谷川俊太郎『詩に就いて』(7)(思潮社、2015年04月30日発行)
「あとがき」によれば、この詩集は「詩を対象にして詩を書く」という作品群である。「詩に就いて」考える、思考の詩集。「論」の詩集。
「論」といっても「散文」とは違う。「散文」は「事実」をひとつずつ積み上げて結論へ向かって動いていく。詩はそういうことをしない。
何をするか。どうするか。
谷川が多用するのは「対句」である。ことばを「対」の形で動かす。ことばというのは「現実」のすべてを表現できない。「現実」の一部しか表現できない。その「一部」で「いいたいこと」をあらわしてしまうのはむずかしい。「一部」を拡大する、あるいは「一部」をさらに精密に細分化する。その拡大化や細分化の運動(方向性)の中に、言いたいことが抱えている方向性(運動)を重ねる。「対」のなかにどんな運動、どんな方向性が見出せるか。「結論」ではなく、「結論」ヘ向かう「動き」読む必要がある。
この詩にも「心の中で自問自答してみる」「頭の中でいじくり回してる」という「対句」が存在するが、ただし「対」の振幅が少ない。というよりも、「対」をつかわずに、「散文」形式で、この詩は書かれている。
少し余分なことを書きすぎたかもしれない。こんなことを書かずに、「坦々麺」という詩について書きはじめればいいのだろうが、余分なことを書かずにいられないのは、実はこの詩についての感想が書きにくいからである。私の中にある余分なことば(これまでの作品を読んできた印象)を捨てないと、向き合えない。だから、「対」について少し書いたのである。
「対」の運動はこの詩にもある。けれど、それとははっきり違う運動がある。「対」を構成するものを「ぶつけ合う」ことで、そこから生まれてくる何かを読者にまかせるというよりも、谷川は、この詩では自分の考えを「論理的」に語っている。「散文的」に語っている。「事実」を積み上げながら、「真実(結論)」を掴み取ろうとしている。
書き出しの二行「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」は「事実」である。虚構、創作かもしれないが、そうであったとしても「論」を進めるための出発点として書かれた二行である。そこには「思考」が入っていない。「思考」が排除されている、という意味で「事実」である。
この「事実」に対して、「俺は本当にそう思ってるのかと/心の中で自問自答してみる」というのが「思考」であり「論理」である。(ここから「事実」と「思考」という「対」を読み取ることもできるが、今回は「対」はすこしわきに置いておいておく。)
そして、その「論」というのは「本当にそう思ってるのか」ということばが端的に語っていることだが「本当(真実)」を目指して動く。「本当(真実)」をめざす動きというのは、ソクラテス(プラトン)の時代から「疑う」という運動から始まる。「信じる」まえに「疑う」。ここでは「何もかもつまらん」という「言葉」が、「俺」の「本当に思っている」かどうかを疑う。自分で言ったことばを、自分で疑う。「自問自答」。この自問自答を「心の中で」とことわっているのは、「何もかもつまらん」ということが「心」の発した声だと思うから、「心の中で」疑うのである。もし、2+3=7が「正しい」かどうか疑うとしたら、それは「心」で疑うのではなく、きっと「頭」で疑うだろう。「何もかもつまらん」は「客観的事実」ではなく「心の事実(主観的事実)」だから、心の中で自問する。
しかし、「主観的事実(心の事実)」に「本当」はあるのか。「本当」があるとして、それは誰のためにあるのか。自分のためにあるのなら、そんなものは「論理的」に説明したり、証明したりしなくてもいいだろう。「論理的」ということは「客観的」とほぼ同じ意味である。「主観的事実」を「客観的」に語るというのは、なにか、とんでもないまちがいというか、「道」を踏み外している感じがする。
そういうことがあるにしろ、ともかく谷川は、ここでは「論理的」にことばを動かしながら、そのことばがどこへ動いて行けるのかを探っている。考えている。そして「自問自答」してみると、
と、「詩人」が登場する。「俺」ということばが「詩人」ということばに変わっている。「俺(谷川)」が「詩人」であることを私は知っているが、ここで「俺」が「詩人」に変わらなければならない「理由」はあいまいである。
そのことを考えたい。
「俺」と「詩人」が「対」をつくっている。先に「対」はわきに置いておいて……と書いたのだが、どうしても「対」が気になるので、やはり「対」について考えながらことばを追うことにする。
