詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長谷川龍生「途上(みち)」、荒川洋治「錫」ほか

2014-12-12 11:25:40 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
長谷川龍生「途上(みち)」、荒川洋治「錫」、加納由将「空に」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 長谷川龍生「途上(みち)」(初出「愛媛新聞」1月1日)は「途上」を「みち」と読ませている。そして、そこに「みち」という表記もでてくる。

瀬戸内の弓削島から
宇和内の日振島まで
中世水軍の海の途上(みち)を追う
胸いっぱいエネルギーが湧く

古代湖沼のみち 古墳へのみち
湯のみち 戦乱のみち
遍路のみち 百姓一揆のみち
鉱山へのみち 自由民権へのみち
俳聖へのみち

正岡子規から河東碧梧桐 高浜虚子へ
別のみちが走っている 種田山頭火

 1連目の「途上(みち)」は、水軍がとおった水路(海路)というよりも、水軍が大暴れしながら勢力を拡大していった「歴史」という感じなのだろうか。海のうえを通りながら長谷川の思いは、単なる「水路」というよりも歴史を呼吸している。だから「途上」なのだろうか。
 そうすると2連目は?
 「肉体」で追認せず、ただ想像力で追いかけている「みち」? さまざまな「みち(道)」があるなあとは思っても、それを「途上」として肉体に引きつけて具合的に感じてはいない、ということか。
 「肉体(胸)」で感じるものと、「頭」で感じるものを区別しているのだろうか。
 違うなあ、きっと。
 3連目は、「俳句」とひとことでいってしまうけれど、その「俳句」にもいろいろな「みち」がある。「別のみち」と書いているのがおもしろい。「同じ」にみえても、ほんとうは「別」のみち。
 子規、碧梧桐、虚子、山頭火にも、それぞれ「途上」という感覚はあっただろう。長谷川は、いろいろな「みち」を「途上」として確かめられたらおもしろいだろうと考えているのだろう。
 「途上」というのは、「途中」。それこそ「胸いっぱいエネルギーが湧く」感じだ。それが爆発して「途上」をつきやぶって、確立される。それが「みち」かな?
 だとしたら「みち」よりも、「途上」の方がおもしろいかも。どこで爆発する? 爆発したらどうなる? わからない、わくわく。
 「みち」を「途上」にかえて、追体験する。追体験をとおして、新しい「みち」になるまで自分を暴走させる--というのは楽しいだろう。

愛媛という場所は不思議だ
飽きない歴史が積みかさなっている
二十一世紀のはじめ
新しい途上(みち)は 何か
老いも 若きも 身を震わしている



 荒川洋治「錫」(初出「奥の細道」1、2月)は、2連目が非常におもしろい。

女性の店員が
急に視角をはずれ
厨房のかげで
練習をはじめる
「いらっしゃいませ」
「………………」
「ご注文の品、これで
おそろいでしょうか」
何回か繰り返し
特別な店ではないのに
出てくるものは なにもかもおいしく

 どこの店だろう。詩のつづきを読むと「大垣」という地名が出てくる。「大垣の内側にいる」という行が最後の行だ。きっと「大垣」にある店。あまり客も多くないのかもしれないけれど、あ、そこへ行ってみたい。店員が「練習」しているのを聞いてみたいと思う。
 きっと何を食べてもおいしい。
 「おいしい」のなかには「人間」がいる。食べ物をつくって、出してくれるひとがいる。そういうひとと「出会う」という感じが「おいしい」。
 最終行の「内側」とは、そういうひとの動き。何かをつくりだす「動き」。
 荒川は、それを「ありきたり」の感じ、「無意識」の感じにまでならして(ことばの技巧、いいかえると「わざと」を消して)、ことばにする。
 ほかの連にもいろいろなことが書いてあるのだが、2連目だけで私は「満腹」になる。「とてもおいしい」と満足してしまう。


 
 加納由将「空に」(初出『夢見の丘へ』2月)。

縁に
座って
ぼんやり考える

あの空の向こうには
何かが
隠れている気がする

空の向こうに
鋭い
獣の
視線を感じて
睨み返す
それは大きい
空白なのか

 「獣の鋭い視線」ではなく「鋭い獣の視線」。「鋭い」という「印象」が最初に加納をつかまえている。「鋭い」をそのあとで「獣」「視線」とつないでゆく。見えない何か(隠れているもの)をさがそうとする意識の動きが、そのことばの動きのなかにあって、ここが詩のハイライトだなと思うのだが、「それは大きい/空白なのか」は、私の感じでは「嘘っぽい」。「獣」と「空白」は、どうもなじまない。私が「固定観念」にとらわれているのかもしれないが。

空には
きりがなくて
箱庭の対話が広がっていく

 この最終連は、とてもつまらない。「箱庭」はほんとうの「箱庭」か、自分の家の庭を「箱庭」と比喩にしたのかわからないが、空の向こうと対話しきれずに「箱庭」にもどってしまうのだったら、空の向こうを見る必要もないだろう。
 空の向こうへの「途上」を突き破って、空の向こう側に行ってしまうのが詩ではないのだろうか。空の向こう側を「内側」にしてしまうのが詩ではないのだろうか。


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瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」ほか

2014-12-11 11:52:09 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
吉田文憲「隕石が」、瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」、中村稔「原発建屋のある風景」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 吉田文憲「隕石が」(初出「東京新聞」13年12月28日)は、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。「そのとき、ああ隕石が降ってくる、と私は思った」という行があるので、この「隕石」は比喩かもしれない。しかし、何の比喩なのか。

目覚めたとき、絨毯のうえには手の形をしたふたつの影が動いていた。そこに朝の光が流れていた。

どのような時が過ぎつつあったのだろうか--

だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか--

 朝、目覚めて、きのうの夜を思い出しているのだろうか。「だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか」はセックスを感じさせておもしろいけれど、肝心のセックスが見えてこない。宇宙とのセックスを書いているかな?



 瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」(初出「LEIDEN雷電」5、1月)は文体が強靱である。朔太郎を冒頭に引用したあと、

「太陽は美しく輝き……」と私は記したいのだ。けれどいま空はこのとおり暗いのだから、
私はただ「太陽が美しく輝くことを願い……」と書きつけることしかできない。

 と、はじまる。「記したい」ことがある。けれど、それは「事実(現実)」とは違うので、自分の欲望を抑えて(否定して)、というか、「欲望」の形を「願い」ということばで補足して「現実の世界」だけではなく、自分の「真理の世界」を「事実」として書いていく。
 「事実」とは「現象」と「心理」を合体させたところに生まれる。そういう意識がことばの運動を制御している。その制御する力が瀬尾の「文体」である。瀬尾のことばには、ことばを制御して「事実」を確立するという意思の力が働いている。

私たちがある決意によって互いの手をかたく組み合わせ、
誰にも気づかれることなく山に向かって歩いていった。
それはほんらい深い過去の時制で語られるべきできごとだったが、
その決意へとあの日私たちを誘いかけたものが何だったのか、
いま私はそれを物語的現在によって語ろうと思う。

 「深い過去の時制」。これは、ヨーロッパの言語にみられる「大過去」のようなもの、「過去完了形」のようなものだろうか。日本語の時制は、私にはとてもあいまいなものにみえる。
 小説を読んでいても、たとえば山登りの描写で、「険しい崖をのぼった。(過去)頂上に着いた。(過去)遠い海が見える。(現在)風が吹いてくる。(現在)気持ちがいい。(現在)」という具合に、「過去」のできごとなのに、感覚が動き回るとき、突然、その動きが「現在形」として書かれることがある。
 そういう日本語の「時制」の問題を意識した上で

そう、たとえそれが何で「ある」にもせよ、その同じ声に
二人がともに誘われて「いる」ということを動かしようのない事実として、
私はいまも信じて「いる」。誘いの声の「現在」を知らない人たちは、
鳥が鳴いているね、それらはこれからもずっと鳴き続けるだろうよ
草木が囁いているね、それらはこのさきも変わることなく囁き続けるのだよ
などと言うであろう。「そのとき」のことを私は「いま」と言うのだが、
「いま」私たちは、世界のなかで鳥が鳴くのはもうこれっきりだ
草木の囁き続けるのを聴くのはもうこれっきりだ、という意志によってかたく結び合わせれるまま、
それら無辺広大の讃歌を聴いていたのだ。

 と、つづける。
 瀬尾は、ここでは「何を」語るかではなく、「どう語るか」をテーマにしている。「意志」ということばがでてくるが、瀬尾にとっては、ことばは「意志」なのだ。
 すべてを「ある」「いる」という「現在(存在論)」から出発して世界を確立させる。そういう「意志」が働いている。「存在論」への「意志」が動いている。
 で、この詩にしても、私には「何が」書いてあるのか、わからないのだけれど、ある「意志」で書かれていることがわかる。瀬尾は「書く」ことの「意志」について考え、そのなかでことばを制御している、ということが「わかる」。(私の「わかる」は「誤読できる」という意味だが……。)
 そして、瀬尾は制御しつづける、という「暴走」をする。
 過去時制で書いていた文を、感動のあまり現在時制にかえてしまうというのは、日本人にはごく普通のことであって、そこに「意志」が働いている(文学の技法が意識されている)とはなかなか思わないものである。この例は、瀬尾がここで書いている「時制」についての適切な例ではないかもしれないが--、そのふつう、ひとがなかなか思わないことを、あくまでも思いつづける。考えつづけ、ことばをどこまでもゆるぎのない形で動かすというのが瀬尾の姿勢である。その「持続」(あるいは、統一、といった方が瀬尾を理解するのには有効かも……)の力がゆるまない。力がゆるまないから、それを私は「暴走」と感じてしまう。
 かっこいい。
 この文体は真似してみたい。
 「深い過去の時制」という表現から、私は、瀬尾はこういう文体を「深い過去の時制」をもつ「言語」を読むことで身に着けたのだと想像する。外国の文体に触れることで、日本の文体がもたない「細部の意識」を手に入れたのだと思う。日本人が意識しない部分にまで意識をめぐらせ、そこからことばを動かすという方法を自分のものにしたのだと思う。
 外国のことばを読むことで、そのことばによって書かれた「意味」ではなく、「意味」以前の「文体のなかの意識」(ことばの肉体)をつかみ取り、それを瀬尾は自分のものにしている。
 だから、かっこよく、美しい。



