詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「秋の階段」ほか

2024-11-30 23:01:39 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の階段」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月18日)

 受講生の作品。

秋の階段  杉惠美子

秋の階段を登ったら
銀杏の色に染まってしまって
自分を見失ってしまった

秋の階段を降りたら
川に落ちて
落ち葉と一緒に流れてしまった

秋の風は
窓を探して迷ってしまって
空に舞い上がった

やがて秋の風は
人の心を優しく包み
穏やかな風となってあたりを静かに包んだ

その白い風の中から
私は
何かを手繰り寄せたいと思った

離れて自分を観る
今年の秋が
そこにあるかもしれない
 
 受講生の声。「連の進み方が詩。秋の風は、春や夏の風と違って白い。その白い風がいい」「途中で風が主体になる。最後の、あるかもしれない、が印象的」「四連目までは、杉さんらしい詩的表現。最後の二連に飛躍がある」「終わりから二連目の、何か、というのはわからないもの。そのわからないものをつかもうとしている」
 受講生のひとりが言った「途中で風が主体になる」という指摘は、この作品のポイントだと思う。
 一連目は、いわゆる比喩。私が銀杏色に染まり、銀杏と区別がつかなくなり、自分を見失ってしまう。論理が動いている。ところが二連目では「川に落ちて」とある。私は実際には「川に落ちて」などいない。落ちたのは落ち葉である。落ち葉を見たとき、杉は落ち葉となって、川に落ちた。まあ、これも比喩ではなるけれど、この比喩は二段階に動いている。つまり加速している。別なことばで言えば、ことばが暴走している。ことばの暴走が詩なのである。書かれていることは「うそ」なのだけれど、ことばが加速していくときのエネルギーに「うそ」がない。そういうところに、詩が存在する。
 三連目に注目する受講生はいなかったのだが、私は、ことばの暴走の点から見ても、この連はおもしろいと思う。ここには「ま」の音の繰り返しがある。一連目にも「ま」の音はあるのだが、三連目の方が、何といえばいいのか、「無意味」である。「窓」が登場する必然性はない。(と、私は感じる。それが「無意味」という意味である。)「迷う」「舞い上がる」とイメージが暗くなるのではなく、明るく軽くなっていくところも、無責任(?)でいいなあ、と思う。こういうことも「無意味」につながる。杉は、きちんと「意味」をこめて書いているのかもしれないが、私は「意味」を考えない人間なのか、こういう「意味」を離れる「音」というものに強く刺戟を受ける。
 谷川俊太郎の「鉄腕アトム」の「ラララ」と同じである。「音」だけになって、そこからほんとうに何かが加速する。
 この詩も、一連目、二連目の展開の仕方は、いかにも「秋」、センチメンタルな美しさに満ちている。それが「ラララ」ではなく「ままま」を通して「私」ではなく「風」に重心が移る。(受講生のことばで言えば「主体」が変化する。ほんとうは私の考えとは違うことを言っているのかもしれないが、私は、そう言っているのだろうと「誤読」する。)
 しかし、ほんとうに「主体」が完全に入れ代わったのではなく、「私」もまだ「私」のまま動いている。「風」も「私」も、「自分」なのだ。
 で、「離れて自分を観る」という哲学的なことばがぱっとあらわれるのだが、このあたりの「呼吸」が軽やかでいい。感傷に溺れない清潔さがある。

星とかえる  青柳俊哉 

高木のうえでかえるがうまれる
吹きならす星のような酸漿(ほおずき)
 
空の水面に
声の輪がひろがり無数に波立つ
 

絶えず星へむかってかれは吹く
身体の深みから知覚できないものの肌へ
貝を吹きならすように
 
星がそよぎ岩が鳴る
光に乗せてゆらぐ輪を返す
 
かれはすべての星の声を聴く
かれは世界の星の声と合一する 
原初の星がうたう

 「かえるには、カエルと帰るが重ね合わさっている」「星とかえるがつないでいるのが不思議。かえるの表現もふつうとは違った描写」「星とかえるの組み合わせにびっくり」
 重ね合わせる、ひとつのことばにいくつかのイメージが重なり、ひとつに整理できない。その未整理を「混沌」と呼んでもいいかもしれない。詩は、その「混沌」のなかから、それまでになかった姿としてあらわれてくるものだろう。
 私は、この詩では「吹く」という動詞に注目した。酸漿を「吹く」、(ほら)貝を「吹く」。そのとき人間ならば、ほほが膨らむが、カエルなら腹が膨らむのか。強く「吹く」ためにはほほを膨らませ、唇を狭くする。風圧をコントロールする。何かを動かすためには、そういう「矛盾」というか、一種のコントロールが必要だが、そうしたコントロールを意識するとき「合一」ということがおきるかもしれない。「星の声」と「かえるの声」が「合一」するとき、星とかえるの、自分の声をコントロールする力こそが「合一」のものになっているかもしれない。
 「表現/声」よりも、混沌としたエネルギーをコントロールする力が、世界を「一体化」するのかもしれない。「身体の深みから知覚できないものの肌へ」と青柳は書くのだが、私は「知覚できない」ものは、「身体の深み」にあるエネルギーそのものであると、逆に読むのである。それは直接知覚できない。しかし、それをコントロールしようとする力のなかで、反作用のようにして身体の存在そのもののように感じられてくる。「星とかえる」と青柳は書くが、それは青柳の二つの別の呼称だろう。


空はなぜ青い?  池田清子

そんなこと 考えたこともなかった
生まれたときから
昼間の空は青かった
灰色の空を見て
憂いを感じる子供ではなかった
雨の日に
雨音を楽しむ子でもなかった
晴れた日にだけ
外を見ていたにちがいない

なぜ 青い?

なぜ? って思ってたら
科学者になってたかも
太陽や地球、空気、光、色
水素だとかヘリウムだとか
それはそれで
愉しかったにちがいない

でも
もし
空全体が
緑一色だったら?
黄色一色、紫一色だったら?
どうしよう って思う

もし
空全体が
しましまの虹色だったら?
って思う

 「おもしろい。夕日が赤いのは、恥ずかしがっているから。空が青いのは、海が青いから、などとこどものとき言っていた」「最後の二連、特に、しましまの虹色が池田さんらしい」「考えたことがなかった。 晴れた日にだけ/外を見ていたにちがいないと書いているけれど、私はこどものとき空を見上げなかった」
 「考えたこともなかった」が「憂いを感じる子供ではなかった」「雨音を楽しむ子でもなかった」と繰り返され、加速したあと、「ちがいない」「ちがいない」の繰り返しのなかで、科学的な感想が、空想にかわっていく。そして、「どうしよう って思う」が出てくるのだが、このあとが、ちょっとおもしろい。最終連は「どうしよう って思う」ではなく、単に「って思う」。
 これは、「どうして」だと思う? なぜ「どうしよう」がないのだろうか。「どうしよう」とは思わないのだ。ここには「不安」ではなく、「願い」が書かれている。「虹色」から何を連想するか、ひとそれぞれだろう。池田は何を連想したのか。「平和、しあわせ」。それが「しましま」に織りなされているのだとしたら。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の死(4)

2024-11-30 00:44:17 | 考える日記

 谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画が完成したとき、そのパンフレットにおさめる「紹介文(コメント)」の依頼が来た。映画そのものを見ているひとも少ないだろうし、私のコメントを読んでいるひともほとんどいないだろうから、全文を引用しておく。

 相馬の高校生が津波被害にあった自分の家を訪ねる。「最初は風呂があったんだけれど、今はもうなくなった。残っているのはこれだけ」と家の土台を示す。また「こっち側が畑、こっちは家」とか「ここに小さいときの机があって、大きくなったらこっち」と、空き地で間取りを説明する。その瞬間、私は「今、詩が生まれている」と感じた。彼女が体で覚えていることが、ことばになって彼女のなかから出てきている。そこにないものに向かって、ことばが生まれている。
 あ、こんなことばを聞いたあと、詩を作るのは大変だなあ、と私は谷川俊太郎に同情してしまった。谷川がどんな詩を書いたとしても、私は谷川のことばよりも聞いたばかりの少女の声に感動してしまう。
 有機野菜をつくっている農家の男性が野菜を引き抜きながら「親父の仕事は早いが雑なところがある。私の仕事は遅いが丁寧だ。だからけんかする」と笑う。男の人が言いたかったというより、ことばがことばになりたくて彼を突き破って出てくる感じ。諫早湾の漁師が、不漁に苦しむにもかかわらず「季節によって取れる魚が違うから漁はおもしろい」というのも同じだ。ほんとうのことばが男性の肉体のなかから飛び出してくる。
 こういうことばに、詩は勝てない。詩はどうしたって嘘だから。嘘だから、感じていることを格好よくみせるためにととのえなおしたことばだから。どんな形になっているか気にしないで、あふれてしまう日常のことばには負ける。
 うーん、谷川さんは、そういうことを承知でこの映画にでているんだな。詩はいつでも実際の暮らしに「負ける」ために存在する。暮らしのことばは、詩や文学から、ことばを奪い取って、独自の力で暮らしをととのえる。そのとき暮らしのなかでどこかで読んだ詩がふと鳴り響く。そういう交流を谷川は夢みてこの仕事をしたのか。最後の詩に谷川の祈りが聞こえる。

