吉川幸次郎の1か月にわたるNHKのラジオ講演であるから、非常に懇切丁寧な語り口で、何となく深遠な論語の世界に入り込めた感じがして感激している。
論語を読もうと思って、物語として読むと銘打った比較的新しい翻訳の山田史生の「全訳論語」を読み始めたのだが、面白いけれど現在っぽくてナラティブが多過ぎて違和感を感じたので積読になっている。やはり、吉川教授のように、時代感覚を損なわずに、壮大な中国文化の歴史と文化を彷彿とさせる重厚な論語解釈の方が、嬉しい。
さて、論語の言葉だとは知っていたが、記憶に強く残っているのは、
「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」流れ行くものはこの水のごとくであろうか、昼も夜も一刻も停止することなく流れて行く、という一節。
方丈記の冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」のオリジナル版だといえようか。
この言葉には二様の解釈があって、宋の朱子は、人間の進歩というものは、この川の水のように一刻の休みもない、それが宇宙の本来の姿である。と解釈して、「学ぶ者の時時に省察して 毫髪も間り断ゆること無きを欲するなり」しばらくの間もなまけてはいけない、
川の水の流れを進歩の原理、つまり人間が天から与えられた使命に応じて努力すべき、その方向の原理として川の水をさしていた、と言う。
もう一方の悲観的な説は、「逝」という字を、進むではなくて、過ぎ行くものとして読む。過ぎ行くものはこのように時々刻々として休みなく過ぎて行き、我々は死に、歴史は過ぎ去ってゆく。論語の古い注釈は、どちらかと言えば、この方の説だったという。
ところで、吉川先生は、悲観、楽観、両方の意味を含めていると読む。時間は確かにものを時々刻々と過去に移す滅亡の原理ではあるが、同時にまた、時間があればこそ人間の生命はあり、進歩がある。すべては移り行いて過去となるが、同時にまた進歩も極まりがない、そういう風な感覚が同時に孔子の頭の中を流れていたという風に考えてこの言葉を読んでいるという。
かく人間への楽観を中心として、人間の可能性を強く信じるとともに、そこには、人間の力ではどうすることもできないものも人間を見舞うことがある、そうした嘆きに対しても孔子は鈍感ではなかった。
人知を超えた超自然の存在を認めていたのであろう、「天」という言葉で触れているが、天についても死についても殆ど語っていないのが興味深い。
さて、この「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」は念頭にはあったが、殆ど深い考えはなくて、どちらかと言えば、運命肯定論者で、眼前に遭遇する運命に、無我夢中で大鉈を振るいながら生き抜いてきたような気がしている。
先日、プラトンの「饗宴」のところで、生命について、死にゆくべき人間は死んでゆくが、「生む」ことによって生命を維持し続けると書いたが、死生観の違いというか、その差が面白い。