 中村稔「原発建屋のある風景」(初出「ユリイカ」1月号)には「永遠」ということばがでてくる。

海は凪ぎ、波がうち寄せ、うち返し、
波がうち寄せ、うち返し、永遠が海辺に停止している。
なかば屋根の破れた壁や破れた建屋を白い風が吹き抜ける。
建屋の床に散乱する瓦礫、溶解した金属類など。

 この「永遠」は「絶対的な美しさ」のようにひとを引きつける何かではない。どうすることもできない「不可能」である。「不可能」が「停止している」。そして、この「停止している」も単に「止まっている」とも違う。それは、何かを「疎外している(妨害している)」。何をか。ふつう、私たちが「永遠」ということばで思い描く絶対的な正しい「真理」のようなものを邪魔している。それの正反対のものがそこにあって、それがあるために私たちは「理想の永遠」に近づけない。拒まれている。
 ことばが、流通している「意味」とは違うものをかかえながら動くとき、そこにそのことばを動かす詩人の「意志」があらわれる。「意志」があらわれる詩は強い。
 詩は志を述べるもの--とは考えないけれど、私は、こういう「意志」をもった「文体」が好きである。「意味」よりも、「文体」に「正直」を感じる。「肉体(思想)」を感じる。

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城戸朱理「白のFRAGILE」ほか

2014-12-10 23:00:18 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
城戸朱理「白のFRAGILE」、倉田比羽子「追憶の国 ひとりの夜に--」、福間健二「彼女に会いに行く」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 城戸朱理「白のFRAGILE」(初出「江古田文学」84、13年12月)は「抒情」に城戸自身が夢中になっている感じがする。そうか、こんなふうにことばに酔うのか。

春雨は巻き毛のような若葉をじっとりと濡らすが
秋の雨は、あたりをただ白くけぶらせていく

手を伸ばすなら、指まで染まりそうな紅葉

 「春雨」に対して「秋雨」ではなく「秋の雨」。これは「音」の差異なのか、「意味」の差異なのか。その差異を選んだ「肉体」が見えない。私は、まず、ここでつまずく。対になった行で、書き出しのことばが対を装いながら、微妙にずれる。
 これは技巧? 何のための?
 わけのわからない「違和感」が残る。そのためだろうか。2連目の「手を伸ばすなら」の「なら」にも、あれっと思う。
 書かれている「意味」はわかる。いや、わかったつもりになるけれど、実はわからないといった方がいいのだと思う。
 私なら「手を伸ばせば」と常套句にしてしまう。「手を伸ばせば、指まで染まる」。そのとき、手は想像力のなかで、もう伸びて、紅葉に指先が触れている。
 「伸ばすなら」でも「意味」は同じなのか。
 「春雨」が次の行の「秋の雨」と対になっていることへの「違和感」に通じるものが「手を伸ばすなら」に残ってしまう。
 だいたい何かに感動したとき(強い印象を受けたとき)、ことばは短くなるのがふつうである。「伸ばすなら」よりも「伸ばせば」の方が音が少ない。それだけ速く動く。あざやかな紅葉にびっくりしているなら、それが「常套句」と批判されようと、私は「常套句」を選ぶなあ。「常套句」というのは考えずにすむ。それだけことばが速く動く。
 なぜ「伸ばすなら」とまわり道をして、しかもそのあとに読点「、」まであるのだろう。
 ことばに酔う、「抒情」に酔って、そこから離れたくないという感じがする。そんなに長い詩ではないのに、この2連だけでとても長い感じがしてしまう。
 このあと「白」は「紅く」はならずに、「白いシーツ」「しろい肌」へと動き、「赤らみ」ということばも経るけれど、さらに「白い花」へと動いている。「白い花」はきっと「死」を飾る花だろう。「死」に色はないが、「白い死」なんだろうなあ。さらに「白」を省略した形で、最後の2連。

三日もすれば 冬になる
きっと 雪が降るだろう

そして、わたしは
雪の匂いがする手紙を受け取るだろう

 その手紙は白い便箋に書かれているのだろう。
 この最後の2連では、私はまたまた違和感を覚えた。最初の2連とリズムが違いすぎる。別の作品という感じ。「意味」は「白(雪/便箋)」でつながっている。でも、ことばのリズムはつながっていない。「春雨」「秋の雨」のように。
 私は、こういうリズムの変化は苦手だ。「意味」は「頭」でわかるが(わかったつもりになるが)、「肉体」がついていけない。



 倉田比羽子「追憶の国 ひとりの夜に--」(初出「詩客」13年12月20日)は情報量が多いなあ。ことばが多いなあ、とまず感じてしまう。

時がたち 小高い丘の上の墓地では骨の人はこころを粉々に砕いた
一片一片、無数のこころのしこりを刃にして
魂を振りあげながら墓の下から転がりでてくる
無言の「強要」に謎めいた叫びをあげる異形の野犬や梟や黒カラスを引きつれる
贖われることのないままに阿鼻叫喚の墓標がつぎつぎ新しく取り替えられるまえに
光なき星の声に導かれるように満月に骨身を透かし 吐息は人類不在の風に乗り

