詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光「訪問者」、水谷有美「ナバホ族」、峯澤典子「回診前の窓」

2014-12-28 11:09:16 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
田中清光「訪問者」、水谷有美「ナバホ族」、峯澤典子「回診前の窓」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 田中清光「訪問者」(初出『生命』6月)には省略されたことばがある。1連目。

おとずれてくるのは一人だけになった
これまで次々にやってきては
幾世代を生きてきた人人
でもその一人一人が去るのを 誰も繋ぎとどめることはできなかった

 「おとずれてくるもの」(訪問者)は誰なのか。「一人だけ」と書いてあるが、それは誰なのか。友人か、家族か。私は直感的に、これは田中自身のことなのだと感じた。自分を「訪問者」と呼ぶのは変かもしれないが、自分自身と向き合って対話している--そのときの感じ。自分自身と対話しながら、人間の歴史(幾世代を生きた人人)を思っている。そのとき、「人人」というのは歴史的な何かをするというよりも、生まれて、生きて、死んで行くということをする。人間の生と死について思いを巡らしている--そういう感じが、この静かな1連目、「主語」を明記しない(特定しない)書き方のなかに感じられる。

なんの見張りも立てずに
この寂しい峡谷に生きる--
飛び巡る黒揚羽のやさしい訪問を迎えて
野の花影を眼に挿して

 「訪問者」は「黒揚羽」と言いかえられている。さらに「野の花影」とも言いかえられている。蝶も花も客観的には「私(田中自身)」ではない。けれど、それを田中は「私」のように感じ、対話者と感じ、迎え入れている。田中が蝶を見る。そのとき蝶は対話者となって生きる。野の花を見る。そのとき花は対話者となって田中の「肉体」のなかで動く。そういう静かな一体感。

有なるものの結び目はどこにあるのか
一事に捉われ 見えなくなった自己を
四季のめぐりのなかで円座に戻し

 この3連目に「自己」ということばが出てくる。いままで書かれなかった(省略されていた)「主語」である。
 田中の「思想(肉体/ことば)」について私は詳しくはない。だから直観で書くしかないのだが「有なるものの結び目」という表現のなかに、「一元論」に通じるものを感じる。2連目にもどって言えば、蝶を見る。蝶が「有る」と見る。そのとき、蝶の形のなかに、蝶と「私」が結び合わさって「有」る。蝶がいなければ、「私」はない。同じように野の花がなければ「私」もない。野の花が「有る」とき「私」も「有る」。
 「一事」とは何か。具体的には書かれていないが、社会的なことがら(仕事?)などに手一杯で、「私」の存在について(どのような形、運動で「有」として存在しているのか)、考えるのを忘れていた。感じるのを忘れていた。そういう「自己」が、いま、ふと蝶を見て、野の花を見て、その瞬間に「有」を感じている。
 友や家族がいなくても、「私」は「私」の訪問者になって対話している。
 この「訪問者」は最終連で、また別の形になる。

やがておとずれてくる最終の訪問者を待つ
あるがままの生命の流れのなかで
ここに今しかない言葉で 語るために

 「最終の訪問者」。私はこれを「死」と感じた。いまは「生きている私」が蝶や野の花の形として私を訪問し、対話する。その「結び目(出会い)」のなかに、「私」というものが「有」の形で存在する。
 その最後の「訪問者」は「死」である。「死」と対話する。
 1連目で書かれていた「幾世代を生きてきた人人」は「あるがままの生命の流れ」という形で甦っている。その「流れ」のなかに田中は入っていく。そうして「幾世代を生きた人人」の「ひとり」になる。
 そういう予感が、静かに書かれている。この静けさは美しい。



 水谷有美「ナバホ族」(初出『予感』6月)。「北米先住民の一部族」というサブタイトルがついている。私はナホバ族について知らない。こう書くと、知らないことは調べればいい(調べないといけない)と叱られるのだが、調べるといってもどこまで調べれば「わかる」になるのか、見当がつかない。だから、私は「知らない」まま、「北米先住民の一部族」と言いなおしている水谷のことばを信じて詩を読む。水谷が「ナホバ族」をどう書いているか、その書き方のなかにあるものを読む。
 水谷の詩も「主語」が省略されてはじまる。

何を食べ
何を着るか
思い煩うことはない
今 ここにあるものを口にし
手の届くところにある衣に
袖を通す

 誰が? 水谷だろうか。「ナホバ族」だろうと私は思う。ナホバ族は「何を食べ/何を着るか/思い煩うことはない」。そんなふうに水谷には見える。その生き方がいいなあ、と感じる。そうすると、ちょっと変なことが起きる。

私が 土になれば
草木は成長し

私が 川になれば
流れに魚はもどるだろう

私が 風になれば
花々は薫り

私が 道になれば
小石は鎮まるだろう

 突然「私」が出てくる。しかし、この「私」は水谷なのか。水谷というよりも「ナホバ族」のだれかであろう。ナホバ族の「思想/肉体」がここでは書かれている。ナホバ族の「思想/肉体」なのに、水谷はナホバ族に共感し、一体化しているために「私」と書いてしまうのだ。
 「土になれば」「川になれば」と「なる」ということばがつかわれているが、ここでは、水谷は、そうしたものに「なる」前に、ナホバ族に「なる」。なってしまっている。そうして、ナホバ族の「肉体」で世界と結び合う。田中が「有なるものの結び目」といっていたときの「結び目」に近いものが、ここにある。
 「一元論」の世界である。

全ては
世界に用意され

めぐりめぐって
まだ見ぬ岸辺に
たどり着く

 「まだ見ぬ岸辺」とは「彼岸」だろうか。「死」さえも「世界」の「ひとつ」。世界のなかに「死」は共存している。死と私が結び合うとき、死ぬ。いや「死に、なる」のだ。それは自然の摂理であって、あるいは道理であって、忌避することがらではない。「死」へたどりついて、「永遠」に「なる」のかもしれない。
 「なる」という動詞のなかに、無限の可能性がある。「なる」が繰り返されるたびに、世界がどんどん豊かに美しくなっていく。そういう「肉体/思想」を生きているのがナホバ族だと、私は感じた。ナホバ族だと、水谷の詩をとおして「わかった」。



 峯澤典子「回診前の窓」(初出「文学界」6月号)はタイトル通り、病院で回診前にまどから外を見ている。

麻酔が切れると夕暮れの部屋にいた
腹部の傷に慣れるまで
窓から屋上のシーツを眺めて過ごした
雨が乾けば 風をはらめる
たやすさがひとにもあることに 長い間気づけなかった

 「長い間気づけなかった」ことがある。それに気がついた。ひとは「たやすく」に何かになれる。(風をはらめる--と、峯澤は書いてるが、私は水谷の詩を読んできたつづきで「なる」という運動としてこの詩を読んでしまう。)
 どうすれば?

数年前 別の病棟に 生まれたばかりの赤ん坊を見に行った
日向で かるく広げられた両手には
ひかりが ふんだんに集められていた
母になったひとは 手渡したひかりのぶんだけ
かんたんに風をはらみ 空に近づいて眠っていた

 「無心」ということばがふいに思い浮かぶ。赤ん坊を無事に産んで、いまは何も考えずに(無心で)眠っている女(友人だろうか、家族だろうか)。その人は風をはらんで輝くシーツのように、空に近づいて、ゆったりしている。
 「たやすく」はこの連では「かんかんに」と言いなおされている。
 「風をはらむ」よりも、この「たやすく」「かんたんに」の方が、峯澤には大切なことばなのかもしれない。何かに「なる」ことはむずかしくはない。「たやすく」「かんたんに」何かに「なる」。赤ん坊が出てくるからかもしれないが、「無心」になれば、「たやすい」「かんたん」なことなのだ。
 最後の2行。

横たわってみる空は
高くなっていた

 これは高くて手が届かないではなく、峯澤自身が風をはらんだシーツになって、空の高みまでのぼっていったために、その高さが実感できたということだろう。
 異物を摘出したあとの、ただ回復を待っているだけの時間--そのなかで気づいたことが、静かに書かれている。

夕暮れの地球から
田中 清光
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池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」

2014-12-27 12:14:48 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
池井昌樹「蜜柑色の家」、管啓次郎「アイツタキ」、鈴江栄治「視線論」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 池井昌樹「蜜柑色の家」(初出『冠雪富士』6月)。『冠雪富士』については全作品の感想を書いたので、ここではあまり繰り返さない。

しかし、あれから、ラーメンと鉄火巻に満ち足りた私と訪
問着姿の若い母はどうしただろう。煮干の出汁の匂いのす
る薄暗い駅舎の改札を抜け、微かに潮鳴りを聞きながら、
いまはないディーゼル列車にゆられ、いまはない窓外を眺
め、いまはない、何処へ帰っていったのだろう。

 「いまはない」が繰り返される。そのたびに、かつてあったものが思い出されている。けれど思い出せない。「何処へ帰っていったのだろう」。これは、わかりすぎているために「何処」と言えない場所だ。「何処」と言う必要がない場所だ。言わなくても、池井にはわかっている。
 「思い出す」という動詞が必要がない。池井が「いま/ここ」にいるとき、いつも池井の「肉体のなか」にある。

あの頃は祖父母もいたな。愛犬コロも尻尾振り振り迎えて
くれたな。父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。
いまはもうなにもかもことごとく喪われてしまったにも拘
さず、いまもなお、あの頃のまま、蜜柑色の陽に包まれた
家。

 「父はまだ会社だろうな。姉は帰っているかな。」ということばが、「家」が池井の「肉体」のなかにあることを語っている。「いま」は「過去のいま」とぴったり重なっている。「いま」そこにいるはずのない父と姉が「過去のいま」として「いま/ここ(池井の肉体)」のなかに生きている。それは「思い出」ではなく「現実」である。



 管啓次郎「アイツタキ」(初出『遠いアトラス』6月)。

「おれにはきみの世界観はわからないよ
俺たちの地図は縮尺がちがう
それにおれはときどき地図に嫌気がさして
存在しない海岸線や火山まで描きこむことがある」
と私はわざといった。何という意地悪。ぬるいビールを
茶色の瓶の口から少しずつ飲みながら
それからふたりで長いあいだ黙っていると
太陽が水平線を出たり入ったりした

 「黙っている」その時間のうちに「太陽が水平線を出たり入ったりした」というのは「矛盾」。そういうことは、ありえない。「現実」にはありえないけれど、意識のなかではありうる。この「意識」を何と呼ぶか。まあ、「意識」と呼ぶのが一般的なのだろうけれど、私は「肉体」と呼びたい。
 また、「肉体」と呼んでしまうので、たぶん、私の書いていることは、ほとんどの人に伝わっていない。
 でも、この詩なら、多くの人が「意識」と呼んでいるものを、私が「肉体」と呼んでいる「理由」のようなもをの説明するのに役だってくれるかもしれない。(こういう読み方は、詩の味わい方として「正しい」とは言えないのだが、あえて、そうしてみると……。)
 二人は会話しながら夕陽を見ている。会話している。その会話は「合意」に達しない。一致点を見出せない。でも、だからといって二人が対立するわけではない。一緒にいる。それだけではなく、ビールを飲んでいる。二人とも瓶の口から直接ビールを飲んでいる。そのとき、そこにあるのは「飲む」という「動詞」と、その「飲む」を実現する「肉体」。そういう「具体的なもの/こと」がそこにあって、「ビール/飲む」という「もの/こと」は何度も何度も繰り返されている。そのことを「肉体」は覚えている。「ぬるいビール」という表現が出てくるが、「肉体」はそれが「ぬるい」と「わかる」。それは「ぬるい/冷たい」を「肉体」が覚えていて、それを思い出すからだ。「意識」が覚えているのではなく、「肉体」が覚えている。「意識」が思い出すのではなく、「肉体」が思い出す。この「肉体」はあすも、あさっても、それからずーっとつづいていく。その「肉体」がつづいていく時間のなかで太陽が昇ったり沈んだりする。それは「肉体」がこまれでつづいてきた時間のなかで繰り返されたことと同じである。太陽が昇り、太陽が沈む--ということを「肉体」が覚えていて、「肉体」が思い出すのである。
 海(水平線)も太陽も「肉体」の「ひとつ」である。ビールも「肉体」の「ひとつ」である。それは「意識」によって「方便」で別個の存在としてとらえられているけれど「肉体」としては時間を越えてつながっている。
 いつまでも「いま」。
 そういう「永遠」がここにある。
 美しい詩だ。



 鈴江栄治「視線論」(初出『視線論』6月)。空白の多い詩である。1行のあと、必ず1行のあきがあり、1行のなかにも1字あきがある。文字を見るよりも空白を見る方が多い。私には、そういうことくらいしかわからない。
 おわりの方の部分。

総身の 不定を

はるかにも 探るものとして

深みのみを 貫いている

なお 明るみに 加算する

結び目は 放たれて

終らない 淵を 晒す

 「動詞」がいくつか出てくるが、それが「肉体」としてつながらない。私の「肉体」では「動詞」をひとつのつながった「こと」として再現することができない。
 「探る」「貫く」「加算する」「放つ」「晒す」(「終る」+「ない」という用言もあるが……。)
 これは「肉体」ではなく「精神(意識)」で読む詩なのだろう。「意識」を飛躍させる(空隙、空間を飛び越えさせる)ことでつかみ取る詩なのだと思う。
 「視線」と書かれているが、その「視」は肉眼で見るというのとは違うものなのだろう。「示す」へんがついている。もしかすると、その「示す」ということが「視」の重要なことがらなのかもしれない。「見る」という「動詞」はもともと「肉体」から離れたものを「見る」、つまり対象と「肉体」のあいだに距離があるときに可能な「動詞」だけれど、その離れたもの(対象)を指で指し示して、それを見る。「いま/ここ(肉体)」からはなれる、「肉体」の限界を飛び越えるということが、そこに含まれているのかもしれない。
 「肉体/精神」という「二元論」でこの詩を見ていくと、鈴江の書いていることがあざやかに実感できるのかもしれない。
 私には「わからない」詩である。


