今日、東京電力福島第一原発事故で避難した住民らが、国と東電に損害賠償を求めた4つの集団訴訟について、最高裁は、国の責任を「認めない」とする判決を言い渡した。原発事故で、国の責任について最高裁が判断するのは初めてである。この種の裁判は残酷で30件ほどあるとのことであるが、最高裁判決は重く影響を与えるであろう。
今回は、群馬、千葉、愛媛のほか福島県内外に避難した住民らが、生活基盤が変わったりふるさとを失ったなどと、国と東京電力に損害賠償などを求めているものである。高裁段階では群馬以外の3件で国の責任が認められていた。東電の賠償責任については今年3月に最高裁で確定し、賠償総額は4件で計約14億円なっている。
今日最高裁は、福島第一原発に押し寄せた津波について「想定されていた津波よりも、規模が大きく、方角も違っていた。仮に、国が、規制権限を行使して、東電に必要な措置を講じさせていたとしても、今回の事故は避けられなかった可能性が高い。」と結論づけた。
原発は人が建設した人工の構造物である。地震などの自然災害とは異なるものである。そこで事故が起きたなら、しかもそれが想定外、想定を上回るものであるなら、建設したものに責任がある。想定の仕方が不十分であったというだけである。安倍晋三は鼻でせせら笑って否定しておきながら、想定を全面否定していたではないか。
不思議なことに、原発そのものが非合理的であり、非人道的である危険な施設であるという争いはないのか。つまり事故が避けられないとの結論の前に、原発がなければこのような事故にはならなかったとの結論は、どうして引き出されないのか?
つくづく日本の司法は、重要な場面で権力の側に立つ判断しかしない。
金がどんどん入ってきて住民が浮かれていても、生涯かけて原発建設に反対だった楢葉町の人がいたことも忘れてはならないことである。
最高の教育を受け難関を乗り越えてきた最高裁裁判官の判断は一人を除いて国の責任を認めなかった。
「流れに逆らわず従順であること」これが我が国の教育の根底にながれている。
柔軟に物事を許容する社会体質を養わない限りこの国は同じことを繰り返す。