イスラエルの空爆や圧倒的な戦力で、パレスチナの人たちを殺傷する行為は決して許すことができない。このユダヤ人の蛮行を支援するか容認するためか、イスラム原理主義ハマスと必ず、”原理主義”を冠して読んでいる。
ハマスはイスラム原理主義でイスラエルは、”シオニズム原理主義者”と表現することはない。統率されている実態を見ると、イスラエル側の方が原理主義者に近い。それに比べて、金もなく組織として動くには、いささか問題がある。ハマスと呼ばれるガザの抵抗者は、反イスラエルと呼ぶ方が相応しい。イラクでは自らを、レジスタンスとも呼んでいた。
彼らを、テロリストと呼び、原理主義者と冠することで、乱暴狼藉を働く集団の印象を与え、イスラエルの1400人を超える殺人行為が緩和される。
このような言い回しによる実態隠しは、安倍政権がお得意とするところである。
典型的なのが、武器輸出三原則の撤廃である。「防衛装備品の海外転出」と言い換えたのである。防衛装備品と呼ぶことになった武器、はまるで利益を生じないかの呼び方、”転出”で輸出のお仕事がいっぱいできるようになった。
兵器を持たず行使しないし輸出しない平和国家を標榜してきた日本の、大きな転換である。
集団的自衛権の容認もそうである。世界はこの100年間、あらゆる戦闘行為を、他国からの自衛と呼んできた。例外が見当たらない。自衛の理由がなければ、偽造するのである。
自衛の実態は戦争理由でしかない。戦闘相手国も同じである。平たく言えば、「あいつが悪い」論である。協調や話し合いなどとは無縁の、力の論理を覆い隠す集団的自衛権という言葉である。
これだけ毎日の様に報道されるようになって、集団的自衛権とい言葉に違和感が薄れてきている。冷静にこの言葉を見て理解するには時間がかかる。特に集団的の意味も内容も定かではない。
そのために安倍政権は頻繁に、「抑止力」と言う言葉を使うのである。まるで雨が降った時にさす傘のような概念を持つ言葉である。
抑止力は、仮想敵国を上回る戦力を持たなければ意味がない。仮想敵国も、抑止力を高めなければならないから、軍事拡大になるだけである。
集団的自衛権という言葉の実態は、日本の軍国化である。集団的自衛権の容認の実態は、解釈を変えるということではなく、憲法を政府が無視するということである。
平たく言えば、国の最高権力機関が、法治国家の最高規範を侵すというのである。