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根本明「潮干のつと」、山田亮太「戦意昂揚詩」、有馬敲「ほら吹き将軍」

2014-12-26 11:14:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
根本明「潮干のつと」、山田亮太「戦意昂揚詩」、有馬敲「ほら吹き将軍」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 根本明「潮干のつと」(初出『海神のいます処』5月)。詩集の感想を書いたとき、何か書いたはずだが、忘れてしまった。同じことを書くかもしれない。まったく違ったことを書くかもしれない。

しおひのつと、と
祈りのように口ずさむと言葉は
弦月のように東岸の潮をひきしぼり

 この3行がとても好きだ。
 「しおひのつと」という音を口にするとき、ひとは何を思うのだろう。根本は何を思うのだろう。私は、あらゆることばに無知で、この「しおひのつと」の「意味」がよくわからないのだが、わからないままに魅力を感じる。
 (「潮干のつと」については、根本が「潮干のつととは/海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と言っているので、干潮のとき海からもたらされるもの、たとえば貝とか昆布とかだろう。)
 「しおひのつと」には音の魅力がある。「潮干(しおひ)」は「しおひ」と読むのか、「しおひ」と書くけれど「しおい」なのか。私には「お+ひ」という音は発音しにくい。「つと」は「しおひ」の弱い子音とは違って強い子音が動いている。「つと」の「つ」は、話し慣れてくると母音が脱落して子音だけになるかもしれないが、私はそのことばを知らないのではっきり子音と母音を音にしてしまう。「しおひ」は聞いたことはないが漢字で読んでしまったので干潮のときという意味がわかる。で、意味のわかることばはどうしても早口になって「ひ」のなかの子音(H)が邪魔になり、読みとばしたくなるのだ。
 脱線したかな?
 こういう意味が半分わかって半分わからない、そして音も正確にはどう発音していいかわからないことばというのは、一種の「いのり」に似ている。こどものときに聞く、おとなの「いのり」。何を言っているかわからない。音も意味も不正確。しかし、それを口真似すると何かがわかる。「声」のなかにある、何かに働きかけようとする力のようなものを感じる。人間の力ではできないことを、ことばの力で動かす感じだな。「いのり」というのは。
 で、それが「弦月のように東岸の潮をひきしぼり」と、干潮を引き起こす。海の潮が引くと、潮干狩り。海の幸を、海に入らずに取ることができる。そのよろこびが、そのことばからあふれてくる。
 ことばと宇宙(干満の動き)が、まだ、生きていた時代。野蛮というか、原始的というか、あるいは「絶対的」というか。あらゆるものの形が定まっていない「混沌」の魅力がそこにある。ことばにすることによって、世界が生まれてくるときの生々しい動きが、肉体に直接響いてくる感じがする。こういうとき、ことばの「意味」ははっきりわかってしまうといけないのだと思う。はっきりわかると、ことばの「限界」もわかってしまうから。半分わかって半分わからない。このいいかげん(?)な感じが、きっと「もの/こと」を動かしていくんだなあ。宇宙と呼応するんだなあ、と私は感じる。
 で、この感じは、私にはセックスを思い起こさせる。セックスというのは半分わかって、半分わからない。「わかっている」というのも勘違いかもしれない。でも、わかっていようと、わからないままであろうと、肉体は交わって、快感をむさぼってしまう。限界がわからなくなり、私が私ではなくなる、私が私の外に出てしまう--エクスタシー。

私は聴く
はだかの海人の男女が一列にかがみ
はるかな時の影に滲みながらすなどっていく
あの猥雑な哄笑を

 潮干狩りだから、貝を取る。貝はどうしたって女性性器である。まわりには昆布などの海藻もあるだろう。それは陰毛である。裸の男女が、そういうものを取りながら話すとなれば、どうしたってセックスがからんでくる。明るい光のなかで、きのうの夜を思い、あるいは今夜のことを夢みて、猥雑なことをほのめかし、笑いあう。その豊かさのなかに、「豊漁」もある。

さらに聴く
海崖の松林で小さなものらが
草書のように乱した歌をうたうのを
幼い私もその中にあり
海神の御告げをうたっていたのではないか

 「草書のように乱した歌」とは「猥歌」であろう。そのことばは、こどもにはやはり半分わかって、半分わからない。「草書」だから「楷書」のようになじんでいないが、おぼろげな形をしかわからない。「正解」と「誤解」のあいだをゆらいでしまう。そんな感じで、「意味」はわからないけれど、「あのこと」だとわかる。「あのこと」もほんとうは半分わかって半分わからない。おとなになったら全部わかると「肉体」でわかっている。「あのことだよ」「あのことって?」「あ、ごめん、まだ知らないんだね」というようなこどもの知ったかぶりの会話みたいな感じだね。そのなかにかいま見える「絶対」の印象。
 この「神話」のような、根源的な力。それが、いま引用した部分に凝縮している。
 根本の詩は、そういう宇宙の神話(海辺の神話)のようなものが、コンビナートによって破壊されている現実を批判しているのだが、その批判は「神話」が魅力的であればあるほど強烈になる。根本の書いていることばは、私には強烈に響いてくる。「音」として聞こえてくる。



 山田亮太「戦意昂揚詩」(「アフンルパル通信」14、5月)の1連目。

きみにはおはようと言う最後の朝
さようならこの正しい場所の何が間違っているかを見る
自分の目によってではなく世界中のひとびと
未来のひとびとそして死んでしまったひとびとの目で
これは
きみひとりの選択だから

 文章が、不思議な感じで切断/接続している。「意味」をつかみ取ろうとするとことばを補わないといけない。たとえば2行目の「さようなら」のあとに「と言う」とか。でも、もし「さようならと言う」ならば、そのあとには「最初の朝」、あるいは「最後の朝」が必要になるのかなあ。もし、「と言う」を補ってしまったら、それは「誤読」になるのか、正しく読んだことになるのか。
 「意味」をつかみ取ると「意味」を捏造するは、どう違うだろう。そういうことも気になってしまう。
 山田はこの1連目を、少しずつ変えながら、何度も何度も書き直している。

言いたいときに言いたいだけおはようと言う
さようならと言うここから逃げたいと思う気持ちも永遠ではないから
好きなものを好きなだけ食べる家で何もかもが正しいその正しさに挑む未来を

 この不思議なことばの接続(切断)は、根本の書いている「いのり」に通じると思う。半分わかって、半分わからない。そういう状態のまま、ひとりひとりが動く。



 有馬敲「ほら吹き将軍」の「77」(初出『ほら吹き将軍』6月)には藤圭子(その後、名前の表記を変えたようだが)をまねする「ほら吹き将軍」が登場する。

ほら吹き将軍はマスカラを付けた両眼を
京人形のように愛くるしく見開き
私ガ男ニナレタナラ 私ハ女ヲ捨テナイワ
とドスのきいた低音でスポットライトを浴びる

ほら吹き将軍が女装して行く
時代の波に巻き込まれて身動きできず
闇夜に花を咲かせた女歌手の死を悼みつつ
夢ハ夜ヒラク と帰り道で口ずさむ

 私は藤圭子の歌では「新宿の女」がいちばん好きだ。デビュー作(最初のヒット曲?)だから印象が強いのだろう。
 私は音痴なので、有馬の詩を読みながら「ドスのきいた低音で」にとてもびっくりした。そうか、藤圭子は「低音」だったのか。たしかに思い出すと低い声かもしれない。でも、私には「低い声」という「感じ方」はなかった。声の高い低いではない、別なものをきいていたのだと思う。「意味」でもない。のどが窮屈な感じ。のどが苦しい感じ。声を出すときのどが苦しい--そのときの感情のようなもの。「うれしい」とは反対の何か。「うれしい」ではないということはわかるが、それでは何かというと、こどもの私にはわからなかった。
 私はいつでも、わからないけれど、何かが「わかる」と錯覚する(錯覚させてくれる)ものが好きだ。
 脱線した。
 この詩の「ほら吹き将軍」とは誰だろう。架空の人物か。架空の人物に仮託した有馬のことか。わからない。「ほら吹き将軍」が男であり、男だから「女装」している、ということは「わかる」。自分ではないものになりたいのか、あるいは他人から定義される「自分」というものから脱出したいのか。言いかえると、「ほんとうの自分」に還りたいのか。わからない。わからないけれど、「いま/ここ」に満足していないことは感じる。
 それが藤圭子の姿にも、藤圭子が歌った「女」の姿にも見える。
 「わかる」は、きっと、あとから、思い出したようにやってくるものなのだろう。それまでは、「ほら吹き将軍」が「女装」する、嘘をつくように、嘘で何かをつかみ取るふりをするしかない。そんな余裕のなさ(?)みたいなものが、藤圭子の硬い声の響き(音)の中にあったように思う。
 また脱線した。



ほら吹き将軍
有馬 敲
澪標

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くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」ほか

2014-12-25 10:02:50 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ」、嶋岡晨「追悼 故片岡文雄に」、中神英子「あかつきの木」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 くぼたのぞみ「ピンネシリから岬の街へ JMCへ」(初出『記憶のゆきを踏んで』5月)。
 うーん、私はつくづく「もの」を知らない。固有名詞がわからない。「ピンネシリ」は地名であるらしい。どこかの岬とつながっているらしい。「JMCへ」というのはきっと人の名前なんだろうけれど、見当がつかない。

ニアサランド製のサンダルはいた
爪の先から土埃はらい落とすように
男は 真夏の岬の街から船に乗り
赤道をひらりとまたぎ
降りた港はサウサンプトン

 イギリスのどこか? たしかサウサンプトンはイギリスあたりにありそう。

植民地生まれのエリオットや
パウンドみたいに 住みついて
仕込んだファッション
ほら 岬の街に帰ってきた
髭をはやした23歳
黒いスーツにネクタイしめて
手にはこうもり傘と革鞄
プロヴィンシャルの 属国の田舎者
美しい風景を闊歩する

なあんだ
60年代は世界中どこも
そんな時代だったのか

ここから出て行く
閉じ込められずに
プロヴィンシャルとは
地方とは
そんな思いを募らせる場所

 よくわからないが、くぼたは60年代、20代だったのだろうか。他人の60年代と自分の60年代を比較している。あるいはJMCにかわって60年代の青春を思い出しているのだろうか。
 プロヴィンシャルということばも知らないが、地方と言いなおされているから、「地名」ではなく地方という意味なのだろう。そこから出て行くことを60年代の青春は思い描く。それは世界中で起きたこと--と書くならば、くぼたは「外国」にはいなくて、日本にいたということかな? 日本の地方にいて、どこかへ出て行くことを夢みていた。「ピンネシリ」から「岬の街」へ。

粉雪が舞い狂うピンネシリの
ふもとに広がる青い幕
その彼方へ
先住びとの邪魔をせずに
アイヌモシリのすみっこに
どろん
紛れさせていただけるかな
そんな祝祭はくるかこないか
tokyo の初冬から初夏へくるり反転
岬の街まで出かけていって
青い山から幾度も 幾度も
遠く離れて 考える

 「アイヌモシリ」ということばから想像すると、北海道と縁のある土地のようだが。
 くぼたは「地方」から出て行くのではなく、東京から北海道のどこかへ来たのか。北海道から東京へでて再び北海道へもどってきたのか。
 たぶん、後者だろうなあ。
 もどってきて、60年代の青春を思い出している。そういう詩なのだろう。そういう思い出に、エリオットやパウンドが紛れ込む。「地方」でも「東京」でもなく、「世界」が紛れ込む。60年代は青春は「世界」とつながっていたのだ。
 いまでも、世界はどこでもつながっているだろう。青春はかけ離れた場所をまだ見ぬ「ふるさと」とすることができる。そういう特権を持っている。そんなことを思い出している詩なのかもしれない。
 この詩の特徴は、そういう思い出というか、思い出を思い出すいまの感じを描くのに、やたらとカタカナをつかうことである。私はカタカナ難読症(正確に読めない、書けない)である。そのせいかもしれないが、くぼたの書いていることが、いま/ここから切り離されているように感じてしまう。カタカナのために。
 ノスタルジーはセンチメンタルと同じように肉体に絡みついてくるようで気持ち悪いものが多いが、カタカナのせいで、私とは「無関係」という軽さで聞こえてくる。「ピンネシリ」がわからないせいもある。
 「ピンネシリ」がわかり、ほかのカタカナのことばもわかる人には、逆に、精神(頭)にべったりとはりついてくる詩かもしれないなあ、とも思った。外国のカタカナ、その文体で世界へ出て行こうとした青春、それを生きた人には、まるで自分のことを書いているように見えるかもしれないなあ。

ニアサランド製のサンダルはいた
爪の先から土埃はらい落とすように

 は、私なら、助詞を省かずに

ニアサランド製のサンダル「を」はいた
爪の先から土埃「を」はらい落とすように

 と書くだろうなあ。「を」を省略すると「歌(歌謡曲)」のようにも感じられる。「意味」というより「声」を感じる。そこが、なんともべったりした感じなのだが、このべったりをカタカナが洗っていく。
 と、私は感じるが。
 カタカナに強いひとは、その「を」の省略のときの「声」の感じで、カタカナの音と意味を受け止めるかもしれない。
 抽象的に書きすぎたかもしれない。
 わからないことを書くと、どうしても抽象的になる。



