日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

出会い。その2

2020-05-27 06:57:06 | 
とぎれとぎれに読んでいる本「アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界」堂目卓生著(中公新書) がある。

読み始めの頃、すとんと心にはまった感がして、時を経た人物(アダム・スミス 1723年から1790年)の考え方なのだけれど、ちっとも古くもなく、今まさに「共感」と思った。

誰にも考え方の道筋というか、癖があると思う。
私の考え方の癖として、自分の中のもうひとりと対話する癖がある。

元来、そういうタイプだったから、以前にニーチェーの一編の詩に出会ったとき、自分にとっては、ドストライクのように思えて、以来、しばしばその詩(正確には記憶していないので、その詩を自分勝手の解釈で)を頭の中に引っ張り出す「癖」「で、生活してきた。
自分の中の「もうひとりの神」として。

ブログ記事 出会い。

で、今、手元に置いているこの本 「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」 で説かれているなかに、自分の中にもう一人の自分の存在」(観察者)という表現が出てくる。

以下引用 
 このように、いったん心の中に公平な観察者が形成されれば、私たちは、当事者としてだけでなく、観察者としての自分の判断をも、胸中の公平な観察者を用いて調整するのである。
 同感に関する以上の議論を要約すると次のようになる。
(1)私は他人の感情や行為に関心がある。
(2)他人も私の感情や行為に関心を持つだろう。
(3)私は、できるだけ多くの人から是認されたいと思う。
(4)経験によって、私は、諸感情や諸行為のうち、同胞の多くが、あるものを是認し、他のものを否認することを知る。
(5)また、経験によって、私は、ある感情または行為が、すべての同胞の是認を得ることはないことを知る。
(6)そこで、私は、経験をもとに公平な観察者を胸中に形成し、その是認・否認に従って自分の感情や行為を判断するようになる。
(7)同時に、私は、公平な観察者の是認・否認に従って他人の感情や行為を判断するようになる。
(8)こうして、私は、当事者としても、観察者としても、自分の感情や行為を胸中の公平な観察者が是認できるものに合わせようと努力する。


すべからく納得できる。
これまで、否定されてきた部分もあって、苦しかったけれど、アダム・スミスの人間解釈の方が、スムーズで涙が出るくらいストンと胸に収まった。

他人に関心を持つのは低俗である。できるだけ多くの人から認められようという感情は邪だ、とっどちらかというと、否定され続けてきたような部分があった。余計なことをしないほうがいい、と。それがストレスになったりもした。

外側的にはなんの変化もないのだけれど、自分の中に芯棒がひとつ加わったような気がした。
嬉しい。







コメント
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