから、それもまた善しと言うことであろうか。

   鶯が囀っていたと思ったら、ツクツクホーシが激しく鳴きはじめた。
   何故か、蚊が多くて、夕涼みと言った雰囲気にはなれないので、小川が流れてはいるが蛍が飛んでいるのか、秋の虫がないているのか、良くは分からない。
   

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マッシモ・リヴィーバッチ著「人口の世界史」

2015年08月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   人口の推移を通して世界史を説く、非常に興味深い本が、このリヴィーバッチの「人口の世界」、学術書でもある。
   旧石器時代には100万人、新石器時代には1000万人、青銅器時代には1億人、産業革命時代には10億人であった人口だが、それが、
   国連の推計では、2025年に80億人、2043年に90億人に達する。
   2083年には、100億人に達し、2100年には、101億2,000万人となり、その時点で、ほぼ成長率ゼロの静止人口となる。と言う。
   2010―50年の世界人口増加分のほぼすべてが発展途上国によるもので、人口がピークアウトした時点では、人口の3分の1以上はアフリカ人だとも言う。

   さて、地球には「収容力」と言うべき持続可能な人口の限界があるとするのが、人口学者の通説だが、学者によって色々な推計値があり、楽観論では1,460億人と言った数字もあるが、
   比較的バランスのとれたスミスの推計(1994年)によると、生産・配分・消費の体系に依存する非効率性や不合理性、そして無駄が現実的な割合で削減された場合には、現在の消費水準で20億人から25億人が追加的に生存可能となり、生産投入を増やせば――バイオテクノロジー分野で革命的な進歩が起きれば勿論のこと――さらに20億人から25億人が暮らせるようになると言い、著者は、21世紀には地球全体で100億人から110億人が暮らせるようになると考えるのが現実的であろうと言う。

   宇宙船地球号が、どこまで。人口増に堪え得ることが出来るのか、マルサスの亡霊が現れては消え、消えては現れると言う歴史を繰り返しているのだが、経済学的観点から収穫逓減の法則に基づけば、遅かれ早かれ、生活水準は低下して行く。
   人類が拠り所とする土地、水、大気、その他天然資源のいずれもが固定され量が限られた資源であって、代替できても一部に止まり、それ故に成長の制約要件となり、
   更に、人口増による工業化による汚染や、農業、工業、住宅開発などの人間活動の活発化によって、生態系の破壊に繋がって行く。
   また、人口成長によって、食料や資源需要に圧力がかかると、個人や集団や国家同士の競合と対立が避けられなくなり、更に、人間の健康や社会秩序にとっても脅威となって、永遠の人口増など望み得ないと言うことである。

   このような悲観論に対して、人口の規模拡大を可能とする適応能力に全面的に信頼を置く学説もあり、これによると、技術革新によって天然資源の代替が可能となり、農業生産は拡大するなど生活環境の制約条件はクリアされて行くと言うのである。
   現在、食料やエネルギー、天然資源などの物価水準は、歴史的には低水準にあり、供給が不足すれば価格が上がるが、技術革新が促されて、生産性が向上し、資源の代替や新製品が登場などで、生産の無制限な上昇が可能だとする。
   たとえ、これらの営みが環境劣化を招いても、内部化が可能であり、世界人口が享受する物的および経済的豊かさは科学と経済の進歩によって絶えず向上しており、この状態が変わることはないと主張している。

   さて、現状認識には、個人差があって断言はできないが、地球温暖化など深刻な環境の悪化を伴って人類の未来に対しては警告信号が点滅はしているが、科学技術の進歩と言うべきか、政治経済社会システムの好循環がそうさせるのかは疑問だとしても、どうにかこうにか、現在のところは、食糧事情も含めてマルサスの悲観論は、クリアして来ているように見える。

   著者は、人口の歴史は、制約と選択の間の妥協の連続であったと言う。
   制約要件とは、過酷な環境や疾病、食料確保上の制約、資源、危機に直面した今日の環境、選択の要素とは、結婚と出産、流動と移動と移住、病気からの自己保全で、これらを柔軟かつ戦略的に調整しながら、その相互作用によって生み出された人口の均衡点の変遷によって、人口は、成長と停滞および減退を繰り返してきたと言うのである。

