国立能楽堂で、能「敦盛」の後、国立劇場で、文楽の通し狂言「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」を鑑賞した。
期せずして、一ノ谷での敦盛と熊谷の争いが主題になっており、非常に重要な舞台である。
平家物語を基にして、夫々、虚構の舞台を作り上げているのだが、その対比と、舞台芸術の表現手法の面白さが際立った舞台ではないかと思う。
敦盛が、一ノ谷で熊谷に遭遇したのは、従五位の下の「無官の大夫」で16歳の時。
敦盛は、平家きっての美少年で、笛の名手であり、祖父の忠盛が鳥羽院から賜った名笛「小枝」は、父経盛を経て敦盛へと代々受け継ぎ伝えられ、須磨寺に残っている。
熊谷は、武将と言うよりは、最高級の貴公子然とした凛々しくも美しい敦盛を組み敷いた時、助けようとしたが、味方の来襲で、やむなく、涙を呑んで首を掻いた。
学芸を極めて平安文化の粋を体現した、この敦盛や忠度を、坂東武士と対比しながら、滅びゆく平家への挽歌として描かれた能や歌舞伎文楽は、特別な感慨を呼ぶ。
世阿弥は、「平家物語」との関わりについて、
「軍隊の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし。」と言ったと言う。
その真意は、私には、まだ、良く分からないのだが、世阿弥の作である能「敦盛」は、次のようなストーリーである。
源氏の武将、熊谷次郎直実は、一の谷の合戦で、16歳の平敦盛を討ち取ったのだが、その痛ましさに無常を感じ、出家して蓮生となった。敦盛の菩提を弔うために一の谷を訪れた蓮生の前に、笛の音が聴こえたかと思うと、草刈男たちが現れ、蓮生に、残った一人が、笛にまつわる話をする。
不審がる蓮生に、男は、「自分は敦盛に縁のある者で、十念を授けて欲しい」と頼むので、蓮生が経をあげると、男は、敦盛の化身であることをほのめかして姿を消す。
その晩、蓮生が敦盛の菩提を弔っていると、敦盛の霊が当時の姿で現れて、自分を弔う蓮生に、以前は敵でも今は真の友であると喜んで、懺悔を始める。平家一門の衰勢を語り、都落ちから、須磨の浦での侘び住まい、退出寸前の前夜の陣内での酒宴の様子を舞う。一の谷で、舟に乗ろうと波打際まで来た時に、熊谷に呼び止められて一騎打ちとなり、討たれた戦いの様子を舞って見せ、今は、最早敵ではなく法の友であると、蓮生に回向を頼んで消えて行く。
世阿弥の能は、複式夢幻能。
構成は、前後二段に分かれていて、前場は、ゆかりの者として登場して、後場で、主人公が幽霊として現れて、夢幻のように復活して過去を語るというストーリー展開である。
この能「敦盛」は、「平家物語」を忠実に踏襲していて世阿弥の言葉通りだが、実は、この後日譚と言う位置づけであると言うところが興味深い。
あの悲惨な一ノ谷の合戦での、熊谷が敦盛を討つ悲劇が描かれてているのだが、
最後には、敦盛の霊は、出家して僧になった直実の読経に救われて、「同じ蓮の蓮生法師、敵にてはなかりけり、跡弔ひてたびたまへ」と唱えて消えて行く。
恩讐の彼方に、と言うのであろうか、敦盛は、成仏して幕引き、ハッピーエンドである。
十六中将の面をつけた後シテの観世喜正の敦盛の優雅さ美しさは格別で、折り目正しく風格のある福王茂十郎のワキ/蓮生との舞台は、荘厳ささえ感じさせて、感動的であった。
ところで、歌舞伎や文楽の「一谷嫩軍記」では、同じ、熊谷と敦盛の悲劇を扱いながら、換骨奪胎と言うか、全く話が変ってしまっている。
敦盛は、実は、後白河院のご落胤であって、それを知っていた義経が、敦盛の命を助けるために、弁慶に謎解きの高札を書かせて、熊谷直実に託すと言う設定でストーリーが展開するのである。
敦盛の母・藤の方は、もと後白河院に仕えた女房で、経盛の妻となる前に、すでに懐妊しており、その子供が敦盛であったと言うのである。
義経は、熊谷に、「一枝を切らば一指を切るべし」と言う文言を認めた高札を渡し、須磨に陣所を構え、そこにある若木の桜をこの制札で守れと命じるのだが、忠義に篤い熊谷は、義経の制札に込めた命令を守って、敵将敦盛を助けるために、実子小次郎直家を、断腸の思いで身代わりに殺しすのである。
断腸の悲痛を噛み締めて、熊谷は、無常感に苛まれて、武士を捨てすべてを捨てて出家して、連生と称して旅に発つ。