「俺」と「詩人」。「俺」から「詩人」への変化。何が「俺」を「詩人」に変えたのか。「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。さらにいうなら「何もかもつまらん」が「心の声」かどうかという「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。「心」にとって「本当とはなにか」と問うことが「俺」を「詩人」に変えた。「心」のことを考えるのが「詩人」なのだ。
逆は可能だろうか。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「俺(谷川)」に変わるか。たぶん、変わらない。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「別の詩人」になる。「次元の違った詩人」になる。流行のことばをつかっていうと「メタ詩人」になる。そして、そこから始まる詩は「メタ詩」になる。そういう意味では、この詩は「メタ詩」なのだが……。
脱線した。
「詩人」を「言葉が心の本当をあらわしているかどうか自問自答するのが詩人」と定義しながら(無意識的に定義しながら)、その直後に、また「俺」が出てくる。「メタ詩人」ではなく、「俺」にもどっている。「詩人」が「俺」に変わっている。この「俺」は「メタ詩人」であるかもしれないが、谷川は「俺」ということばをつかっている。何が「詩人」を「俺」に変えたのか。
「俺はそれを虚心に採集する」。「採集する」という動詞が「詩人」を「俺」に変えた。「採集する」は「疑う」ではない。それがひとつのポイント。「虚心に」というのは、二連目に出てくる「無邪気に」と「対」になっているが、それは「疑うことをせずに」という意味であり、「虚心に」は「採集する」という「動詞」を強調していることになる。
もうひとつのポイント。「それ」とは何か。何を「採集する」のか。「宙に浮いている・言葉」「地下で縺れている・言葉」(ここに「宙(空)」と「地下」という「対」がある)の「言葉」を「採集する」のが「俺」である。「詩人」は「言葉を採集」しない。「言葉」を「採集する/採集している(現在進行形)」ときは「俺」なのだ。「詩人」は「言葉」が「本当/本心」であるかどうかを問題にし、「疑う」が、「俺」は「言葉」が「本当/本物/本心」であるかどうかを問わずに「虚心に」(心を無にして?)、ただ「採集する」。
そうであるなら、そのあとの二行「何もかもつまらんもそういう類いか/本心も本音も言葉の監獄につながれて」は誰のことば? 「俺」のことばか。そうではない。「俺」はあくまで「言葉を採集する人間」である。「そういう類いか」と「疑っている」。「疑う」は「詩人」の特権である。疑った結果、ここではいったん「本心も本音も言葉の監獄につながれて」という「結論」が出されている。この「結論」の「意味」は、私にはわからない。わからないけれど、そこに「本心/本当の心」ということばがあることがおもしろいと思う。「本当の心」のことを思っているから、これは「詩人」の「声」なのだと、私は感じる。「何もかもつまらん」が「宙の言葉」なのか「地下の言葉」なのか明記されていないが、「採集」されて「監獄につながれて」いると評価している。「評価」は「疑い」のあとの「判断」にあたる。だから「詩人」の仕事になる。
「言葉の監獄につながれて」は「詩よ」のなかの「檻の中で詩が共食いをしている」を思い出させる。「詩/本当の心」は「流通する言葉の監獄のなかで、流通する言葉を共食いしている。その結果、詩は存在しない/何もかもつまらない」と言っているのだろうか。わからないまま、私は、そんなことを考えた。
一連目と二連目は、「心の中」と「頭の中」ということばを中心にして「対」になっていると読むことができる。
一連目のことばは「言葉」と「心/本心/本音(心で本当に思っていること、その声)」の関係が「自問自答」されていた。二連目では「心」と「表情(顔の言葉)=肉体(筋肉、ということばが出てくる)」の関係が問われている。「自問自答」しているのは「心」ではなく「頭」である。
「にいい」とことばを発すると、「本心」とは無関係に、口(肉体)の形は「笑み」の形になる。その「形」を人間は「笑み」と判断してしまう。このときの「肉体(筋肉)の動き」とそれがつくり出す「表情(表現/肉体の言葉)」の関係を、「頭」は「spontanceous」という英語(?)で理解している。そして、それを何とか「日本語」にしようとしている。「無意識的、自然な、自発的……」。どうも「無関係」とは、うまくつながらない。「意識とは無関係に」くらいの意味なら落ち着くだろうか。
