詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリストファー・ザラ監督「型破りな教室」(★★★★)

2024-12-27 22:30:08 | 映画

クリストファー・ザラ監督「型破りな教室」(★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月27日)

監督 クリストファー・ザラ 出演 エウヘニオ・デルベス、ダニエル・ハダッド、ジェニファー・トレホ、ダニーロ・グアルディオラ、ミア・フェルナンダ・ソリス

 「いつも心に太陽を」(ジェームズ・クラベル監督、シドニー・ポワチエ主演)のメキシコ版、小学校版といえばいいのかもしれない。
 映画の中に、妹か弟かわからないが、幼い兄弟が生まれたために学校へ通うことを断念する少女が出てくるが、私は、なんとなく自分の小学生時代に重ねて見てしまった。私は末っ子で兄たちとは年が離れていたこと、病弱で農作業の手伝いをあまりできなかったことが重なり、兄たちの子供(私の甥、姪)の子守をすることが多かった。あやすのはもちろん、ミルクをやる、襁褓を換えるのも得意である。(甥、姪が生まれたころ、いちばん年の近い姉は中学を卒業しており、集団就職で、すでに家にはいなかったから、そういう仕事がまわってきたのである。)
 また、父の弟の息子(いとこ)のことも思い出した。彼はとても優秀な成績だったのだが、父親が胃がんで死んだため、中学を卒業すると地元の小さな工場に就職した。母と弟ふたりをおいて都会に就職することはむずかしかった。田畑の仕事をする人間がいなくなるからである。そのとき、彼がどんなことを考えていたか、私は知らない。葬儀やなにかで帰省し、会ったとき「家に遊びにきて、板戸に『海外特派員になりたい』と落書きしていったのが、まだ残っている」などとからかわれたりするから、彼もまた、そういう夢をもっていたのかもしれない。
 私は病弱ということもあって(とても30歳までは生きられないだろうと思っていたこともあって)、高校へは進学したが、大学へいくことなど考えていなかった。兄弟だけではなく、親類のなかでも高校へ進学したのは、私が最初だった。とても貧しかったのである。
 学校は好きではなかったが、忘れられないことがひとつある。小学校には、図書室というか、本棚を置いた部屋があり、そこにはずらりと本が並んでいた。その本は、なんでも、故郷の市出身のひとが、東京でベビー用品の会社を経営し、その利益を故郷に還元するために、各小学校に毎年本を贈っている。その本だという。「シートン動物記」の全巻を読んだのを覚えている。読んだ本のことはほとんど忘れているが、その本を贈ってくれた見知らぬひとのことは、どうしても忘れられない。いつかは、そういうひとになりたいとも思った。そのひとがいなかったら、本を読む喜びを知らなかった。とても感謝している。
 いま思い返せば、あのころから私は本が好きだったのだと思う。でも、なかなか本を読むことはできなかった。仕事をするようになって、本が買えるようになって、将来は本を読んで暮らしたいと夢みていたが、いまは視力が低下して読むのがむずかしい。
 そんなこともあって。
 この映画では、私は、学校へ行くことを中断した少女のことがとても気になる。あのあと少女は、子守から解放されて、好きな本を読むことができるようになったのだろうか。本を読みながら、自分のことばをみつけ、何かを語り始めただろうか。どうか、そうあってほしいと願わずにはいられない。
 本を読むことは、ことばを知ること。考えるということを学ぶこと。
 そこからちょっと進んで、もうひとつ、この映画でどうしても忘れられないのが、廃品を回収し、そこから金目のものを売って生活している父娘の、その父のことである。彼は娘の才能に気がついていない。娘に夢を見させても、結局、この現実にもどってくるしかない。夢を見た分だけ、傷が深くなると感じている。ところが、娘が望遠鏡を自分でつくったこと、一生懸命勉強していたことを知る。ああ、この娘の夢をかなえてやりたいと思う。(「リトル・ダンサー/ビリア・エリオット」の父親のよう。)だが、どうしていいかわからない。娘に語りかけることばもみつからず、泣いてしまう。
 あのとき、あの父親の「肉体」のなかで、どんな「ことば」が動いていたのだろう。
 人間なのだから、だれもが思想(ことば)をもっている。その「ことば」を、どうして私は聞き取れないのだろう、と悔しくなる。あの父親の「ことば」にならない声を、「ことば」にできたらどんなにいいだろうと思う。あの父親は、こういいたかったのだ、と「代弁」できたら、どんなにうれしいだろう。その「ことば」を少女に聞かせてやりたい。私が代弁しなくても、少女はちゃんと父親の「ことば」を聞き取っている。受け止めている。それがわかるからこそ、私は悔しくなる。その父親の「ことば」をきちんとすくいとれない私の「ことば」というものは、とてもつまらない「ことば」にすぎないのだ。少女は、ちゃんと「ことば」を聞き取る耳(肉体)をもっているのに、私には、それがない。
 これは、私自身の父や母についても思うのである。人間だから、幸せになることを願って生きていたと思う。その父や母の、声にしなかった「ことば」を、私は語ることができない。もうすぐ父が死んだ年齢に近づく。肺がんで死んだ兄は、死ぬ前に「父が死んだ年と同じだ」と言ったが、ああ、そうなのか、我が家の男の寿命は、その年なのかと思った。同時に、父と兄は、仲がいい関係には見えなかったが、死ぬ前に父のことを思い出しているなら、そしてそこから兄自身のことを思っているなら、やはりどこかで「ことば」を共有していたのだとも思う。
 私はいったいどんな「ことば」を両親と共有しているのだろうか。共有しているとしたら、それをどんなふうに表現できるだろうか、とも考えてしまう。

 書きたいことだけ書いて、ふっと思い出せば。
 この映画では、いろいろなことばを先生と生徒が、そして生徒同士が「共有」している。たとえば、ものの「密度」。体積と、体重。「密度」をはかるためには、どうすればいいか。数字も、計算も、みんな「ことば」。担任の先生が沈んだ水をためたおけ、校長先生も沈んだおけ、そのときの7センチと10センチの水位の高さの差。そして、そのときの水の輝き。それも「ことば」。共有できる「ことば」を求めあう、その共有のたしかさを確認するのが学校というものなのだろう。
 これは「いつも心に太陽を」でも、あったなあ。最初、ポルノグラフィーを読ませる。生徒が興奮しながら「ことば」を、あるいは「読む」ことを身につけていく。ある日、「チャタレイ夫人の恋人」を読ませる。すると生徒が「なんてきれいなことばだ」と声を漏らしてしまう。「ことば」は共有するためにある。
 そして、また、思うのである。私は和辻哲郎やプラトンの「ことば」が好きだが、そうしたことばを読みながら、やっぱり父と母につながる「ことば」を探している。「ことば」を探すために、生んでくれたのだと思うのである。

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Estoy Loco por España(番外篇461)Obra, Lola Santos

2024-12-23 23:12:14 | estoy loco por espana

Obra, Lola Santos
Adonis Ⅱ 70x30x52cm

 Las obras de Lola tienen una cierta "suavidad" que no puedo tocar.
 Esto es lo opuesto a la "fuerza" de las esculturas de Rodin. La fuerza de la de Rodin reside en la fuerza de su negativa a tocar, la fuerza de sus músculos que alejan las manos de los demás. Nadie puede vencer ese músculo.
 Esta obra de Lola es diferente. Si la toco, mis dedos y palmas nunca abandonarán su cuerpo. No sólo eso, sino que siento como si me estuvieran arrastrando hacia algo más allá del "contorno" de su cuerpo.
 Es posible que la mano de Lola haya tocado el interior del Adonis y luego haya regresado al límite entre el interior y el exterior. Esta obra está cubierta con una "suavidad" que sólo puede ser creada por manos que conocen la riqueza y el secreto de su interior.

 Lolaの作品には、何か、触ってはいけない「やわらかさ」がある。
 それは、たとえて言えばロダンの彫刻の「強さ」の対極にある。ロダンの彫刻の強さは、触るものを拒絶する強さ、他人の手をおしのけてしまう筋肉の強さにある。自分の肉体とは違う肉体の強さと言えばいいのか。
 Lolaの作品は違う。触れれば、その指が、手のひらが、そのままその肉体を離れられなくなる。そればかりか、何か、皮膚という「輪郭」を超えて、その内部に引き込まれてしまうのではないかと感じてしまう。
 Lolaの手は、その対象の内部に触れて、そのあと内部と外部の境界線まで引き返してきたのかもしれない。内部の豊かさ、その秘密を知っている手だけがつくり得る「やわらかさ」が作品を覆っている。

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カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)

2024-12-21 22:10:13 | 映画

カルラ・シモン監督「太陽と桃の歌」(★★★★+★)(KBCシネマ、スクリーン2、2024年12月20日)

監督 カルラ・シモン 出演 ジョゼ・アバッド、アントニア・カステルス、ジョルディ・プジョル・ドルセ

 予告編にもあったのだが、母親が息子を平手打ちする。父親が加勢して、息子を叱ろうとする。一瞬何か言いかける。その父親にも母親(妻)が平手打ちをくわせる。言いかけたことばを封じてしまう。このシーンが、とてもいい。息子、父親、母親には、それぞれ言い分がある。そして、それは明確にことばにするのはなかなかむずかしいのだが、ことばにしなくたって三人にはそれがわかる。家族だから。そして、それを見ている私は彼らの家族ではないのだが、やはり、わかってしまう。ここには、「がんこもの」の「思想」が「肉体」として動いている。
 どのシーンもそうなのだが、ほんとうに「言いたいこと」は明確に言語化されない。冒頭の「契約書」の部分は別だが、あとはことばにならない。ことばにしてみたって、何も解決しないことがわかっているからだ。そして、みんなが、それぞれに苦しんでいることを互いに理解しているからだ。みんなでいっしょに働いてきた、桃をつくってきたからだ。いっしょに働く喜びと苦しみ、というふうに「要約」してはいけない何か、「要約できない何か」がある。
 それは、たとえていえば、ある日の家族パーティー。家族の写真を撮る。それは今風にスマートフォンをつかって撮るのだが、そのパーティーの準備のシーンが、ああ、いいなあ、と思わずつぶやいてしまう。主人公の父親が、カタツムリを網のようなもの(網ではなく、棒に見えたが)の上にカタツムリを並べる。その上に枯れ木(枯れ草)をかぶせる。火をつける。カタツムリが焼き上がる。それを父親が全部、コントロールしている。父親が料理している。日本で言えば、鍋料理を父親がコントロールする(鍋奉行)のようなものかもしれないが、ここに「父の矜恃」のようなものが集約されている。みんな、それを尊重している。
 それは、すべてのことにおいて、そうなのである。父親の生き方に息子や娘、それに母、さらには父親の父親(祖父)も何らかの形で「反発」している。それはたとえば、祖父がイチジクを摘んで、地主のところへ付け届けをするような形で表現されている。この祖父の行為は、父親が祖父に車を運転させない(車を動かせないように、ほかの車で封鎖する)という形で、「実力」で拒絶される。祖父はもちろん納得できないが、納得できないけれど、受け入れ、尊重もしている。
 こういうことが繰り返し、描かれる。冒頭に書いた息子への平手打ちの前には、息子が内緒で栽培している大麻を父親が燃やしてしまう。それに怒って、息子はしなくてはいけない仕事を放棄するというか、逆のことをしてしまう。いったん水門を閉じながら、父に仕返しするために水門を開ける。してはいけないとわかっているけれど、してしまう。そうしないではいられない。
 このときの気持ちは、ことばにはされない。でも、わかる。それが、とてもいい。
 これとは逆に、正面切ってことばにされる行為がひとつ描かれる。それはスペイン政府に対する農業従事者の不満である。(これは、あるいはEUに共通の問題かもしれないが……)。農産物が安い。とても金にならない。働けば働くほど赤字になる。彼らを苦しめるのは、単に農産物が安いということだけではない。その安い農産物よりも安い「輸入品」が市場を支配しているからだ。(このことは、明確には言語化されてはいないが)。このことに対して、主人公たちはデモをする。収穫した桃、いのちと同じほど大切な桃を道路にばらまき、車でつぶしてしまう。このときの、農家のひとの悲しみ、やりきれなさ……。
 と、書いて、私は、立ち止まる。政府に対する批判はことばにされる。しかし、自分が育てたものを廃棄する苦しさ、かなしさ、やりきれなさは、やはり「言語化」はされていない。この語られなかった「ことば」、それは語られなかったからといって存在しないわけではない。存在する。そして、単に存在するだけではなく、共有されている。カルラ・シモン監督は、それを共有しているからこそ、「ことば」ではなく、映像で、役者の肉体で、そこにある桃や大地の姿でリアルに再現している。

 私は、貧乏な農家で育った。病弱だったこともあり、農作業のすべてにわたって手伝ったわけではないし、わりと若いときに家を出てしまったので、知らないこともたくさんあるが、なかでも知らないのは、たとえば父や母が何を思っていたか、それをあらわす「ことば」を知らない。人間だから、ことばにしなくても「思想」はある。語らなくても「思想」はある。それを、この映画のようにリアルに表現する方法を私は知らない。父と母の「ことば」を知らない。知らないまま、父が死に、母が死んだ年齢に近づいている。私がつかっている「ことば」なんかは、そういう意味では「嘘」でしかないのだ。そんなことも考えさせられた。
 そんなこともあって、私は、知らず知らずに泣いてしまった。

 


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Estoy Loco por España(番外篇460)Obra, Xose Gomez Rivada

2024-12-15 23:14:19 | estoy loco por espana

Obra, Xose Gomez Rivada

En las obras de Xose hay siempre la muerte . Además, es una muerte que fue ejecutada. Y esa muerte no es una muerte real. Porque todos recuerdan ese ejecución. La muerte en sus obras está siempre al borde de la resurrección. La resurrección de los muertos conduce a la presente reforma.
Por lo tanto, sus obras pueden parecer inquietantes para quienes viven en paz el presente. Sin embargo, brinda esperanza a quienes están enojados por la realidad. El sueño del ejecutado debe realizarse reformando la realidad.
Al hombre de esta obra le vendaron los ojos, lo quemaron en la hoguera y luego lo guillotinaron. Sin embargo, ni el fuego caliente ni la hoja de guillotina pudieron matar completamente al hombre. Xose lo resucitó de entre el muerto como una obra de arte.

Xoseの作品には、いつも死がある。しかも、殺された死である。そして、その死は、死んではいない。だれもが、殺人を記憶しているからである。彼の作品のなかの死は、いつでも復活しようとしている。死の復活は、現在の改革につながる。
だから、彼の作品は現在を平穏に暮らしているひとには不気味に見えるだろう。しかし、現実に対して怒りを覚えているひとにとっては希望になる。殺された男の夢は、現実を改革することで実現しなければならない。
この作品の男は、目隠しされ火刑にされ、さらにギロチンにかけられた。けれど、熱い火も、ギロチンの刃も男を完全には殺すことができなかった。Xoseが、彼を作品として死から復活させたのです。

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「豊かさ」について

2024-12-13 15:33:50 | 考える日記

  あるインターネットのサイトでAIと労働が問題になったことがある。AIロボットの社会進出と社会的人間の関係がテーマである。労働が奪われると、人間はどうなるか、と簡単に要約できる問題ではないが、簡単に言えば、そういうことがテーマである。このテーマを最初に持ち出したひとは、「AIロボットが人間の労働を奪うと、人間に影響を与える」ということを懸念していた。私も、人間の本質そのものに影響を与えると考えている。人間は労働をとおして社会を(世界を)認識するからである。
 これに対して、あるひとが、こんなことを言った。
 「AIは人間を労働から解放する。労働に拘束されない人間は感性を楽しむことができる、人生の喜びを味わうことができる」
 この楽観主義に対して私は疑問を持った。だから、こう書いた。
 「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」

 これ対するそのひとの反応は、
 「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」
 というものであった。そのひとの言う「人生を豊かにする行動」というのは、全体の文脈のなかでとらえると、「人間の感性を楽しむ」「人生の喜びを味わう」ということだろう。そして、その具体例として、
 「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」
 と書いている。「人生の喜び=人生の豊かさ=感性を楽しむ」であり、その具体例として、たとえば「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる」があげられているのだが、「人生の豊かさ」とは、はたして、そういうものだけだろうか。そのことについて、私は疑問に思っている。

 たとえば。

 佐多稲子「キャラメル工場から」の少女は、キャラメル工場で働く少女を描いているが、その少女がトイレで学校の先生からの手紙を読む。そのシーンで、思わず涙が込み上げてこないか。少女はとても「不幸」である。しかし、彼女が「不幸」であることを理解した上で、なおかつ、少女と教師とのあいだにかわされている「人間の交流」に触れ、こみあげてくるものがないか。こらえてもこらえても、涙が出てくる。
 あるいは、その少女が初めて工場へ行くとき電車に乗る。そうすると、その電車の中に、乗り合わせたひとの「息の匂い」がする。味噌汁の匂い。それぞれのひとが食べてきた味噌汁の匂い。ひとりひとりが違う。そのひとりひとりがみんな働きに出ている。その背後にひとりひとりの家庭、事情がある。それを瞬間的に悟る。その描写に、胸を打たれないか。はっとする。その「はっ」は抑えることのできない驚きである。
 あるいは歌舞伎(あるいは森鴎外の小説の)「じいさんばあさん」。ふとしたことから夫が知人を切ってしまう。そのためにふたりは四十年近く別れて暮らす。四十年後、やっと昔住んでいた家にもどり、再会する。苦しくて、つらい人生である。しかし、そのふたりが桜の花を身ながら過去を振り返ることばを聞くとき、胸にあふれてくる思いはないか。思わずすすり泣いてしまわないか。歌舞伎ならば、まわりにひと(観客)がいるだろう。そのひとたちにすすり泣いていることを知られても、それでも泣いてしまうだろう。こらえきれない。
 こうした、こらえきれない感情。そこにあるのは感情の「豊かさ」である。感情が豊かでなければ、その感情は、肉体を突き破る嗚咽や涙にはならない。こらえてもこらえてもあふれてくるものが「豊かさ」というものなのだ。
 野の花の美しさに感動したり、風のさわやかさを感じるだけが「感性の豊かさ」ではない。
 そして、どんな「感性/感情」にしろ、それは「ひとり」で育てることができるものではない。ひととの触れないのなかで、教えられ、学ぶものである。ひとに接しない限り、自分がどういう人間であるか、人間は理解できない。本(ことば)を読まない限り、自画像をことばで描き出すことはできない。他人(生きていく過程で接したひと)や本(他人のことば)に触れない限り、ひとは自分を豊かにすることはできない。ひとに接するいちばんの方法は、働くことである。どんな仕事をするにしろ、そこには他人との接触がある。
 冬の朝、仕事のために駆け込んだ電車のなかで、同じように電車に乗り込んでいるひとの息に気がついた体験、だれかから自分のことを気にかけている手紙を(ことばを)もらったことのない人間、それに通じることを体験したことのない人間には「キャラメル工場から」のことばの切実な美しさはわかりにくいだろう。想像しにくいだろう。そこに書かれていることばが、どんなに美しいか感じることはむずかしいだろう。

 さらに、こう付け足すこともできる。
 「キャラメル工場から」も「じいさんばあさん」も、どちらかというと「不幸なひと」の話である。働かずにすむひとの話ではない。恵まれた人生を歩いてきたひとの話ではない。しかし、多くのひとは、それを何度も読み返す。何度も同じ芝居を見る。もう知っている話なのに、どうしても読み返してしまう。見直してしまう。それは、「読み返したい」「見直したい」からである。それは「泣きたい」からである。「泣くこと」のなかにも「豊かさ」があるのだ。「共感」という「豊かさ」がある。「豊かさ」は「共感」をとおして、さらに大きくなっていくものなのである。
 さらに言えば、この「共感」のためには、「他人」が必要である。知っているひとだけではなく、「知らない他人」ともつながっていく「共感」。その「知らない他人」とつながるためには、どうしても「働く」ということ、「仕事」をとおして「知らないひと」の存在を認識できる能力を身につける必要がある。

 さらに書いておこう。
 たとえば「ロミオとジュリエット」「曽根崎心中」でも何でもが、不幸な恋人の話、死んでしまう恋人の話。ひとは何度でも読み、見る。ストーリーもわかっているし、泣いてしまうこともわかっているのに、読んで、見て、泣く。そのとき、多くのひとは知るのだ。その「結末」は悲しい。それは、できれば否定したい結末である。しかし、その「結末」までに描かれている「ふたりの感情」は、とても充実している。愛に満ちている。ふたりの感情は「豊か」である。多くのひとは、その「豊かさ」にひたり(共感し)、自分の感性を「豊か」にする。
 「豊か」は、いろいろな形をとるのである。その「いろいろな形の豊かさ」を実感するためには、いろいろ他人と出会わないといけない。「働く」というのは、その第一歩である。

 

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Estoy Loco por España(番外篇459)Obra, Luciano González Diaz

2024-12-12 23:11:14 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 ¿Cómo creó Luciano esta escultura?
 ¿La madre abraza y besa a su hijo? ¿Un hombre abraza y besa a una mujer? No sé cuál, pero aquí hay dos cuerpos. Dos cuerpos se encuentran y se convierten en uno. Luciano unió estos dos. Combinó los dos en una sola forma.
 No, no lo creo.
 Sólo puedo imaginar que estos dos cuerpos fueron extraídos de un solo trozo de bronce. Ha sido "uno" desde el principio. La alegría de abrazar, besar se desbordó desde el interior del bronce y se convirtió en dos cuerpos, y esa transformó el bronce inorgánico. Como son uno desde el principio, no pueden separarse.
 En esta obra no se añadió nada. Las manos de Luciano no hacen nada. Todo nació del bronce. Por eso, aunque sea de bronce, parece que se está moviendo. Sus brazos, cuerpos y rostros están vivos.

 これは、どうやってつくったのだろう。
 母親が子どもを抱きしめキスしているのか。男が女を抱きしめキスしているのか。どちらかわからないが、ここには二つの肉体がある。二つの肉体は、出合って、ひとつになる。Lucianoは、その二つの肉体を出合わせた。二つの肉体を組み合わせ、形にした。
 いや、違うと思う。
 この二つの肉体は、ひとつのブロンズの固まりの中から引っぱりだされて形になったとしか思えない。最初から「ひとつ」である。ブロンズの中から、抱きしめてキスして一体になるよろこびがあふれてきて、それが無機質なブロンズを変形させたのだ。これは、ブロンズの中から生まれてきた、生きる喜びだ。
 ここには、あとから付け加えられたものがない。すべてはブロンズの中から生まれてきている。だから、ブロンズなのに、動いて見える。腕も体も顔も。 

 

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堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか

2024-12-11 23:36:28 | 現代詩講座

堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年12月02日)

 受講生の作品ほか。

さびしい町を発とう  堤隆夫

あの日が もう 帰って来ないのなら
私には もう なあーんにもない
もう 空蝉の木漏れ日の水面に 戻ろう
幼い日々の 言葉を知らなかった あの日の 木賊色の水面に戻ろう
不安と期待が入り混じった 薄紅の春の昼下がりのひと時
酩酊して崩れ落ちた あの日の思い出は 苦いなみだの雫
半分だけ幸せだったあの日は もう 帰っては来ない
一年前の受話器のあなたの声は もう 聞けない
姿は見えなくても 声だけでも もう一度-----
詩とは 思い出の表現なのか?
焦がれて焦がれた 私の さびしい町
私は 今 空の水面に浮かぶ 根なし草
こころとは さびしい町
こころとは 戻ることのできない焦がれ町
さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで
さあ 肺胞に青息吐息を詰めこんで なみだの水筒を持って 発とう
生きるために なあーんにもない黙示録の逝きし世に向かって 発とう

 「ことばの響きが美しい。音楽が響く」「歌の歌詞になる。青春の歌。半分だけ幸せの半分が印象的」「誘いを感じる。いままでの作品とは色を異にしていて驚いた。力が抜けている」「半分からの四行が印象に残る。最後の三行もいい」「なみだの水筒が、とてもいい。これがタイトルだったらいいなあ」
 いままでの作品と印象が違うのは、ひとつには、反語的質問がないからかもしれない。発とう、という呼びかけが特徴的だ。「歌詞」という視点から見れば、昼下がりのひと時、苦いなみだの滴、焦がれ町のようなことばの動かし方が「歌詞」に似ているかもしれない。
 もし「歌詞」に徹するのだとすれば、「詩とは 思い出の表現なのか?」という一行はない方がいいかもしれない。ここには堤の「反語的質問」のスタイルが残っている。
 (「涙の水筒」をタイトルにしたら……という受講生のアイデアにのっかって、私も、ちょっとこうしたらどうなるかな、ということを提案してみたい。)
 ここを一行空きにして連を変える。最後の部分も、最後の二行を三連目にするとおもしろいかもしれない。意味的には「さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで」は三連目のことばにつながるもの、つまり、そこに一行空きを入れると、「連またがり」になるのだが、その「不自然さ」が逆に最後の二行を際立たせることになるかもしれない。
 これは私が頭のなかだけで考えたことなので、実際に書いてみる(印刷してみる)と違うことを思うかもしれないが。
 スタイルをかえてことばを動かしてみるのも、おもしろいかもしれない。

水、ひろしま  青柳俊哉

詩、目に見えないかなしみ
世界、目に見えないうつくしみ
すべてに行き渡って水がうつし水が記している
 
ドームの跡に佇む水の目の少女
黄色い星の光を瞳にあふれさせるゲルマニアの少年
水牛とともに涙を泳ぐ女
 
雪は黒い塵にふれて初めて結晶する
鐘を打つように見えない世界を水の手が響かせる
その音が街の涙の暈を増す
 
外側を詩がながれる 
かなしみよって世界は
償われている

 「現在の広島の川から、かつての残酷な光景を想像するのはむずかしい。最終連、悲しみがあってひとは産まれる。残酷を知っているのに人間はそれを繰り返してしまう」「何度も声に出して読みたい。詩は悲しみの表現。エモーショナル」「タイトルが美しい。水が様々に表現されているが、詩と悲しみと水が一体になっている」
 ことば、音の関係について考えたい。かなしさ、うつくしさではなく、かなしみ、うつくしみ、と書く。その最後の「み」の音のなかに「水」の「み」が隠れている。そのためだろうか、三行目「水がうつし水が記す」のなかに「うつしみ(現身)」が隠れているように感じられる。いきているひと、しかし、死んでしまったひと。死んだけれど、生きている姿を思い出さずにはいられない、そのいのち。そのゆらぎのようなものがある。
 二連目、涙の目の少女ではなく、水の目。それが、そのあと水を泳ぐではなく、涙を泳ぐ。水と涙が交錯する。水即涙、涙即かなしみ即うつくしみ。

待ち時間  杉惠美子

冬が進んでいく朝
私は麓の道をゆっくり歩いてみます
一方通行ではない道を探します
あれこれ つぶやきながら
耳を澄ましてみます


私の輪郭が
ほどよく 柔らかな光の中に
貌となって
現れ
少しずつ真ん中に集まっていく
そんな
時を待って
ゆっくりと 歩いてみます


真ん中に集まった灯りは
小さくても消えないように
私の中で 灯しつづけます


赤い椿の花の蕾も
だんだん 膨らんできています

 「貌(かたち)という感じのつかい方がいい。一連目の、一方通行から三行がいい。三連目の、真ん中に集まるがつかみきれない、それが蕾に変わっていくところがいい」「冬から春への時間の流れと心の流れが重なる。一方通行とあれこれの対比がいい」「三連目の灯りということばに作者の希望を感じた。詩の可能性が広がる」「三連目の、私の中に向かって一、二連目が用意されている。少しずつ、だんだん、変わる。感情の高まりを感じる」
 私は三連目の、少しずつ真ん中に集まっていくの「いく」ということばに少し驚いた。四連目で「私の中」ということばが登場するが、集まったものが私の中で形をとるならば、それは、集まって「くる」だと思う。しかし、三連目では「輪郭」ということばが象徴するように、まだはっきりとは「私の中の「中」が意識されていない。何か、客観的に対象を見ている感じが残っている。そのために「いく」になっている。しかし、集まるに従い、それが「輪郭」ではなく「中」と結びつく。こういう変化を描くには、やはり「いく」がいいのだろう。
 「私の中」、つまり「主観」になったあと、それが椿の蕾となって再び客観化される。蕾は風景ではなく、象徴になる。
 象徴(あるいは比喩)が、どうやって誕生するか。そのときの「無意識」の動きが「いく」ということばのなかに隠れている。こうしたことが影響して、受講生も季節の変化、時間の流れだけではなく、「心の流れ」を感じたのだと思う。

クリスマスツリー  宮尾節子

はじめに言葉がありました。
「今夜、わたしはモミの木になる」
つぎに、時が言いました。
「じゃあ、わたしはクリスマスになるね」
つぎに、涙が言いました。
「じゃあ、わたしは全部ガラス玉に変わるわ」
つぎに、思い出が言いました。
「わたしは、良い物だけ取り出して
一つずつ枝に飾っていく」
泣きやんだ瞳が
輝きながら、訴えました。
「わたし、てっぺんでお星様になりたい」
みんなが賛成したとき
耳元でそっと、悲しみが囁きました。
「だったら、最後にわたしが
喜びにかわるね」

街のなかでも家のなかでも
今日、世界じゅうでいちばん幸せ者の
クリスマスツリー。

あなたが、一度倒れたモミの木だって
誰も覚えていない。

 ここには書かなかったが、谷川俊太郎追悼の記事を読むなどして、あまり作品に触れる時間がなかったのだが。いろいろな変化のなかで「悲しみ」が「喜び」という正反対のものにかわるところに注目が集まった。
 その三行もいいが、最終連が、複雑でとてもいい。
 「誰も覚えていない」が作者は知っている、つまり覚えている。直前に「倒れた」という表現があるが、ほんとうに「倒れた」のか「倒されたのか(伐られたのか)。そういうことを考えさせる。「誰も覚えていない」という反語的表現が、読者を目覚めさせる。非常に深い。


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Estoy Loco por España(番外篇458)Obra, Jesus Coyto Pablo

2024-12-10 23:20:23 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 Una obra tridimensional de Jesús. ¿Es cerámica? Forma sencilla y libre. Cada obra está llena de "el primer".
 La alegría de amasar arcilla por primera vez, la alegría de crear una forma por primera vez. No sabía qué hacer, pero terminó haciendo algo que parecía la cabeza de un pájaro. Sí, este es un pájaro. Este es el pico y estos son los ojos. Lo descubrió a medida que lo creó. El primer pájaro de este mundo. Colorea el pico. Colorea los ojos. Colorea las plumas. Intentó hornearlo. Mira, después de todo es un pájaro.
 Pero es extraño. Cualquier obra se parece al autor. Aquí están los ojos de Jesús cuando era un bebé, cuando vio el mundo por primera vez. No nació la obra, pero nació Jesús. La curva redonda de repente se convierte en una boca abierta. Levanta su primer grito. Sus ojos se sorprenden por su propia voz. Cada obra tiene el poder de conmover y convertirse en un "rostro". Está la alegría de una "primera vez" y una sensación de imprudencia. Tiene una energía que dice que puedo hacer cualquier cosa. Al principio dije que su obra era libre, pero eso es lo que me hace decir este poder desbordante.

 Jesusの立体作品。陶器だろうか。シンプルな形、無造作な模様。どの作品にも、「初めて」があふれている。
 初めて粘土をこねる喜び、初めて形をつくる喜び。何をつくっていいかわからないが、鳥の頭のようなものができた。そうだ、これは鳥だ。ここがくちばし、ここが目。それはつくりながら発見していく。この世界で初めての鳥。くちばしに色をつける。目に色をつける。羽毛に色をつける。焼き上げてみよう。ほら、やっぱり鳥だ。
 でも不思議だ。どんな作品でも、作者に似てしまう。ここには「初めて」世界を見たJesusの、赤ん坊のときの目がある。作品が生まれたのではなく、Jesusが生まれた。丸いカーブは突然開いた口になる。産声を上げる。自分の声に目はびっくりしている。どの作品にも「顔」になろうとして動く力がある。「初めて」の喜びと、無鉄砲さがある。なんにでもなってやるさ、というエネルギーがある。無造作と最初に書いたが、それはこのあふれ返る力が言わせてしまうことばである。

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Estoy Loco por España(番外篇458)Obra, Sergio Estevez

2024-12-10 00:13:34 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez

 Sergio utiliza una amplia gama de materiales. El material en el que esta trabajando actualmente es el papel. ¿Es una novela o un poema? ¿O quizás un periódico o un diccionario? Se imprimen las letras. El "cuento" se desmantela y viaja hacia una nueva forma. ¿Serán los dedos de Sergio los que guiarán el viaje, o serán las palabras que están ahí?
 Me pregunto en qué se diferencian los movimientos de los dedos de Sergio cuando desmantela palabras impresas y cuando les da a las palabras desmanteladas un mundo al que no se puede llegar a través de las palabras. Cuando se rasga y enrolla el papel, ¿cómo se encuentran las palabras entre sí?
 ¿Es este otro cuento escondido dentro del cuento, o es una nuevo cuento que niega los cuentos desmantelado? El mundo de Sergio se expande mientras esconde palabras que nunca podrán verse. Me siento mareado por su enormidad.

 Sergioは幅広い素材をつかう。いま取り組んでいるのは、紙を素材にしている。小説だろうか、詩だろうか。あるいは新聞だろうか、辞書だろうか。文字が印刷されている。「物語」が解体され、新しい形のなかへ旅をしていく。その旅を導くのは、Sergioの指であり、手なのか、あるいはそこにあったことばなのか。
 印刷されたことばを解体するときと、解体されたことばに、ことばではたどりつけない世界を与えるときとでは、Sergioの指の動きはどんな風に違うのだろうか。紙が切り裂かれ、丸められるとき、ことば同士は、どんなふうに出合うのだろうか。
 ここにあるのは物語のなかに隠れていたもうひとつの物語なのか、それとも過去の物語を否定する新しい物語なのか。絶対に見えないことばを内に秘めて、Sergioの世界は広がる。その巨大さに、私は目眩を感じる。

 

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Estoy Loco por España(番外篇457)Obra, Joaquín Llorens

2024-12-09 22:42:30 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
Técnica ,Hierro
1.00x46x40
A.S.T

 Es voluptuosa. Tiene una sensación nostálgica que me hace querer tocarla. Entonces, de repente, recordé la última escena de "Sonezaki Shinju 曽根崎心中" (Un teatro de BUNRAKU). Un hombre intenta apuñalar a una mujer en el pecho para suicidarse. Sin embargo, al recordar en el momento en que se hacen el amor, la espada sigue alejándose del cuerpo de ella. Esta obra me acuerda del movimiento de ellos.
 ¿Por qué pienso así?
 Como he escrito muchas veces, las obras de Joaquín tienen un aire nostálgico. Aunque está hecho de hierro, tiene una suavidad que hace que parezca que se le dio forma solo con el poder de sus manos. Hay una fuerza dentro del hierro que lo obliga a tomar una determinada forma, y ​​Joaquín echa su mano a ese movimiento. La forma surge de forma natural. Y su forma irá cambiando gradualmente a partir de ahora. Tiene ese tipo de impresión "viva". Es voluptuosa porque está viva.

 艶っぽい。触りたくなるような懐かしさがある。そして、突然、私は「曽根崎心中」の最後の方のシーンを思い出した。心中するために、男が女の胸を刺そうとする。しかし、愛し合ったときのことを思い、刀が何度も体から逸れてしまう。そのときの二人の動きのようだ。
 なぜ、そんなことを思うのか。
 何度も書いてしまうが、ホアキンの作品には、手の懐かしさがある。鉄だけれど、手の力だけで形を生み出したようなやわらかさがある。鉄のなかに、ある形になろうとする力があって、その運動にホアキンは手を添えている。形は自然に生まれる。そして、その形は、これから少しずつ変わっていく。そういう「生きている」印象がある。生きているから、艶っぽいのである。

 

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やっぱり、脅迫か。

2024-12-09 17:07:22 | 考える日記
 Facebookのあるサイトで、私のコメントに対して「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言ったビジターがいる。その発言を含め、そのビジターの発言に対し、私が意見を書くと、最初は反論があったが、突然「私のことば(ビジターのことば)を無断転写するのは著作権違反だ、削除しろ」というようなことを言ってきた。私は、ビジターのことばを引用するとき、出典を明記している。どうして著作権違反になりますか?というようなことを問いかけた。
 これに対して、こう書いている。
 
出典を明記しようが何だろうが、著作権者の僕がダメだと言ってるんだからダメです。そんなこともわからないの??
ならば削除の意思ないわけね?ならばすぐに強行手段に出ます。
…全く左翼はどこまでも人間のクズだわ。
 
 手元に「民法」の本がないので確認できないが、「引用するとき、著作権者の許諾を得ること」という条項はあったかなあ。よく覚えていない。また、インターネット上の対話(やりとり)は、「著作権上の著作物」なのかなあ。これも、よく覚えていない。
 それにしても、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」というような、私の人生を否定するような批判をインターネット上で書き、それを削除もしないまま、私の反論だけを削除しろと要求する。さらに、私のことを「左翼」と呼び、「人間のクズ」と断定している。これは、あまりにも乱暴な行為ではないだろうか。
 もし、こうしたことが許されるなら、インターネットの世界は、このビジターのような人間が横行する世界になるだろう。
 不思議なのは、実際に会ったこともない人間に対して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかった」「左翼」「人間のクズ」と断定して躊躇わないビジターが、一方で「人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」と書いている。このビジターの知っている「人生の喜び」とは何なのだろう。
 ビジターの言う「強行手段」が何を指しているのか。警察への告発か。訴訟か。プロバイダーに訴えて、私の投稿を削除することか、私のアカウントを停止させ、私の活動を強制的に封じることか。
 これは、とんでもない暴力だ。
 私はインターネット(facebookやブログ)をつかって、「仕事」を含め、いろいろな活動をしているので、つかえないととても困る。私からの連絡がとだえた、あるいは私の書いたものが削除されたりしたら、問題のビジター(名前は書きませんが、これまでの文章を読んでいるひとには想像できると思います)が「著作権」をたてに、私の活動を妨害したと判断してください。あらかじめお知らせしておきます。
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表現の自由と著作権

2024-12-09 10:19:17 | 考える日記

 Facebookのあるサイトで、AIの登場と、労働、社会的人間の関係が話題になった。そのとき、私は「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」というようなことを書いた。
 私のコメントに、あるビジターが「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」とコメントを寄せてきた。私は、そのビジターの名前には見覚えがなかった。知り合いではない。接触したことはもちろんないし、知人をとおしてその人のことを聞いたこともない。私は、そのひとを知らない。だから、私は、そのひとは私のことを知らないだろうと考えた。何を根拠に、そのビジターは「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言っているのか、わからなかった。もしそのビジターが私とは何の接触もないひとならば、なぜそんな批判をされなければならないのか、理由もわからなかった。(いまでも、わからない。)
 たしかに私は貧乏な家で生まれ育ったが、それだからといって「豊かではない」と見知らぬひとに、インターネット上で言われる必然性もない。だから、どうしてそういう批判をするのか、私の人生に対してなぜそう判断するのかを問いながら、同時に、そのビジターが書いていることに対する疑問も書いた。
 すると突然、「無断転載だ。著作権侵害だ。削除しろ」という要求をしてきた。
 だれが何を言うか(書くか)は、表現の自由の問題。そのビジターは、「表現の自由」の権利を行使して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と批判している。このことに対して、私が質問すると(付随反論を含む)、私のコメントを引用するな。著作権侵害だ」と言う。
 この論理は、おかしくないか。
 そのビジターには「表現の自由」と「著作権保護」の権利がある。しかし、私には質問する、反論する「表現の自由」はない、ということにならないか。一方的に、自分の「表現の自由」を主張し、他人にその権利を認めないのは「独裁」というものではないのか。
 もし気に食わない意見(批評)に対して、それを封じるために「著作権侵害」を主張するのだとすれば、それは「表現の自由」への圧力をかけるというものだろう。だから「独裁」と私は言うのである。

 著作権についていえば、私は、他人の文章(ことば)を引用するときは、必ず「出典」を明記している。(今回の文章には、それを省略しているが、それはこの文章を読んでいるひとには自明のことであるからだ。何回か、書いてきた文章のつづきだからだ。)
 著作権法にも、たしか「引用」にあたっては、それが引用であることがわかるようにすべきであるという規定があったと思う。それは逆に言えば、引用であることを明記していれば、著作権法には違反しないということである。もちろん、ただ引用するだけでは、盗作・剽窃になる。引用に対する意見が必要である。引用は従、私の主張が主になるように書いている。これも法に従っている。

 著作権の問題に関しては、私は、かつて次のようなことを体験したことがある。
 ある掲示板(「表現の自由」に関することがテーマだった)の、あるグループから崇拝されているひとの意見について批判した。すると、そのグループのメンバーが「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」とメールに書いてきた。これは、脅迫である。それ以外にも、会社の人事部に電話をかけてきて、私が書いてもいないことを、「こんなことを書いている」と主張し、処分を訴えた。電話については、私は記録を持っていないが、メールは私宛に来たので、持っている。そこでそのメール「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」を公開し、表現の自由を標榜するひとが、表現を殺人によって封じようとしている。脅迫ではないか、と書いた。
 すると、なんと「メール(私信)を公開するのは著作権の侵害だ」と主張し始めた。
 「脅迫状」を公開するのは、私の自由を守るため。私は「証拠」もなしに批判しているわけではないと主張しているわけではないことを明らかにするためだ。

 私は、私の考えに対する批判は、どれもすべて受け止める。反論するときもあれば、しないときもある。求められても反論しないときもある。反論しない自由というものもある。すべてのひとと対話している時間がないからでもある。

 私は、あらためて書いておきたい。
 「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書くとき、そのビジターは何を根拠に、そう批判しているのか。だいたい、だれかがだれかかの人生を「豊か」かどうか判断する権利を持っているか。「人生」が「豊か」かどうかを判断するのは、そのひとの権利である。その権利と自由を抜きにしては、「社会」は存在しない。それぞれが、それぞれの「豊かさ」を求めて生きる権利を持っている。

 

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働く、ということ(3)

2024-12-07 22:22:48 | 考える日記

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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

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働く、ということ(1)で書いた「あるビジター」から、Facebookに反論が届いた(同じ文章をFacebookに書いているため)。そこに書かれている批判について、答えておきたい。前回は省略した部分があるが、今回は省略なしで書いておく。途中、行空きや*マークがあるが、これは読みやすくするためのものであって、本文には存在しない。また、だれのことばなのかわかりやすくするために、文章の冒頭に(あるビジター)(谷内)の表記を付け加えた。

(あるビジター)>「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして>来なかったからですよ」は私への批判だと言っている
。(この部分は、谷内の文章の引用)
それはあなた自身が「働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる」と書いてるからですよ。
これは「お金を受け取る仕事をやっている時は感じていた『人間関係の充実、生きがい』のようなものが、年金生活になってからは失われてしまった」…ということですよね?
そのことに対する僕の意見が「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」です。あなたが自分でそう言ったので、それに対してコメントしたのです。

(谷内)私は「お金を受け取る仕事をやっている時は」とは書いていない。単純に「働いているときは」と書いている。金は問題にしていない。金をもらう仕事なら、いまでも細々と仕事はしている。しかし、それは「働いている」という実感からは遠い。なぜかといえば、その仕事をとおして触れ合う人間が少ない。私の「仕事」が、その触れ合った人間をとおして、どこまで広がっていくものかわかりかねる。会社で働いていたときは、会社内でもひととの接触があったし、私が関係した「商品」がどういう形で社会のなかを動いていくか、その結果、何が起きるか(何が起きているか)は、かなりの強度で実感できた」という意味です。
 あるビジターは意見として「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書いているけれど、私が会社の仕事以外にどんな活動をしてきたか知っているようなので、もっと具体的に指摘してほしい。私は、少なくとも、会社の仕事以外でもいろいろなひとと接し、いろいろな活動をしています。私の活動の、どの部分が、「人生を豊かにする」ことに反しているのですか? 具体的に教えてください。

(あるビジター)すると今度は「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる…云々」と、前の発言とはほとんど逆のことを言い出した。なので「???」となってしまった。発言ごとにスタンスが全く変わっているのです。前の発言では「お金を受け取る仕事があってこそ、人間関係や生きがいの充実がある。年金生活になってそれが薄れた」と読めるスタンスだったのに、次の発言では「金を受け取るか、受け取らないかの問題ではない」と言ってる。

(谷内)あるビジターが私の書いていることがわからなくなったのは、あるビジターが、私が「働いているときは」と書いているのに、その文章を「お金を受け取る仕事をやっている時は」と読み替えたからでしょう。「年金生活になって」というのは、「収入が減って」という意味ではなく、「働く機会が減って」という意味です。私は定期的ではないけれど、少しは仕事をして、ひととの関係を保っています。社会とのつながりを持っています。年金生活になったからといって、まったく仕事をしていないわけではありません。

(あるビジター)なので、僕としては谷内さんが結局何をいいたいのかよくわからなくなった。なので「???」となり、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ、というなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。AIに仕事を奪われることを恐れる必要もありません」と書きました。

(谷内)私は、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ」とも言っていません。「仕事」というのは、報酬の有無の問題ではない。それを言い換えて、「働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う」と書いています。働かないことには、社会と私の関係を具体的に考え続けるのがむずかしい。私は働くということをとおして人間関係を築いてきた。社会がどうなっているかを考えてきた。社会がどうなっているかを考えるとき、私は、自分のしている仕事をとおして考えてきた、という意味です。もちろん仕事をしなくても考えることはできる。しかし、それは「空論」になってしまう。具体的に考えるには、仕事をとおしてでないと、「空論」になるというのが私の基本的な考えです。

(あるビジター)その後の付け加えられているコメントを読むと、結局「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる」の方があなたの本音なんですね?
ならば繰返しになりますが、僕との意見の相違は最初からないですよ。僕が言っているのは「AIによって人間が奴隷労働から解放されることは歓迎すべきこと。人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」ということです。だからAIが発達するのは基本的に理想社会に近づくことだ、と思います。

(谷内)私はあるビジターのようには考えません。「金が少なくても有意義に生きることはできる」は、金が少なくても、仕事をしていれば(働いていれば)有意義に生きることはできる」という意味です。そして、このときの「有意義」とは、「意味がある」、つまり「具体的に考えることができる」(具体的に社会を考えるきっかけ(問題点)を仕事をとおして(働くことをとおして)つかみ取ることができるという意味です。ことばが具体的なものを土台にして動くように、人間の考えは、仕事をとおして具体的に動きます。「働く」というのは「奴隷労働」とは違います。また、「奴隷」にしろ、彼らは「考える」ことをしているでしょう。そして、その「考え」のなかには、奴隷として働かされているからこそ到達する「考え」もあるでしょう。たとえば、「奴隷として働かされるのは不本意である。私を奴隷としてこきつかうひとを許すことができない」などは、そういうものでしょう。「奴隷制度反対」というひとつの考えでも、奴隷として働かされたひとの考えと、奴隷として働かされたことのない人では、「意味の大きさ」が違うでしょう。
 「人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」というあるビジターの意見のなかの「生きがい」とは何なのか。それが問題です。「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」とあるビジターは書くけれど、それは働いていても感じることができます。私はそう信じています。私の両親は、貧しい農夫だった。「働いてお金を稼ぐ」ことは、ほとんどできないまま、病気になるまで田畑で働き続け、日雇い労働もしていた。私は高校進学も諦めようかと思うくらいに、私の家は貧しかった。私の兄、姉はみんな中学を卒業すると就職した。そういう貧しいくらいだった。けれど、私は、両親が毎日懸命に働いていたからこそ、「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」を感じていたと信じている。山の畑で汗を拭きながら、「いい風だなあ」と言ったり、野良仕事の帰りに見かけた花を根っこから引き抜いて持ってきて軒下に植えたりした両親が「愛する人と生きる喜び」を知らなかったとは考えることができない。「いっしょに働いた。いっしょに休もう」と呼びかけるときの「喜び」を知らなかったと考えることはできない。一生懸命働いたから、疲れた、相手も疲れているに違いないと思い、声を掛け合うということを思いつかなかったとは、考えることはできない。

(あるビジター)僕の「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたたった1行の文章を拡大解釈して「金子は金の亡者」と言わんばかりの批判を展開されているが、全く的外れです。「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたのは、Hayaseさんやあなたがそういう趣旨の発言をしていた(AIによって仕事が奪われるのは脅威…云々)ので、それに合わせたまで。そうしたら今度は真逆の「金を受け取る、受け取らないの問題じゃない」といい出したのでわけがわからなくなった。


*******************************************
(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

(谷内)「AIによって仕事が奪われるのは脅威」というのは、金を稼ぐ機会を奪われる脅威という意味ではないでしょう。仕事を奪われるというのは、働くこと(労働すること)をとおして、社会とのつながり、ひととのつながりをもつ機会を奪われる、仕事をとおして考える機会を奪われるということです。そのことに対して私は脅威を感じているし、HAYASEさんも、そう書いていると私は読みました。
 また私はあるビジターのことを「金の亡者」とは書いてません。
 私が疑問に思うのは、あるビジターの仕事とボランティアの定義「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」は、はたしてボランティア活動をしているひとの考えと同じでしょうか。ボランティア活動をしているひとも「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と考えているでしょうか。私には、とてもそんなふうには考えられない。彼らは、「この仕事は私にしかできない」という考えでボランティア活動をしているのではないでしょうか。自分で「仕事」をつくりだして、その「仕事」をとおして社会と、ひととつながりをつくっているのではないでしょうか。そうすることが「ひとになる」ことだと考えて行動しているのではないでしょうか。
 自分で「仕事」をつくりだし、それをとおして社会とつながりをつくっていけるひとを私は尊敬しています。

(あるビジター)お分かりいただけましたか?反論する前に、相手の言ってることをちゃんと理解しましょう。

(谷内)わかったのは、金子さんが私の文章を読むとき、あるいはHAYASEさんの文章を読んだとき、そこに「書かれていないことば」を金子さんが補って読んでいるということだけです。

 

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働く、ということ(2)

2024-12-07 14:29:41 | 考える日記

 AIが人間にかわって労働するとき、どんな影響が出るか。「働く」ということの問題には、どうしても個人的体験、個人的環境が影響してくるから、見落としてしまうことも多い。
 きのう書いた文章について知人と話していたとき、いま低賃金で働いている障害者らへの影響はどうなるか、ということが話題になった。私が働いていた職場、いまときどき働いている職場では障害者の同僚と接する機会がなかったので気づかなかったが、知人が指摘したように、AIロボットの進出によって真っ先に影響を受けるのは、彼らだろう。
 たとえばホテルのベッドメーキング、トイレの掃除、あるいはレストランなどでの給仕。(給仕のことは、すでにきのうファミリーレストランについて書いたときに触れた。)恵まれているとは言えない賃金で働いている人たちこそ、真っ先に「労働」を奪われるだろう。(ベッドメーキングやトイレ掃除のAIロボットは、いまの技術からすればすぐにでもつくることができるだろう。)そしてそれは、単に「賃金」を受け取ることができない(金を稼げない)ということを超える問題を含んでいる。
 障害者がさまざまな場所で働いているのは、金を稼ぐということだけではなく、「社会参加」という意味を持っている。働くことをとおして社会とつながる。そして、そういうひとたちの社会参加を促すためにもバリアフリーが推進されてきたはずだ。社会には、いろいろなひとがいる。様々なひとと共存できる社会が理想の社会であるはずだ。その「共存社会」の広がりを拒むもの、後退させるものとしてAIロボットは動き始めるかもしれない。
 いまでも政治家の一部には「生産性優先」と考えるひとがいる。AI導入も「生産性優先」(合理化優先)の一環かもしれない。それを推進するものかもしれない。労働(特に単純な肉体労働)からの解放は、一見、人間に自由な時間を与えるように見える。しかし、それは社会に参加し、ともに生きる機会を奪うことになるかもしれない。
 自分が生きているだけではなく、いっしょにいろいろなひとと生きているという感覚(意識)を奪うことになるかもしれない。そして、ここから「新しい差別」がはじまるかもしれない。「生産性向上」に関与できない人間は必要がない(邪魔だ)という意見が出てくるかもしれない。実際、いまでも何人かの政治家は、そういう発言をしている。それに拍車がかかるだろう。

 影響は、外国人にも及ぶだろう。いま多くのコンビニエンスストアでは外国人が働いている。レジが無人化すれば、彼らは仕事を失う。懸命に学んだ日本語を活用し、日本の社会で生きている彼らは、しだいしだいに日本の社会から締め出されていく。低賃金で雇い、AIの導入(AIとまでいかずとも、ネットワーク網の構築)で、そういうひとたちを解雇する。より「合理化」(生産性の向上)のための、「使い捨て」である。
 企業が(資本家が)、そうした「使い捨て」を押し進めるとき、その感覚は市民のあいだにも広がっていくだろう。
 一方で、多様な文化の共存といいながら、他方で多様性を切り捨てるような動きを推進する。それはAIロボットによってさらに推進されるだろう。

 何のために働くのか。もちろん金を稼ぎ、その金をもとに生活するためである。金がなければ何もできないのが現実である。しかし、それ以外に、働くことをとおして社会の仕組みを知る。いろいろなひとと出合い、いっしょに生きるためにはどうすべきかを考える。その視点が欠落しては、働いたことにならないのではないか。
 「働く」という行動を、「社会参加」という視点からとらえ直し続けることが大事だと思う。「社会参加」の可能性を、どうやって広げていくか。この視点を踏み外すと、とても生きにくい世界になると思う。

 

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働く、ということ

2024-12-06 13:08:24 | 考える日記

(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

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 Face bookの知人、Hayaseさん(https://www.facebook.com/akira.hayase.9)が、こんなことを書いていた。

AIが人間の頭脳を上回り、AIロボットが人間の身体を上回り、人間の働く場所が失われた時に、果たして労働以外に人間の社会的存在理由を見出し得るのであろうか。

 これは重大な問題提起だと思う。ビジターとの対話のなかで、

人間の社会性を根拠づけ得るものが、労働以外にあり得るのでしょうか。それが問題。

 とも補足していた。私は、Hayaseさんの考え方に賛成である。人間を根拠づけるものに、労働(働くこと)はとても重要である。
 これに対し、「あるビジター」が、こう反論していた。

労働以外でも人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び…まさに「生きてるだけで丸儲け」って感じですw なんでそんなに起こってもいないことを想像して、悪い方に悪い方に考えるのか、僕には理解できませんが、「考えるな、感じろ!」と言いたいですね。

 私は、彼の考え方には同意できず、こう書いた。

働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う。

 以後、こういうやりとりがつづいた。(改行は省略)

あるビジター「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ。仕事中毒で、それ以外が空っぽ。よく「濡れ落ち葉」などと揶揄されたりしますが、仕事を引退したら妻の後をついて回るか、テレビを見るぐらいしかすることがない。確かにそうなったらあわれかもしれません。その点は一般に女性の方が逞しいですね。そういう個人の体験を「誰もがそうであるはずだ」と一般化するのは、あまりにも視野が狭すぎるのではありませんか?」
谷内「そうですか? 私のことをよくご存知なんですね。私は妻のあとをついて回ってもいませんし、テレビも見ません。「濡れ落ち葉」と言われたこともありません。いろいろなことをしていますが、仕事をしていたときとは印象が違います。出会う人との、接触の形が違います。」
あるビジター「ああ、失礼。前の文章は「仕事中毒で…」以降は谷内さんのことを言ってるんじゃなくて、一般論です。「このようなパターンに陥ってる人を『濡れ落ち葉』などといいますよね」と言うことで、あなたがそうだと言ってるんじゃありません。あなたのことを言ってるのは「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」までです。だいたい、あなたに会った事もないのにそんなことまでわかるはずもないですよね(^^;; ですが誤解されても仕方のない書き方だったと思います。その点は失礼しました。「お金のやり取りがある仕事じゃなくても、人生を豊かにする方法なんていくらでもある」と言う僕の基本的な意見は変わりません。この世界からお金というものが消滅したらどんなにいいだろう、とすら思いますよ。
参考:https://www.youtube.com/watch?v=yq4_FgHbu4U」
谷内「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。
金が少なくても有意義に生きることはできると思いますが、仕事をしない(仕事がない、働かない)で有意義に生きることができるかどうか、私は疑問に思っています。」
あるビジター「???一般に「働いてお金をもらうのが仕事」ですよね?「お金を受け取らずに働く」のは仕事ではなく奉仕活動、ボランティア、または趣味ですよね?もしかして「ボランティア、趣味の活動」も含めて「仕事」と言ってます?「仕事」の定義が違うんじゃ、話が噛みあうわけないよw 僕は「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という定義で話をしています。そうでなく「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事」だというなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。僕が言ったことに対して「疑問に思う」必要もないでしょう? また「AIに仕事を奪われる」ことを恐れる必要もありません。報酬がなくてもいいなら、たとえ効率が悪くても、AIがやったほうが出来が良くても、自分がやりたいことをなんでも勝手にやれば、それが生きがいになる。何か問題がありますか? 考えれば考えるほど、「AIが普及すればするほど理想社会に近づく」としか思えませんが。「誰もやりたがらないけど、誰かがやらなければならない仕事」はAIやロボットに任せればいいですし。嘆く必要などどこにもないでしょう?」

