左の図は、私が講演のためにネットから拾って作った、北海道牛乳を表現しようとしているものを無作為に集めてみたものである。北海道牛乳とうたっているものは、ほとんど例外なく放牧風景をパックに描いている。
府県の方々は北海道の乳牛はすべてが、広い放牧地で大空の下でのんびりと草を食べていると思われている。大きな間違いである。確かに北海道の酪農地帯では、広い面積で牧草を栽培しているしそれを大量に収穫してはいる。それは古くは冬のための貯蔵飼料であったが、現在はほとんどが夏のこの時期でも、外に出して草を食べさすことはほとんどなく、固いコンクリートの床にいて、収穫した草(サイレージ)と主にアメリカから輸入した穀物を給与している。こうした環境で搾乳された牛乳が殆どである。乳牛の飼料と飼養形態は府県とほとんど変わるものではない。多少は草(粗飼料)が自給されているので、府県に比べて食べている量が多いと思われる程度でしかない。
上図のようにそれぞれが「北海道牛乳」と名付けて、パックにあたかも放牧された乳牛から搾ったものと表示するのは、偽装の手口と言って構わない。推定であるが、純酪農地帯の根室地方でさえ放牧された牛から搾られて牛乳は5%を切るのではないかと思っている。
牛に決して良いとは思われない集約型酪農より、牛の健康に配慮した放牧などを評価しようと家畜福祉を重視するに飼養形態が広がるように活動している。家畜福祉の認定基準を策定する過程で、最ももめたのが放牧の評価であった。多くの委員が必須条件としたかったのであるが、環境的に放牧できない地域や環境を考慮することにせざるを得なかった。規模拡大を行政も周辺産業もけし立てる様に、資金や制度や技術などを次々と紹介するのである。
放牧を主体にすれば乳牛は健康で長生きするが、穀物集約的な酪農のように牛乳の量は出ない。放牧を主体にした酪農では、土地の制限がり多頭数を飼うことができない。そうした理由などで、放牧酪農は圧倒的に少なくなってしまった。
結局大量の穀物に依存した畜産の形態は、家畜の食糧自給率を下げてしまうのである。下の図を参照してもらえると良いが、日本の牛乳のほとんどのカロリーは海外に依存しているのである。畜産の中で乳牛はまだましな方である。
多くの飼料を海外に依存する形態でありながら、北海道牛乳と呼ぶのはほとんど偽装行為である。しかしながら、オーストラリア産の小麦で作られた、讃岐地方のうどんを「讃岐うどん」と呼んでも咎めるものがいないように、多くの日本の生産地表示の食べ物は偽装だらけなのである。
府県の方々は北海道の乳牛はすべてが、広い放牧地で大空の下でのんびりと草を食べていると思われている。大きな間違いである。確かに北海道の酪農地帯では、広い面積で牧草を栽培しているしそれを大量に収穫してはいる。それは古くは冬のための貯蔵飼料であったが、現在はほとんどが夏のこの時期でも、外に出して草を食べさすことはほとんどなく、固いコンクリートの床にいて、収穫した草(サイレージ)と主にアメリカから輸入した穀物を給与している。こうした環境で搾乳された牛乳が殆どである。乳牛の飼料と飼養形態は府県とほとんど変わるものではない。多少は草(粗飼料)が自給されているので、府県に比べて食べている量が多いと思われる程度でしかない。
上図のようにそれぞれが「北海道牛乳」と名付けて、パックにあたかも放牧された乳牛から搾ったものと表示するのは、偽装の手口と言って構わない。推定であるが、純酪農地帯の根室地方でさえ放牧された牛から搾られて牛乳は5%を切るのではないかと思っている。
牛に決して良いとは思われない集約型酪農より、牛の健康に配慮した放牧などを評価しようと家畜福祉を重視するに飼養形態が広がるように活動している。家畜福祉の認定基準を策定する過程で、最ももめたのが放牧の評価であった。多くの委員が必須条件としたかったのであるが、環境的に放牧できない地域や環境を考慮することにせざるを得なかった。規模拡大を行政も周辺産業もけし立てる様に、資金や制度や技術などを次々と紹介するのである。
放牧を主体にすれば乳牛は健康で長生きするが、穀物集約的な酪農のように牛乳の量は出ない。放牧を主体にした酪農では、土地の制限がり多頭数を飼うことができない。そうした理由などで、放牧酪農は圧倒的に少なくなってしまった。
結局大量の穀物に依存した畜産の形態は、家畜の食糧自給率を下げてしまうのである。下の図を参照してもらえると良いが、日本の牛乳のほとんどのカロリーは海外に依存しているのである。畜産の中で乳牛はまだましな方である。
多くの飼料を海外に依存する形態でありながら、北海道牛乳と呼ぶのはほとんど偽装行為である。しかしながら、オーストラリア産の小麦で作られた、讃岐地方のうどんを「讃岐うどん」と呼んでも咎めるものがいないように、多くの日本の生産地表示の食べ物は偽装だらけなのである。
船に積み替えることなく、コンテナで生乳の輸送が速くなった。
生乳輸送の技術革新で、それまで必要だった本州の都市近郊の小規模酪農家が必要ではなくなった。
行政の後押しも大きかったのだろうと思いますが。
こちらでも、「北海道牛乳」と売っています。
夏はいつもの産地のが減るのか、スーパーの売り場で「北海道牛乳」の割合が増えるようです。
あ、でも、「牛乳」という、いつもの京都工場のも、パッケージにはやはり、緑の牧場で放牧されている牛の絵が描いてあります(^-^;
北海道酪農家出身の漫画家・荒川弘さんの銀匙でも、農業高校の先生が、「教科書の数値は本州の牛のもので、北海道の牛は大きいからあてはまらない」と言って授業を始めるシーンがありましたし。
もう一つ感じるのは、荒川さん作品からも感じますが、アメリカの、共和党っぽいのが好きそうですね。
これは、開拓当初からクラーク博士などアメリカ農業に素朴に敬愛心があった、もう一つは戦後北海道は北からのソ連軍進攻を畏れていて、ソ連怖い→アメリカ友達、という精神構造ではないかと思います。
こちらの方では、戦争で空襲の記憶のある世代などによって、アメリカや政府に、どこかで用心するところがあるのに対し、
北海道の方は、アメリカ文化に素直な人が多い気もします。
北海道で、アメリカ風の酪農形態や飼料が急速に受け入れられたのは、これらの文化的素地があったからではないかとも、思っています。
放牧すると、運動にエネルギーが使われて、乳生産のエネルギーが減るので、エネルギーの無駄である、という言説を、以前どこかで読みましたが、
生き物を機械扱いしているようで、なんとなく不快でした。
しかし、銀匙にあったように、北海道の牛が、本州より大きくてたくさんエサを食べても、健康に維持できていた要因に、ほとんどの本州の牛と違って、北海道では放牧運動されていた、という理由があるのではないでしょうか?
その因果関係を証明できれば、放牧の大切さもアピールできるのではないかと、想像します。