辞書を引きながら、そんなことを考えたが、谷川は「spontanceous」を、その三行あとで「思いがけず」と訳している。「にいい」というと「思いがけず」、顔は「笑み」の表情になる。「思いがけず」とは「思いを裏切って」でもある。「裏切って」ということは「本当の思いとは違って」ということである。そういうことを「昔の記念写真」を見ながら「頭」は思い出している。
そして、その「思いがけず」には「思いがけず」という「本当」があることを発見し、谷川は驚いている。「思いがけず」何かをしてしまうとき、そのしてしまったことは「心」をあらわしてはいないが、「思いがけず」という運動そのものの中には、人間の意思(こころ? 頭?)では支配できない何かが動いている。それは「心の真偽」とは違った何かである。
そして、詩は、そこから突然始まってしまう。詩は、そういうものだ。意図して始めるのではなく、「思いがけず」ことばが飛び出してはじまる。
「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」ということばから、この詩がはじまっているように。
「思い掛けずに」ということばが「発見されている」。それは「生み出されている」と言ってもいいかもしれない。
この作品に書かれていることばが、すべて「思いがけずに」という一語のなにか吸収されていくように感じる。
--と書いて、私は急に書くことがなくなった。
まだ何か書こうとしていたのだが、忘れてしまった。「結論」というのは、こんなふうに突然どこからともなく、--それこそ「思いがけずに」やってくる。
坦々麺
何もかもつまらんという言葉が
坦々麺を食べてる口から出てきた
俺は本当にそう思ってるのかと
心の中で自問自答してみるが
詩人の常ではかばかしい答えはない
言葉は宙に浮いている でなきゃ
地下で縺れている
俺はそれを虚心に採集する
何もかもつまらんもそういう類いか
本心も本音も言葉の監獄につながれて
いち足すいちはにいいと言わせて
みんなの口角に微笑の形をつくらせる
笑みが本心であろうとなかろうと
無邪気な言葉に釣られて筋肉が動く
ひとり仏頂面でspontanceousの訳語を
頭の中でいじくり回してる奴が俺だ
そんな昔の記念写真が脳裡に浮かんで
思いがけず口から飛び出した言葉が
真偽を問わず詩を始めてしまう
坦々麺を食べながら詩人は赤面する
「あとがき」によれば、この詩集は「詩を対象にして詩を書く」という作品群である。「詩に就いて」考える、思考の詩集。「論」の詩集。
「論」といっても「散文」とは違う。「散文」は「事実」をひとつずつ積み上げて結論へ向かって動いていく。詩はそういうことをしない。
何をするか。どうするか。
谷川が多用するのは「対句」である。ことばを「対」の形で動かす。ことばというのは「現実」のすべてを表現できない。「現実」の一部しか表現できない。その「一部」で「いいたいこと」をあらわしてしまうのはむずかしい。「一部」を拡大する、あるいは「一部」をさらに精密に細分化する。その拡大化や細分化の運動(方向性)の中に、言いたいことが抱えている方向性(運動)を重ねる。「対」のなかにどんな運動、どんな方向性が見出せるか。「結論」ではなく、「結論」ヘ向かう「動き」読む必要がある。
この詩にも「心の中で自問自答してみる」「頭の中でいじくり回してる」という「対句」が存在するが、ただし「対」の振幅が少ない。というよりも、「対」をつかわずに、「散文」形式で、この詩は書かれている。
少し余分なことを書きすぎたかもしれない。こんなことを書かずに、「坦々麺」という詩について書きはじめればいいのだろうが、余分なことを書かずにいられないのは、実はこの詩についての感想が書きにくいからである。私の中にある余分なことば(これまでの作品を読んできた印象)を捨てないと、向き合えない。だから、「対」について少し書いたのである。
「対」の運動はこの詩にもある。けれど、それとははっきり違う運動がある。「対」を構成するものを「ぶつけ合う」ことで、そこから生まれてくる何かを読者にまかせるというよりも、谷川は、この詩では自分の考えを「論理的」に語っている。「散文的」に語っている。「事実」を積み上げながら、「真実(結論)」を掴み取ろうとしている。
