日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「おくりびと」は見ていないけれど・・・。

2009-03-02 12:31:34 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
話題作で、私が訪ねるブログの何人かの映画鑑賞記事を読んだりもしています。
その都度、私は、その感想に入り込めない部分を感じていた。
その後、アカデミー賞を受賞して、納棺師の話題がさらに、テレビでも報じられている。

日本の伝統文化が国際的にも評価された、という流れの賞賛のコメントが受賞の紹介につく。
少しだけ、「『納棺師』という日本に伝わる文化」という理解に違和感を覚える理由を書きとめたい。

この映画は、もともと青木新門氏の「納棺夫日記」という本を本木雅弘さんが目にとまって、映画化を考えていた、とのこと。

納棺の仕事をしていた青木さんは、私と同郷もしくは、その近辺らしい。
今も同県にお住いとかで、書かれている内容も、私の育った地域での葬儀のシーンなどなのでしょう。
祖母の死んだときの記憶がある。
祖母は94歳、入院することもなく自宅で最期を迎えた。
家族で見守っていたのだけれど、最期の息を引き取る際に立ち会ったのは私。
私は、お医者さんを呼びに走った。かかりつけ医によって臨終が告げられると、直ぐに兄嫁がてきぱきと、手を合掌の形にして、あごが開かないように手当てした。
私は診断書を持って役場へ火葬許可をもらいに行った。
遺体は北枕に寝かせ、屏風はさかさまに立てるというしきたりだと教えられたのもその時。屏風の絵柄を見て、逆さまだと注意してくれた人がいて、イヤこの場合は、これがシキタリ、と話題になった記憶がある。
亡骸の胸には、守り刀を置いて、魔物が取り付くのを防ぐのだと。その亡骸を守って、終日ロウソクの明かりを切らさず、葬儀まで亡骸の周りには、人が見張り番をするごとく、終始離れなかった。
納棺の日。
「おーい、○子、みんなで、ばあちゃんの湯潅(※ゆかん)をするからー」と声が聞こえた、3人の幼子を抱えて実家に戻っていた、私はむずがる末っ子の世話で、それどころではない、という風をよそって、二階から階下には下りていかなかった。
家族みんなですることが大事なのだ、そういうものだ、という空気が流れていたのに、私の中では、死んだ人の裸体を見ることが怖かったのです。
※納棺する前に死体を清めること。
高齢になった祖母は、生前に自分で死に装束の準備も整えていました。残された家族は周りを取り囲んで、祖母の体を拭き、その衣装に着せかえている様を、想像していました。
その場に行かなかった自分に、イヤなことから目をそむけた私、そういうジャッジを自分にしてきました。

その数年後。
夫の父が亡くなりました。
夫の郷里も、そう離れていません。
そのときも、納棺に際し、湯潅が行なわれました。
祖母のときの記憶があるものですから、他の人には、通り一遍の作業に思えるかも知れませんが、私はあのときを想い起こします。
そのときは、葬儀屋さんが、マニュアルにしたがって、見栄えよく執り行っていきました。そして、ほぼ済んだ頃に、ご遺族の方、どうぞ、と清拭のためのアルコールを含んだ脱脂綿を渡され、亡き義父の右足の踵を少し拭きました。
病気で体力を消耗し尽した父の右足の足先は、むくんで妙に分厚かったのを覚えています。
その時の葬儀屋さんの仕事を納棺夫と言うのでしょう。
そう、私が祖母のときに、「避けたい気持ちが湧きあがった」のは、平均的感情であって、よって、この地方では、葬祭業という業者ができて、遺族に替わって、その仕事をやってくれるようになったのです。だから、マスコミが映画を紹介するときに日本古来の文化、風習という言い方をすると、違うのではないか、そう思ってしまうのです。
ほんの昭和50年代頃までは、各家庭で、家族で行なってきていた、死者を送る手はずのひとつであったのだと、そう考えるのです。

納棺夫日記の作者青木氏は、私より更に一回りぐらい年配の方に見受けられます。
昨今、日本の伝統文化の一面、という言い方をマスコミはしていますが、50年ほど、いや30年ほど遡れば、その作業は家内で行なっていた事だとおもいます。
ま、こんな風に、風習の解釈も時代が下ると誤解が一人歩きする。コレが実態であり、民族学などにも類似の事項ってあるのでしょうね。




コメント (7)
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