ア メリカでまたまた大学構内で銃乱射事件が起きた。死亡者32名は最悪の事態である。毎年のように、学校が無法者の乱射を受けている。誰もが簡単に銃を手に出来る社会が毎度論議になる。アメリカは、一般の店でも銃が売られている。
この事件から二つのことを教訓的に見ることが出来る。
その一つは、こんなことになるから誰もが銃を持つべきとする論と、だから銃の所持を規 制するべきだとする論の基本的な論議である。この論議は、自らの命は自らが守るとするアメリカの伝統のようなものが、優先されて結局は銃社会は容認されることになる。
これは、国防論や核の論議と同じである。軍事力を上げたり核を所有することで、安全になる。世界は、北朝鮮のようにあるいはアメリカのように、核を所有することで、大国になりより安全になると多くの国が確信している。
これでは真の平和を語ることが出来ない。これは相互不信が根幹にあるからである。武器を片手に語られる平和は矛盾することに、誰もが慣れてしまっている。
本来は、軍隊を持たない日本などは、こうした論議には全くピュアーな発言が出来たはずである。今、イラクへ派兵したり平和憲法を放棄しようとしているこの国に、そのような格調高い論議は出来ない。
も う一つは、33人の死者は極めて大きな事件である。この事件でアメリカ大統領が特別のコメントを出したり、葬儀などに出席するそうである。そのことは何も異論はない。
が、この程度の死亡者の事件は、ブッシュが起こした戦争の、イラクでは日常である。30名程度では事件にならないくらいである。死者が100名を越す事件が、毎月一度は起きている。そう見ると、ブッシュの対応はイラクに対してあまりにも鈍感すぎる。
おりしも、日本で長崎市長が銃殺された。世界で一番銃規制の厳しい日本での事件であるが、テロというにはお粗末な暴力団幹部の行為である。同日にもう一つ、銃による事件が起きている。
日本の、非銃社会は今なくなりつつあるように見える。折りしも平和憲法を放棄し、非軍事国家でなくなりつつあるのとどこか符合するように思える。