新聞の文字に目を走らせながら、胸が詰まる気分になることがあります。
声を出すこともなく、読んでいる私の外観も変わらず、なのだけれど、こみ上げてくるものがあるのです。
ブログというスペースに、そんなケースの一つを書き留めておこうと思います。
誠に、たわいもない、ことなのでしょうが。
昨日の朝日新聞天声人語は、千葉県沖の鰹漁に出ていた船の海難事故を伝えていました。テレビでもみた、漁船の姿が目に浮かびます。
子供の頃、昭和30年代の記憶です。
祖母と母が話しているのを聞いていました。
今日、船が出て、○時ころだって。
今度(戻るの)は○月らしいよ。
などと。
それは遠洋漁業なのか沿海漁業なのか、北陸沿岸から北海道辺りまで漁に行く船がいよいよ出発するという話でした。
そのとき私は、音を聞いただけなのか、いや、確かに水平線あたりを行く船を見たような気もします。テレビのニュースで写しているあれくらいの大きさの。
いや、遠目だったから、もっと大きい船だったかもしれません。
ボー、ボー、ボー、と汽笛をいくつか鳴らしていくのです。
私の町は小さな町で、その大きい船は、もっと大きな港町から出帆するのです。だから漁師の夫を見送る家族のいる町辺りに近づくと、
「ボー、ボー、ボーと汽笛を鳴らすのは『行ってくるよ』の合図なんだよ」と。
教えてくれたのは、祖母だったか、母だったかは覚えていません。
でも、そのときの、低い汽笛の音は忘れられません。
岸辺で見送っているのは、何人の家族でしょう。
家族が住む沿岸を航行中のたびに、岸辺の家族に届くように、ボーボーボーと。
汽笛を通して、船から岸辺に伝えようという仕組み。
危険を承知で漁にでる男と見送る家族の繊細なワンシーンに、大人の世界の思いやりを思いました。
漁船の転覆記事に目をやりながら、あの時お隣のチコちゃんは、旦那さんを見送る側だったな、などとポケットの中から記憶が飛び出してきて、コレって、感傷って言うのでしょうか。
声を出すこともなく、読んでいる私の外観も変わらず、なのだけれど、こみ上げてくるものがあるのです。
ブログというスペースに、そんなケースの一つを書き留めておこうと思います。
誠に、たわいもない、ことなのでしょうが。
昨日の朝日新聞天声人語は、千葉県沖の鰹漁に出ていた船の海難事故を伝えていました。テレビでもみた、漁船の姿が目に浮かびます。
子供の頃、昭和30年代の記憶です。
祖母と母が話しているのを聞いていました。
今日、船が出て、○時ころだって。
今度(戻るの)は○月らしいよ。
などと。
それは遠洋漁業なのか沿海漁業なのか、北陸沿岸から北海道辺りまで漁に行く船がいよいよ出発するという話でした。
そのとき私は、音を聞いただけなのか、いや、確かに水平線あたりを行く船を見たような気もします。テレビのニュースで写しているあれくらいの大きさの。
いや、遠目だったから、もっと大きい船だったかもしれません。
ボー、ボー、ボー、と汽笛をいくつか鳴らしていくのです。
私の町は小さな町で、その大きい船は、もっと大きな港町から出帆するのです。だから漁師の夫を見送る家族のいる町辺りに近づくと、
「ボー、ボー、ボーと汽笛を鳴らすのは『行ってくるよ』の合図なんだよ」と。
教えてくれたのは、祖母だったか、母だったかは覚えていません。
でも、そのときの、低い汽笛の音は忘れられません。
岸辺で見送っているのは、何人の家族でしょう。
家族が住む沿岸を航行中のたびに、岸辺の家族に届くように、ボーボーボーと。
汽笛を通して、船から岸辺に伝えようという仕組み。
危険を承知で漁にでる男と見送る家族の繊細なワンシーンに、大人の世界の思いやりを思いました。
漁船の転覆記事に目をやりながら、あの時お隣のチコちゃんは、旦那さんを見送る側だったな、などとポケットの中から記憶が飛び出してきて、コレって、感傷って言うのでしょうか。