大橋巨泉氏が亡くなった。メディアに登場したころは、読売テレビ系の11PM(イレブンピーエム)という、深夜番組の司会としてだった。女性の裸を登場させる、東京と大阪で交互に放送する、子供だった私たちにとって、大人のエロ番組として不謹慎な男と思っていた。巨泉は競馬や麻雀やゴルフなども提供する遊び人の男と思っていた。
話には筋が通っていて、クイズダービーや世界まるごとHOWマッチは、考えられた知的な番組と言えるし、視聴率も30%前後と高いものであった。本人はジャズ評論家とか競馬評論家を気取っていたが、基本的には人生を楽しむ男と言える。身勝手ともいえる男であった。
国会議員を少しやったころから、政治的な発言を聞くようになった。そしてこの小泉政権以降の10年は、戦前に酷似していると戦争を僅かに体験する世代として警告し続けてていた。これは永六輔や愛川欣也や菅原文太や野坂昭如や小沢一郎などに同じことが言える。様々な形で、戦争へ歩む姿に警告を発していた。特に安倍晋三という、稀代の右翼思想の持ち主が首相に就いてから強く危機を訴え続けた。週刊誌に書き綴る文章は危機感を強く訴え、安保法案が通った後は死んでも死にきれないと言っていた。
昭和一ケタ世代が危機を感じているのは、国民が知らず知らずに戦争に加担していった過程を見ているからである。この過程が現在の安倍晋三の手法そっくりなのである。安倍晋三は祖父の、開戦時の閣僚でA級戦犯の岸信介の思いをすっかり受け継いでいる。あの戦争は下手な対応をやったから、”負けた”のであると信じている。戦争が悪かったのではなく、敗戦国になったから、日本はアメリカから憲法を押し付けられたと信じている。素人が10日で作った恥ずかしい憲法とも言い放っている。国家の最高権力者でありながら、ろくに読んでいないこともわかっている。
国家は戦争に行けとは言わない。国家は国を守れてというのである。国はあなたたちを守る。敵国(他国)は侵略を企てている。国家は国民を守る。そのためにあなたたちは銃を持てというのである。武器を持って国を守れというのである。
この論理は敵国も同様である。正義は双方に存在する。この100年間、自衛以外の戦争は存在しない。自衛の理由がなければ、でっち上げるのである。戦争は人殺しで、銃口の向こうにも正義のために戦う人間がいて、家庭や社会や山や川も存在する。それらのすべてを破壊せよとは、国は言わない。国は国家を守れというのである。国益という魔法の言葉を使う現在がそうである。
大橋巨泉は、安倍晋三を「法衣の下に鎧を隠している男である」と断じていた。戦争を知る昭和一ケタ世代は、戦争を嗅ぎ取る能力に長けていた。ともに早稲田を中退した、永六輔と晩年は意気投合して戦争への道を嗅ぎ取っていた。
大橋巨泉の警告と彼の死は戦争への歩みが、ヒタヒタを迫っていることを感じざるを得ないのである。
話には筋が通っていて、クイズダービーや世界まるごとHOWマッチは、考えられた知的な番組と言えるし、視聴率も30%前後と高いものであった。本人はジャズ評論家とか競馬評論家を気取っていたが、基本的には人生を楽しむ男と言える。身勝手ともいえる男であった。
国会議員を少しやったころから、政治的な発言を聞くようになった。そしてこの小泉政権以降の10年は、戦前に酷似していると戦争を僅かに体験する世代として警告し続けてていた。これは永六輔や愛川欣也や菅原文太や野坂昭如や小沢一郎などに同じことが言える。様々な形で、戦争へ歩む姿に警告を発していた。特に安倍晋三という、稀代の右翼思想の持ち主が首相に就いてから強く危機を訴え続けた。週刊誌に書き綴る文章は危機感を強く訴え、安保法案が通った後は死んでも死にきれないと言っていた。
昭和一ケタ世代が危機を感じているのは、国民が知らず知らずに戦争に加担していった過程を見ているからである。この過程が現在の安倍晋三の手法そっくりなのである。安倍晋三は祖父の、開戦時の閣僚でA級戦犯の岸信介の思いをすっかり受け継いでいる。あの戦争は下手な対応をやったから、”負けた”のであると信じている。戦争が悪かったのではなく、敗戦国になったから、日本はアメリカから憲法を押し付けられたと信じている。素人が10日で作った恥ずかしい憲法とも言い放っている。国家の最高権力者でありながら、ろくに読んでいないこともわかっている。
国家は戦争に行けとは言わない。国家は国を守れてというのである。国はあなたたちを守る。敵国(他国)は侵略を企てている。国家は国民を守る。そのためにあなたたちは銃を持てというのである。武器を持って国を守れというのである。
この論理は敵国も同様である。正義は双方に存在する。この100年間、自衛以外の戦争は存在しない。自衛の理由がなければ、でっち上げるのである。戦争は人殺しで、銃口の向こうにも正義のために戦う人間がいて、家庭や社会や山や川も存在する。それらのすべてを破壊せよとは、国は言わない。国は国家を守れというのである。国益という魔法の言葉を使う現在がそうである。
大橋巨泉は、安倍晋三を「法衣の下に鎧を隠している男である」と断じていた。戦争を知る昭和一ケタ世代は、戦争を嗅ぎ取る能力に長けていた。ともに早稲田を中退した、永六輔と晩年は意気投合して戦争への道を嗅ぎ取っていた。
大橋巨泉の警告と彼の死は戦争への歩みが、ヒタヒタを迫っていることを感じざるを得ないのである。
入れ物としての「国家」を言っても、その中に居る同胞庶民を虐げ蹂躙するような国家なら、全くの本末転倒であり、国家などではない。そんな国家は無用だ。一体何のための国家なのか、誰のための国家なのか?
何かあろうとも「国家」は生き残る。しかし、人々の命は一度きりしかない。
人々よ「国家」という実態のない、権力者にとり都合よいだけのこんな大義名分や形式に振り回されるな。特にアベシンゾーらの言う「国家」になど絶対に騙されてはならない。