世界は広いようで狭く、驚かされることが度々ある。それを思い知らされるのが、最近のIT技術の進歩だ。ラ・トゥール遍歴を始めた時に、最初にロレーヌの旅の拠点としたのは、ドイツのザールブリュッケンであった。フランス国境に近く、フランス語ではサールブリュックと呼ばれている。アメリカでの修業時代から終世の友人となったK夫妻が、アメリカから帰国後住んでいた。ベルリンでの仕事を離れたこの友人は、ザールブリュッケン大学で教壇に立っていた。訪れると、ほとんどは自宅に泊めてくれたのだが、当時は夫妻に子供が生まれたばかりだったので、ホテルの方が静かで休めるだろうと、最初は市内のホテルを予約してくれた。
先日、身辺の整理をしていた時に、当時の旅の宿泊カードが出てきた。時代は遠く1970年代のことである。しかし、不思議なことに記憶は新鮮に残っていた。ザールブリュッケンはまだドイツ経済を支える重要な工業・鉱業都市として、活気が残っていた。サールランドの中心地として、鉄鋼と石炭が主要な産業だったが、周辺には機械や陶磁器などさまざまな産業があった。しかし、その後、鉄鋼、石炭ともに衰退の途を辿った。
当時宿泊したこの小さな家族的なホテル(Hotel am Staden, 66 Saarbrűcken, am Staden 18)はその後も宿泊したことがあり、雰囲気も良く覚えていた。このホテルのその後を知りたいと思い立ったひとつの契機があった。ブログでたまたま私のラトゥール遍歴記事を読んでくださった日本人の主婦の方が、ロレーヌのメッスに住んでおられることを知った。それだけでも驚くことなのだが、大変楽しいブログを開設されており、コメントをくださった。ロレーヌに関心を持ち、ほとんど知られていない小さな町や村を探索している日本人がいることに驚かれたらしい。そして、最近、ザールブリュッケンを訪れた記事を書かれていた。
地理に詳しい方は思い浮かべることができようが、フランス側のメッスと、ドイツ側のザールブリュッケンは指呼の距離である。ザールブリュッケンは、かつてパリ滞在当時に何度も通った懐かしい場所であり、市内の地理もよく覚えている。メッスはラ・トゥール遍歴の最初の方で記したこともあるが、モーゼル川とセイユ川の合流点に位置しており、17世紀初めは、ラ・トゥールの生まれたヴィック=シュル=セイユにも大変近い所に位置している。ヴィックはメッス司教区のいわば飛び地領だった。
ザールブリュッケン、ホテル宿泊カード
IT技術の進歩によって、Google の地図検索で、ホテルの場所から周辺の光景まで最新のイメージを確認することができる。一寸怖いくらいである。まだ存在すると思っていたホテルだが、残念ながらもう営業していないようだ。しかし、周辺の風景はほとんど変わっていない。ザール川にかかる古い石橋もなつかしい。
ついでのことと思い、先日記事に書いたパリの凱旋門に近いバルザック通りのホテル・セルティックも検索してみた。便利な場所だったので、こちらも一時期定宿にしていた中規模な4星ホテルであった。名前から推定されるように経営者に、アイルランドの人が関わっていたのだろうか。白い壁と窓枠などが緑色の縁取りが印象的な清潔なホテルだった。こちらも検索すると、ホテルは別の名称になっているようだ。最近は、パリへ行ってもサンジェルマン近辺のホテルに宿泊するようになっており、エトワール周辺はあまり訪れなくなっていた。その間に変わってしまったのだろう。
これまで宿泊し、なじみのあるホテルをいくつか検索してみると、多くは現存しているが、名前の変わっているものも少なくなく、ホテル業界の変化、とりわけチェーン化の進行が著しいことが感じられた。
普通、現実は歴然として存在しているにもかかわらず、記憶の方が次第に薄れるのだが。今度は、記憶はかなり鮮明に残っているのに、現実が大きく変わってしまっている。なにごとも栄枯盛衰は避けがたいのだが、こうなると浦島太郎のような感じになる。誰も知らなくなる事実を多少なりとも留めるために、記憶細胞が生きている間に、少しでも書いてみようと思っている。