 つぎつぎにあらわれることば。多すぎて、イメージが拡散する。拡散させたいのかもしれないけれど、ことばの数に酔っているようにも感じる。酔っている感じはわかるが、勝手に(?)酔われると、ちょっと気持ちが覚めてしまう。同じようには酔えない。
 特に

無言の「強要」に

 ということばの、わざわざ括弧付きで書いてある部分に、あ、わかりません、と言いたくなる。倉田には「意味」があるのだろうけれど、記号(カギ括弧)で「意味」を代弁させずに、もっと「肉体」をくぐらせたことばで書いてほしいなあと思う。
 そう思っていると、2連目は3字下げで……。(引用は3字下げずにするが。)

「花一つ、花一つさえ
この身をおさめた柩にそなえるな。
友一人、友一人さえ、
悲しみの野辺の送りに従うな。
人知れぬ山奥の地に、この身を
埋めておくれ、
墓を見てまことの愛に泣くものを
避けるために。」---

 あ、いいなあ。対句はリズムもしっかり踏まえているし、起承転結もある。--と思ったら、シェイクスピア『十二夜』(小田島雄志訳)と注にある。
 シェイクスピアと比較してはいけないのかもしれないけれど、私はシェイクスピアの、口に出して気持ちよくなる音の方が好きだなあ。情報は少ない方がうれしいなあ。「追憶」なら、とくにことばは少ない方が切実に響くのでは、と思う。



 福間健二「彼女に会いに行く」(初出「江古田文学」84、13年12月)は、比喩と意味の関係がよくわからない。

彼女に会いに行く。
自分のものだと言い切りたい。
労働の音を、全身でアレンジして
彼女の好きな
迷子のうた
脱水に入った
洗濯機のようにうなりながら

 「脱水に入った/洗濯機のようにうなりながら」という比喩は、「比喩」であることを忘れてしまって「もの(洗濯機)」が見える。とても気持ちがいい。というか、「納得」してしまう。福間がどういうつもりで書いたのかわからないが、そこに書かれていることが「わかる」。(誤読できる。)でも、

労働の音

 って、何? 福間が(と仮定しておく)働いているときの、福間自身の「肉体」のたてる音? 福間が働いているとき「頭」が動く音? それとも福間の周囲にある何かが動く音? 引用しなかったが、その前にでてくる「搾取の手を動かして」ということと関係があるのかな? 搾取の音?
 「労働の音」が比喩になりきれていない。「意味」だけを伝えようとしている。そのくせ「意味」にもなっていない。「論理」が見えてこない。比喩を書こうとしてるということだけ、わかる。(この「わかる」は勘違いなのだろうけれど。)

なにが食べたい?
ラーメン
ライスの小をつけて
しまりにくい蓋のかわりというわけじゃないよ。

 この最終連も、何のことかわからない。ラーメンを食べたいのは福間? それとも彼女?
 詩に「意味」を求めるわけじゃないけれど、「意味」がないのも、どうかなあ。「意味」が書いてあって、しかし、「意味」を超える何かに引きつけられ、「意味」を忘れてしまうというのが詩ではないのかな?

漂流物
城戸 朱理
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藤田晴央「深夜」、渡辺みえこ「森の吊り橋」、石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」

2014-12-09 10:55:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤田晴央「深夜」、渡辺みえこ「森の吊り橋」、石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤田晴央「深夜」(初出『夕顔』13年11月)。『夕顔』についての感想は書いたが、「深夜」について書いたかどうか覚えていない。闘病の妻を深夜トイレまでつれていく。そしてベッドにもどる。

終ったわよ
かぼそい声
しゃがんで
妻を抱えあげる
妻の重みを受け止めながら
横歩き
まだだよ
ベッドはまだだよ

白鳥は
去年おとずれた川に
その水のしとねに
着水した
家族とともに

 妻の介護と、白鳥の渡りが重なる。白鳥もまた「まだだよ/べっどはまだだよ」と励ましながら旅してきたのだろうか。長い旅を支えあい、「家族とともに」いつもの川にたどりついたときの喜び。同じように、藤田は妻を支えてベッドまでいっしょにたどりついたときの喜び、きょうもいっしょに生きているという喜びを静かに語っている。



 渡辺みえこ「森の吊り橋」(初出『空の水没』13年11月)は「あの吊り橋を渡ると死ぬ/と言われている」橋を書いている。

母が死に 父が死に 最後の肉親の弟も死んだ
私はその明け方
自分の体がとても軽くなったのを感じて
橋を渡ろう と決めた
細い吊り橋を渡っている間
今まで感じたことのない温かく優しいものに包まれ
涙が溢れ続けた

 「自分の体がとても軽くなった」ということばに、とてもひかれた。死ぬとは体が軽くなることなのか。重力から自由になることなのか。それで危ない吊り橋も渡ることができる。
 そのことに私は納得してしまったが、それはもしかすると「母が死に 父が死に 最後の肉親の弟も死んだ」という表現のなかにある「親密感」に納得したからかもしれない。最近、こういう書き方をする人は少ない。多くの人は「母が亡くなり 父が亡くなり 最後の肉親の弟も亡くなった」という具合に「死ぬ」のかわりに「亡くなる」をつかうことが多い。私は、どうも、そのことばになじめない。肉親や親しいひと(実際に交流がなくても親密に感じているひと)に対して「亡くなる」ということばをつかうと、なんだかよそよそしくて、実感がわかない。自分の「肉体」に衝撃がかえってこない。
 肉親(親しいひと)が死ぬというのは、自分の何か(自分とつながっている何か)が死ぬということ。自分が死ぬということ。--それは、「論理」にしてしまうと奇妙な感じになってしまうが、自分の肉体から自分の肉体の一部がなくなってしまい、そのぶんだけ肉体が「軽くなる」という感じ、ふわふわして落ち着かない感じともつながる。
 「自分の体がとても軽くなった」は、父、母、弟の死を「肉体」で体験した、実感したということなのだと思った。うまくいえないが、その「実感」に誘い込まれ、共感した。渡辺が「自分の体がとても軽くなった」と感じただけなのに、それが私の「感じ」のように思えた。父や母が死んだあとの、私の「肉体」の感覚を思い出したのである。

黒い森が優しく私に近づいてきた
透き通った香りがひりひりとしみ込んできた
幾筋もの細い月光が刺さっていたのかもしれない
それはあの世界なら痛み と言ったのかもしれない
あるいは眠り と言ったのかもしれない
言葉が必要のない世界で
私は月の光のようなもの 木の香りのようなものになって
溶けていくのを感じていた

 「あの世界」は「死後の世界(彼岸)」ではなく、いわゆる「此岸」。橋を渡って渡辺は死んでいるので、「此岸」と「彼岸」が逆になる。
 そこで渡辺は、自分の「肉体」を超える。渡辺の「肉体」は、月の光、木の香りのようなものになって、すべてと「溶け」あう。当然、そのとき渡辺は死んだ父、母、弟とも「溶け」あって「一体」になっている。
 この「一体感」のためには、私はやはり「死ぬ」という「動詞」が必要なのだと思う。誰かが「死ぬ」のではなく、自分が「死ぬ」。「死ぬ」ことで自分ではないものになる。たとえば月の光、木の香り。そうやって世界と一体になる。
 そういう体験(肉体の記憶)がここに書かれている。



 石田瑞穂「レニングラードのストレンジオグラフィ」(初出「詩客」13年12月27日)は旅行記になるのだろうか。

私たちロシア系ユダヤ人は
伝統として物や樹や雲や 小石の物語を
聴くのです。ですからクラースナヤ
プローシシャチに行くと、
ついあの壁たちに どんな音を聴いた
ことがあるのか 尋ねてみたくなります。

 「物や樹や雲や 小石の物語を/聴く」とは、物や樹や雲や小石が聴いてきた「物語(音)」を聴く、「他者の声」を聞くということなのだろう。「壁」そのものの「音」は、壁が聴いてきた音、壁が聴いてきた「物語」と重なる。区別がなくなる。
 同じように、石田がロシア系ユダヤ人から「声(物語)」を聴くとき、そしてそれを反復し、「ことば(日本語)」にするとき、それは石田自身の「声(物語)」となる。石田はロシア系ユダヤ人になって「壁の音(声)」を聞こうと欲望している。
 こういう「一体感」が、私は好きだ。

 こういう「一体感」の動く場で、「音(声)」が引き金のように動いているのも私にはとても納得できる。聴覚(耳)がつくりだす一体感。
 これは石田の詩は「音(物語)」という表現があるのでわかりすいが、渡辺の詩、藤田の詩もまた「音」を聴いていると思う。
 渡辺は「ある吊り橋を渡ると死ぬ/と言われている」という表現のなかに「ことば(声)」がある。藤田は白鳥の姿を見ているのではなく、「音」からその姿を想像している。「終ったわよ/かぼそい声」が白鳥の羽ばたきの音のように、生きている証の音の聞こえる。

夕顔
藤田 晴央
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日和聡子「音のない声」、藤井章子「文月にはぜる」

2014-12-08 10:51:51 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
日和聡子「音のない声」、藤井章子「文月にはぜる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 日和聡子「音のない声」(初出「山陰詩人」197 、13年11月)は、途中まで何が書いてあるのかわからなかった。いや、いまでもよくわからないのだが、私はかってに「妄想/誤読」をする。

夜更け
脱衣所の隅を 這うもの
動かなくなり
女が湯から上がるのを
待たずに消える

寝しずまった 廊下
いつかの 破れた蜘蛛の巣がぶら下がる
女は 髪の滴と汗を垂らしながら
しのび足で 奥の間へ渡る

 怨念(?)をもった女が、男の寝ている部屋へ歩いている。男と女は、そうやって生きるしかないような愛欲を生きている。それは、どうも一筋縄ではときほぐすことのできない関係のようでもある。
 しかし、なんだか、古くさいなあとも思う。愛欲に古いも新しいもないだろうけれど。何と言えばいいのか、ちょっと隠れたような感じが、昔の(?)愛欲小説のような感じを思わせる。意味ありげだ描写のリズムが、そう感じさせる。
 愛欲--と思ってしまうのは「湯上がりの女」「滴と汗」「奥の間」というようなことばからなのだけれど。そして「古くさい」と感じるのも、そういう「背景」のせいなのだけれど。