 嶋岡晨「追悼 故片岡文雄に」(初出『洪水』5月)。
 具体的な思い出が書かれていない。かわりに、

齢(とし)も順序もわきまえず
才能のありなしにも会釈せず
死はてっていしたデモクラシー

 という「哲学(思想)」が書かれている。びっくりしてしまった。びっくりしたまま読みつづけると、

おまえさんもキリストの汗の一滴なら
  わたしの頬にしたたり 語り
つづけて人生の 脇腹のまっ赤な穴から
  わたしへの悼(いた)みの声を もらしてくれ。

 追悼するかわりに、追悼を求めている。それくらい悲しい、ということなのだろうけれど、これではあまりにも「思考」が強すぎないか。
 片岡のことはわからないが、嶋岡は、こんなふうにことばを「哲学」にしてしまのうが好きな詩人なのか、と思った。「意味」を考えれば、嶋岡が悲しんでいるとわかるけれど、追悼は「意味」でするものなのかなあ、と奇妙な疑問が浮かんだ。
 一か所、「キリストの汗の一滴」ということばから、あ、片岡はキリスト教徒だったのか、と初めて知った。そこだけが「具体的」に見えた。「事実」が見えた。



 中神英子「あかつきの木」(初出『群青のうた』5月)。初夏の、明け方の時間を書いている。その最後の連。

誰かと無性に自分たちを問い合いたい奇妙な渇きのある
夜。どこかに深い深い群青の本物の夜が川になって流れて
いると思える夜。川はやがてその大きな木の元で夜明けの
光を帯びる。まだ、遠い。そこだけうっすらと朱に染まり、
枝枝を豊かに広げた黒い姿を見せるあかつきの木、です。

 夢のなかで、夢なのに、「本物の夜」を見ている。それがおもしろい。現実よりも夢のなかに「本物」がある。
 そうしてみると。
 この視点から嶋岡の追悼詩を読み直してみると、どうなるだろう。
 具体的な片岡の思い出よりも、片岡の死を思うときにふと浮かんできた「哲学(ことばの夢)」である数行、

齢も順序もわきまえず
才能のありなしにも会釈せず
死はてっていしたデモクラシー

 ここに「本物」の片岡が「いる」ということになるのかもしれない。嶋岡は嶋岡自身の考えを書いているようにも見えるが、その考えには片岡の思考も紛れ込んでいる。片岡は死についてきっとこう考えるだろう、片岡の「本物」の考えが、このことばのなかに動いている、その「本物」の片岡と、嶋岡は詩を書きながら出会っている--そういう詩なのかもしれない。


影踏み―嶋岡晨詩集
嶋岡 晨
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四元康祐「images & words 言葉の供え物2」、春日井建「デスモスチルス」、北川朱実「夏の音」

2014-12-24 09:37:08 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
四元康祐「images & words 言葉の供え物2」、春日井建「デスモスチルス」、北川朱実「夏の音」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 四元康祐「images & words 言葉の供え物2」(初出「びーぐる」23、4月)は写真と詩が一体になっている。写真は引用できない。街角でだれかがシャドーボクシングをしている。

あなたが未だ書かざる詩の一行の
僕は孤独なシャドウ・ボクサー
ことばをタップ、ピンチ、そしてスワイプ!
叩きつける雨足の向こうにひろがる夕焼けの端っこで
いつか一緒に泣けたらいいね

 写真が先にあって、ことばを後から書いたのだろう。あまりに写真とことばが一体になりすぎていて(説明になりすぎていて)、おもしろみに欠ける。ことばの自立性がない。ことばがどこへ行ってしまうのか、という不安になることがない。雨とは対極(?)にある「夕焼け」がおもしろくない。「いつか一緒に泣けたらいいね」というセンチメンタルもいやだなあ、と思う。



 春日井建「デスモスチルス」(初出『風景』5月)。「デスモスチルス」とは何だろう。見当がつかない。わからないまま、読む。
 きのう読んだ吉野弘「噴水昂然」は「噴水」という知っているものが書いてあったが、実際に書かれているのは私の知らない噴水であった。詩とは、何を対象にして書いていても、結局「私の知らないこと」が書かれているとき、詩として立ち上がってくる。知っていることが書かれている限り、それは詩ではない。--いや、これは正確ではないなあ。対象がすでにもっているのに、それを見すごしてきたもの。それを、ことばの運動で明確にしたもの、それが詩である。噴水が水を噴き上げ、その水が落下することは知っていたが、そのことをことばにすることで、そこからはじまる意識の運動があるとは知らなかった。考えてこなかった。それがことばになっているために、吉野のことばを読んだとき、そこに詩を感じた。
 詩がそういうものであるなら、何が書いてあるかは問題ではない。どう書いてあるかが重要になる。だから、「デスモスチルス」が何であるかを、私は調べない。目が悪いから辞書は引きたくない、というだけのことなのだが、私は何でも「理屈」にしてしまう。
 で、その作品。

過ぎた歳月を惜しむな
私は曝(さら)されて立つ
永劫の番人となることを夢みながら
すきとおる寒さを越えて
私は光と共に在る

失った肉を悲しむな
空洞となった私は
もはや目蓋さえ閉じることができぬが
私は知っている
遥かなる日に
数えきれぬ愛の技をもって
私は光の淵を渉(わた)っていた
その追憶に浄(きよ)められて
私は抽象の古代と成り果(おお)せた

 「過ぎた歳月を惜しむな」「失った肉を悲しむな」という行からは、「デスモスチルス」がいまは存在しないことがわかる。死んでしまっている。そして、「私は光と共に在る」と、春日井がデスモスチルスに同化して(デスモスチルスになって)、私は存分に生きたのだからと生涯を誇っていることがわかる。「闇と共に在る」ではなく「光と共に在る」というとき、「光」は「栄光」である。栄光と共にあるのだから、「悲しむな」というのである。
 最終行の「抽象の古代と成り果(おお)せた」にも、自分を誇る意識が見える。「成り果(は)てた」というのが他人の見方かもしれないが、私は「成り果(おお)せた」のである。自分の一生を生き、望みを果たした。
 ギリシャ、ローマ時代の英雄のひとり? ギリシャ神話の神?
 神かもしれないが、人間ではないだろうなあ。一緒にその時代を生きた人の気配が感じられない。「永劫の番人」「抽象の古代」は抽象的すぎて、まるで「科学記号」か「数学の記号」のように見える。
 古代の、私の知らない生き物なんだろうなあ。小さい生き物というより、巨大な生き物。ティラノサウルスみたいなものか。「曝されて立つ」「永劫の番人」「空洞となった」ということばが、白骨化した恐竜、恐竜の骨格標本を感じさせる。巨大な胸郭がのなかに「空間」が広がっている。過去の記憶が時を越えて広がっている。

数えきれぬ愛の技をもって

 は、その生き物が世界を支配していた(世界にいっぱいいた)という印象を呼び起こす。最強の恐竜だったのかもしれない。全盛期は、その生き物は「神」そのものだっただろう。無意識に世界を支配していただろう。
 そういう生き物と一体化して、春日井は自分の生涯(いままでの生活)を振り返っているのか。
 うーん、いいなあ。かっこいいなあ。
 四元の書いている「いつか一緒に泣けたらいいね」のセンチメンタルとは大違い。他人に感情を押しつけない。他人の感情なんかいらない、ということばの調子がさっぱりしていて気持ちがいい。
 詩は谷川俊太郎が「1対1」(朝日新聞デジタル版)で書いているように「一対一」で向き合うものなのだろうけれど、私は、何篇かの詩をつづけて読むと、どうしてもほかの詩と比較/関連づけをしてしまう。感想にほかの詩の感想が紛れ込んでしまう。
 春日井の詩だけを読んでいたら、あまりにさっぱりしすぎていて(抽象的すぎて)感想を持たずに素通りしてしまったかもしれないが、センチメンタルなことばのあとに読むと、この具体的には書かない書き方に強い意思を感じ(文体意識を感じ)、この詩はいいなあと思うのである。
 「デスモスチルス」が何のことがわからないが、ある生涯を終え、消えていくもののいさぎよさがあふれていると感じる。



 北川朱実「夏の音」(初出「東京新聞」5月31日)。

ネアンデルタール人が
熊の大腿骨の欠片で作った
小さなフルート

アフリカのひんやりした洞窟を出発し
ユーラシア大陸をさまよって
中央アジアで消えた三万年が

細くふるえながら
祭の村を巡っていく

(音も時間も
(うまれた場所へ帰ろうとして

 うーん、今度は「ネアンデルタール人」か。これも古代だな。古代と現代の往復。フルート(笛)から「音楽」の誕生そのものを思いめぐらしている。村祭り(日本の? 中央アジアの? アフリカの?)の笛。その音は、ネアンデルタール人が熊の骨でつくったフルートの音を共有している。
 スケールが大きい。時間のとらえ方が巨大だ。

カーン、   カーン、
人の笑い声に似た鹿(しし)おどしの音が
反転しながら空に吸われていく

碧い水を庭じゅうに巡らせたまま
蜜蜂を追って行方をくらました父が

頭に花粉を積もらせて
草ぼうぼうに立ち尽くしている

 「鹿おどし」「父」。そうすると、「祭の村」は日本か。そうともいえないかもしれない。アフリカか中央アジアか、どこかで村祭りに出会う。そのとき北川は日本の祭りを思い、父を思ったということかもしれない。
 どっちでもかまわない。
 北川は

(音も時間も
(うまれた場所へ帰ろうとして

 という「時間」と「場所」を超えた運動に詩を見ている。それがわかれば、それが「どこ」「いつ」かは問題ではない。
 それがどんなに遠く離れた「時間」「場所」であろうと、人がそれを思うとき、その「時間」「場所」は「いま/ここ」のすぐ隣にある。密着している。切り離すことができない。
 この接続感(離れているのに、いまここにある感じ)が詩なのだ。
 春日井の詩にもどっていえば、デスモスチルスが遠い存在であっても、春日井はことばを書くときデスモスチルスと一体になっている。そのことが詩を成立させている。
 しかし難しいもので--四元の詩も写真のなかのボクサーと一体になっているのだが、それが写真で示されているためにおもしろくない。「わからない」がないから、おもしろくない。わからないもの(たとえばデスモスチルス)を想像しながら、その想像力のなかへ自分の肉体を投げ込んでいって「一体感」をつかみとるとき、「おもしろい」という感じが生まれてくる。自分の「肉体」で、詩人が書いたものを盗み取るときに「おもしろい」が生まれる。書かれていることが、詩人の書いたことか、自分の肉体が体験していることかわからなくなるとき「おもしろい」がはじまる。「わからない」を自分の「肉体」のなかから引き出す(誤読する)ときに詩は生まれるのだと思う。

詩集 風景
春日井 建
人間社
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高柳誠「叔父さんの鳥」、原満三寿「白骨の山手線」、吉野弘「噴水昂然」

2014-12-23 13:22:15 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
高柳誠「叔父さんの鳥」、原満三寿「白骨の山手線」、吉野弘「噴水昂然」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 高柳誠「叔父さんの鳥」(初出『月の裏側に住む』4月)は「文体」がしっかりしている。(『月の裏側に住む』については、別の詩を取り上げて感想を書いた。それと重なるかも知れないが……。)

ぼくの叔父さんは、頭のなかに鳥を飼っている。鳥のすが
たは、ぼくにはみえない。でも、叔父さんは、その鳥のこ
とを、ぼくだけにそっと教えてくれる。そう、ぼくと叔父
さんの、ふたりだけのひみつなのだ。

 この「文体がしっかりしている」という印象はどこからくるか。2行目の「その鳥のことを」の「その」からくる。この「その」は英語で言えば定冠詞「the 」である。「頭のなかに鳥を飼っている」の「鳥」の前には不定冠詞「a 」が省略されている。不定冠詞から定冠詞へと冠詞が変わっている。日本語には冠詞の意識がないので、「その」を「支持詞」と混同してしまうが(混同してもいいのだが、便宜上、そう書いておく)、この不定冠詞から定冠詞へ切り替わるときの「意識の持続性」(持続の印象)、これが高柳の「文体」の強さである。何を書いても現実から脱線しないという印象がここから生まれる。
 頭のなかに鳥を飼っている--ということ自体、現実からは切断された世界である。いわば、寓話。脱線。れを現実と接続させてしまうのが、高柳の「意識の持続性(あるいは連続性)」である。
 寓話のなかに起きている「こと」を読ませるふりをして、寓話(ことば)を接続させつづける意識の連続性そのものを高柳は読ませている。
 頭のなかに鳥を飼っている--この非現実的なことを、どこまで現実として書きつづけることができるか。書きつづける「意思(意識)」のなかに、詩がある。
 これは、「その」を省略した文章を想像してみると、わかる。

叔父さんは、鳥のことを、ぼくだけにそっと教えてくれる。

 「その」がなくても、だれも、叔父さんの頭のなかに飼っている鳥以外の鳥を想像しない。「その」は、ない方がことばを速く読める。ない方が、日本語の「経済学」からいうと「合理的(経済的)」である。
 けれど、高柳は、「その」を書く。
 「その」を書くことによって、「事実」が「高柳の意識の事実」に変わっていくのである。
 この「その」は、前半部分に「その声」「その歌」とつづけざまに繰り返されている。繰り返されるたびに、「意識の持続性」が強くなる。つまり、そこに書かれていることが「事実」というよりも「意識」の色合いが強くなる。
 「意識」であるからこそ、最後には、「意識」がすべてをのみこんでしまう。「事実」があって「意識」があるのではなく、「意識」があって「事実」が書かれる。「ぼくの意識」が「叔父さんの事実」をおおってしまい、「ぼく」と「叔父さん」が入れ代わるということが起きてしまう。
 叔父さんは、最近、鳥の話をしない。

