詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

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自民党憲法改正草案再読(34)

2021-11-10 13:12:32 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(34)

(現行憲法)
第七章 財政
第83条
 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
(改正草案)
第七章 財政
第83条(財政の基本原則)
1 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使しなければならない。
2 財政の健全性は、法律の定めるところにより、確保されなければならない。

 改正草案の、2項の追加(新設)は、どういう意味なのだろうか。財政が「健全」でなければならないのは当然のことなのだが、それを「法律の定めるところにより、確保」するというのがわからない。これは、逆に読めば「法律の定めるところにより、健全性を無視できる」ということにならないか。つまり、「法律」でこれこれの支出は財政の健全性を度外視して優先するということが起きるのではないか。
 もっと露骨に書けば。
 大企業の収益は株価に直結するから法人税は最優先で優遇する(低い税率にする)、軍備費は国の安全に直結するから最優先で優遇する(支出がどれだけになってもかまわない)ということが起きるのではないのか。財源が不足するなら、消費税を上げる。消費税の使途は、大企業の税率を下げた分の補てん、必要な軍備を購入するための資金に当てる。財政の健全性は無視する、という法律ができるのではないか。
 「法律の定めるところにより」だけでは、はっきりしない。さらに、「国会の議決」と「法律」のどちらを優先するのか。国会では「予算」に反対している。けれど、「法律」にもとづいて「予算」を強行執行するということがあるのではないのか。
 
(現行憲法)
第84条
 あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
第85条
 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
(改正草案)
第84条(租税法律主義)
 租税を新たに課し、又は変更するには、法律の定めるところによることを必要とする。第85条(国費の支出及び国の債務負担)
 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基づくことを必要とする。
 「あらたに租税を課し」と「租税を新たに課し」の違いがわからないし、「又は現行の租税を変更するには」から「現行の租税」を削除し「又は変更するには」に変える狙いがわからない。私の想像できないことを企んでいるに違いないと思う。もし、同じ意味(意図)なら、わざわざ削除する必要はない。

(現行憲法)
第86条
 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
(改正草案)
第86条(予算)
1 内閣は、毎会計年度の予算案を作成し、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない。
2 内閣は、毎会計年度中において、予算を補正するための予算案を提出することができる。
3 内閣は、当該会計年度開始前に第一項の議決を得られる見込みがないと認めるときは、暫定期間に係る予算案を提出しなければならない。
4 毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降の年度においても支出することができる。

 1項の変更は、2点。ひとつは「案」の挿入。これは国会で議決されるまでは「案」であるということなのだろうが、気になってしようがないのが読点「、」の挿入。「国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない」と「国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない」はどう違うか。現行憲法は「審議を受ける→議決を経る」はひとつづきのことがら。「国会の審議を受ける→国会の議決を経る」。国会のということばが共通する。ところが改正案では、このひとつづきのことがらのあいだに「、」がある。「議決を経る」の「議決」が「国会の議決」ではなくて、ここには書かれていない別の機関の議決でも可能になる。「文脈」から考えれば、そういうことはありえない、とふつうは考えるが、しかし、自民党のやっていることは「ふつう」ではないのだ。憲法は権力を拘束するものだが、自民党の改正草案は逆に憲法で国民の権利を拘束し、内閣が独裁をすすめるためのよりどころなのである。「国会の議決を経て」ではないというために「、」を削除したのだと考えておいた方がいい。もし「国会の議決を経て」という現行憲法と同じ意味であるとするならば、わざわざ変更する必要はない。
 「これを」というテーマの提示を、「うるさい(日本語らしくない)」という理由で削除するなら、「、」の挿入はうるさくないのか。微妙なところにこそ、なにかとんでない企みが隠されていると疑う必要がある。
 2、3、4項の新設は、いずれも内閣の「裁量権」の拡大だが、4項の新設は非常に問題があると思う。「翌年度以降」があいまいである。「翌年度」だけではない。何かの都合で、どうしても執行できなかったら(たとえばある工事が障害物のために期間内におわないことが明らかになったから)1か月執行期間を延長するというようなことではない。もっと「長期」を見込んでいる。あらかじめ「複数年度」にわたる予算をつくり、それで財政を拘束するということが起きうるのだ。きっと。国防費の予算を「計画」だけではなく、「長期予算」として確保してしまう、ということが起きるのだ。そして、その場合、状況の変化に応じて「追加」するということはあっても、けっして「削減」という形での「補正予算」は提出しないだろう。
 2項の「予算を補正するための予算案を提出することができる」は、そのことを意味していると思う。
 3項は、いままでも「暫定予算」というものがあったのではないのか。いわゆる「必要経費(人件費など)」としての予算が成立していないと、働いている人が困ってしまう。わざわざ、こんなことを書いているのは、予選審議がもめたとき(野党の反対が強くて、年度内の議決が不可能になったとき)を想定し、時間をかけても内閣提出の予算案を必ず成立させる(修正案を封じ込める)という狙いがあるのではないのか。どれだけ時間がかかってもかまわない。かならず思い通りの予算にする、という狙いである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 自民党はよく野党に「対案を出せ」という。しかし、予算に関して、野党は「案」を出すことができない。憲法で予算(案)を提出するのは内閣と定義しているからである。第73条5項に内閣の事務(仕事)を定義して「予算を作成して国会に提出すること」と定めている。野党は、したがって、その「案」に対して問題点を指摘し、変更を求めるということしかできないのである。その変更を求めるしかできないという野党の「弱点」を利用して、審議をだらだらといつまでも長引かせ、力づくで狙いどおりの予算を成立させるというのが、改正草案の狙いだろう。

 

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自民党憲法改正草案再読(33)

2021-11-07 09:56:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(33)

(現行憲法)
第81条
 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
(改正草案)
第81条(法令審査権と最高裁判所)
 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終的な上訴審裁判所である。

 「終審裁判所」と「最終的な上訴審裁判所」は、どうちがうのか。改正草案は「三審制」を踏まえての表記なのかもしれないが、よくわからない。
 一審、二審で「違憲判決」が出ても、それは「確定」ではない。最高裁に上訴し、最高裁が判断しないかぎり「違憲」にはならない、と言うことなのかもしれない。
 つまり、二審で「違憲判決」が出たとき、政府はあえて上訴しない。上訴しないことで「違憲」であることを受け入れない。つまり、「上訴審裁判」で確定したわけではないから、「違憲ではない」と主張するための「逃げ道」なのかもしれない。
 こういう問題は、法律の専門家がもっと国民向けに語らないといけないのではないのか。すでに語り尽くされているのかもしれないが、テレビも見ないし新聞もろくに読まない私のような人間には、議論がどこまで進んでいるのか、さっぱりわからない。

(現行憲法)
第82条
1 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
(改正草案)
第82条(裁判の公開)
1 裁判の口頭弁論及び公判手続並びに判決は、公開の法廷で行う。
2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがあると決した場合には、口頭弁論及び公判手続は、公開しないで行うことができる。ただし、政治犯罪、出版に関する犯罪又は第三章で保障する国民の権利が問題となっている事件の口頭弁論及び公判手続は、常に公開しなければならない。

 「対審」が「口頭弁論及び公判手続」と変更されている。裁判には、民事裁判と刑事裁判があるが、そのふたつの違いに配慮して、こうなっているのか。
 第2項でも「対審」をすべて「口頭弁論及び公判手続」と書き直しているのは、何か意味があるのかもしれない。ことばの経済学から「これを」を「削除する」のが改憲草案の大きな特徴である。それは2項でもおこなわれている。一方で、「口頭弁論及び公判手続」はしつこく書きつらねている。奇妙な印象を受ける。たぶん「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利」が関係しているのだと思う。何を狙っているか、予測がつかないが。

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自民党憲法改正草案再読(32)

2021-11-04 21:50:59 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(32)

(現行憲法)
第79条
1 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。
5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。
(改正草案)
第79条(最高裁判所の裁判官)
1 最高裁判所は、その長である裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官で構成し、最高裁判所の長である裁判官以外の裁判官は、内閣が任命する。
2 最高裁判所の裁判官は、その任命後、法律の定めるところにより、国民の審査を受けなければならない。
3 前項の審査において罷免すべきとされた裁判官は、罷免される。
4 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
5 最高裁判所の裁判官は、全て定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、分限又は懲戒による場合及び一般の公務員の例による場合を除き、減額できない。

 よくわからない。気になるのが改正草案の2項の「法律の定めるところにより、国民の審査を受けなければならない」の部分。現行憲法では「法律の定めるところにより」ではなく、憲法そのもののなかに書かれている。憲法から法律に「格下げ」されている印象が残る。
 これと同じことは改正草案の5項(現行憲法では6項)の「分限又は懲戒による場合及び一般の公務員の例による場合を除き」ということば。最高裁判所の裁判官の「分限又は懲戒」って、何? 誰が、その処分を決める? 国民審査の「罷免」以外の処分があるのか。もし、あるとすれば、そしてそれを誰がするかといえば、1項に「最高裁判所の長である裁判官以外の裁判官は、内閣が任命する」(改正草案)とあるのだから、内閣が処分するのだろう。これでは、裁判官の「地位」は内閣次第である。つまり、内閣が求めていない判決を出すということは、事実上なくなるのではないのか。司法の独立はなくなり、司法は内閣の「下部機関」になってしまうのではないか。「三権分立」は崩壊する。
 それを裏付けるのが「一般の公務員の例」(改正草案)ということば。現行憲法には登場しない「一般の公務員」ということばが突然出てくる。最高裁判所の裁判官は「一般の公務員」と同列になっている。内閣の意志次第で「異動」できるのだ。「異動できる」とは書いてはないが、「解任」という形の運用がはじまるのではないか。
 「任期」から「十年」ということばも消えている。いったん任命されれば「十年」は最高裁の裁判官でいられるはずなのに(国民審査による罷免をのぞく)、その「保障」が改憲草案では消えてしまっている。
 この「任期」の問題は、最高裁判所だけではなく、下級裁判所にも書き込まれている。
(現行憲法)
第80条
1 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。
2 下級裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。
(改正草案)
第80条(下級裁判所の裁判官)
1 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣が任命する。その裁判官は、法律の定める任期を限って任命され、再任されることができる。ただし、法律の定める年齢に達した時には、退官する。
2前条第五項の規定は、下級裁判所の裁判官の報酬について準用する。

 「任期十年」(現行憲法)が削除され「法律の定める任期」(改憲草案)になっている。これでは「身分保障」は骨抜きだろう。内閣の気に食わない裁判官は、次々にやめさせられてしまう。
 「任命」については、「最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する」が踏襲されているようにみえるが、実際は、どうなるだろうか。
 裁判官ではないが、学術会議の会員は、学術会議が提出した名簿に従って任命されるはずだったが、菅は、名簿通りの任命を拒否した。同じことが裁判官でも起きるだろう。
 この問題を考えるとき「これを」という「テーマ」を提示することばを削除した意味は大きい。改憲草案は「テーマ」をみえにくくするのである。裁判官の任命(任期)がテーマなのに、あたかも「内閣の権限」がテーマのように書き換えている。「内閣はこれこれができる」に書き変えられている。現行憲法は、「内閣はこれこれをしてはいけない」なのに、逆の意味になっているのだ。

 

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自民党憲法改正草案再読(31)

2021-10-29 11:18:07 |  自民党改憲草案再読

 「司法」の問題は、ふつうに暮らしている限り、私には親身に考えることがむずかしい。自分が裁かれるということを考えて行動しないからである。罪を犯さない限り、裁かれない。簡単に言えば、何か盗んだり誰かを殺したりしなければ、逮捕されたり、裁判にかけられることもない。親から言い聞かされたことを守っていれば、縁のない世界である。他人が裁かれるのを見ても、自分のことではないので、親身に考えることができない。重大犯罪が起きたときは、それなりの関心をもって裁判の行方を見守るが、それにしたって自分が同じことをして同じ判決を受けるかもしれないという感じではない。簡単に言いなおすと、ぴんとこない。
 そんな私に、改正草案の狙いの何がわかるだろうか。わからないままに書いてみる。

(現行憲法)
第六章 司法
第76条
1 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
(改正草案)
第六章 司法
第76条(裁判所と司法権)
1 全て司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、設置することができない。行政機関は、最終的な上訴審として裁判を行うことができない。
3 全て裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 仮名遣いをのぞけば、2項の「終審」が「最終的な上訴審」と書き換えられている。なぜ? ともに最高裁での裁判を意味すると思うが、なぜ「上訴審」に書き換えるのか。「上訴審」でなければ行政機関は裁判をおこなうことができるという制度にするための「伏線」なのだろうか。

(現行憲法)
第77条
1 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
(改正草案)
第77条(最高裁判所の規則制定権)
1 最高裁判所は、裁判に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2 検察官、弁護士その他の裁判に関わる者は、最高裁判所の定める規則に従わなければならない。
3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。

 第2項。「検察官」が「検察官、弁護士その他の裁判に関わる者」と拡大されている。最高裁が弁護士に注文をつけることができるようになる。弁護士が「新証拠」を見つけ出してきても、検察官が証拠として認めることを拒否しているから、証拠として採用できない、というようなことが起きるかもしれない。
 現行憲法が「検察官」としか言っていないのは、裁判というものが基本的に検察官が持ち出すものであり、弁護士側が提起することではないからだろう。提訴されたひとを守るのが弁護士である。提訴されない限り、(裁判がはじまらない限り)、弁護士が必要になるということは、ふつうの人間にはありえない(と、思う)。提訴されていないのに弁護士を必要とするひとは、提訴される可能性をもったひとである。そこから考えても、検察官と弁護士を「同列」にしてしまうことには、なにか、重大な問題があると思う。改憲草案は、弁護士の活動を規制したいのだろう。弁護士が独自の活動をすることを規制したいのだろう。
 この問題は、実際に、弁護士がどういう活動をしているのかわからない私には、どんな問題があるのか、具体的にはさっぱりわからない。弁護士が、この問題について、どういう批判をしているのか、それを知りたい。

(現行憲法)
第78条
 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
(改正草案)
第78条(裁判官の身分保障)
 裁判官は、次条第三項に規定する場合及び心身の故障のために職務を執ることができないと裁判により決定された場合を除いては、第六十四条第一項の規定による裁判によらなければ罷免されない。行政機関は、裁判官の懲戒処分を行うことができない。

 「公の弾劾(裁判)」をわざわざ「第六十四条第一項の規定による裁判」と書き直しているのはなぜなのか。「第六十四条第一項」には「公」ということばがない。「非公開」で裁判をすることを狙っているのだろうか。
 後段の、現行憲法の「裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない」を、改正草案では文章の上下を入れ換えて「行政機関は、裁判官の懲戒処分を行うことができない」としている。
 これは、単なる「表現」の問題ではない。「意味」が同じになるから、それでいい、という問題ではない。改憲草案では、このテーマと主語の混同というか、入れ替えのようなことが起きている。「テーマを見えにくくする文体」が採用されている。「これを保障する」の「これを」を削除するようなものである。
 第78条のテーマは「裁判官の身分保障」である。現行憲法はそのテーマを意識しているから「裁判官の懲戒処分は」と書き出す。ところが改憲草案は「行政機関は」と書き出す。テーマは二の次になり、「主語」が突然あらわれる。その「主語」は「主役」ではない。第78条の「主役」は裁判官である。「主役」がわきに押しやられ、行政機関が「主役」のようにふるまう。これが、改憲草案の狙いである。
 改憲草案の「主役」は「行政機関(政府)」である。これは、一貫している。第9条でも国民をおしのけて、突然「内閣総理大臣」が「主語」として登場している。政府が国民、国会、司法を支配するための改憲草案であることが、ここからも証明できる。もし「裁判官の身分保障」がテーマであるのならば、わざわざ文章の前後を入れ換える必要はない。同じことを言うのなら改正しなくてすむ。改正しているからには、そこに狙いがあるのだ。
 ことばには、いろいろな「意味」がある。「論理」がある。「運動/活動」としての「論理」もあれば、「主語」としての「論理」もある。一冊の本がある。AからBに所有権が移る。AがBにやった。BがAからもらった。「主語」がかわると動詞がかわるときがある。「本」を主語にすると本がAのものではなくBのものになった、という形にもなる。どの文章を書くかということの「奥」には意識の違いがある。「意味」とは客観的な意味のほかに主観的な意味がある。憲法にも「主観的意味」がある。改憲草案は「憲法は国が国民を支配するためのもの」という「主観的意味」で貫かれている。これは現行憲法の「憲法は国民が国の動きを拘束するためのもの」という「国民主体の意味(国民の主観的意味」と正反対のものである。
 改正草案の狙いは、「国民主権」の否定である。それが「文体」としてあらわれている。「意味」と同時に「文体」に注目しないといけないのだ。「文体」そのものに「重要な意味」があるのだ。

 

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自民党憲法改正草案再読(30)

2021-10-28 11:35:39 |  自民党改憲草案再読

 

(現行憲法)
第69条
 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第69条(内閣の不信任と総辞職)
 内閣は、衆議院が不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 「衆議院で」か「衆議院が」か。「衆議院で」の場合は、「衆議院で議員が」ということになる。「衆議院が」の場合、現行憲法で省略されている「議員」ということばが見えにくくなる。「衆議院」が意志を持っているかのように表現されている。しかし、議会は国民の信託を受けたひとりひとりの議員から構成されている。
 このことは、忘れてはならない。
 というのも、この第69条は「議院内閣制」を定義しているからである。「議院」は「議員」によって構成されているからである。
 そして、それは「解散」の問題につながるからである。
 この条文で重要なのは「十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」である。解散すると総選挙がある。議員構成そのものから、選び直すことになる。「不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決する」というのは、議員にとっても重要な問題なのである。単に内閣を批判するだけではなく、自分自身の判断に責任を持つということなのである。そして、ここには内閣が勝手に「国会を解散できる」とはひとことも書いていない。「解散しない」なら「総辞職しなければならない」と書いてある。つまり、そこに居すわっていてはいけない、ということである。内閣不信任の場合、国会を解散し、内閣の判断が正しいか議院(議員院)の判断が正しいか国民の判断にゆだねるか、総辞職をしなければならない、「居すわっていはいけない」と「禁止事項」を申し渡しているのである。
 少し離れることになるのか、より詳しく説明することになるのかわからないが。「又は」ということばのつかい方について、もう一度書いておく。
 この条項を見ればわかるように、「又は」(又)いうことばは、ある定義を反対の方向から見て言いなおすことで「定義漏れ」を防ぐときにつかわれている。「不信任の決議案を可決」はあくまで「不信任の可決」、その逆の場合が「信任の決議案を否決」である。どちらの案が出てくるかわからないが、どちらの場合でも、ということである。
 だからもし、内閣が国会を解散したいと思うなら、野党の不信任案提出→可決という経過を待つのではなく、内閣が信任案を提出し議会がそれを否決するという方法をとらないといけない。信任案提出→可決→解散という例を私は記憶していないが、たしか、大平内閣のとき、不信任案決議に自民党内から造反者が出て不信任案が可決→解散ということになった。解散するかどうかは、一義的に議員が決めるのだ。不信任案の可決は、内閣が正しいか、議員が正しいか、その判断を国民に問え、ということでもある。
 国民の代表である議員が何も言っていない(内閣不信任を可決していない)のに、国会を解散するのは、極端にいえば無実の人間をつかまえて有罪というのに等しい。そのひとは何もしていないのに、自分の主張を通すために、他人を排除する、野党の議席を減らすために選挙をする、ということである。異論の排除は民主主義そのものの否定である。

(現行憲法)
第70条
 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第70条(内閣総理大臣が欠けたとき等の内閣の総辞職等)
1 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
2 内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う。

 「内閣総理大臣が欠けたとき」が具体的に何を指しているのか。第69条と関連づけて読む限り(法律は、たいてい前に書かれた条項を補足する形で展開する)、内閣が不信任されたとき、である。「急死/事故死」で欠けたということを想定してのことではないだろう。
 ここで、「又は」ということばのつかい方を再点検したい。「又は」は前項を逆の方向から言い直し、補足したもの。逆の方向から定義し直し、「漏れ」をふせぐためにつかう。
 「内閣総理大臣が欠ける」とはどういうことか。総選挙が行なわれれば、当然、議員構成もかわる。そのとき、前の国会で選ばれた内閣総理大臣は、無効になる。新しい議員が選んだものではないから、それは選び直さなければならない。「衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない」は新しい議会では新しい内閣総理大臣を選び、その総理大臣の元に新しい内閣を組織しなければならないということを、逆の方向から言いなおしたのである。
 ここから第70条を読み直せば、内閣(総理大臣)が、勝手に国会を解散する(いわゆる第7条解散)が「違憲」であることは明らかだ。
 もう一度書くが、もし総理大臣が国会を解散したいと思うなら、信任案をみずから提出すするか自民党(与党)に提出させ、それを否決する必要がある。そのために第69条で「不信任案」「信任案」の二通りのことを書いている。
 改正草案で「新設」されている第2項は、やはり「内閣総理大臣が欠けたとき」の定義がわからない。「急死/事故死」を指しているのか。大平が選挙中に急死したときは、どうしたのだろうか。私には記憶がない。
 病気療養のときや外国での会議に出席するときは「欠ける」とは言わないだろう。いまだって「副総理」という職がある。それを思うと、この新設条項は、もっと他のことを企んでいる、と思って読んだ方がいいだろう。
 というのも。
 不信任→国会解散、という場合、それでは内閣総理大臣(という職)はどうなるのか、という疑問が生じる。そして、それを解消するために、次の第71条がある。

(現行憲法)
第71条
 前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。
(改正草案)
第71条(総辞職後の内閣)
 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う。

 「前二条」とは第69条、第70条のことである。内閣不信任→国会解散(議院内閣制だから、当然のこととして内閣総理大臣も議席を失っている。つまり、基本的には総理大臣である資格に欠ける)の場合、内閣総理大臣が「不在」になってしまう。憲法に書かれていることばに従えば「内閣総理大臣が欠けた」状態である。
 その場合は、「内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う」。本来なら資格がないのだけれど、条件付きで「内閣」としての仕事をまかせるというのである。
 これから見ても、改憲草案の「新設条項」は、何かしら他のことを企んで新設されたものということになる。
 もしかすると、自民党の内部抗争で、与党の判断だけで「総理大臣を欠けた」状態にすることができるということかもしれない。いまの岸田内閣でいえば、岸田を「お飾り総理大臣」にしておいて、他の誰かが実権を握るというようなことに「お墨付き」を与えるためのものかもしれない。