 一か所、「谷川」と呼び捨てではなく、「谷川さん」になっている。ふいに、谷川に面と向かって話している気持ちになったのかもしれない。
 ということは別にして。
 いまでも、私は谷川は、他人に「負ける」ために詩を書いているように思える。書いていたように思える。「負ける」ことによって、だれかを支える。「ほんとうのことば」を話したひとを支える。そういう仕事を谷川はしてきたのである。こういう仕事をしてきたひとがほかにいるかどうかは知らないが、谷川は「負ける」ことで相手を応援する。
 それは、詩についても言える。
 詩の戦いといえば、詩のボクシングがある。谷川は、ねじめ正一と対戦したことがある。私はテレビを見ないのだが、偶然、その放送を見た。全部見たわけではないから、私の書いていることは間違っているかもしれないが、私がテレビを見るまでは、谷川は負けていた。最後のラウンドは「即興詩」で、ねじめが引いたカードには「テレビ」というタイトルが、谷川のカードには「ラジオ」というタイトルが書かれていた。ねじめは「テレビ」を詩にすることができない。マットにのたうち回って、「テレちゃん、ビーちゃん」というようなことばを口走っただけである。谷川は「ラジオ」が声(音)だけを伝達するという性質に目を向け「音は聞いた先から消えてしまう。存在しなくなる。でも、それは記憶に残る。この記憶を持って、聴衆のみなさんは家に帰ってください」というような詩を朗読した。それまでのラウンドがどちらが優勢だったか知らないが、最終ラウンドで谷川はねじめをノックアウトした形だ。谷川は勝った。
 しかし、私には、そういう「印象」は残らなかった。谷川の「勝った」は形式的なもの。あるいは、そのときボクシングを見ていた観客の判断。私から見ると谷川は完全に「負けている」。谷川のことばは、詩を「意味」にしてしまった。そして、ことばの自在さ(新しい可能性)ではなく、「意味」が聴衆に受け入れられたということに過ぎない。それでいいのか。「詩は意味ではない」ということをアピールするために「詩のボクシング」が行われていたと思う。谷川は、それを裏切って、「意味」を語ることで聴衆を引きつけてしまった。
 そういうことを含めて、私は、一度だけ会う機会があったねじめに、そのことを話した。同じことを谷川にも話した。「あの勝ち方は、ずるい。意味で観客を誘導しただけだ」。あのボクシングでは、谷川は「負けた」のである。そして谷川が負けたからこそ、あのボクシングは語り種になっているのだと思う。「負ける」ことで、詩を残したのだ。詩の可能性を、詩のこれからをねじめに託したのである。あれが本当に谷川の「勝ち」だったとしたら、「意味」の勝ちだったとしたら、現代詩は、あの瞬間に終わっている。こんなふうに意味で詩を終わらせてはいけないという意識がだれかによって声高に主張されたわけではないが、そいういう意識が多くの詩人のなかに生き始めたと思う。(詩人ではない、テレビの視聴者のことは、私はここでは問題にしない。)
 谷川は「負ける」ことで、自分のことばではなく、他人のことばを支える。応援する。そういうことができるひとだった。だからこそ、詩人のなかにも谷川のファンが多いのだと思う。
 「負ける」ことで他人のことばを支えるという、ほかの例では現代詩文庫の解説がある。本棚の奥に隠れていて探し出せないのだが、たしか佐野洋子が谷川の日常を書いている。ぐずぐずしている佐野洋子に耐えながら、朝御飯をつくってベッドまで運んでいる。そういう谷川を、佐野は、叱りつけている。叱られっぱなしの私生活が、谷川の日常に見えてくる。ジョン・レノンとヨーコ・オノの「ベッド・イン」があったが、あれの「現代詩版」という感じか。なんというか、おもしろいが、おもしろいを通り越して「覗き見」している感じにもなる。多くの詩人なら、こういう「解説文」を書かれたらいやだろうなあ。そのまま掲載するのに抵抗があるかもしれないなあ。しかし、谷川はそのまま受け入れている。これが、すごいと思う。この「覗き見好奇心」を上回る作品が、あの現代詩文庫におさめられているとは思えない。どの作品がその文庫におさめられていたかを忘れても、佐野の解説文を忘れるひとはいないだろう。いや、客観的に見れば、谷川の作品は詩であり、佐野の解説は詩ではないし、「文学」ではないかもしれないが、そういうものに詩は「負ける」のである。そして、「負ける」ことを通して、同時に「勝つ」とも言える。なぜといって、もし谷川の作品がなかったら、佐野の文章をおもしろいと思って読むひとはいない。有名な詩人が女にやっつけられている。谷川をやっつけることばが、佐野のの口からどんどん飛び出していて、それがおもしろいのは谷川が詩人だからである。
 こういうことが谷川にはできるのである。
 そしてまた、こうも思うのである。私は、谷川は「負ける」ことで生きている詩人であると言いたいのだが、そういうことができるのは、谷川のことば(詩)が、私のつかっていることば、あるいは他のひとが書いている詩(ことば)とは、まったく次元が違うものだからかもしれない。「勝つ/負ける」という基準ではとらえれらない何か別のものがあるのだと思う。その「別のもの」をあらわすことばを持っていないから、私は、とりあえず、谷川を「負ける」ことを承知で世界と向き合い、「負ける」ことを通してだれも手に入れることのできない「勝ち」を手に入れることができる詩人だといいたい。
 これは、きっと「死ぬことによって、より長く生きる詩人」ということにつながっていくのだと思う。

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)

2024-11-29 22:07:20 | 映画

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」(★★★★★)(KBCシネマ2、2024年11月26日)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 デニズ・ジェリオウル、メルベ・ディズダル、ムサブ・エキチ、エジェ・バージ

 冒頭、主人公の教師が雪のなかを村へ帰ってくる。このときの雪。これが、絶望的に冷たい。美しくはない。ただ冷たいだけである。雨が混じっていて、やりきれない音が聞こえる。白く輝く雪ではなく、灰色に沈む雪。この「灰色」がこの映画のテーマであると私は直感する。この雪に似た雪は、一度映画で見たことがある。「スウィートヒアアフター」(アトム・エゴヤン監督)。この映画もまた灰色の冷たい雪、凍った雪が私を閉じ込めて放さない。
 「二つの季節しかない村」には、小学校の校庭で雪をぶつけ合う楽しいシーンもあるのに、その楽しさは人間を解放しない。そんなものは「まぼろし」だと言っているようにさえ思える。そこに住む人間を長い間、ただ閉じ込めるだけの冷たい雪。それは人間を屈折させる。動き始めた肉体は、その動きに身を任せ、解放されるという具合にはいかない。奇妙にゆがむ。もっと美しい動きがあるはずなのに、そしてそれをみんな自覚しているというか、直感しているのに歪む。他人がうらやましい、他人がねたましい。
 最初、それは非常に「なまなましい形」であらわれる。主人公の教師が教室で生徒に質問する。優秀な生徒(少女)が二人いて、彼女たちは手を挙げて質問に答える。教師は、彼女たちなら間違えずに答えるとわかっていて、彼女たちを指名する。予想通り、正解が返ってくる。授業がスムーズに進む……はずが、ひとりの男子生徒が先生に語りかける。「先生は、いつも二人を指名する。(依怙贔屓だ)」と批判する。この正直な直感と反発。そのなかで人間は歪む。この男子生徒が実際に行動を起こすわけではないが(だから、ここにテーマが暗示されていると直覚する観客は少ないかもしれないが)、登場人物たちは、まさにこの生徒のことばを支えている直覚を具現化するように動く。その場合、それはたいていは、してはいけないとわかっているのに、してはいけないからとわかっているからこそ、それをしてしまう、という形をとる。「先生は、依怙贔屓をしている」というようなことは、「おとな」になれば面と向かっては言わない。でも、陰口は言う。その「陰口」の世界とでもいえばいいのか。
 それは簡単に言いなおせば、冒頭の「灰色の雪」の、その「灰色」の世界である。「灰色」は単調な色なのだが、その単調さのなかに、なんとも強情なものが隠れていて、それが灰色に濃淡を与える。この濃淡の変化こそが「人間のいのち」であるというのが、たぶんヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の、「主張」である。
 これは「雪の轍」にもみられた、長い長い「対話」に象徴的にあらわれている。対話を通して、二人の話者は「結論」というか、「妥協点」に到達するわけではない。対話の目的は、対話の理想とは逆に、「自己主張を譲らない」という一転に向けて加速する。話せば話すほど、いや、この映画では「話さない」という形でも「自己主張を譲らない」という姿勢が貫かれるのだが、これはもうこうなってしまうと、絶対に「純白」や「黒」という具合には話が進まない。ただ「灰色」の濃淡をどれだけ認識できるかにかかってくる。それは観客もそうであるし、登場人物にそうなのである。
 主人公は男は、結婚相手の女性を紹介される。結婚する気はない。だから、その女を友人の男に紹介する。女と友人は親しくなり始める。そうすると主人公は、それまでその気がなかったのに、その女のことが気になる。絶対に「好き」なわけでもない、愛しているわけでもないのだが、女を奪ってみたくなる。そんなことはしてはいけないとはわかっている。わかっているからこそ、よけい、そうしたくなる。そして、いったん、そういうふうに動き出すと、それを止めることができない。女は女で、主人公が友人を裏切って、主人公が女に接近してきたことをわかっていながら、男と寝てしまう。そんなことをすれば、絶対に友人にわかってしまうとわかっていながら、そうしてしまう。そして、それからまた複雑な関係というか、複雑な「やりとり」がある。灰色が灰色のまま揺れ動く。暗くなり、それでも明るさを求めて動き回る。これは、もう、どうすることもできない。
 ただ、それだけである。こうした「暗さ(灰色のやりきれなさ)」を納得できるかどうか。それは、もしかすると冒頭の雪のシーンを体験したことがあるかどうかと関係するかもしれない。ある風土、ある季節、それを知らない人間には、到底理解できない何かがあるかもしれない。人間の力では変えることのできないものがある。そして、それは自然(季節)の問題だけではなく、自分自身の肉体のなかにも潜んでいる。潜んでいるだけではなく、あらわれてしまう。あらわれることを抑制することができない。それは「欲望」の解放と簡単に言うことはできない。あらわれてしまったものが、逆に「欲望」の抑制であるかもしれないのだ。そうした矛盾を納得できるかどうか。問われるのは、そういうことだろうと感じる。書いているうちに、この灰色のなかに潜む黒の不思議な輝き、そこにもどうすることもできない喜び、愉悦があるということばを挿入したいのだが、それをどこに挿入すればいいのかわからないまま、私のことばは動いてしまう。
 「灰色」というと白が美しく黒が汚いという視点で整理するとわかりやすくなるのだが、そういうわかりやすさとは裏腹に、あの黒にこそどうしようもない美しさ、絶対的な欲望の強さがあるということを納得できるかどうか。そうなのだ。私は、ある意味でこの映画のもうひとりの主役の少女の、絶対に自分の悪を認めようとしない強さのなかに、恋することの美しさ以上の力を感じ、魅了されるのだ。主人公の男の「物語」など平気で破ってしまう絶対的な力、そしてそれが自然であるということの強さ。
 「スウィートヒアアフター」も、映画が進めば進むほど、見てはいけないものを見るしかなくなる人間のやりきれなさを、ただじっくりと描いていたが、雪にはそういうことを強いる力があるのかもしれない。雪には、人間に耐久性をもたらす力があるかもしれない。雪を知らないひとは、この不思議な、いやあ力の動きが好きになれないかもしれないなあ。私は、その力が好きであるとは言えないけれど、妙に納得し、その存在に「親近感」を覚える。雪深い山の中で育ったせいかもしれない。

 と、ここまで書いて。
 ほんとうは書いてはいけないことなのだけれど、この映画の主人公のように、してはいけないと思うからこそ、書いておきたいこともある。この映画の主人公を苦しめる女生徒のような「存在」を私は知っている。それは、この映画のように「事件」にはならなかったが、雪の抑圧というのは、そういう少女を生んでしまうのかもしれないとも思った。そうしたことも、この映画を見ている間中、私の意識を突き動かしていた。その当時、私はまだ少女と同じ少年だったから(同級生だったから)、その少女のなかに動いていた絶対的な情念の力など理解できなかったが、いまならわかるような気がするのである。

 人間は、簡単には「整理」できない。整理できないものを、整理しないで、突きつけてくる。提出する。こういうことができるのは、たいへんな力業だと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の死(3)

2024-11-25 23:50:33 | 考える日記

 

 

 『女に』が谷川俊太郎との「最初の出合い」だとすれば、『こころ』は「二度目の出合い」である。朝日新聞に「こころ」が連載されていたとき、何度かブログに感想を書いていた。連載が一冊になったとき、全部の感想書き直してみようと思った。ただし、「書き直す」(整え直す)という感覚ではなく、「初めて読む感覚」で書き直してみようと思った。最初は数篇をまとめてとりあげたが、そのあとは一日一篇、書く時間は15分、長くても30分と決めて書き始めた。「評論」でなく、「評論以前」を目指していた。詩を読むとき、だれも評論を書こうとは思わずに読み始めるだろう。その感じを、ことばにしてみたいと思った。詩に限らないが、どんなことばでも、それを読んだときの状況によって印象が違う。その「違う」ということを大切にしてみたいと思った。

 前回、ことばは鏡のように自分を映し出す。ことばを読まないと、自分の姿が確かめられないというようなことを書いたが、毎日鏡を見ても、その鏡に映しだす顔が違って見えるように、詩を読むたびに自分が違って見える。しかし、その「違い」はほかのひとから見れば「違い」ではないかもしれない。同じ「私の顔」かもしれない。また逆に「きょうの私の顔はいつもと同じだ」と私が思っても、他人から見れば「いつもと違う谷内の顔」ということもあるだろう。
 「違い」なんて、あってないも同然なのだが、それでも何らかの「私の変化」が誘い出されてくるだろう、そんなことを思った。

 これは、私には、想像以上におもしろい体験だった。何かを書くとき、どうしても、何かかっこいいことを書こう、ひとを驚かすような新しい視点を書こう、結論を書こうと身構えてしまうところがある。私には。
 『女に』を読んで「キーワード」を見つけ、そこから詩を読み直したというのも、まあ、気取っているといえば気取っている。
 ひとを驚かす、読者を驚かすのではなく、ただ自分の驚きを書くというのは、とても楽しい。書いていて、あ、これはさっき書いたことと矛盾するなあ、さっき書いたことが間違っているのかなあ、いま書いたことの方が間違っているのかなあ。どっちだっていい。間違えるには間違えるだけの「根拠」のようなものが、どこかにあるのだ。私の「読み違い」か、谷川の「書き違い」か、はたまたは、さっき食べた目玉焼きが原因か、隣の家で名吠えている犬の声が原因か。
 もし、さっき書いたことがはっきり「間違い」だとわかれば、そのとき「さっき書いたことは間違い」と言って書き続ければいいだけである。そう思った。

 私は「自由になる方法(自由になる、そのなり方)」を、『こころ』を読み、それについて書くことで学んだのである。きっと毎日一篇ずつ、30分以内という「制約」が逆自由になる方法を後押ししてくれたのかもしれない。そういえば、谷川は若いときから詩だけで食っているから、画板のようなカレンダーに締め切りを書き込んで、せっせと詩を書いたというようなことをどこかで読んだ記憶があるが、締め切りが迫っていると、どこかで「ことば」を手放さないといけない。もっと修正する時間が知ればと思いながら、一種の「あきらめ」と同時にほうりだし、書いてきたことばから解放される。そういうことかもしれないなあ、と思う。
 どんなに「でたらめ」を書こうとしても、どこかに自分が信じていることがまぎれこむし(そういうものを土台にしないとことばは動いてくれないし)、どんなに「ほんとうのこと」を書こうとしても、どうしても正直ではないものが紛れ込む。あっ、これはかっこよく書けたなあ、よし、これを「結論」にしよう、とか。
 この方法を、谷川自身がおもしろいと言ってくれたことが、私にはいちばんの収穫だった。
 打ち合わせのとき、私が「私はずいぶん失礼なことも書いていると思うけれど」というと、
 「いや、ほかのひとはみんな私(谷川)のことをほめよう、ほめようと身構えて書いているからつまらない」
 ということばが即座に返ってきた。
 そういえば、谷川と親しい田原が、「私は中国人で、敬語がうまくつかえない。だから、谷川先生となかよくしている」と言うようなことを、私に教えてくれた。
 そうか。

 それは別にして。
 このあと、私は不思議なことを体験した。
 『心を読む』と同じ方法をほかの谷川の詩集、あるいはほかの詩人の詩集でもやってみるのだが、どうもうまくいかない。自由に書けない。あれは田中角栄がやった「日本列島改造」と同じように、一度やったら二度とできない何かなのである。
 一冊の詩集の全編に対する感想、あるいは批評を書くときは、何かもっと新しい方法でやり始めないとだめなのである。自分のなかに新たな基準をつくり、同時にその基準を読んでいる作品を通して、壊しながら進むということばの運動をしないといけないのだろう。
 どういうことができるかわからないが、いつか、『世間知ラズ』の全篇について感想を書いてみたい。「父の死」は、私の好きな詩だし、それを書くことで「谷川俊太郎の死」を書けたらなあ、と思う。

(「谷川俊太郎の『こころ』を読む」出版の経緯は、「往復書簡」の形で本に書いてあるので、ここでは省略した。)


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「一読者」を叱る(谷川俊太郎の死とその報道その2)

2024-11-24 18:10:35 | 考える日記

 「谷川俊太郎の死とその報道」という文章を11月20日に書いた。この文章に対して、「一読者」というひとから、コメントがあった。22日の午前3時12分という、たいていのひとが眠っている時間に書き込まれていた。

新聞が違います (一読者)2024-11-22 03:12:53
東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。読売は19日の朝刊にも簡単な情報が出てました。あなたが住んでいる地域とは新聞の発行事情が違っています。そうことも考えた上で書いたほうがいいと思いますよ。谷川賢作さんの19日朝のfacebookの書き込みを読みましたか。葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。あなたが怒る理由が何かありますか。

 私は新聞発行事情が違うことは知っている。だからこそ、私が最初に知ったのは19日の読売新聞朝刊(西部版・14版)だと明記し、「証拠」の写真も載せている。「一読者」は

東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。

 と書いているが、これはほんとうだろうか。私は確認していないのだが、あの記事は西部版14版だけに掲載されたものなのか。「一読者」が、東京のどこに住んでいるか知らないが、東京で発行される新聞は一種類ではないだろう。東京といっても広くて、地域によって発行されている新聞の内容が違うのではないか。「14版」の新聞と「13S版」の新聞、もしかすると「13版」も一部地域には配布されているかもしれない。これは福岡県内でも「14版」と「13S版」があり、同じ新聞が配布されているわけではないことから推測して書いているので、間違っているかもしれないが。
 (新聞の「○版」というのは、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞では、欄外のページ番号の近くに印刷されている。一面なら、左上の「1」の近く、その右側に印刷されている。数字が大きくなるほど、最新のニュースになる。)-
 新聞は、同じ新聞でも、地域によって原稿の締め切り時間が違うかもしれないだろうから簡単に推測はできないが、谷川俊太郎の死亡記事が読売新聞西部版(14版)だけに掲載されているとは信じられない。一面に掲載されるような特ダネ記事が、西部で発行される新聞だけに、先に掲載されるとは信じられない。東京で発行されている14版にも、大阪発行の14版にも、きっと掲載されているはずである。西部管内の読売新聞の記者が谷川俊太郎死亡の事実を知り、それを西部の新聞だけに掲載したということは、多分あり得ない。それに、もし西部の記者がつかんだ特ダネであるにしろ、あの記事は不完全すぎる。そういうあいまいな記事を西部の編集部が独自の判断で紙面化できるとは私には理解できない。これも推測でしかないので間違っているかもしれないが、「一読者」が読んだ読売新聞は「14版」ではなかったのではないか。
 「一読者」は新聞事情に詳しいようだから、何かを隠しているのかもしれない。「一読者」が東京で発行されている読売新聞の何版を読んだかを書いていないことに、私は疑問を持っている。もし、東京で発行されている19日の読売新聞14版に谷川俊太郎死亡の記事が載っていないというのなら、その「証拠写真」を見たいものである。私は、19日の西部版・14版を掲載した上で、読売新聞の姿勢を批判している。批判には「証拠(根拠)」が必要だと私は考えている。
 朝日、毎日、日経の「19日の夕刊」に谷川死亡の記事がのったのは、これはいわゆる「追いかけ」というものである。読売新聞の記事を読み、あわてて取材して夕刊に掲載したのだろう。読売新聞が夕刊でもその記事を載せているのは、朝刊の記事に不備があったからだ。その不備というのは、前のブログにも書いたが、死亡日時が不明(遺族が明かさないこともあるから、必ずしも間違いではないが)、死因がない(これも遺族が明かさないことがあるから、間違いではない)、一般に書かれている喪主が誰なのか書いていない(これも遺族が明かしたくないときは書かないだろう、書けないだろう)。それを補うために、すでに報道したニュースだけれど、夕刊で「補足」するために掲載したのだろう。新聞事情に詳しい「一読者」がどう判断しているのか知らないが、私はそう推測している。

 私が読売新聞の「初報」で問題にしたのは、いま、書いたことである。どうしても、記者が遺族に(「一読者」が書いている文章に則して言えば、谷川賢作に)、谷川俊太郎の死亡を確認して書いた記事とは思えない。もし谷川賢作に取材しているのなら、何日に死んだか、死因は何か、喪主はだれかは書けるはずである。確認していないから書けない。そして、夕刊では、それを確認したから記事にし、「死亡記事」を「完成」させたのだ。新聞事情に詳しい「一読者」なら、新聞の死亡記事がどういうスタイルで書かれているか知っているだろう。名前、年齢、肩書(ときには簡単な略歴)、死亡した日、死因、喪主(ときには住所を含む)、葬儀の日程(時には会場名を含む)などは必須事項であり、遺族が公表を拒んでいるときは、たとえば「死因は明らかにしていない」「住所は公開していない」などと補足する新聞もある。
 繰り返しになるが、そうした事実を遺族を通して確認したからこそ、「追いかけ」の形で書いている朝日新聞などには、それが明記されている。(読売新聞も、それを追加している。)不備な記事と完全な記事を比較するために、私は「証拠」として朝日新聞の記事も引用している。

 「一読者」が書いているように、谷川賢作がFacebookで谷川俊太郎の死を公表したのは、19日の朝である。つまり、読売新聞の報道のあとである。(朝のニュースのあとかどうかまでは、私は知らない。)遺族が公表する前に、どうして読売新聞は谷川俊太郎死亡の記事を書くことができたのか。
 新聞事情にくわしい「一読者」がほかに何を知っているか(何を隠そうとしているか)知らないが、私が推測する限り、谷川俊太郎の死を知りうるひと、谷川に親しいひとが、その情報を読売新聞の記者に「リーク」したのである。私は邪推が好きな人間だから思うのだが、こういう「リーク」をするのは読売新聞からの何らかの「見返り」を期待してのことだろう。(たとえば読売新聞に寄稿し、原稿料をもらうとか。)
 遺族が公表しないなら、公表されるまで待っていてもいいだろう。いったい、その「リーク」したひとは何が目的で「リーク」したのか。
 さらに。
 谷川俊太郎は、「感謝」という詩が朝日新聞に掲載されたように、朝日新聞と強いつながりがある。もし「リーク」するなら、なぜ朝日新聞の記者に「リーク」しなかったのか。これも考えてみる必要があるだろう。
 遺族がいつ公表するつもりだったか知らないが、谷川俊太郎の詩は毎月連載されている。少なくとも朝日新聞は、その締め切り日までには必ずその事実を知ることになるだろう。原稿が来なければ問い合わせるだろう。隠したくても、隠せないだろう。そういう関係のある朝日新聞ではなく、読売新聞なのは、なぜなのか。
 私は、「リーク」しただれかに対して怒っているのである。遺族が発表するまで、静かに待っていて、いったい何の不都合があるのだろう。黙っていると、そのひとは、何か損害でも受けるのか。さらに、そのひとは谷川俊太郎の死を知らせてくれたひとから「口止め」はされなかったのか。「遺族が○日に公表するから、それまでは多言しないように」と言われなかったのか。ふつう、「秘密」を語るとき、たいていのひとは「多言しないように」と付け加える。もちろん、言いふらしてほしくてわざと「多言しないように」ということもあるだろうが、谷川俊太郎の死は、そういう類のものではないだろう。
 いったい、遺族に確認せず(無断で)、その家族の死を公表する(報道する)権利が新聞にあるのだろうか。そんな非礼なことを、新聞に限らず、人間がひととしてしていいことなのか。私がいちばん怒っているのは、ここである。

