日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

読書会の本など、雑文

2010-12-08 07:08:24 | 
何度かこのブログでも触れたことが有るけれど、長年読書会をしている。
今の仲間とは末っ子が幼稚園に通っていた頃から。
考えてみれば、その前の転勤族だったときの、大阪の池田市に居たときも、乳飲み子を抱えながら、読書会をしていた。
そういえば、このときき、みんな乳幼子を抱えていたけれど、育児関係の本を取り上げない、というルールがあった。子供の母親ではあるけれど、母親だけではない、という思いが、そんな制限を課していたのだろうか。同業の夫を持つ官舎住まいで、乳幼児を夫に預けて、ご主人の帰宅の遅いお宅で読書会をしたことも、今は懐かしい。
今の読書会は、そんな頑なさはない。それどころか、子供が夏休みの8月はお休みなのである。そして、みんなすっかり子育てを終わってしまっているのに、その「8月お休み」を返上することなく、月1回を続けている。
わたしが主催者でもないし、どちらでもいいから、そのまま。12月はクリスマス月だから、子供の本という傾向もあったらしいが、さすが、それはない。
「老い」への向かい方のほうがひつようになっている世代ですもの。

で、今月始めの読書会で次々回の課題本の話題の中で、「空海の風景」を提案される方があった。
自分は詳しいことは知らないけれど、と前置きして
「死んで、火葬するときに、棺おけに「空海の風景」を入れて欲しい。もう一度向こうの世界に行ってから、読んでみたいから」と、というどなたかの文章を読んで、興味が沸いた、とのこと。
司馬遼太郎の本は、少し摘み食い程度に読んだ私だけど、読んだ本の殆どは、その筆力と、いわゆる司馬史観をどっぷり味わうタイプなことでもあり、賛成、です。

で、多分、我が家の書架にはあるだろうな、とも思った。
彼女の、お誘いの一言がないと、自宅にあっても、私の目に触れることはないはずが、今通勤用のバックに入っています。昭和53年版なので、文庫本の活字も古色がにじんでいますが、それもよし、です。
昭和53年というのは、まだ20代。
あの、最初の読書会をしていた頃です。

「(何十年も経って)キミが近づいてくるような気持ち」というようなことを夫はいった。
よい本、お勧め本があると、つい押付けたがる私に対して、黙々と読み込んでいる人ですから、そんな感慨もあるのでしょう。

余談
先日帰省した息子が、民俗学者宮本常一の本「忘れられた日本人」の話題を持ちかけました。
宮本常一についても、夫は何冊も読んでいます。私も上述の読書会で読んでいます。
夫は、彼の人となりを書いた本1冊を書架から持ち出し、勧めました。
今までの息子だったら、親のお勧め本を嫌うのですが、持ち帰ったそうです。

どんな本でも書架にあるように思われるかもしれません。
そんなことはないのですよ。数年前に夫は、再読する可能性のない本の殆どを廃棄処分したのですから。
だから、夫が書架に残しておいた本は、廃棄処分を免れた一冊、一冊だということなのです。



本を読むのは、ひとりの作業なのですが、本と出合うことは、ひととのかかわりの中だったりするから、私にとっての読書会のよいところかもしれません。
コメント
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