 それにしても。
 いま、総選挙の最中であるが、なぜ野党は、岸田による「解散」をそのまま認めたのか。衆議院議員の任期がきれることは予めわかっている。それなのに衆議院選挙の日程よりも自民党の総裁選の日程を優先させる(自民党の大宣伝を許す)というようなことをしたのか。自民党の総裁選は任期満了にともなう衆院選のあとにしろ、と主張すべきだっただろう。
 多くのジャーナリズムも、そして憲法学者も、なぜ、そのことに異議を唱えなかったのか。不思議でならない。
 2016年の参院選のとき、私は、私だけが日本の誰かが書いた「脚本(自民党が圧勝する/憲法改正、戦争へ向けての準備をする)」を知らずに生きている、けれども他のひとはその「脚本」を知っていて、その「脚本」を見据えて、これからどう行動するか考えている。つまり、安倍のご機嫌とりをして、どうやって安倍に気に入られようかを考えているように見えた。「脚本」がそうだとしたら、その「脚本」をどう変更できるか、というようなことはまったく考えない。ひたすら、安倍に気に入られることだけを考えて行動している。そう見えて、ほんとうにぞっとした。私が憲法についてほんとうに考え出したのは、そのときからである。あのときの恐怖感は、まだつづいている。私は日本がどうなるか知らない。けれど、多くのひとは自民党にすがって生きていくしかない、とあきらめている。生きていくには、自民党のご機嫌とりをして、奴隷として生きていくしかないと思っている。しかも、一番下の奴隷はいや、少しでも上の奴隷がいい、と思って「下」になる人間を探そうとしている。立憲民主の枝野にしてもそうである。自民党があるから、対抗勢力として存在が許されている。対抗勢力としての議席を守ろうとしているだけである。民主主義がどうなってもかまわない。自分が当選すれば、金が稼げるとおもっているとしか思えない。

 

2021年10月28日(木曜日)

自民党憲法改正草案再読(30)

(現行憲法)
第72条
 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
(改正草案)
第72条(内閣総理大臣の職務)
1 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。

 改正草案の変更は大きく分けてふたつ。
 ひとつは現行憲法の「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し,」と「一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。」を分割し、順序を入れ換えている。
 「議案」を提出することよりも、「行政」を「指揮監督」することが優先されている。これを実際に「先取り実施」しているのが「内閣人事局」である。内閣が行政機関の「人事」を「指揮監督」するという名目で、恣意的に操作している。この結果、公務員は国民のために働くのではなく、内閣のために働くということになった。菅が特徴的だが「国(内閣)の方針に従わないものは異動させる(左遷させる)」ということが起きている。
 国会を軽視し、国会の議論とは関係なく、人事権を行使して支配した公務員を操作し、行政をおこなってしまう。先に「実績」をつくり、議案を審議させない。どんな行政でも、それをおこなうための法律を整備し、そのあとに政策が実行されなければならないのに、そういう手順を無視している。手順を排除しようとしている。
 外交問題も国会に報告し、審議しなければならないのに、それをないがしろにしている。官僚の人事よりも、国会を優先すべきなのに、逆にしている。国会の審議を排除しようとしている。
 こういうことを「独裁」という。
 新設された「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」とは、どういうことか。いまの自衛隊は、決められた行動以外のことをするときは新たな法律が必要である。国会で審議しないといけない。現行憲法では、国会の方が自衛隊よりも「権力」が上にある。この国会の自衛隊を監視するという力を、内閣が奪い取り、それだけではなく、内閣の思いのままに指揮監督し、統括するということだろう。内閣人事局が官僚を思いのままに操るように、内閣総理大臣が「国防軍」を思いのままに動かす。「国防軍」とはいうものの、「軍隊」は自国民の自由を阻害することがある。「国防軍」が守るのは「国家権力」だけ、ということがある。天安門事件は、その代表的なものだろう。自衛隊こそ出動していないが、警官、機動隊が、市民行動を過剰に抑圧するということは頻繁に起きている。そういうことが「国防軍」をつかっておこなわれるのである。
 それが証拠には、新設された条項には、「戦争が起きたとき(外国からの侵略を受けたとき)」のような「ただし書き」がない。いつでも、どんなときでも「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」。それは、前項で国会が軽視されたことを考えるならば、ある議案を可決するために内閣総理大臣が国防軍を指揮して、国会を占領するということもあるのだ。
 実際に、そうしたいのである。
 「軍事独裁」を総理大臣が指揮するのである。

 さらに別の問題も。
 この条項は、改正草案の

第9条の2(国防軍)
1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。

 と重複する。そして、この重複は第9条2の再確認というよりは、第9条2が第72条3の先取りなのだ。こういう重複というか、一種の破綻は、その破綻にこそ改正草案の欲望のすべてが噴出していると見ることができる。
 なんとしても軍隊を指揮し、国民を弾圧し、外国にも侵攻する。そのための「根拠」を憲法に書き込んでおく、というのが改正草案の狙いなのだ。


(現行憲法)
第73条
 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
 一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
 二 外交関係を処理すること。
 三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
 四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
 五 予算を作成して国会に提出すること。
 六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
 七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
(改正草案)
第73条(内閣の職務)
 内閣は、他の一般行政事務のほか、次に掲げる事務を行う。
 一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
 二 外交関係を処理すること。
 三 条約を締結すること。ただし、事前に、やむを得ない場合は事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
 四 法律の定める基準に従い、国の公務員に関する事務をつかさどること。
 五 予算案及び法律案を作成して国会に提出すること。
 六 法律の規定に基づき、政令を制定すること。ただし、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない。
 七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

 「予算を作成して国会に提出すること」が「予算案及び法律案を作成して国会に提出すること」になっている。「法律案」を追加しただけに見えるかもしれない。しかし、「予算(案)」を提出できるのが内閣だけであることを考えると、ここからこういう論理が成り立つ。予算案を提出できるのは内閣だけだから、法律案を作成し提出できるのも内閣だけである。つまり、議員が法律案を提出できなくなる。これは、議員活動を抑圧するものである。「不信任案」と同様、内閣が内閣自体の在り方を批判する(行動を制限する)という法案を内閣が提出するはずがない。
 さらに、「この憲法及び法律の規定を実施するために」は「法律の規定に基づき」と「憲法」ということばが削除されている。憲法に反する政令を制定することができる。いつでも「憲法で禁止されていない」を根拠に政令を制定できることになる。憲法で禁止されていなくても法律で規定されているというかもしれないが、こういう論理は、憲法の方が法律よりも上部の条項だから優先するという「言い逃れ」を誘うだけだろう。

(現行憲法)
第74条
 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
第75条
 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。
(改正草案)
第74条(法律及び政令への署名)
 法律及び政令には、全て主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
第75条(国務大臣の不訴追特権)
 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、公訴を提起されない。ただし、国務大臣でなくなった後に、公訴を提起することを妨げない。

 第75条の変更は奇妙だ。「但し、これがため、訴追の権利は、害されない」というのは、「内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない」けれど、国民は大臣を「訴追する権利」を持っている。実際に訴追されるかどうかはわからないが、それは訴追を禁じているわけではない。しかし、改憲草案では、この国民の権利を「国務大臣でなくなった後」に限定している。
 つまり。
 甘利はいまは大臣ではないが、もし大臣ならば、国民は甘利の訴追を求めることができないということになる。そしてそうであるならば、甘利を大臣にしておくかぎり、甘利は訴追されないことになる。
 どこまでも総理大臣と大臣のための改正なのである。つまり国民のことはいっさい考えない、「独裁」のための改正草案なのだ。

 

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自民党憲法改正草案再読(30)

2021-10-27 10:18:51 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(30)

(現行憲法)
第69条
 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第69条(内閣の不信任と総辞職)
 内閣は、衆議院が不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 「衆議院で」か「衆議院が」か。「衆議院で」の場合は、「衆議院で議員が」ということになる。「衆議院が」の場合、現行憲法で省略されている「議員」ということばが見えにくくなる。「衆議院」が意志を持っているかのように表現されている。しかし、議会は国民の信託を受けたひとりひとりの議員から構成されている。
 このことは、忘れてはならない。
 というのも、この第69条は「議院内閣制」を定義しているからである。「議院」は「議員」によって構成されているからである。
 そして、それは「解散」の問題につながるからである。
 この条文で重要なのは「十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」である。解散すると総選挙がある。議員構成そのものから、選び直すことになる。「不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決する」というのは、議員にとっても重要な問題なのである。単に内閣を批判するだけではなく、自分自身の判断に責任を持つということなのである。そして、ここには内閣が勝手に「国会を解散できる」とはひとことも書いていない。「解散しない」なら「総辞職しなければならない」と書いてある。つまり、そこに居すわっていてはいけない、ということである。内閣不信任の場合、国会を解散し、内閣の判断が正しいか議院(議員院)の判断が正しいか国民の判断にゆだねるか、総辞職をしなければならない、「居すわっていはいけない」と「禁止事項」を申し渡しているのである。
 少し離れることになるのか、より詳しく説明することになるのかわからないが。「又は」ということばのつかい方について、もう一度書いておく。
 この条項を見ればわかるように、「又は」(又)いうことばは、ある定義を反対の方向から見て言いなおすことで「定義漏れ」を防ぐときにつかわれている。「不信任の決議案を可決」はあくまで「不信任の可決」、その逆の場合が「信任の決議案を否決」である。どちらの案が出てくるかわからないが、どちらの場合でも、ということである。
 だからもし、内閣が国会を解散したいと思うなら、野党の不信任案提出→可決という経過を待つのではなく、内閣が信任案を提出し議会がそれを否決するという方法をとらないといけない。信任案提出→可決→解散という例を私は記憶していないが、たしか、大平内閣のとき、不信任案決議に自民党内から造反者が出て不信任案が可決→解散ということになった。解散するかどうかは、一義的に議員が決めるのだ。不信任案の可決は、内閣が正しいか、議員が正しいか、その判断を国民に問え、ということでもある。
 国民の代表である議員が何も言っていない(内閣不信任を可決していない)のに、国会を解散するのは、極端にいえば無実の人間をつかまえて有罪というのに等しい。そのひとは何もしていないのに、自分の主張を通すために、他人を排除する、野党の議席を減らすために選挙をする、ということである。異論の排除は民主主義そのものの否定である。

(現行憲法)
第70条
 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第70条(内閣総理大臣が欠けたとき等の内閣の総辞職等)
1 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
2 内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う。

 「内閣総理大臣が欠けたとき」が具体的に何を指しているのか。第69条と関連づけて読む限り(法律は、たいてい前に書かれた条項を補足する形で展開する)、内閣が不信任されたとき、である。「急死/事故死」で欠けたということを想定してのことではないだろう。
 ここで、「又は」ということばのつかい方を再点検したい。「又は」は前項を逆の方向から言い直し、補足したもの。逆の方向から定義し直し、「漏れ」をふせぐためにつかう。
 「内閣総理大臣が欠ける」とはどういうことか。総選挙が行なわれれば、当然、議員構成もかわる。そのとき、前の国会で選ばれた内閣総理大臣は、無効になる。新しい議員が選んだものではないから、それは選び直さなければならない。「衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない」は新しい議会では新しい内閣総理大臣を選び、その総理大臣の元に新しい内閣を組織しなければならないということを、逆の方向から言いなおしたのである。
 ここから第70条を読み直せば、内閣(総理大臣)が、勝手に国会を解散する(いわゆる第7条解散)が「違憲」であることは明らかだ。
 もう一度書くが、もし総理大臣が国会を解散したいと思うなら、信任案をみずから提出すするか自民党(与党)に提出させ、それを否決する必要がある。そのために第69条で「不信任案」「信任案」の二通りのことを書いている。
 改正草案で「新設」されている第2項は、やはり「内閣総理大臣が欠けたとき」の定義がわからない。「急死/事故死」を指しているのか。大平が選挙中に急死したときは、どうしたのだろうか。私には記憶がない。
 病気療養のときや外国での会議に出席するときは「欠ける」とは言わないだろう。いまだって「副総理」という職がある。それを思うと、この新設条項は、もっと他のことを企んでいる、と思って読んだ方がいいだろう。
 というのも。
 不信任→国会解散、という場合、それでは内閣総理大臣(という職)はどうなるのか、という疑問が生じる。そして、それを解消するために、次の第71条がある。

(現行憲法)
第71条
 前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。
(改正草案)
第71条(総辞職後の内閣)
 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う。

 「前二条」とは第69条、第70条のことである。内閣不信任→国会解散(議院内閣制だから、当然のこととして内閣総理大臣も議席を失っている。つまり、基本的には総理大臣である資格に欠ける)の場合、内閣総理大臣が「不在」になってしまう。憲法に書かれていることばに従えば「内閣総理大臣が欠けた」状態である。
 その場合は、「内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う」。本来なら資格がないのだけれど、条件付きで「内閣」としての仕事をまかせるというのである。
 これから見ても、改憲草案の「新設条項」は、何かしら他のことを企んで新設されたものということになる。
 もしかすると、自民党の内部抗争で、与党の判断だけで「総理大臣を欠けた」状態にすることができるということかもしれない。いまの岸田内閣でいえば、岸田を「お飾り総理大臣」にしておいて、他の誰かが実権を握るというようなことに「お墨付き」を与えるためのものかもしれない。

 それにしても。
 いま、総選挙の最中であるが、なぜ野党は、岸田による「解散」をそのまま認めたのか。衆議院議員の任期がきれることは予めわかっている。それなのに衆議院選挙の日程よりも自民党の総裁選の日程を優先させる(自民党の大宣伝を許す)というようなことをしたのか。自民党の総裁選は任期満了にともなう衆院選のあとにしろ、と主張すべきだっただろう。
 多くのジャーナリズムも、そして憲法学者も、なぜ、そのことに異議を唱えなかったのか。不思議でならない。
 2016年の参院選のとき、私は、私だけが日本の誰かが書いた「脚本(自民党が圧勝する/憲法改正、戦争へ向けての準備をする)」を知らずに生きている、けれども他のひとはその「脚本」を知っていて、その「脚本」を見据えて、これからどう行動するか考えている。つまり、安倍のご機嫌とりをして、どうやって安倍に気に入られようかを考えているように見えた。「脚本」がそうだとしたら、その「脚本」をどう変更できるか、というようなことはまったく考えない。ひたすら、安倍に気に入られることだけを考えて行動している。そう見えて、ほんとうにぞっとした。私が憲法についてほんとうに考え出したのは、そのときからである。あのときの恐怖感は、まだつづいている。私は日本がどうなるか知らない。けれど、多くのひとは自民党にすがって生きていくしかない、とあきらめている。生きていくには、自民党のご機嫌とりをして、奴隷として生きていくしかないと思っている。しかも、一番下の奴隷はいや、少しでも上の奴隷がいい、と思って「下」になる人間を探そうとしている。立憲民主の枝野にしてもそうである。自民党があるから、対抗勢力として存在が許されている。対抗勢力としての議席を守ろうとしているだけである。民主主義がどうなってもかまわない。自分が当選すれば、金が稼げるとおもっているとしか思えない。

 

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自民党憲法改正草案再読(29)

2021-10-25 10:08:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(29)

(現行憲法)
第67条
1 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
2 衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
(改正草案)
第67条(内閣総理大臣の指名及び衆議院の優越)
1 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会が指名する。
2 国会は、他の全ての案件に先立って、内閣総理大臣の指名を行わなければならない。
3 衆議院と参議院とが異なった指名をした場合において、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が指名をしないときは、衆議院の指名を国会の指名とする。

 改正草案のポイントは条文から「議決」ということばを削除したところにある。国会が指名する、衆議院の指名が優先するという部分は同じだが「議決」が完全に削除されている。「議決」を経ない「指名」があり得ることになる。
 現行憲法でも、一か所「議決」ということばがない。第1項の後段。「この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ」。しかし、同一項目のなかに書かれているので、これはことばの経済学にしたがった「省略」であり、言いなおせば「この指名『議決』は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ」ということになる。現行憲法のこの後段には「議決」が省略されているという意識があるからこそ、その省略されている「議決」を削除するために、改憲草案は、第2項として別仕立てにし「議決」を削除している。
 第66条の改正処理はずさんだったが、第67条は非常に丁寧に気を配っている。
 ということは。
 つまり、これだけ丁寧に「気配り」をして条文を改正しようとしているということは、この条文を根拠に「議決せずに内閣総理大臣を指名する」を強行しようとしているということになるだろう。
 国会は、いつで「議決」するところである。「議決」の前には審議をするところである。いまも審議ない→議決ということが頻繁に先取り実施されているが、これは改憲草案の「先取り」でもある。最初に「議決」しなければならない内閣総理大臣指名さえ「議決なし」で行なわれるのなら、他の法案はもちろん「議決なし」になるのである。

(現行憲法)
第68条
1 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
2 内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
(改正草案)
第68条(国務大臣の任免)
1 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。この場合においては、その過半数は、国会議員の中から任命しなければならない。
2 内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。

 改憲草案では「但し、」が削除され、「この場合においては、」に書き換えられている。「但し、」は「条件付き」であることを明確にするためだろう。「条件付き」の印象を薄めるために「この場合においては、」にしたのだろう。「ただし」ということばは、改憲草案にないかといえばそうではなく、先日読んだ第63条第2項では「内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」という具合つかわれていた。この「ただし、」は現行憲法の「又、」を言いなおしたものである。現行憲法の「又、」は逆の立場からの補足であり、拘束力を強める効果を持っている。しかし改憲草案の「ただし」は「この限りでない」ということばが象徴的だが、意味を「弱める」ためにつかわれる。
 「又、」と「ただし、」を比べると、拘束力が違うのだ。
 その「拘束力」が弱い条件であるにもかかわらず、それをさらに弱めようとしているのが改憲草案なのだといえる。「その場合においては、」の「おいて」の追加は改憲草案では先にも出てきたが、さらに「拘束力」を弱めるための表現なのだろう。
 憲法に規定してある。しかし、その規定にはなるべく拘束されないようにする。憲法は国家権力を拘束するためのものだが、その拘束力を弱める、国家権力が「独裁」を進めることができるようにする、という目的で改正案がつくられているという「証拠」だろう。 「選ぶ」と「任命する」は、どう違うか。これはむずかしいが、現行憲法が「任命する」のあとに、「但し、」という条件をつけるときにことばの重複を避けたのだろう。そして、ここから逆に見ていけば、現行憲法の「但し、」は「又、」とは違った条件付与であることがわかる。「又、」は反対の側面から拘束力を強めるための条件、「但し、」には反対側から拘束力を強化するのではなく、同じ側から「漏れ」を防ぐという形の条件であることがわかる。
 この「漏れ防止」の条件づけを、改憲草案は「場合においては、」とさらに間延びした形で展開する。「おいて」というのは意識を散漫にさせる「間延び」の効果を高めるためのものである、といえるだろう。注意力を散漫にさせる(漠然と読ませる)というのは、何度も指摘している「これは」の省略に通じる。テーマを意識させない。憲法を意識させない、という工夫に満ちた改正なのだ。憲法は、国家権力が国民を拘束をするためのもの、異議を唱えられては困る、読まれては困る、思いのままに国民から自由を奪うためには「あいまい」であることを優先し、国家権力が「解釈」で運用できるようにする、という狙いが込められている。

 

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自民党憲法改正草案再読(29)

2021-10-24 11:31:10 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(29)

(現行憲法)
第五章 内閣
第65条
 行政権は、内閣に属する。
(改正草案)
第五章 内閣
第65条(内閣と行政権)
 行政権は、この憲法に特別の定めのある場合を除き、内閣に属する。

 私は法律の専門家ではないし、憲法についても特に「研究」したことはないが、改正案のこの条文は読んだ瞬間に違和感を覚える。「特別の定めのある場合を除き」ということばの位置に疑問を感じる。
 たとえば、「国会」に関する第63条の第2項。改正草案でさえ、こういう書き方をしている。

2 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。

 「ただし、」という形で補足している。それにならえば、

 行政権は、内閣に属する。ただし、この憲法に特別の定めのある場合を除く。

 というのが、ふつうの「法」の書き方だろう。最初の規定を、次の文章で補足する。しかし、改正草案は「補足」ではなく、最初から「条件」として組み込んでいる。これは別な言い方をすれば、最初から「特定の場合」を想定している、万が一こういうことが起きたらではなく、いつでも万が一のことが起きている、すべてのことを万が一にしてしまうということである。
 つまり。
 改正草案は「緊急事態条項」が「売り物」だが、「緊急事態」を万が一の出来事にあてはめるのではなく、いつでも何に対してでも、万が一をあてはめ「緊急事態」にしてしまうということである。
 そして、「行政権」をはじめとする「権力」を「内閣」という組織ではなく「内閣総理大臣」個人に属するものにしようとしているのである。
 北朝鮮がミサイル実験をする。これは緊急事態である。行政権を内閣総理大臣に与えてしまう。内閣総理大臣個人の意志でどうするかを決定してしまうということである。
 内閣と内閣総理大臣が違うものであることは、行政権を定義したあと、憲法が内閣の定義にうつっていくことからもわかる。

(現行憲法)
第66条
1 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
(改正草案)
第66条(内閣の構成及び国会に対する責任)
1 内閣は、法律の定めるところにより、その首長である内閣総理大臣及びその他の国務大臣で構成する。
2 内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。

 この第66条は、あくまで「内閣」の定義であり、「内閣総理大臣」の定義は、さらに次の条項まで待たなければならない。こういう「法」の定義構成から見ても、第65条の「この憲法に特別の定めのある場合を除き」という「条件」の「挿入」の異様さがわかる。
 それとは別に。
 ここでは、おそろしい「改正」がおこなわれている。
 現行憲法では「文民でなければならない」と規定されているものが、改正草案では「現役の軍人であってはならない」と変更されている。「現役の」ということわりは、逆に言えば「元軍人」なら内閣総理大臣にもその他の大臣にもなれる、ということである。
 さらに「現役の軍人であってはならない」というのは「現役の軍人」が総理大臣や大臣になることを禁じているが、内閣総理大臣や大臣が「現役の軍人」になることを禁止していると言えるのかどうか。きっと「禁止していない」。
 あとで出てくるが、内閣総理大臣が「最高指揮官として、国防軍を統括する」とき、内閣総理大臣は「軍人」ではないのか。軍人じゃないのに、軍を指揮する、統括する、というのは、私には理解できない。

 この改正案で、私が疑問に思うのは、第3項。
 現行憲法の場合、私はこれを「不信任可決」と結びつけて理解していた。国会で不信任が可決されたとき、信任が否決されたとき、内閣は国会を解散できる。国会に対して「連帯責任」があるから、国会が信任しないなら、内閣と国会とどちらの言うことを正しいと判断するか、それを国民に問う。それが衆議院の解散、総選挙。つまり、この条項があるかぎり、私は内閣(総理大臣)が自分の都合で解散を宣言するというのは憲法違反になると思う。今回の解散でも、「憲法第七条にもとづき」云々といっていたが、第7条は「天皇」の権能について規定したもの。内閣に解散の権限をあたえている、という解釈はどうしたっておかしい。
 なぜ、改正案は削除しなかったのか。きっと、現行憲法の規定を理解できていないのだ。だから、見落としたのだ。
 ほかのことに夢中になっていたからだ。
 というようなことを、いまさらのように書いているのは、「第7条にもとづく解散」というようなことを許せば、たとえば「この憲法に特別の定めのある場合を除き」や「現役の軍人であってはならない」という規定は、もっとテキトウに解釈されてしまうことが予想されるからである。狙いがほかにあって、そのことに夢中なために「改正し忘れた」ということだと思う。
 この改正草案を書いたひとは、非常に狡賢いが、狡賢すぎて(策におぼれすぎて?)、ときどきミスをしているのではないか、と思う。改正草案の「味方」をするわけではないが、こんなポカをやる人間が改正草案を書いたという「証拠」として上げておく。ポカをする人間に憲法改正のような重大な仕事を任せてはいけない、という意味で。
 あるいは、この「連帯責任」は、失敗したら責任を国会になすりつける、「悪いのはぼくちゃんじゃない、国会が悪いんだ」というための、「いいわけ」の先取りかもしれない。「ぼくちゃん悪くない」というためのものだとするならば、何度か書いてきたが、自民党は改憲草案を「先取り実施」しつづけていることになる。
 ポカというより、こう読んだ方が「実態」に近いのかもしれない。

 

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自民党憲法改正草案再読(28)

2021-10-22 10:23:39 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第60条
1 予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
2予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
(改正草案)
第60条(予算案の議決等に関する衆議院の優越)
1 予算案は、先に衆議院に提出しなければならない。
2 予算案について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合において、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

 国会に提出するのは「予算」か「予算案」か。厳密には「案」であり、改憲草案は、その点を修正したということかもしれない。第59条では「法律案」ということばをつかっているように、国会で審議するのはあくまでも「案」であるということ。しかし、予算(案)を提出できるのが内閣だけであること(野党は提案できない)ということを考えると、他の法律と同一視することはできない。「予算」ではなく「予算案」にすることで、自民党は、予算(案)を誰もが提出できるものであるかのように装っているともいえる。ここから「代案を出せ」という「論理」が生まれてくる。予算に関して言えば、野党は「代案」を提出することができない。提出された予算について、注文をつける、修正を求めることしかできない。この点を考えると、国会に提出された段階では、まだ「予算」ではなく「予算案」である、という論理はそのまま受け入れることはできない。「案」を審議した、そして可決したと、強引に予算を成立させてしまうことを私たちは何度も見てきている。「案」なのに十分に審議されない。これは「予算」には期限があるということも関係しているかもしれない。「法律案」なら、そのときの国会での成立を見送り、次の国会へと審議を継続させることができる。けれど「予算」は、そういうことができない。
 「予算案」と呼ぶか「予算」と呼ぶかは、「法律案」と同じようには見ることができない。こういう、ほんとうに細かなところが、私にはなぜか大事に思える。わざわざことばを変更したのはなぜなのか。そのことを考えないといけない。強行採決に「お墨付き」を与えるために「案」を挿入したとも言える。
 第60条では、「場合に」を「場合において」と「おいて」を追加している。「おいて」は強調なのか、それとも拘束力を弱めるために追加したものなのか、これも他の条文で「おいて」がどうつかわれているかを比較検討してみないとわからない。私は「全体」を見渡し、俯瞰的に改正草案を読んでいるのではなく、最初から、少しずつ、「結論」を念頭におかずに書き始めているので、こういう問題にぶつかると悩んでしまうのだが、保留したまま書き続ける。(法律家ではないので、わからないことは「保留」にしておく。)

(現行憲法)
第61条
 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。
第62条
 両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
第63条
 内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
(改正草案)
第61条(条約の承認に関する衆議院の優越)
 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。
第62条(議院の国政調査権)
 両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
第63条(内閣総理大臣等の議院出席の権利及び義務)
1 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、議案について発言するため両議院に出席することができる。
2 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。

 第61条、第62条は「かなづかい」の変更。
 しかし、第63条は大きく変更されている。二点ある。
 「国務大臣」は国会議員でなくてもなることができる。だから現行憲法は「両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず」と明記している。そうしておかないと、後段の「出席しなければならない」について拒否される可能性があるからだ。「民間登用された大臣」は「私は国会議員ではないので、国会で答弁する必要ない」と拒否できる可能性がある。あるいは「国会議員ではないので国会で答弁させることはできない」と内閣側が言い張り、答弁させないということさえ起こりうる。
 改正案の狙いは、いかに内閣総理大臣や他の他の大臣が国会答弁を拒否できるようにするかというところにある。
 「答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない」と現行憲法が定めているのに対し、改正草案は「職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」と「拒否できる」と変更している。「職務の遂行上特に必要がある場合」というのは、基準があいまいである。該当大臣が「必要」と判断すれば、個人の判断で拒否できることになる。「民間大臣」の場合は、「かけもち」の仕事を理由に拒否できるということさえ起きてしまうだろう。これは実質的には、総理大臣や他の大臣は、自分が答えたいときだけ答弁、説明すればいい、いやなら答弁、説明をしなくてもいい、ということになってしまう。
 この問題を考えるとき、現行憲法の「又、」のつかい方と、改正草案の「ただし」のつかい方にも注目すべきだと思う。
 先日も書いたが、現行憲法の「又、」は、補足条件として、反対側の視点から言いなおすときにつかわれる。「内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる」は総理大臣、他の大臣の「権利」である。いつでも国会に出て、発言できるのである。これでは内閣の一方的な「主張の押しつけ」になりかねない。だからこそ、逆の規定もしておくのである。場合によっては、説明してしまうと「まずい」ことがあるかもしれない。菅の学術会議会員の任命拒否の問題などである。菅はNHKで「説明できることとできないことがある」というような開き直りをしているが、その開き直りを許してはいけない。だから、「権利」と同時に「義務」を明記する。それが「答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない」であり、その二つの条件を結びつけるときに「又、」をつかうのである。繰り返しになるが、これは第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」の「又、」と同じつかい方である。
 「又、」がそういうつかい方をしているということを意識しているからこそ、改憲草案は「又、」ではなく「ただし、」と例外規定を追加するのである。

(現行憲法)
第64条
1 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(改正草案)
第64条(弾劾裁判所)
1 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律で定める。
3 前二項に定めるもののほか、政党に関する事項は、法律で定める。

 「これは」の削除によるテーマ隠しが、ここでもおこなわれている。
 改正草案は、この「弾劾裁判」につづけて、新設条項をもうけている。

(改正草案)
第64条の2(政党)
1 国は、政党が議会制民主主義に不可欠の存在であることに鑑み、その活動の公正の確保及びその健全な発展に努めなければならない。
2 政党の政治活動の自由は、保障する。
3 前二項に定めるもののほか、政党に関する事項は、法律で定める。

 読んでわかるように、これは「弾劾裁判」とは何の関係もないように見える。しかし、改正草案は、「政党」という項目を立てているにもかかわらず、同じ第64条にしている。この意図は何だろうか。
 第64条の2(政党)は「政党」の保護を目指している。政党の活動の自由を明記している。しかし、一方で「政党に関する事項は、法律で定める」としている。「政党ではない」と判断すれば、その活動の自由は保障されないということが起きる。たとえば「共産党は政党ではない」と法律で規定すれば「共産党」は政党としての活動をできなくなる。
 さらに、この政党の保護は、政党に属さない個人の活動の自由を阻害することになるかもしれない。「無所属」であると、政治活動ができない。国会議員として活動できない、活動の自由は保障されないということが起きるかもしれない。
 これをさらに拡大解釈していくと、たとえば自民党議員であっても個人的な立場で法律に賛成できない、反対票を投じたとする。そのとき自民党はその議員を追放し、「無所属」にしてしまうということが起きかねない。これは逆に言えば、いわゆる「党議拘束」による議員支配ができるということである。「弾劾裁判」が裁判官の権利を剥奪することができるように、国会議員の権利を剥奪することが「党議」によってできるようにする、ということが目的だろう。
 結果的に、自民党以外の党は許さない、という独裁の宣言である。
 これは、いつも問題になる「緊急事態条項」に匹敵する大問題である。「政党」の要件を、衆議院選挙で30%以上の得票を得た政治組織と法律で定めてしまえば、いまの日本では自民党以外に正当は存在できなくなる。ほかの政治団体は「政党」ではないから、その活動の自由は保障されない、ということが起こりうる。もちろん、個人の政治活動は、国会議員個人としては不可能になる。政党に属していないのだから、その活動の自由は保障しなくてもいい(憲法で認められていない)とさえ主張できることになる。
 「保護」をうたった「新設条項」ほど、うさんくさいものはない。 「保護しない」を生み出す可能性がある。それに注目しないといけない。

 

 

 

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自民党憲法改正草案再読(27)

2021-10-21 10:32:33 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第56条
1 両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
2 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
(改正草案)
第56条(表決及び定足数)
1 両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数で決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
2 両議院の議決は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければすることができない。

 第1項と第2項を入れ換えただけのようにも見えるが、かなり違う。現行憲法は、「議事を開き議決する」ということを切り離せない形で書いている。しかし、改憲草案は、これを強固に関連づけていない。議事開催の条件に「三分の一以上の出席」が書かれていない。削除されている。議事そのものは「三分の一以上の出席」がなくても開くことができる。議決は「三分の一以上の出席」を必要とすると定めているだけである。
 自民党の少数の議員だけで議会を開き、討論し、採決のときだけ野党にも出席を求める。「三分の一以上の出席」だから、「三分の一以上の出席」を獲得していれば、自民党はいつでも独断で法律をつくることができることになる。
 これは、「閣議決定=国会の議決」ということである。国会での議論がなくなるということである。議論はしないけれど、「議決」だけやり、議論をしたかのように装う。
 いまおこなわれている「形式的議論」は改憲草案の先取りである。
 質問しても、質問に答えない。最初から議論をする(法案をよりよいものにする)という姿勢がないのだ。

(現行憲法)
第57条
1 両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。
2 両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。
3 出席議員の五分の一以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない。
(改正草案)
第57条(会議及び会議録の公開等)
1 両議院の会議は、公開しなければならない。ただし、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。
2 両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるものを除き、これを公表し、かつ、一般に頒布しなければならない。
3 出席議員の五分の一以上の要求があるときは、各議員の表決を会議録に記載しなければならない。