 「一読者」の文章では、私は、次の部分にも非常に驚いた。

葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。

 葬儀がすめば、それで遺族が「静かに家族で見送った」ことになるのか。遺族は、葬儀がすめば、もうさっぱりと谷川俊太郎の死を忘れて、日常生活にもどるのだろうか。葬儀のあとも、こころは揺れ動いているだろう。遺族がこころを落ち着けて、谷川俊太郎の死を公表する、ということがどうして待てないのか。
 読売新聞の報道が19日、つまり葬儀の18日のあとなので、何も問題がないとどうして言えるのだろうか。
 「一読者」はネットの情報にも詳しいようだが、谷川賢作以外のひともいろいろ谷川について書いている。そのなかには、「コメントをもとめられて忙しかった」というようなことを書いているひともいる。遺族でなくてさえ、そういうことに引き込まれ、「静か」ではいられなくなるひとがいる。遺族であるなら、たぶん、同じような対応に終われるだろう。だからこそ、たとえば谷川賢作も「コメント欄は「記帳コーナー」のようにあけておきますが、個々への返信はできません。お許しください。メッセージも同様です。」と「一読者」が読んだFacebookに書いている。なかなか「静か」にはなれないのである。そういうことがわかっている(想像できる)からこそ、遺族はすぐに谷川俊太郎の死を公表しなかった。

 「一読者」は新聞事情に詳しすぎて、こうした、ごく一般的な人間の動きを見落としているのだろう。「情報通」にはなりたくないものである。

*
この記事を読んだあと、東京と大阪で発行されている読売新聞の14版の紙面を送ってくれた。
私が推定して書いているように、14版の四面には載っている。「一読者」がどこに住んでいるか知らないが、「一読者」が住んでいるのが東京だとしても、そこは14版の配布地域ではないのだろう。
谷川俊太郎が住んでいるところに14版が配布されているかどうか知らないが、東京や大阪でも配布されている。
「一読者」は「事情通」であるけれど、私以上に「推定」だけで私の書いていることが間違いのように書いている。
「推定」だけでは間違えることがある。「伝聞」だけでは、それが正しいかどうかわからない。
だからこそ、私は読売新聞の記事が許せないと書いたのだ。
もし読売新聞に「リーク」したひとの情報が間違っていたら、どうなるのか。生きている人を「死者」にしてしまう。
最低限、家族に「事実」を確認すべきなのだ。「事実」を確認したら、そのときその家族は「喪主」がだれか、いつ死んだかくらいは正直に話してくれると思う。
そういうことを読売新聞の記者はしていない。

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の死(2)

2024-11-23 23:22:00 | 考える日記

 

 谷川俊太郎の「ことば」に初めて出合ったのは、いつか。私の場合、はっきり言うことができる。『女に』(マガジンハウス、1991年)を読んだときである。もちろん、「鉄腕アトム」は、それよりもはるか以前に知っている。しかし、それは「谷川俊太郎のことば」という意識とは関係がない。何も知らずに出合っている。『二十億年の孤独』も、その他の詩集も、『女に』以前に読んでいる。いや、読んでいるは正しくない。目を通している。しかし、それは「出合い」ではない。私のまわりに、偶然存在していたにすぎない。『旅』にしろ、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』にしろ、あるいは『定義』『コカコーラ・レッスン』にしろ、読んでも感想を書くことはなかった。ラジオやテレビから聞こえる「流行歌」のような感じで、それが「ある」という印象だった。
 『女に』も、最初は、そこに偶然にあった一冊にすぎなかった。
 雑誌「詩学」から原稿の注文が来た。テーマは自由。詩について思っていることを書けばいい、というものだった。ちょうど谷川俊太郎が『女に』で、第一回丸山豊賞を受賞したあとだった。すでにいくつもの賞を受けている谷川の詩集に賞を与えることもないだろう。もっと若い人に譲ればいいのに、などということを知人と話したりした。「地方の市が主催する賞、その初めての作品だから、権威あるひとに与えることで、賞の権威を高めたいのだろう」というような「政治的」な感想を交わしたりもした。そういうことを含め、谷川批判を書くつもりで読み始めた。薄い詩集だし、どの詩も短いから、すぐに感想が書けるだろうと思って選んだのだった。
 詩集のテーマは、佐野洋子との愛。佐野洋子の絵もついている、おとなの絵本、という感じの一冊である。一読すると、非常に「軽い」。当時、私は中上健次の小説が好きでいろいろ読んでいた。中上健次の小説には、どの作品か忘れたが、主人公が「長々と射精した」ということばがある。そういう力みなぎる野蛮な(?)愛と比べると、なんとも弱々しい。吉行淳之介の、主人公が「弱々しく射精した」(だったかな?)というような、かなしいような切実さとも縁がない。中上とも吉行とも違う何か、中途半端な、簡単に言うと「男」を感じさせないことばである。そんなことを中心に批判を書くつもりでいた。ここに、どんな「新しいことば」があるのか。何もないのではないか。
 そして、実際にそう書き始めた。批評を書くときには、特に批判を書くときには、絶対に「引用」が必要である。その「引用」をしていたとき、私のなかで、突然、変なことが起きた。「少しずつ」ということばを含む「会う」を書き写しているとき、それは起きた。

始まりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

 「私は少しずつあなたに会っていった」。意味はわかるが、どうも変である。「少しずつ」のつかい方が、いわゆる「学校教科書」のつかい方と違う。「会う」ことを繰り返して、私とあなたの関係は「少しずつ」かわって「いった」。私はあなたのことを「少しずつ」わかるようになった。わかるようになって「いった」。こうした書き方の方が「自然」だろう。そして、そういう「自然な」ことばの動きを谷川は熟知しているはずである。しかし、それを、あえて踏み外して、「私は少しずつあなたに会っていった」と書いている。なぜなんだろうか。何が書きたかったのだろうか。
 次の瞬間。あるいは、同時に。いや、そんなことを思う以前に。
 あ、「少しずつ」が書きたかったのだ、と私は直覚した。(先に書いた文章は、あとから「意識」を整理し直したものにすぎない。)
 ふたりの関係が「少しずつ」変化していく。そのときの「少しずつ」ということ、それを書きたかったのだと直覚した。愛には、出合った瞬間に、突然燃え上がるものもあれば、出合いがあったはずなのに愛にはならないものもある。谷川と佐野の場合、それは「少しずつ」愛になっていった。会うたびに、少しずつ愛が生まれてきた。愛が生まれた、愛が実った、ということよりも、そのときの「少しずつ」という変化、そのことを書きたかったのだ、と私は瞬間的に「悟った」。そして、それは私が先に書いたように、「学校文法」で整えてしまうと違ったものになってしまうのだった。「私は少しずつあなたに会っていった」と書くしかないのである。
 あるいは、こういうべきか。「少しずつ」と書いたために、そのあとの「ことばの運動」が「学校文法」からはみ出していくしかなかったのである。「少しずつ」をつかわなければ、きっともっとすっきりした形で書けたはずである。しかし、ほかのことばをおしのけて、谷川の肉体に隠れていた「少しずつ」が、「ことばの肉体」を突き破ってあらわれ、新しい「ことばの肉体」となって動いたのだ。「少しずつ」ということばが、ほかのことばをかえてしまったのだ。
 そして詩集を読み返すと、それぞれの詩に「少しずつ」が隠れている。書かれていないけれど、いくつもの詩に「少しずつ」を補うことができると気がついた。そういうことを私は「詩学」の文章なのかで書いた。
 同時に私は、こういう「どこにでも隠れていることば」、ほんとうは書かなくてもいいことばが、どうしても自己主張してあらわれてしまうことばを「キーワード」と名づけた。筆者にとって、わかりきっていることば、書かなくていいのだけれど、あるとき、そのことばがないとどうしても納得できずに書いてしまう、肉体となってしまっていることば。そうしたことばのなかに、作者そのものがいると感じる。それを「キーワード」と名づけ、詩を読んでみよう。私の、詩への向き合い方が決まった瞬間だった。
 谷川の詩を読みながら、私は私の「読み方」を発見したのだといえる。そのとき、私は初めて谷川のことばに出合ったのだと確信した。そして、それまで書いていた文章を全部破棄して、新たに書き直したのが、「詩学」に発表した文章である。

 (「キーワード」が何か特別なことばではなく、ふつうは省略してしまうけれど、あるときどうしても書かなければならないことばとしてあらわれてくるもの、ととらえたのは今村仁司か、井筒俊彦か、わたしははっきりとは覚えていない。あるアラビア圏の経済学者が書いた「マルクス論」は、ほかの国の誰それの書いたものとそっくりである。違うのは、アラビア圏のひとが書いた文章のなかに「直接」ということばが差し挟まれている。それはなくても意味が通じるが、彼は、それを書かざるを得なかった。「直接」ということばがイスラム教の「キーワード」である、というようなことを指摘していた。その意味を、私は谷川の「少しずつ」を読んだときに感じ取ったのである。だから、その谷川論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』の批評を今村仁司が詩なの信濃毎日新聞に書いてくれた、そこに「キーワード」をつかった詩の読み方を紹介してくれたとき、私はとてもうれしかった。)

 「少しずつ」を各詩篇に補いながら詩集を読んでいくとき、私は、なんともいえず興奮してしまった。あ、ここにも、またここにも、「少しずつ」が隠れている。ときには別のことばになっている。しかし、それは「少しずつ」と書き換えても、なにもかわらない。それを見つけることは、隠れている谷川の肉体を隠れん坊で見つけるときのような喜びであり、変ないい方になるが、セックスしている感じでもある。あるところに触れたら、相手の肉体が反応して動く。予想もしていなかった動きがはじまる。動いたのは相手の肉体なのに、自分の肉体がそれに刺戟されて動いてしまう。私が書きたいと思っていたことが、次々に変わっていく。私が動いているのか、相手が動いているのか、わからない。新しい相手が生まれ、新しい私が生まれる。切り離せない。切り離すと死んでしまう。それを私は「ことばの肉体」の動きとして味わっている。興奮して、もう、どうなってもいい、と感じ始める。私のしていること(こうした読み方)が、正しいのか間違っているか、そんなことはどうでもいい。楽しい。私のやっていることは、はたから見れば、きっとみっともない。しかし、セックスというものはそういうものだろう。どんなに上手にやっても、それは不格好なカッコウに見える。見てはいけないカッコウにしか見えないだろう。それでもいい。変だ、みっともない、と批判されてもかまわない。楽しいから。快感があるから。変なことをしないと、新しい快感は生まれないのだ。
 私が谷川俊太郎を発見したのではなく、私が谷川俊太郎によって発見されたのだ。
 「ことば」を読むということは、相手(筆者)の真実を見ることではない。「ことば」は鏡であり、「ことば」を通してでしか(「ことば」を読むことによってでしか)、私は私を確認できない。「ことば」は私がだれなのか、どういう姿をしているかを映し出してくれる鏡なのだ、私がだれであるかを気づかさせてくれるものなのである。そういうことを、私は『女に』を通して知った。
 『女に』は、右ページに谷川のことば、左ページに佐野の絵がある。佐野にとって「ことば」は絵(線)なのだろう。詩集のなかで、ふたりは互いにふたりを発見し、発見することでつぎつぎに、しかし「少しずつ」変わっていく。この「少しずつ」は「確実に」でもある。そんなことをも感じさせてくれる。

 谷川のことば。それは、私の最初の「邪心」を打ち砕いた。谷川を批判してやろうという思いを、あっさりと打ち砕いた。谷川のことばには、何か、そういうくだらない「野心」を打ち砕き、そういう邪心をもった人間さえも受け入れ、変えてしまう力があるということだろう。
 この『女に』以降、私は谷川の詩を読むのが好きになった。今度はどんなセックス(ことばの肉体のセックス)ができるだろう、と思ってしまうのである。そのあと、どんなふうに私は変わっていけるだろうと、詩を書くときのように興奮してしまう。

  この文章もまた、カッコウ悪く、みっともないものだろう。つまり、他人に見せるための「体裁」をもっていないだろう。私はいつでも、私の書いている「相手」のことしか気にしていない。「他人」なんか、どうでもいい。谷川はもうこの文章を読むことはないのだが、それでも私は谷川にだけ向けて、この文章を書いている。それなら公表するな、とひとはいうかもしれない。しかし、谷川は谷川の詩を読んだひとのなかにきっと生きている。私のことばのなかにも生きている。だから、その谷川のことばとセックスするために書くのである。あるひとにとっては、それは「オナニー」にしか見えないだろう。しかし、そんなことは関係ない。「あんたの知ったことではない」と私は思っている。嫌いならひとのセックスを覗くな、というだけである。

 (『女に』論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』は、1999年思潮社刊。古書店でなら手に入るかもしれません。)


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の死(1)

2024-11-21 22:17:35 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

 谷川俊太郎には、四回か、五回、会ったことがある。忘れられないのは、やはり、一回目のときである。私はもともと谷川を含め詩人とはつきあいがない。たまたま、谷川が福岡へくることをポスターか何かで知った。(新聞の小さな案内だったかもしれない。)なぜだかわからないが会ってみたい気がした。大胆にも、私ははがきで「福岡の催しのとき、楽屋に訪ねていっていいですか?」と問い合わせた。すると自宅に電話がかかってきて「いいよ」。直接声を聞いたのが初めてだったこともあり、まさか電話で返事が聞けるとは思っていなかったので、とても驚いた。
 これからが、たいへんだった。
 私は、情報収集(?)のために、池井昌樹に電話で訪ねた。「谷川って、どんなひと?」「おまえなあ、谷川はたいへんなひとだぞ。若いときから詩ひとすじで苦労してきたひとだからなあ。おまえは礼儀知らずだから気をつけないといけない。おれは、新幹線でたまたま谷川を見かけ、詩集にサインをしてもらった。そのとき、新幹線の通路に立っていたら、池井君、そこに立っているとほかのお客さんが通れない。はい、こっちによけて」と叱られたそうだ。どんなときにも、周囲への配慮を忘れない「おとな」の対応を貫くひとだと言う。「そのコントロールの仕方が、とても美しい」。
 そうか、と思ったのは「序の口」で、これからが、ほんとうにほんとうにたいへんというか、私の「おっちょこちょい」をさらけだすことが起きた。
 催しは、たしかタイのシンガー・ソングライターのような若者との詩の朗読を含めたコンサートのようなもので、定員が五十人くらいのものだった。私は谷川から「会える」という返事をもらったあと、チケットをあつかっているところへ買いに行ったのだが……。知らなかった。現代詩の催しのチケットが売り切れることがあるなんて。どうしよう。もちろん催しを見ないで、催しがおわったあと楽屋(?)へ訪ねていくこともできるが、それではなんだか申し訳ない。せっかく谷川が朗読か何かをするのに、それを聞かず、その感想も言わないなんて(言えないなんて)。
 大慌てで、主催者のホームページを通じてなんとかできないか問い合わせようとしたら、「当日券あり」という表示。なんでも、数枚だけ、当日発売用に残してあるそうだ。ただし、販売は、朝から。朝から並んで買うひとだけに販売するという。催しはたしか午後からで、私は仕事がおわったあとゆくつもりだった。午前中は仕事で会社に拘束されている。 困ってしまって、電話で「催しのあと谷川と会う約束をしている。催しの感想も言いたいので、なんとかチケットを買えないだろうか。直前まで仕事で、チケットを買うために列に並ぶことができない」と頼み込んだ。「確認します」。しばらくして、「確認がとれました。開場前にきてください。チケットを渡します」。
 で、会場について、受け付けでチケットを受け取り、入場料を払おうと思ったら、「招待券」だった。これでは、まるで私が「招待券」をねだったみたいだ。初対面の、しかも谷川俊太郎に。スタッフの「確認します」は、チケットを一枚抑えることができるかどうかではなく、ほんとうに谷川と会う約束があるかどうかの確認という意味だったのだ。
 わあっ、はずかしい。これは、池井が新幹線の通路を塞いで、谷川から注意されたことの比ではない。初対面なのに、とんだ失態である。チケットも買っていないのに、「会いに行きたい」と言ってしまった。現代詩のチケットなんて、売れないに決まっているとタカをくくっていた。つまり、谷川のファンがどんなに多いかさえ知らなかったのである。
 催しが終わり、谷川がファンがもっている本にサインをしている。それが終わるのを待って、私も『世間知ラズ』にサインをしてもらった。非常に恥ずかしかったので、チケットのお礼を言ったかどうか、忘れてしまった。たぶん、ど忘れして、言わなかったと思う。何から話したか忘れたが、たぶん『世間知ラズ』というタイトルが読めずに苦労したこと(私は「世間知/ラズ」と、世間には「ラズ」という誰でもが知っている知識がある、と思い込んでいた)や、「父の詩」がとても好きと話した。私がもし無人島に一篇の詩をもっていくとしたら、「父の死」だというようなことを話した。この詩には、散文精神が動いている。そして、その散文精神が、そのまま詩になっている。森鴎外のことばのようだ、というようなことを語った。そのとき、谷川は、「そうか、私は散文が書きたかったのか」というようなことを言った。
 谷川には『詩に就いて』という「書き下ろし詩集」がある。このタイトルの「就いて」は、いまはふつうには「ついて」と書く。鴎外は「就いて」と書いていたなあ、と思い、あ、あのときの鴎外(散文精神)がここにあらわれたのか、と私は密かに思った。このことは谷川に確かめたわけではないが、いまでも『詩に就いて』を読むと、そのときのことを思い出す。
 ほかに、そのとき何を話したか、よく思い出せない。たしか田原がH詩賞をとった直後で、田原について話したと思う。何について話しても、非常に話しやすかった。池井が私を脅したけれど、私は、「私も本をもってきました。サインしてください」と言って、そのあとまったく緊張しなかったことは覚えている。とても話しやすかった。
 ほかは、すぐには思い出せないのだが、ただ、催しのなかで忘れらないことがひとつある。最後に谷川は「鉄腕アトム」を歌った。「鉄腕アトム」は、私のなかでは、谷川の詩のベスト3に入る作品だ。(あとのふたつは「父の死」と「かっぱ」である。)私はいっしょに声を出して歌いたがったが、音痴なので、声を出す勇気がなかった。ほかの観客も歌いだしそうになかった。結局、谷川の「独唱」に終わったのだが、これが非常に残念でならない。あのとき一緒に歌っていればよかった。谷川の死を聞いたとき、まっさきに思ったのは、そのことだった。
 なぜ、「鉄腕アトム」が好きなのか。なぜ、ベスト3に入るのか。
 私が「鉄腕アトム」が谷川の作詩であると知ったのは、ずいぶんあとのことだ。テレビで「鉄腕アトム」を見ていたときは、まったく知らなかった。だれが作詩であるかなど、気にしたこともなかった。いまではかなり有名だが、それでも「鉄腕アトム」が谷川の詩だと知らないひともいるだろう。
 これは、とてもすばらしいことだと思う。詩の「理想の形」がそこにあると思う。作者がだれだか知らないまま、それでもことばが共有される。作者を必要としない、完全な「古典」の姿が、そこにある。
 手塚治虫が死んだとき、読売新聞の社会面の見出しは「手塚アトム、空の彼方」だった。「空の彼方」はもちろん「鉄腕アトム」からの借用なのだが、そのときそれが「鉄腕アトム」の歌の一部であるとわかっても、それが谷川のことばだとわかったひとは何人いただろうか。もしかすると「空の彼方」と手塚治虫が書いたことばだと思ったひともいるかもしれない。でも、私はそれでいいのだと思う。詩は(ことばは)、書いたときから(発せられたときから)、書いたひと(発したひと)のものではなく、それを受け止めたひとのものである。百人一首の「春すぎて夏きにけらし白妙の……」の歌が誰のものであるか知らなくても(忘れていても)、そのことば、その歌は多くのひとが知っている。誰が書いたか気にせずに口にしている。そのとき、詩は、ことばは古典になる。そういう意味では「空を超えて星の彼方」は「古典」になっているのである。谷川のことばには、何か、そういう「古典になる力」というものが含まれている。
 「おなら」の詩でも、「おまんこ」の詩でも同じ。それはたしかに谷川が書いたものだが、谷川が書いたという「署名」がなくても、そのまま読んだひとの肉体に重なっていく。そこには「ひとの力」がある。「生きる力」がある。そして、その「生きる力」に対して、あるいは「生きている力」に対して谷川は感謝し、「感謝」という詩のなかで

感謝の念だけは残る

 と書いたように、私には思えるのだ。あらゆることばが、谷川が「生きて」、そして「生きている」ことに対して「ありがとう」と言っているように思える。
 谷川のことばを、私は谷川が書いたと知っているが、そこから谷川の署名が消えたってかまわない、むしろ署名が消えたとき、それは間違いなく、詩そのものになるのだと思う。
 だからこそ、というのは変だけれど、あの最初の出会いの日、谷川俊太郎といっしょに「鉄腕アトム」を歌わなかったことが悔やまれてならない。あのとき一緒に歌っていれば、私は谷川にこういうことを言えたのだ。
 「谷川さん、この歌は、私がこどものときテレビで覚えた歌です。谷川さんもテレビを見てたんですか? それで覚えたんですか? うれしいなあ。私たちは、同じ時間を生きてたんですね。そして、いまここで、また出合っているんですね。いっしょに歌ってくれてありがとうございます。私は、この歌のラララの部分が大好きなんです。ほかの部分は、ほかのことばでもいい。でも、ラララはラララでしかない。だれのことばでもない。みんなの、ことば。みんなのことばだから、ひとつだけの意味というものがない。そう思いませんか?」

 「ありがとう」はだれもがつかうみんなのことば。それと同じ、みんなのことば。そのことに対して、私は、ほんとうに「ありがとう」と伝えたい。

 最後の部分で私は「谷川さん」と書いたが、それは面と向かって話すときのことばだからである。文章で書くときは、「谷川さん」とも「谷川氏」とも、私は書けない。今回も私は「谷川が死んだ」と書いた。「谷川俊太郎氏が死去した(死亡した/亡くなった)」とは、どうしても書くことができない。谷川のことば、そのことばの肉体は私のことばの肉体と重なり合っている。それを引き剥がすと、もう、その瞬間から、何か違ったものになる。「鉄腕アトム」の歌は谷川の作詩だが、それを「谷川の作詩」と読んだ瞬間に生まれる違和感に似ている。あれは谷川の作詩かどうかは関係ない。あれはテレビのなかで「鉄腕アトム」が歌っていた歌なんだ。谷川の作詩なんかであってたまるものか、という気持ちがどこかにある。つまり、あれは「鉄腕アトム」の肉体そのものである。「鉄腕アトム」と切り離してはいけない歌なのである。そう信じさせる不思議な力がある。
 これは逆に書いた方がいいか。
 たとえば村上春樹が死んだと仮定する。そのとき、私は絶対に「村上春樹が死んだ」とは書かない。書けないだろう。そう書くことは、何か、私をぞっとさせる。私は村上春樹のことばとは関係がない。そのことばに重なりたくない。私とは切り離して、「村上春樹氏が死亡した」と書くだろう。

 私が書いた文章は、あまりにも飛躍が多く、でたらめな感じがするかもしれない。仕方がない。「整理」できない。思いつくままに、ただ、思いつくままに書いておきたい。「整理」なんて、あとからすればいい。

*

「父の死」の感想は、下のURLに。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/59c19002d057011a087ebed81cc3f018


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の死とその報道

2024-11-20 22:31:05 | 考える日記

 

 谷川俊太郎が死んだ。(私は、敬称もつけないし、「死亡した/亡くなった」とも書かない。敬称つけたり、「死亡した/死去した」というようなことばをつかうと、谷川が遠い存在になってしまうと感じるからだ。)
 私がその報道に、最初に触れたのは11月19日読売新聞朝刊(西部版、14版)だった。谷川俊太郎の死以上に、その「報道」に私は衝撃を受けた。ふつうの「死亡記事」とはまったく違っていたからだ。
 こう書いてある。

 日本の現代詩を代表する詩人で、「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など数多くの親しみやすい詩が人々に愛された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが、18日までに死去した。92歳だった。

 ふつうは、こうは書かない。どう書くか。朝日新聞(11月20日朝刊、西部版、14版)は、こう書いている。

 「朝のリレー」「二十億光年の孤独」など、易しくも大胆な言語感覚で幅広く愛された、戦後現代詩を代表する詩人の谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日、老衰のため死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行った。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は長男の音楽家賢作さん。

 どこが違うか。朝日新聞は、死んだ日にち、原因を明記している。さらに葬儀が近親者だけで行われたこと、「お別れの会」が予定されていること、喪主がだれなのかを書いている。読売新聞には、これが書いていないばかりか、死んだ日を「18日まで」と不明確なまま書いている。
 なぜなのか。
 読売新聞は、谷川俊太郎の死を、遺族から確認していないのだ。葬儀が行われたかどうか、喪主が誰なのかも確認していないのだ。つまり、読売新聞は「だれかからの伝聞」を信用して、「裏付け」をとらずに記事にしている。
 たぶん読売新聞の記者のだれかと懇意のひとが、記者に「情報」を漏らしたのである。記者は、谷川と親しい複数の「関係者」に接触、情報を確認はしたかもしれない。しかし、肉親(遺族)には確認していない。
 こんな失礼なことがあるだろうか。

 谷川賢作が、父の死をすぐに公表しなかったのには、それなりの理由があるだろう。静かに家族で見送りたい。十分に、家族で父のことをしのび、こころが落ち着いたあとで公表したいという気持ちがあったのかもしれない。
 その静かに父をしのぶ気持ちを、読売新聞は叩き壊したのである。読売新聞の報道を見て、多くのマスコミが問い合わせをしただろう。その対応に、遺族は大忙しではなかったか。もし、遺族が考えたように(というのは私の推測だけれど)、落ち着いてから公表するなら、あちこちからの「問い合わせ」にこたえるというようなことをしなくてすむだろ。もちろん公表したあとにも「問い合わせ」はあるだろうが、公表したあとなら、少しはこころの準備もできているだろう。
 
 読売新聞の対応もひどいが、その「情報」を漏らしただれかも、ほんとうにむごいことをする。谷川俊太郎と親しい人間なら、谷川俊太郎の意志を尊重するだろう。まさか、「私が死んだら、読売新聞に真っ先に知らせて、特ダネを書かせてやってくれ」と、そのだれかは頼まれたわけではないだろう。第一、そういうことなら、谷川俊太郎は、そのだれかにではなく、賢作や、その他の家族に伝えていることだろう。どう考えても、そのだれかが、谷川自身や、遺族から頼まれて読売新聞に知らせたわけではないだろう。
 これは完全な邪推のたぐいだが。
 その情報をリークしただれかは、「情報を教えたんだから、お礼に読売新聞に書かせて」とでも言ったのだろうか。言わなくても、情報を教えられた記者は、そのだれそれに原稿を書かせる手配をするかもしれない。原稿を書けば、「謝礼(原稿料)」は出る。谷川俊太郎の死を、その人たちは「商売」にしている。
 このことに、私は、激しい怒りを覚えたのである。

 11月17日の朝日新聞に掲載された「感謝」は、谷川の「最後の詩(絶筆)」かもしれない。その最終行。

感謝の念だけは残る

 谷川は、そう書いている。私は、この一行を読みながら、谷川が書いてきたことばはすべて「感謝」だったのだと気がついた。
 谷川の代表作は何か。「父の死」か、「鉄腕アトム」か「かっぱ」か。さらに、谷川は戦後現代詩のトップランナーか。谷川の作品は、歴史に残るか。そんなことは、どうでもいい。谷川のことばのなかには「感謝」が存在する。「生きている」ことに対するはてしない「感謝」が存在する。それは、残るのだ。
 私は、それと向き合う。
 谷川俊太郎が「ありがとう」と感謝のこころをあらわす、私はそれに対して「ありがとう」と答える。その対話、そのあいさつだけで、私はうれしい気持ちになる。

 その気持ちがあるなら、こんな文章など書かず、谷川俊太郎に対して「ありがとう」とつぶやいていろ、というひとがいるかもしれない。
 しかし、その「ありがとう」を交わすためには、なによりもまず、谷川俊太郎の「ありがとう」という声を聞き取らず、自分の「金儲け」を優先したひとがいたということを批判しておきたいのである。そうした、あまりにも人間的な(?)生き方は、谷川のことばの対極にあるものだろう。谷川を取り巻いていたひとのなかには、そうした人間的な(?)欲望を生きていたひともいることになる。寛大な谷川俊太郎は、そういうひとをも受け入れているのかもしれないが、私は、そこまで寛大になれない。

 怒りがおさまったら、谷川の詩について、また書いてみたい。「ありがとう」の気持ちをこめて。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎「感謝」

2024-11-18 16:49:03 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎「感謝」(朝日新聞朝刊、2024年11月17日)

  朝日カルチャー講座(福岡・朝日ビル8階)で、谷川俊太郎の「感謝」を読んだ。

目が覚める
庭の紅葉が見える
昨日を思い出す
まだ生きてるんだ

今日は昨日のつづき
だけでいいと思う
何かをする気はない

どこも痛くない
痒くもないのに感謝
いったい誰に?

神に?
世界に? 宇宙に?
分からないが
感謝の念だけは残る

 「生きていることへの感謝が書かれている」「感謝は、ひとのしたことへの感謝。ひとに対する感謝が書かれている」「多くのひとの最期につながる。多くのひとを思い出す」という声。一方で「二連目のことばはつらい。もし、こんな気持ちになったら、私は死んでしまうかもしれない」という声もあった。そうした気持ちがあるからこそ、感謝が強くなるのだろう。
 私は最終連に引きつけられた。
 「分からないが」と書いている。「誰に」感謝するのか(感謝しなければならないのか)分からないが。しかし、「感謝の念だけは残る」ことが分かる。いや、こと「は」、分かる。「は」という助詞には、強い強調の気持ちがある。その「は」の強さに、ぐいとひっぱられる感じがした。

 もし、死んでしまったらどうなるのか。これは、もちろん、分からない。でも、谷川には確信していることがある。「感謝の念」は、残る。ほかのものがなくなっても、「感謝の念」は残る。それが、「分かる」。
 「分かる」とは書いていないが、そう読むことができる。谷川には「分かりきっている」から、それを書かない。「書かないことば」、無意識に省略してしまうことばこそ、キーワードというものだろう。
 そして、私が、強く感動するのは、実は「感謝(の念)」というよりも「残る」という動詞である。谷川は「残る」をどうしても書きたかった。そして、その大切なことばのあとに、「分かる」というような余分な(?)ことばは書きたくなかった。「残る」を強調したかった。
 谷川の口調を借りて言えば、では「いったいどこに?」
 ふつう「念(気持ち)が残る」といえば、それは「肉体のなかに、念(気持ち/思い)」が「残る」。これは、誰もが経験することである。谷川は「私の肉体のなかに、感謝の念は残る(言い足りない)」と言っているのだろうか。あるいは「肉体」といわず、「こころに」というひともいるだろう。言っても、言っても、言い尽くせない。
 私は、なんとなく違うと思う。違うと、直覚する。「肉体」や「こころ」に「残る」のではなく、もっと違うところに「残る」。
 もし谷川が死ぬことがあっても、そしてその肉体がなくなってしまっても、谷川の「ありがとう」という気持ちは、この世界、この宇宙、谷川のことばを読んだひとのなかに、「残る」。
 「鉄腕アトム」や「かっぱらっぱかっぱらった」「父の死」のような作品が「残る」のではなく、何よりも「感謝」が残る。「生きている」、だから「ことば」が動く。その「ことば」はすべて「感謝のことば」である。谷川の詩は、すべて「感謝の念」なのである。
 感謝のあらわし方には、いろいろある。「ありがとう」は誰でも知っていることばだが、それだけが感謝のことばではない。たとえば「おならうた」の「こっそり す」もまた感謝のことばのひとつなのである。生きているから、こっそりするおならの音も聞こえるのである。私がいて、他人がいて、一緒に生きているから、それが聞こえるのである。聞こえた、と言えるのである。そのときの「うれしさ」。
 私は、うまく説明できない。しかし、谷川のことばに笑った瞬間の「うれしさ」、ひとのいのちをふいに輝かせることばの力のなかに、谷川の生きていることへの感謝が存在すると、私は感じる。ことばは、みんな「つながって、いきている」。
 そんなことを感じた。

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本篤『Touch 山・友・家族』

2024-11-17 23:19:29 | 詩集

橋本篤『Touch 山・友・家族』(編集工房ノア、2024年11月01日発行)

 巻頭の「ジャン・バルジャン」には、橋本篤の、長所と短所が、いっしょになっている。もっとも長所・短所といっても、それは私の判断で、ほかのひとは私が長所と呼んだところを短所と呼び、短所と呼んだところを長所と言うかもしれない。

同志社大学の小講堂のどこかだった
クリスマス演劇だったように思う
母に手をひかれて行ったのだった
ジャン・バルジャンが
賑やかな店から追い出され
暗く冷たいパリの街路をさまよい
幸せであるはずのクリスマス・イブに
不幸へ落ちて行くように
舞台の袖へと消えていったのだ

一幕目が終わったところで
母は出ようかと 私をつれ出した
京都の冬の河原町は
いつものように底冷えしていた
私は母に何度も言ったという
なあ お母ちゃん
あのおじちゃん 行くとこないんやろ
家に泊めてあげよ

確かに そう言った気はするのだ
ただ もう七十年以上も前のことである
母がこのたわいないエピソードを笑いながら
誰彼なしに聞かせたことだけはよく覚えている
その笑いの意味を 本人の言葉で確かめたいのだが
いま百四歳になった認知症の母は
ベッドの中で 夢を追いつづけるばかりだ

 知っていること(体験したこと、覚えていること)を省略せずに、正確に書く。これは橋本の長所である。脚色をしない。それが美しい形で発揮されているのが、

母がこのたわいないエピソードを笑いながら
誰彼なしに聞かせたことだけはよく覚えている

 この二行のなかの「笑いながら」である。確かに「笑いながら」、橋本の母は、そう言ったのだろう。なぜ、笑いながらなのか、幼い橋本にはわからなかった。いや、そんなことはない。こどもは、こういう「大人の感情」は間違いなく直覚する。そして、間違いなく直覚したからこそ「よく覚えている」のである。決して、忘れることができないのである。書き出しの「どこかだった」「だったように思う」とは、明確に違うのである。
 そして、橋本は幼いながらも、母が得意になってそのエピソードを語るのではなく「笑いながら」語ることに、母の「人柄」を直覚したはずだ。その、同じ「人柄」を橋本は受け継いでいる。
 母親は、橋本の幼い日のことばを、そのことばに隠れている「人柄」を自慢していいのである。しかし、自慢しないのである。そこにこそ、母親の「人柄」がいきいきと動いている。
 なぜ、母親はこどもの「人柄」を自慢しないのか。「人柄」というものは自慢するものではないからだ。さらに、幼いこどもの「人柄」というのは、幼いこどものものでありながら、同時に家庭の、つまり母親の「人柄」でもあるからだ。それがわかるから、自慢が「屈折」する。「笑いながら」でしか語れない。しかし、屈折しても、なんというか「笑い」は屈折しないし、「笑い」があることで、聞いたひとは、「人柄」に屈伏せずに、楽しいもの、ほほえましいものとして「人柄」を受け入れる。(極端に言えば「まあ、四倍と現実の区別ができないばかな子」ということば否定しながら、「ばかな子ほどかわいいんだよね」と笑いながら受け入れることもできるのである。)「人柄」よりも「笑い」を共有する。「笑いが共有できれば、それでいい」と考えるのも、これもまた「人柄」ではあるのだけれど。

 で、それでは、この詩の、あるいは橋本の短所とは何か。

その笑いの意味を 本人の言葉で確かめたいのだが

 この一行のなかにある「確かめたい」という「論理の強さ」である。「確かめたい」ということばを書かなくても、「確かめたい」というこころの動きは書けるはずである。
 この「確かめたい」ということばが、この詩のおわりを「客観的」にしている。母を突き放している感じがする。母の見ている「夢」は、どんな夢なのか。橋本の幼い日々の楽しい記憶もそのなかにはあるはずである。夢のなかで、母は橋本と一緒に生きているはずである。「認知症」であっても、直覚できるものはあるはずだ。もちろん、これは「医学」のことを知らない私の「主観的」な感想であって、「客観的」な事実とは言えないかもしれない。しかし、読者は(少なくとも私は)、詩人のことばのなかで「客観的」でありたいと思ったことはない。「主観」を重ねたい。「主観」を直覚したい。
 私は、そういう「ことば」を読みたい。
 詩集という形になってしまっているが、いつの日か、この三行を書き直せる日があればいいなあ、と祈りたい。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東田直樹「光の中へ」ほか

2024-11-15 22:54:09 | 現代詩講座

東田直樹「光の中へ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月04日)

光の中へ  東田直樹

光の中へ
ただ 光の中へ
僕は入りたい
たとえ そこが
現実の世界でなくても

光が僕を誘う
僕の分子を呼ぶ
細胞のひとつひとつが
光に向かって伸びていく

この手が
この目が
光をつかまえる
一瞬の喜び

どこにでも光はあるのに
僕が望む 真実の光は
永遠に
存在しない

カラスは黒い  東田直樹

自分のすべてで隠している
本当の気持ちを
悔しいけれど 仕方ない
僕は黒いカラスだから
                   (『ありがとうはぼくの耳にこだまする』)

 受講生が、みんなと一緒に読むためにもってきた詩。「カラスは黒い」の方が人気があったのだが、「光の中へ」について感想を書いておく。
 「光の中へ」については、「真実の光は/永遠に/存在しない」ということばに「希望がない」「断定に違和感がある」という声があったのだが、私はむしろその最終連に強い希望があると感じた。存在しないのは、あくまでも「僕が望む」真実の光である。この「真実」の対極にあることばは、一連目の「現実の世界」の「現実」だろう。「現実」ではなく、東田は「理想/希望」を求めている。「真実の光」は「現実の光」ではなく、「現実を超える絶対的な光」だろう。それは東田にしか見えない。だから、それは「存在しない」と言うしかないのである。ここには「現実」への強い抗議、拒絶がある。逆に言えば、それだけ東田の求めているものは譲れないということでもある。
 だれにでも、その人だけにしか見えないものを見ている。その自分にしか見えないものを、東田は、ここでは「光」と名づけている。
 この、その人だけの「真実」を「光」と仮定しておいて、受講生が書いてきた詩の中に、「光」はどう表現されているか。それを探してみよう、と呼びかけて、今回の講座ははじまった。

藻の記憶  青柳俊哉

十二月 
夜の底から光がさしかける

海が深く侵食する島 
空は高く雲はなく 花殻が風に飛ぶ 
蝋梅の蕾がひらきはじめる

藻の花がゆれる寒い泉 湧き水を掬って渇きをいやす

水脈を小舟を漕いで南へむかう海人(あま)たち
 
水底の雲母に野薊(あざみ)のかげが細長く伸びる
石と人の記憶が細長くゆらぐ
 
両腕をイロハモミジの枝のように大きくひらいて
しなやかな空の光をいれる
 
息は凍えた藻の香りがした

 青柳の詩には「光」が二回登場する。しかし、「光」ということばをつかってはいないが、「光」につうじるイメージとつながることばはないだろうか。
 「わかる」ということは、たぶん、「知らないこと」を「自分の知っていること」と結びつけて「理解」することである。
 私はたとえば「花殻が風に飛ぶ」に光を感じる。風もきらめいているだろうが、そのとき花殻はきっと光を反射している。開き始める蝋梅も明るい。蕾よりもさらに強い光がある。
 湧き水にも輝きがあるし、水脈は水の色の変化であると同時に光の変化(反射の変化)でもあるだろう。
 「南へ、にも光がある」「野薊のかげは、かげと書いてあるが、そこにも光が存在する」「記憶が細長くゆらぐ、にも光を感じる」。さまざまな声がつづいた。「光」はかならずしも「輝き」や「まぶしさ」ということばで書かれるわけではない。ひとりが指摘したように、「かげ」は、その対極に「光」を想定している。東田の「存在しない」が絶対的存在を宣言するように。
 反対のことばに、実は、求めているものが暗示されていることもある。そして、それは暗示を超えて、絶対的な存在であるからこそ、「反対のことば」で語るしかないのかもしれない。

見捨てられた小世界で  堤隆夫

見捨てられた小世界で
心温まる絆を見いだす幸せを
わたしは知っていたのだろうか
人のために灯をともせば
自分の前も明るくなることを
わたしは知っていたのだろうか

わたしは学んだ学問から
一個のりんごを分け合う幸せを
教えられたのだろうか
年を経るにつれ 多くの言葉を知ったことは
わたしに生きる幸せをもたらしたのであろうか

産業革命以降の近代社会は
人としての気高さを進化させたのであろうか
大家族から核家族への移行は
競争することの卑しさから
卒業できたのだろうか

尊き人が教えてくれた
経済的な貧困は 精神の貧困ではない
識字率や就学率は 文化的な高さの指標でもない
近代化のさらに彼方を見つめる眼差しに必要なのは
思想ではなく 温かい人間的関心 

大切な人を失った悲しみは
穏やかに生きることで癒される
無力な自分を受け入れること
無力なままでもいい
無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる

 堤の詩には、「光」ではなく「灯」ということばがある。それは「明るくなる」という動詞とつながって書かれているが、ほかにどんなことばが「光(灯のようなもの)」として書かれているだろうか。
 たとえば「一個のりんごを分け合う幸福」、「幸福」が「光」であるし、「分け合う」ことが「光」でもある。
 逆の「闇」はなんだろうか。堤は明確には書いていないが「競争すること」「卑しさ」、あるいは「貧困」が「闇」だろう。「近代化」が「光」だとしても、その「近代化」には「闇」もある。
 それを対比させながら、堤は、「必要なのは/思想ではなく 温かい人間的関心」と展開する。このとき「思想(近代化が人間の生活を豊かにし、幸福にするという思想)」が「強い光」(人を導く光)であるなら、「温かい人間的関心」は「一個のりんごを分け合う」ような「おだやかな光(弱い光/近代化以前にも存在した人間の生き方、暮らし方)」かもしれない。
 この「弱い光」は最終連で「無力」ということばになって動いていると、私は感じる。
 「無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる」を、私は「無力だからこそ、戦わずに(だれかを殺す、否定するのではなく)、そばにいるひとと一個のりんごを分け合う」。「戦わずにいる」ことは、そのとき、「戦う」ことよりも、きっと「強い」はずである。
 堤はいつも「決意」のことばを書くが、「弱くあることの決意」という視線がそこには動いている。

十一月の扉  杉惠美子

十一月の風景が
遠くから近くから 私を包んでいます

その心地よさの中で
少し立ち止まっています

その空気を思い切り吸って
何も持たずに歩き出してみました

十一月の会話っていうのがあるのかな?
「少し寒くなりましたね
 少し切ないですね」 って言ったら
何と返事がくるだろう?

 

扉を開くと矢印があり
「何が解放されるべきか」
と書いた紙があった

 「十一月の風景が/遠くから近くから 私を包んでいます」という書き出しの「風景」も「光」のひとつだろう。少なくとも、それは「闇」ではない。「少し寒くな」る、「少し切ない」はどちらかといえば「明るさ」よりも「暗さ」に通じるかもしれないが、「闇」ではないし、「少し」という変化のなかにあるのは、それこそ「光のゆららぎ」のようなものだろう。それが「寒さ」や「切なさ」に不思議な陰影をあたえる。
 そして、そこに陰影を感じるからこそ、私は最終連の「矢印」と「解放」ということばに「強い光」を感じた。それは、あまりに強烈すぎて、何も見えなくなるような「明るさ」につながる。絶対的な光のために、光しか存在しない、光のために目をつぶされて「暗い」とさえ感じてしまう何か。
 「何が解放されるべきか」の「か」の問いかけられ、杉は、動けずにいる。矢印があるのに。
 東田の書いていた最終連を思い出すのである。

 

不条理な死が絶えない  若松丈太郎

戦争のない国なのに町や村が壊滅してしまった
あるいは天災だったら諦めもつこうが
いや天災だって諦めようがないのに
〈核災〉は人びとの生きがいを奪い未来を奪った

二〇二一年四月十二日、福島県相馬郡飯舘村
村が計画的避難区域に指定された翌朝
百二歳の村最高齢男性が服装を整えて自死した
「生きすぎた おれはここから出たくない

二〇二一年六月十一日、福島県相馬市玉野
出荷停止された原乳を捨てる苦しみの日々があって
四十頭を飼育していた五十四歳男性が堆肥舎で死亡
「原発で手足ちぎられ酪農家

(略)

遺族たちが東京電力を提訴・告訴しても
因果関係を立証できないと却下されるだろう
生きがいを奪われた人びとの死が絶えない
戦争のない国なのに不条理な死が絶えない
                          (コールサック詩文庫 14)

 東京電力福島第一原発事故。その報道、自殺した人のことば、それをていねいに記録している。「こういうことばも詩ですか?」という質問が出たが、私は、詩だと考える。だれかが書いたことばであり、そこに一字の修正もなくても、既存のことばをどう自分のなかで組み立て直すか、その「組み立て方」に作者のことばがあらわれる。
 この詩で注目してほしいのは、自死した人のことばである。書き出しには鍵括弧がついている。しかし、その鍵括弧は閉ざされていない。この表現方法に、若松の強い感情移入がある。それは直接的には書かれていないが、彼らは最後のことばを残した。しかし、それはほんとうの最後ではない。彼らにはもっともっと言いたいことがあったはずである。言いたいことは、おわっていないのである。その「おわっていない」ということを、鍵括弧を解放したままにすることで、若松は引き継いでいる。
 最終連は、ひとつの思いである。しかし、やはり、そのことばに「おわり」はない。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

2024-11-03 00:36:19 | 現代詩講座

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月21日)

 受講生の作品。

歩こう歩こうⅡ  池田清子

五年前に
何のために生きるのか
問うた

何十年も
あいまいなまま
生きたので

心の中への入り方を忘れてしまった
心の外へは出ていけたような気がする

何のために生きるかより
どう生きるのか

ずっと
きっと

片道五分が
往復三十分になった

 五年前、この講座で書いた「歩こう歩こう」。五年後に書く「歩こう歩こうⅡ」。一番の変化は、三連目。「心の中への入り方を忘れてしまった/心の外へは出ていけたような気がする」。この二行は、詩でしか書けない。詩でしか書けないことばを書くようになった、というのが一番の変化である。
 散文でも書けないことはない、というひともいると思うが、散文の場合は、この二行の前後に、いくつかの「説明」がついてまわる。「心の中」「心の外」というときの「心」はどんな状態か。状況がわかるように書く、事実を踏まえて書く、事実を積み上げて書くのが散文の鉄則である。詩にも事実はあるのだが、それを読者に任せてしまう。つまり、読者は、自分の体験のなかから「心の中へ入った」のはどういうときだったか、「心の外へ出た」のはどういうときだったか、考えなければならない。「何のために生きるのか」ということばを手がかりに考えれば、そのときの「心」は苦しんでいたのか、悲しんでいたのだろう。そうした悲しみ、苦しみを、ひとはくぐりぬけ、それに打ち勝つ。意識しないのに、引きずり込まれてしまっていた、あの「心」。だが、いまは「心の中への入り方を忘れてしまった」。それが打ち勝つということだろう。「心の外へ出て行く」ということだろう。それは「気がする」だけかもしれない。こうしたことは、だれでも、何かしら経験したことがあると思う。このとき読者は、詩人のことばを借りながら、自分のいのちをみつめる。そして、それを詩人のいのちに重ねる。
 そのあと。
 「ずっと/きっと」と、つぶやく。「ずっと」のあとにどんなことばが省略されているか。「きっと」のあとにどんなことばが省略されているか。
 「ずっと」「きっと」はだれでもがつかうことばである。「意味」は、それぞれが知っている。でも、それを別のことばで(自分のことば)で言いなおすのはむずかしい。そのとき、しかし、きっと「直覚」しているはずである。池田の省略した「ことば」は自分の考えていることと同じだと。
 書かれていることばのなかで詩人と出会い、詩人が省略したことばのなかで詩人と出会う。読者が思い浮かべる「省略したことば」が、必ずしも詩人が思っていることばと合致するわけではない。しかし、「ずっと」「きっと」ということばのあとに、ことばがある、そのことばは言わないけれど、とても大切である。大切だから、「心の中」にしまって自分だけで確かめればいい、という「思い」(こころの動き)は、きっと合致している。
 「行間」(書かれていないことば)のなかで、詩人と出会えたと思えたとき、その詩は読者にととってとても大切なものになる。「好きな詩」になる。
 そして、それは詩人が好きであると同時に、そんなふうにして動く自分の自身のこころが好きということでもある。「好き」のなかで、ひとは、消える。何かが「好き」になったとき、「自己」は消える。透明になる。ただ「世界」だけが、そこにある。
 この詩は、そういう「世界」へ読者を誘う力がある。

キューピーさん  杉惠美子

朝起きると
裸ん坊の大きなキューピーさんが立っていた
両眼と両手をパッと拡げて
まっすぐに立っていた

四歳くらいのときのこと
私が抱えきれないくらい大きくて
父がやっと見つけたものだったという

あの幼い日の記憶は
時折 甦り 私を元気にする

どこを向いているのか
わからなくなったときも

まっすぐに立って
両手を拡げ
その大きく見開いた瞳の中に
吸い込まれていく

お酒を飲むと よく戦争の話をした
もっと真剣に聴けば良かったな

ごめんね 父さん

 池田の詩に通じるものがある。だれでも「どこを向いているのか/わからなくなったとき」というものがあるだろう。「心の中」に閉じ込められてしまったときかもしれない。「心の中」から、どうやって出て行けばいいのか。杉を支えたものは「大きなキューピーさん」である。それは「立っている」「まっすぐに立っている」。手を拡げ、両目を開いているとも書かれているが、何よりも「まっすぐ」と「立つ」ということばが印象に残る。
 「どこを向いているのか/わからなくなったとき」、杉は、「まっすぐに立つ」ということから始める詩人なのだろう。「まっすぐに立つ」と「元気」になる。初めてその人形を見たとき、きっと杉はキューピーに負けないくらいに「まっすぐに立って」いたのだと思う。キューピーになっていたのだと思う。
 この「まっすぐ」は、「お酒を飲むと よく戦争の話をした/もっと真剣に聴けば良かったな」の二行のなかの「真剣に」ということばのなかに隠れている。父がキューピーを買ってきたとき、それを始めてみたとき、きっと杉は「真剣」だった。「真剣」というのは「好き」に似ている。何か自分を忘れている。「無我」になっている。
 この「無我」は、父の場合、杉にキューピーを買ったときと、「戦争の話をした」ときにおのずとあらわれている。父の思い出だから、そこに父はいるのだが、父は、ほんとうはいない。ただ「戦争」があるだけである。父は戦争にのみこまれて「無」である。「無力」である。「無我」である。「どこを向いているか/わからない」状態でいる。
 父から話を聞いていたときは、そんなことは、わからない。父から話を聞けなくなって、そのときに父の「まっすぐ」を知る。
 二連目に、とても「散文的」に、つまり状況の説明のために登場してきた父が、最後になって「主役」のキューピーを乗っ取るようにしてよみがえってくる。いや、キューピーの内部から、父がキューピーの姿になってあらわれてくるような、強さがある。キューピーを見るたびに父を思い出すとは書いていないのだが、きっと見るたびに思い出すのだろう。父の「まっすぐ」を思い出すのだろう。杉を「まっすぐに立つ」方へ励ましてくれるのだろう。
 そのことへの感謝が最終行にあらわれている。「ごめんね 父さん」と書くとき、杉は父が「好き」である。そして、このとき杉は「無我」。杉のこころのなかに生きているのは父である。

千年眠った後に よみがえる日まで (故・谷口稜曄さんへ) 堤隆夫

背中一面が 真っ赤な血に染まり
うつぶせで苦しみに 顔をゆがめる十七歳の少年
一九四五年八月十五日
あの日から七十九年を経ても
空蝉のこの国は 何も変わろうとしない
何も変えようとしない

今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている
今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている

戦後生まれの私だが
私も 原爆を背負い続けている
二千十一年三月十一日
私の竹馬の友は 福島にいた
友は もういない

広島は ヒロシマではなく
長崎は ナガサキではなく
福島は フクシマではない

私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで
私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで

 堤の「文体」は特徴的である。「空蝉のこの国は 何も変わろうとしない/何も変えようとしない」「今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている/今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている」のように、一種の対句形式のなかでことばの一部を変化させ、ことばの力を増幅させていく。
 この詩では、「広島は ヒロシマではなく/長崎は ナガサキではなく/福島は フクシマではない」の三行のカタカナ表記と否定の「ない」の組み合わせが強烈である。堤は片仮名表記を否定(拒否)する理由を、ここでは書いていない。読者に、それぞれ考えろと迫っている。
 「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」がカタカナで表記されるのは、たぶん「ノーモア・ヒロシマ」に代表されるスローガンのように、外国向けのものが出発点だと思うが、外国に向け発信するのは大切だが、そのとき外国人にわかりやすいように(?)することがほんとうに大切なことなのか。外国人を意識するとき、何か、見落とすものはないか。
 さらにいえば、「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」と書いてしまうとき、そう書くひとは自分から「広島/長崎/福島」を切り離して「外国」のようにとらえてはいないか。あるいは自分自身を「外国人」にして、「外国人」の視点から「広島/長崎/福島」をみつめてはいないか。
 日本人として「広島/長崎/福島」と向き合い、自分をどうかかわらせていくか。微分の「広島/長崎/福島」にしなければならない。自分の「広島/長崎/福島」を具体的に生きなければならない。「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」では、抽象的、観念的になってしまうということだろう。
 堤は谷口稜曄を思い出すこと、祈ることが、その具体化の一歩である。

十字石  青柳俊哉  

垂直の記憶 
海辺から崖のうえを昇り降りするかげ 
無重力の振子
 
海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ
しぶきが石にふれ石をつつむ
 
海中のかげとして石は立つ
すべての水のかげをかれは背負う
すべての海面の光が降下してかれと結ぶ
 
十字に覆される未来 かがやく鯉の背がまう
崖の松の幹の黒い皺が底へきらめく
羽化しない蝉がうたう
 
生まれ変わる空間の表徴として 

 「海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ」の「かげを」の「を」という助詞が不思議である。すぐ「かげと」とつづくので「を」と「と」が交錯し、「とぶ」のが「石」なのか「かげ」なのかわからなくなる。それはそのまま「しぶきが石にふれ石をつつむ」では、石がしぶきをつつむのではないかという錯覚を引き起こす。
 さらに三連目では、その交錯が「かげ」と「石」の位置にも影響する。かげはどこにあるのか。石はどこにあるのか。海の上か。海中か。
 作者には作者自身の「答え」があるだろう。しかし、詩は(詩だけではないが)、作者の答えとは別の、「読者の答え」というものもある。

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする