詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(212 )

2011-04-25 12:07:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「フォークナーの署名」。

かれの旅の終りで彼は自分の心に
何というだろうかと東の国につれてこられた
この夏の夢をみる大きな神がかりの
男の霊のために
私の見たことを思いおこすのだ

 この書き出しは、わかるようで、わからない。わかるように感じるのは、そこに書かれていることばのひとつひとつが全部わかるからである。わからないのは、そのことばの接続が変だからである。こんなふうに私は語らないし、こんなふうに誰かが語るのを聞いたことがない。
 特に2行目がわからない。

何というだろうかと東の国につれてこられた

 「何というだろうか」と「東の国につれてこられた」の関係がわからない。そのふたつのことがらが「と」で結びつけられている「理由」(根拠?)がわからない。
 「何というだろうか」は1行目の「かれの旅の終りで彼は自分の心に」に結びつけると、「かれの旅の終りで彼は自分の心に何というだろうか」になり、これは、まあ、わかる。旅のおわり、それまでの旅で見聞きしたことを思い起こし、自分の心に語りかけてみる。そのとき「何というだろうか」。
 けれど、それにつづく「東の国につれてこられた」は何? 誰のこと? 「かれ」(彼)? 
 かれは東の国に連れてこられた。その連れてこられた旅のおわりに、彼は自分の心に何を語るか、という意味だろうか。
 つづく3行はの「男」と「かれ」は同じ人間だろう。「かれ(この/男--3行目の行頭の「この」は4行目の「男」にかかるだろう。そして、「この」以下は、「男」の修飾節だろう)」は、夏の夢をみる大がかりな「霊」をもっている。
 その「男の霊」と向き合うために、(私は)「私の見たことを思いおこす」。
 なんとなく、「意味」が通じたかな。
 なんとなく、「意味」がわかった(ような)気持ちになって、読み返すと、でもやっぱり2行目でつまずく。おかしいねえ。変な「日本語」だねえ。変なのだけれど、この行の真ん中の、変、の原因である「と」が不思議とおもしろい。わからないからこそなのかもしれないけれど、「と」が楽しい。
 「何というのだろうかと」というとき、「と」が繰り返される。そのくりかえしにあわせるように、次の「東の国につれてこられた」では「れ」がくりかえされており、その「音」がとても印象に残る。「つれて」「こられた」。「つ」と「こ」が似ているというと奇妙だけれど、私の「肉体」には何か響きあうものがある。「つれてこられた」というとき、早口ことばの「つまずき(つっかえ?)」というか、言い間違いになるような「音」の響きあいがある。「耳」ではなく、そのことばを「声」にするときの「肉体」(喉や舌や口蓋や……)のなかで何かがつながって「音」がすぐには出てこない感じがする。それが「思いおこす」という5行目の「意味」とも通い合う。
 さらに「何というのだろうかと」の直後の「東の国に」。これが不思議なことに、「ひがしのくにに」ではなく、私は「とうごくに(東国に)」と読みたい欲望を誘うのである。私にとっては「とうごくに」の方が2行目の音の響きあいは魅力的なのだが、西脇は「ひがしのくにに」と読ませている(たぶん)。そしてその「ひがしのくにに」が、私の音の印象ではちょっと「音色」が違っているので、今度は、その違いが次の行への飛躍というか、切断を身軽にする。
 あ、不思議だな。

 こういう印象は、詩の鑑賞にとって、どんな意味を持つのかわからないが、私はいつもそういうことが気になるのである。「意味」は気にならない。ことばの「出典」も気にならない。ただ、「音」の動きが気になる。

 詩はつづく。

かれは大使館の涼しい隅の席に
ただひとりすわつて空の日射病のあと
しばらく休んでいた

 「空の日射病」というのは変な表現である。こんな「日本語」はない。ないのだけれど、おもしろいねえ。とても目立つねえ。そして、おもしろく、目立つだけではなく、このことばが全体の中になじんでいる。
 なぜだろう。
 ここにも私は「音」の影響感じるのだ。「そらのにっしゃびょう」。「さ行」、特に「し」の「音」。

かれはたい「し」かんの「す・ず・し」い「す」みの「せ」きに
ただひとり「す」わつて「そ」らのにっ「し」ゃびょうのあと
「し」ばらくや「す」んでいた

 また「た行」も交錯している。「た」いしかん、すわ「つ・て」、に「っ」しゃびょう、あ「と」、やすん「で」い「た」。

 こういう「音楽」の助走のあと、西脇のことばは「カタカナ」の多い「ヨーロッパ」(というか、西洋というか……)へと飛翔する。

この没落のジュピーテルは空間のように
透明でこの静かなポセイドンのような
この百姓は鳶色の神からうまれた
いまは山国にあるアンズの国への
旅を考えているそこで牧人たちを
集めて夏期大学を開こうと
考えていたのであつた
西国人の心についてかれの笛のような思想を
東方人に語ることを考えていた

 ここでも、私の耳はいろいろな「音楽」を感じるが、書くと煩雑になるのでひとつだけ。
 「東方人」。ね、「東の国に」ではなくて、やっぱり「と」で始まる「と」うほう人。「西国人」と「さいごくじん」なのだろうけれど、私は「せいごくじん」と読みたい気持ちでいっぱい。「せーごく」「しそー」「とーほー」。音引きであらわす「音」が交錯するからね。これはさかのぼれば(?)、「ジュピーテル」「くーかん」「よーに」(よーな)「とーめー」とも響きあう。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(211 )

2011-04-19 10:30:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「ティモーテオスの肖像」の後半は「音楽」が少しかわる。「子供」が消えるせいかもしれない。「音」がしんみりして、おとな(?)の感じが濃厚になる。

夏のふるさとはまた

 という行から後とのことなのだが、「音」の変化の前に置かれたこの1行--その正直さに私はどきっとする。こころが震える。西脇の詩は「わざと」書かれたことばだが、その「わざと」のことばのなかにも、正直というものはどうしても出てしまう。そう気づいて、どきっとするのである。(これ以外の行が、「わざと」書かれたことばなのに、ここでは「わざと」がない。その正直さに驚くのである。)
 私の印象では、この1行のあと、詩は「転調」するのだが、その転調知らせることば--それがシャープやフラットの記号のようにくっきりしている。そこに「生理的」な正直さを感じる。この1行がないと転調できないのだろうなあ、と思う。(行分け詩の場合、連と連との区切り、1行空きを利用して転調することが多いが、西脇は1行空きのかわりに、こういう1行を書くのである。これに先立つ部分でも、「オーポポイ!」という感嘆詞があるが、感嘆詞を転調のきっかけにするのは、他の詩人でも頻繁にみられることである。)

夏のふるさとはまた
暗黒のガラスになる頃
小学校の先生とまた
シソとタデのテンプラを食べて
ルネサンスの絵の話をするだろう
都に住む友達は
どんな色のシャツを着ているだろうか
二人で考えてみるだろう
田圃の方からまた
生ぬるい幽霊のような風が
吹いてくるだろう
また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる
この潮の音は星群を
曇らせるだろう

 「音」はいったん「色」をくぐる。ルネサンスと絵。そして、そこから友達のシャツの色を考えてみる。いったん「音」が消えるから、次にあらわれる「音」が静かなのかもしれない。

また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる

 この「音」もふつうなら「声」かもしれない。「声」だと何かしら「意味」が感じられる。「音」になると、「意味」以前のところから聞こえてくる感じがする。洗練ではなく、野生、野蛮という感じがする。強い感じ--たたいてもこわれない感じ。
 その強さのなかで「音」が静かに響く。
 時間が夜だから、というだけではないと思う。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
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誰も書かなかった西脇順三郎(210 )

2011-04-18 09:27:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇の書いている情景は、私には非常になつかしいときがある。子ども時代を思い出すのである。「ティモーテオスの肖像」。タイトルは私の子ども時代とは無関係だが、そこに書かれていることは昔の記憶と重なる。

イタリ人のように
大人が昼寝をしている時
やなぎの藪の中に反乱が起る
子供の近代的な笑いが始まる
どぶ川の中で泳いでいる
桑いちごときゅうりを齧りながら
永遠的な方向を指さしている
小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる

 こういう情景は、私たちの年代はだれもが体験していることなのかもしれないが、とてもなつかしい。そして、なつかしいと同時に、ちょっと不思議な気持ちにもなる。なつかしいのだけれど、ちょっと違う。ふつうの「思い出」と何かが違う。
 たとえば3、4行目。これは子供たちがやなぎの向こうではしゃいでいるときの描写であるが、こういうとき「反乱」とか「近代的な笑い」とはふつうは言わない。そういうふつうは言わないことばをぶつけることで「情景」を批評する。
 批評が西脇にとっての詩である。抒情ではなく、批評。だから、ことばが乾いている。批評のために、あえて抒情ではつかわないことばをつかう。ことばを未整理のままつかう。それは、「反乱」「近代的な笑い」というようなことばだけでない。

小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる

 よく読むと、「かんづめ」「空きかん」ということばが重複している。抒情派の詩人なら、この重複を整理して違う形にすると思う。しかし、西脇はしない。わざと未整理にしてほうりだす。--だけではない。その未整理を、「意味」ではなく、「音楽」にしてしまう。「音」の響きあいで遊んでしまう。
 「杏子(あんず)」「かんづめ」「空きかん」「死んでいる」。「ん」の音が響きあっている。その響きあいは、他のひとにはどう感じられるかわからないが、私の場合は「意味」を消し去る。「意味」よりも「音」の楽しさの方が前面に出てくる。「音」が気持ちよく感じられて、うれしくなる。
 この「ん」の響きあいのなかに「反乱」「近代的」までが意識されているかどうかわからないけれど、私のよろこびは、そこまでさかのぼる。批評としての「反乱」「近代的」さえ、「音」になって遊びはじめる。

トンボは百姓が忘れていつた
鎌の上にとまつて考えている

 この2行の「トンボ」「考えている」にさえ、私は「ん」の響きあいを感じる。トンボが何かを考える--というようなことは、まあ、ない。そういうないことを「わざと」書く。そして、その「わざと」書くことばが「音」で統一される。

この地獄の静けさの中で
人間は没落を夢みているのだ
どこかでまた子供が
スモモの木の中へ石を投げている
音がする--
小さい窓からザンギリのおつさんが
頭を出して怒鳴っている音がする

 「音」の対極にあるのは「静けさ」。そういうものを出してきておいて、「音」そのものにも言及する。
 「スモモの木の中へ石を投げている/音がする」は正確には(学校教科書的には)「石を投げている音」ではなく、投げた石が木にぶつかる音だろう。「怒鳴っている音がする」は怒鳴っている声がする、になるだろう。
 「音」ということばのつかい方が「学校教科書」とは微妙に違う。違うから、「音」ということば、「音」そのものが、新しい「もの」のように感じられる。この「新しさ」が詩のなのだと思う。
 そして、この部分には「ん」の響きあいが残っている。「ザンギリ」「おつさん」。「おつさん」は「男」でも「意味」はかわらないが、ニュアンスだけではなく、「音」そのものがまったく違う。
 「音」が、何かしら西脇の詩には重要なことばの推進力になっているのだ。




西脇順三郎全詩集 (1963年)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(209 )

2011-04-17 11:57:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」(2)。
 西脇の、女の描写が私は好きである。

遠くの方で女房たちは互いのへそを
みくらべてしんみり見つめて
動物の秘密の悲しみを悲しんだ
星座の涙も霧に閉ざされた

 この「へそ」は女ひとりの「肉体」ではない。人間の肉体を超え、永遠の肉体である。「動物の秘密」である。男もまた「へそ」をもってはいるが、それは「出生」とつながるだけで、女のように「出産・出生」という両方の機能(?)をもっていない。男の悲しみは「動物の秘密」にはつながらないのだ。男の悲しみは、せいぜい「脳髄」の淋しさにつながるだけである。
 女の悲しみは「脳髄」につながらないと書くと叱られるかもしれない。脳髄にもつながるだろうけれど、「肉体」にもつながっている。そして「肉体」とつながるとき、「脳髄」はどこかへ捨てられる。
 だから、

星座の涙も霧に閉ざされた

 という1行も、美しい音楽になる。男がこんなことばで悲しみを飾れば、脳髄の嘘になってしまう。
 男の「へそ」と比べるとはっきりするかもしれない。

ちょうどエダマメを枕にして
昼寝をする農夫のへそに
とんぼがとまつて考えている
のも同種の神話にあたる

 男は悲しむのではなく、考えてしまう。脳髄で考える。そして、それを自分でもちこたえずに「とんぼ」という人間以外のものに託してみたりもするのだが、完全には託しきれない。

のも同種の神話にあたる

 すぐに「ことば」にかえってしまうのである。「抽象」にかえってしまうのである。これにつづく行は、そのことをもっと悲しい音のなかで展開する。

ひるねをする流のヒゲには
みどりの蝶々がたわむれている
マティスのオダリスクの
ホメーロスのオプファロスの
悲しい歴史

 「歴史」とは「肉体」ではない。「もの」ではない。それは「脳髄」のなかに整理された抽象である。そういう抽象は、マティスだのホメロスだのの、芸術と悲しい対話をするだけなのだ。
 男の悲しみは、音楽でいえば「短調」である。悲しむように悲しむ。女の悲しみは「長調」である。それはどんなに悲しんでも、悲しみからはみだしてのびやかに動いていく。「互いのへそを/みくらべてしんみりみつめて/動物の秘密の悲しみを悲しんだ」の「しんみり」は「うっとり」と差はない。「悲しんだ」は「受け入れた」と差はない。「長調の悲しみ」というのは矛盾だが、その矛盾が女の美しさなのだ。強さなのだ。

 西脇は女を礼賛している。


ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
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誰も書かなかった西脇順三郎(208 )

2011-04-15 11:48:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」。
 西脇は、一般には漢字で書かれる固有名詞をカタカナで書く。知っているけれど、それに出会うと私は驚く。

六月も半ばをすぎると残忍なものだ
もろもろの神と英雄の影をつたつて
グンマの山の奥で一夜
すごさなければならない

 「グンマ」という表記は、ことばを「音」そのものに還してしまう。関東に住んでいるひとはそんなことはないだろうが、私のように関東から離れて住んでいると、埼玉、群馬、栃木のような内陸のごちゃごちゃとかたまった県はどこがどこかよくわからない。そのせいもあり、「グンマ」という表記は、ただ「音」だけをあらわす。どんな「図(地図)」とも重ならない。「視覚」とはまったく無縁のものとして、そこに浮かび上がってくる。もちろん「グンマ」が「群馬」であり、土地の場所をあらわしていることを知っているが、知っているからこそ、その「グンマ」という音が動くとき、いっそう、「場」(視覚)が消し去られたような印象を持つ。
 それは、そして1行目の、何やら「荒れ地」(エリオット)を思い起こさせることば--そして、ことばの「意味」を消し去る。あらゆることばに「意味」はあるだろうけれど、その意味を破壊して、ただ「音」がそこにある。その「破壊」のよろこびが、「グンマ」のなかにある。
 この「音」による「意味」の破壊は、

ノムーラはアリストテレスの修辞学の
講義を思い起し中途で消えた
クサーノは巴里かどこかへ旅立つた
イトーはサガミガワの上流へ
ロケに出てしまつた

 ひとの名前がただ「音」としてカタカナで書かれるとき、固有名詞は「過去」を失ってしまう。何かが動く--その「破壊」が、ことばの運動を軽くする。
 「意味」は常に破壊されなければならない。「意味」が破壊されるとき、そこに詩が生まれる。つまり、意味以前の、純粋、が噴き出してくる。

でもわれわれが人間の寂しきことを
嘆く瞬間が来た瞬間の連続は
永遠につづくが瞬間は女神にすぎない
太陽が亡びても時間と空間は残る
時間と空間という意識も死と共に
亡びるポポイーだがザマーミヤガレ

 この「ザマーミヤガレ」は、私には「音」そのものにはなりきれていない感じがする。(音楽、を感じることができない。)それでも、なんとか「意味」を破壊したいという西脇の欲望を感じる。
 そして。
 ちょっと不思議なことも思うのである。「ザマーミヤガレ」が単に乱暴の導入というよりも、前に出てくる「サガミガワ」と重なって聞こえる。
 そのせいもあって、「瞬間」とか「永遠」とか、いわば哲学的なことばの連続から、次のように急にことばが方向転換しても、違和感がない。妙になつかしい感じさえしてくるのである。

夢の中でウグイスがないている

 その夢の中は「イトー」が向かった「サガミガワの上流」と重なる。「ザマーミヤガレ」という「音」の力で。
 そこに西脇のことばの「音」のおもしろさがある。




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 誰も書かなかった西脇順三郎(207 )

2011-04-12 11:55:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。さらに「哀」について。

岩かどに咲くすみれの汁は
女の旅人の日記を暗くしている
野原も見えなくなつた

 どうしてこんなことばが出てくるのかわからない。たとえば「岩かど」。普通は「岩陰」と言わないだろうか。「岩陰に咲く」というのは、必ずしも「陰」とはかぎらないだろうけれど、岩のそばである。「岩かど」「岩かげ」は1字違いなのだけれど、「かど」の方が荒々しい。「文学」から逸脱している。この場合「文学」というのは、いままでの「文学」の定型(常套句)ということだけれど。
 そうなのだ。
 西脇は、文学の「常套句」を破る。そこに乱調が生まれる。そして、乱調から「もの」が生まれる。「岩かげ」では「岩」そものもが見えて来ない。「岩かげ」というすでに「文学」になってしまった「ことば」が見えるだけである。その「こば」を破り、「もの」に返す。そういう野蛮な(?)運動が西脇のことばの基本である。
 「すみれの汁」というのは、すみれをつぶしたときに出てくる「汁」だろうけれど、これも強烈である。「汁」ということば単独ですみれと結びつけることは、ふつうはしないだろう。すみれを間違ってふんでしまったら、そこに小さな染みができた--涙のような染みができた、というのが「文学」であった。西脇は、そういう「文学」をひっくりかえすのである。「もの」によって。「もの」そのものの「音」によって。
 こういう「破壊」があるから、「女の旅人の日記を暗くしている」というセンチメンタルもの何か新しいもののように響いてくる。
 そして、唐突に、「野原も見えなくなつた」と視界の広さを変えてしまう。「センチメタル」というのは「岩陰(これは、わざと書いているのです)」とか「すみれ」とか「汁」、あるいは「日記」「暗く」というような、なんだか視界が限定されたところで動く。「狭い場」を繊細に動いて、その「狭さ」のなかに繊細な形を浮かび上がらせることが多い。
 それを「野原」という広いもので、西脇は一気に破壊する。

麦畑の方からいかずちのきらめきが
盃に落ちて酒はあけぼのの海となる

 書いてあることは(ことばは)みんな知っている。わからないことばはない。けれど、そのことばの組み合わせ方ひとつひとつが微妙に変である。「岩かど」のように、わかるけれど、そうはいわないのでは……でも、西脇の書いていることばの方が強烈だなあ、と思わせることばである。
 いかずち(大)→きらめき(小)→盃(小)→海(大)
 この書かれたことばのもっている「大・小」の印象の変化がおもしろいのかもしれない。大きいものが砕けて小さくなり、その小さいものが小さいものと重なって、突然大きなものになる。
 そこには、何か、うまくいうことができないが「破壊」がある。秩序の「破壊」がある。「乱調」がある。
 この乱れと、ことばそのもののの「音」の変化がとても美しい。
 私は音読をしないが、音読をしないからかもしれないのだが、西脇のことばの「音」には、破壊と乱調と、その乱調のあとの「沈黙」の透明な音楽がある。
 そして、その透明な音楽を受け止めるようにして、世界が、また一瞬のうちにかわる。
明日もまた雨がふるだろう

 この変化によって、さっきの透明な音楽が、汚れから回避される。どんなに美しいものでも、西脇は「一瞬」しか、それに時間を割かない。美しい一瞬に溺れてしまわない。溺れそうになったら、それをさらに破壊する--そうすることで、「純潔」を保つのである。いさぎよいのである。

アスガルの岡にくぼむ石の髄まで滴る
こわれた泥ベイの中で種まきの話をして
いてもきこえないポポイ
桃の花が咲いても見えないポポイ
明日もまただれか眼鏡をかけて
カメラをもつた男が君をよこぎるだろう

 「意味」はなるのか、ないのか。まあ、関係ないなあ。「音」が、もう「音」だけで動いていく。「泥塀」を「泥ベイ」と書くと「ポポイ」になぜかつながる。それはたしかギリシャ語の「感嘆符」のようなものだと思うが、それが「悲しい」感嘆であっても、「楽しい」感嘆になってしまう。「泥ベイ」の「泥」、その「俗」というか、華麗ではないもの、華奢ではないもの、むしろ荒々しく自然なものの「素朴」な力がとてもいいのだ。
 西脇は、こういう「俗」というか、地についたことばを、美しい「音」にかえる天才だと思う。西脇によって、「文学」から見捨てられたことばが、しずかな「場」を生きていたことばが、一気によみがえる。




西脇順三郎全詩引喩集成
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 誰も書かなかった西脇順三郎(206 )

2011-04-11 11:20:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇の詩について書いていると、もう書くことはないのかもしれないという気持ちになる。それなのに、まだまだ書き足りないという気持ちにもなる。同じことを繰り返しているのだが、何度でも同じことを繰り返したくなる。別なことばで言いなおすと、書くことで「結論」へ向けて進んでいくために書いているのではなく、私はただ思っていることを書いておきたいのである。私自身のために、ではない。誰のために、というのでもない。ただ書きたい。
 「哀」について。
 これから書くことはこれまで書いてきたことの繰り返しである。繰り返しだけれど、少し違うかもしれない。

あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている

 ここに書いてあることの「意味」はなんとなくわかる。旅人がいる。旅人は泣いた(袖をぬらした)。それは人類の哀史に触れたからである。そのことは手帳に書いてある。でも、その手帳の文字は(あるいは手帳に書いてある論理は)、ぼけている(少しあいまいである)--くらいのことだと思う。
 だいたいそういうことだと思うのだが、そうはっきりとは思うわけでもない。
 なぜだろう。
 西脇のことばは「論理的」(散文的)ではなく、論理を突き破りながら動いているからである。余分なものがある。たとえば、私は先に3行の「意味」(私の理解している範囲)を書くときに、3行目の「あおざめた」ということばを省略した。この「あおざめた」を私は仮に「余分なもの」と定義したのだが……。
 「あおざめた」に意味があるかもしれない。ないかもしれない。どっちでもいい--というと西脇ファンや、西脇研究者に叱られるかもしれないのだが。
 それがたとえ重要な「意味」をになっているのものだとしても、そしてそれをだれかが説明してくれたとしても、きっと「余分なもの」と感じると思う。「あおざめた」が重要だとしたら、今度は「袖をぬらした」というようなことばがきっと「余分なもの」と感じるだろうと思う。「泣いた」と書けばいいだけのこと、「涙を流した」と書けばいいだけのことを、わざわざ「袖をぬらした」ともってまわって書いていることが「余分」に感じると思う。
 いま、私は「もってまわって」と書いたが、西脇のことばは、「余分なもの」を経巡って動く。脇道にそれながら動く。いま流の言い方をするなら「逸脱」しながら動く。そして、その「逸脱する」ことが、刺激的なのだ。
 すっきりと「論理的」ではない、ということろが刺激的なのだ。
 詩は、「論理的」とは対極的なところにあるのだろう。

 で。
 その「論理的」ではないことばというか、「逸脱する」ことば。たとえば3行目の「あおざめた」はなぜ「あおざめた」なのか。「蒼白な」でなはく、あるいは「たそがれ色の」でもなく、「涙で汚れた女の頬の」ではないのか。なぜ、西脇は「あおざめた」ということばを選んだのか。
 こいうとき、私は「音」が絡んでくると思うのだ。その「音」がどこからか響いていくる。西脇はそれを書き留める。その「音」が、私は、とても好きなのだ。
 私のまったくの個人的な「耳」の事情なのかもしれていけれど、「あおざめた」は「あの旅人の袖をぬらした」という1行目ととてもよく響きあう。「あ」で始まり「た」で終わる1行目と「あおざめた」が響きあう。もっといえば1行目は「あおざめた」ということばのなかに凝縮して再現される感じがする。
 ことばの論理の上からは「逸脱」する。けれど「音」としては「収斂」というか、「結晶」化する。
 --まあ、こんなことは、屁理屈だね。どうでもいい。

 つづく3行。

近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である

 これは、近代人の憂愁は論理的でありすぎる(豊満している)ことが原因である。それは古代人からの「隔世遺伝」である。つまり、中世のひと、「暗黒の時代」のひとは、論理にしばられることがないから、「憂愁」を知らない? 詩、だから、まあ、「意味」は適当に考えておくが、ここでは、私は「隔世遺伝」ということばにとてもひかれる。
 「かくせーいでん」という「音」が気持ちがいいのである。「ゆうしゅ」の暗さを破る「ほうまん」という「音」、「ほーまん」と「かくせーいでん」。「音」をのばすことろと、最後が「ん」で終わるところが、なんともいえず気持ちがいい。
 そして、「隔世遺伝」ということば、どこかでつかってみたい、という気持ちになる。西脇のことばは、いつでも、あ、このことばつかってみたい。盗んでしまいたい、という気持ちにさせる。「好き」という気持ちにさせられる。
 ぐいっと、そんなふうに引っ張られて……。あれっ。

断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ

 「古代人の隔世遺伝である」は、もしかすると「断崖にぶらさがるたのしみ」を修飾する1行?

あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている
近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である
断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ

 ここに「論理」があると仮定して--どのことばがどのことばを修飾している? どれが主語? わかる?
 私にはわからない。わからないのだけれど、じゃあ、わからないから「嫌い」かというと、そうではない。わからないけれど、なんだかおもしろい。「好き」。
 このとき、私が「好き」と思ういちばんの理由は「音」なのだ。
 「毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ」の「なるだけだ」という「音」さえ、あ、ここがいいなあ、と思ってしまうのだ。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
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誰も書かなかった西脇順三郎(205 )

2011-04-07 23:44:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。

 西脇の詩にはときどき変なところがある。とってもおかしいところがある。たとえば「梵」のなかほど。

でも地球の最大な人間の記憶は
「ボンショウ」の音だ
ただひとり歩いている音など
もつともつまらない地球の記憶だ
あの考える男などは
考える銅にすぎない
考えてもだめなんだ

 ここには「人間」を「音」ととらえる西脇がいる。「人間」を「音」ととらえるとき、その「音」は西脇にとっては「つくりだしたもの」(わざと)でないといけない。「ボンショウ(梵鐘)」は人間がつくった「音」である。ある「音」を聞きたくて、人間はそれをつくる。どんな「音」でもいいわけではない。人間は「音」を好みによってよりわける。そういうところに「思想」がある。(人間がつくりださないもの、「わざと」ではない「音」に「歩いている音」がある。西脇は、梵鐘の「音」をそれと対比している。)
 --というのは、しかし、きょう書きたいことではない。
 「あの考える男などは/考える銅にすぎない/考えてもだめなんだ」の真面目なのか冗談なのかわからない部分も、きょう書きたいことではない。

 次の部分。

会社が作つたコカコーラを捨てて
この最大な地球の瞬間
に耳をかたむけることだ
脳南下症は
永遠へ旅立つ美しい旅人だ

 「脳南下症」って、何? 「脳軟化症」でしょ?
  「考える男(考える人)」は「考える銅」だということばよりも、このことばの方がはるかに強烈だ。--強烈、というのは、その「南下」がそのまま人間の動き、「南下する」、南へ下る、ということろから「旅」へとつながっていくからである。
 人間はどこかへ行きたがる。東西南北どこでもいいのだが、そこには「南(下)」もある。そういう旅へのあこがれを、「永遠へ旅立つ」と呼ぶ。「永遠へ旅立つ美しい旅人だ」の「美しい」は「学校教科書」的には「旅人」を形容するのだけれど、どこかへあこがれ、動いてしまうこと--旅立つこと自体が美しいとも読むことができる。その旅が美しくなければ、旅人も美しくあるはずがない。
 ある属性(?)は、共有されることで強靱になる。

 こういう「だじゃれ」のようなことばの動きからも、西脇の「音」こそがことばなのだという「思想」がうかがえると思う。
 その前の行に「この最大な地球の瞬間/に耳をかたむけることだ」とあるのも象徴的だ。「目を向ける」ではなく「耳をかたむける」。すべては「音」として肉体に入ってくる。
 そうであるなら、すべては「音」を通って「肉体」から出ていく。視覚は(絵は)、ある道具がないと表現できないが、「音」は「肉体」があれば、それだけでいい。(と、書くと、ことばを発することができないひと、「音」を聞くことができないひとには申し訳ないような気もするが、この点は、私は自分の考えをつきつめることができない。あくまで、自分の「肉体」のありようとの関係でことばを動かしている。)「音」(聴覚)の方が「絵・文字」(視覚)よりも人間に深くかかわっていると思うのである。
 西脇のことばも「音」の方に深くかかわっている、と感じるのである。



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誰も書かなかった西脇順三郎(204 )

2011-04-04 23:46:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「愛人の夏」。

 西脇のことばには聖と俗が入り混じる。その瞬間、ことばがとても清潔になる--と感じるのは私だけだろうか。聖から聖が洗い流される。俗から俗が洗い流される。聖と俗という固定概念が破壊される--その瞬間、何かが生まれる。その名づけることのできない何かが、新しい響きでことばを満たす。その瞬間を「清潔」と私は感じるのだ。
 たとえば、

あのドクダミの匂いもかぐ心もない
あのいやにはびこつているクズの葉は
万葉人のふんをふく
昔の人の偉大な歴史だ

 「万葉人のふんをふく」。この1行が、いま引用した部分ではとりわけ清潔である。
 「万葉」は「万葉集」を思い起こさせる。「万葉」は文化(聖)である。一方の「ふん」は俗そのものである。文化とは無関係な日常--しかも、どちらかというと「隠しておきたい」ことがらである。「万葉」と「ふん」の出会いだけで、十分におかしいのだが、西脇はそれをさらに拡大する。
 「クズのは」で「ふんをふく」。昔はトイレットペーパーがないから、かわりにクズの葉をつかう。そういうことを書いているのだが、そう書いてしまうと「意味」になる。西脇は、これを「意味」にならないように書く。だから、よけいに聖と俗がきわだち、清潔感も強くなる。
 「意味」にならないように書く、というのは。
 冷静に考えれば、「ふんをふく」ということば変である。糞を拭くのではなく、尻を拭くのである。糞をしたあと、尻を拭くのである。けれども、西脇は、日本語の「文体」の間接を脱臼させたようにして書く。言い換えると、日本語の歴史で積み重ねられて「ことば同士の脈絡」、このことばは、このことばで受けるという習慣を破る。このことばが主語なら、動詞はこれ、という習慣から離れてことばを動かす。「糞をしたあと、尻を拭く」という言い方が一般的だが、その習慣としての「文体」を破壊して「ふんをふく」と書く。
 この壊し方が絶妙である。「ふんをふく」で、十分に「尻をふく」という「意味」がつたわってくる。「意味」をつたえながら、そこにいつもとは違ったことばをもってくる、違った音をもってくる。そうすることで、「耳」を刺激するのである。「耳」が一瞬、あ、いま聞いた音は何かが違うと気づく。そして目覚める。何かが。それがおもしろいのだ。これが「ふん」ではなく、まったく違うものだったら、たとえば「涙をふく」だったら、また違った「意味」が生じてきてしまいそうである。そうならないものを、西脇は、きちんと識別してもっていきているのだ。

 それはそれとして……。蛇足になるが、トイレットペーパーがわりにクズの葉をつかう、植物の葉っぱをつかうというのは、いまでは考えられないことである。西脇のいきていた時代でも、それを実際にしている人は少なかったかもしれないが、そのことばはすぐに通じただろう。
 そうしてみると、「暮らし」というのは、万葉から現代まで、あまり差がないことがわかり、愉快な気分になる。ドクダミも、いまではあまり見かけないだろうが、昔はどこの家の便所の近くにはびこっていたものである。
 西脇は時間・空間を自由にとびまわってことばを動かしているように見えるが、そこに書かれている時間は、私たちがいまから想像するよりははるかに「短い」期間だったのかもしれない。「万葉」といってもすぐとなりだったのかもしれない。西脇にとって「西洋」がすぐとなりだったように、万葉の時代も石器時代も江戸時代も、きっと区別がないくらいに身近だったのだろう。




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誰も書かなかった西脇順三郎(203 )

2011-03-30 14:59:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「故園の情」。その1連目。

秋も去ろうとしている
この庭の隕石のさびに枯れ果てた
羊歯の中を失われた
土の記憶が沈んでいく
あのやせこけた裸の音を
牧神は唇のとがりを
船の存在に向けて吹いている

 この7行を「散文化」しようとすると、どうしていいかわからなくなる。1行目はわかる。季節のことを書いている。「秋」が主語。「去る」が述語である。ところが「この庭の」以後が難しい。次に出てくる主語は? 4行目の「土の記憶(が)」が主語? 述語は「沈んでいく」? では、それまでのことばは? 修飾節になるのかもしれない。後ろから逆に読むことになるが「失われた/土(の記憶)」「枯れ果てた/羊歯」という具合につづいているのかもしれない。
 そうだとすると。
 へたくそな文だねえ。「学校教科書」の作文なら、もっと整理して、わかりやすく、と指摘されるかもしれない。
 でも。
 この「へたくそ」な感じが、詩だなあ。
 こんなふうにぎくしゃくとは書けないなあ。私のことばは、こんな複雑な「構文」を動くことができない。
 ということは。
 私は、いま書いたような「複雑な構文」にしたがって読んでいるわけではない。
 この庭には隕石があって、その隕石のさびのせい(?)で羊歯が枯れ果てているのだけれど、その枯れ果てた羊歯のなか(茎のなか? 葉のなか? 羊歯という存在のなか?)を、失われた土(隕石によって「さび」た?土、疎外された?土)が沈んでいく。羊歯は枯れ果てながら、土のことを思っている--というふうに読んでいるわけではない。
 私はただ「音」を読んでいる。「音」はことばであるから、当然「意味」を含んでいるが、その「意味」を優先して読んでいるのではなく、ただ「音」を読んでいる。そうすると、遅れて「意味」がやってくる。
 「音」と「意味」とのあいだに「ずれ」がある。
 その「ずれ」は改行によって増幅される。「枯れ果てた/羊歯」「失われた/土(の記憶)」とひと呼吸置いて(改行を挟んで)音がつながるとき、そのつながりの奥から「意味」が駆け足でやってくる。
 それを振り払うようにして、ことばの「音」はさらに先に進む。
 「あのやせこけた裸の音を」--あ、これは「土の記憶が沈んでいく」音なんだなあ。と、思う間もなく、「牧神は」と主語が変わる。
 西脇のことばは「意味」を拒絶している。
 ことばはどうしても「意味」を持ってしまうものだから(読者は、どうしたってことばに「意味」を読みとろうとするのもだから)、どんなに飛躍したことばを書いても、そこに「意味」が出てきてしまう。そして「重く」なる。
 この「重さ」を拒みながら、西脇はことばをただ「音」に帰そうとしている。
 実際に、西脇のことばは「軽い」。「音」が軽快で気持ちがいい。
 たとえば、

 この庭の隕石のさびに枯れ果てた

 行頭の「この」は、何のことかわからない。つまり「意味」がない。「意味」をもたない。単なる「音」である。でも、とても重要である。「庭の隕石のさびに枯れ果てた」では「庭」の「意味」が重くなる。
 「この庭」と言ってしまうことで、「庭」の「意味」を軽くする。
 「この」というのは、すでにその存在が意識されていることを示している。それは、まあ、西脇にはわかっている「この」庭であるということを意味する。そして、「この」という音を持ってくることによって、読者に「すでにその存在が意識されている」ということを「共有」させる。読者を、西脇のことばの運動の共犯者にしてしまう。そうすることで、ことばを動かすということを、西脇ひとりの仕事ではなく、読者の仕事にもしてしまう。
 なんだか書いていることが矛盾してしまうようだがてんてん。
 「この」は、だから、とても「意味」がある、ということにもなる。「この庭」の「庭」意味があるのではなく「この」に重要なものがある。意識の動きのポイントがある。
 「文章」としては「意味」を持たない。けれども、ことばの運動としては「意味」を持っている--それが、「この」なのである。「この」という「音」なのである。
 書かれているのは「もの」のようであって、「もの」ではなく、「意識の運動」なのである。「意識の運動」というのは、まあ、適当なものである。適当というのは、かならずしも「学校教科書」の文法どおりには動かないということである。思いついたもののなかを、かってに動き回る。そして、「意味」は、それを繋ぎ止めようとして必死になって追いかけてくる。
 西脇は、そういう追いかけっこを「音」を優先させることで動かしている。追いかけっこのエネルギーは「音」のなかにある。その「音」を気持ちよいと感じ、それを選びとる「耳」や「喉」といった「肉体」のなかにある。
 西脇の詩を読むと、私はいつも「耳」がうれしくなる。「喉」がうれしくなる。「肉体」が共振する。


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小沢書店
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誰も書かなかった西脇順三郎(202 )

2011-03-29 11:47:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

この寂しいわさびの秋の夜に
ランプの夜明けがある
このコップに夕陽のあの
野ばらの実の影が残る
人間が残ることがあるだろうか
人間の声が残るだけだ
ああ きぬたの音がする
おお ポポイ ポポイ

 「人間の音」ではなく「人間の声」。どこが違うのだろうか。
 これから書くことは私の印象である。
 「音」と「声」を比べると、音の方が原始的(根源的)である。音をととのえ、そこに「意味」をもたせたものが声である。声は「ことば」でもある。実際、ここに書かれた「声」を「ことば」と置き換えると、「意味」が生まれてくる。
 時間が流れ、すべてが移りゆく。けれど自然や宇宙の生成は変化をしながら時間を越えて「残る」。人間は死んでゆく。残らない。ひとりひとりは残らないが、そのかわりに「ことば」が残り、ことばが「永遠」になる。
 でも、そんな「ことば」というのは、何か味気ない。「真理」というのは、味気ない。人間がいなくても存在するのでは、どうにもつまらない。
 何か、真理とは切り離されて、永遠とは切り離されて、「いま」「ここ」と深く切り結ぶ何かがないとつまらない。そういうときの「切りむすび」のきっかけは、私の考えでは「間違い」である。「ずれ」である。人間は真理そのものとは一体になれない。何かしら「自己」がにじみでてしまう。そのにじみでたものが「間違い」「ずれ」。それがあるから、「真理」も見える。
 そして、その「間違い」や「ずれ」を含んだものが「声」なのだと思う。「肉体」の刻印が「声」なのだ。それは「意味」から逸脱した何かである。だから西脇は「ことば」とは書かなかったのだ。

村の花嫁の酒盛りに行つた
ムサシノの婦人は帰つて来る
この夕暮れ近く
あの疲れた人も帰つて来る
「夏ならまだ日が照つているのだが」
と鼻の高い青ざめた男が言つている
カシの木の皮も青ざめている

 これ連に出てくる「夏ならまだ日が照つているのだが」が、「声」である。そのことばに「意味」はあるが、そんな「意味」はあってもなくてもいい。男が帰って来たひとに声をかける。その行為、そのなかにこそ、ことばにならない「意味」がある。
 そして、このことばにならなかった「声」が「音」なのだ。
 西脇は、男の「ことば」を記憶していて、それを書いたのではない。また、男の「声」を記憶していて、それを書いたのではない。西脇は、男の「ことば←声」を聞いて、そこに「←音」を感じたから、ここに書き留めているのである。
 「音」は「→声」になり「→ことば」になることで、見えにくくなる。聞こえにくくなる。だから、この行に「音」が書かれていると言っても、それは私の妄言(私の「誤読」)にすぎなくなるのだが、私が感じるのは「意味」ではなく、「音」なのである。
 「音」が聞こえるから、おもしろい。





西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会



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誰も書かなかった西脇順三郎(201 )

2011-03-25 12:49:32 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

これは確かに
すべての音だ
私は私ではないものに
私を発見する音だ
これは秋の音だ
ヴィオロンの音だ
ガラスの空しい思いの
多摩の石の音だ

これはまたケヤキの木の音だ
マラルメの音だ
私の中に水が流れる音だ
アエキロスのカエルの音だ
これはまた衣を洗う音だ
冠を洗う音だ
カーテンの後の音だ
ああ あの毛髪のきらめきの音だ

 ここには、ヴェルレーヌ(ヴィオロンの音)が出てくる。マラルメも出てくる。アエキロスそれぞれに「音」ということばがついている。それは、たとえばヴェルレーぬが「ヴィオロン」のなかに「私」を見つけたということだ。そして、ヴィオロンになったということだ。
 「音」は「私」と「もの」を結びつけるものである。「連結」そのものである。

 視覚ではない。色でも形でも線でもない。「音」によって「私」は「私以外のもの」と連結し、「他者」になる。
 西脇の夢はここにある。

これからが大変に難しくなる
音が人間の音になる
すべての音は人間が恐れる音だ
殺人の音だ
こおろぎの音だ
ああ 音が去つていく
ただ一つ女の音が残る
ナデシコの静けさ

 前の連の「カーテンの後の音」「殺人」「こおろぎ」とつながれば、どうしてもそこにシェークスピアが思い浮かんでしまうが--それは無視しよう。マラルメもヴェルレーヌも無視しよう。そこには確かにマラルメもヴェルレーヌもシェークスピアもいるのだが、それを貫いて「音」がある。詩人が「音」を自分の「肉体」の中に取り込み、それをはきだす。
 そのとき「音」は他者(もの)のものか「私」のものか。「秋の日のヴィオロンの/ためいきの」というとき、それは「ヴィオロン」なのかヴェルレーヌなのか、上田敏なのか。区別がつかない。「音」が動くと、そこからヴィオロンが生まれ、ため息が生まれ、ヴェルレーヌが生まれ、上田敏が生まれてくる。
 そこに動いているのは「人間」という「音」なのだ。

 「人間」は「音」なのだ。

 この「音」を人間は、どうやって発見するのだろうか。これは難しい。人間の発する「音」は、どうやって生み出されるのだろうか。

 私の書いていることは、たぶん、この文章を読んでいるひとにはわからないと思う。なぜなら、私にも、何を書いているかわからないからだ。
 私にわかるのは、「音」が私の肉体のなかに入ってくるとき、うまくなじめるものとなじめないものがあるということだ。どうしても「好み」があるということだ。「好み」の「音」を通って、私のことばは動いていく。「事実」ではなく、「音」の好みに導かれて「音」がことばになる。
 「私は私ではないものに/私を発見する」といっても、そのとき「音」が自分の「好み」どおりに響かないと、私は私以外のものに私を発見することもできないのである。
 私が何かに(私以外のものに)私を発見するのではなく--「音」が私の代わりに私を発見してくるのである。私のなかに、知らず知らずにたまった「音」が。私のなかにたまった「音」と何かが響きあう--そのとき、ことばが動きだす。

 そのことばの動きは「誤読」である。

 そして「誤読」であることを承知で書くのだが、私は西脇の「音」に触れると、そこに私の肉体のなかにある「音」が瞬間的にととのえられ、音楽になるのを感じる。
 --ということを、「野原の夢」の「音」をめぐる行から書きたいと思うのだが、どうにも書けないなあ……。





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誰も書かなかった西脇順三郎(200 )

2011-03-24 12:31:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

もうわからなくなつた
あのせせらぎのせせらぎの
そのせせらぎの
あの絃琴のせせらぎ!
ああまたわからなくなつた
オオ パ パイ
ああ あのすべては
すべてでなくなつた

 「もうわからなくなつた」。この1行がおもしろい。何かを感じる。感じるけれど、ことばにするとわからなくなる。わからなくなったと書くことで、「音」を隠してしまう「ことば」を取り払おうとしているように私には感じられる。
 「音」はことばになる。けれど「ことば」になってしまうと、「音」のほんとうの何か--「音」が「音」として生まれてくるときの動きが見えなくなる。「音」そのものが、どこか遠くへいってしまう。
 遠くへいってしまうことで「すべて」である「音」は「すべて」ではなくなる。単なることばになる。
 
ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする
人間の苦しみの音がする
クルベの女が夢をみている
ああ また音がする
それはすべての音だ

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ

 「音」、その最高のものを、「私は私でないものに/私を発見する音だ」と西脇は定義している。
 「音」のなかには「私」以前があるのだ。「私」が生まれてくる「場」があるのだ。「音」を通って、「私」は生まれてくる。しかも、それは「私」ではないことによって「私」になる。「私を発見する」。
 色でも形でも線でもない。「音」なのだ。それも女の「音」なのだ。

 そして、この「音」は、まだ「音楽」にはなっていない。「音楽」になっていないことによって、「音楽」を超えている。それは「音」がことばになっていないことによってことばを超越しているのに似ている--と、独断で書いておく。
 その「理由」「根拠」をつかみ取りたいけれど、私には、それができない。直感として、そう思うだけである。そういう直感を呼び覚ましてくれたのが、西脇順三郎の詩なのである。だから、私は西脇の詩について、ああでもない、こうでもないと、わけのわからないことを書いているのである。

 あ、何かを書き間違えた気がする。

私は私でないものに
私を発見する音だ

 この2行の不思議さは、「音」を消してみるとわかる。

私は私でないものに
私を発見する

 こう書いてしまうと、それは詩の「哲学」になる。「詩学」になる。詩はいつでも私が私ではないものに私を発見すること。他者(もの)のなかに私を発見し、私が他者(もの)になってしまうことである。
 その過程を、西脇は「音」ということばであらわしている。「音」という余分なことばをつけくわえることで書こうとしている。この「余分」、書かずにはいられないことばのなかに西脇が存在するのだ。
 ひとには、どうしても書かなければ気が済まないことばがある。
 また、自分には密着しすぎていて書き忘れてしまうことばがある。
 詩は、そういうことばのなかにある。




西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
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誰も書かなかった西脇順三郎(199 )

2011-03-23 11:39:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。
 「連結」は、次のようになる。

ああ苦しみのケヤキの
クヌギのトゲトゲの葉の
カミングズのリス
エリオットの暗闇の荒地を
エラズのイタリの門を
くぐるダンテのフロレンスの
地獄のパンの笛の
ヘナヘナヘナヘナの音の

 カミングズ、エリオット、ダンテ--そのことば(名前)が呼び覚ますものはさまざまにあるが、それを「意味」にしても無意味である。西脇は「意味」を正確に書こうとはしていない。西脇は「意味」を「連結」しようとはしていない。「意味」を無視して、音を「連結」しようとしている。イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄、とことばが動けば「神曲」という「意味」が浮かぶけれど、そういうものを西脇は否定する。「ヘナヘナヘナヘナの音の」という無意味が、「神曲」という「意味」を笑い飛ばす。「意味」は、「意味」をほしがる人間が(読者が)かってにつけくわえればいい。しかし、西脇は「意味」を必要としていないのだ。

 では、なぜ西脇は、イタリ→ダンテ→フロレンス→地獄とことばを動かしたのか。
 あ、これが問題だねえ。
 これから私が書くことは、ほんとうに私が書きたいことなのだが、どれだけ書いてもきちんと説明できないことがらである。
 ひとはことばを選ぶ。そのとき、なぜ、そのことばを選ぶのか。音のなかにある何かにひかれるのである。音は(声は)、人間の本能のとても深いところと関係している。
 机の上に林檎があるとする。それを絵に描けば、何国人であろうと林檎の絵になる。赤い(ときには青いけれど)、丸い形、イタロ・カルビーノの表現をかりればアルファベットのQの形になる。けれど、それをことばにすると、林檎になったり、アップルになったりする。絵だと似通ったものになるのに、ことば(音)にするとずいぶん違ったものになる。なぜ? 人間がひとりの(一匹の)猿から出発したとして、絵を描くときにはそんなに差がないのに、ことばにするとさまざまに分かれてしまったのはなぜ? 音の方が、音の力の方が人間の奥深いところを揺さぶるのだ。視覚よりも、耳と口をとおして(ふたつの器官を融合させて)動かすものの方が、人間の奥底に影響するのだ。人間の感覚は、便宜上「五感」に分類されるけれど、どこかで融合している。そして、その融合、未分化のものの方が、本質、本能なのだ。
 ことば、声に比較すると、視覚的表現である「絵」は、はるかにあとから生まれてきた、一種の「嘘」なのである。「芸術」なのである。それに対して「音」は嘘ではない。つまり「芸術」以前なのだ。その「芸術以前」のところをことばがくぐるとき、人間は無意識にある音を選んでしまう。ある音を好んでしまう。そして、ことばは、いくつもの外国語に分かれていったのである。--というのは、私の大胆な仮説。
 そして、それと同じように、何かを書こうとするとき(これから書くことは、さっき書いたことと矛盾するのだけれど)、つまりなんらかの、まだ「意味」になっていない「意味」を書こうとするとき、西脇の耳は、カミングズだのエリオットだのエラズだのダンテだのの音のなかをさまようのである。(その名前ではなく、彼らの書いた音、つまりことばの運動をふくめてのことであるけれど。)音はいくつもに分裂しながら、まだ、ここに存在しない音をめざしている。それは、そして遠い遠い昔--西脇が生まれる以前に西脇が聞いた根源的な音なのである。
 いつでも西脇は「根源的な音」(音の根源)を探している。そこに、「人間」が存在するからだ。
 そして、西脇が「根源」というとき、そこには「男」ではなく「女」が登場する。すべての「人間」は女から生まれるからである--というのも、西脇の考えではなく、私の大胆な仮説かもしれない。西脇は、そう考えているというのは、私のかってな「誤読」かもしれないが……。

やがてミヨンの幽霊が出る
竹藪にすばらしい会話が
聞えてくる
今日もまた聞こえてくる
この栄華の悲しみに
今日の夕を過している
ああまたあの音が聞える
あの女の音が聞える

 「女の声」ではなく、「女の音」。それは、ことば以前の「音」、「肉体」を動いている何かのことである。視覚かもしれない。嗅覚かもしれない。触覚かもしれない。そうではなく、それらを統合して、何かになろうとする力、何かを、まるで子どもを産みだすように生み出そうとする蠢きかもしれない。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社
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誰も書かなかった西脇順三郎(198 )

2011-03-22 10:38:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」。
 音のことばかり書いているので、ときには「意味」のことも。「意味」になるかたどうか、わからないけれど。

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ
秋の日に野原を走るこの
悲しみの悲しみの悲しみの
すべての連結の喜びの
よろこびの苦しみになる
かも知れないまたの悲しみのかなしみ

 「悲しみ」ということばの繰り返しの途中に「喜び・よろこび」ということばが出てくる。これは「悲しみ」とは相いれないことばである。もうひとつ「苦しみ」も出てくるが、苦しくと悲しいは近いことばである。苦しくて悲しいという表現は一般的に成り立つ。喜びで悲しい(うれしくて悲しい)は、いっしょの次元ではなく(併存ではなく)、喜びの一方で悲しい気持ち、うれしいけれど悲しいという対立した(矛盾した)感じのときにかぎられる。
 けれど、西脇は、ここに「喜び」ということばを持ってくる。
 そのとき「連結」ということばをつかっている。「連結」は「併存」でも「対立(矛盾)」でもない。併存も対立も、そこに接点はあるだろうけれど、それは結び合ってはいない。

 詩を定義して、いままで存在しなかったものの出会い、かけはなれた「もの」の出会いという言い方があるが、西脇はその「出会い」を「連結」という状態にしてしまう。しっかり結びつけてしまう。
 ここに西脇のおもしろさがある。そして「日本語」のおもしろさがある。外国語を知らないから、私の感想は間違っているかもしれないが、日本語というのはなんでも「連結」してしまう。どんな外国語も、そのまま取り入れて、「併存」させるというより、日本語そのものに結びつけてしまう。
 日本語のなかにおいてでも、西脇は、この詩の「悲しみの悲しみの悲しみの」と「の」をつかうことで、どんどんことばを「連結」させてしまう。
 そうすると、そこから「喜び・よろこび」が生まれてくる--これが西脇の「哲学」なのだ。そして、その「喜び・よろこび」を、私の場合は「音」のおもしろさ、たのしさ、「音楽」として感じる、ということになるのかもしれない。

 ことばを「連結」するのが「喜び・よろこび」なら、いま、ここに、ふつうにあることばを「ほどく」(連結から解除する、結び目を解体する)というのも「喜び・よろこび」である。
 ことばがほどかれたとき、そのほどけめは乱れる。そこに乱調の美がある。
 しっかり結びつけられた結び目、その独特の形も美しいが、硬く結びつけられていたものが(がんじがらめにこんがらがっていたものが)、解きほぐされたとき--これもまたうれしくて、笑いだしたくなるねえ。

すつぱいソースを飲みにそれは
ザクロの実とセリとニラを
つきまぜた地獄の秋の香りがする
アベベが曲つたところから
左へ曲つて
花や実をつけたニシキギや
マサキのまがきをめぐつて
われわれは悲しみつづけた

 「アベベ」はエチオピアのマラソン選手だろう。東京オリンピックでアベベが走った道。そこを曲がる。ふいに、そこにはいないアベベを「連結」するとき、いまという「とき」がほどかれる。時間が自由になり、その解放感のなかでことばが自由になる。
 「連結」は「解体」(解放)でもあるのだ。





詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
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