日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

声を挙げにくい、いじめられている側の立場

2006-11-01 08:03:48 | 社会問題
いじめによる自殺のニュースをテレビでみました。
取材する側の、告発するようなスタンスが嘘っぽくて、あんまりこの手の報道は好きではありません。
自殺という結末にまでは至っていないけれど、今現在いじめに悩んでいる人もいるんだろうなと、そのことが気にかかります。

集団生活していると、得て不得手が出てくるし、お荷物になる人もいるでしょう。多分それは、かつての時代も同じだったと思います。地域で小さい頃から異年齢の子供と様々な遊びを繰り返しているうちに、おのずと相手に対する力加減や、自分の立ち居地を理解してきたのではないでしょうか。
それが、親(母親)と子という、保護者・被保護者の立場で大きくなるまで育つものだから、子供同士の場合の、弱い人を守る感覚が育っていないのではないかと思います。

親や教師に励むように期待されている子供。
それに沿える子もあれば、不向きでストレスに感じる子もいると思います。
たまったストレスはどこか発散、それがより弱いものへと向かうのではないか、そう考えるのです。

息子が幼稚園の時、こう言いました。
「運動会の練習のとき、後ろの○○君、背中を押したり、足をふんづけたりして、いじわるするの」
いつもは、そういじわるでもないのです。
ただ、「きちんと整列したり」、「遊戯を覚えたり」をドンドン押し付けられると、その「おもしろなさ」が募って、弱いところにストレスを発散する。

いじめの発生はこれなのだと思っています。
「得意でもないのに、がんばらなくてはならない」ところから、生まれてくるストレスを弱いところで発散。
弱い人は、ココロの中には悲鳴をあげられても、外には出せません。
そ知らぬ振りして、ちょこっと、その加害者と被害者の鎖から、引っ張り出せる役回りの人も、周りにはいるはずです。

加害者、被害者、これらは固定しているものではありません。
加害者のいない世の中は理想でしょうけれど、それはなかなか困難です。
だけれども、「被害者を加害者の鎖から引っ張りだす役回り」の人もいるはずです。先生たちは、そして親たちも、時には「被害者を引っ張りだす役回り」になれる子供を育成してほしいものです。
教師や親が保護する立場として、引っ張り出すのではなく、身近に接している者たちの仲で、その役回りができる人が、混在していることが大事なのです。

私の通学時代は随分昔のことですが、校長先生に守られているなんて、子供本人は思ったことありませんでした。
校長先生が、よい謝り方をしたかしないか、そんな論評で糾弾しているマスコミは、本当に子供のことを考えているのでしょうかね。
ま、浅はかな謝り方をした校長先生にも、あいた口がふさがりませんが…。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする