詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(7)

2015-05-06 12:41:33 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(7)(思潮社、2015年04月30日発行)



坦々麺

何もかもつまらんという言葉が
坦々麺を食べてる口から出てきた
俺は本当にそう思ってるのかと
心の中で自問自答してみるが
詩人の常ではかばかしい答えはない
言葉は宙に浮いている でなきゃ
地下で縺れている
俺はそれを虚心に採集する
何もかもつまらんもそういう類いか
本心も本音も言葉の監獄につながれて

いち足すいちはにいいと言わせて
みんなの口角に微笑の形をつくらせる
笑みが本心であろうとなかろうと
無邪気な言葉に釣られて筋肉が動く
ひとり仏頂面でspontanceousの訳語を
頭の中でいじくり回してる奴が俺だ
そんな昔の記念写真が脳裡に浮かんで
思いがけず口から飛び出した言葉が
真偽を問わず詩を始めてしまう
坦々麺を食べながら詩人は赤面する

 「あとがき」によれば、この詩集は「詩を対象にして詩を書く」という作品群である。「詩に就いて」考える、思考の詩集。「論」の詩集。
 「論」といっても「散文」とは違う。「散文」は「事実」をひとつずつ積み上げて結論へ向かって動いていく。詩はそういうことをしない。
 何をするか。どうするか。
 谷川が多用するのは「対句」である。ことばを「対」の形で動かす。ことばというのは「現実」のすべてを表現できない。「現実」の一部しか表現できない。その「一部」で「いいたいこと」をあらわしてしまうのはむずかしい。「一部」を拡大する、あるいは「一部」をさらに精密に細分化する。その拡大化や細分化の運動(方向性)の中に、言いたいことが抱えている方向性(運動)を重ねる。「対」のなかにどんな運動、どんな方向性が見出せるか。「結論」ではなく、「結論」ヘ向かう「動き」読む必要がある。
 この詩にも「心の中で自問自答してみる」「頭の中でいじくり回してる」という「対句」が存在するが、ただし「対」の振幅が少ない。というよりも、「対」をつかわずに、「散文」形式で、この詩は書かれている。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。こんなことを書かずに、「坦々麺」という詩について書きはじめればいいのだろうが、余分なことを書かずにいられないのは、実はこの詩についての感想が書きにくいからである。私の中にある余分なことば(これまでの作品を読んできた印象)を捨てないと、向き合えない。だから、「対」について少し書いたのである。
 「対」の運動はこの詩にもある。けれど、それとははっきり違う運動がある。「対」を構成するものを「ぶつけ合う」ことで、そこから生まれてくる何かを読者にまかせるというよりも、谷川は、この詩では自分の考えを「論理的」に語っている。「散文的」に語っている。「事実」を積み上げながら、「真実(結論)」を掴み取ろうとしている。
 書き出しの二行「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」は「事実」である。虚構、創作かもしれないが、そうであったとしても「論」を進めるための出発点として書かれた二行である。そこには「思考」が入っていない。「思考」が排除されている、という意味で「事実」である。
 この「事実」に対して、「俺は本当にそう思ってるのかと/心の中で自問自答してみる」というのが「思考」であり「論理」である。(ここから「事実」と「思考」という「対」を読み取ることもできるが、今回は「対」はすこしわきに置いておいておく。)
 そして、その「論」というのは「本当にそう思ってるのか」ということばが端的に語っていることだが「本当(真実)」を目指して動く。「本当(真実)」をめざす動きというのは、ソクラテス(プラトン)の時代から「疑う」という運動から始まる。「信じる」まえに「疑う」。ここでは「何もかもつまらん」という「言葉」が、「俺」の「本当に思っている」かどうかを疑う。自分で言ったことばを、自分で疑う。「自問自答」。この自問自答を「心の中で」とことわっているのは、「何もかもつまらん」ということが「心」の発した声だと思うから、「心の中で」疑うのである。もし、2+3=7が「正しい」かどうか疑うとしたら、それは「心」で疑うのではなく、きっと「頭」で疑うだろう。「何もかもつまらん」は「客観的事実」ではなく「心の事実(主観的事実)」だから、心の中で自問する。
 しかし、「主観的事実(心の事実)」に「本当」はあるのか。「本当」があるとして、それは誰のためにあるのか。自分のためにあるのなら、そんなものは「論理的」に説明したり、証明したりしなくてもいいだろう。「論理的」ということは「客観的」とほぼ同じ意味である。「主観的事実」を「客観的」に語るというのは、なにか、とんでもないまちがいというか、「道」を踏み外している感じがする。
 そういうことがあるにしろ、ともかく谷川は、ここでは「論理的」にことばを動かしながら、そのことばがどこへ動いて行けるのかを探っている。考えている。そして「自問自答」してみると、

詩人の常ではかばかしい答えはない

 と、「詩人」が登場する。「俺」ということばが「詩人」ということばに変わっている。「俺(谷川)」が「詩人」であることを私は知っているが、ここで「俺」が「詩人」に変わらなければならない「理由」はあいまいである。
 そのことを考えたい。
 「俺」と「詩人」が「対」をつくっている。先に「対」はわきに置いておいて……と書いたのだが、どうしても「対」が気になるので、やはり「対」について考えながらことばを追うことにする。
 「俺」と「詩人」。「俺」から「詩人」への変化。何が「俺」を「詩人」に変えたのか。「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。さらにいうなら「何もかもつまらん」が「心の声」かどうかという「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。「心」にとって「本当とはなにか」と問うことが「俺」を「詩人」に変えた。「心」のことを考えるのが「詩人」なのだ。
 逆は可能だろうか。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「俺(谷川)」に変わるか。たぶん、変わらない。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「別の詩人」になる。「次元の違った詩人」になる。流行のことばをつかっていうと「メタ詩人」になる。そして、そこから始まる詩は「メタ詩」になる。そういう意味では、この詩は「メタ詩」なのだが……。
 脱線した。
 「詩人」を「言葉が心の本当をあらわしているかどうか自問自答するのが詩人」と定義しながら(無意識的に定義しながら)、その直後に、また「俺」が出てくる。「メタ詩人」ではなく、「俺」にもどっている。「詩人」が「俺」に変わっている。この「俺」は「メタ詩人」であるかもしれないが、谷川は「俺」ということばをつかっている。何が「詩人」を「俺」に変えたのか。
 「俺はそれを虚心に採集する」。「採集する」という動詞が「詩人」を「俺」に変えた。「採集する」は「疑う」ではない。それがひとつのポイント。「虚心に」というのは、二連目に出てくる「無邪気に」と「対」になっているが、それは「疑うことをせずに」という意味であり、「虚心に」は「採集する」という「動詞」を強調していることになる。
 もうひとつのポイント。「それ」とは何か。何を「採集する」のか。「宙に浮いている・言葉」「地下で縺れている・言葉」(ここに「宙(空)」と「地下」という「対」がある)の「言葉」を「採集する」のが「俺」である。「詩人」は「言葉を採集」しない。「言葉」を「採集する/採集している(現在進行形)」ときは「俺」なのだ。「詩人」は「言葉」が「本当/本心」であるかどうかを問題にし、「疑う」が、「俺」は「言葉」が「本当/本物/本心」であるかどうかを問わずに「虚心に」(心を無にして?)、ただ「採集する」。
 そうであるなら、そのあとの二行「何もかもつまらんもそういう類いか/本心も本音も言葉の監獄につながれて」は誰のことば? 「俺」のことばか。そうではない。「俺」はあくまで「言葉を採集する人間」である。「そういう類いか」と「疑っている」。「疑う」は「詩人」の特権である。疑った結果、ここではいったん「本心も本音も言葉の監獄につながれて」という「結論」が出されている。この「結論」の「意味」は、私にはわからない。わからないけれど、そこに「本心/本当の心」ということばがあることがおもしろいと思う。「本当の心」のことを思っているから、これは「詩人」の「声」なのだと、私は感じる。「何もかもつまらん」が「宙の言葉」なのか「地下の言葉」なのか明記されていないが、「採集」されて「監獄につながれて」いると評価している。「評価」は「疑い」のあとの「判断」にあたる。だから「詩人」の仕事になる。
 「言葉の監獄につながれて」は「詩よ」のなかの「檻の中で詩が共食いをしている」を思い出させる。「詩/本当の心」は「流通する言葉の監獄のなかで、流通する言葉を共食いしている。その結果、詩は存在しない/何もかもつまらない」と言っているのだろうか。わからないまま、私は、そんなことを考えた。

