美術好きの友人とのある会話:「ラ・トゥールとフェルメールとどちらが好きか。」
実は、両者ともに私は大変好きな画家である。活動の舞台は異なっていたとはいえ、二人ともほぼ同時代に活動し、画家としてそれぞれに大きな成功を収めたといってよい。いずれも、当時のヨーロッパ画壇の風をしっかりと受け止め、その最前線を走っていた。 それにもかかわらず、その後長い間忘れられてもいたし、現存する作品数も同じくらいで大変少ない。
しかし、どちらか1人を選べと迫られるならば、私は躊躇なくラ・トゥールを選ぶ。その理由はいくつかあるが、最大の理由は、昨年の東京でのラ・トゥール展カタログ「緒言」*に記された、ジャック・テュイリエの次の言葉に尽きる:
「(だがしかし、)内容のないラ・トゥールの絵はひとつとしてない。 この同じ17世紀に、フェルメール(長いあいだ忘れ去られていたもうひとりの画家。19世紀に再発見され、今では世界で最も人気のある作家となった)は、人物たちをそれぞれ単独で描くことを好んだ。名高い、アムステルダムの美術館の《牛乳を注ぐ女》やルーヴルの《レースを編む女》はその例である。しかし、そこには日常のありふれた活動やたわいのない着想しか見出すことはできない。フェルメールの作品は、何よりもまず比類なき光の絵画なのである。だが、ラ・トゥールにおいては、ひとりの老人の質素な肖像に人生のすべてが含まれ得るのだ。」
この言葉は、東京展の契機となった作品「聖トマス」を取り上げるためとはいえ、フェルメール、そしてファンにはかなり厳しい評である。しかし、この点こそがラ・トゥールに惹きつけられる本質なのだ。
フェルメールの作品を眺めていて、そこに描かれた人物の日常生活の広がりを想像することは十分可能である。17世紀デルフトの平穏でありながらも、時に小さな波風も立つ市民生活の断片をつなぎ合わせる作業はそれなりに楽しい。しかし、そこで終わる。
そして、テュイリエが記すように、フェルメールの世界は決定的に「光の世界」である。しかし、ラ・トゥールの世界には、フェルメールのような自然な、太陽の光はほとんど感じられない。人々を瞠目させてきた「女占い師」や「いかさま師」のような「昼」の作品においても、光はフェルメールのように窓の外から入ってこない。光源らしきものは、なにも描かれていない。
ラ・トゥールがカラヴァッジョの影響を受けたことは想像に難くないが、カラヴァッジョのような徹底したリアリズムが作品に貫徹しているわけでもない。画家が最低限描こうと目指したものしか描かれていない。屋外なのか、屋内なのかを類推する手がかりすら描かれていないことが多い。しかし、描こうとしたものはこれまでと思うほど徹底して描かれている。
ラ・トゥールの作品は、その多くが眺めて鑑賞する対象というよりは、背後につながる深い精神世界へ誘う入り口となっている。
~フェルメールに厳しすぎたかな。いつか名誉回復の時を~
*ジャック・テュイリエ「緒言」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展ー光と闇の世界』国立西洋美術館、2005年