                       頭のな
かの鳥は死んでしまったのだろうか。ぼくにできることな
ら、かわりの鳥をさがしてきてあげたいのだが、どんな鳥
が叔父さんの気に入るかがわからない。ぼくは途方にくれ
て、ますます鳥のようにとがってきた叔父さんの頭を、そ
おっとなでるしかないのだ。むかし、よく、叔父さんがそ
うしてくれたように…。

 「意識」のなかで「主客」が入れ代わる、意識が「事実」を追い越してしまって、そのときに「物語」は完結する。そこまで意識は持続しつづける。



 原満三寿「白骨の山手線」(初出『白骨を生きる』)も「寓話性」が強い。山手線に乗っている。向かい側に座った男が、こちらを見ている。それは「窓に映った自分の姿かもしれない」。

 こらえきれなくなって漢を見やるとその顔は白骨だっ
た。眼窩は闇に深くとけこんで皮肉っぽく薄く笑って見つ
めかえしていた。見渡すと乗客はすべて白骨で白骨の指で
いじいじとスマホをのぞいたりたたいたりしていた。

 原の詩にも「その」は出てくる。これもまた「定冠詞」と言えるのだけれど、高柳の「その」ほど「意識の連続性」は強くない。とういより、原には「その」よりも強い「意識の連続性」がある。ことばの運動で持続をつくりだしていくのではなく、すでにある精神の存在が持続を主張して、ことばと現実を動かしていく。

 --白骨に仏性のありや無しや--

 禅の公案のような「意識」が、ことば全体を支配している。その「意識」によって、ことばの全体がととのえられている。それが原の詩を「寓話」ではないものにしている。
 逆に、禅の公案について思いめぐらす習慣のようなものがあるために、原の現実を、ふつうの人の現実とは違うものにしているともいえるかもしれないが。
 この詩が、わざとらしくない、清潔な感じがするのは、ことばが「禅(公案)」という絶対的な「意識」と向き合っているからかもしれない。「絶対的な意識」があって、それが「世界」を支えている(つくっている)という「哲学」が書かれているのかもしれない。これは原のことばの動かし方の「習慣」なのかもしれない。



 原満三寿「白骨の山手線」(初出「埼玉新聞」95年10月17日/『吉野弘全集 増補新版』4月)のことばも「意味」が強い。「意味」を考える意識によって世界そのものが提示される。ただし、吉野は「絶対的な意味」を求めない。むしろ、「意味」を相対化して、世界を活性化するという方法をとる。

ひたすら低い方へ地面を流れる水を見て
フランスの或る詩人が言いました。
<向上に反対するのが
水のモットーらしい>と。

しかし、噴水には
このモットーが当てはまりません
向上に賛成し、そのあと落下し
それを繰り返しているからです。

<君は、水のモットーに違反しているね>
と、私が噴水に言ったところ
噴水が昂然として、こう答えました。
<水が水蒸気に姿を変えて空に昇るのを
ご存知でしょう
一度、空に昇ったあと地上に降る水
向上と落下、二つの性質を合わせ持つ水
その形象化が噴水なのです
モットーだけでは
物の真相が見えません>

 このあとさらに「意味」は展開するのだが、「意味」というのは「方便」だからなんとでも言える。(と書いてしまうと、吉野の詩を否定することになってしまうかもしれないが……。)このなんとでも書けるところ、矛盾する「意味」で世界を切断し、接続するという「方便」が「世界の活性化」につながるのだけれど。
 その「意味」の変化よりも、私は、この詩では、

向上と落下、二つの性質を合わせ持つ水
その形象化が噴水なのです

 この2行に出てくることばに注目した。「二つ」と「形象化」。吉野は「世界」をひとつの視点でとらえない。常に複数(二つ)の視点で見つめ、相対化する。そして、その「二つ」を「ひとつ」の運動として描く。そうするといままでそこに存在しなかったものが「形象化」する。形のあるものに見えてくる。
 何が「形象化」された?
 「意識」が「形象化」されたのだと思う。「意味」が「形象化」されるのだと思う。日常的に見るもののなかに。
 逆に言うと日常的に見ることができるもの(水/噴水/雨)という形のあるものが、「意味」の運動として再確認される--それを「形象化」と言えるのかもしれない。吉野は、そういうことを、日常、人が話すことばをととのえる形で書いている。


月の裏側に住む
高柳 誠
書肆山田

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安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」

2014-12-22 09:30:01 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」(「現代詩手帖」2014年12月号)


 安藤元雄「アリアドネの糸」(初出「花椿」4月号)に「魂」ということばが出てくる。私は、自分から「魂」ということばをつかった記憶がない。「魂」というものを信じていないので、つかいにくいのである。他人が「魂」ということばをつかっているとき、何を指しているのかよくわからないのだが……。

乾いた道の上を
ちっぽけな一つの魂が
どこまでもころげて行く
吹く風に押され
追いやられるままに
よろめいて行く

ころげながら 魂は
少しずつほどけて
ひとすじの糸を
あとへ残す
あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を
手つかずに保ったまま

 安藤は「魂」をギリシャ神話を踏まえて「アリアドネの糸」(迷宮から脱出するための手がかり、頼みの手段)の「塊(毛糸をまるく固めたボールのようなもの)」と「比喩」にしている。
 一瞬「魂」と「塊」の区別がつかなくなり、私は思わず辞書を引いて「漢字」を確かめてしまった。安藤が「塊」という文字に触発されて「魂」を「糸の塊」と思ったのかどうかわからないが、私は詩を転写しながら、一瞬混乱した。
 その混乱のなかにあらわれてくる、2連目の「あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を/手つかずに保ったまま」が、非常に印象に残る。私は、その「痕跡」をたとえばセーターをほどいたあとの毛糸の「乱れ」のように思い浮かべた。編むことでできる複雑なねじれ、その痕跡。毛糸のボールは、その痕跡をのばすために丸められるのだろうけれど、丸めたりのばしたりしても、まだ残っているねじれ。消えない何か。
 その「ねじれ(痕跡)」が「魂」というのなら、それは、「わかるなあ」と感じた。
 これは私の「誤読」なのだが。
 私は「魂」というものを見たことがないし、信じていないが、一度編まれたセーターをほどいたときの毛糸に残っている「ねじれ(痕跡)」が「魂」というもの「比喩」なら、その「比喩」はわかる、知っている、と感じた。
 それは、毛糸を見た記憶、そのまえのセーターを見た記憶、そのねじれ(痕跡)にさわった手の記憶である。--私は、「魂」は「肉眼」や「手」なのだと思いながら、安藤の詩を読もうとした。
 けれど、4連目。

そう しかしいずれ
糸は尽き果て
魂もそこに鎮まり
私は途方にくれるほかなくなりそうだ
こんな見知らぬ街の
四つ辻にただ立ち尽くして

 糸は尽きて、「魂」は「鎮ま」るのか。
 うーん、わからない。想像できない。私には、やはり「魂」というものが、わからない。安藤は私の知らないことを書いている、ということが「わかる」だけである。
 安藤がギリシャ神話と魂を結びつけていることも、「わからない」の理由かもしれない。私はギリシャ神話になじみがない。何かを考えるとき、ギリシャ神話を「比喩」にしようと思ったことがない。ことばの「習慣」が違うために、「わからない」が起きている。そういうことも、ふと考えた。



 川口晴美「越えて」(初出「風鐸」4、4月)は線をひく喜びを書いている。こどものとき、校庭に線をひいて、

線を引いていく最初と最後をぐるりつないだらほら大きな島だ
線の外側は海
やわらかい土のうえ歪な花のようにひらいたぼくたちの島に
たからものを隠して休み時間のあいだじゅう
おたがいを海に落っことそうと体をぶつけあった

 そのときの記憶、「体」が覚えていること(覚える、ときの体の何か)が、私には「魂」かなあ、と感じる。「肉体」のなかにしみ込んだ一続きの動き。線を引き、内側を島、外側を海と名づけること。名づけた瞬間に、そこに「海」が出現し、そこへ体をぶつけあった相手を突き落とそうとした、突き落とすという「こと」が「比喩」を通り越して、「肉体」には「海」が「現実」として出現した--そういう「ねじれ」。セーターを編んだときの毛糸に残る「ねじれ」。
 こういうことをていねいに書いていけることばはいいなあ、と思う。
 でも、

それで見上げたら頭上はるか飛行機雲が伸びていたりするんだ
あれはきっと空を切り開くためにしるされた線

 この「飛行機雲」の「比喩」には、私はついてゆけなかった。「飛行機雲」のあとにつづく「痛い」世界--それが川口の書きたいことかもしれないけれど、私は、ふいに何かを見失ってしまう。川口がわからなくなる。
 校庭の「線」は自分の「肉体」で引くことができる。私には校庭に線を引いた記憶がある。肉体が、そのときの土の硬さを覚えていたりする。けれど「飛行機雲」は自分の肉体で引いた線ではないので、それを島と海の区切り(校庭に切り開かれた何か)や何かのようには「実感」できない。
 「魂」は、どうも、私の「実感」とは遠いところにある。
 こんな読み方をしてしまうと、きっと川口の書きたいこととは関係なくなってしまうのだが、安藤の詩を読んだあとなので、そんなことを考えた。



 高貝弘也「白雲母」(「午前」5、4月)は、「肉体」で読む詩とは違う詩。安藤や川口の詩も「肉体」とは違うもので読んだらよかったのかもしれない。
 では、何で読むのか。

そうして水皺(みじわ)、
白雲母(しろうんも)



乳酪いろの、平石
子手鞠

 自分自身の「肉体」ではなく、「ことばの肉体」。「日本語の肉体」。「文学の肉体」の方がいいのかな? あることばが「書かれる」(つかわれる)。そのときの、そのことばの「場」の記憶。「水皺」ということばがつかわれるときの、「水」全体、あるいは、そのときの光、それを見つめる人間の思いが「ひとつの場」をつくる。その「言語空間」と呼吸する別の「言語空間」。その「呼吸」としての、「ことばの肉体」。それが高貝のことばを出現させている。
 こういう「抽象的」な言い方は、あまりよくないかもしれない。
 具体的ではないから、どうとでも言える。
 「感覚的」な論理であり、検証のしようがない。
 でも、まあ、強引に「検証」してみれば……。

うすい幼魚
白雲母と水の層のあいだで、

泣いている
泣いている

 「うすい」は「弱い」。だから「幼」ということばとなんとなく呼吸しあっているのがわかる。「うすい」は「白」にも重なり合う。「濃い」白というものもあるだろうけれど、ほかの色に比べると「白」は「うすい」。「雲母」自体も「うすい」層でできている。「水」が「雲母」のように、いくつもの「うすい」層でできていて、そこに「幼い(弱い)」魚がいる。そして、その魚は「泣いている」。「弱い」から「泣いている」。「強い」こども(幼い子)は泣かない。
 何かが「共通」する。「ことばの共通感覚」がある。
 で、これが次のように変化する。

--わたしは 死んでいるのか
  生とのあいだ 漂っているのか

性のない子が、
いっせいに 目を閉じて

 「うすい」(よわい)は「はっきりしない」。「あいだ」があいまい。川口の書いている詩のように「線」が明確ではない。「水の層のあいだ」が生と死の「あいだ」と通い合い、その「あいだ」そのものが「漂う」ようにも感じられる。
 「うすい」(はっきりしない)は「性のない子」(性の区別がない、はっきりしない子)になって、何かを見るのではなく、「目を閉じて」いる。明確な識別を避けている。
 という具合に、揺らぐ。
 この揺らぎの「呼吸」が高貝の「ことばの肉体」そのもの。

 --と、書いてきて、安藤元雄の詩は、「日本語の肉体」ではなく「外国語の肉体」から読み直せば、また違ったところへ感想が動いていくかもしれないとも思った。ギリシャ神話を含む「ヨーロッパのことばの肉体」から読み直せば「魂」も違って見えるかもしれない。

高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社

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藤井優子「たがいちがいの空」、四方田犬彦「翼」ほか

2014-12-20 08:53:40 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤井優子「たがいちがいの空」、四方田犬彦「翼」、和合亮一「散髪雪達磨」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤井優子「たがいちがいの空」(初出『たがいちがいの空』3月)は不思議なエロチシズムがある。

声がした
ごく近いあたりで
閉てた襖の奥からでも
縁側の向こうからでもなかった

母の声ではなかったが それでも
わたしははっと鏡からおりた
--空遊びをしていたのだ
仰向けに置いた鏡に映る
冷たい空のうえを歩く
飛翔と墜落のひとり遊び
それを危ないと禁じた母は
ほんとうは
恍惚とした娘の顔を見たくなかったのだろう

 「空遊び(鏡遊び?)」の視覚、飛翔/墜落という矛盾した動きの「恍惚」。それと「声」の関係がおもしろい。
 1連目が「声」の特徴をよくあらわしている。「声」は「見えない」ところからも聞こえてくる。たてた襖、縁側の向こう側(縁側と部屋のあいだには障子があるかもしれない)、何かさえぎるものがあっても、そのさえぎるものを越えて聞こえてくる。視覚はさえぎるものがあると、そのさえぎるものしか見えない。「声」は障害物を越えて、肉体に入ってくる。
 この愉悦は、視覚の愉悦よりも強い。
 セックスは聴覚でするものかもしれない。たとえ、何かの理由があって、声を殺してセックスするときでも、互いに「殺した声」を「肉体」で聞きあっている。
 「声がした/ごく近いあたりで」は、この「肉体」で聞いてしまう「声」である。「母の声ではなかった」なら、藤井自身の肉体のなかの「声」だろう。
 自分で遊んでいるのに、自分で「禁じる」のは矛盾したことかもしれないが、それが矛盾だからこそ、そこに詩がある。矛盾は危険だが、危険だからこそ、詩がある。愉悦がある。

そういえばあの声は
おまえのせいだ と言ったのではなかったか

記憶のなかで時が微妙にくいちがい
たがいの言葉がすりかわってもぐり込む
そのどれもが真実になろうとして
もどかしく結末をさぐる

 「声(ことば)」はあらわれては消える。その「あらわれた瞬間」は「くいちがう」というよりも、「時系列」を無視して「いま」「ここ」とつながるのだと思う。「あらわれた瞬間」、それは「真実」になるのだが、それは「時間」のなかに定着させておくことはできない。だれが言ったことば(声)であろうと、聞いた瞬間、それは「肉体」のなかで自分のものにすりかわる。「だれかのもの」として固定化できない。いりみだれて、快楽/恍惚/エクスタシー(自分の外へでてしまうこと/自分が自分でなくなること)を求めて動いてしまう。
 自分の思う通りにならない、この「もどかしさ(うれしさ)」もセックスに似ているなあ。



 四方田犬彦「翼」(初出『わが煉獄』3月)はセルビアを旅したときのことを書いているのだと思う。「シュピタルはアルバニア人を軽蔑的に呼ぶ際のセルビア語」という注釈が詩のおわりについているので、勝手に想像するだけだが。
 その2連目。

フロントガラスの向こう側の暗闇から
雪片がひっきりなしに窓に固着し、
光に反射して 黄金に輝いている。
ひとしきり 眩暈のような紋様が現われてしまうと、
窓の向うは深い暗闇となった。
ときおり遠くの野原で 誰かが火を焚いている。

 バスのなかから見た風景。バスの「窓」の風景(情景)。それは何かの象徴だろうか。何かの「意味」を背負わされたことばだろうか。
 「意味」を背負わされているかもしれないが(「固着」という表現が「意味」を背負わされているという印象を強くするが)、「意味」とは無関係に「もの」にふれている感じがする。「もの」の感じが直接伝わってくる。余分な「意味」がない。それが美しくて、強い。
 そして3連目。

ぼくは翼のことを考えている。
翼はより高く飛ぶためにあるのではない。
翼は高みを見究めた後、
無事に着地をはたすために 与えられているのだ。
けれども そう信じてみたものの、
いったいどこに着地をすればいいのだろう。

 ここでは「意味」だけが書かれている。「翼」は「比喩」。四方田は人間であり、鳥ではないので、「翼」では空を飛べない。だから、着地もできない。鳥のことを心配して書いているわけでもない--と私は思う。で、「翼」を「比喩」だと考える。
 何の「比喩」? 何の「象徴」? 「思想」とか「ことば」というものをすぐに思いつくが、そのことは、もう書かない。(「意味」はどうとでも書ける、「意味」は平気で嘘をつくから……。)
 この3連目と2連目を比較すると、3連目は意味が強すぎて、味気ない。2連目の方が意味がなくておもしろい。とはいうものの、3連目のような「意味」を考えることばが2連目のことばのすぐ隣にあるから、2連目のことばは無意味でも強靱なままでいられるのかもしれない。
 私は「ぼくは……考えている」というようなことばの、自己主張にはあまり興味がないが、こういう自己主張と「もの/こと」の直接的な描写を並列させる(共存させる)のが四方田の方法なのだろう。共存によって「描写」に奥行きを与えているのだろう。



 和合亮一「散髪雪達磨」(初出「ウルトラ」15、3月)は雪の日に散髪する詩。髪を切られながら耳を澄ますと雪の降る音が聞こえる。気になるのは東京電力福島原子力発電所のことである。

あまりもの雪で、原子力発電所の屋外の作業が困難を極めている、
その情報がテレビで告げられた、水漏れを食い止める作業などは中断するしかない、
雪は容赦がない、人類がこうして滅んでいくのならば、私の髪よ、
伸びるのは止めにしてもらいたいものだ、髪は落ちていく、奈落へと、

雪が、残酷な意味をつづけている、わたしたちが死んでからも、
水は漏れていくのか、こうしている間にも、逃げているのだ、

 「意味」ということばが出てくる。「意味」とはそこに存在するものではなく、つくりあげて形をととのえるものだろう。東京電力福島原子力発電所の汚染水は「わたしたちが死んでからも、/水は漏れていくのか」、つまり福島を、日本を、世界(地球)を汚染しつづけるのかという具合に、時間と空間のなかへひろがっていく。
 それはそれでいいのだけれど、そのとき「意味」は「わたし」という「個人」を置き去りにしないか。「わたしたち(人類)」のなかの「わたし」は、そのときも、「意味」といっしょに生きているのだろうか。
 私は、疑問に思っている。
 1連目の「作業が困難を極めている」のような抽象的なことばのなかに、すでに、「わたし」はいない。テレビニュースことばの「他人」(私とは無関係)がいるだけだ。「意味」(ことばをより有効に動かして、経済学的に、合理的に他人を支配する方法)が個人(わたし)を切り捨ててしまっている。
 どんなときにも四方田か書いていたような「雪片」を描写するようなことばがないと、「意味」だけが動いてしまう。「意味」が人間を支配してしまう。「意味」が人間を支配することに加担してしまう、と思う。
 和合もそう意識しているから、後半は白髪染めの個人的な体験を書くのかもしれないが、書き出しのことばとの「落差」が気になるなあ。「東京電力」ということばを省略しているところは、すでに安倍政権の「意味」に加担しているといえるのではない。わかっているから省略したという言い方もあるが、わかっているから絶対に省略しないという「主義(思想/肉体)」もある。


わが煉獄
四方田 犬彦
港の人

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常木みふ子「壁画」、田原「風を抱く人」、平田俊子「こころ」

2014-12-19 10:55:07 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
常木みふ子「壁画」、田原「風を抱く人」、平田俊子「こころ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 常木みふ子「壁画」(初出『星の降る夜』3月)は文体が控え目だ。

サーミア・ハラビー 一九三六年生まれ
あなたは ニューヨーク在住の美術家
黒く太い眉を持つ アメリカ国籍のパレスチナ人
一九四八年まで 家族は代々エルサレムに住んでいた

 この書き出しには、何の特徴もないかもしれない。サーミア・ハラビーという美術家がニューヨークにいる。彼女は以前はパレスチナに住んでいた。「事実」だけがわかる。その「事実」は常木が自分で直接調べたものか、誰かが何かで紹介してることの要約なのかわからないが、「事実」として共有されていることがらであろう。
 常木は、まず、そういう「事実」を大切にして、そこからことばを動かしはじめる。「共有された事実」を「事実」として共有する。その姿勢が「控え目」で、ことばを落ち着かせている。
 ここから出発して、常木はサーミア・ハラビーの壁画を描写しはじめる。パレスチナのオリーブの巨木が描かれている。

私は オリーヴの
深く捩じれた太い幹と静かに向き合い
サーミアのうたう詩(うた)を聞く

オリーヴの樹の縦糸 サーミアの紡ぐ横糸
この豊穰の大地に
神より前に人は住み
降る星の下 人は睦み合った
うねる歴史の中の 人々の声が聞こえる
人々の魂に 深い皺となって刻まれる歳月と祈りを
サーミアは紡ぎ出す

 オリーブの木が描かれている。そこまでは「事実」。そこにサーミアのうたう詩がある(聞こえる/聞く)というは常木の感覚。印象。
 壁画がサーミアが書いた。そこにサーミアの思いが反映しているのは「事実」かどうか、かなかむずかしいけれど、一般的に作品にはその人の「思い」が反映していると考えていいと思う。「事実」から出発して、常木は「事実」になりきれていない(?)もの、「事実」として共有されていないもの(ことばになって共有されていないもの)を追い求めている。サーミアは何を思ってこの壁画を描いたのか。そこにはどんな思いがこめられているのか。
 そうして、常木はパレスチナの人を思い、歴史を思うのだが、このとき、サーミアの「思い」に常木が加わっていく。サーミアの絵を「縦糸」にして、常木のことばを「横糸」にして布を織るような感じ。組み合わさって「ひとつ」になる感じ。こういうとき「強い自己主張」は「織物」を壊してしまう。縦糸の強さに横糸の調子をあわせないといけない。そうしないと乱れる。
 常木は、だから、どこまでもサーミアの絵を壊さないように控え目にことばを動かす。この感じが、とてもいい。



 田原「風を抱く人」(初出『現代詩文庫・田原詩集』3月)は、「風を抱く人」の訃報に接したときのことを書いている。田原も、常木がサーミア・ハラビーに寄り添って控え目にことばを動かしたように、控え目なことばで「風を抱く人」を書きはじめるが、2連目から変化する。

中国からの小さな訃報は
異国のニュースの数十秒しか占めなかったが
私の心を震えさせた
背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するようで
時間を引き裂く見えない手が
目の前で長くなるのを感じた

テレビを消して 窓を開け
空に大声を張り上げたかったが
声は喉に引っ掛かって死んでしまった
目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が
黙々と流れ黄河と揚子江になった

 田原は自分の「肉体」のなかで起きたことを書く。自分の「事実」を書きはじめる。その「事実」のなかに、「背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するよう」という、日本人には思いつかないようなことばが動く。日本語で書かれているが、これは「中国語」である。田原は中国人であるという「事実」が動いて、ことばになっている。次の「時間を引き裂く見えない手が/目の前で長くなるのを感じた」も強烈である。
 この田原のなかに存在する中国が「目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が/黙々と流れ黄河と揚子江になった」という、私たちの知っている中国の「河/固有名詞」に還っていく。そして、そのとき田原は「風を抱く人」と「一体」になっていること、こころから追悼していることがわかる。そして、「大声を張り上げたかったが/声は喉に引っ掛かって死んでしまった」という人間に共通する「肉体」へと引き返してきて、私を感動させる。
 田原は日本人がニュースで伝えることを客観的な「事実」としてしか認識できないが、田原は「中国」そのものの悲しみとして「肉体」で感じているということがわかる。
 1連省略して、5連目。

彼はかつて黄河の北岸に昇ったわずかな紫色の日射しだ
世界は彼の光芒を浴びた
彼はかつて中国大地でゆらゆらと揺れた紫陽花だ
民衆は彼の芳香を嗅いだ

 「紫」がとても美しい。田原が「風を抱く人」を「紫」の色として見ていたことが、わかる。



 平田俊子「こころ」(「読売新聞」3月17日)は谷川俊太郎の『こころ』の「競作」? 

ある時はまなざし
ある時はゆびさき
また ある時はコップの水に
こころは隠れているのかもしれない

 そう思う。けれど、

こころというもの
ひとというもの
狡さ 儚さ
危うさというもの
こころを信じたいこころ
ひとのこころの温もりというもの

 と「概念」で「意味」を語られてしまうと、私のこころは離れてしまうなあ。
 ことばは「もの/こと」に寄り添うと、詩が生まれる。

田原詩集 (現代詩文庫)
田 原
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杉本徹「ルウ、ルウ」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」ほか

2014-12-18 10:18:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
杉本徹「ルウ、ルウ」、高階杞一「今朝の問題」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 杉本徹「ルウ、ルウ」(初出『ルウ、ルウ』3月)に印象的な行がある。

私は薄青い、ほそい歌を吊る。

私は薄青い、ほそい歌を吊る。

 「歌」が印象的である。「薄青い」を、もう一度「ほそい」と言いなおすところ、あるいはことばをつけくわえ補強するところが印象的で、その「いいなおし」あるいは「補強」が「歌」そのものであるようにも思える。
 「薄青い」と「ほそい」は「意味」が違う。けれど、どこかに「共通する感覚」がある。「薄い」も「ほそい(細い)」も「弱い」印象がある。(もちろん薄くて細いものにも強靱なものはあるだろうが。)だから、そのことばが繰り返されたとき、「薄い」「ほそい」は消えて、何か違ったものになる。「共通する」新しい感覚になる。似通ったことばが繰り返されることで、まだことばにならない何かが「ことば」として動くのが感じられる。繰り返されると、ことばが何かを探している印象が強くなる。それは「ことば」というより「感情」なのかもしれない。「抒情」といってもいいかもしれない。で、その「ことばにならない感情(抒情)」が「歌」。
 どういうことかと言うと……。

地方銀行の漆喰の壁。さわぐ糸杉、の横貌。

明治通り、屋上の輪郭、寒暖計、マンホールの漣、……先
の知れない横断歩道を渡っていった。ガードレール、古着
屋、裁縫機械、西にひらく本の表紙。

 たとえばこの4行に「意味(ストーリー/脈絡)」はあるのか。あるかもしれない。でも、それは「書かれていない」。ストーリーはない。ただ、ことばが並べられている。ほとんどは名詞だが、名詞以外もある。
 そして「意味」のかわりに「音」がある。
 この「音」が「歌」なのである。「意味」とは無関係に響き、ひろがってくる音。その快感が「歌」である。
 この「音」には最初に引用した「薄青い」「ほそい」とは別の「共通する感覚」がある。音の通い合いがある。広がりながらつくり出すメロディー、あるいは和音がある。「ちほうぎんこう」という音のなかにある「おう」の響きが随所に反響する。「ぎんこう」のなかの「濁音」も形をかえながら動いている。しかし、あまり「音」を強調し「音楽(器楽演奏)」にしてしまうのではなく、「声」で自然に再現できる「肉体の快感」にしているところが「歌」なんだなあ、と思う。(楽器の演奏も肉体でするから、そこにも肉体の快感はあるかもしれないが、自分の声を音楽にする快感とは別なものだと思う。)
 どの「音」も読みやすい。私は音読をするわけではないが、読みやすく感じる。自然に喉や口蓋、舌、鼻腔が刺戟される。
 聞いたことはないが、杉本は、きっといい声をしているにちがいない。張りのある艶やかな声をしているのだろう、と想像した。



 高階杞一「今朝の問題」(初出『千鶴さんの脚』3月)は「意味」はわからないが、書かれている一行一行にわからないことは何も書かれていない。

今朝はこの子にしてみよう
服を脱がせて
床に横たえ
その上に
黒い石を置いていく
まず右の太ももにひとつ
左の太ももにもひとつ
小さなかわいいお臍の上にもひとつ

 「石」は何かの象徴か。わからない。ただ服を脱がせた少女(少年?)の上に石を置いていくという「動き」はわかる。何のために、そうするのか、それはわからないけれど。まあ、わからなくてもいいのが詩なのだから、これでいいのだろう。
 高階は、意味よりもむしろ「もの/こと」を音のまま書き留めようとしているのかもしれない。「もの/こと」をことばにするときの、「肉体」への反響(反作用)のようなものを書こうとしているのかもしれない。「臍」ではなく「お臍」というときの「視線」のようなものをていねいに追っているのかもしれない。
 で、この詩--好きか嫌いか。
 私は、嫌い。特に、次の展開で嫌になった。

ここからが
今朝の問題
電車が次の駅に着く前に
僕が少しでも君にふれたら僕の負け
ひとつでも石を落としたら君の負け

 何だかレールの上に横たわって、電車が通過するのを待っている感じ。僕が君をレールの外にひっぱり出すのか(君にふれる)のか、君が自分から石を落として逃げ出すのか。そういう「チキンレース」を思い起こさせる。
 何を思い起こさせてもいいのだろうけれど、「問題」を出したというのは、どこかで「答え」を用意しているということ。それが、なんとなく気に食わない。嫌い。
 私(高階)は「答え」を知っている、だから「問題」を出してみた、という感じが嫌い。



 田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(初出『ゲイ・ポエムズ』3月)の最後の部分。

                      ●言葉●
言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃな
かった●言葉以上に言葉だった!