 一連目と二連目は、「心の中」と「頭の中」ということばを中心にして「対」になっていると読むことができる。
 一連目のことばは「言葉」と「心/本心/本音(心で本当に思っていること、その声)」の関係が「自問自答」されていた。二連目では「心」と「表情(顔の言葉)=肉体(筋肉、ということばが出てくる)」の関係が問われている。「自問自答」しているのは「心」ではなく「頭」である。
 「にいい」とことばを発すると、「本心」とは無関係に、口(肉体)の形は「笑み」の形になる。その「形」を人間は「笑み」と判断してしまう。このときの「肉体(筋肉)の動き」とそれがつくり出す「表情(表現/肉体の言葉)」の関係を、「頭」は「spontanceous」という英語(?)で理解している。そして、それを何とか「日本語」にしようとしている。「無意識的、自然な、自発的……」。どうも「無関係」とは、うまくつながらない。「意識とは無関係に」くらいの意味なら落ち着くだろうか。
 辞書を引きながら、そんなことを考えたが、谷川は「spontanceous」を、その三行あとで「思いがけず」と訳している。「にいい」というと「思いがけず」、顔は「笑み」の表情になる。「思いがけず」とは「思いを裏切って」でもある。「裏切って」ということは「本当の思いとは違って」ということである。そういうことを「昔の記念写真」を見ながら「頭」は思い出している。
 そして、その「思いがけず」には「思いがけず」という「本当」があることを発見し、谷川は驚いている。「思いがけず」何かをしてしまうとき、そのしてしまったことは「心」をあらわしてはいないが、「思いがけず」という運動そのものの中には、人間の意思(こころ? 頭?)では支配できない何かが動いている。それは「心の真偽」とは違った何かである。
 そして、詩は、そこから突然始まってしまう。詩は、そういうものだ。意図して始めるのではなく、「思いがけず」ことばが飛び出してはじまる。
 「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」ということばから、この詩がはじまっているように。
 「思い掛けずに」ということばが「発見されている」。それは「生み出されている」と言ってもいいかもしれない。
 この作品に書かれていることばが、すべて「思いがけずに」という一語のなにか吸収されていくように感じる。
 --と書いて、私は急に書くことがなくなった。
 まだ何か書こうとしていたのだが、忘れてしまった。「結論」というのは、こんなふうに突然どこからともなく、--それこそ「思いがけずに」やってくる。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(6)

2015-05-05 08:53:52 | 谷川俊太郎「詩に就いて」

詩よ

言葉の餌を奪い合った揚げ句に
檻の中で詩が共食いしている
まばらな木立の奥で野生の詩は
じっと身をひそめている

華やかな流行の言葉で身を飾って
人々が笑いさざめきながら通り過ぎる
中には詩集を携えている女もいる
物語を見失ってしまったらしい

活字に閉じ込められた詩よ
おまえはただいるだけでいいのだ
何の役にも立たずにそこにいるだけでいい
いつか誰かが見つけてくれるまで

 「対」の構造から読んでみる。
 一連目は前半の二行と後半の二行が「対」になっている。「詩」と「野生の詩」が対になっている。「詩」の方は「流通している詩」と言い換えると「野生の詩」との対比が明確になるかもしれない。
 「(流通している)詩」は「言葉の餌」を奪い合っている。共食いをしている。同じことばを奪い合い、それを食べているということだろうか。「流通している」ものとは「同じもの」ということでもある。「同じ」を出ることができない。「野生」に対して「檻の中」で飼われている詩ということになるかもしれない。「檻の中」と「野生(木立の奥)」が、やはり「対」になっている。
 「野生の詩」は「流通していない」。「木立の奥で」「身をひそめている」。ひとに知られていない。

 三連で構成されているが、二連目は、私には一連目の前半の二行と「対」になっているように思える。言いなおしているように思える。三連目は、一連目の後半の二行と「対」になっているように思える。
 言葉の餌を奪い合い、共食いしている詩を「流通している詩」と私は言い換えてみたが、その「流通している」は二連目では「流行」という表現になっている。「流行の言葉で身を飾って」は「流行の言葉を奪い合って」とも、「流行の言葉の檻に閉じ込められて」とも読みええることができるだろう。「流行」とは「同じもの」を奪い合い、共食いすることでもあるだろう。
 二連目の後半の二行は、一連目の後半の二行と向き合っているようにも見えるが、そこに書かれている「詩集」は「野生の詩」とは違うと思う。この「詩集」は「流行の言葉」のひとつの「形式」である。「流行の物語」ではなく「流行の詩集」を「着飾るもの」として携えているということだろう。「詩集」と「物語」が「対」になっているのだが、「対」になっているということ以上のことは、はっきりとはわからない。(私には読み取れない。)

 三連目は二連目の「詩集」について語っているようにも見える。また「閉じ込められた」という表現から「檻の中」を連想してしまうので、「共食いしている詩」のようにも見えるが、後半の三行は「野生の詩」の定義と重なる。「木立の奥で」「身をひそめる」ようにして、「ただいるだけでいい」。「身をひそめている」かぎりは「何の役にも立たない」。けれど、誰かが自分の役に立つと思ってくれる。見つけてくれる。そうやって見つけられた詩は「流行」はしないかもしれないが、つまり多くのひとに共有される(奪い合われる/共食いされる)ということにはならないが、しっかりとひとりの人間の役には立つ。
 詩は、ひととことばの「一対一」の関係を生きればそれでいいのだ、と言っているように思える。

 この詩には二連目の「詩集」と「物語」のように、ことばとしては向き合っているらしいのに、どう向き合っているのか(「対」になっているか)わかりにくいものがある。意味がひとつにしぼられていないということかもしれない。
 一行の中にも、意味が複数にとれることばもある。
 書き出しの「言葉の餌を奪い合った」という表現も意味が取りにくい。「言葉という餌を奪い合っている」のか、「言葉が食べる餌(言葉のための餌)を奪い合っている」のか。前者なら「主語」がどこかにある。後者なら「言葉」が「主語」である。二行目に「詩」という表現がある。この「詩」を「主語」にして、詩が「言葉という餌を奪い合っている」と読むと、意味が通りやすい。ただし、そうすると「詩が共食いしている」の「共食い」が論理的ではなくなる。「共食い」とは「詩」が「詩」を食うときを指す。「詩」は「言葉という餌」を奪い合っているのであって、詩を奪い合って食べているわけではない。だから、ここでは「詩」をもう一度「言葉」と置き換えて「言葉が言葉を食べている/言葉が言葉を餌として奪い合っている」と読んだ見た方が意味が通じる。
 「言葉」はあるときは「詩」と書かれ、「詩」もあるときは「言葉」と書かれている。その視点で二連目のことばを入れ換えるとどうなるだろうか。

華やかな流行の詩で身を飾って
人々が笑いさざめきながら通り過ぎる
中には言葉を携えている女もいる
物語を見失ってしまったらしい

 三行目の「言葉」は「詩にならなかった言葉」ということになる。「詩という物語(流行装置)」にならなかった「言葉」。もし、そう読むことができるなら、それは「野生の詩(野生の言葉)」とも読むことができる。
 そう読むと一連目の前半の二行と二連目の前半の二行が「対」になり、一連目の後半の二行と二連目の後半の二行が「対」になる。
 読み方によって、詩はどんどん変わっていってしまう。

 これは変なことだろうか。私の読み方が間違っているのだろうか。
 私は私の読み方が「正しい」と言い張るつもりはないが、こんなふうにして読む度に違ってしまうのが詩なのではないかと思っている。「論理的」になろうとしても「論理的」にはなりきれない。何か、「論理」からはみ出したものにぶつかり、そこでつまずいて、「書かれていること」よりも、「自分の考えていること」の方へことばがふらついてしまう。「自分の考えていること」が書かれていることば(詩)に誘い出されて、知らなかった方向へ動いていく。
 こういう瞬間の、わけのわからない迷路をさまよっているような時の方が、私には「結論」に到達できたときよりも、詩に近づいているような気がする。詩といっしょにいるような気がする。
 詩は散文と違って、何かが「わかる」ためのことばではなく、逆に何かが「わからなくなる」ためのことばのようにも思える。
 「結論」に到達できない私の自己弁護かもしれないが。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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谷川俊太郎『詩に就いて』(5)

2015-05-04 09:54:20 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(5)(思潮社、2015年04月30日発行)

跛行

窓の外でポプラが風にそよいでいる
眼は世界の美しい表面を見る

詩が白い紙の上を跛行してゆく
耳は世界の底知れない奥行きを聞く

テーブルの上の白紙の束
湯気をたてている午後の紅茶

不完全なこの世を支えている
完全で非情な宇宙

言葉になるはずのないものが
いつか言葉になる……だろうか

 谷川の詩には「漢詩」でいう「対句」のようなことばが頻繁に出てくる。この詩では一連目と二連目に、それが複雑に絡み合っている。
 「眼」と「耳」が「対」になって、そこに書かれている世界を広げている。「眼で見る」と「耳で聞く」という「構造」が「対」になっている。このとき「対」とは「世界」を広げると同時に濃密にする。「眼で見た」ものに「耳で聞いた」ものを重ねるとき、その眼と耳をもっている人間と、人間の向き合っている世界が立体的になる。
 その「眼で見る」のは「表面」であり、「耳で聞く」のは「奥行き(内部)」である。さらに「表面」は「美しい」が、「奥行き(内部)」は「底知れない」という「対」をつくり出す。
 この「美しい」と「底知れない」は、よく見るとさらに複雑な「対」を構成している。「美しい」は「風にそよぐ」のに対して「底知れない」は「跛行してゆく」。
 この「底知れない」と「跛行してゆく」の組み合わせに、私は、どきりとしてしまう。
 ことばが書かれた順序にしたがって見つめなおすと、「跛行してゆく」を谷川は「底知れない」と言い換えていることになる。「風にそよぐ=美しい」に対して「跛行してゆく=底知れない」である。「底知れない」は「美しくない/不気味」でもあるだろう。しかし簡単に「美しくない」と言い切れないものがある。何か「不気味」ということばでは言い切れないもの、「美しさ」に通じるものをふくんでいる。そのために「底知れない/奥行き」ということどはが動いている。
 「跛行してゆく」は、いまは使わなくなってしまったことば「ちんばをひいて行くこと」(広辞苑)である。歩き方が普通のひとと違っている。美しくない。醜い。けれど、そこには「いのち」の底知れない力が動いている。形としては美しくなくても、歩ける。そこには可能性としての「美しさ」、いのちの奥深い強さという底知れなさがある。それは、歩くというときに「美しい」とはどういうことかと問いかけてくるものがあるということだ。「いのち」にとって美しさとは何か。なぜ「跛行してゆく」動きを「美しくない」と言えるのか。「美しくない」と言える権利(?)が、誰にあるというのか。「可能性の強さ」と言いなおすべきではないのか……。
 こういう「倫理」の問題に谷川が踏み込んでいるわけではないが、そういう世界にまで触れていることを感じさせることばである。そのことに、私は、どきりとする。こんな複雑なことを書かなくても「対」はつくり出すことができるはずなのに、あえて複雑に、濃密にしている。そのことに谷川の、詩人の不思議な「強さ/底知れなさ」を感じ、私はうなってしまう。
 谷川は単に詩の論理(詩の技法/美の形式)にのっとって「対句」をつくっているわけではないのだ。

 この「対句」のことばを読みながら、私はまた、「耳は/聞く」という「動詞」のなかに谷川の「本質」のようなものを感じた。谷川は「視覚型の詩人」というよりも「聴覚型の詩人」なのだと思った。それは「跛行してゆく」を視覚(姿)ではなく、「跛行してゆく」を「足音」と耳でとらえていることからもわかる。「足音」ということばは詩では書かれていないが、書かれていないということは、音が谷川にとって肉体にしみついていて書く必要がないからでもある。音は谷川にとっては「肉体」そのものになっているのだ。
 聴覚で「矛盾した本質/視覚だけではとらえられない本質」をまるごとつかみとる。「視覚」でも世界をとらえるが、聴覚の方が「世界の混沌とした内部/うまく整理できない内部」を「未整理」のままつかみとるときに強く働くのだと感じた。眼はあくまで「表面」を整理する。それに対して耳は「内部(奥行き)」をつかむ。
 このとき「内部/奥行き」とは、そのまま「耳の穴」の「奥」、つまり「鼓膜の奥」、鼓膜から始まる人間の「肉体の内部/奥」につながっていかないだろうか。耳をすまして世界の「音」を聞くとき、「耳の穴の奥/人間の肉体の内部」で動いている「音」もいっしょに聞きとらないだろうか。「内部の音」、たとえば「鼓動」を外の音と勘違いして聞くことはないだろうか。「鼓動」が「雑音」なのか、外部の「音」が「雑音」なのだろうか、それがあいまいになるときはないだろうか。

 余分なことを書きすぎているだろうか。
 「対句」にもどって、詩を読み進めることにしよう。
 「技法」にかぎって「対句」を見直しておけば、先に書いた部分以外に、たとえば「窓の外」に対して、二連目の冒頭に「部屋の内では」ということばを補って「対」を考えることができるし、「白い(紙)」に対しては「(みどりの)ポプラ」という「対」が考えられる。「ポプラ(現実)」はまた「詩(ことば)」とも「対」になっている。「表面」は先に「奥行き」と対比させたが、「紙の上」とも向き合っている。
 三連目では「白紙」が二連目「白い紙」を引き継ぎながら、「跛行してゆく」と書かないことで、そこには詩(ことば)が不在であることを告げる。これは「眼で見る」という一連目の動詞を引き継いでいるとも言える。「湯気をたてている午後の紅茶」は「眼で見る」世界のようでもあるが、「たてている」ということばが「音をたてている」(紅茶を入れる前のやかんの状態)を呼び起こし、そこには「耳で聞く」世界があるとも言える。三連目の二行は、それぞれ一連目と二連目の世界を引き継いでいると言える。
 しかし。
 この二行は、とても変な感じがする。一連目、二連目が「対」が非常に複雑に絡み合った濃密な世界なのに、この三連目はあっさりしすぎている。文体が違いすぎる感じがする。
 そう思っていると、四連目で、文体はさらにかわる。それまで書かれていたことばが「ポプラ」「白い紙」「紅茶」と具体的だったのに、四連目には具体的なものは出てこない。「この世」「宇宙」ということばが出てくるが、これは「総称」であって個別な感じ、肉体(眼/耳)に直接触れてくるというよりは、「頭」に触れてくることばである。「頭」で考えることばである。
 この四連目にも「不完全な/この世」「完全な/宇宙」という「対」があるが、この世が不完全であり、宇宙が完全であると、私たちは目や耳で知っているわけではない。頭で考えることができるだけである。
 この世には「跛行」という「不完全な歩行」の形がある。その不完全が存在するのは、不完全を支える完全な何か(宇宙/真理)があるからだと考えると「論理的」である。(論理がそこに成り立つ。)だから、「頭」はそう考えるだけである。そして、宇宙は完全であるからこそ、「跛行」を「不完全」と「非情」にも言ってしまうことができる。「頭」はそう考えるのである。
 しかし考え方次第では、どんな存在形式(運動形式)であっても、それが実際に存在しうる世界が完全なのであり、そういうものを許さない「完璧主義の宇宙」の方が不完全であるということもできるはずである。
 だいたい「完全で非情な宇宙」ということが、どうして「わかる」のか。

 ずいぶん脱線してしまった気がするが、この抽象的なことばを書くためには、一連目、二連目の濃密な世界を一度洗い流す必要があったのだと思う。そのために一度、三連目でことばをあっさり(?)したものにしたのだ。四連目のことばの動きをスムーズにするために、あえてことばをあっさりしたものにしたのだ。一、二連目と同じ濃密さで四連目を書くには、ことばはもっと「論理的」に濃密にならなければならない。きっちりと構えた散文にしないと、「論理」は書けない。「論理的」であろうとすると散文になってしまう。「こころ/肉体」で感じていることが「頭」で考え直したことになってしまう。
 濃密な論理の詩は、なかなかむずかしい。
 最後の連は、そうやって書いてきたことば、詩を読み直しての「総括」ということになるのかもしれない。谷川が「言葉」と書いている部分を「詩」と書き替えてみると、そのことがわかる。

詩になるはずのないものが
いつか詩になる……だろうか

 「詩になるはずのないもの」とは、「不完全なこの世を支えている/完全で非情な宇宙」というような散文的な認識(論理)のことだろう。
 これに対して「詩になる」のは、たとえば「窓の外でポプラが風にそよいでいる」というような情景である。そこには詩情がある。それを詩情と呼ぶのは、単なる文学上の「定型」だが。
 そして、この視点から、二連目の「詩が白い紙の上を跛行してゆく」を読むと、なんだか私の考えは堂々巡りになる。
 「詩」とかかれているのは、この作品の場合、何になるのか。一連目そのものを指していないか。「窓の外でポプラが風にそよいでいる/眼は世界の美しい表面を見る」という二行は、いわゆる「詩」らしい感じがする。しかし、それは不完全な詩であり、不完全であるがゆえに、紙の上を「跛行してゆく」。これを完全なものにするためには何が必要か。一連目のことばに、何が欠けているのか。「不完全なこの世を支えている/完全で非情な宇宙」というような「認識」、あるいは「論理」かもしれない。
 そう考えて谷川は四連目を書いたのかもしれない。

 詩は、どういう形が「完成」なのか、考えるときりがなくなる。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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谷川俊太郎『詩に就いて』(4)

2015-05-03 10:27:25 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(4)(思潮社、2015年04月30日発行)



朝陽

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

犬にも人間にも
名前を代入せずに
その情景を傍観して
詩が成立するかどうか
考える

詩は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが人間

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

朝陽が眩しい

 一連目と四連目は同じことばでできている。これはリフレインなのか。なぜ、同じことばを書いたのか。一回読んだだけではわからない。二度読んでもわからない。何度読んでも、ただ読むだけではわからない。考えないといけない。
 でも何を考える? なぜ考える? 詩は考えなくてもいいものではないだろうか。考えて、意味をつくり出さなくてもいいものではないのか。そんな疑問がふと湧くのだけれど、考えてしまう。そうすると、一連目の、ごくありふれた犬と人間の散歩の風景に対して書いている二連目が気になる。
 谷川は詩について考えている。この詩集は「詩について」書かれている。だから谷川が詩について考えるのは必然なのだけれど……。
 それは前に書いた三行の情景についての考えなのか。それとも三行のことばについての考えなのか。これは、ちょっとむずかしい。判断に困る。
 さらに谷川の考えていることが、その対象が、情景とも三行のことばとも違っていることが問題を複雑にしている。情景には詩(情)がある。その詩(情)をどうことばにしたら詩(作品)になるのか。そのことばの問題を「名前」に限定して考え直している。「名前」を「代入」しなくても「詩が成立するかどうか」を考えている。
 一連目には、犬にも人間にも「名前」がない。この状態でも、この三行は詩(作品)なのか、あるいは詩情を書いただけで詩には達していない(詩)情景なのか。
 その「問い」に対して三連目で谷川はひとつの「答え」を書いていることになるのだが、それを読む前に、二連目に書かれていることを私なりに考えてみたい。谷川が問題にしている「名前」について考えてみたい。
 「名前」とは固有のもの。固有名詞のことだろう。犬なら、たとえばネロ。人間なら、たとえば谷川俊太郎。
 固有名詞が書かれていない一連目を読むとき、私は、どこかで見かけた名前を知らない犬と人間の姿を思い浮かべる。「一般名詞」として思い浮かべる。「一般名詞」というのは「名詞」であるけれど「名詞」に重点が置かれているのではなく、その「名詞」といっしょに動いている「動詞」に重点が置かれているのだと感じて、そこに書かれていることを読む。「うしろについて/ちょこちょこ歩いて行く」という関係(人間が前/犬が後ろ)と動詞(歩いて行く)を思い浮かべる。
 一連目を読んで、名前を知っている犬と飼い主を思い浮かべたとしても、そこから「名前」をとりさって、犬と人間の「歩き方」を思い浮かべる。そこに「名前」が書かれていないのだから、わざわざ「名前」を「代入」しようとは思わない。
 そして「名前」がなくても情景が浮かぶのだから、私は「名前」を「代入」しなくてもことばは成立していると考える。ことばが成立しているなら(ことばが情景/詩情をつたえることができるのなら)、そこには詩(作品)も同時に存在していると考える。
 「名前」とは個人的な思いが濃厚に存在する対象を意味する。個人的な思いが強いとき、どうしても対象を「名前」で呼ぶ。そういう強い思いも詩であるかもしれないが、この谷川の作品では「対象」そのものではなく、犬と人間の「関係」を描いている。詩人と対象との関係ではなく、そこにあある(いる)対象(意味)と対象(人間)の関係を書いているのだから、そこには「名前」は必要がない。「名前」をつけると、対象と対象の関係ではなく、対象と谷川との関係になってしまう。
 対象(犬)と対象(人間)の関係を書こうとしているからこそ、「小さな」ということばと「大きな」ということばの「対比」が描かれる。関係を浮かび上がらせる(明確にする)ことばが動く。さらに「うしろ」と書くことで「後ろ」と「前」の「対比」が描かれ、「ちょこちょこ」と書くことで「ちょこちょこ」と「ちょこちょこではない」対比が描かれる。「対」が明確にされる。
 そんなふうに、ていねいに「対」という「詩の論理」を登場させながら、なぜ、谷川は二連目の「問い」を書いたのか。三連目の「答え」を書くために、わざと「問い」を書いたのだ。

詩は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが人間

 これが谷川の、「詩に就いて」の「考え」だ。詩は「無言」である。その「無言」にことばを与え、無言ではなくする。無言の状態から引き出す。それが詩人。詩人は、ことばで詩を生み出すのである。
 この二行を

詩(情)は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが(詩人という)人間
そして、その言葉が詩(作品)

 と書き直してみると谷川の考えていることがよくわかる。
 そう考えた上で、私はまた別のことも考える。
 ここにでてきた「無言」。これは「名前」と対になっている。
 「名前」を持たないものが「無言」。「無名」を谷川は「無言」と言い換えている。「名前」は自分から「名乗る」もの。名乗らないかぎり(無限であるかぎり)無名。ということは「無名」のものは「名前」を持たないということになる。
 「名前」はまた一方で「名づける」ときにも存在する。「名前」を持たないというのは、詩人が「名づけなかった」ということ。詩人とどんな「関係」も持たないということ。「関係」があれば、その「対象」には「名前」がある。
 そう考えるとき、ちょっとした矛盾が生まれてくる。もし、詩人が「無言」のものに「言葉を与える」なら、その瞬間に「無言の対象」は「名前」を持つことになるのではないのか。「言葉」は「名前」のかわりに与えられた「愛情(愛着)」のようなものである。「名前」と呼ばれないだけで、「言葉を与え」ることは「名前」を与えたことと同じ意味働き)を持つのではないのか。それならばいっそう簡単に「名前」を与え、「名づける」と「言葉を与える」の関係をひとつにしてしまえばいいのではないのか。「名前」をつけない(代入しない)ままでも、それは「言葉を与えた」ことになるのか。そういう疑問が生まれる。眩暈のような矛盾が生まれてきてしまう。
 「犬」と「人間」に「名前」を与えないかぎり、確固とした詩にならないのか。詩は成立しないのか。疑問は二連目に戻ってしまう。循環してしまう。
 この矛盾を、谷川は四連目で、一連目を反復することで乗り越えようとしている。独特の「弁証法」で二連目、三連目の「矛盾」を「止揚」しようとしている。

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

 犬にも人間にも「名前(言葉)」を与えていない。しかし、その三行は「詩」として書かれている。谷川は何に「言葉」を与えたのか。
 一連目の三行の「構造」について書いたとき、すでに触れてしまったのだが、谷川は「関係」に「言葉を与えた」のである。犬と人間に「小さな」と「大きな」という「言葉を与え」、その関係を明確にした。さらに「うしろ/前」「ちょこちょこ/ちょこちょこではない」という「言葉を与えた」。「前」「ちょこちちょこではない」ということばは直接的には書かれていないが、それを読んだひとは無意識にそれを思い出す。だから「言葉を与えた」といってもかまわない。
 そこにある「存在」の「関係」に「言葉を与える」ということは、そういう「関係」と谷川のあいだに「関係」がつくり出されるということでもある。犬を「小さな」と認識する「関係」、人間を犬よりも「大きい」と認識する「関係」。--こういうことを「関係」ということばでは表現しないのが一般的かもしれないが、私は「関係」と呼びたい。「うしろ/前」も「ちょこちょこ/ちょこちょこでない」という識別の仕方、それが谷川がこの情景との「関係」なのだ。

 四連目を読むとき、どうやって読むか。ここで、飛躍して、私の読み方を書いてみる。四連目は一連目の繰り返しである。読まなくても「わかる」。読まなくても「わかる」のだから、私は、この四連目を「ことばを排除して」読む。
 つまり。
 ことばではなく、犬、人間、うしろ、ちょこちょこ、歩くということばではなく、直接、自分の肉体がおぼえている「情景」そのものを見る。実際、そういう情景を、私はことばに頼らずにおぼえている。無意識という感じでおぼえている。
 谷川のことばを読んだら、その情景、私がおぼえている情景が、おぼえているままの形であらわれた。その情景は谷川の見た(書いている)情景と同じではないが、つまり、私は谷川といっしょに同じ情景を見たことはないのだが、ここに書かれている情景はこれだと思ってしまう。
 他人のことば、谷川のことばが、そのとき谷川のことばではなく、私自身のことばになって肉体に直接働きかけている。この「直接性」が、きっと詩なのである。
 さらにまた別の読み方もしてみる。谷川の書いている犬と人間から、私の実際に知っている犬と人間を思い出してみる。まろ(チワワ)と原田さん。わん太と私を見ると、まろは走ってきてわんわん吠える。「来るな、来るな」と警告する。そして原田さんに呼ばれると大急ぎで戻って行く。うしろをちょこちょこと歩いていく。「名前」を与えながら、私は谷川の書いていることを、私の「個人的」な生活に変えてしまう。そして、いま書いたように、そのことばが実際の生活のなかで動くことを確かめながら、それが自分のことばになっていくのを感じる。谷川は消え、ことばと私が「直接」結びついて、そのことばが私の生活を整えていくのを感じる。
 ことばの「直接性」の体験。
 そういう「直接性」のなかで、谷川が消えるというのは、ことばが消えてしまうということでもある。実際、四連目を読むとき、その一行一行を意味を点検しながら読まないでしょ? すでに読んだ一連目を思い出しながら、ぱっと読みとばすでしょ? ことばは書かれているが、ことばは消えている。「情景」のなかに完全に消えてしまう。そうすると「情景」も突然、消えてしまう。「情景」が「肉体」のなかに入ってしまう。いままでことばで追いかけてきたことがすべて消えてしまう。ことばが「肉体」になってしまうといってもいいのかもしれない。
 そうすると、ことばが、生まれ変わってしまう。

朝陽が眩しい

 突然、別の情景が、ことばとなって動く。いままで書かれてこなかった詩(情)が詩(作品)として噴出してくる。
 谷川の詩には、こういう「場面転換」のような描写が多いが、それは、それまで書いてきたことばがそこで終わっているからなのだ。

詩に就いて
クリエーター情報なし
思潮社
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谷川俊太郎『詩に就いて』(3)

2015-05-02 09:41:09 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(3)(思潮社、2015年04月30日発行)



 詩と論理(散文的なことばの動き)はどんな関係があるのか。詩のなかには、どんな論理(ことばの運動)があるのか。



言葉に愛想を尽かして と
こういうことも言葉で書くしかなくて
紙の上に並んだ文字を見ている
からだが身じろぎする と
次の行を続けるがそれが真実かどうか

これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

朝の光に棚の埃が浮いて見える
私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて
それが生身のあなたであることに驚く
一日を始める前に言葉は詩に向かったが
それは魂のささやかな楽しみの一部だ

 一行目と二行目に「言葉」ということばが繰り返される。それは「同じ」ものなのか、「違った」ものなのか。「同じ」に見えるが、「違っている」のか。
 二つの「言葉」を区別しているのは「書く」という「動詞」であると思う。「書く」とは何かを反復することである。「言葉に愛想を尽かして」というときの「言葉」は何かを繰り返していない。つまり「対象」そのものである。ところが、それについて「書く」というとき、その「言葉」は対象ではなく、繰り返す運動そのものである。
 バラの花があり、それを描くとき、最初のバラ(実物のバラ)が「対象」であり、描かれたバラは「絵」である。バラとバラの絵。そういう「対象」と「表現」では「名詞」と「名詞」の比較になってしまう。そうではなくて、「対象」のバラを「絵のバラ(表現)」にするときの、鉛筆、絵の具、そしてそれを動かす「腕」、「腕」といっしょに動いている「目」--そうした「肉体」の「動き」(動詞)のなかで繰り返されるものが、「書く」という動詞のなかに動いている。「言葉」を「書く」、そこから生まれてくる「書かれた言葉」ではなく、「動詞」のなかで動いているものがある。「過程」といえばいいのか、「過程」を実現するエネルギーといえばいいのか。
 「言葉」で「書く」のだが、ほんとうに動いているのは「言葉」ではなく、「肉体」。「書く」という「動詞」のなかで、エネルギーが動いている。形にならないもの(書かれる前の言葉)が形のあるもの(書かれた言葉)に「なる」ときの推進力(エネルギー)そのものとしての「動詞/ことばの肉体」。それは人間の「肉体」とどこかで重なっているのだが……。
 でも、これは、なんだか、よく見えない動きだ。「書く」という「肉体」の動きははっきりとは見えない。認識できない。
 そのかわりに書かれたことば、バラの絵のようなもの、つまり「紙の上に並んだ文字」が見える。その「文字」を見ながら、「肉体」がどう動いたのか思い出そうとする。繰り返そうとする。そのとき「肉体」のなかで何かが動くのを感じ、「肉体」が反応する。「からだが身じろぎする」というのは、こういうことかもしれない。
 「言葉」は「文字」であり、「書かれる」。「言葉」は「文字」であり、書くことができる。「書く」というのは、ことばの勝手な運動(ことば自身の運動)ではなく、それを書く人間の「肉体」の運動である。だから、どうしても「からだ」に何かが跳ね返ってくる。ぶるっと、からだが揺れる。身じろぎ。その「肉体」の動きを、「みじろぎする」ということばで繰り返す。つまり「続ける」。
 五行目の「続ける」は「書く」という「動詞」を別なことばで言いなおしたものである。「次の行を続ける」は「次の行を書く」と言いなおすことができる。
 このことばと「肉体(動詞)」の関係を追うとき、そこに「ことば」と「肉体」の「論理」が見えそうになる。何かを繰り返し、言いなおすとき、どうしてもそこに「道」のようなものが生まれてくる。この「道」のようなものを、ひとはときに「真実」と読んだりする。論理的である、というのは真実である、ということと同じ意味で語られることがある。
 けれど、そうやってできた「論理」が「真実」であるかどうか。谷川は、疑問として、そのことを書いている。「書く」「書きつづける」。繰り返す、言いなおす。そのとき、「嘘のことば(真実かどうかわからないことば)」も続けることができる。
 一連目のことばは散文的だが、散文を書きながら、谷川はこんなふうにしてことばを続けることができる散文に対して「うさんくさい」と言っているようにも見える。

 二連目は一連目の、かなり奇妙な言い直し、繰り返しである。読んだ瞬間、「書いた」「書かれた」、「読む」「書く」ということばが交錯して、「論理」が錯乱する。つまり、何が書いてあるのか、わからなくなる。ことばのひとつひとつは全部知っている、わかっているのに、「論理」がわからなくなる。
 でも、そこには「論理」はあるはずなのだ。
 ひとは大事なことは何度でも繰り返して言いなおす。言いなおすことで、大事なことを「論理的」にしようとする。「論理」は「理性」によって他人と共有できるからである。他人と共有できる理性が「論理」と呼ばれるからである。
 ゆっくり読み直してみる。
 「これを読んでいるのは書いた私だ」の「これを」は「一連目を」と言いなおすことができる。「一連目を読んでいるのは、一連目を書いた私だ」。これは「言葉を読んでいるのは、言葉を書いた私だ」と言いなおすこともできる。一連目の冒頭の「言葉」が、この一行で反復されている。
 おもしろいのは、その次の「いや書かれた私と書くべきか」。「一連目を書いた私」ではなく、「一連目に書かれた私」。書くことによって存在してしまった言葉。書くことによって存在してしまった「書かれた私」。そういうものが、「一連目を書いた私」とは無関係に動き出して、ことばを「読んでいる」。そういうふうに「書く」ことができる。
 二連目二行目の「書く」は一連目二行目の「書く」と同じ「動詞」だ。一連目では「言葉で書くしかない」のだが、二連目では「言葉で書くべきか」自問している。「書くしかない」と「書くべきだ」は、いわば「反対」の動きだが、一連目を二連目で繰り返すとき、そういう「違い」が入り込んでしまう。「繰り返す」時、どうしても何かが違ってくるのである。この「違い(ずれ)」の拡大を「世界が広がる」とも言いなおすことができる。「論理」はいつでも「後出しじゃんけん」のようなもので、最後につけくわえられたものが「正しい結論」になってしまう。ことばが動いていってできる「道」が「論理」と呼ばれるからである。そこには「論理」を生み出す「論理の肉体/論理のエネルギー」のようなもの、「論理の本能」のようなものがあるのだが、そのことには深入りせず、谷川は、ただそうしたことがあるのだと書いている。
 「紙の上に並んだ文字(書いた私/書かれた私)を見ている」。そうすると「私は私という代名詞にしか宿っていない/のではないかと不安になる」。その「不安」で「からだが身じろぎする」。そう読むと、二連目が一連目の繰り返し、言い直しであることが、さらにはっきりとわかるだろう。もちろん、こういう「解釈」が「真実かどうか」、それはわからない。ことばが動く瞬間、その動きは全部「論理」になり、「論理」が動きを止めたとき、それは「結論」になる。「論理」は、ことばをつないでみせれば、そこになんとなく「存在」して見えてしまうものである。うさんくさいものである。
 その特徴があらわれているのが「私は私という代名詞にしか宿っていない」という一行だと言えるかもしれない。この一行の断定は論理を装っている。「書いた私/書かれた私」の「書く」という「動詞」が「私」をかってに動かしてしまう。たしかなのは「私」とという「代名詞」があるだけである。そう言うことができる。
 この「できる」、つまり「可能性」が「論理」の秘密かもしれない。それはあくまでもことばの上での「可能性」であり、それを人間の「肉体」が確かめられるかどうかは問題ではない。こういうことを考えるとき、ひとはついつい「肉体」のことを忘れて、頭のなかでことばを動かしてしまう。
 しかし、この断定は「真実かどうか」。真実ではないのではないかと「不安になる」。そう書いたあと、「脈拍は取りあえず正常だ」と谷川のことばは突然逸脱する。この逸脱が、とても谷川らしい。谷川の「特徴」がここにあると思う。
 頭が混乱するような複雑な(あいまいな?)論理を追い、精神を不安にさせておいて、突然、健康な肉体へと動いていってしまう。形而上学の「不安」から肉体の「健康」への移動、転換が、いままでの「論理」を内部から破壊してしまう。この「暴力」の強さ、美しさが谷川の特徴だ。
 この断定は「真実かどうか」。真実ではないのではないかと「不安」--それは「言葉」「書く」「私」というもことばを追ってきたからそう感じるだけのことである。一連目には「からだが身じろぎする」という行がある。その「からだ」と「脈拍」はきちんと呼応している。私が追ってこなかったことばが、きちんと繰り返され、言いなおされている。「肉体の論理」が「形而上学的論理(精神の論理/頭の論理)」の一方でしっかり動いているのだ。
 谷川俊太郎のことばの強さは、「形而上学的」に動いているように見えるときでも、それだけではなく、「肉体」も動いていることによる。「頭」だけでことばが動くときは、「論理」は精密になるかもしれないが、「肉体」は不健康に追いやられ、動くことができない。論理的にはそうかもしれないが、実際に「肉体」で生きることのできないということが起きたりする。谷川のことばは、そういう窮屈なところへは入っていかない。
 これは「現代詩」の書き手のなかでは「特異」なことであると私は思う。多くの「現代詩・詩人」は「肉体」を置き去りにして、「頭」のなかへどんどん動いている。「頭のなか」を動くことばの「可能性」を追いつづける。

 三連目。ここでは、ことばは何を反復し、何を言いなおしているのだろうか。
 「朝の光に棚の埃が浮いて見える」は誰もが目撃する日常の風景かもしれないが、誰もが目にするだけに、何か美しい。「脈拍は取りあえず正常だ」と同じように健康で、美しい。
 一、二連目のことばが「夜の思考」だったのに対し、三連目は「朝の肉体」の目覚めがある。一、二連目が「言葉」「書く」という表現で窮屈だったのに対して、三連目は「無言」があらわれて、すべての「言葉」を吹き飛ばしていく。形而上学的論理ではなく「生身」の肉体が「私」を驚かせる。目覚めさせる。
 だから、そのあとの「一日を始める前に言葉は詩に向かったが」の「言葉」は一連目、二連目の「言葉」とはまったく違ったふうに動いて見える。それは「書く」という「動詞」とは無関係である。「書かれない」。「朝の光に棚の埃が浮いて見える」と書かれているが、それは繰り返されない。言いなおされない。そこで中断し、そこへ「向かった」ことだけでやめている。
 これが、詩なのだ。
 繰り返して「論理」をつくってしまわない。「論理」を生み出すことを拒み、その前で立ち止まる。その、何と言えばといいのか、「論理」あるいは「散文」への裏切りのような瞬間。私は「魂」というものがあるとは考えていないが、この瞬間的な喜び、どんな結論(論理の果)とは無縁の楽しみを、谷川は「魂」のものと考えているようだ。そういうものを、最後にぽんとほうり出す。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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谷川俊太郎『詩に就いて』(2)

2015-05-01 09:55:06 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(2)(思潮社、2015年04月30日発行)

 「論理」というのは言い直しの積み上げ、ひとつのことを少しずつ変化させて繰り返し、その変化のなかにひとつながりの「道」のようなものをつくることである。その「道」の到達点、あるいは目指しているものによって、「論理」そのものの「価値」が判断されたりする。そしていったん到達点(目標)の「価値判断」が確立されると、もう「道(論理の過程)」はたどりなおされることはなく、「到達点」だけが共有されてしまうということがおきる。「過程」をそれぞれが自分で歩いてみないことにはそこにほんとうに到達できるかどうかわからないのに、到達してしまった気持ちになる。「論理」の落とし穴だ。「論理」は、「到達点」の評価(価値判断)とは別に、「過程」そのものを追いなおして、そこに何がおこなわれていたかを見なければならない。
 「論理」は言い直し、繰り返し。ということは、言い直しや繰り返しがあるなら、そこに「論理」があるということにもなる。詩は「リフレイン」のようなあまりにも明確な繰り返しがあるが、それとは別に少しずつことばを変化させ、説明するという言い直し、繰り返しがある。そこには「論理」と意識されないかもしれないが、「論理」がある。
 谷川は、そういう「論理」を動くことが多い。



台が要る

机が要る
テーブルが要る
椅子でもいい
何か台になるもの
紙を載せるためのもの
黄ばんで破れかかって
詩らしい文字が認めてある紙
真新しい印刷されたばかりの紙も
載せておかねばならない
出来合いの机に
でなければテーブル
でなければ廃材で作られた不格好な台に
むしろ海とか空そのものに
詩を載せる
一篇二篇三篇でいい
もしかすると空のテーブルには
始めから載っているのかもしれない
詩が
無文字の詩が
のほほんと

 この詩のなかの「論理」を追ってみる。
 「机」は「テーブル」と言いなおされる。一枚の板が上にあり、その下に脚がついている家具。それが「椅子」とさらに言いなおされる。机からテーブルの言い直しは、ほとんど変化がない。ところが椅子は違う。ひとは基本的には机やテーブルには座らない。しかし椅子には座る。こういう違ったもののなかをことばが動くとき、何もしないと、「意味」がわからない。
 おいおい、机(テーブル)が要るのか、椅子が要るのか、どっちだ。
 だから谷川は、椅子を説明しなおし、同時に机、テーブルも言いなおす。「台」と言いなおす。必要なのは「台」である。台とは何か。台とは何かを「載せる」道具。「載せる」という「動詞」で説明し直す。そうすると「載せる」という「動詞」が机、テーブル、椅子、台をまっすぐにつなげる。「道」ができる。これが「論理」というものである。
 「載せる」ために「台」になるようなものが必要である。
 ここからまた別の「論理」が動きはじめる。台の上に何を載せるのか。「紙」と書かれ、「黄ばんで破れかかって(いる紙)」と言いなおされ、さらに「詩らしい文字が認めてある」と言いなおされる。「黄ばんで破れかかって」いる紙は、「真新しい印刷されたばかりの紙」と対比される。古い紙と新しい紙。その「対」のあいだに「文字(詩)」「印刷」が、もうひとつのつながり(道)を浮かび上がらせる。古い、新しいという区別を超えて、文字/詩が浮かび上がる。詩の書いた紙を載せるために台が必要だ、と谷川は言っている。
 こういうことを言うために、谷川は同じようなことば(机、テーブル)を繰り返し、それに異質なもの(椅子)をぶつけて、余分なものを削ぎ落とす。そしていくつかの名詞をつないでいる共通の動詞「載せる」を浮かび上がらせる。「詩(文字)」を浮かび上がらせるときも古い紙と新しい紙をぶつけて、反対なのに共通するものを探し出している。ここに詩の探し方の「論理」がある。
 このあと、谷川はもう一度、いま書いたことを繰り返す。繰り返すことで別な世界へ入っていく。書き出しの「机」は「出来合いの机」に言い換えられる。「台」は「廃材で作られた不格好な台」と言い換えられる。繰り返しのなかに、いままでなかったものが紛れ込んでくる。これは繰り返しによって「意味」が固定されてしまうのを防ぐためだ。詩を「載せる」ための台では、台の「意味」が限定されておもしろくない。「論理」になりすぎる。その「論理」を破るために、「出来合い」とか「廃材で作られた」ということばが動く。そういうことばに出会うと、一瞬、「載せる」という動詞がひきつれている手近なものがふっと消える。修飾語によって意識が撹拌される。「論理」が一瞬ゆるむといえるかもしれない。「出来合いの」「廃材で作られた不格好な」ということばは、意識を論理から積極的にずらしていく、論理を砕くための表現である。そういうことばで谷川はいままで追ってきた論理とは別なところへ視線を動かそうとしている。
 そうやって、視線を揺さぶって、意識をゆるませておいて

むしろ海とか空そのものに

 という行が突然出てくる。「海」も「空」も「台」とは無関係である。机もテーブルも椅子も台も人間が作ることができるものである。海、空はつくれない。そんなものが机、テーブル、椅子、台の代わりになるものとして突然出てきては「論理」が破綻する。「論理」にならない。
 「論理」にならないはずなのだけれど、谷川は「論理」にしてしまう。

詩を載せる

 「詩」という名詞、さらに「載せる」という動詞によって、そこに書かれていることを最初に書いたこととつないでしまう。
 強引だが、こがおもしろい。こういう強引さと、海、空ということばが結びつくところが谷川のひとつの特徴だと思う。 たれでも知っているもの(ことば)をつかって強引さを隠しているところがある。
 「詩」「載せる」ということばで「論理」をつなぐと同時に、それを「切断」してしまう。ひっくりかえしてしまう。言い直し、繰り返し、つないできた「道」を叩き壊して、別な世界を展開する。「論理」の否定が詩ということになる。

もしかすると空のテーブルには
始めから載っているかもしれない

 詩は空のテーブルに載っている。テーブルは必要がない。「机が要る/テーブルが要る」と書き出したのに、違うことを言っている。「矛盾」している。あるいは「脱線」してしまっている。「論理」のたがが外れて、谷川の「肉体」のなかに動いていたものが暴走している感じだ。
 しかし、この変化を「矛盾」とか「脱線」という前に、私は驚いてしまう。暴走にうれしくなってしまう。「海とか空」ということばが出てきたときにびっくりしたが、ここでは「空のテーブル」ということばを読んだ瞬間、空がテーブルに見えたし、そこに詩が載っているというのはいいなあと思ってしまう。それまでの「論理」を忘れて、論理にならないものに(論理では追いきれないものに)、我を忘れてしまう。「我を忘れる」と「論理を忘れる」が区別がつかなくなる。こういう「めちゃくちゃ(論理にならないところ)」に詩(情)がある。
 何に感動しているのかな? 自分自身を見つめなおしてみる。「空のテーブル」という突然のことばにびっくりしている。それから「始めから」ということばにも驚いている。「始めから」とは、「黄ばんだ紙」とか「真新しい紙」というような変化とは関係のない「本質」のことなのだろう。「本質」として空のテーブルには詩が載っているのだ。
 詩、といいながら、谷川はそれをさらに否定してみせる。

無文字の詩

 最初の方には「詩らしい文字」「印刷されたばかり」の文字が出てくるが、ここでは「無」文字になっている。このとき「無」は何もないということとは違うかもしれない。何もないなら詩もない。何かあるのだけれど、まだ、世間で流通している「文字(ことば)」になっていない、という状態を「無文字」と呼んでいるのだろう。その存在に気づき、それをことばにする。そうするのが詩人。そうやって生まれてくるのが詩ということになる。
 「出来合いの」移行の繰り返しと脱線(暴走)のなかに「論理では」(散文では)汝切れない詩があると思う。

詩に就いて
クリエーター情報なし
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谷川俊太郎『詩に就いて』(1)

2015-04-30 12:41:03 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(1)(思潮社、2015年04月30日発行)


 谷川俊太郎『詩に就いて』は、そのタイトルのあとにどんなことばが省略されているのだろう。詩について「考える」、詩について「詩を書く」、詩について「書いた詩」。詩について「ことばを動かした」ということになるのか。
 あとがきに、「詩を対象にして詩を書く」ということばが出てくる。

 詩を書き始めた十代の終わりから、私は詩という言語活動を十全に信じていなかった。そのせいで詩を対象にして詩を書くということも少なくなかった。本来は散文で論じることを詩で書くのは、詩が散文では論じきれない部分をもつことに、うすうす気づいていたからだろう。

 「詩が散文では論じきれない部分をもつ」。だから、詩で詩を語る(詩について書く)。「書く」を「論じる」ということばで言いなおしている。
 このことばを手がかりにするなら、この詩集は詩について「論じた」詩集ということになる。ただし、少し保留が必要だ。「散文では論じきれない」。谷川は、そう書いている。詩でなら「論じきれる」のか。さらに「論じる」は詩になじむことなのか。
 「論ずる」という「動詞」を定義してみないといけない。「本来は散文で論じること」という「本来」についても考えてみないといけない。散文の性質(本質、本来もっている性質)を「論じる」という動詞で定義していいのかも考えてみないといけない。
 「論ずる」というのは、何かを説明することである。説明とは言いなおすことである。言いなおしたとき、そこに「整合性」(合理性)があれば、それは「論理」として受け止められる。「論ずる」とは「理をつくること」かもしれない。(「論=ことば」によってつくられたものが「論理」ということになるだろう。)
 けれど「論理をつくること」が、あることがらの「言い直し」によっておこなわれるのだとしたら、「言い直し」をすることで「理」を偽装することもできるかもしれない。繰り返し(言い直し)によって、そこに「論理」があるかのように装うことができる。
 「論ずる」「論理をつくる」というのは、何か「嘘をつく」ということと似ている。
 ひとはどうしても自分にとって都合のいいものを「論理」と考え、それにあわせてまわりに起きていることを整理・排除してしまう。
 そう考えるなら、「詩が散文では論じきれない部分をもつ」というのは、散文が論理の都合で整理・排除したものが詩ということになる。論理からはみだしたもの/ことを書いたものが詩ということになる。
 谷川の「立場」というか、この詩集の「立ち位置」は、そのあたりにあるのだろう。

 しかしそれでは、そうやって書かれた詩に対して、もう一度、散文の方から近づいていく(論じていく/感想を書く)ということは、どういうことになるのか。これから私がしようとしていることは何になるのか。せっかく「散文では論じきれない(書くことができない)」ものを谷川が書いたのに、それを散文で言いなおせば詩を否定してしまうことにならないか。
 たぶん、こんなふうに「論理」の「理」を追い求める「ふり」がいちばんの問題なのだろう。谷川の書いた詩に接する前に、私はもう「理」を強引につくりあげて、ことばの動きを制限しようとしている。
 「理」にならないように、散文を動かしていかないと、詩とは向き合えないのだろう。--と書くと、これもひとつの「論理」になってしまう。
 こういうことはやめて、詩を読むことにしよう。

 しかし、その前に「詩とは何か」ということについて、私の考えていることを少し書いておくことにする。谷川の「あとがき」をもう一度引用する。

 日本語の詩という語には、言葉になった詩作品(ポエム)と、言葉になっていない詩情(ポエジー)という二つの意味があって、それを混同して使われる場合が多い。それが便利なこともあるが、混乱を生むこともある。

 「言葉になった詩(作品)」と「言葉になっていない詩(情)」がある。この定義を利用していえば、「言葉になっていない」何かを「言葉にする(言葉にならせる)」と、それが詩ということになるのではないだろうか。
 実際、あ、詩だなあと感じるのは、いままで誰もことばにしてこなかったこと、あるいは自分がことばにできなかったことがことばになっているのを感じたときだ。ことば以前(未生のことば)がことばになる。ことばとして誕生する。それが詩ということになる。そういうことばに出会ったとき、驚く。その驚きが詩。驚きは発見でもある。刺戟でもある。そして、そういうものはかっこいいし、美しい。
 私は詩を、美しいことば、驚きをもたらすことば、刺激的なことば、かっこいいことば、こころを揺さぶることばくらいに感じている。もっといろいろ言えるかもしれないが、それは実際に詩に出会ってみないとわからない。漠然と感じるのはそういうことだ。
 こういうところから、詩集を読みはじめることにする。(と、書いたが、ここにはひとつ「嘘」がある。私は、すでに一回この詩集を読みとおしている。「あとがき」というものを私は基本的に読まない。作者の考えとは無関係にことばを読みたいからである。でも今回は「あとがき」まで読んでしまった。そして、まずそのことについて書いた。だから「読みはじめる」は方便である。嘘である。)

 詩を読みはじめる。詩集を手に取る。その、最初の瞬間を思い出しながら書く。私はまず『詩に就いて』の「就いて」につまずいた。私は「ついて」と書く。「就いて」とは書かない。なぜ、谷川は「就いて」と書いたのか。漢字にすることで何を言おうとしたのか。
 「就く」は「成就」ということばがあるくらいだから「なる」でもあるんだろうなあ。詩はどのようにして詩になるのか、そういうことについて書くことが「詩について」論じることになる。そういいたいのかもしれない。
 「つく」ということばを広辞苑で調べると「付く・着く・就く・即く」と漢字の表記がでてきた。そこに「即く」(すなわち=即ち)が含まれていることがおもしろいと感じた。その「即」にむすびつけていうと「詩即○(詩すなわち○)」ということを書いたのがこの詩集になる。
 詩即○は、あることばが別のことばに「なる」という変化の中にある。変化しているのだけれど、それは即。そのまま同じ。
 「論理」というものが繰り返しによってできる「道」のようなものだとするなら、詩は「道」ではなく、ある「場」そのもの。「なる」という変化は「道」を歩くように「距離」を動くのではなく、別なのもが固く結びつく「場」そのものなのかもしれない。
 詩集のタイトルの中に、谷川はすでに詩をはじめている。詩について、語りはじめているということかもしれない。





隙間

チェーホフの短編集が
テラスの白木の卓上に載っている
そこになにやらうっすらと漂っているもの
どうやら詩の靄らしい
妙な話だ
チェーホフは散文を書いているのに

山の麓の木立へ子どもたちが駈けて行く
私たちはこうして生きているのだ
心配事を抱えながら
束の間幸せになりながら

大きな物語の中に小さな物語が
入れ子になっているこの世
その隙間に詩は忍びこむ
日常の些事に紛れて

 「詩」と「散文」ということばがさっそく出てくる。詩について考えるとき、どうしてもどこかで散文を意識するということだろう。
 そのこととは別にして、私はこの作品を読んだとき、「チェーホフ」と「テラスの白木の卓」ということばが「詩」として目に飛びこんできた。私が感じたのは「定型」としての「詩」なのだが。
 もし「チェーホフ」でなくて「ドストエフスキー」だったら、「短編」でなく「長編」だったら、この作品の印象はまったくちがってくる。「テラスの白木の卓」ではなく「物置の閉まったままの長持ちの蓋」だったら、印象はちがったものになる。「チェーホフ」にも「短編集」にも「テラス」にも「白木」にも「卓」にも、なにかしら「詩情」がある。「詩情」と私たちが呼んでいるものの「定型」のようなものがある。
 谷川の詩は、こういう「定型」を利用して始まることが多いように思う。ひとがなじんでいるものを集め、繰り返す。「チェーホフの短編集」と「テラスの白木の卓」はそっくりそのままの繰り返しではないが、「チェーホフの短編集」ということばを聞いたときに感じる「印象」につながるものを「テラスの白木の卓」ということばで繰り返すことで、最初の印象が深くなる。これは一種の「感覚(印象)の論理」である。感覚(印象)も繰り返され、言いなおされることで、だんだん形が固まってくる。論が繰り返し言いなおすことで「論理」になるのに似ている。どんなことばも繰り返し、言いなおすことで徐々に明確になるという性質があるようだ。
 この「印象(感覚)」の変化を谷川は、さらに「なにやらうっすらと漂っているもの」と言い換える。「明確に、確固として(不動のものとして)存在する」のではなく、「うっすら」「漂う」というあいまいなもの、感じ取ることができる不確かなものと言い直し、それをさらに「詩の靄」と言いなおしている。そうか、詩とは、「チェーホフの短編集」と「テラスの白木の卓」とを「ひとつ」に組み合わせるときに生まれてくる「印象」のようなものなのだな、と感じる。
 そう感じさせておいて、谷川は、この印象をそのまま固定化しない。むしろ叩き壊す。これが谷川の詩のひとつの特徴だ。
 「妙な話だ」の「妙」は意外、驚き、不思議ということ。そういう驚き(新しい発見)のなかに詩がある。
 谷川は、この驚きをていねいに語りなおしている。「チェーホフは散文を書いているのに」、そこに「詩の靄」を感じるというのは「妙」だ、と。このとき「散文」と「詩」という別なものが出会っている。
 かけ離れたものの偶然の出会いが詩であるというのは「現代詩」の「定義」だが、その「定型」にしたがって、詩を書きはじめている。このかけ離れたものの出会いは二連目の「心配事」と「幸せ」の組み合わせにもあるし、三連目の「大きな」と「小さな」という組み合わせにもある。
 ただし、この「詩」「現代詩」の「定義」は私が私の考えを書いたことであって、谷川自身は詩については「定義」してない。「散文」については「チェーホフ(の短編集)」で例にあげることで定義しているが詩については具体的には書いていない。
 書いていないからこそ、それを二連目、三連目で言いなおす。「詩の靄」を別な表現で言いなおすとどうなるか。
 山へ駈けていくこどもを見る。こどもを見ながら、心配事を忘れて、束の間幸せを感じる。そんな生き方のなかに「うっすら漂っている」ものが詩。
 ひとりだけの人生ではなく、多くのひとの人生が組み合わさって世界ができている。ひとの人生のなかに自分の人生が見えることもある。山へ駈けていくこどもの幸せのなかに自分がこどもだったときの喜びがそのまま動いている。そう感じるとき、その感じのなかに「うっすらと漂っている」ものが詩。
 この「詩」と「うっすら漂う」は三連目では「詩は忍びこむ」という形で言いなおされる。「漂う」ではなく「忍びこ込む」。さらに「忍びこむ」は「紛れる」という動詞で言いなおされる。
 心配事に幸せが「忍びこむ」は少し変。でも心配事に幸せが「紛れ(こむ)」はあるかもしれない。たとえばこどものことを心配することができる幸せ。幸せに心配事が「忍びこむ」「紛れ(こむ)」、「大きな」のなかに「小さな」が「忍びこむ」「紛れ(こむ)」もある。
 そうやって言いなおされてみると、詩は「うっすらと漂う」をやめて、しっかりと定着している。
 どこに?
 「隙間」に。
 何の隙間に?
 「日常の些事」の、その「些事」と「些事」の隙間に。たとえば心配事をしながら、こどもが山へ駈けていくのを見るという二つの「こと」のあいだに。「紛れる」というのは「抱えながら」「なりながら」の「ながら」のなかに動いている動詞だ。
 ここから一連目に引き返してみる。そのとき詩は、詩と散文の隙間に、やっぱり「紛れ」こんでいるのだろうか。
 「情」を補って、詩情は詩と散文の「隙間」に「紛れ」こんでいるのだろうか。「忍び」こんでいるだろうか。
 そうなのだろうなあ。その「紛れ」こんでいる何か(もの/こと)を、「忍び」こんで隠れているものを、ことばにして定着させるとき、そこに新しい詩が生まれるのだろう。
 三連目の、そしてタイトルになっている「隙間」ということばは、私には散文的に感じられる。少なくとも「チェーホフ」や「テラスの白木の卓」のように詩情をひきおこすことばではないが、そういうことばにいのちを吹き込み、新しい詩にしている。
 一読したときとは、こうやって感想を書いたあとでは「隙間」ということばが違って見えてくる。こういう体験を詩の体験と呼んでいいのだろう。

 「隙間」について考えるとき、この詩の構成も気にかかる。三連で構成されている。連のあいだの行空き。その「隙間」。三連目の「入れ子」という表現から、二連目の「山の麓の木立へ子どもたちが駈けて行く」(さらには二連目全体)をチェーホフの短編集からの「引用」は見ることもできるのではないだろうか。
 チェーホフのことばがそのまま「日常」へ「忍び」こみ、「紛れ」こむ。それを許す「日常」の「隙間」がある。その「隙間」こそ、詩かもしれない。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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