日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

しばらく間が空いて・・・。

2010-10-21 06:36:56 | 母のことなど
先日、
「自分は元気だから、大丈夫(事故に遭った孫のところを見舞ってやってくれ、自分の顔を見に来ることには、気にしないで)」と、母は電話口で言っていたけれど、
ひと段落して、先日1年ぶりの里帰り。

耳が遠いから、茶の間の会話には加われなくなっている。
だから、夕食とお風呂を済ませてから、自分の部屋で、娘の私が寝にくるのを、自分の隣に私の布団を敷いて待っている。
せかさず、黙って。

私と母は、寝しなに語り、明け方に語る。
何十篇も聞いた話もあるけれど、私、聞き役。
あれも語ろう、コレを伝えておこう、と準備している母。
今回は、よかったらアルバムも持ち帰ってくれ、と準備していた。
私が幼い子供たちを育てていた頃、母に送った、我が家の若い顔ぶれが並んでいる写真たち。
弟家族の分、お前から送られた分、そんな風に、あの重たいアルバム帳に整理されてあった。
「ここに置いておいても、自分が死んだら、処分されるだけだから」と。
そして、母の、そして父の、若い頃の写真も、昔の写真帳から、新しいアルバム帳に整理されていて、コレもお前のところに、と。

勿論、親の若い頃の写真、何回かは見て知っている。
で、その写真群をつれて、帰って来た。

写真の母は、いいなー、美人(笑)。牧瀬里穂に似ているかな。
かつての仲代達也か,高橋幸治に似ている若き青年が父親なんだって、ウフフ

騎馬姿の一枚があるけれど、きっと、従軍中に元気である証拠写真として、仲間と交代で写した代物に違いない。

「昭和9年から、シベリアから帰ってきた23年まで、ずっと兵隊に捕られて(採られて?)いて、一年間捕られなかったのは、昭和15年の一年だけ」

そういう風に、母は言う。
その一年に、自分たちは結婚して、戻ってきた翌年の24年に私が生まれた。

20代まるっと戦争で、自分の人生を自分が決められない、そんな人生だったのだ。
幼い頃から、話を聞かされて育っているから、「頭では」わかっているけれど、当事者にしてみれば、なかなか、「子世代には伝わらない」そんなものだろう。

出征を前に写した一人息子の若き父と祖母の写真などは、胸中を察せられる、そう思って眺めたりする。

この母から委ねられた写真帳は、知った顔(故人が多い)や知らない係累の顔が並んでいて、重い。
コメント
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