書き出しの二行「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」は「事実」である。虚構、創作かもしれないが、そうであったとしても「論」を進めるための出発点として書かれた二行である。そこには「思考」が入っていない。「思考」が排除されている、という意味で「事実」である。
この「事実」に対して、「俺は本当にそう思ってるのかと/心の中で自問自答してみる」というのが「思考」であり「論理」である。(ここから「事実」と「思考」という「対」を読み取ることもできるが、今回は「対」はすこしわきに置いておいておく。)
そして、その「論」というのは「本当にそう思ってるのか」ということばが端的に語っていることだが「本当(真実)」を目指して動く。「本当(真実)」をめざす動きというのは、ソクラテス(プラトン)の時代から「疑う」という運動から始まる。「信じる」まえに「疑う」。ここでは「何もかもつまらん」という「言葉」が、「俺」の「本当に思っている」かどうかを疑う。自分で言ったことばを、自分で疑う。「自問自答」。この自問自答を「心の中で」とことわっているのは、「何もかもつまらん」ということが「心」の発した声だと思うから、「心の中で」疑うのである。もし、2+3=7が「正しい」かどうか疑うとしたら、それは「心」で疑うのではなく、きっと「頭」で疑うだろう。「何もかもつまらん」は「客観的事実」ではなく「心の事実(主観的事実)」だから、心の中で自問する。
しかし、「主観的事実(心の事実)」に「本当」はあるのか。「本当」があるとして、それは誰のためにあるのか。自分のためにあるのなら、そんなものは「論理的」に説明したり、証明したりしなくてもいいだろう。「論理的」ということは「客観的」とほぼ同じ意味である。「主観的事実」を「客観的」に語るというのは、なにか、とんでもないまちがいというか、「道」を踏み外している感じがする。
そういうことがあるにしろ、ともかく谷川は、ここでは「論理的」にことばを動かしながら、そのことばがどこへ動いて行けるのかを探っている。考えている。そして「自問自答」してみると、
詩人の常ではかばかしい答えはない
と、「詩人」が登場する。「俺」ということばが「詩人」ということばに変わっている。「俺(谷川)」が「詩人」であることを私は知っているが、ここで「俺」が「詩人」に変わらなければならない「理由」はあいまいである。
そのことを考えたい。
「俺」と「詩人」が「対」をつくっている。先に「対」はわきに置いておいて……と書いたのだが、どうしても「対」が気になるので、やはり「対」について考えながらことばを追うことにする。
「俺」と「詩人」。「俺」から「詩人」への変化。何が「俺」を「詩人」に変えたのか。「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。さらにいうなら「何もかもつまらん」が「心の声」かどうかという「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。「心」にとって「本当とはなにか」と問うことが「俺」を「詩人」に変えた。「心」のことを考えるのが「詩人」なのだ。
逆は可能だろうか。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「俺(谷川)」に変わるか。たぶん、変わらない。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「別の詩人」になる。「次元の違った詩人」になる。流行のことばをつかっていうと「メタ詩人」になる。そして、そこから始まる詩は「メタ詩」になる。そういう意味では、この詩は「メタ詩」なのだが……。
脱線した。
「詩人」を「言葉が心の本当をあらわしているかどうか自問自答するのが詩人」と定義しながら(無意識的に定義しながら)、その直後に、また「俺」が出てくる。「メタ詩人」ではなく、「俺」にもどっている。「詩人」が「俺」に変わっている。この「俺」は「メタ詩人」であるかもしれないが、谷川は「俺」ということばをつかっている。何が「詩人」を「俺」に変えたのか。
「俺はそれを虚心に採集する」。「採集する」という動詞が「詩人」を「俺」に変えた。「採集する」は「疑う」ではない。それがひとつのポイント。「虚心に」というのは、二連目に出てくる「無邪気に」と「対」になっているが、それは「疑うことをせずに」という意味であり、「虚心に」は「採集する」という「動詞」を強調していることになる。