 「言葉以上に言葉」とはどういう「意味」だろう。わからないけれど、わかる。印象が強い。一度そのことばに出会ってしまうと、そのことばから離れられなくなる。ことばが「肉体」になってしまう、と私なら書く。「答え」は「肉体」になってしまっている。「問題」は出す前に、田中のなかで「答え」といっしょになって、区別ができなくなっている。どこまでが「問題」でどこからが「答え」なのか、もうわからない。
 「意味」の句読点が消えてしまっている。そして、意味の句読点のかわりに「●」がある。「区別のない区切り」がある。「区別のない区切り」とは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、それが詩なのである。
 で、私は、さらに自分勝手に「誤読」する。
 他人のことばが自分の「肉体」になってしまう。それを切り離すことは自分の「肉体」を傷つけることになる。痛い。切り離すと、痛い。この感じ。

           ●最近は●ぼくのほうばかり●幸
せにしてもらっているような気がします●あっちゃん●幸
せだよ●ずっといっしょだよ●愛してるよ●こんな言葉を
●ぼくはふつうに受けとめていました●ぜんぜんふつうの
ことじゃなかったのに●恋人の言葉に見合うだけの思いを
もって恋人に接していたか●いや●接していなかった●恋
人はその言葉どおりの思いをもって接してくれていたとい
うのに●そう思うと●自分が情けなくて●涙が落ちました
     
 田中は「涙が落ちました」と、その「痛み」をはっきり書いている。

ゲイ・ポエムズ
田中 宏輔
株式会社思潮社
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新川和江「つのぐむ」ほか

2014-12-17 10:00:43 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
長田弘「冬の金木犀」、岸田将幸「Find the river、石狩」、新川和江「つのぐむ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 長田弘「冬の金木犀」(「文藝春秋」3月号)は珍しい視点。金木犀というと、どうしても秋を思い出すが、その後を書いている。

人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる、
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 「金色の雪片のように降り積もる」は美しい比喩だ。予感のようにして、冬を呼び込み、そのまま冬へ動いていく。そして、そのあとに「静かな緑の沈黙の長くつづく」と視線が少しずれる。金木犀の香りでも、その香りをはなつ花でもなく、ひとが(私だけかもしれないが)見すごしている緑へと。私は金木犀の存在を香りが強い秋以外に感じたことがないので、そうか、金木犀は常緑樹だったのかと驚き、また、その緑を静かに見つめている長田にも驚く。花の咲いていない(香りのない)金木犀を長田は見ている。その木が金木犀とわかって、その緑と一体になっている。一体になって、「ひたすら緑の充実を生きる」。
 これは、長田と詩の関係のことを自ら語っているようにも思える。完成された詩は、秋の金木犀のよう。ひとの注目をひく。けれど、ことばは、詩の形だけで存在するわけではない。詩にならないときも、ことばの「沈黙」を生きている。「沈黙の充実」を生きている。ことばもまた「詩」という花を咲かせ、「香り」を発するかたちになるまで、沈黙し、力を充実させている。充実するという「自由」を生きている。
 「行為じゃない。生の自由は存在なんだと。」という行は、金木犀(樹木)は動かない。行為しないということに対する感想なのだろうか。動かない(行為しない)けれど、そこに存在する、そして生きている。存在しながら、花を咲かせ、香りをはなつまで、ただ「沈黙」している。「沈黙」しているときも、そこに「生きる」ことが充実している。
 「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばが、金木犀という存在となって、そこに「ある」ように感じる。「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばの接続と断絶の仕方が、「融合」している、というか……。それぞれのことばは何かを「分節」してきているのだが、「分節」はことばが発せられる瞬間だけのことであり、ことばになったあとすぐに「未分節」の世界へかえっていく。そしてその「未分節」の「場」でとけあっている。そういう「未分節」が存在ということか。そうであるなら「行為(する)」とは「分節(する)」こと……。
 あ、これ以上書くと、「意味」になってしまう。「意味」にしないで、ぼんやりと、ここでことばを止めておこう。



 岸田将幸「Find the river、石狩」(初出「midnight Press Web」9、3月)は、ことばに誘われて、肉体が肉体を裏切るようなおもしろい瞬間を書いている。

国道二三一号線沿いのセイコーマートで、来札というところはどこですか、と尋ね、
ガソリンスタンドを曲がって----、そのまま真っすぐゆくと、川に行ってしまうから-----、
あまり人の行かないところなのですね、----ト
(果たして、人の行き着くところとは、<人>であってほしい)
僕はそのまま真っすぐゆこうと思った、あまり人のゆかないところへゆこうと思った
僕はとうとう、いや僕もとうとう、そのような川へ来てしまう

 道を尋ねて、そのときの「答え」に誘われて、目的地を忘れてしまう。目的地よりも、そこからそれた「脇道」にそれてしまう。それを「僕はとうとう」と言ったあと「僕もとうとう」と言いなおす。この言いなおすときの「接続」と「切断」がおもしろい。
 ひとはあらゆる瞬間に「切断/接続」を繰り返している。それは、私には「分節/未分節」を往復しているようにも見える。「分節」された何かは「目的地」、この詩で言えば「来札」ということになる。そこへ向かってはいるのだが、「分節」されたもの、「限定的」なものを、行動の「経済学」のままに実現するのはおもしろくない(かもしれない)。それよりも「分節」(目的地)までの行動がわかったなら、それを別な形で「分節」しなおせないか。教えられた道をまっすぐに、「正しく」進むのではなく、そこからそれて、もう一度「ここ(道の場所)」から「分節」できないか。間違うふりをして「新しい」道をみつけられないか。「分節」しなおせないか。
 そういう「むだ」(不経済)を岸田は書いている。「不経済」のなかに詩がある、と書いているように思う。
 このあと岸田は「リヤカーで薪を運ぶ小父」にまた道を尋ねるのだが、人との出会いによって「分節」が再度おこなわれるときの、その不思議なおもしろさ。不合理というか、不条理というか、「非経済学」的な行動のなかで、ことばが、少しずつ揺らぎ、ことばではなくなってゆく。その崩壊。さらに、崩壊しながら、崩壊の中に姿をあらわす岸田の肉体--そういうものが、おもしろい。不思議に「抒情」というものを刺戟する。「抒情」はたいてい「敗北する精神」の形でセンチメンタルを刺戟するのだが、岸田の場合、ことばが「不経済」なのでセンチメンタルにならない。「合理的」にならない感じ、「精神」ではなく、「なまの肉体」という感じで、体温があるところが魅力的だ。
 --こんな抽象的な書き方では、岸田のことばの魅力を説明したことにならないだろうけれど、岸田が書いていることばの「分節/未分節」のあり方は、説明しようとすれば何十枚ものページが必要だ。だから、端折って、私はテキトウに「感覚の意見」のまま、書いておく。いわば、メモである。



 新川和江「つのむぐ」(「初出阿由多」15、3月)。私は「つのぐむ」ということばを知らない。辞書を引けばいいのかもしれないが、私は辞書をあまり信じていない。辞書よりも、そこに書かれていることばを、そのまわりのことばと関連づけて読んでいけばいいと思っている。大事なことは、ひとは何度でも言いなおす。きっと、その言い直しの中に「意味」の手がかりがある。
 で、知らないまま、読んでいくと、

二はしらの神が
国産みの仕事もまだお始めにならぬうちに
混沌(どろどろ)の中から最初にかたちをあらわしたのは
つのぐむ葦でありました
あざやかな緑の錐は
萌えあがる力をもって世界の中心をさしたと
いにしえの書物はしるしています

 頼りになることばは「葦」。それから「かたちをあらわす」「緑の錐」「萌えあがる」。葦が「混沌(どろどろ)」から形をあらわすなら、そしてそれが緑色で錐の形をしていて、萌えあがるなら、それは「芽ぶく/芽を出す」だろう。「芽」を「つの」にかえると、「つのぶく」。「つの」は「角」であり、それは先がとがった「錐」の形。
 「芽ぶく」よりも「つのぶく」の方が音がゆっくりしていて、古い感じがする。この「古い」は「原始的(根源的)」という感じでもある。
 それにしてもおもしろいなあ。「芽」よりも先に「つの(角)」がことばとしてあったのか。「混沌」という観念的なことばのまえには「どろどろ」があった。(「どろどろ」というルビが「混沌」を「混沌」ということばになる前の世界に引き戻す。)これはなんとなくわかる。こどものは「どろどろ」ということばを先に知る。「混沌」はもっとあとからだ。観念で世界をととのえることを覚えてからだ。「どろどろ」は最初は「泥泥」かもしれないが、生きているあいだに「泥」よりももっと「肉体」的なもの、肉体の内部にあるもの、「感情のどろどろ」にかわっていく。おとなになってしまうと「泥」とは遊ばなくなり、もっぱら感情(人間関係)の「どろどろ」にからまれてしまう。そして、その「感情」には「怒る」ということも含まれる。「怒る」は「角を出す」ともいう。「つのぶく」には、何か、そういうものを感じさせる力もある。我慢しきれなくなって、激情が噴出する。その「激情」を感じさせるものがある。
 「芽ぶく」ということばなら、こんな寄り道(ことばの不経済/くだくだとした思いめぐらし)はしない。奇妙な寄り道をすると、自分の「肉体」の内部が揺り動かされた感じがする。その揺らぎの中に「いにしえの書物」(古事記?)につながるものがあるのだと感じる。人間はみんな「つのぶく」ということをするのだ、と思う。--こういう「余分」な寄り道、どうでもいい思い(思い間違い?)のなかに詩はあるんだろうなあ、と私は感じる。そういうことをおもしろいなあと感じながら読み進む。
 で、そのあと。

それから春は数えきれないほどめぐって
この国もすっかり年をとりました

 これは「流通言語(ことばの経済学にのっとったことば)」で言いなおせば、古事記(神話?)の時代から何年もたったということに過ぎないが、「つのぶく」で寄り道をした私は、またさらに寄り道(脱線)をする。
 「春を数える」(春を繰り返す)ということばのなかに、「肉体」が何度も「つのぶく」を「見る」という「動詞」が重なって動く。そして「見る」には当然自分自身の「肉体」が重なるので、「この国もすっかり年をとりました」は「私もすっかり年をとりました」という「実感」と重なる。この「重なり」がおもしろいのは、古事記から現代までの「時間」と自分自身の「年取ったというときの時間」では「長さ」がまったく違うのに、その「長さ」の違いが抜け落ちて、「つのぶく」「めぐる」という「動詞」のなかで「重なる」ということが起きることだ。
 「時間」、「時の間」「時と時の間」は、あって、ないのだ。「いま」だけがあって、「いま」古事記の過去を思い、「いま」自分の過去、生きてきた時間を思うとき、ふたつの過去は数字(年数)で客観的に言うことはできても、「実感」としては「いま/思い出す」という「瞬間」にのみこまれて、区別がない。
 時間に区別がないなら。
 と、私は、ここで「飛躍」する。「誤読」する。ことばを暴走させる。
 「つのぶく葦」と「私(新川)」もまた区別がない。新川は古事記を読んで葦のことを思い出しているだけではない。自分の「生きてきた時間」を思い出している。生き方をも思い出している。
 葦は生まれて、何をしたか。

萌えあがる力をもって世界の中心をさした

 あ、すごい。
 ひとは、生きるとき「世界の中心をさす」のだ。さそうとするのだ。そして、その「さす」ものが「つの(尖った感情/怒り/激情)」なのか。
 ひとは年を取ると「まるくなる」というが、そんなことはないのかもしれない。

