田中清光「訪問者」、水谷有美「ナバホ族」、峯澤典子「回診前の窓」(「現代詩手帖」2014年12月号)
田中清光「訪問者」(初出『生命』6月)には省略されたことばがある。1連目。
「おとずれてくるもの」(訪問者)は誰なのか。「一人だけ」と書いてあるが、それは誰なのか。友人か、家族か。私は直感的に、これは田中自身のことなのだと感じた。自分を「訪問者」と呼ぶのは変かもしれないが、自分自身と向き合って対話している--そのときの感じ。自分自身と対話しながら、人間の歴史(幾世代を生きた人人)を思っている。そのとき、「人人」というのは歴史的な何かをするというよりも、生まれて、生きて、死んで行くということをする。人間の生と死について思いを巡らしている--そういう感じが、この静かな1連目、「主語」を明記しない(特定しない)書き方のなかに感じられる。
「訪問者」は「黒揚羽」と言いかえられている。さらに「野の花影」とも言いかえられている。蝶も花も客観的には「私(田中自身)」ではない。けれど、それを田中は「私」のように感じ、対話者と感じ、迎え入れている。田中が蝶を見る。そのとき蝶は対話者となって生きる。野の花を見る。そのとき花は対話者となって田中の「肉体」のなかで動く。そういう静かな一体感。
この3連目に「自己」ということばが出てくる。いままで書かれなかった(省略されていた)「主語」である。
田中の「思想(肉体/ことば)」について私は詳しくはない。だから直観で書くしかないのだが「有なるものの結び目」という表現のなかに、「一元論」に通じるものを感じる。2連目にもどって言えば、蝶を見る。蝶が「有る」と見る。そのとき、蝶の形のなかに、蝶と「私」が結び合わさって「有」る。蝶がいなければ、「私」はない。同じように野の花がなければ「私」もない。野の花が「有る」とき「私」も「有る」。
「一事」とは何か。具体的には書かれていないが、社会的なことがら(仕事?)などに手一杯で、「私」の存在について(どのような形、運動で「有」として存在しているのか)、考えるのを忘れていた。感じるのを忘れていた。そういう「自己」が、いま、ふと蝶を見て、野の花を見て、その瞬間に「有」を感じている。
友や家族がいなくても、「私」は「私」の訪問者になって対話している。
この「訪問者」は最終連で、また別の形になる。
「最終の訪問者」。私はこれを「死」と感じた。いまは「生きている私」が蝶や野の花の形として私を訪問し、対話する。その「結び目(出会い)」のなかに、「私」というものが「有」の形で存在する。
その最後の「訪問者」は「死」である。「死」と対話する。
1連目で書かれていた「幾世代を生きてきた人人」は「あるがままの生命の流れ」という形で甦っている。その「流れ」のなかに田中は入っていく。そうして「幾世代を生きた人人」の「ひとり」になる。
そういう予感が、静かに書かれている。この静けさは美しい。
*
水谷有美「ナバホ族」(初出『予感』6月)。「北米先住民の一部族」というサブタイトルがついている。私はナホバ族について知らない。こう書くと、知らないことは調べればいい(調べないといけない)と叱られるのだが、調べるといってもどこまで調べれば「わかる」になるのか、見当がつかない。だから、私は「知らない」まま、「北米先住民の一部族」と言いなおしている水谷のことばを信じて詩を読む。水谷が「ナホバ族」をどう書いているか、その書き方のなかにあるものを読む。
水谷の詩も「主語」が省略されてはじまる。
誰が? 水谷だろうか。「ナホバ族」だろうと私は思う。ナホバ族は「何を食べ/何を着るか/思い煩うことはない」。そんなふうに水谷には見える。その生き方がいいなあ、と感じる。そうすると、ちょっと変なことが起きる。
突然「私」が出てくる。しかし、この「私」は水谷なのか。水谷というよりも「ナホバ族」のだれかであろう。ナホバ族の「思想/肉体」がここでは書かれている。ナホバ族の「思想/肉体」なのに、水谷はナホバ族に共感し、一体化しているために「私」と書いてしまうのだ。
「土になれば」「川になれば」と「なる」ということばがつかわれているが、ここでは、水谷は、そうしたものに「なる」前に、ナホバ族に「なる」。なってしまっている。そうして、ナホバ族の「肉体」で世界と結び合う。田中が「有なるものの結び目」といっていたときの「結び目」に近いものが、ここにある。
「一元論」の世界である。
「まだ見ぬ岸辺」とは「彼岸」だろうか。「死」さえも「世界」の「ひとつ」。世界のなかに「死」は共存している。死と私が結び合うとき、死ぬ。いや「死に、なる」のだ。それは自然の摂理であって、あるいは道理であって、忌避することがらではない。「死」へたどりついて、「永遠」に「なる」のかもしれない。
「なる」という動詞のなかに、無限の可能性がある。「なる」が繰り返されるたびに、世界がどんどん豊かに美しくなっていく。そういう「肉体/思想」を生きているのがナホバ族だと、私は感じた。ナホバ族だと、水谷の詩をとおして「わかった」。
*
峯澤典子「回診前の窓」(初出「文学界」6月号)はタイトル通り、病院で回診前にまどから外を見ている。
「長い間気づけなかった」ことがある。それに気がついた。ひとは「たやすく」に何かになれる。(風をはらめる--と、峯澤は書いてるが、私は水谷の詩を読んできたつづきで「なる」という運動としてこの詩を読んでしまう。)
どうすれば?
「無心」ということばがふいに思い浮かぶ。赤ん坊を無事に産んで、いまは何も考えずに(無心で)眠っている女(友人だろうか、家族だろうか)。その人は風をはらんで輝くシーツのように、空に近づいて、ゆったりしている。
「たやすく」はこの連では「かんかんに」と言いなおされている。
「風をはらむ」よりも、この「たやすく」「かんたんに」の方が、峯澤には大切なことばなのかもしれない。何かに「なる」ことはむずかしくはない。「たやすく」「かんたんに」何かに「なる」。赤ん坊が出てくるからかもしれないが、「無心」になれば、「たやすい」「かんたん」なことなのだ。
最後の2行。
これは高くて手が届かないではなく、峯澤自身が風をはらんだシーツになって、空の高みまでのぼっていったために、その高さが実感できたということだろう。
異物を摘出したあとの、ただ回復を待っているだけの時間--そのなかで気づいたことが、静かに書かれている。
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田中清光「訪問者」(初出『生命』6月)には省略されたことばがある。1連目。
おとずれてくるのは一人だけになった
これまで次々にやってきては
幾世代を生きてきた人人
でもその一人一人が去るのを 誰も繋ぎとどめることはできなかった
「おとずれてくるもの」(訪問者)は誰なのか。「一人だけ」と書いてあるが、それは誰なのか。友人か、家族か。私は直感的に、これは田中自身のことなのだと感じた。自分を「訪問者」と呼ぶのは変かもしれないが、自分自身と向き合って対話している--そのときの感じ。自分自身と対話しながら、人間の歴史(幾世代を生きた人人)を思っている。そのとき、「人人」というのは歴史的な何かをするというよりも、生まれて、生きて、死んで行くということをする。人間の生と死について思いを巡らしている--そういう感じが、この静かな1連目、「主語」を明記しない(特定しない)書き方のなかに感じられる。
なんの見張りも立てずに
この寂しい峡谷に生きる--
飛び巡る黒揚羽のやさしい訪問を迎えて
野の花影を眼に挿して
「訪問者」は「黒揚羽」と言いかえられている。さらに「野の花影」とも言いかえられている。蝶も花も客観的には「私(田中自身)」ではない。けれど、それを田中は「私」のように感じ、対話者と感じ、迎え入れている。田中が蝶を見る。そのとき蝶は対話者となって生きる。野の花を見る。そのとき花は対話者となって田中の「肉体」のなかで動く。そういう静かな一体感。
有なるものの結び目はどこにあるのか
一事に捉われ 見えなくなった自己を
四季のめぐりのなかで円座に戻し
この3連目に「自己」ということばが出てくる。いままで書かれなかった(省略されていた)「主語」である。
田中の「思想(肉体/ことば)」について私は詳しくはない。だから直観で書くしかないのだが「有なるものの結び目」という表現のなかに、「一元論」に通じるものを感じる。2連目にもどって言えば、蝶を見る。蝶が「有る」と見る。そのとき、蝶の形のなかに、蝶と「私」が結び合わさって「有」る。蝶がいなければ、「私」はない。同じように野の花がなければ「私」もない。野の花が「有る」とき「私」も「有る」。
「一事」とは何か。具体的には書かれていないが、社会的なことがら(仕事?)などに手一杯で、「私」の存在について(どのような形、運動で「有」として存在しているのか)、考えるのを忘れていた。感じるのを忘れていた。そういう「自己」が、いま、ふと蝶を見て、野の花を見て、その瞬間に「有」を感じている。
友や家族がいなくても、「私」は「私」の訪問者になって対話している。
この「訪問者」は最終連で、また別の形になる。
やがておとずれてくる最終の訪問者を待つ
あるがままの生命の流れのなかで
ここに今しかない言葉で 語るために
「最終の訪問者」。私はこれを「死」と感じた。いまは「生きている私」が蝶や野の花の形として私を訪問し、対話する。その「結び目(出会い)」のなかに、「私」というものが「有」の形で存在する。
その最後の「訪問者」は「死」である。「死」と対話する。
1連目で書かれていた「幾世代を生きてきた人人」は「あるがままの生命の流れ」という形で甦っている。その「流れ」のなかに田中は入っていく。そうして「幾世代を生きた人人」の「ひとり」になる。
そういう予感が、静かに書かれている。この静けさは美しい。
*