 第57条のテーマはみっつある。会議の公開、議事録の公開、表決の記載(表決の公開)。「各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない」という現行憲法の「これを」を削除して、改憲草案は「各議員の表決を会議録に記載しなければならない」としている。「これを(これは)」という現行憲法の表現のスタイルは、何度も書くが、テーマを明確にすることにある。改憲草案は「テーマ」を見えにくくしている。テーマ隠しをしている。誰が賛成したか、誰が反対したかは、あとで大きな問題になることがある。そういう問題があるということ、予想されるということを改憲草案は隠している。

(現行憲法)
第58条
1 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
(改正草案)
第58条(役員の選任並びに議院規則及び懲罰)
1 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、並びに院内の秩序を乱した議員を懲罰することができる。ただし、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。

 大きな違いは、第2項で「又、」を「並びに」と書き換えている。「又、」と「並びに」はどう違うのか。わからない。改憲草案のなかで「並びに」を探し出して点検する必要がある。
 現行憲法の「又、」は
第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第18条
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
 という具合につかわれている。補足条件として、反対側の視点から言いなおしている。国民の自由の権利は国民が保持しなければならない。しかし、濫用してはいけない。国民は奴隷的拘束を受けない。しかし、犯罪を置かした場合は別である。
 この「文体」に従うと、現行憲法は、「会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め」ることができる。しかし、その規律には例外がある。どんな内部規律でもきめることができるわけではない。「院内の秩序をみだした議員」に関する規律である。不問にしてはいけない。だから、「院内の秩序をみだした議員」に対しては、「懲罰することができる」ようにしておく、というのである。議員特権に対して、「枠」をはめている。
 この「又、」を「並びに」にかえるとどうなるのか。改憲草案のなかで「例文」を集めてみないとわからない。私は、すぐにはどこに「並びに」がつかわれているのか、いまは思い出すことができない。時間がなくて、調べることもできない。
 ことば(表現)を変えるからには、かならずこそに何らかの意図があると思って読まないといけない。

(現行憲法)
第59条
1 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
3 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
4 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。
(改正草案)
第59条(法律案の議決及び衆議院の優越)
1 法律案は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
3 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
4 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

 第59条の一番大きな変更は、第3項である。「衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない」の読点「、」を削除し、改憲草案は「衆議院が両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない」にしている。現行憲法が「衆議院が、」と主語を明確にするために「、」で一端、切っている。改憲法案は主語の意識があらわれにくいようにしている。「これは」の削除と同じである。
 第4項では、改憲草案は、現行憲法を踏襲して「、」を省略していない。これは、第4項のテーマが参議院にかわっており、衆議院という主語を強調するためには「衆議院は、」とする必要があったということである。つまり、裏を返せば、改憲草案は「、」や「ことを」という表記(ことば)の存在は主語やテーマを明確にする(意識化する)ときには必要だと理解していることになる。理解しているから、必要に応じてテーマや主語をあいまいにする(意識化させないようにする)ために、「、」や「これを」を省略しているということである。
 これは小さな問題に見えるが、その小さなものが積み重なって大きな問題になる。改憲草案を読むときは、そこに注意しないといけない。

 

 

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岸田の首相所信表明演説の嘘

2021-10-09 10:32:31 |  自民党改憲草案再読

 「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」ということわざを引用している。読売新聞(web 版)は「アフリカのことわざ引用した首相…「安倍・菅路線」との違い、所信表明で強調」と好意的に書いている。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211009-OYT1T50043/ 

 さて。
 それはどんな文脈で語られているか。
↓↓↓↓
新型コロナという目に見えない敵に対し、我々は、国民全員の団結力によって一歩一歩前進してきました。
 改めて、この日本という国が、先祖代々、営々と受け継いできた、人と人のつながりが生み出す、やさしさ、ぬくもりがもたらす社会の底力を強く感じます。正に、「この国のかたち」の原点です。
 この「国のかたち」を次の世代に引き継いでいくためにも、私たちは、経済的格差、地域的格差などがもたらす分断を乗り越え、コロナとの闘いの先に、新しい時代を切り拓いていかなければなりません。そのために、みんなで前に進んでいくためのワンチームを創りあげます。
 「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」
 一人であれば、目的地に早く着くことができるかもしれません。しかし、仲間とならもっと遠く、はるか遠くまで行くことができます。私は、日本人の底力を信じています。
↑↑↑↑
 日本人の団結力(みんなで進む)がコロナを解決に向かわせた。それが日本社会の「底力」であり、日本の「原点」だという。
 だったら、そういうことわざが日本にあるはずだろうなあ。なぜ、アフリカのことわざを引用した?
 こういうなんというか、「自分の都合」のために他人のことば(外国のことば)を利用するというのは、どうなんだろう。

 もし「みんな」がアフリカを含めた「世界」のことを問題にしているのなら。
 私は、違う問題を語るときに「アフリカのことわざ」(世界のどこかで発せられた、世界の智慧)を利用すべきだろう。
 それはどの部分か。
↓↓↓↓
 地球規模の課題に向き合い、人類に貢献し、国際社会を主導する覚悟です。
 核軍縮・不拡散、気候変動などの課題解決に向け、我が国の存在感を高めていきます。
 被爆地広島出身の総理大臣として、私が目指すのは、「核兵器のない世界」です。私が立ち上げた賢人会議も活用し、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、唯一の戦争被爆国としての責務を果たします。
 これまで世界の偉大なリーダーたちが幾度となく挑戦してきた核廃絶という名の松明(たいまつ)を、私も、この手にしっかりと引き継ぎ、「核兵器のない世界」に向け、全力を尽くします。
↑↑↑↑
 「核兵器禁止条約」を日本が批准するよう、そのことにこそ全力を尽くすべきだろう。
 広島市のホームページによれば、条約は「平成29年(2017年)9 月20日から各国による署名が開始され、令和2 年(2020年)10月24日に、批准した国が発効要件である50か国に達しました。条約は、批准から90日後となる令和3 年(2021年)1 月22日に発効を迎えました」とある。
 日本は批准していない。アメリカに追随して、拒否している。なぜなんだろう。早く、みんなと一緒に進もうとしないのか。なぜアメリカを説得しないのか。日本こそ、この分野でリーダーになって「みんなで進もう」と呼びかけるべきなのではないのか。

 結局、岸田は何も考えていない、ということだ。広島出身で、広島の願いは知っているはずだ。でも、その広島のことを考えるとき「みんなで進む」を放棄している。これは、どうしたって、おかしい。
 この「おかしさ」は菅の「集団就職」だか「苦学」だか知らないが、それを「前面」に打ち出した姿勢に通じる。「苦学」するのは「学問の重要性」を知っているからだろう。それなのに平気で「学術会議」では新会員の任命を拒否している。新会員のやっていることが「学問の否定」につながるというのならわかるか、そうではない。さらに「苦学」の原因をつくっている「格差是正」をほったらかしにしている。「自助共助公助」ということばをつかって、学校で勉強したいけれどできないという人の問題を「自助が足りない」と切り捨てている。

 岸田は、だいたいが、ことばを自覚できない人間なのだろう。「口が軽い」。それが、この所信表明演説にもあらわれている。「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」という、日常的に聞かない「他人のことば」を平気で引用するところからもわかる。「聞く力」をアピールし、「国民の声」を書き留めたノートがあるそうだが、どうにもあやしい。「一人暮らしで、もしコロナになったらと思うと不安で仕方ない」「テレワークでお客が激減し、経営するクリーニング屋の事業継続が厳しい」「
里帰りができず、一人で出産。誰とも会うことが出来ず、孤独で、不安」。もっともらしいが、こんなことを直接岸田に言える人は誰だろう。「アフリカのことわざ」のように、どこかからかテキトウに引用したものではないのか。
 何も考えず、「他人のことば」をそのまま引用し、大失敗したことが岸田にあるはずだ。新聞(読売新聞)は明確には書いていなかったが、共同声明さえ出せなかった日露首脳会談の内幕をラブロフに暴露されていたではないか。交渉の過程で「日本が経済援助しているんだから、北方領土の二島を返して」と言ったのだろう。それは安倍かだれかが「日本が金を援助するのだから、ロシアは北方領土を返すだろう。それが常識だろう」というようなことを言って、それをそのままラブロフとの交渉で言ってしまったということだ。だからラブロフが怒って「ロシアは日本に経済援助(支援)を持ちかけたわけではない。日本が支援すると言ってきたのだ。(だから見返りとして北方領土を返還する必要などない)」と言い切られてしまった。で、その結果を引き継いでの、安倍の故郷での日露階段は大失敗、さらに日露会談(北方領土の二島返還)成功をひっさげての年末の衆院解散→総選挙で圧勝という計画もつぶれてしまった。私はこのとき新聞社に勤めていたので、新聞社が総選挙の準備にあたふたしているのを知っている。私は、ラブロフの内幕暴露の記事を読んで「総選挙なんて、絶対ない」と言っていたのだが、この予測は誰にも信じてもらえなかった。私は自民党支持者ではないが、あのとき「岸田の政治生命は終わった。こんな口の軽い人間が政治をリードできるはずがない」と確信した。
 この「口の軽さ」というか、自分で世界を把握するのではなく、「他人のことば」に乗っかるというのは、甘利を自民党幹事長にし、麻生を副総理にするという「人事」にも端的にあらわれている。岸田が考えた人事ではなく「周辺」が考えた人事をそのまま「聞き入れている」ということだ。岸田にあるのは「聞く力」ではなく「聞いて、鵜呑みにする力」である。それを言ったらどうなるか、を考える力がない。演説で披露した「国民のことば」を読んでみればいい。その「声」を聞いたとき、私はこう言った、とはどこにも書いていない。岸田にそういう訴えをできるひとが、いったいこの国に何人いるかを考えてみればいい。「口が軽い」から、こういうデタラメを言えるのだ。もし、岸田が、ほんとうに国会で披露したような声を聞いてノートに書きためているというのなら、みんなで岸田に電話をかけてみよう。岸田に会いに行ってみよう。「みんなで進め」と岸田が言ってくれている。まさか「みんなでこられたら困る」と追い返したりはしないだろう。

 私が思うに、岸田がほんとうに「ことばの人」(ことばを大切にする人)なら、ノートに記されているはずの広島の被爆者の声をこそ、国連などの積極的に紹介すべきだろう。それができないなら、そのノートは単なる飾りだ。何かのときに「つかえそうなことば」を集めたアンチョコにすぎない。

 

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自民党憲法改正草案再読(26)

2021-09-27 09:36:46 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(26)

(現行憲法)
第54条
1 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
2 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
3 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。
(改正草案)
第54条(衆議院の解散と衆議院議員の総選挙、特別国会及び参議院の緊急集会)
1 衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
2 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、特別国会が召集されなければならない。
3 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
4 前項ただし書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失う。

 第54条に改正案は「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」を追加している。これは緊急事態条項の親切に匹敵する重大な問題である。
 憲法第52条には、「国会の常会は、毎年一回これを召集する」と規定している。「首相が召集する」とは書いていない。内閣に権限があるのは「臨時国会を召集する」ときだけである。第7条第2項には天皇は「国会を召集する」と書いてある。これも「名目」であって、実際に天皇が独断で国会を「召集」できるわけではない。この「召集」は別のことばで言えば、国会議員を集めることである。「国会」をあつめるわけではない。同様に「解散」というのも国会議員を国会から追い出す(議員資格を剥奪する)ということであって、「国会の会場(建物)」を解体してなくしてしまうわけではない。「機関」をなくしてしまうわけではない。「召集」は誰かが決めることではなく、憲法で決まっているのだ。憲法は国民のものである。言いなおせば、国民が「国会は開かなければならない」と決めているのだ。だから、開かれるのだ。首相(権力者)は、それを拒絶できない。
 こういうことを考えるとき、参考になるのは、「書き方」である。どういう順序で第4章(国会)は定義されている。書き進められているか。第51条で「国権の最高機関」と定義した上で、衆議院、参議院の構成(二院制)について触れ、そのあと国会議員の資格、権利について書いている。これは第三章の「国民の権利及び義務」の書き方(定義)と同じである。「国民」を定義した後、国民の「権利」を保障している。第4章も「国会(国会議員)」を定義した後、国会議員の「権利」を保障している。この「保障」の意味は、「権力の実行者(内閣)」は国会議員の権利を侵してはならないという意味である。言いなおすと、内閣は自分の都合で国会議員の議席を剥奪できないということである。国会議員の議席を剥奪することができるは、国会議員を選ぶ国民だけなのである。
 内閣が国会を「解散できる」のは、第69条にあるように「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」だけなのである。議員の言っていることが正しいか、内閣の言っていることが正しいか、国民に判断を求めるときだけ、内閣は国会を解散できる。
 それ以外は、国会議員は、内閣の権限を上回る。だからこそ信任案、不信任案を審議し可決することもできるのである。権限は、国会議員にある。内閣にはない。
 「天皇」の項目でも触れたが、改正草案では「テーマ」のなかに、突然、「主役」ではない「内閣」が割り込んできて、「自己主張」する。「内閣」というこ項目は、天皇、国民、国会のあとに書かれている。その順序を飛び越えて、割り込んでくる。そして内閣にとって都合のいいことを言う。「独裁」の姿勢が、そういうところに明確に出ている。「内閣」のことは「国会(国会議員)」の後で定義する。それまでは「内閣」は主語になってはいけない。「主語」として割り込んでくるのは「独裁」がおこなわれているからである。
 繰り返しになるが、第54条で定義しているのは、国会議員(特に衆院議員)の「権利の保障」である。国会解散は、議席を失うことである。国会議員の「権利」がなくなる。その「権利なし」の期間は短くなければならない。第54条は、選挙は「四十日以内」、国会開会は選挙から「三十日以内」と決めているのは、当選しても国会が開かれなければ国会議員の権利を行使できないからである。そういうことを保障した上で、二院制の問題(参議院)の役割と、衆議院の議決が優先することを定義している。参議院がどんな議決をしようが「衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ」。
 「衆議院議員」を国会の中で最上位に位置づけている。この衆議院議員の「権利」を「内閣総理大臣」が一方的に奪うということは許されてはならない。「首相に解散権がある。根拠は第7条だ」というのは憲法解釈として完全に間違っている。違憲である。自民党は改憲草案を先取り実施しているというのが私の見方だが、国会解散に関しては安倍以前から「首相に解散権がある」を先取りしている。
 内閣(首相)が国会議員の「権利」を剥奪するはできない(「解散権」をふりまわして、議席を剥奪することはできない)ということは、次の第55条を読めば明確である。

(現行憲法)
第55条
 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
(改正草案)
第55条(議員の資格審査)
 両議院は、各々その議員の資格に関し争いがあるときは、これについて審査し、議決する。ただし、議員の議席を失わせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。

 現行憲法も改正草案も「議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする」「議員の議席を失わせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする」と決めている。内閣だけの意志で「議席を失わせる」ことはできない。「解散」は、その瞬間に衆院議員の議席を剥奪す/権利を奪うものである。
 内閣にその権限はない。内閣が信任されなかったときだけ、その対抗手段として国会を解散し、国会議員の議決の「不当性」を問うことができるのである。
 改正草案の第54条は「後出しジャンケン」ならぬ「ジャンケンルール」の一方的な押し付けである。それは簡単に言いなおせば、「あなたに後出しジャンケンの戦利を譲ります。今回のルールはグーなしです。私が先にパーかチョキを出します」というようなものである。

 それにしても、今回の自民党総裁選の報道はむごたらしい。ひたすら自民党の宣伝をしているに等しい。自民党の総裁選は国会を開会しながらでもできる。国会を開かずにいる自民党の責任を追及せず、ひたすら自民党のことだけを報道するというのは、ジャーナリズムとして情けない。
 コロナ対策の「緊急事態宣言」は9月30日に一律に解除されるようだが、解除前に、きちんと国会で審議すべきだろう。決定権が内閣にあるにしろ、状況を国会に報告し、判断の正当性をあおぐ必要があるだろう。
 国会軽視は国民軽視である。「改憲草案」の先取りが着々と進んでいるのに、だれもそれを批判しない。

 

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自民党憲法改正草案再読(25)

2021-09-25 10:09:11 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第46条
 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第47条
 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。(改正草案)
第46条(参議院議員の任期)
 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第47条(選挙に関する事項)
 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律で定める。この場合においては、各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない。

 第46条は変更なし。
 第47条は、「法律」に対して一定の規定を与えている。「一票の格差」問題を配慮しての追加といえる。一票の格差は「人口を基本」としている。改正案は「人口を基本にする」と最初に書いてあるが、「行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」と言う。現行でも「行政区画」は勘案されていると思う。問題は「総合的に」ということばである。「総合的」とか菅が得意とした「俯瞰的」ということばは非常にあいまいである。どこまでを「総合的」と呼ぶか、ここには「定義」がない。「総合的」は「恣意的」と読み直すことが可能だし、実際、恣意的に操作するために「総合的」というあいまいなことばが挿入されたのだ。人口、行政区画、地勢は、そのときそのときで変更ができないが、「総合的」の「総合」はいつでも変更できる。
 こういうあいまいなことばは法律には不向きだし、憲法ではつかってはいけないことばだろう。
 昨年、日本学術会議の会員(議員?)任命拒否問題が起きたとき、菅は「総合的/俯瞰的」ということばをしきりにつかった。具体的に説明できないとき、権力は「総合的/俯瞰的」ということばをつかうのだ。それは「おまえらには、総合的/俯瞰的視野がない」という「独裁」の表明である。具体的に問題点を指摘できないとき(問題点に対処できないとき)、その人間を一般的には「無能」と呼ぶが、菅は自分の「無能」を棚に上げて、説明を拒否するために「総合的/俯瞰的」ということばをつかったのだ。

(現行憲法)
第48条
 何人も、同時に両議院の議員たることはできない。
第49条
 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第50条
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
第51条
 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
第52条
 国会の常会は、毎年一回これを召集する。
(改正草案)
第48条(両議院議員兼職の禁止)
 何人も、同時に両議院の議員となることはできない。
第49条(議員の歳費)
 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第50条(議員の不逮捕特権)
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があるときは、会期中釈放しなければならない。
第51条(議員の免責特権)
 両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
第52条(通常国会)
1 通常国会は、毎年一回召集される。
2 通常国会の会期は、法律で定める。

 第48条から第51条までは、大きな変更はない。
 第52条は「召集する」が「召集される」になっている。能動から、受け身へ、文体が変更されている。これは「国会」が、国会自身で国会を召集するというは日本語として奇妙だからということかもしれないが、逆に考えてみるべきである。
 国会は誰かによって「召集される」ことで開かれるのではなく、かならず開かなければならないものなのである。「召集」は「名目」なのである。天皇の国事行為を定めた第7条「国会を召集する」とあるが、これはあくまでも「名目」であって、天皇はそれを拒むことも、天皇の発案でできるわけでもない。
 「国会の常会は、毎年一回これを召集する」というのは、いわば、憲法が「召集する」のである。つまり、憲法が「国会の常会は、毎年一回これを召集しなければならない」と言っているのだ。内閣総理大臣やその助言を受けた天皇が国会を「召集してはならない」、勝手に通常国会の開会を中止してはいけないという禁止条項なのだ。
 これは逆に言えば、内閣は勝手に国会を解散してはいけないということでもある。解散していいのは、内閣不信任案が可決されたとき、内閣信任案が否決されたときだけなのだ。日本の内閣は議院内閣制である。しかし、内閣にも主張があるだろうから、対立したときは、信を国民に問うことができる、というのが内閣に許されている。対立もしていないのに、勝手に「解散権」をふりまわしてはいけない。
 そういう意味が含まれているのに、それを「召集される」と書き直すと、意味が見えなくなる。それだけではなく、逆に「内閣が召集するのだから、内閣が解散できる」という意味に転用されてしまう。
 これは次の第53条と結びつけて読むといっそう明確になるが、その前に、追加されている第2項について。「通常国会の会期は、法律で定める」とわざわざ追加しているのはなぜだろう。これでは「国会」は「法律」よりも下位に属することにならないか。「国会」よりも「法律」が優先するのはおかしい。
 このことは、第50条を見ればわかる。国会議員は、国会開会中は基本的に逮捕されないし、逮捕されても議院の要求があれば釈放される。釈放しなければならない。国会、国会議員は「法律」に優先するのである。
 第47条にも「法律でこれを定める」と「法律」が出てきたが、それはあくまでも「選挙区」「投票の方法」であって、国会や国会議員ではない。「国会議員」を「法律」で選ぶことはできないのである。
 国会の会期は、国会が自ら決めることであって、「法律」の規定を受けない。改正草案がわざわざ「通常国会の会期は、法律で定める」と追加したのは、「法律の解釈」によって「会期」を変更する意図があるからだろう。
 
(現行憲法)
第53条
 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
(改正草案)
第53条(臨時国会)
 内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない。

 現行憲法で「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」と書いてあるのは、日本の国会が「通年国会」ではないからだ。国会開会中に何か国の安全を脅かすようなことが起きたら、どうしたってそれに対処するための「法律」の整備が必要になる。そのために国会を開かなければならない。「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」は実質的には、「国会を開かなければならない」という義務規定である。内閣に「召集権」を認めている(内閣が勝手に、国会を開いたり開かなかったりしてはいけない」という内閣に対する「禁止事項」なのだ。
 それは、それにつづく「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」という文言で説明されている。議院の要求があれば臨時国会を開かなければならないのだ。そしてその「要求基準」は「いづれかの議院の総議員の四分の一以上」である。過半数でも、三分の二でもない。しかも、衆議院、参議院のどちらかだけでも開かなければならない。国会議員には、それだけの権限が与えられている。国会の権限、国会議員の権限は、内閣の権限を上回るのである。これは、憲法が国民→国会→内閣、という順に展開されていることからもわかる。自民党は、これを逆転させて内閣→国会→国民という「支配体制」に変更しようとしている。「支配体制(独裁体制)」を隠蔽するために、天皇に「元首」という称号を与えようとしている。「独裁」と批判されたら、「元首は天皇です」と答えるつもりなのだろう。
 脱線した。
 改正草案は「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」ともっともらしく追加しているが、これはこの改正草案が2012年、自民党が野党だった時代につくられたものだからだろう。ほんとうに国会を優先させ「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」と考えているのだったら、森友学園問題以降の「臨時国会要求」にはきちんと応じるべきだ。
 改憲草案の「先取り実施」はいろいろあるが、この第53条は先取り実施されていない。不都合なときは知らん顔をする。憲法も法律も、自分の都合に合わせて「総合的」に判断し、運用するというのが自民党の姿勢なのである。