敦盛がご落胤であることは、初段の「経盛館の段」で、父経盛が明かしているのだが、普通この文楽や歌舞伎は、第二段の「一谷陣門の段」から上演されることが多いので、このことが分からず、実際には、辻褄の合い難い舞台展開が見られるのだが、これらの非常にうまく錯綜させた虚構や薩摩守の登場なども含めて、浄瑠璃としては、非常に面白く出来た最高傑作のひとつなのであろう。
敦盛のご落胤説は、資料にもなく、かなり流布している清盛の白河法王ご落胤説の影響を受けたのであろうが、このテーマが欠落すれば、浄瑠璃の「一谷嫩軍記」は成立しないであろう。
尤も、熊谷の無常観と出家への動機を、父子の恩愛にかえて一層強く印象付けることにはなっている。
私は、この歌舞伎の敦盛を後白河院のご落胤と言う脚色よりも、「平家物語」の琵琶法師の語るストレートな物語の方が好きである。
「平家物語」では、
直実が敦盛を組伏せた時に、実子小次郎直家を思って助けようとして敦盛を説得するのだが、拒絶され、後ろから50騎ばかり駆け込んで来たので、どうせ討たれるであろうと思って涙を飲んで首を掻く。鎧直垂を解くと錦の袋に入った笛「小枝」が引き合わせに差されており、朝、城から聞こえて来ていた優雅な笛の音の主はこの人だったのかと感激して、このことを陣に帰って義経に語ると、見る人聞く人、荒くれ武骨な坂東武者でも泣かぬものは一人も居なかったと言う。
直実は、夜もすがら敦盛のことを嘆き悲しみ、この思いが仏門に入る発心となった。
熊谷は、敦盛の衣装、鎧以下の兵具などひとつ残らず、笛も取り揃えて、丁寧な牒状を書き添えて、船を仕立てて、父君・修理大夫平経盛に送り届けており、経盛も感動的な返書を送っている。
余談だが、「一谷嫩軍記」で、敦盛の身代わりになって殺された筈の小次郎直家は、一ノ谷の合戦では討ち死にしかかったが助かっており、奥州藤原氏征討に参戦して、主君の源頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されたと言うことで、家督を継いで、53歳まで生きたと言う。
したがって、浄瑠璃の「一谷嫩軍記」は、全くの虚構だと言うことであろう。
英太夫と團七の浄瑠璃と三味線に乗って、勘十郎の熊谷が、手に持った兜を眺めながら、「十六年も一昔。夢であったなァ」
万感の思いを込めて歯を食いしばって泣いている。
凄い舞台である。
期せずして、一ノ谷での敦盛と熊谷の争いが主題になっており、非常に重要な舞台である。
平家物語を基にして、夫々、虚構の舞台を作り上げているのだが、その対比と、舞台芸術の表現手法の面白さが際立った舞台ではないかと思う。
敦盛が、一ノ谷で熊谷に遭遇したのは、従五位の下の「無官の大夫」で16歳の時。
敦盛は、平家きっての美少年で、笛の名手であり、祖父の忠盛が鳥羽院から賜った名笛「小枝」は、父経盛を経て敦盛へと代々受け継ぎ伝えられ、須磨寺に残っている。
熊谷は、武将と言うよりは、最高級の貴公子然とした凛々しくも美しい敦盛を組み敷いた時、助けようとしたが、味方の来襲で、やむなく、涙を呑んで首を掻いた。
学芸を極めて平安文化の粋を体現した、この敦盛や忠度を、坂東武士と対比しながら、滅びゆく平家への挽歌として描かれた能や歌舞伎文楽は、特別な感慨を呼ぶ。
世阿弥は、「平家物語」との関わりについて、
「軍隊の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし。」と言ったと言う。
その真意は、私には、まだ、良く分からないのだが、世阿弥の作である能「敦盛」は、次のようなストーリーである。
源氏の武将、熊谷次郎直実は、一の谷の合戦で、16歳の平敦盛を討ち取ったのだが、その痛ましさに無常を感じ、出家して蓮生となった。敦盛の菩提を弔うために一の谷を訪れた蓮生の前に、笛の音が聴こえたかと思うと、草刈男たちが現れ、蓮生に、残った一人が、笛にまつわる話をする。
不審がる蓮生に、男は、「自分は敦盛に縁のある者で、十念を授けて欲しい」と頼むので、蓮生が経をあげると、男は、敦盛の化身であることをほのめかして姿を消す。
その晩、蓮生が敦盛の菩提を弔っていると、敦盛の霊が当時の姿で現れて、自分を弔う蓮生に、以前は敵でも今は真の友であると喜んで、懺悔を始める。平家一門の衰勢を語り、都落ちから、須磨の浦での侘び住まい、退出寸前の前夜の陣内での酒宴の様子を舞う。一の谷で、舟に乗ろうと波打際まで来た時に、熊谷に呼び止められて一騎打ちとなり、討たれた戦いの様子を舞って見せ、今は、最早敵ではなく法の友であると、蓮生に回向を頼んで消えて行く。
世阿弥の能は、複式夢幻能。
構成は、前後二段に分かれていて、前場は、ゆかりの者として登場して、後場で、主人公が幽霊として現れて、夢幻のように復活して過去を語るというストーリー展開である。
この能「敦盛」は、「平家物語」を忠実に踏襲していて世阿弥の言葉通りだが、実は、この後日譚と言う位置づけであると言うところが興味深い。
あの悲惨な一ノ谷の合戦での、熊谷が敦盛を討つ悲劇が描かれてているのだが、
最後には、敦盛の霊は、出家して僧になった直実の読経に救われて、「同じ蓮の蓮生法師、敵にてはなかりけり、跡弔ひてたびたまへ」と唱えて消えて行く。
恩讐の彼方に、と言うのであろうか、敦盛は、成仏して幕引き、ハッピーエンドである。
十六中将の面をつけた後シテの観世喜正の敦盛の優雅さ美しさは格別で、折り目正しく風格のある福王茂十郎のワキ/蓮生との舞台は、荘厳ささえ感じさせて、感動的であった。
ところで、歌舞伎や文楽の「一谷嫩軍記」では、同じ、熊谷と敦盛の悲劇を扱いながら、換骨奪胎と言うか、全く話が変ってしまっている。
敦盛は、実は、後白河院のご落胤であって、それを知っていた義経が、敦盛の命を助けるために、弁慶に謎解きの高札を書かせて、熊谷直実に託すと言う設定でストーリーが展開するのである。
敦盛の母・藤の方は、もと後白河院に仕えた女房で、経盛の妻となる前に、すでに懐妊しており、その子供が敦盛であったと言うのである。
義経は、熊谷に、「一枝を切らば一指を切るべし」と言う文言を認めた高札を渡し、須磨に陣所を構え、そこにある若木の桜をこの制札で守れと命じるのだが、忠義に篤い熊谷は、義経の制札に込めた命令を守って、敵将敦盛を助けるために、実子小次郎直家を、断腸の思いで身代わりに殺しすのである。
断腸の悲痛を噛み締めて、熊谷は、無常感に苛まれて、武士を捨てすべてを捨てて出家して、連生と称して旅に発つ。
敦盛がご落胤であることは、初段の「経盛館の段」で、父経盛が明かしているのだが、普通この文楽や歌舞伎は、第二段の「一谷陣門の段」から上演されることが多いので、このことが分からず、実際には、辻褄の合い難い舞台展開が見られるのだが、これらの非常にうまく錯綜させた虚構や薩摩守の登場なども含めて、浄瑠璃としては、非常に面白く出来た最高傑作のひとつなのであろう。
敦盛のご落胤説は、資料にもなく、かなり流布している清盛の白河法王ご落胤説の影響を受けたのであろうが、このテーマが欠落すれば、浄瑠璃の「一谷嫩軍記」は成立しないであろう。
尤も、熊谷の無常観と出家への動機を、父子の恩愛にかえて一層強く印象付けることにはなっている。
私は、この歌舞伎の敦盛を後白河院のご落胤と言う脚色よりも、「平家物語」の琵琶法師の語るストレートな物語の方が好きである。
「平家物語」では、
直実が敦盛を組伏せた時に、実子小次郎直家を思って助けようとして敦盛を説得するのだが、拒絶され、後ろから50騎ばかり駆け込んで来たので、どうせ討たれるであろうと思って涙を飲んで首を掻く。鎧直垂を解くと錦の袋に入った笛「小枝」が引き合わせに差されており、朝、城から聞こえて来ていた優雅な笛の音の主はこの人だったのかと感激して、このことを陣に帰って義経に語ると、見る人聞く人、荒くれ武骨な坂東武者でも泣かぬものは一人も居なかったと言う。
直実は、夜もすがら敦盛のことを嘆き悲しみ、この思いが仏門に入る発心となった。
熊谷は、敦盛の衣装、鎧以下の兵具などひとつ残らず、笛も取り揃えて、丁寧な牒状を書き添えて、船を仕立てて、父君・修理大夫平経盛に送り届けており、経盛も感動的な返書を送っている。
余談だが、「一谷嫩軍記」で、敦盛の身代わりになって殺された筈の小次郎直家は、一ノ谷の合戦では討ち死にしかかったが助かっており、奥州藤原氏征討に参戦して、主君の源頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されたと言うことで、家督を継いで、53歳まで生きたと言う。
したがって、浄瑠璃の「一谷嫩軍記」は、全くの虚構だと言うことであろう。
英太夫と團七の浄瑠璃と三味線に乗って、勘十郎の熊谷が、手に持った兜を眺めながら、「十六年も一昔。夢であったなァ」
万感の思いを込めて歯を食いしばって泣いている。
凄い舞台である。