相模原市の知的障害者施設、津久井やまゆり園で19人が殺害された事件から今日で6年となる。
この事件は、現在の日本が抱える大きな問題を象徴的に顕在化した事件といえる。次の二つに絞って考えてみたいと思う。
〇植松聖の価値観
犯人の植松聖は、意思疎通の出来ない人間は存在意義がないとすつ、確信犯であった。やまゆり園の職員であり、内情に精通していた植松は、実行直前に衆議院議長に手紙を送り事件後の自らが称賛されると確信していた。
障がい者施設に係わる費用を軽減することで、国は自分の行為を高く評価し、犯罪者として捕まっても、新たな氏名と仕事身分をいただき安穏と暮らすことになる。と、嘯いていた。
優性思想を背景に、主に知的障碍者には人格がないとする考え方で、多くの特権階級の人物や権力者が社会的に不要な存在と位置付けている。
先日亡くなった石原慎太郎は裕福な家庭に育ち、文才を磨き社会の明るく高いところを歩き続けた人物である。東京知事時代に障がい者施設を訪れ、「ああいった人間に人格なんかあるんかねぇ」と呟いた。事件後石原は、植松の犯行に理解を示している。
人種や民族や国家として差別する思想は、自分たちは彼らを見下ろす位置に置き、差別をする考えは消えることがない。むしろ増えているかに見える。
植松は事件後、国民は私を賛同することになると述べている。
我々はこうした障がい者たちを、社会的に不要なものと僅かでも思っていないかである。汚い言葉で人を罵り非難することは根底にもそうした考えを伺うことができる。辺見庸の”ぐぐもった犯意”は多少とも万人が抱いている。こうした優性思想への検証がほとんどされていない。
〇警備を万全にすればいいのか
次に驚かされたことは、警備の問題である。警備が万全なら事件は起こらなかったというのである。
フェンスを高く強固にして、錠前を頑強なもの変え監視カメラの数を増やす必要があるというのである。この事件を警備の問題としてしてしまおうというのである。
こうした発想は隔離思想であるが、多少とも植松の抱く考えに近づいていないか。これは国家も同類のことを国民に訴える。軍事力の増強すればざれも攻めてこなかうなるとか、相手国が怯むというのである。
共生の考え方、平和思想が次々と壊されてゆく。