点滅しない 青いランプ
緑と 黄と 黒い葉の 繁る がじまる
怪物が その根元で 大きな口をあけている
片目をとじ もう一方を見ひらき 宙空を見つめて
空には 影か 月
どちらも出ていない

 「がじまる(ガジュマル?)」の木から、愛欲を連想したのか。愛欲を「がじまる」の木を象徴として形象化しているのか。「大きな口をあけている」「怪物」は愛欲のことだろう。それは、男の方か、女の方か、区別がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」が、虚無と向き合った愛欲を想像させて美しい。愛欲を生きるとき、二人のほかに何があるかというのは関係がない。「空には 影か 月/どちらも出ていない」は「出ていない」ということばにもかかわらず、「影」と「月」との両方が同じ強さで出ているように響いてくる。「影」は「光」でもある。その「矛盾」のようなものが、「影と月」を絶対的なものにしてしまう。出ていないくても、それを確かめようとしたとき、確かめようとした人間の「肉体」のなかに存在してしまう--そういう形の「出ている」がここにある。
 それが二本の木を一本にかえてしまう「がじゅまる」の「本質(欲望)」を象徴しているようにも感じられる。
 途中、省略して、最後の方、

裏庭へまわると 溜池
あたりに 葉を散り敷かせる 二本の木

ぬるい風と ひえた川面が 水上でまざりあい
庭にうずくまる 雨垂れと落葉を溜めた古甕の洞に
音のない声を 響かせる
その傍らに 一本の木が立ち
暗い洞をのぞき込んで ひらひら落とした

 「二本の木」「一本の木」。この違いは二本が一本になったのか、あるいは絡み合う二本の木を嫉妬でみつめるもう一本の木を書いているのか。どうとも読むことができるが、二本の木をみつめる一本の木だとしても、それはみつめることで「一本」になっている。(三本が一本になっている。)二本の木のなかで動いている愛欲を、一本の木もみている(愛欲を感じている)という関係にあると思う。すべてが「まざりあい」、そこから「音のない声(ことばにしなくても、肉体のなかでなりひびく音/声)」になっている。
 うーん、こんなふうに古典的(典型的? つまり真実か永遠のように?)絡まれると、少しこわいかもしれないなあ。
 でも、この詩に出てくる「肉体」のゆっくりした感じ、何かと「まざりあい」ながら動く肉体の感じはいいなあ。



 藤井章子「文月にはぜる(初出『文月にはぜる』13年11月)」の「肉体」もおもしろい。

文月にはぜる。夏草にひそむおうんおうんと
いう音がはぜ にいにいぜみの耳のなかが酢
漬けになるほどじいんじいんと鳴く声がはぜる。
はぜる二つの音は まだたっぷり含んだ水質
の青臭い空気の 人の皮膚のかたちをしてい
る層にいつのまにか かすめとられて。

 「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになるほど」にうっとりする。「にいにいぜみの耳のなかが」と書かれているのに、にいにいぜみを聞いている「私の耳のなかが」酢漬けになる感じ。「にいにいぜみの耳のなかが」酢漬けになったかどうかなんて、わからないからね。いや、自分の耳が酢漬けになるというのもわからないといえばわからないのだけれど、まだ自分の「肉体」であるだけに納得がゆく。他者の(蝉の)耳が酢漬けなったとき、どんなふうに音が聞こえるのかなんて、想像できないからね。いや、自分の耳が酢漬けになったらどんなふうに音が聞こえるかも、わからないといえばわからないのだけれど、自分のことだからまだ責任がもてる。変な言い方だが。
 うまく言えないが、ここには藤井が「藤井の肉体」で引き受けていることが、ふつうの文法(学校文法)を破って滲み出してきている。青臭い(嗅覚)、人の膚(触覚)と感覚が次第にひろがっていくのもいい。
 「にいにいぜみのじいんじいんと鳴く声が(私の)耳のなかが酢漬けになるほどはぜる。」という文章に直してしまうと、「意味」は「論理的」になるが、詩はそういう「論理」をねじまげて動く、論理を突き破って動くものだから、私は、藤井のことばが動いた通りに「肉体」を動かしてみて、「にいにいぜみの耳のなかが酢漬けになる」を楽しむのである。「誤読/妄想」を楽しむのである。

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木戸多美子「ケンミンノウタ」、ぱくきょんみ「ふり返ると」

2014-12-06 11:25:04 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
木戸多美子「ケンミンノウタ」、ぱくきょんみ「ふり返ると」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 木戸多美子「ケンミンノウタ」(初出『メイリオ』13年11月)は、私には、よくわからない。

明るい陽の中
のどかな傷菜という若葉をつまんで
あおむけに
そのまま●盆地に落下する
ゆっくり空を見ながら
シャクナゲカオルヤマナミニ
東西南北地上に横たわる身体
月がぼんやりと真昼のほてりを残し
埋め尽くされた星ぼしは熱霧に隠される
それは頭上に

 これは1連目。
 注釈に「●は福島あるいはすべての地名」と書いてある。その注釈がいちばんわからない。「福島」という固有名詞であっても、それが「すべての地名」に通じる、という具合に書くのが詩(文学)というものではないのか。名前を伏せるのなら●はいらないだろう。「そのまま盆地に落下する」でいいはずだ。
 なぜ●なのか。○や★、▲だと、どうなるのか。●の形と黒い色にどんな「意味」をこめているのか。
 いま私は「意味」ということばをつかったが、●では「福島」に「予見」を与えてしまう。単なる「抽象」を超えてしまう。それではつまらないと思う。視覚が一定の方向に動かしてしまう。
 また、私はことばを「視覚」で動かすことに疑問を持っている。「視覚」と「頭」で解読する抽象というものに、疑問を持っている。「合理的」過ぎて、いやな感じがする。ことばの経済学からすれば便利なのだけれど、便利が優先するのは、あまりにも味気ない。
 この詩には、また「傷菜」という、とてもいやな表記がある。「絆(きずな)」をもじっているのだろう。「絆」ということばに対してうさん臭さを感じて、それを批判しているのだと思うが、ここでも「視覚」で「意味」を一定方向に動かしている。このことばの経済学は、私には、人間味が感じられない。
 私は詩を音読する習慣はないが、もし音読(朗読)をするなら、「●盆地」や「傷菜」はどう読むのか。
 「音」の問題を棚上げして、「ケンミンノウタ(歌)」と言われても、納得できない。「声」にならないから「声」ではなく「視覚(文字、表記)」で表現するのだということかもしれないが、「声」にならないなら、「声」にならないからこそ、「声」以前の「声」をつかみ取るのが詩だろう、と思う。
 「東西南北地上に横たわる身体」や「熱霧」も「意味」を隠している。隠喩にすることで、隠された「意味」を印象づけようとしているのだろうが、私はそこに「正直」を感じることができない。



 ぱくきょんみ「ふり返ると」(初出『何処何様如何草紙』13年11月)には「音」がある。

ふり返ると いる
ふり返ると いない
ふり返らないと 不安なのか
ふり返るから またふり返る
ふり返らないために ふり返る

ふり返ると いる
ふり返ると いない

 「ふり返る」「いる/いない」が繰り返され、そういう行わけの連の間に、

ふり返ると
古ぼけた鳥打ち帽を目深にかむったまま誰かさんが棒立ちである。襟元も袖口にもぴちっと小綺麗に立ち上がっているのに、なんだ、あの帽子のよれ具合。長い旅だったからか、いまだ長い旅の途上であるからか、それとも人生の狩人の証しなのか。誰かさんは私たちの父さんである

 と、「過去」が語られる。語られる「過去」には時差がある。たとえば50年前、40年前……という具合に。あるいは、二日前、きのう、さらには1分前という具合に。
 しかし、その「過去」が「ふり返ると」という繰り返しにはさまれて、「いま」に呼び出されるとき、その「過去」から「時差」が消えていく。あれは50年前のこと、これはきのうのこと(ぱくは、近い過去のことを書いているわけではないので「きのう」云々は、方便なのだが……)という区別がなくなる。50年前のことがきのうのことより遠くに思い出されるわけではなく、同じ「近さ」で血のように「肉体」の隅々に行き渡る。
 「時差」のないまま、すべてが「いま」としてあらわれ、あらわれながら消えていく。消えるものを、ことば(ふり返るという繰り返し)で、何度も何度も呼び戻す。繰り返しが「時差」の「差」を消していく。
 その消す作業のなかに(消していくことばの動きのなかに)、詩がある。
 「ふり返る」を繰り返す。そのたびに、その「ふり返る」によって呼び出されるものが変化する。変化するが、その違いを越えて「同じもの(変わらない)」ものが姿を見せる。「ふり返る」(思い出す)という行為が変わらない。
 「同じ音」と「違う音」が交錯しながら、「音楽」をつくる。そこに、詩がある。



何処何様如何草紙
ぱく きょんみ
書肆山田
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粕谷栄市「経験」

2014-12-04 11:11:33 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
粕谷栄市「経験」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 粕谷栄市「経験」(初出「GATE21」19、13年11月)は入水自殺するつもりで埠頭へやってきたら、「私」の前に女が投身してしまった。それを見たために「私は、張り詰めた気分を失ってしまった。」この「張り詰めた気分を失ってしまった。」が、私は、とてもおもしろいと思った。
 なぜかというと、気持ち(思考)が次のように変わっていくからだ。

 どうして、そんなことが起こったのか。彼女は、何者
だったか。なぜ、その夜、そこにいたのか、分からない。
今となっては、その夜、本当に、彼女が、その霧の埠頭
にいたのかどうか。そのことすら、曖昧だ。

 「張り詰めた気分」がなくなると、すべてが「曖昧」になる。そそうか。もし、そうであるなら、「張り詰めた気分」で見たものはすべて「鮮明(明瞭)」になる。
 「気分」の充実によって「世界」が変わる。
 このことを粕谷は次のように言い直している。

 その後、永い歳月をへて、私は、あれは、私だけの幻
の経験だったと、考えることにしている。誰もが、自ら
は、気づくことはないが、そんな記憶を持って、この世
の日々を生きているのだ、と。