 いま、マスコミは自民党総裁選一色である。衆議院議員の任期満了が迫っているのに、自民党総裁選を優先させ、自民党の都合に合わせて、衆院選を衆院議員の任期切れ後に実施する。順序が逆である。衆院議員の選挙を優先させ、自民党の総裁選は日程を変更すればいいのである。衆院選の結果次第で自民党が野党になる可能性もある。自民党総裁が「首相」に選ばれない可能性もあるのだ。それを阻止するために、自民党は菅を退陣させ、総裁選を実施し、できるだけ「不人気」を挽回し、そのあとで総選挙を実施しようとしている。自民党敗北回避のための作戦に、マスコミが一致して協力している。
 「独裁」はここまで進んでいる。マスコミは「独裁」の手先になって動いている。
 野党もだらしがない。なぜ、自民党総裁選の日程を変更しろと要求しないのか。安倍から始まった「独裁」に野党もなれきってしまっている。

 

 

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自民党憲法改正草案再読(24)

2021-09-18 09:23:39 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(24)

(現行憲法)
第四章 国会
第41条
 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第42条
 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
第43条
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。

(改正草案)
第四章 国会
第41条(国会と立法権)
 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
第42条(両議院)
 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。
第43条(両議院の組織)
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律で定める。

 表記の変更と、「これを」の削除。「これを」という書き方がテーマの提示であることは、第42条、第43条の「文体」をみればはっきりするだろう。「これを」という再提示はしつこく、うるさい感じがするかもしれないが、憲法のような基本的なものには必要なことだと思う。

(現行憲法)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
(改正草案)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。

 大きな変更点は「障害の有無」が改正草案で付け加えられたこと。これは、改正草案のいい点である。「但し」を「この場合において」と書き換えている理由はわからない。「この場合において」ということばを改正草案では他の部分でもつかっているか。丁寧に読んでみないと、「意味」(狙い)がわからない。
 「又は」については、先日、現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない、と書いた。「財産」と「収入」は基本的には違うが、「財産はあるけれど収入のない人」「収入はあるけれど財産のない人」の区別をしないためのものだろうか。「又は」の前に読点「、」があると印象が違う、ということを先日、書いた。
 これは強引な読み方かもしれないけれど、私は、とりあえずそう読んでみた。
 ところが「但し」「この場合において」は、どういう「違い」を明確にするために「この場合において」をつかったのかわからない。「但し」を「ただし」と表記変更する例は、次の第45条に出てくるが、「この場合において」とはしていない。
 ここには私には気がつきようのないとんでもない「罠(落とし穴)」があるかもしれない。第45条のように変えなくてすむなら、わざわざ変える必要がない。変えたからには何らかの「意図」があるはずだ。


(現行憲法)
第45条
 衆議院議員の任期は、四年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
(改正草案)
第45条(衆議院議員の任期)
 衆議院議員の任期は、四年とする。ただし、衆議院が解散された場合には、その期間満了前に終了する。

 「但し」「ただし」は先に書いたので触れない。
 この条項では「衆議院解散の場合には」を「衆議院が解散された場合には」を書き直している。ここには大きな問題がある。
 「衆議院が解散された場合には」という文体の中では「国会」は「受け身」である。誰かが「国会を解散する」のである。だれがするのか。
 現行憲法では、第69条に「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」という規定がある。衆議院(主語)が内閣不信任案を可決(内閣信任案を否決)した場合、その決議が正しいかどうか国民に問うために内閣は国会を解散し、総選挙に訴えることができる。いわば衆議院の議決に対する「対抗手段」として内閣に「解散をする権利」を与えている。この「対抗手段」がないと、内閣は「独自性」を確保できないという考えに基づいている、と私は読んでいる。あくまで、衆議院の可決に対する「賛否」を問うのが「解散→総選挙」である。「議会制民主主義」に対して、一定の「歯止め」をかける条項といえる。内閣の構成員(首相)は選挙で選ばれた人である。その選挙で選ばれた人が「不信任」されたときは国民にその是非を問いかけることができる、という「権限の付与」ということになる。
 国会(衆議院)は「自動的」に解散できるわけではない。ちゃんと「任期」が決められており、任期の変更ができる(解散ができる)のは、内閣と国会が対立したとき(内閣不信任が可決されたとき)だけなのである。現行憲法第7条第2項を「借用」して、解散権を振りかざす首相が何人もいたが、第7条は天皇の「権能規定」であって、内閣(首相)について規定したものではない。あきらかに憲法を逸脱したものである。
 改憲草案の第45条は、そういう「経緯」を抜きにして「衆議院が解散された場合には」と書いている。内閣=首相(主語)が勝手に(不信任されたわけでもないのに)国会を解散するという一方的な「暴力」を許すことになっている。いま横行している内閣(首相)による民主市議の破壊を追認し、それを推進する条項である。「解散権」は、「内閣」の条項にふたたび出てくる。ここでは、その問題を「主語」を隠すことで、こっそりと忍び込ませていることになる。
 憲法は権力(内閣、首相)を拘束するためのものなのに、そのことが隠され、内閣(首相)が「主語」になって、国民を拘束するということが改憲草案で押し進められるのである。首相がかってに国会(衆議院)を解散できるのであれば、衆議院議員の「任期」はあってないに等しい。ある議員を落選させるために国会を解散するということさえできてしまう。内閣に人気があるうち解散し、野党の議席を減らす、内閣が不人気の場合は人気が回復するまで選挙をしない、という方法が横行することになる。
 実際、そういうことが、いま、起きている。
 きょうの読売新聞は「自民総裁選告示」のニュースと同時に、今後の「日程」について書いている。
↓↓↓↓
 政府・与党は、衆院選の日程について、10月26日公示、11月7日投開票を軸に検討を進めている。衆院議員の任期満了日(10月21日)以降の衆院選は、現行憲法下では初めてとなる。
↑↑↑↑
 任期が10月21日に満了になるのはわかっている。わかっているなら、任期が満了になる前に選挙をすべきだろう。なぜ、それができないのか。できないのではなく、しないのだ。いまは、菅が辞めたとはいえ、自民党の不人気がつづいている。ここで選挙をすればコロナ感染が終息しないことも影響して、きっと自民党は議席を減らす。その影響を少なくするために、選挙を先のばしにしているのだ。
 菅が辞任を表明したときは、国会を開いて、国会を解散させ、解散による総選挙というかたちにすることで11月28日まで投票日を延ばせる、ということが読売新聞によって報道されていた。コロナ感染がどうなるかわからないが、いまの感染者減少傾向がつづけば、自民党のコロナ対策は「成功した」という印象を生むことになるかもしれない。それを狙っているのだ。
 自民党の「議席確保」だけのために選挙(解散)が利用されようとしている。
 「衆議院解散の場合」「衆議院が解散された場合」の違いを見逃してはならない。

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自民党憲法改正草案再読(23)

2021-09-16 10:54:41 |  自民党改憲草案再読

 

自民党憲法改正草案再読(23)

(現行憲法)
第38条
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
(改正草案)
第38条(刑事事件における自白等)
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 拷問、脅迫その他の強制による自白又は不当に長く抑留され、若しくは拘禁された後の自白は、証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない。
 現行憲法の「強制、拷問若しくは脅迫による自白」を「拷問、脅迫その他の強制による自白」と改正する意図はなんなのだろうか。現行憲法の「強制」は必ずしも「拷問、脅迫」だけを指すわけではないのだろう。「お願いします」というかたちでの「強制」もある。「助言」というかたちの「強制」もあるかもしれない。しかし、改憲草案では「依頼」「助言」は「強制」にはならないだろうなあ。
 よくよく他の条文と(さらには法律と)あわせて読んでみないとわからない問題が隠れているかもしれない。
 「刑罰を科せられない」の削除も、有罪ではないのなら刑罰がないのは当然と思うけれど、では、なぜ現行憲法にはわざわざ「刑罰を科せられない」があったのか。それがわからない。13条の「個人」から「個」が削除され「人」になったのと同じで、よくよく考えてみないとわからないことが隠されているかもしれない。
 前にも書いたが、私自身が刑事事件を引き起こすという「可能性」について考えてみたことがないので、どうも真剣になれない。何かを見落としているだろうなあ、という不安がつきまとう。

(現行憲法)
第39条
 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
(改正草案)
第39条(遡及処罰等の禁止)
 何人も、実行の時に違法ではなかった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。同一の犯罪については、重ねて刑事上の責任を問われない。

 「適法であつた行為」と「違法ではなかった行為」は、まったく違う。たとえば「売春」が公認されていた時代、「売春」は適法だったと言うことができる。ちゃんと法律が「売春」を認めていたのである。ところが「違法ではない」というのは、法律が現実においついていかない場合のことがある。たとえば「著作権法」では昔の法律では「デジタルコピー」とういものは存在していなかったので「デジタルコピー」は「違法ではなかった」。「違法ではなかった」が法律を見直し、被害者を救済する(加害者を罰する)ということが改憲草案ではできなくなる。加害者を罰するはむりだとしても、それに連動する被害者の救済もむずかしくなる。これでは、なんというか、「法律ができる前に、やれることはやってしまえ」という風潮を生まないか。そして、そういう風潮は、普通の国民ではなく、法律をつくったり、施行したりするひとの「有利」にならないか。
 情報公開を請求された政府の資料。「完全公開しなければならない」という法律がないかぎり、どれだけ「黒塗り」にするかは資料をもっているひとの判断に任せられ、黒塗りした人は「違法ではなかった行為」をしたにすぎないから「無罪」だね。「無罪」なら、被害者救済も進まない。事実の解明も進まない。「赤城ファイル」問題は、こういうことを明るみに出す。きっと、これも「改正草案」の「先取り」というものだろう。

(現行憲法)   
第40条
 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
(改正草案)
第40条(刑事補償を求める権利)
 何人も、抑留され、又は拘禁された後、裁判の結果無罪となったときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

 「又は」のつかい方が、微妙に違う。「抑留又は拘禁された後」「抑留され、又は拘禁された後」。読点「、」があるかないか。現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない。
 ここから振り返ると、第38条の「有罪とされ、又は刑罰を科せられない」という条文ができたとき「有罪」と「刑罰を科す」は「同一のもの」ではなかったということになる。「、又は」という書き方は「有罪」と「刑罰を科す」は同一でないという考えがあるから「、(読点)」を必要としているのだ。それがどういうときか、私には想定できないが、別のものと考えることが一般的だったのだろう。
 第39条の「又、」が改憲草案では削除されているが、これは「又、」があると「同一のものではない」という強調を消すためのものだろう。
 改憲草案に多く見られる「これは」という文言の削除、あるいは「及び」「又は」という何気なくつかっていることばの微妙な変化は、大きな「落とし穴」かもしれない。意味(というか、その条文の拘束力)が同じものなら、わざわざ変更する必要がない。時代の変化に合わせて緊急に変更しなければならない問題点なら、そういう「細部」にこだわらず、「細部」は踏襲して、必要な部分だけを最小限に改正するという方法があっていいはずなのに、改憲草案がやっていることはあまりにも「細かい」。「細かい」ことは、たぶん、見落とされる。見落とした方が悪い、と言い逃れる「悪徳商法」のパンフレットみたいなものだ。
 ことばは、「意味」だけではなく、「意図」を読み取る必要がある。

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