詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アメリカ的思考(2)

2025-02-06 23:18:58 | 考える日記

 トランプの「ガザをアメリカが所有する」発言は、いままで私が見落としていたことを教えてくれた。きのうは、アメリカが台湾をすでに「所有済み」と思っていることに気づいたと書いたのだが、きょうは、その続編。
 アメリカ(その一州である日本)の主張のひとつに「開かれた太平洋・インド洋」がある。これはすべての国に対して「開かれた」ということではなく、むしろ「中国が進出してこない太平洋・インド洋」であり、別のことばで言えば「中国を締め出した太平洋・インド洋」なのだが。
 中国(台湾を含む)は太平洋(東シナ海、南シナ海)に面しているから、中国を台湾へ進出させないという論理の是非は別にすれば、「戦略」としては「締め出す」ということは、確かにあり得る。(それに賛成というのではない。)
 しかし、インド洋は? 接していない。なぜ、中国の陸地が接していないインド洋を太平洋と結びつけて問題にしなければならないのか。インド洋から中国を締め出そうとするのはなぜなのか。
 これはアメリカが、インド洋は太平洋とつながっており、大西洋を横断し、北アメリカ大陸を横断し、さらに太平洋も横断して「領土」を広げたアメリカが、さらに西へ向かって「領土」を広げるための「戦略」の一環なのだ。
 インド洋はインドに面しているが、同時にアフリカにも面している。
 アメリカが目を向けているのは、アフリカの東部海岸である。
 アメリカは、アフリカを大西洋側(西側)からとインド洋側(太平洋側、というか東側)の両方から挟み打ちの形で「所有(侵略)」しようとしているのだ。
 その戦略を邪魔させないために、中国をインド洋から締め出そうとしている。そして、そのために日本を利用しようともしている。
 「台湾有事」を演出し、中国は危険な国だと宣伝し、中国が台湾問題に集中している間に、アフリカを「所有」しようとしている。「台湾有事」は、いわば「誘導作戦」というか「おとり」なのであり、そこは日本に任せておけ、ということなのだろう。

 アフリカのことは、私は勉強したことがないので知らないのだが、アメリカは中南米において、いわゆる冷戦時代、中南米の社会主義の動きをたたきつぶすために「独裁政権」を利用した。チリの詩人・ネルーダも暗殺されている。CIAやアメリカ政府が関与していたことは、多くのひとが語っている。
 アフリカの諸国で、反アメリカ主義が広がれば、それを東側からも接近していくことで弾圧したい、とアメリカは考えているのだろう。西側からの接近を阻む国はないだろう。「開かれた大西洋」があるだけだ。中国の海軍がアフリカ西岸(大西洋)へたどりつくにはパナマ運河を通らないといけない。(もちろん太平洋を南下してマゼラン海峡を通る方法もあるが……。) トランプが、パナマ運河を「所有」する狙いは、だから、中国が太平洋を横断したあと、パナマ運河を通って、大西洋を横断し、アフリカ西岸へ向かうことを阻止するという狙いもあるのだ。
 中国をインド洋に進出させない、中国を大西洋に進出させない。そのために、アメリカは、ちょっと私などには想像もできない「構想」を着々と進めているのだ。

 アメリカが「仮想敵国」とみなしている国には、社会主義(共産主義)の国と同時に、イスラム教の国がある。アフリカにも北部を中心に、イスラム教徒の多い国が広がっている。
 北の方からは、NATOを誘導できるだろう。さらには、ガザを「所有」したあとは、アラブ諸国の目をガザに集中させておいて、手薄(?)になったアフリカに手を着けるというわけだ。ガザは、いわば「台湾有事」みたいなものである。ガザを「所有」したとはいっても、実際に対処するのはイスラエル。「台湾有事」に対処するのが日本であるように。

 これはあまりにも「荒唐無稽」な「戦略」に見えるかもしれない。
 しかし、荒唐無稽と思うのは、私が日本人の感覚を捨てきれないからだ。アメリカ人の「強欲主義」の視点からすれば、絶対に、そうなる。
 アメリカ人は、中国がアメリカと同様に強欲であり、太平洋を横断し、その先の大西洋も横断し、東へ「触手」を伸ばしていると感じるのだろう。西への「触手」は、「陸路」を西へ進んでいると感じているのだろう。中国人=アメリカ人、という発想だ。こういう発想は、アメリカ人にしかできないと思う。
 トランプは「馬鹿」だと私は考えているが、「馬鹿」だから、ふつうは隠しておくようなことを平気で明るみに出す。グリーンランド、パナマ運河、ガザを「所有」し、インド洋を「所有」したら、アメリカは「東西南北」の全方向から、中国、ロシア、イスラム教の諸国を包囲し、アメリカの「領土」を拡大し続けるのである。

 「主権」「独立」という概念をさらにさかのぼって、「人間(個人)とは何か」というところから、アメリカの(トランプの)「強欲主義」に立ち向かう思想(哲学)をつくりなおさなければいけないのだろう。

 

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アメリカ的思考

2025-02-05 23:00:29 | 考える日記

 読売新聞2025年2月5日の読売新聞夕刊(西部版・4版)を見て、びっくりした。一面の見出し。

米、ガザ所有構想/トランプ氏「住民は移住」主張

 見出しだけで十分なので、記事は引用しない。ネタニヤフと会談した後の記者会見で言ったという。グリーンランド、パナマ運河につづく、信じられないような暴言である。世界はトランプの所有物ではない。しかし、あまりにもアメリカ的すぎる強欲主義の主張である。
 で、ふいに思い浮かんだのが、つぎはきっと「台湾を所有する」と言うだろうということである。
 すでに、日本、韓国、フィリピンは、トランプにとって(そして、アメリカにとって)、アメリカの「所有物」なのだろう。(自民党政権は、それを完全に受け入れている。核兵器で多くの市民が虐殺されたにもかかわらず、そのことに異議をとなえないばかりか、アメリカの核の傘に入っている。そして、安全だと信じている。アメリカ大陸のアメリカ人が核があるから安全と思い込んでいるように。)
 そして、ここから思うのだが、「台湾有事」について、私は、台湾が独立し、アメリカが基地をつくれば、それは中国にとって、アメリカにおける「キューバ」のような存在になるだろうと書いたことがある。中国が「台湾独立」に反対するのは、何よりも台湾にアメリカ軍の基地ができるからだ。
 でも、この私の認識は、ある意味で間違っていた。今回のトランプの発言で、ほんとうにそう思った。
 先に書いたように、アメリカはフィリピン、台湾、日本、韓国という「防衛ライン」を「所有」していると思っている。フィリピン、台湾、日本、韓国をアメリカの一部と思っている。だから、台湾がもし中国に統合されてしまえば、それはアメリカの「防衛ライン」を破り、そのなかに侵入してきたことになる。つまり、中国の台湾統一は、アメリカにとっての、第二の「キューバ危機」なのである。もっとわかりやすくいえば、それは「台湾有事」ではなく「アメリカ有事(アメリカの防衛ライン有事)」なのである。
 中国人、あるいは台湾に住むひとの立場ではなく、「アメリカ人」になって(トランプになって)考えてみる必要があったのだ。私は、アメリカの政策を批判するだけで、アメリカ人になって考えたことがなかったので、見落としていた。台湾を、まさかアメリカの所有物であり、中国に奪われていると考えているとは思ってもみなかった。アメリカにしてみれば、第二次対戦後の台湾はアメリカの所有物なのに、それを中国に奪われてしまった、取り返さなければならない、ということなのだろう。
 フィリピンを例に考えてみればいい。フィリピンは、アメリカが「所有」する前は、スペインが植民地として「所有」していた。その後、日本が侵攻し、その日本をアメリカが追い出した。そして、「再所有」したのだ。
 第二次大戦後、アメリカがフィリピンに何をしたか。アメリカの資本がフィリピンをどれだけ食い物にしてきたかをみればいい。フィリピンをバナナをつくり、それを輸出するだけの国にし、工業などの産業を育成しなかった。(ソ連がキューバを砂糖生産の国にしたのと似ている。)真の独立には、「工業化」が必要なのだが、そのための協力などしていない。
 そこまで考えて、急に思うのだが、日本とフィリピンの関係も、アメリカの(マッカーサーの)「思想」の延長にあるのではないか。日本とフィリピンをつかって中国(共産党)を封じ込めるという思想とつながっているのではないか。マッカーサーは天皇を利用して、日本を完全に支配したが、少し手を変えて、日本とフィリピンの関係を動かしたのではないのか。フィリピンを利用したのではないか。
 日本とフィリピンは、日本がフィリピンに侵攻したにもかかわらず、良好である。(良好に見える。)人事交流は活発だし、一時期、日本の男性と結婚するフィリピン女性も多かった。あれは単に日本の労働力不足解消のひとつの方法だったのではなく、アメリカの戦略だったのではないか、という気がしてくるのである。他の国の女性でも可能性としてあり得たが、アメリカが日本とフィリピンの関係を強化するために「斡旋」をしたのではないか。
 それに類似したことだが、外国人「介護士」の採用も、まず、フィリピン人からはじまっていないか。日本・フィリピンの「友好関係」が背景にあるとはいえ、「優先」されている感じがする。それは、どこかでアメリカの戦略と重なっているからではないのか。
 日本(北海道)からフィリピンまで、アメリカは「中国封じ込め」の「防衛ライン」がほしかったのだ。そのために、日本とフィリピンの「友好」を演出したのだ。
 世界地図を開いて、日本からフィリピンまで線でつないでみればいい。台湾が含まれれば、その線の「途切れ」は非常に小さくなる。中国は太平洋へ進出できない。

 ヨーロッパから移動した「アメリカ人(になったヨーロッパ人)」は、アメリカ大陸を東から西の端まで移動し(占領し)、さらに海を超えて、ハワイをアメリカにし、そのあとさらにアジア大陸のすぐそばまでやってきた。アジア大陸を侵略しようとしている。その「拠点」として台湾が必要である。
 台湾を「イスラエル化」しようとしているといえるかもしれない。

 東から西へは、いま書いたように、太平洋を横断し、すぐ中国のそばまできている。
 西から東への侵攻は、ワルシャワ条約機構解体後、つぎつぎにNATOを拡大する形で、ウクライナまで「所有」しつつある。
 中東からも同じように、「所有」の範囲を広げることはできないか。イスラエルだけにまかせてはおけない。アメリカそのものが、イスラエルの近くに「領土」を「所有」し、それを基地にしたいということだろう。
 それは中東を飛び越し、インドを視野に入れた計画かもしれない。
 アジアには、中国、インドというふたつの大国がある。そのふたつの国の存在が、きっとアメリカには気に食わない。アメリカの思うがままに動かない。それを何とかしたい、何とか「アメリカ帝国主義」の配下におさめたいということだろう。

 トランプはアメリカの野望そのものである。

 

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Estoy Loco por España(番外篇464)Obra, Luciano González Diaz y Miguel González Díaz

2025-02-04 21:45:25 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz(izquierda) y Miguel González Díaz


 Obras de Luciano y Miguel en una exposición temática en torno a la silla.
 La obra de Luciano me parece más abstracta que la de Miguel. Probablemente esto se debe a que la parte de la estatua que corresponde a la cabeza tiene la forma de una mujer sentada en una silla. Una mujer se sienta en una silla, pensando en dónde está sentada. Me recuerdo de la frase : "pienso, luego existo".  Esta obra tiene el poder de enderezar mi mente.
 Las obras de Miguel son sensuales. El asiento está hecho de una falda de mujer. Siento que quiero sentarme en su regazo. Quiero que me mime. Sentado en su regazo, quiero acaricar sus pechos. En ese momento, podré volver a ser un niño pequeño. En esta obra veo a una madre viva teniendo un hijo por primera vez.

 椅子をテーマにした作品展の、LucianoとMiguelの作品。
 Lucianoの作品はMiguelの作品より抽象的に見える。全体の頭部にあたる部分が、椅子に座る女の姿になっているからだろう。椅子に座りながら、座っている自分のことを考えている女。「我思う、ゆえに我あり」の世界だ。私の精神をまっすぐにする力がある。
 Miguelの作品は、肉感的である。座面は女のスカート。その膝に座ってみたい気持ちになる。甘えたくなる。そのとき私は、幼いこどもに返るかもしれない。この作品のなかには、初めて子供を持った母親が生きている。

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ジェシー・アイゼンバーグ監督「リアル・ペイン 心の旅」(★★★★★)

2025-02-02 22:36:29 | 映画

ジェシー・アイゼンバーグ監督「リアル・ペイン 心の旅」(★★★★★)(2025年02月02日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督・脚本 ジェシー・アイゼンバーグ 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、キーラン・カルキン

 いまは「キネ旬」を読んでいないのでわからないが、昔なら、キネ旬のベスト1に選ばれるような映画かもしれないなあ。淡々としていながら、深みがある。「ハリーとトント」のような感じを思い出した。
 ジェシー・アイゼンバーグは、新しいタイプのウディ・アレンかもしれない。ウディ・アレンは女優のつかいかたがうまかったが、ジェシー・アイゼンバーグはどうか。ちょっと、この映画だけではわからないが、キーラン・カルキンの描き方(役どころ)が、ちょっと「おんなっぽい」。その魅力を引き出している。このときの「おんなっぽい」というのは、まあ、「わがまま」のことなんだけれど。「わがまま」を言い出すと、抑えが利かない。その描き方、演じ方、演技の引き出し方が、どこかウディ・アレンに似ている。
 「わがまま」というのは、主観の問題だから、私の感じている「わがまま」と、他人の感じている「わがまま」は違うかもしれない。女性から見れば、ウディ・アレンの方が「わがまま」かもしれないけれどね。そこは、深入りせずに、ただ「わがまま」だけれど、それを許すひとがいないと、「わがままな人格」は破綻するかもしれないというところまで、イキイキと演じさせている。これが、なかなかいい感じなのである。実際にキーラン・カルキンのような人間が友達だったら困ることがあるかもしれないけれど、ひきつけられるね。そういう要素を引き出す演出方法がいいんだろうなあ。
 ジェシー・アイゼンバーグの描き方(演じ方)と対照的なのも、非常に効果的だ。ウディ・アレンのようにでしゃばらない点で、ウディ・アレンよりも「上」をいくかもしれない。これからどんな映画をつくるのか、とても楽しみだ。
 最初に余分なことを書きすぎたかも。
 映画は、「映像の情報量」が、とても適切である。ノイズが必要な部分にはノイズを入れ、雑音を拒絶する部分では雑音を排除している。しかも、その排除の仕方がとても自然で、違和感がない。墓地のシーンは、とてもすばらしい。こんなたとえでいいのかどうかわからないが、まるである日のランチのような感じ、ランチだから目くじらを立てることもないのだけれど、あるひとのマナーが気に食わない。それについてひとりが批判する。そのあとの、雰囲気。それが作為(演出)としてあるのではなく、まるで実際に起きたことのように、そのまま放り出されている。その放り出し方の、情報量が、ほんとうにしっかりしている。
 ここをポイントにして、「観光ツアー(と呼んでしまうのに抵抗があるけれど)」が「観光ツアー」ではなくなる。観光抜きの「ツアー」になる。しかも、それは過去を訪ねるツアーになる。他人の過去ではなく、自分の過去を訪ねる。このとき「自分の過去」には、矛盾した言い方になるが「自分以外の人間」が含まれてくる。過去は消えない。過ぎ去りはしない。「いま」、自分と共にある。
 ユダヤ人収容所を訪ねる部分はクライマックスなのだが、そのクライマックスよりも、私はその後の祖母の家を訪ねるシーンに非常に感心した。収容所を見たあと、ことばをうしなう。沈黙が人間を支配する、というのは、傲慢な言い方になるかもしれないが、私にも想像できる。きっとことばを失うだろう。何も言えず、いまみてきた沈黙の激しい叫びにつつまれてしまうだろ。沈黙が大きすぎて、声を出しても、それは沈黙に消されてしまうだろうということは、想像できる。
 しかし、その後。
 祖母の住んでいた家を訪ねる。そこにはポーランド人が住んでいる。ここではじめてポーランド人との接触が描かれるのだが、その接触の近づき方、そして離れ方が、いやあ、びっくりする。そうするしかないのだが、そうするしかないその姿の中に、「痛み」と同時に「安らぎ」がある。生きていくということは、「痛み」と「安らぎ」を共存させることである。そのために、どんな工夫をするか。どんな行動を一歩とするか。
 ちょっと、涙が出ますね。
 号泣というのではない。こらえきれないというのではない。つまり、涙をこらえなければ、というような意識を刺戟しない。ふっと、涙がこぼれ、あ、私は泣いてしまったと気づく感じ。
 いいなあ、この映画。
 映画を見た知人の話では、デミー・ムーア主演の「サブスタンス」が非常にすばらしいらしいけれど、私は、その予告編すら見ていない。そうした作品を見ない内にいうのは変だけれど、「リアル・ペイン」が何かの賞をとるとうれしいなあ、と思う。

 

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ペドロ・アルモドバル監督「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(★★★★+★)

2025-02-01 23:58:34 | 映画

ペドロ・アルモドバル監督「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(★★★★+★)(2025年02月01日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン1)

監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーア

 前半、あ、この映画は、ちょっとどうかな……、と思った。単調である。アップが多く、映像の色彩情報が妙に少ない。そのため現実感がしない。
 ところが。
 ふたりが郊外(いなか?)の別荘へ行ってからが、とてもいい。発端は、ティルダ・スウィントンが安楽死のための薬を家に忘れてきたことに気づくこと。ジュリアン・ムーアは「あした取りに戻ろう」と言うのだが、ティルダは受け入れない。このときのティルダの緊張感というか、焦りというか、それしか意識できないという感じが真に迫っていて、そこから映画のスピードが加速していく。目が離せなくなる。
 ふたりの顔の対比もきわだってくる。
 死を覚悟しているというか、死を望んでいるティルダが、徐々に落ち着いてくる。安定してくる。死んでいくのはあたりまえ、という感じで生きている。薬を忘れたと大慌てしたときとはまったく違ってくる。大慌てしたことによって、なんというか、「峠を越した」感じになる。それが、すごい。
 ジュリアンの方は、感情が揺れ動く。まるで彼女の方が死んでいくかのようだ。
 で、思うのだが。
 こういうとき、どちらの役の方が演じるのがむずかしいのだろう。感情のゆれを演じわけるジュリアンの方がむずかしいと一瞬思うが、逆かもしれない。人間はだれでも感情が動き、その感情が顔に表れるとき、そのひとと一体化してしまう。同調してしまう。自分がジュリアンになった気持ちになる。観客を誘い込めばいいわけだから、むしろ簡単かもしれない。「変化」を演じればいいのだから。
 ところが、ティルダの方は「変化」してはいけないのだ。ほんとうは、彼女の肉体のなかで、こころのなかで激しい変化があるのに、それを表面に出してはいけない。しかも同時に、隠している、押さえているという印象をどこかで与えなくてはいけない。それも、あの、アップの連続のスクリーンのなかで。
 彼女はまた、母ティルダと不仲の娘も演じているのだが、そのそっくりであり、かつ違っているという感じも、非常に少ない動きのなかで演じ分けている。
 これは、ある意味で、映画を見るというよりも、演技を見るための映画だなあ。
 で、ね。
 私くらいの年齢になると、どうしても死のことを思う。私は痛みが非常に苦手だから、こんなに痛いなら死にたいと思うときがある。網膜剥離の手術をしたときは、手術後がこんなに痛いなら「目は見えなくなってもいいから、もう目を摘出して」と言おうと思ったが、いや、もう一回手術するともっと痛いかもしれないと、「論理的」に考え、ナースボタンを押すのをやめた記憶があるのだが。そんなふうに、感情・意識は、動いてしまうものなのだ。
 脱線したが。
 ともかく、死を考える。そうするとき、私にはあんな風には振る舞えないなあと思い、なおさら、ティルダの演技力に驚く。映画を見始めたときから、もうティルダが死んでいくのはわかっている。その、わかりきったことを演じきり、視線を引きつけるというのはすごい。ジュリアンの方は、ほら、どんな風に感情が動くか想像できないから、その動きに自然と引きつけられるのだから。そして、揺り動かされるのだから。
 これを際立たせるためには、やっぱり、あの単純な色彩計画、アップの連続が必要だったんだなあ。
 ★一個を追加しているのは、ジョン・ヒューストン監督「ザ・デッド」が引用されているから。あの映画の雪の美しさ。それが、引用だけではなく、再現されていて、それに感動した。余談の余談だが、私はジェームズ・ジョイス「ダブリン市民」が好きで、ダブリンまで行き、「ザ・デッド」のホテルに泊まったのだ。そんなことも思い出した。この映画が、アルモドバル監督なのに「英語」を話すのも、そういうことが関係しているかもしれない。そうか、アルモドバルもジョン・ヒューストンとジョイスが好きなのか、と親近感を覚えたのだった。
 

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池田清子「お友達」ほか

2025-02-01 21:31:04 | 現代詩講座

池田清子「お友達」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月20日)

 受講生の作品ほか。

お友達  池田清子

年に数日しか開かないブドウ園のお店で
デラウエアを買っている
行けばいつでも買えたのに
突然、予約先行になった
フェイスブックで調べ
インスタグラムで予約するという
登録した

時代が進むということは
面倒になるということか

パソコンの画面の右下に
  「お知り合いではありませんか」
と次々に見知らぬ人の名前がでてくる
突然飛び込んでくる一瞬、一瞬のわずらわしさがいやで
退会しようと思っていた

突然、Yさんのブログを見ていたら
フェイスブックを見つけた
面白かった
ブログとは違う個人的な生活があった

  「その気持ちシェアしませんか」
  「お友達になりませんか」
気持ち? シェア? お友達?
結構です

八木重吉の詩集の序
「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、
私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでく
ださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友
にしてください」
即、なりますと私は答えた。高校生の時。
ジョン・キーツからの流れでもあった

「友達は、友達だ。/でも、友達の友達は友達ではない。」
というコラムニスト(小田嶋隆)の言

お友達?

突然、フェイスブックに高校の同級生が現れた
英語、平和、子供食堂など、彼女らしい日常があった
新聞記事等を載せることで、主張している

彼女のお友達の中に、もう一人同級生を見つけた
『ペコロスの母に会いに行く』という漫画を描き映画にもなった
クラスの中で一番静かで寡黙だったのに、二十年後の同窓会では延々とギターを弾いて歌っていた

彼のお友達の中に、また一人知り合いを見つけた
大学の先輩。相変らず映画祭にかかわったり、つるむのは嫌いな人だったのに、街歩きの案内をしたり

友達のお友達のお友達は友達だった

長い年月、変わらないところあり、変わったところもあり、友達の現在を少しわかった気になる
コラムニストは言う「それは仲間と思いを共有していた頃への郷愁である」と

SNSでのつながりを、基本的なしくみも
私は多分まだわかっていない

時代が進むということは
友達の定義も変わるということか
中々時代にはついていけない
少し、ついていっている

 ひととひととのつながり、ひととものとのつながり。時代とともに変わる。ということから始まり、今回は「関係/つながり/変化」というようなことばを中心に詩を読んでいくことにした。
 池田の作品は「友達」を中心にして、「関係/つながり/変化」とらえ、「思いの共有/郷愁」ということばのなかで全体をぎゅっとひきしめている。そのことば自体はコラムニストのことばからの引用なのだが、それこそ「思い」が「共有」されているから、そのまま池田のことばとして響いてくる。
 そして、このことを「先取り」する形で、八木重吉の詩(ことば)との出会いが書かれているのだが、私は、その部分の「即」という表現に、強く引きつけられた。池田がここでつかっている「即」と「即座」の「即」である、間髪を入れず、つまり「時間」をおかずにということなのだが、そうした「時間感覚」以外ものが含まれていると感じたのである。
 「友にしてください」と言われ、「即、なります」と答えるとき、それは「空間」を超えた「即」でもある。そこにはいない八木と池田が重なっている。「お願い」をしたのは八木だが、もしかすると池田が八木に「友にしてください」とお願いしたのかもしれない。そういう「誤読」を誘う「即」である。
 その後、いくつかの「体験」が語られている。「友達(同級生)」を見つけるとき、それは単なる発見ではない。「時間/場所」が一瞬にして、とけあう。「友達」を見つけるだけではなく、池田は「自分」というものをも見つけている。
 「友達即私」。
 その「発見」が、ここにはある。
 「長い年月、変わらないところあり、変わったところもあり、友達の現在を少しわかった気になる」という行の中の「友達」を「私」に書き換えても、何の「矛盾」も起きないだろう。むしろ、私は「友達」ではなく、そこに「今の池田」を見る。
 「時代についていく」というのは、つまりは「今の自分についていく」ということだろう。
 さーっと「書き流した」感じの詩であるけれど、その「さーっ」という感じに、作者の「人柄」が出ている。「詩を書く」という意識ではなく、「書きたいことを、書きたいだけ書く」という姿勢が、自然にことばを動かしている。書いたものが、小説でも短歌でも俳句でもなく、たまたま詩になった、というのが詩の一般的な姿だと私は思う。

ブーゲンビリア  青柳俊哉  
 
ブーゲンビリアが咲き誇るみち
巨木で熊蝉がなきつづける 
 
棺の少年が地下へおりていく
 
蝉が殻を背負って地下から上ってくる
青みをおびた乳白色
 
消えさることのない色の香り

飛び交う飛蝗を捕らえて哲学者がおもう
 
雲がゆっくりと少年を追う
風が花のこうべをめぐらして蝉の声を聴く
 
熊蝉がなきつづける 少年は十二歳のまま 
 
地上を超えていく音楽
ブーゲンビリアが咲き誇るみち

 「少年」がいる。ひとりは「棺」のなか。ひとりは「十二歳」。そして「哲学者」がいる。この関係は? 同一人物、ひとりの人間の、ある瞬間の意識が、その三人に分かれているということだろう。あるいは、ふたりの少年を結びつけるとき、その瞬間に哲学者があらわれてくるということかもしれない。
 もしそうであるなら、ここに描かれているすべての存在は、哲学者が結びつけている存在、あるいは哲学者のなかから分離して生きている存在ということになる。「ブーゲンビリア」も「蝉」も「飛蝗」も、さらに「色/香り/音楽」も。
 「意識」がさまざまな形をとりながら「咲き誇る」。そうした全体が哲学者によって統一されている。このときの「哲学」は「詩学」と同じ意味になるだろう。
 「地上を超えていく音楽」の「音楽」を「ことば」と言い換えれば、それが詩の定義になるかもしれない。

一月の仕事部屋  杉惠美子

この部屋に入ると
机の上に
本棚に
引き出しに
私の傍から離れない
不思議な間がある
壁には 生真面目な
記憶と約束があり
小さな憩いがある

表情をなくさない声かけが
これからも続く

 「私の傍から離れない/不思議な間がある」は不思議な二行である。「間」は何かと何かの「間」。つまり、それは一種の「切断」なのだが、それが「離れない」。「離れない」は密着しているということ、「間」がないということ。つまり、この二行は、何かしら「矛盾」を含んでいる。しかし、それを矛盾とは感じさせない強さがある。
 池田の詩に出てきた「即」は「色即是空/空即是色」の「即」とは違うのだが、違いながらも、いくぶん、それに通じるものを含んでいたが、この二行は、それに似ている。もともと「色即是空/空即是色」自体も矛盾した論理だが、こうした矛盾を「超える」のがことばの運動というものなのだろう。矛盾をつかまえることで、矛盾ではなくなる。矛盾ではなく「法(哲理)」になる。
 それは、杉の詩では「部屋」という「形」になる。部屋が色(形、存在)、間が空か。
 さて。
 終わりから二行目の「声かけ」は、だれの声かけか。部屋から(部屋に存在するものたち)から杉への声かけか、杉からものたちへの、あるいは部屋そのものへの声かけか。これは、すこし考えるだけでいい。「結論」は必要がない。どちらを選んでも、それは「正しい」だろうと思う。それが「即」ということだろうと、私は思う。

三十六億年のDNAの記憶の旅  堤隆夫

わたしとあなたは 融通無碍なる表裏一体
あなたはわたしに他ならない

わたしとあなたの命の旅は 
三十六億年のDNAの記憶の旅
三十六億年の永遠かつ瞬時の縁

而して 時は流れず
わたしの身と心は 
即ち あなたの身と心

わたしを滅ぼし そして蘇らせた神は
あなたを滅ぼし そして蘇らせる神でもある

送るものはやがて送られ 
涙するものは涙され
愛するものは愛され

そして---実存するものは
永遠かつ瞬時なる 親と子の活断層

あなたとわたしは---真紅の火
わたしとあなたは---純白の雪

 堤の詩には、「即ち」ということばがつかわれている。それは、これまで見てきた「即」の別の読み方である。堤は一行目に「表裏一体」と書いているが、それは「即」そのもののことである。さらにおもしろいのは、その「即/表裏一体」が「融通無碍」であることだ。いつも動いている。いれかわっている。
 こうした「変化」を含んだ運動としての「即」は、「かつ」ということばでも書かれている。「即=かつ」。「かつ」というとき、むすびつけられるもののあいだに全体的な「違い」があるから「かつ」なのだが、「かつ」と言えなければ、また「即」という必要もなくなる。そうした関係の「即」と「かつ」。
 こうした存在のありようを、「矛盾」を感じさせないことばで言いなおすと、どうなるか。
 堤は「わたしとあなた」と書き出しているが、「即=かつ」の矛盾を超えると、それは「と」ということばになる。わたし「即」あなた、わたし「かつ」あなた。これは、わたし「と」あなた、ということである。「色即是空=空即是色」であるように、「わたしとあなた」は「あなたとわたし」である。
 この意識が最終連になってあらわれるのだが、この二行は、とても強烈で興味深い。

あなたとわたしは---真紅の火
わたしとあなたは---純白の雪

 矛盾は「真紅の火/純白の雪」という、それこそ反対のものとして結晶するのだが、この鮮烈なイメージへの結晶、昇華、それが矛盾を「超える」という運動である。二行に分けて書かれているが、ここには「意識の時差」はない。それは二行同時に「誕生」したものである。
 池田の詩に書かれていた「即」よりも、もっと「間」がない。それこそ「表裏一体」であり、「融通無碍」に交錯する。しかし、それは「混沌」ではなく、絶対体的な存在形式だ。

幸運  魚本藤子

高台にあるレストランは
一面ガラス張りで
海峡の流れがよく見えるようになっている
どこにも隠れようがない
対岸の門司の街並みがすぐ近くに見える
今 銃口を向けられたら
間違いなく命中するだろう
けれど
どこにも銃声は聞こえず
遠い街並みは
物語のような穏やかさだ

海峡の流れは
日に四度変わる
その間を大きな外国のタンカー船も
小さな釣舟も行き来する

幸運にも
流れに乗ると速く進む
流れに乗る幸運 逆光する不運
小さな釣舟はすいすい進んで行く
どんな苦難も流れに乗れば
 玩具のように軽く見える

今日は多分この上なく幸運な日だ
誰にも銃口を向けられることもなく
怯えて逃げまどうこともなかった 
私たちは
空いている椅子に重い荷物を置いて
穏やかに談笑した
帰る時には
その荷物をうっかり忘れそうになった

 受講生の作品ではなく、受講生がみんなといっしょに読むために持ってきた詩。
 この詩では、「間」は「海峡」という形で描かれている、というとかなり強引な読み方になるかもしれないが、海峡が見えるからこそ「私たち」は「私たちの間」にことばをいきかわせる。ことばによって、切断と接続をくりかえすのだろう。
 最後の四行が象徴的で、とても美しい。「荷物」がなんなのか、何を象徴しているのか、ひとによって意見が分かれると思う。だからこそ詩を読むことは楽しいのだが、そういう「なぞとき」よりも魅力的なのは「うっかり忘れそうになった」ということばである。「うっかり」のなかにある「超越」は、「夢中」とどこかで交錯する。魚本の過ごした時間がどんなに充実していたかをしっかりと伝えてくる。


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