でも春ごとに萌えだす草が
もののはじめのあの葦のように
どの葦も どの葦も
世界の中心をさそうと背のびしているのは
なんと嬉しいことでしょう
 
 いいなあ。この希望の力はいいなあ、と思う。新川のことば自体が「中心」をさして「つのぶいている」。
 「中心」というと、何かの真ん中なのだが、葦の芽(つの)が指しているのは、「どろどろ/泥/大地」とは正反対の「天(空/宙)」。えっ、「世界の中心」は「天」?
 「論理」が一気に逆転する。自分の根を張って生きている大地(泥)が、突然、世界の端っこに押しやられる。中心は自分の生きている場所とははるかに遠い「宇宙」。
 この瞬間、不思議な開放を感じる。「世界」がひろがった感じ。「どろどろ」がきれいさっぱり消えてしまう感じ。
 これ以上ことばを動かすと「倫理」になってしまいそう。だから、もう書かない。
 ただ、ひとこと。もしこの詩が「芽ぶく」というタイトルで、途中に出てくることばが「芽ぶく」だったら、私はきっとこんなふうには感じなかった。「つのぶく」が私の考えた通りの意味なのかどうかはわからないが、私はこういう「誤読」が好きなのだ。「誤読」をしたくて詩を読むのだとあらためて思った。

ブック・エンド
新川 和江
思潮社
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御庄博実「目を取り換える」、稲川方人「やわらかいつちをふんで、」ほか

2014-12-16 11:52:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
御庄博実「目を取り換える」、稲川方人「やわらかいつちをふんで、」、稲葉真弓「金色の午後のこと」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 御庄博実「目を取り換える」(初出「いのちの籠」26、2月)は「意味(メッセージ)の強い作品。

目を取り換えて いま見えてきたものは何か
曖昧な画像と 混迷する原発隠し
曖昧な活字と 曖昧な報道の裏側
首相自らトップセールスを続ける「原発」
与野党協議と言う秘密保護法案
戦争への地均しが 報道管理のもとで進んでいる
二〇二〇年のオリンピックに浮かれていいか
国家安全保障(NSC)と言う外国への軍事派遣でいいか
TPP参加と言う この国の基本を突き崩していいか

目を取り換えろ
過去を振り返って未来を見つめる目だ
日本の近現代史をめくりなおさねばならん
戦争への道のヴェールをはがせ

 主張はわかるが、これでは安倍政権に利用されるだけだろう。「過去を振り返って未来を見つめる」、その結果「秘密保護法」が必要、「NSC」が必要という安倍は言っている。さらに原発再稼働が必要、オリンピックが必要と言っている。そして、多くのひとが民主党に期待していた「目を取り換えて」、安倍を見つめている。
 「目を取り換えろ」というだけではだめなのである。「目を取り換える」と何が見えるかを具体的に書かないと、他人には御庄の「見えているもの(見ているもの)」が見えない。
 今回の選挙で、民主党は安倍政権の嘘を攻撃していた。雇用者が増えているというけれど、正規雇用が減り非正規雇用が増えている。その結果、雇用者の総数が増えていると説明している。それは正しい。けれど、その先をもう一歩、攻撃しないといけない。正規雇用を減らし非正規雇用を増やすことで、企業の利益はどうなったか、を数字で示さないと批判にならない。50万円で正規雇用者50人をかかえている企業が、雇用形態を見直し正規雇用20人(1人60万円)非正規雇用40人(1人20万円)にした場合、会社の支払い賃金は50万円も節約できる。そういうことを明確にしないと、「正規雇用の賃金は増やしました、雇用者総数は増やしました、これで景気回復への期待できます」という論法に飲み込まれてしまう。
 「目」というのは「思想」であり、「思想」とは具体的なもの(ひとの数、賃金など)でできている。それは具体的に指摘しない限り、見えない。
 先の簡単な算数のつづきを書くと、節約した(50万円)はどこへ行ったのか。単に会社のオーナーが儲けただけなのか。そこから自民党へいくら流れたのか。そういうことまで追及しないと、「事実」はわからない。私は説明を簡単にするために「50人」という数字を例にしたが、これを「1000人」「3000人」にしたらどうなるか考えると、アベノミクスの本質が見える。格差拡大の「構造」が見えてくる。一般市民には調べられないことを資料をそろえて分析し、問題点を明確にするのが「国会議員(政党)」というものだろうと思う。
 あんな甘い追及の仕方だから、多くのひとが民主党を見限ったのだ。
 脱線したが、「目を取り換えろ」では、「メッセージ」にはならない、と私は思う。「意味」を伝えているつもりだろうが、具体的事実がないので、そのまま安倍政権に利用されてしまうと私は思う。



 稲川方人「やわらかいつちをふんで、」(初出「花椿」3月号)を読みながら不思議な気持ちになった。
 私は稲川の作品は苦手である。どの作品を読んでも、さっぱりわからない。ただし平出隆の作品を読んだあと、つづけて稲川の詩を読むと、「わかる」。「わかる」というよりも、あ、こんなことばの動かし方は平出のことばの動かし方から見ると「天才の仕事」に見えるだろうなあ、と「感じる」。平出のことばの動きが私の「肉体」のなかに残っていて、それが鳴り響いているときは、わからないのに「稲川のすごいなあ」と思ってしまう。
 どんなことばのなかにいたか、何を読んだあとか、ということによって詩の感想は違ってしまう。
 で、今回、御庄の「メッセージ」を読んだ直後に稲川の詩を読むと、それこそ「目が取り換えられた」ように新鮮に、美しく見える。センチメンタルな感じがくっきり伝わってくる。

草むらから若い花を摘んで声をあげた僕の母は
     坂道の空の 遠い蜃気楼  一途にプリズムの
      よう
           母のくれた小さなガラス玉が
   ずっと向こうの夜へ転がって行くから  僕は ね
        光りの射す絵の中に もうすぐ帰ろう

 「若い花」を摘んでいるのは「若い」母だろう。したがって「僕」もそのときは「若い(幼い)」。いまはその記憶が「ずっと向こうの夜」のように遠い。「僕」はその記憶を思い出している。そして、そのことを「記憶(光の射す絵)」の中へ「帰る」という動詞で語り直されている。
 へええっ、稲川ってこういう詩を書いていたのだっけ?
 私は稲川の詩は何も覚えていない。苦手だなあ、という印象だけを覚えているので驚いた。
 驚きながら、少し気持ち悪くも感じた。特に「ずっと向こうの夜へ転がって行くから  僕は ね」の、一呼吸おいたあとの「ね」の音が不気味である。そんなふうに粘っこく「肉体」を押しつけてこないでほしい、と身構えてしまった。センチメンタルは「精神」のなかだけを走り抜けるとなつかしい感じがするが、そこに「肉体(なまの声)」がからみついてくると、何だか気持ちが悪い。
 これは、単に私の「好み」の問題なのだろうけれど。



 稲葉真弓「金色の午後のこと」(初出『連作・志摩 ひかりへの旅』3月)は一瞬一瞬過ぎ去る「とき」のことを書いている。--その「とき」を稲葉は、「均一」に流れるものと要約している。ふつう、こんなふうに「要約」してしまうと味気なくなってしまうのだが……。

ぽかんと口を開いていた午睡のときにも
ときは均一に流れていて
ああ なんてのんきだったんだろうと思っても
もう遅い あの幸福な午後
かといって午睡以外になにができただろう
半島の庭のスズメたちの優しいついばみに魅入る目が
いつしか眠りに誘われたからといった

浜尾さんちのクレソンが一気に伸びた朝も
ビニールハウスのなかにときは流れ
窓辺にメジロの素早い飛翔が見えた朝も
翼はときの重力を必死にかきまぜていたのだ

 具体的に「スズメ」や「クレソン」「ビニールハウス」「メジロ」が書かれているので、その「均一」がそれぞれ「個別」に輝いて見える。「均一」は実は違うものの存在を意識するときに、その「奥」に存在するものとして見えてくる。「均一」というような「観念」は肉眼では見えないが、それがスズメ、クレソン、ビニールハウスという個別のものを凝視するときに、目をつきやぶって動く。
 そうか、稲葉には、スズメやクレソン、メジロの動きが見えるとき、この世界をささえている「とき」が見えるのだとわかる。
 稲葉の「目」を感じる。「肉眼」を感じる。それは稲葉の「肉体」を感じるということ、「思想」を感じるということ。

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御庄 博実
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中村和恵「氷湖」、中本道代「ふ ゆ」、北条裕子「無告」

2014-12-15 10:04:22 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中村和恵「氷湖」、中本道代「ふ ゆ」、北条裕子「無告」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中村和恵「氷湖」(初出『天気予報』2月)の書き出し。

雪が降るだけで南からきたひとは肩をすぼめるが
雪は はなやいでしずかなもの
雪の中なら何時間でもこうしていられる

 南からきたひとだった中村は、やがて雪の降る土地に住むようになる。雪に対する思いも変わっていく。その「時間」を次のように書く。

かれらのことばを話すことを習い覚え
でも湖に群れる鴨をつかまえようとするわたしの手はまぎれもなくひらがなのまるみにひらかれていて
ひらがなでもわかるのとわからないのはあるでしょう
もちろんそうです だいたいわからない
 だいたいはわたしの手の中で溶けてしまう
いつも一緒にいて四半世紀の時間が経って
それでも名も知らぬひとのまま
あなたは不思議な伴侶になった

 「伴侶」は人間か、あるいは「雪」のことをそう呼んでいるのかわからないが、書き出しが「ひと」なので「ひと」だろう。わかるようで、わからないが。
 その「わかるようで、わからない」という感じが「ひらがな」をめぐる行につまっている。その「わかる/わからない」のカギになっているのが「手」。
 鴨をつかまえる。そのとき手をどういう形にするか。これは「ことば」にするのが難しい。「ことば」にしないで、「肉体」で手本をみせて、その手本をまねる。ことばにしないで「肉体」でまねる。その「肉体」のなかに、「もう少し、こんなぐあいに」「いや、もっと丸く」というような、「その場」でしかわからないことが積みかさなる。ことばにはできないが、「肉体」で覚えてしまうことがある。
 「わかったのか」と聞かれれば、「だいたいわからない」のだが、「だいたいわからない」ということは、たいていの場合「ほとんどわかる」でもある。「肉体」は、まねした「肉体」のように動くのだから。動かせるだから。「だいたいわからない」と言ってしまうのは、教えてくれたひとの領域(?)にまでは達することができないからそう言うだけの「方便」である。何かの達人が、だいたいの仕事ができるひとに対して「まだまだだね」と言うのの裏返しだ。それはもう一度逆に言えば「だいたいわからない」と言えるくらいに中村の「手」の動きが、その土地のひとの動きに近づいているということでもある。わかればわかるほど「まだまだわからない(だいたいわからない)」と言うしかなくなる。
 そういうことが「ひらがな」ということばのまわりで書かれている。静かで、いい詩だなあ、と思った。



 中本道代「ふ ゆ」(初出「ユルトラ・パズル」22、2月)。私は、冬とか雪とかということばが出てくると、それだけで作品にひかれてしまう。

十二月の光が斜めに射して
白いカーテンで影絵が踊る
大気が冷えてもう何も暖めなくなった

 この3行目がいいなあ。北国の冬の、空気とものの関係が「もう何も暖めなくなった」に結晶のように硬く輝いている。
 でも、

ねずみが走る空き家の
窓辺に眠る幽霊
埃の積もった寝台で
何十年も前の夢をみ続け

水中で絡み合う根毛は
古い古い時代へ
原始の水を求めて伸びていく

 「空き家」のせいだろうか、「ねずみ」のせいだろうか。「暮らし」の感じが消えてしまって、空々しい。「大気が冷えてもう何も暖めなくなった」には、中村の書いていた「ひらがな」の感じがあったが、特に「もう」にはそれが濃厚に出ているのだが、2連目以降、その「ひらがな」の感じが消えてしまう。「絡み合う」ということばさえ、何にも絡みあっているようは感じられない。「観念」が「絡み合う」を偽装している。だから「原始」というような「何年前」かわからない「時」が出てくる。その1連前では「何十年」だったのが、次の連に行っただけで「原始」に変わる。こんな「時間旅行」は「肉体」にはできない。
 嘘っぽい--と私は感じる。
 タイトルを「ふゆ」ではなく「ふ ゆ」と1字あきにしたときから、中本の観念がことばをねじまげている。



 北条裕子「無告」(初出『花眼』)。

質問したいのです
光はいつまで黒いのですか?

 最終連の2行が印象的である。光はたいていの場合明るい。だから「黒い」というのは矛盾している。理不尽である。でも、そういう矛盾(理不尽)なことばを言わずにはいられない--というところへことばは動いている。
 「光はいつまで黒いのですか」という質問は、常識からすると「嘘」なのに、嘘っぽくない。中本は常識からすると嘘などひとことも書いていないのに(ねずみ、空き家、幽霊、埃という組み合わせは「常識」そのものであるし、「原始」という時代区分もちゃんとあるにもかかわらず)、嘘っぽいのと対照的である。
 なぜ、北条のことばは「非常識(光は黒い)」と書いても嘘にならないのか。

夕暮れて
歩いていたら
いつのまにか
見知らぬ原っぱに出た
「ここが世界の端っこです」と書かれた
立て札がたててある

それで供養のために 靴を 樹の枝にかけていると 百合が幾つもの方向に 顔を向けながら 乱れ咲いているに 気がついた 花のひとつと 目が合って この花にあうためにこれまで生きてきたことを 瞬時に 思い知らされる 冷たい刃で うっすらと 胸の奥をそがれる

 原っぱに「ここが世界の果てです」という立て札があるというのは、まあ、嘘である。本当にあったにしろ、そこが「世界の果て」であるわけではない。でも、その原っぱを「世界の果て」と思うことはできる。自分でそう思えば、自分にとってはそこが「世界の果て」である。北条は「主観」を生きているのである。「客観」を最初から無視して「主観」に忠実である。
 「主観」は嘘をつかない。嘘をつけないのが「主観」なのである。
 「主観」というのは「見通し」をもたない。その場その場で動くしかない。そういう状態が、「靴を 樹の枝にかけていると 百合が幾つもの方向に 顔を向けながら 乱れ咲いているに 気がついた」のなかに描かれている。「……していると、……と気がついた」。何かしながら、気持ちが変わっていく。何かしながら、それとは違う何かに「気づく」。この「いいかげんさ」(最初から、それに気づきたいわけではない、気づこうとしていたのではない、という意味だが……)が「主観」の動きの特徴なのだ。
 何かをしながら、別の何かに気がついていく。気づくとはもともとそういうことなのかもしれないが、それが自然にことばの運動になっている。だから、「光」が「黒い」と気がついても、変ではない。「光は黒くない」という「客観」など、北条は問題にしていない。
 百合に顔があり、目があるというのが北条の「主観」である。比喩のなかに「主観」の「思想」がある。
 「主観」の「正直」に会うのは、とてもうれしい。
 詩集で読んだときは、感動したという感じは残らなかったが、中本の詩のあとに読むと、北条の「正直」が伝わってきて、感動する。
 詩を読むのは、不思議な体験だ。
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小林坩堝「骨」、たかとう匡子「その音に閉じ込められて」ほか

2014-12-14 10:04:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
小林坩堝「骨」、たかとう匡子「その音に閉じ込められて」、手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 小林坩堝「骨」(初出「東京新聞」2月22日)は何を書いてあるのだろう。

おまえの白い骨
あらかじめあたりまえに担保された死の
時間いっぱいまで伸びきった骨

 生をまっとうしたひとの骨のことを書いているのか。その人を悼んでいるのか。「時間いっぱいまで伸びきった骨」は、まだ成長過程の骨(肉体)を感じさせて、とても美しい。けれど、その直前の「担保された」が、私には、よくわからない。
 小林は日常的にこういうことばをつかうのだろうか。私は政治家の口調を思い出してぎょっとする。「意味」の経済学が働きすぎている。詩は「意味」から遠いもの、「意味」を壊していくのもだと信じている。私はロマンチストなのである。
 で、そのロマンチストの私から見ると、

あゝ
帆をはって
凍てつく海の奥の奥のほうへ
ふたりで逃げても
よかった
おまえのぶんを
生きることなど出来はしない
のに そんな そんなこと
霧笛…………、

 これは甘すぎる。昔の歌謡曲みたい。「帆をはって/凍てつく海の奥の奥のほうへ」というのは「パイプくわえて/口笛吹けば」みたい。不可能ではないだろうけれど。白い骨、白く凍てつく海、その奥にある白い氷という具合に白が連鎖しているのだろうけれど。「のに そんな そんなこと」はことばのリズムに酔っている演歌みたいだなあ。

ひるがえるシイツの白さ
あけっぱなしにしておく為の
その為だけの
欠落が
ある

 「為の/その為だけの」の繰り返しも、小林の「愉悦」は感じるけれど、その「愉悦」がどんなものなのかはわからない。肉声で聞けば、その声がわかるかもしれないけれど、文字で読むと、ひとりで快感におぼれている感じがして、醒めてしまう。「シイツ」という表記にも「酔い」を感じる。ロマンチストの私は、でも、こういう「酔い」にはなじめない。ロマンチストだから、他人が「酔う」と酔えなくなってしまう。。



 たかとう匡子「その音に閉じ込められて」(初出「風の音」5、2月)は、どこから聞こえてくるのかわからない音について書いている。音が聞こえてくるのだが、何のことかわからないので、その音に閉じ込められている(とらえられている)感じがする、ということか……。

においも厚みもない
荒れ放題の猫じゃらし

時間が音立てて裂け目のむこうにこぼれていった
意識と無意識のあいだに立つ紙でできた木の幹にはさまれたまま

いったい私は何者なの?
いつだって水辺によって切断されている

ここが目蓋
そこが鼻孔

と言ったってまたしても聞こえてくる
奇異としか言いようのない途切れがちの空の空

 「荒れ放題の猫じゃらし」「時間」「意識/無意識」という自然と概念が交錯しながら「目蓋」「鼻孔」という「肉体」とぶつかる。「肉体」のなかに、美しい自然(荒々しい自然)と制御しきれない概念がぶつかり、それが「音」になって聞こえるということなのだろうか。
 一篇ではわからないが、詩集になったときに形になる何かがあるのかな?



 手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(初出『おやすみの先の、詩篇』2月)は詩集の感想を書いたと思うけれど……。そのときは違う詩を取り上げたかもしれないが。

目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、
のり越えなければならなかった視界は 暗碧の底にしずみ、
湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす
熱望のうちにも、日輪は 小さくなろうとする体内から、徐々に耀きわたってゆくのがわかる

 小林は読点「、」は書いているが句点「。」はつかっていない。また読点のほかに「1字空白」をつかって文字を読みやすくさせている。かるい息継ぎはあるが、ことばを「文章」として独立させるということを避けているように思える。「持続」を重視しているのかもしれない。
 「持続」にはいくつもの種類がある。
 「目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、」というのは一種の「矛盾」。目をつむれば、周辺の闇がどういう状態か見えない。その見えないものを想像力で存在させている。「つむる」と「ひらく」という、目にとっては反対の動き(動詞)が、その矛盾を結合させる。同じ「目」を主語とする「動詞」が「目(肉体)」のなかで絡み合う。「肉体」が新しく目覚める。こういうことばの動きは、私は好きである。
 「湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす」には、「湧き出る」と「過ぎる」という「動詞」がある。「持続」を中心から遠方へと拡大する動きがある。そしてそれは単なる拡大(拡張)ではなく、「ゆらす」という「動詞」といっしょにある。一直線の拡大/拡張を否定する。これも「矛盾」のひとつか。
 こういうことを「句点」(完全なる切断)を拒んだ形で動かしていく。そうして、

飛散する光の条(すじ)-- ここではりんかくに混じるのも、りんかくを跨ぐのも、お手のもの
あの孤悲(こい)びとのいた方角を見上げ、左右の隙間を大きく侵蝕して行きながら
脈絡のない物事のうちを漂い、縺れ合っていった

 次々にことばを「縺れ合わせる」。これは別種の「接続」。「脈絡」は関係がない。「脈絡」というのは「整然としたつながり(接続)」のことだが、句点という完全な「切断」がないとき、そこには「接続」も意識されることはない。「接続」という意識がないから「もつれる」のである。何かを切断しないことには接続は完結しない。切断と接続はひとつのセットである。「接続」も切断(何かを選択して切り離す)のひとつなのに、それがおこなわれていないから「縺れる」。
 で、そういう「縺れ合い」の象徴が「孤悲びと」という奇妙なことば。
 それは手塚に言わせれば「飛散する光の条」のような強烈なインスピレーションということになるのかもしれない。手塚の「選択(切断)」を超越したことばの「縺れ合い」が生み出した「事実」。つまり「詩」。
 「縺れ合い」が激しくなって、それが「結晶」のように固くなってのかもしれない。
 それはそれで、「思想(肉体)」のありかたとしてわかるけれど。わかったつもりになるけれど……。
 手塚がさらにどんなセンチメンタルなことばを生み出すのかわからないが、私は、こういう「文字」に頼ったことばは好きになれない。私は詩を音読するわけではないが、ことばは「音」だと思っている。「文字」はことばではない、と感じている。
 単なる「好み」の違いと言われればそれまでだが、私は「好み」を捨てられない。

でらしね
小林 坩堝
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金時鐘「朝に」、倉橋健一「パンの朝」、小池昌代「さかのぼる馬の首」

2014-12-13 10:24:17 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
金時鐘「朝に」、倉橋健一「パンの朝」、小池昌代「さかのぼる馬の首」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 金時鐘「朝に」(初出「朝日新聞」2月4日)は世界と詩人との「ずれ」のようなものを書いている。世界に溢れる映像(他人が見た世界の間接的表現)と詩人の認識の「ずれ」。それに向き合っている。

新年の三が日はどの番組からも
開年を言祝(ことほ)ぐお笑いがあふれ出ていた。
画面いっぱい共感をつのらせて
くっきり霊峰富士も映えていた。
裾野がかすむはるかな東北で
錆びついたブランコは垂れたまま
きしりひとつ立てなかった。
終日風が吹きすさび
男は彫像となって枯れ木の陰にいた。
頬のゆるんだ私が
見るともなくそれを見やっていた。

 ぼんやりした倦怠のようなものを感じる。「頬のゆるんだ私」が倦怠を感じさせるのかもしれない。自分の気持ちにあわない世界(他人が「定型」におしこめた世界)をみつめると、世界が自分から離れていって、倦怠感がただようのか。「開年」ということばは聞かないなあ、言わないなあ、「霊峰富士」という言い方はいやだなあ、と私は、行ったり来たりしながら、ちょっとつまずくのだが……。
 途中を省略して、

今に草木も萌え出る新春だ。
帰りつけない住処(すみか)ではあっても
蔓草(つるくさ)は延び 花は咲く。
羊歯(しだ)が生い茂った中生代までも
あるいは持ち越さねばならない空漠の時間が
そのことろで滞っている。

 あ、ぼんやりとテレビを見るふりをしながら、ぼんやりのなかに「既成」の視点を捨てていたのか。テレビが伝える「定型」をくぐりながら、「定型」を捨てていたのか。「定型」を捨てて「時間」をつかみ取っているのか。
 人為を超えて、繰り返す自然の「時間」が「蔓草」「羊歯」という「野生」の強い草花を通って動きはじめる。そして、

私は水仙のような懸念をまたひとつ
胸にかかえて
風のなかをさざめいている

 この3行のあとに、もう1行あるのだが、それを無視して、私はここで「誤読」する。この3行が美しいと思う。
 蔓草や羊歯の生命力に気づいた詩人が、それに呼応するように胸のなかに水仙を咲かせている。自分のなかに花開いたものをかかえている。それは「懸念」と表現されているが、「正しい懸念」(希望につながる懸念)であるだろう。
 「意味」をさがそうとは思わない。「意味」は何とでも書くことができる。「水仙」は象徴である。何の象徴かは考えず、象徴とだけわかればいい。そして、その「水仙」が見えれば、それでいいと思う。
 このとき詩人の頬は「ゆるんで」いないと私は感じる。既成の「定型」を破って、突然花開く1行--そこに詩の不思議さがあると思う。



倉橋健一「パンの朝」(初出『唐辛子になった赤ん坊』2月)は「文体」が詩である。

砂浜に降りていってしゃがみ込んで
<曾(ひい)>の字を書いて遊んでいたら
椿の杖をついた媼が近づいて
おまえのひばばだよ、ひばばだよ、
ついて来な、という
もぐもぐする口元は
よく生きていたな、生きていたな、
といっているようにも見える
そこでわたしは立ち上がるが
おばばの胸のあたりでぴたりととまってしまった
背伸びしても伸びないのだ

 昔話(民話)風の不条理な世界。「曾の字を書いて遊ぶ」などということを、誰もしない(だろう)。そこからすでに不条理なのだが、ことばが隠れている「現実」を引き出すということはある。ことばにすることは、最近あちこちでみかける概念をつかって言えば「分節」すること。「分節」によって「世界」の見え方は違う。どういうことばをつかうかによって、世界が変わってしまうのはあたりまえのことなのだ。だから「曾」から「いま」の世界とは違う世界がはじまっても不思議はない。「遊び」なら、なおさらである。「いま」と「永遠(普遍/真実)」を攪拌して「いま」ではないものを生きるのが「遊び」だ。
 「よく生きていたな、生きていたな」は老婆が「もぐもぐ」言っていることばなのだが、それは「わたし(倉橋)」が老婆に感じていることそのものである。年老いた女がこどもに向かって「よく生きていたな」というのは時系列からいうと変なのだが、「こんなに幼くてよく生きていられる」という驚き(自分は苦労して生きてきたという思い)が、ことばの「意味」をを「逆転」させるのだろう。その「逆転」のなかで、幼い倉橋と老婆が「一体」になる。「よく生きていたな」はどちらのことばにもなる。
 「一体」になってしまったから、「わたし」が立ち上がっても、老婆の思い描いている「曾孫」のままの大きさより大きくはなれない。
 この先、詩はさらに不条理の世界へ進んで行くが、ことばはゆるぎがない。「悪夢」を「分節」しつづける。



 小池昌代「さかのぼる馬の首」(初出「樹林」2月号)は、倉橋が「一体感」の悪夢として「民話」風のことばにしているものを、「現代」のまま描こうとしているようにも読むことができる。--「文体」として、という意味だが……。

宿り木を見たのはある詩人の庭だった
世界のなかに世界 木のなかにもう一本の木
存在の畸型に 胸を打たれた
あなたに昨日、木のおもかげが走ったように
あるとき木にあなたのおもかげが 素早く横切っても不思議はない

 「木のおもかげ」「あなかのおもかげ」が「あなた」と「木」のあいだで交代する。そのときの突然の変化、「分節」の崩壊の「場」に詩がある。「分節の崩壊」という「詩/新しい分節の方向」を小池は「民話」にならないように動かしていこうとしている。「畸型」を「分節」しなおして、「正しい形(?)」にしようとしている。「正しい論理」にしようとしている。

止まるところを探してはぐれた鳥が
ある日
木の腕から落ちてきた
石に次々に翼が生え 鳥になった民話がどこかにあったが
翼をもったものが
石となって 落下し続ける山峡もあるという
地獄だが
それは落ちることによって地獄なのではなく
落ちる生というものが
永遠に続くことによって地獄なのである

 「民話」ということばを出しているのは、「民話があった」と書くことでそこへ近づくのではなく、そこから離れようとする意図があるからだ。そこに「いま」を書こうとする小池の意思も感じられるのだが、なんだかことばが「理詰め」すぎる。リズムも先を急ぎすぎて乱れているように感じる。
 詩ではなく、小説にすると落ち着くかもしれないと思った。

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