この本は、翻訳者の奥山真司が、エドワード ルトワックとのインタビューをまとめたもので、タイトルの「戦争にチャンスを与えよ」は、「戦争は平和をもたらすためにある」と言うのが、ルトワックの本意であるか、言い得て妙である。
戦争は巨悪であるが、大きな役割を果たす。
現在、多くの戦争が、終わることなき国際紛争となってしまっているが、いずれにしろ、重要なことは、一つの解決に至るまでは、戦いは続けられのだが、外部からの介入によって、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」と言う二つの終戦要因を阻害されているからである。
すなわち、極論すれば、戦争は、すべてを焼き尽くすかもしれないが、戦争の当事者が、決定的な勝利か、戦争に疲弊すれば、終結する。ところが、国連なり平和機構なり強国なり民間機関なりが、戦争に介入すると、戦力戦意を復活継続させて、戦争や紛争は終わらない。それが、現在の国際紛争である。と言うのである。
紛争に介入してはならないということで、「人道主義」の美名のもとに、遠隔地の殆ど知識もない地域の紛争に安易に介入する、例えば、イラク戦争の場合、ワシントンの人間は、イラクに民主制を導入すれば上手く行くと考えて、サダム・フセインを排除し、同じように、カダフィ大佐さえ廃除すれば、・・・しかし、混乱に輪をかけて、収拾のめどが立たない。
戦争を止めるために、安保理の権威のもとで、停戦や休戦が頻繁に課されたコソボ危機に対するNATOの介入など、多くの介入によって、バルカン半島では悲惨を極めて紛争が継続し続けたし、第一次中東戦争など、安保理に命じられた二度の停戦がなければ、戦争は数週間で終わっていたなど、殆どの国際紛争は、介入によって解決が阻害されてしまっている。と言うのである。
もっと悲惨なのは、人道支援である筈の難民支援が難民を永続化させ、紛争を永続化すると言う指摘で、国連より害悪になるNGOの介入として、ルアンダの国境沿いのコンゴ民主共和国の巨大な難民キャンプが、紛争によって雲散霧消していた筈のフツ族を生きながらえさせ、フツ族過激派の越境侵入してツチ族を殺すための基地」となっており、他の国の国境沿いの難民キャンプを同様だと言うのである。
いずれにしろ、良いか悪いかは別にして、「決定的な勝利」や「戦争による疲弊」によって収拾がついて平和を取り戻す、「戦争が平和をもたらす」と言う逆説を、国連などの介入が、ことごとくぶっ壊していると言うルトワックの指摘だが、なるほどと分かっても、中々、そうだろうと言えないところが悲しいところである。
このルトワックの指摘で、想起するのは、先日、このブログで書いた”株価崩落は当然なのか・・・オーストリア学派の見解”で、経済不況を解決するために行う政府や中銀の介入や景気浮揚策は、経済の自律的回復システムを破壊するので、やるべきではないと言う論理と、全く同じだと言うことである。
また、以前に、貧困国家や発展途上国への国際的な経済援助は、援助を受けた国の自律的成長意欲を阻害したり、権力者を利して独裁体制や専制政治を促進するだけで、何の解決にもならないと論じた本を読んだことがある。
良かれとして行う人道的な支援が、悪い結果を招くと言うことについては、やり方にも問題があるのであろうが、
経済政策については、ルーズベルトが大恐慌後に実施した大々的なニューディール政策によるケインズ経済学的な政府出動や弱者救済など民主的な政策が、経済不況の克服に貢献したのみならず、その後のアメリカの民主主義的な政治経済社会発展の礎となったことは明白な事実であって、政府の介入の利点を示している。
経済にしろ、戦争など国際紛争にしろ、今日のグローバルベースでの混迷ぶりは、宇宙船地球号の危機とも言うべき域に達しており、異常な格差拡大や国際政治の機能不全が、次善の策である筈の民主主義や資本主義を、窮地に追い込みつつある。
ルトワックの説くごとく、戦争や国際紛争を、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」と言う二つの終戦要因によって解決するなどと言っている余裕もなければ、格差拡大が極に達している貧困国の状態を、このまま放棄しておれば、人類の滅亡さえ招きかねない。