 「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」は私への批判だと言っている。何を知っていて、私が仕事以外のことをしてこなかったと言っているのか、私はやはり知ることはできないが。こういう批判的発言を根拠も示さず言ってしまうのは、人間観の違いといえば違いですむのだけれど……。
 私への批判は別にして(特に反論したいとも思わないけれど)、私は、あるビジターの発言、ボランティアについてふれた部分は、活動をしている人に対してたいへん失礼だと思う。ボランティア活動をするということと、そのひとが日常どういう仕事をしているか、どんなふうにして仕事をとおして「ひと」をつくっているかということに対して、具体的に何も触れずに書いているのは、とても失礼だと思う。そういうことについて書いておきたい。
 最初に書いたように、あるビジターは「『お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない』という定義で話をしています」とことわっているが、Hayaseさんはそうした考え方で問題を提起したのではない。だから、かみ合うはずがないのだけれど、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではな」という言い方に、私は、人間として許せないものを感じる。金を得る「仕事」であろうが、無給の「ボラティア」であろうが、それは「ひと」の「働き」である。「ひと」は「肉体」と「時間」をつかっている。どうつかっているか、それに目を向けないといけない。
 ひとは働く(労働する)。その対価として金を手に入れるかどうか(その額の大小)よりも考えなければならないことがある。働くとき、それがどんな仕事であれ、ひとは「もの」に向き合う。あるいは「ひと」に向き合う。そして、その「向き方」をととのえる。自分の「生き方」をととのえる、ということである。自分の生き方をととのえることを、簡単に私は「思想をととのえる」(思想をつくる/人間をつくる)と言いなおしている。
 ボランティア活動をしているひとは、「人間をつくる」ことを実践してきたひとであり、活動をとうしてさらにその「人間を成長させている」ひとである。もちろんボランティア活動をしているひとは、「私は私を成長させるために活動している」とは言わない。それは、すでに「ひと」ができている(完成している)からである。ひとは、だれでも困っているひとに出会ったら(その存在を知ったら)、そのひとのために自分のできることをするというのが、私には、当たり前のことであってほしいと思っている。その当たり前のことを、当たり前のこととも言わずに実践しているひとに対し、私は感謝する以外に何もできない。
 私は、たとえば、水害にあったひとたちのためにどんな活動ができるか。何も知らない。私の肉体の動かし方を知らない。それは、私が、これまで仕事をとおして学んできたものと、災害復旧のために何をすべきかということを結びつけることができないということである。何もできない、だから寄り添って被害者の声に耳を傾け、「私はあなたのそばにいます」ということさえ、実は、私にはできるかどうかわからない。私は、そんなふうに見知らぬひとに「寄り添う」ということを仕事で身につけてこなかった。仕事以外でも、そういうことのために時間を割いてこなかった。簡単に言えば、私はボランティア活動をしているひとのように、「ひと」にはなっていないのである。私は、自然に、そういう振る舞いができる人間ではない。ボランティア活動をしているひとより、はるかに劣った人間である。
 「ひと」になるための方法はひとつではない。そして「ひと」の形もいろいろあるだろう。それは「金を稼ぐ」こととは、基本的に別問題である。
 東日本大震災のとき、たとえば山本リンダが、慰問に行った。彼女は歌を歌う。「狙い撃ち」のリクエストが来た。「えっ、ここでこんな歌を歌っていいのか」。彼女は悩んだ。けれどみんなに求められて歌った。それがひとを元気づけた。そこには、山本リンダの「ひと」が実践されている。歌う仕事、歌をとおしてひとと触れ合う。長い間つちかった「ひととの向き合い方」。学んできたもの(彼女の肉体になっている思想)を、そのまま実践し、ほんとうに「ひと」になっている。仕事とは、そんなふうにして、「ひと」をつくるのである。それぞれの人間が「ひと」になり、そうして「ひと」に出合う。そのとき、「ひと」と「ひと」のあいだには、「もの(山本リンダの場合歌)」があり、その「もの」だけではなく「ひと」との接触の仕方がある。
 ボランティアとは外れるが、山本リンダには、もうひとつ忘れられないことがある。「どうにも止まらない」がヒットしたとき、NHKはへそだしルックでは出演させなかった。しかし、生放送の紅白歌合戦のとき、彼女はへそだしルックで出場し歌った。生放送だから禁止している暇がない。それを承知で、彼女は、彼女のへそだしルックと歌を応援してくれたファンに応えた。このNHKへの反逆には、彼女の「思想」が実践されている。彼女を支えてくれたのはNHKではなくファンだという思いがある。「仕事」を「思想」を鍛えるのである。
 これは、どんな「仕事」にもある。そして、その「仕事」が様々であればあるほど、「社会(ひととのつながり)」はしなやかで、生きやすいものになるだろう。複数の「思想」が共存する土台は、複数の仕事にこそある。
 AIの「仕事」への進出。私は、具体的にいろいろ知っているわけではないが、たとえばファミリーレストランへ行くと、ロボットが注文した料理を運んでくる。いや、店に入ったときから、番号(席)を指定され、料理を注文し、支払うときも、かつてのように「生きている人間」に出合うことはほとんどない。私は、そのとき、ああ、こんなふうにして私は誰かと接することを忘れていくのか、忘れさせられるのかと感じる。「ありがとう」というとき、あるいは「お願いします」というとき、相手の目を見る。そういう肉体の動かし方を忘れさせられるのかと思う。それは、それまでウェイターとして、あるいはレジの担当者として働いていたひとも同じだろう。仕事をとおして身につけた何か、仕事をとおして何かを身につけるということができなくなる。そんなことを知らなくても「ひと」としての「感性」の鍛え方はあるから、人生の楽しみ方もあるというかもしれないが、私はそういうことは信じられない。自分の肉体をとおして身につけた何かをとおしてしか、「ひと」に接することはできない。
 自然を見ても、ひとがつくった芸術を見ても、そのときの「見方」には、ひとが経験してきたことが含まれる。自分が経験しなくても、他人が経験してきた「仕事」の向き合い方も、そこに反映される。
 谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひはつ作ってください」のなかに、親子で野菜を作っているひとが登場する。息子は「父は仕事が早いが雑だ、私は遅いがていねいだ。それでしょっちゅうけんかをする」ということばがある。同じ野菜をつくるにしても、肉体の動かし方が違う。野菜への向き合い方が違う。そうした違いが、明確に意識できないけれど、野菜ひとつ買うときの私の「態度」にも反映される。こっちの方が形がいい。これは形が不格好だが、色が充実している。どちらを選ぶにしても、そこには、それをつくったひとがいて、私は野菜を選ぶだけではなく、その「見えないひと(会ったことのないひと)」を選び、そういうひとがもっと増える社会を無意識に望んでいる。どんな「感性」も「仕事」をとおしてつくられる。
 もちろん、それは「金の儲け方(どれだけ儲けるか)」にも反映されるかもしれない。しかしAIの問題は、「金の儲け方」ではなく「ひとの働き方」と、労働の変化によって、ひとのつくられ方(ひとの作り方)の違いでもある。
 こういう問題を語るときに、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という「基準」を持ち出すのは、持ち出されたボランティアに対して、たいへん非礼なことをしていると私は感じる。「お金」以外の基準で、ボランティア活動をするひとたちは働いている。「金を稼ぐ労働」ではなく「ひととしての仕事(はたらき)」をしている。いったい「お金をもらう仕事」というとき、あるビジターは、どんな「仕事」を想定し、その「仕事」の意味を何を基準にして区別しているのだろうか。
 そのことが、あるビジターのことばの背後に隠れていると思う。

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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

 

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