   この本では、著者は、悲観論も楽観論も、どちらにもくみしないとは述べているのだが、これまでの推移を分析して、近い将来においては、食料供給が、人口の制約要因となることはないし、また、生産や生活水準維持に必要な再生産不可能資源についても、埋蔵量や価格の推移、技術革新による代替の確保等、懸念しているようには思えない。

   私自身は、これまで、何度か、人類の環境破壊の問題をテーマにして論じて来たが、この宇宙船地球号は、このまま、永遠に人類の文化文明基地として永続し続けて行く筈がなく、どこかの時点で、プラトンの説いたアトランティスのアクロポリスのような運命を辿るような気がしている。

   この本は、人口学の視点から、人口成長の歴史、先進国と貧困国の人口問題などを論じながら、南北問題、人口格差、経済格差などと言った分野にも言及し、例えば、エイズの流行にもスポットを当てるなど、多岐に亘った論述が興味深い。

   さて、今日においても、シリアやイラクなどイスラム国の現状を見れば、人口の歴史の悪夢を見ているようである。
   人類は、危機に直面した時に選択を誤り、人口の自己保全の力が損なわれるとして、1958-62年における中国の大躍進政策下で集団労働体制の強制が招いた壊滅的結果や、1932-33年にソ連で起きた農村地帯における集団農場下での被害の拡大などを上げているのだが、ポルポトもそうであろう。
   戦争の悲惨さを思えば、胸が痛むが、今や、国家間の戦争ではなく、自国内で、自国人が自国人を弾圧し殺戮すると言う悲劇が、地球上を襲っている。
   
   昔、フィリピンで、ベトナム・ボートピープルの難民キャンプを視察する機会があり、貧しくて悲惨な生活状況と木端のような木造の破船を見て、どうしようもない程ショックを受けて身につまされて茫然とした経験があるのだが、
   今現在でも、シリアなど中東難民やアフリカ難民が、EUに向かって地中海上で漂流している。
   アメリカ新大陸がオープンであった頃には、ヨーロッパから大挙して移民が、アメリカやブラジルなど新天地を目指したが、今や、先進国は必死になって移民難民を排除しようとしている。
   グローバル時代と言っても、モノとカネと情報は、自由に国境を越えても、ヒトは、自由に国境を越えられないのである。
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立川談春著~「赤めだか」

2015年08月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   中学校卒業間際、上野鈴本へ落語を聞きに行くと言う企画があって出かけた時に、談志に魅せられて追っ駆けを始めて、直接電話をかけて弟子入りした立川談春。
   競艇選手になりたかった少年の変身人生、これは、その泣き笑いの前座修業時代を綴った青春物語で、噺家独特の冴え切った抱腹絶倒のユーモアと可笑しみが、しみじみとした感動を呼ぶ素晴らしい本である。

   高校を中退して、落語家になりたいと言ったら、教師も校長も全面的にその意思を尊重すると言って、校長は卒業証書の代わりに色紙を書いてくれて卒業者名簿に名前を残すと約束してくれた。
   ところが、談志を褒めていた親父が高校だけは出ろと反対したので、談志は内弟子を取らないので、家を出て、住み込み食事付きの新聞配達を始めることにした。
   新聞配達と聞いた談志は、「17歳で家を出て新聞配達をしながら修業したなんて、売れた後で自慢になるぞ。黒柳徹子が涙ぐんで、御苦労なさったのねェ、なんてお前に聞くぞ」
   ここから、談志に弟子入りした談春のハチャメチャ修業が始まるのである。

   談志は、芸は盗むものだと言うが、あれは嘘で、盗み方にもキャリアが必要だ。落語に必要なのは、リズムとメロディで、俺のリズムとメロディで覚えろと教えた。
   「談春、三人旅を教えてやる」と言われた時に、風を引いていたので師匠にうつしてはならずと申し出たら、師匠は大変な剣幕で、実母に怒りを伝え、また、誰かれの見境もなく、「風邪気味なので稽古は後日」事件の顛末を語り、その後、一切稽古をつけてくれなくなったと言う。

   面白いのは、談志は、前座弟子たちの礼儀作法から気働きを含めて、何から何までダメだ、面倒見きれない、お前たちの存在が俺にとってマイナスだと、文字助に預けて、築地魚河岸修業を命じておっぽり出した。
   談春は、商売もののシューマイを1200個自転車の荷台に積んで芝の大門へ運ぶ途中に、子供の自転車を避けようとした拍子に、上の段ボールのシューマイを100個ほど落としたのだが、砂利を丁寧にはらって先様に届けた。ザラザラすると苦情が来て旦那が謝りに飛んで行ったと言うのに、今日のシューマイはちょっぴりスパイシーだったんだと言いわけして、・・・破門寸前まで。お前なんか落語家以外務まらないからね、と言うおカミさんの必死の侘びで救われたと言う。

   兄弟弟子について語っているのだが、兄弟子の立川志の輔は、何事においても傑出していたらしい。
   NHKのためしてガッテンと、WOWOWのパルコ寄席くらいしか知らないのだが、談志の傑出した弟子で、NHKの看板番組の司会者としてレギュラーを務めており、一度高座で聞きたいと思う。
   もう一人は、弟弟子でありながら、先を越されて真打になった立川志らく。「己の嫉妬と一門の元旦」で、語っているが、体の弱い奥さんと学生結婚をしていた志らくは、早く二ッ目になって生活を安定させなければならず、必死だったと言うが、当然、素質も十二分にあったのであろう。
   二人とも結婚していて、自分の美学を押し通して修業の出来た独身の談春とは、心構えも違っていたのだろうと思う。

   相撲の十両と同じで、落語家の世界も、二ッ目になって、初めて一人前だとか。
   談志の二ッ目の基準は、非常に厳しい。
   「古典落語なら五十席覚えること。寄席の鳴り物を一通り打てること。講談の修羅場、これは三方ヶ原の物見でいい、噺せること。あとは、踊りの二つや三つ踊れりゃよしだ。レベルは俺が試験しても良いが、おれの基準じゃまず落ちる」と言うほど厳しいのだが、談春は、談志は、揺らぐ人なのだと言う。
   談春が21歳の時、談々、関西、志らくと、4人一緒に二ッ目に昇進した。

   二ッ目になったら、憧れだった黒紋付、羽織、袴、そして名入りの手ぬぐいを作らねばならないのだが、手元にあったのは、築地の修業で頂いた5万円が残っているだけ。
   競艇で洗礼を受けた談春であるから、この5万円を元手に競艇で一儲けして、紋付一式、手拭いを作ろうと考えた。
   5万円を握りしめて、戸田競艇場に6日間朝10時から夕方の4時まで連続通い詰めたが、戦う決断さえ出来ずに悶々と時間を過ごした。
   最後のレースになって、4万円を残して、5千円ずつ、好きだった飲み屋の女の子の誕生日が3月5日だったので、三-五、五-三に賭けて、三-五が70倍以上の配当で35万円の払い戻し。
   戸田から練馬の大泉までタクシーで帰って、腹一杯焼肉を食べて、女の子の飲み屋に行き、初めて吉原に行き、・・・そして、大家に1年分の家賃30万円取られて残ったのは5万円。
   戸田競艇場に再び出陣したが、外れで、父親に土下座して着物を買ってくださいと頼んだと言う。

   真面に食べさせて貰えなかった談志の二ッ目修業での泣き笑いなど、このようなハチャメチャな談春の青春が、実にビビッドに描かれていて興味津々なのだが、極め付きは、最終章の「誰も知らない小さんと談志――小さん、米朝、二人の人間国宝」であろう。
   
   平成18年秋、談春7夜の独演会に、雪がテーマの回で、どうしても10年前に惚れ込んだ米朝の「除夜の雪」を噺たくなって、米朝のお墨付きを貰うために奮闘する話で、子息の小米朝(米團治)の尽力で、米朝を訪ねて行き、老齢の米朝の前で一席演じて、何時でも自由にやってもろうて結構ですと許しを得た。
   小さんと米朝と言う二人の人間国宝の両師匠から稽古をつけて貰ったのは珍しいことで、これからおれを国宝マニアと呼んでくれと談春は言う。

   ところで、談志は、小さんの弟子であったが、真打試験に自ら自信を持って送り出した弟子が落とされたので激昂して、当時小さんが会長であった落語協会を脱会して反旗を翻した。
   当然、破門で、談志は、落語立川流を創設して家元となる。
   談春は、真打トライアルの試みとして、月1回6か月連続のの公演で、最終回に談志に合否を判定して貰うことにして、談志を見返したい思いで、サプライズを起こすべく、こともあろうに、小さんをゲストに呼ぶことを決めたのである。
   落語協会のシンボルである小さん師匠を、一介の二ッ目、それも、立川流子飼いの談春が、ゲストに呼ぶと言うのだから、正に、驚天動地のイベントだが、孫の花緑の仲立ちで、小さんは、「談志は破門したが、弟子は関係ない。そういう会なら喜んで出る」と承諾してくれた。
   それを知った談志が、小さんに礼に行くと固守したが、脳梗塞の発作で体力が落ちて気力の萎えた小さんが、どれ程喜ぶか知れないが、体に悪い影響を与えるであろうから、このまま、平静に最期を迎えさせたいと言う花緑の願いで、諦めさせて、面会はならなかった。
   談春の説得に、談志は、「おまえは、おれに、親父がボケたとでも言いたいのか」と、小さんを親父と言うのを始めて聞いて、談志にとって、小さんの存在の大きさを少しだけ分かった気がした。と言っている。
   小さんは、「何も言わなくても詫びなくても、ほんの少し頭を下げればそれで良い。お辞儀なんていいんだ。そうしてくれたら、俺はあいつを喜んで迎える」と言っていたと言うが、小さんの葬式には行かなかった談志が、「葬式、つまり儀式を優先する生き方を是とする心情はおれの中にはない。そんなことはどうでも良い。何故なら、・・・俺の心の中には、何時も小さんがいるからだ。」

   チケットを取るのが、最高に難しい落語家だと言う談春。
   この本は、講談社エッセイスト賞受賞。
   とにかく、面白くてほろりとさせる素晴らしい本である。
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わが庭:百日紅が咲き、キウイが実る

2015年08月01日 | わが庭の歳時記
   わが庭は、夏の花が少なくてさびしい。
   朝顔も随分種を採ったのだが、蒔くのを忘れてタイミングがずれてダメになったり、とにかく、殆ど飽和状態の庭なので、季節の草花を植える余裕がない所為もある。

   今、華やかに咲き始めたのは、百日紅で、陽に輝くとピンクが美しい。
   木の下では、あっちこっちに、カノコユリが咲き始めた。カサブランカやオリエンタル系統の大ぶりの花とは違って、やや小ぶりで、花が開くとすぐに花弁が後ろに巻き上がる。
   シーボルトがオランダに持ち帰っと言われているのだが、日本のユリが、異国で品種改良されて、今のような華やかなユリの世界が現出された。
   返り咲きのばらが、少し小ぶりの花をつけており、切り花にしてバカラに生けている。   
   
   
   
   
   

   小鳥の訪れは、少し少なくなった感じだが、蝶が舞っていて、アゲハチョウ系統の大きな蝶が比較的多くて、愉しめるものの、カメラを向けても、静止せずにすぐに飛び去るので、中々、難しくて被写体にはならない。
   セミの鳴き声が激しくなってきた。
   ミンミンゼミだけかと思っていたが、昨日、ツクツクホーシが、鳴きはじめた。
   まだ、秋の訪れには早いと思うのだが、関東には、あの激しく大地を焦がすかのようにシャーンシャーンと鳴くクマゼミがいない分、気分は楽である。
   
   

   わが庭に隣接する駐車場の天井が、キウイ棚になっていて、沢山の実がなっている。
   秋口に成ったら収穫期なのであろうが、今年も、収穫後、実を叩いてポリ袋に密閉して追熟させて楽しもうと思っている。
   柿の実が結構実ったのだが、自然現象として大分落果した。ぼつぼつ落ち着いた頃であろうか。今年は、少しは、採れそうである。
   ブルーベリーも実はなるのだが、小鳥に食べられてしまって、残らない。
   クラブアップルが、綺麗に色付いている。観賞用としては、中々良い。
   ナシは、病虫害で落葉が激しく、今年は、少し実が残って大きくなり始めているのだが、これは、無理だろうと思う。イギリスの庭では、洋ナシが採れたのだが、日本では庭木のナシは栽培が難しい。
   
   
   
   
   
   
   
   私の庭では、今は、何と言っても、トマトがハバを利かせている。
   このトマトとバラの水遣りで、毎日、猛暑の中で大変だが、やはり、美しいものは、人でも花でも、命の源のような気がしており大切なのである。
   
   
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