時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

幸せとはなにか(1)

2006年12月29日 | グローバル化の断面

    例年のことだが、年の暮れになると一年間の出来事などについて、多少の感慨にふける時間がある。この数年、そのひとつの契機は、ある雑誌の巻頭記事が材料となっている。この雑誌は、一昨年、昨年と続けて「貧しさについて」というテーマを掲げていたが、今年は「幸せ(そしてそれをいかに計るか)」*という記事であった。

  ふだんはこうした哲学めいたことを考えることはあまりないのだが、年末にふと見かけた光景に衝撃を受けて、考えてしまった。

  数日前、養護ホームに住居を移した知人を見舞いに出かけた。といっても、この知人は今まで住んでいた住居を処分して便宜のよい施設に移住しただけで、看護・介護の必要はまったくない。将来を考えて、マンション住まいのつもりで移ったらしい。他方、この施設は、完全看護・介護を掲げて高級ホテル並みの設備とサービスを売りものにしており、入居者に高齢者が多い。入居費もきわめて高く、私など逆立ちしても入れないし、実は(仮にそうした状況に恵まれても)絶対入りたくないと思っている。

  この施設では見舞いなどの訪問者は受付で所定の手続きをすれば、問題なく入ることができる。しかし、高齢者が多いということで、風邪などの予防のために、手洗いとうがいを要請される。他方、入館者は原則、付き添いや許可がないかぎり外へ出られない仕組みである。日常生活で必要なものは、すべて館内で調達できることになっている。スタッフも多く、隣接して診療所まで設置され、諸事万端整っている。

  受付から連絡してもらい、豪華なロビーで待っている間、片隅のソファーに入館者と分かる老人が座っているのに気づいた。不安そうな表情で肩にかけた小さな鞄を両手で抱え込むようにしている。きっと銀行通帳など貴重品が入っているのだろう。今の日本では、これ以上安全な場所はそうないだろうと思われる環境にもかかわらず、不安に満ちた面持ちで深い寂寥感が漂っている。

  物質的には世界有数の経済水準を達成した日本だが、国民の不安は高まるばかりである。巻頭の雑誌記事は内容が濃密で、ここに要約することはできないが、ひとつの含意は経済学に幸せの実現をあまり強く結びつけること自体、無理な注文ということらしい。

  所得や資産など社会的格差が広がるほど不安は増し、なにも心配のないような億万長者も、胸の内は澄み切って幸せ一杯というわけではないようだ。しばしば社会階層が上になるほど、問題も増える。ブログで取り上げた『天使の堕ちる時』でも、中流下層の主人公の方が上層の主人公よりも幸せ度は大きいのではないか。経済格差の多くは相対的なものであり、他人との比較で発生・拡大する。先進国ほど格差についての意識も高まる。幸いをもたらすか、不幸にするかに、市場やその成長は深く関わってもいるという。この意味で経済がまったく関係ないわけではない。

  しかし、一般に世の中では自分のしていることに没頭できる人は大きな充実感を得て、悩み少なく幸せで充たされるようだ。雑念に悩まされず、没入できることをもっている人が幸せを享受できるらしい。一年もここまでくると、煩悩の多い人間の一人としては、除夜の鐘に期待するしかないか。

      
*
"Happiness (and how to measure it)" . The Economist December 23rd 2006.   


コメント
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