本日は東日本大震災三周年。記憶の風化が云々される昨今ですが、あの日帰宅難民となって都心から延々30km以上歩いた私の脳裏では未だ生々しい出来事であり、決して風化しておりません。より大きな被害に遭われた皆様には、改めて御冥福をお祈り申し上げ、御見舞い申し上げますとともに、引き続き長い眼で復興の曲折を見届けて行きたいと思っております。
さて現在、約1年ぶりのヤンゴン・バンコク訪問を敢行中ですが、記事を作成するのはまだまだこれからですので、出発前に予め仕込んでおいたネタを自動更新で少々……名鉄キハ30です!
ヤンゴン界隈で現在活躍する日本中古レールバス・軽快DCは、ミャンマー国内他地域に配属された車両との入れ替わりが結構激しいため (?)、日本から渡った最初期の車両の象徴である名鉄の車両を拝むことは昨年叶わず、今年もムリか……(当記事作成時の予想 ^^;;)。そこで名鉄については、今はなき三河線キハ30の画像を貼ってお茶を濁そうという次第です (笑)。
今回の画像は、デジタル一眼を購入してまださほど時間が経っていない2004年早春の撮影ですが、未だこのブログを始めていない時点でもありますので、ブログ内キーワード検索をしても全くひっかかるはずもなく、長らくその存在を忘れてしまっておりました (滝汗)。ひょんなことで思い出すこともあるわけでして……(笑)。
しかしまぁ、八百津線に限らず三河線でもこうして、末端閑散区間用としてレールバス・軽快気動車が運用されていた時代があったのですなぁ……(遠い目)。そんな三河線の気動車運用は、海線 (碧南~吉良吉田)・山線 (猿投~西中金) ともども猿投が担当していましたが、とくに海線運用の車両入れ替えのため、毎日架線下を単行の営業運転で走る列車が設定されていたのも懐かしいですね。というわけで、1枚目の知立行はそのまま列車番号と行先幕を変えて猿投行に。私もこれに乗り込んで三河線を北上したのですが、普段割と空いている日中の三河線といえども、さすがに軽快DCの単行では結構混み混みになったのを思い出します。そして、鶴舞線から来た名古屋市交3000系を横目に見ながら、企業城下町の一大景観が展開する豊田市前後の高架線を単行で走ることの激しいミスマッチといったら……(滝汗)。
猿投に到着後は、廃止まであと1ヶ月と迫っていた西中金までの末端区間にて最初で最後の往復を味わったのですが、今さっき走ってきた都会の高架線は一体何だったのか……としか思えないほどの、枯れ果てた山里を深く分け入って行く超ローカル線ぶりに激しく驚愕……。足助への延長を果たせず、西中金などという如何にも中途半端な地点で途切れているレールにて客待ちをしているキハ30の姿に、名鉄では余りにも短命に終わるという悲哀を感じずにはいられないのでした (-_-)。
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