水谷有美「ナバホ族」(初出『予感』6月)。「北米先住民の一部族」というサブタイトルがついている。私はナホバ族について知らない。こう書くと、知らないことは調べればいい(調べないといけない)と叱られるのだが、調べるといってもどこまで調べれば「わかる」になるのか、見当がつかない。だから、私は「知らない」まま、「北米先住民の一部族」と言いなおしている水谷のことばを信じて詩を読む。水谷が「ナホバ族」をどう書いているか、その書き方のなかにあるものを読む。
水谷の詩も「主語」が省略されてはじまる。
何を食べ
何を着るか
思い煩うことはない
今 ここにあるものを口にし
手の届くところにある衣に
袖を通す
誰が? 水谷だろうか。「ナホバ族」だろうと私は思う。ナホバ族は「何を食べ/何を着るか/思い煩うことはない」。そんなふうに水谷には見える。その生き方がいいなあ、と感じる。そうすると、ちょっと変なことが起きる。
私が 土になれば
草木は成長し
私が 川になれば
流れに魚はもどるだろう
私が 風になれば
花々は薫り
私が 道になれば
小石は鎮まるだろう
突然「私」が出てくる。しかし、この「私」は水谷なのか。水谷というよりも「ナホバ族」のだれかであろう。ナホバ族の「思想/肉体」がここでは書かれている。ナホバ族の「思想/肉体」なのに、水谷はナホバ族に共感し、一体化しているために「私」と書いてしまうのだ。
「土になれば」「川になれば」と「なる」ということばがつかわれているが、ここでは、水谷は、そうしたものに「なる」前に、ナホバ族に「なる」。なってしまっている。そうして、ナホバ族の「肉体」で世界と結び合う。田中が「有なるものの結び目」といっていたときの「結び目」に近いものが、ここにある。
「一元論」の世界である。
全ては
世界に用意され
めぐりめぐって
まだ見ぬ岸辺に
たどり着く
「まだ見ぬ岸辺」とは「彼岸」だろうか。「死」さえも「世界」の「ひとつ」。世界のなかに「死」は共存している。死と私が結び合うとき、死ぬ。いや「死に、なる」のだ。それは自然の摂理であって、あるいは道理であって、忌避することがらではない。「死」へたどりついて、「永遠」に「なる」のかもしれない。
「なる」という動詞のなかに、無限の可能性がある。「なる」が繰り返されるたびに、世界がどんどん豊かに美しくなっていく。そういう「肉体/思想」を生きているのがナホバ族だと、私は感じた。ナホバ族だと、水谷の詩をとおして「わかった」。
*
峯澤典子「回診前の窓」(初出「文学界」6月号)はタイトル通り、病院で回診前にまどから外を見ている。
麻酔が切れると夕暮れの部屋にいた
腹部の傷に慣れるまで
窓から屋上のシーツを眺めて過ごした
雨が乾けば 風をはらめる
たやすさがひとにもあることに 長い間気づけなかった
「長い間気づけなかった」ことがある。それに気がついた。ひとは「たやすく」に何かになれる。(風をはらめる--と、峯澤は書いてるが、私は水谷の詩を読んできたつづきで「なる」という運動としてこの詩を読んでしまう。)
どうすれば?
数年前 別の病棟に 生まれたばかりの赤ん坊を見に行った
日向で かるく広げられた両手には
ひかりが ふんだんに集められていた
母になったひとは 手渡したひかりのぶんだけ
かんたんに風をはらみ 空に近づいて眠っていた
「無心」ということばがふいに思い浮かぶ。赤ん坊を無事に産んで、いまは何も考えずに(無心で)眠っている女(友人だろうか、家族だろうか)。その人は風をはらんで輝くシーツのように、空に近づいて、ゆったりしている。
「たやすく」はこの連では「かんかんに」と言いなおされている。
「風をはらむ」よりも、この「たやすく」「かんたんに」の方が、峯澤には大切なことばなのかもしれない。何かに「なる」ことはむずかしくはない。「たやすく」「かんたんに」何かに「なる」。赤ん坊が出てくるからかもしれないが、「無心」になれば、「たやすい」「かんたん」なことなのだ。
最後の2行。
横たわってみる空は
高くなっていた
これは高くて手が届かないではなく、峯澤自身が風をはらんだシーツになって、空の高みまでのぼっていったために、その高さが実感できたということだろう。
異物を摘出したあとの、ただ回復を待っているだけの時間--そのなかで気づいたことが、静かに書かれている。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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