 これは「言い直しではない」と粕谷は言うかもしれないが、私は「言い直し」と「誤読」する。
 何かがある。それは「事実」か「幻」か。それを決めるのは「張り詰めた気分」(気分の状態)である。「気分」によって、あることが「事実」になったり「幻」になったりする。そういう「流動的」な「記憶」をもって、人は生きている。
 「流動」そのものを人は生きている。「自らは、気づくことはないが」。

 それは、私の終生の秘めごとだ。あの霧の夜、あの見
知らぬ女は、確かに、私の代わりに、岸壁から跳んで死
んだ。確かに、私の代わり、死んだのである。

 「自らは、気づくことがない」なら……私は、この詩の「見知らぬ女」を粕谷自身と呼んでみたい気がする。
 粕谷は気づいていないが、何かに張り詰めていた気分そのものが「女」になって投身(入水)自殺した。粕谷は、それを「肉体」の記憶として覚えている。いつでも思い出せるもの(経験)として、覚えている。それは粕谷の「肉体」を生かすための、ひとつの方法だったのかもしれない。
 粕谷は、ある種の「死」を経験した。それ以後、いつも粕谷は、その「死」といっしょに生きている。

瑞兆
粕谷 栄市
思潮社
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井坂洋子「からだ」

2014-12-01 10:49:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
井坂洋子「からだ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 井坂洋子「からだ」(初出「一個」4、13年11月)は「文体」ががっしりしている。悠然としている。強靱である。--何が書いてあるか、ということを感じる前に「文体」の強さを感じる。

乗り物がやってきて
私たちはつれていかれる
という話を今までたびたび読んだ
時間や死の隠喩を

生命はみな生きものの器を借り
食いつなぐために
あれこれ算段させる
生命の顕現はいたるところに

水滴は落下しかなくて
思いをこめて落ちるなんてこともない
涙が鼻筋をつたってあご先からしたたり落ちる
水滴よ
わたしは物体なのか?
ときどき体内から時間がそとに出たがって
喉奥の繊毛を逆撫で セキが止まらない
くるしいが
体はまったく容赦しない

 何が書いてあるのだろう。具体的な手がかりはあるのか、ないのか。「死/時間/生命/涙」ということばをつなげて、私は、「わたし(井坂、と仮定しておく)」が誰かの死に出会ったのだろうかと想像した。人の死に出会い、死について思いを巡らしている。涙を流したが、その流した理由(ともに過ごした「時間」の思い出)がうまくことばにならず、ことばとしてまとまらず、ただセキになって体の外にあふれる。声を上げて泣きたいが、泣き声にならずに、あるいは泣き声を抑えようとして、それがセキになってしまう--体は感情とは別な動きもしてしまう、ということを書いているのだろうか。

 井坂の文体を「強靱」と感じたのは、何かを書こうとして、それを具体的には書かずに、それなのに何かを感じさせるようにことばが動いているからだろう。「意味」は井坂のなかにある。それを「ことばの肉体」のなかに閉じ込めたままにしているからだろう。「意味」が書かれていない分、「意味」を考えさせる--そこに一種の「強要」のようなものがあり、強い、という感じがあるのかもしれない。
 一連目の最後、「時間や死の隠喩を」は倒置法の文体として読んだ。「時間や死の隠喩を/今までたびたび読んだ」ということなのだと思う。3行目の「話」を言いかえているとも言えるのだが、「時間や死の隠喩を」と叩ききって、「動詞」を読者に想像させる。どういう意味なのか考えるとき、どうしても「動詞」を動かさざるを得なくなる。その誘いが自然で、強い。自然と感じるのはことばにすでに「動詞」が含まれているからだ。
 2連目の最後の行「生命の顕現はいたるところに」も「動詞」を補わないと、「意味」がわからない。「ある」という「動詞」をおぎなうと、なんとなく「意味」ができる。それが井坂の意図した意味であるかどうかはわからないが……。
 そうやって「動詞」を補って読み進んだあとの3連目。
 ここでは「動詞」そのものを補わなければ「文章」にならない(「意味」にならない)という行はない。「わたしは物体なのか?」は「と、考える(思う)」と補うこともできるが「?」が「疑問に思う」というような「動詞」を含んでいるので、そうする必要はないだろう。
 そのかわり、ここでは読者はじぶんの体験(肉体の動き)を参加させなくてはならない。自分が泣いたときの体験、泣きたいのに泣き声が出ず、泣きたいけれど声を殺さなければならない、それが逆にセキとなって噴出して苦しくなった体験。そのときの肉体と感情の裏切り合いのようなものを動員しないといけない。
 そういうものを動員したときに、ここに書いてあることが「誰かの死に出会った体験」として、読者のなかに甦る。肉体が覚えていることが、肉体のなかに甦る。
 井坂は、そのときの「感情」を書かない。たが「肉体」の動き(動詞)を書き、「時間」を動かして見せる。「時間」を描いているとも言える。

 「一個」は読んだはずだが、この詩は覚えていない。読み落としている。読んで感想を書いたかもしれないが、覚えていない。そういう詩がたくさん「年鑑」に載っている。少しずつ感想を書いてみる。

黒猫のひたい
井坂洋子
幻戯書房

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