それでは、どうすればよいのか、ルトワックのこの本は、我々に決断を迫っている。
戦争は巨悪であるが、大きな役割を果たす。
現在、多くの戦争が、終わることなき国際紛争となってしまっているが、いずれにしろ、重要なことは、一つの解決に至るまでは、戦いは続けられのだが、外部からの介入によって、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」と言う二つの終戦要因を阻害されているからである。
すなわち、極論すれば、戦争は、すべてを焼き尽くすかもしれないが、戦争の当事者が、決定的な勝利か、戦争に疲弊すれば、終結する。ところが、国連なり平和機構なり強国なり民間機関なりが、戦争に介入すると、戦力戦意を復活継続させて、戦争や紛争は終わらない。それが、現在の国際紛争である。と言うのである。
紛争に介入してはならないということで、「人道主義」の美名のもとに、遠隔地の殆ど知識もない地域の紛争に安易に介入する、例えば、イラク戦争の場合、ワシントンの人間は、イラクに民主制を導入すれば上手く行くと考えて、サダム・フセインを排除し、同じように、カダフィ大佐さえ廃除すれば、・・・しかし、混乱に輪をかけて、収拾のめどが立たない。
戦争を止めるために、安保理の権威のもとで、停戦や休戦が頻繁に課されたコソボ危機に対するNATOの介入など、多くの介入によって、バルカン半島では悲惨を極めて紛争が継続し続けたし、第一次中東戦争など、安保理に命じられた二度の停戦がなければ、戦争は数週間で終わっていたなど、殆どの国際紛争は、介入によって解決が阻害されてしまっている。と言うのである。
もっと悲惨なのは、人道支援である筈の難民支援が難民を永続化させ、紛争を永続化すると言う指摘で、国連より害悪になるNGOの介入として、ルアンダの国境沿いのコンゴ民主共和国の巨大な難民キャンプが、紛争によって雲散霧消していた筈のフツ族を生きながらえさせ、フツ族過激派の越境侵入してツチ族を殺すための基地」となっており、他の国の国境沿いの難民キャンプを同様だと言うのである。
いずれにしろ、良いか悪いかは別にして、「決定的な勝利」や「戦争による疲弊」によって収拾がついて平和を取り戻す、「戦争が平和をもたらす」と言う逆説を、国連などの介入が、ことごとくぶっ壊していると言うルトワックの指摘だが、なるほどと分かっても、中々、そうだろうと言えないところが悲しいところである。
このルトワックの指摘で、想起するのは、先日、このブログで書いた”株価崩落は当然なのか・・・オーストリア学派の見解”で、経済不況を解決するために行う政府や中銀の介入や景気浮揚策は、経済の自律的回復システムを破壊するので、やるべきではないと言う論理と、全く同じだと言うことである。
また、以前に、貧困国家や発展途上国への国際的な経済援助は、援助を受けた国の自律的成長意欲を阻害したり、権力者を利して独裁体制や専制政治を促進するだけで、何の解決にもならないと論じた本を読んだことがある。
良かれとして行う人道的な支援が、悪い結果を招くと言うことについては、やり方にも問題があるのであろうが、
経済政策については、ルーズベルトが大恐慌後に実施した大々的なニューディール政策によるケインズ経済学的な政府出動や弱者救済など民主的な政策が、経済不況の克服に貢献したのみならず、その後のアメリカの民主主義的な政治経済社会発展の礎となったことは明白な事実であって、政府の介入の利点を示している。
経済にしろ、戦争など国際紛争にしろ、今日のグローバルベースでの混迷ぶりは、宇宙船地球号の危機とも言うべき域に達しており、異常な格差拡大や国際政治の機能不全が、次善の策である筈の民主主義や資本主義を、窮地に追い込みつつある。
ルトワックの説くごとく、戦争や国際紛争を、「決定的な勝利」と「戦争による疲弊」と言う二つの終戦要因によって解決するなどと言っている余裕もなければ、格差拡大が極に達している貧困国の状態を、このまま放棄しておれば、人類の滅亡さえ招きかねない。
それでは、どうすればよいのか、ルトワックのこの本は、我々に決断を迫っている。