もうひとつのポイント。「それ」とは何か。何を「採集する」のか。「宙に浮いている・言葉」「地下で縺れている・言葉」(ここに「宙(空)」と「地下」という「対」がある)の「言葉」を「採集する」のが「俺」である。「詩人」は「言葉を採集」しない。「言葉」を「採集する/採集している(現在進行形)」ときは「俺」なのだ。「詩人」は「言葉」が「本当/本心」であるかどうかを問題にし、「疑う」が、「俺」は「言葉」が「本当/本物/本心」であるかどうかを問わずに「虚心に」(心を無にして?)、ただ「採集する」。
そうであるなら、そのあとの二行「何もかもつまらんもそういう類いか/本心も本音も言葉の監獄につながれて」は誰のことば? 「俺」のことばか。そうではない。「俺」はあくまで「言葉を採集する人間」である。「そういう類いか」と「疑っている」。「疑う」は「詩人」の特権である。疑った結果、ここではいったん「本心も本音も言葉の監獄につながれて」という「結論」が出されている。この「結論」の「意味」は、私にはわからない。わからないけれど、そこに「本心/本当の心」ということばがあることがおもしろいと思う。「本当の心」のことを思っているから、これは「詩人」の「声」なのだと、私は感じる。「何もかもつまらん」が「宙の言葉」なのか「地下の言葉」なのか明記されていないが、「採集」されて「監獄につながれて」いると評価している。「評価」は「疑い」のあとの「判断」にあたる。だから「詩人」の仕事になる。
「言葉の監獄につながれて」は「詩よ」のなかの「檻の中で詩が共食いをしている」を思い出させる。「詩/本当の心」は「流通する言葉の監獄のなかで、流通する言葉を共食いしている。その結果、詩は存在しない/何もかもつまらない」と言っているのだろうか。わからないまま、私は、そんなことを考えた。
一連目と二連目は、「心の中」と「頭の中」ということばを中心にして「対」になっていると読むことができる。
一連目のことばは「言葉」と「心/本心/本音(心で本当に思っていること、その声)」の関係が「自問自答」されていた。二連目では「心」と「表情(顔の言葉)=肉体(筋肉、ということばが出てくる)」の関係が問われている。「自問自答」しているのは「心」ではなく「頭」である。
「にいい」とことばを発すると、「本心」とは無関係に、口(肉体)の形は「笑み」の形になる。その「形」を人間は「笑み」と判断してしまう。このときの「肉体(筋肉)の動き」とそれがつくり出す「表情(表現/肉体の言葉)」の関係を、「頭」は「spontanceous」という英語(?)で理解している。そして、それを何とか「日本語」にしようとしている。「無意識的、自然な、自発的……」。どうも「無関係」とは、うまくつながらない。「意識とは無関係に」くらいの意味なら落ち着くだろうか。
辞書を引きながら、そんなことを考えたが、谷川は「spontanceous」を、その三行あとで「思いがけず」と訳している。「にいい」というと「思いがけず」、顔は「笑み」の表情になる。「思いがけず」とは「思いを裏切って」でもある。「裏切って」ということは「本当の思いとは違って」ということである。そういうことを「昔の記念写真」を見ながら「頭」は思い出している。
そして、その「思いがけず」には「思いがけず」という「本当」があることを発見し、谷川は驚いている。「思いがけず」何かをしてしまうとき、そのしてしまったことは「心」をあらわしてはいないが、「思いがけず」という運動そのものの中には、人間の意思(こころ? 頭?)では支配できない何かが動いている。それは「心の真偽」とは違った何かである。
そして、詩は、そこから突然始まってしまう。詩は、そういうものだ。意図して始めるのではなく、「思いがけず」ことばが飛び出してはじまる。
「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」ということばから、この詩がはじまっているように。
「思い掛けずに」ということばが「発見されている」。それは「生み出されている」と言ってもいいかもしれない。
この作品に書かれていることばが、すべて「思いがけずに」という一語のなにか吸収されていくように感じる。
--と書いて、私は急に書くことがなくなった。
まだ何か書こうとしていたのだが、忘れてしまった。「結論」というのは、こんなふうに突然どこからともなく、--それこそ「思いがけずに」やってくる。
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