日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

朝ドラ「カーネーション」を見ている。その2

2012-01-17 10:40:14 | 映画・テレビドラマ・音楽
戦争も終わり、昭和23年まで下ってきた。
まだ私は生まれていない。(笑)
でも、私が育った田舎町のメインストリートにあったパーマ屋さんとか洋装店の趣に近くなってきた。
親たちが語る戦後まもなくのころって、こういう光景だったのか、と想像しながら見ている。
洋服を誂えはじめた女性たちが出てきて、小原洋装店は繁盛し始めたけれど、シベリアから夫が戻っていない、わが母(当時30歳前後)はそれど頃ではなかったんだな、と考えたりもする。
テレビ画面の闇市シーンを眺めながら、母が妹の夫に頼まれて、りんごを信州まで買出しに行った話も聞いていたけど、戦後のドサクサの中でも、商売を志すものにはチャンスでもあったのだと思ったり。…その叔父は、その後阪神地域にいくつもの店舗を構えてそれなりの成功者となった。
私が小学校入学したのは昭和30年代初め。
入学記念写真の同級生の何人かは、左右の髪にパーマネントを当てている。お母さんのパーマネントのついでに、可愛くしてもらったのだろう。
糸子の子供たちが、しばしば安岡美容室で髪をカットしてもらっているけれど、そのうちに、両側にパーマを当てて、後ろを刈上げにするのではないだろうか。…推測です。
私の記憶では、子供雑誌の表紙に登場する松島トモ子とか小鳩くるみがそんな髪型だったような気がするから。
私は、そんな髪型にしたことはない(顔型から言って100%似合わないけれど)。
こどもココロに、あれは自分とは違うひとたち、なんだか、そう解釈していたようにおもう。・・・思えば、クラス写真のパーマネントの子は公務員の家の子供たちです。
少し贅沢が出来る人、ムリをしてもおしゃれにお金をかけたいと思う人からパーマネントが入ったのだと、そんなことを思ったりしながら、みている。
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今日1月17日

2012-01-17 08:42:59 | 子育ての周辺
あの1月17日から17年が経ったとテレビは報じている。
あの日私は普段どおりに仕事に出かけた。外から帰ってきた人が「テレビが神戸の火災の様子を写している、神戸は今も大変なことになっている」と聞いたのは、お昼近くのデスクワークの最中だった。
夕刻帰宅して、行く筋もの煙を挙げている映像を見たことも覚えている。

でも、私の関心事は、実はカテゴリーとしては「子育ての周辺」だった。
眠れない夜を過ごしていた。
白状します。
わが子のセンター入試で思わぬ結果だったことを聞いて、ガッカリの極限に達していた。
長らくの親バカで、聡明な子だと確信し、受験で壁にぶつかるタイプだと思ってもいなくて、結果を受け入れられなかった。
眠れぬ夜を過ごし、まだ暗い中、たまたまトイレにいるとき、グラッとときた。
それがあの阪神淡路大地震だった。
その後知ったことだけれど、倒壊家屋の下になって、迫ってくる火に、命があるのに援助を断念せざる得なかった話は、今も思い起こすと胸をしめつける。
次々と被災地の様子が報道され、支援に出かけるボランティアの話題を耳にしながら、申し訳ないけれど、今、私は、情けないけれどそんな心情ではない、と思って眺めていた。

結果として娘が入学することになった大学は、現役ならば推薦でラクに合格可能な大学に決まった。
聡明な子のハズと思い込んでいたワタシ。親(私)の欲目丸出し状態だったから、彼女の大学生活も、晴れやかなスタートではなかった。それではあんまりだと、夫は入学式に列席した。
彼女の気持ちはどうだったのだろう。
どんどん親(私)に心を閉ざし、大学に通っているのか、サボっているのか判らない状態になっていった、のだ。

彼女は利発な知恵者で、よく喋る母娘だったのに、あれは調子のいいときだけの話。
彼女がつらいときには助けていはいない。
そんな烙印を私は持っている。

わが子らの大学生トップバッターだったのに、私の器量のせいで晴れやかなスタートとはならず、いつもギスギスした日常だった。そんな中で、彼女は昼夜逆転の生活になっていった。
・・・この昼夜逆転の生活状況も、親子間を引き続きギスギスさせ続ける原因となった。
やがて、ペンネームで活躍していると知るまでは・・・。
黙して、自分の世界を開いていたのです。

幼児から、彼女はいつもいい子、でした。
争いごとがキライで論理的。5つ6つの頃は、なぞなぞが解ければ満足なタイプでした。
いわゆる、「忘れ物ない?」も「宿題は?」も一度も話題にしたことなく、本人任せに育てた、子育ての楽な子供でした。
その筋書き通りで、親がこの大学を、と薦めたつもりもなかったのです。
でも、親の期待に応える良い子であろうとしたのでしょう。
数学が大好きで、暗記物が不得手。
だから、大学受験では撃沈。まったく大苦笑です。
(それでも、今はある資格保有者のため、有利な条件で仕事をしていますが)

因みに、高校受験のときは、試験後の合格発表前に、家族で初海外旅行をしようと企画していました(なんとまあ!ではあります)。申込んだけれど、湾岸戦争でキャンセル。浮いた費用は、彼女の高校1年夏の、アメリカホームスティー費用となりました。

あれから17年。
世間のメモリアルデー1月17日になる毎に、マイメモリアルデーもやってきます。








コメント (2)
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