日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

身近で聞いた、高校の先生の話。

2006-11-13 22:49:14 | 私の雑感あれこれ
朝から会議は引き続いていた。
午後、ブロックごとの話し合いのあと、その人はどんな流れで、その話を始めたかは記憶にありません。
その方は高校教師とのこと。
教え子の高校生たちとネパールに学校を作ったときの体験を訥々と語ってくださいました(○○という名前で活動しておられたとのこと、但し名前は失念)。
高校教師の蓄えが原資だから、潤沢な資金とはいえず(と、謙遜しておられましたが)、基礎作りは村人の人力奉仕に支えられ学校は完成したとのこと。
さて、完成祝いの挨拶の場。
日本からネパールに学校をつくりに来て、今それが完成したと思っていた。
ところが、村長の挨拶では、村が作り、日本人が助けてくれたとの内容。
「えっ!どうして?」と、思ったそうです。
でも、考え直してみると、充分すぎるほどの資金があったわけではなく、石材その他、村民の尽力があったのは確かだし…。
モヤモヤとした気持ちもないではなかったけれど、しばらくすると、そんなことはどうでもよい。学校ができたことは事実。それでよい。そんな気持ちになったそうです。
そのうちにPTAのような組織ができ、就学していない子供へ、通学を呼びかけたり、学校を中心とした村人の結束が高まって行く様子をひしひしと実感できたとの話でした。
連れて行った高校生たちも、ネパールの村での学校建設の有様を体験したわけで、その何人かは大学進学で各地に居を移した今も、それぞれが○○の支部を立ち上げ、それぞれ関心を持ち続けてくれているとの話でした。

その会議に集まった人たちは、アジアにより健康的な暮らしをという目的を同じくする仲間、その教師の方が訥々と語られる内容に耳を済ませました。学校づくりをするという話は、本でも新聞でも、見聞きしないわけではありません。だけれど、すぐ目の前のテーブルのその人が、そう思うと、ちょこっと血が騒ぎました(苦笑)。
そのサークルの発起人の方も、ネパールの医療事情の後進性に何とかならないものかと、事業を立ち上げられた方。
一朝一夕にどうこうなるものではないけれど、志が同じとは言わないまでも、関わっていたいといという点ではつながっている。そんな皆さんの話を身近に聞くだけで、ただそれだけのことなのに、すこし血が騒ぐ、おかしい私です。
コメント (2)
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彼女は「不器用な人」と表現する。

2006-11-13 13:13:12 | 
うーん、そうなんだね。
「不器用な人」か。

「なんか、下手だね、不器用なんだね。人が嫌がる言葉をいって、いいことないのに」
「だけれど、その言葉を言わないと気がすまない、のだろうね」
「まったく、不器用!」

意地悪と責めるのでもなく、狭量や吝嗇と決め付けるのでもなく、ちょっと距離をおいて、「不器用な人」。
なんて上手い言い方なのだろう。

彼女は、人を責めない。
自分の中の世界を持っている人。
迷いもしたし、悩みもした。
目の前にいて、あれこれ話し込みながらも、私が抱えられる課題の総量を量りながら、言葉を選んでいるような気がする。

ふーん。
「そういう言い方しかできない人は不器用な人」と捉えると、カチッと来ても、一呼吸置けるんだろうね。
つまらない諍いなんて、できればする必要はない。
「賢い人は、そこんところ上手く距離を置くんだよ」とも。
その間が置けなくて、一瞬にカチッと来てしまう私ですが、精進、精進。

でも、思う。
人が自分に理不尽にぶつかってきた時に、そんな風に距離をおけるためには、自分自身が、自分の足でしっかり立っている必要がある、と。

何が大事か。
茨木のり子さんの詩の文句ではないけれど、
「寄りかからないで」
「自分感受性ぐらい…」

その詩の中のフレーズ「愚か者よ」と自分に。
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