詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(197 )

2011-03-21 09:46:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「禮記」には、きのう読んだ「田園の憂鬱(哀歌)」の音(音楽)とはまた違った音楽がある。

このまなこのくらがりにつくつく
ぼうしのなくこの
歴史のせんりつが
セメントをうつ雨のように
きこえる

 ここには互いに反発して輝く音ではなく、深いところで手をつなぎ合う音がある。「このまなこのくらがりにつくつく/ぼうしのなくこの」という2行のなかに「この」が3回繰り返される。ただし、そのうちの1回は「まな・この」だから、その前後の「この」とは「意味」が違う。「意味」が違うけれど同じ音であるために、何か「意味」を越えて、しっかりと結びついてしまう。そして、その結びつきが「まなこ」ということばの「意味」を遠ざけてしまう。「まなこ」が「まなこ」でなくなってしまう。
 その影響だろうか。「つくつくぼうし」は「つくつく」と「ぼうし」に切り離され、やはり「意味」を失う。ただし--あ、このただし、が変だなあ。ただし、「意味」を切り離されながらも、その「切り離された」という感覚が、不思議と、「意味」を呼び戻すのである。「つくつく/ぼうし」は「つくつくぼうし」と書かれていないけれど「つくつくぼうし」のことなんだ、と意識させる。
 変だよねえ。
 「まなこの」は「まな/この」に切り離され、「つくつく/ぼうし」は切り離されているはずなのに「つくつくぼうし」とくっつけられてしまう。
 「音」は書かれていることばとは違った運動をしてしまうのである。「音」(声)は、書かれたことばの「意味」を越えてしまうのである。「意味」を越えて、遊んでしまう。遊びながら、音と音が手をとりあってしまう。
 これは、いったいなんなのだろう。
 私は書きながら、さっぱりわからない。
 たとえば「つくつくぼうし」ということばは、「つくつく/ぼうし」という具合にばらばらにされてしまう。そうすると、そのばらばらな感じは、くっついているはずの「つくつく」さえも「つ/く/つ/く」という音にしてしまう。そこから、「なく」の「く」が手を結び合うきっかけが生まれ、それは音をさかのぼって「くらがり」の「く」とも結びつく。音というのは一瞬一瞬消えてしまい、そこには同時に存在しないのだが、繰り返されることで同時に存在しないはずのものが、その瞬間に存在してしまう。いま、ここにないものが、音のなかで、なぜか存在し--いや、存在を越えて、どこかへ強く引っ張られていく。
 「いま」が「ここ」から消えていく。
 「つ/く/つ/く」の「つ」は、「歴史のせんりつ」の「つ」になる。「旋律/戦慄」と書いてしまうと「つ」は消えてしまうから、西脇は、あえて「せんりつ」と書くのだ。そして「セメントをうつ雨」の「つ」にもなる。
 同時に「せんりつ」と「セメント」が「せ」「ん」の繰り返しのなかで重なる。「戦慄/戦慄(せんりつ)」と「セメント」は無関係なものであるけれど、音のなかではとても近いものになる。その瞬間に「せんりつ」の「意味」も、「セメント」の「意味」もたたき壊されてしまう。
 「意味」がたたき壊されてしまうから、何を読んでいるのかわからなくなる。
 わかるのは、そこに消えてはあらわれる「音」があるということだけ。あらわれる「音」は不思議なことに、未来へも過去へも自在によびかける。ひとつの音から、それ以前のことばのなかの音が思い出される。また、ひとつの音から、いまとは無関係な別なことばが噴出してくる。
 いま、ここにある音のなかで、過去と未来が出会ってしまう。

 でも、それは「歴史」とは違うなあ。西脇が「歴史」ということばを書いているので、私は、そんなことをふいに考えてしまう。
 それは一般に言う「歴史」とは違う。しかし、どこかで「歴史」以上のものを感じさせる。ひとはなぜ、いくつかの音を出すのか。その音をなぜ、それぞれ聞き分けることができるのか--そのときの、人間の、「歴史」を越えた、不思議な力を思い出させてくれる。感じさせてくれる。
 



西脇順三郎詩集 新装版 (青春の詩集 日本篇 15)
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誰も書かなかった西脇順三郎(196 )

2011-03-20 14:45:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「田園の憂鬱(哀歌)」の次の部分がとても好きだ。

もう春も秋もやつて来ない
でも地球には秋が来るとまた
路ばたにマンダラゲが咲く
法隆寺へいく路に春が来ると
ゲンゲ天人唐草(てんにんからくさ)スミレが咲く
ああ長江の宿も
熊野の海に吹く鯨のしおも
バルコンもコスモスもライターも
秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も
すべて追憶は去つてしまつた

 秋、路ばたにマンダラゲが咲く、春、法隆寺へ行く路にゲンゲ、天人唐草、スミレが咲く。そのことがなぜ、詩、になるのか。そこには、いったい何が書かれているのか。秋の花、春の花の名前が語るのは何なのか--という問いは正しくない。正しくないというか、私の書きたいことからずれてしまう。私がこの部分がなぜ好きなのか。そこに「意味」を感じているからではない。その自然の花の美しさを感じているからではない。私はそこに「音」があること、その「音」が一種類ではないことに、喜びを感じるのだ。
 いろんな音が炸裂している。咲き競っている。
 そのなかでも、私がいちばん驚くのは「天人唐草(てんにんからくさ)」である。西脇はわざわざルビを振っている。そう「読ませたい」のだ。「意味」だけなら、ルビはひつようとはしないだろう。ゲンゲ・てんにんからくさ・スミレ。その音の響き具合を聞いてほしいと願っているのだ。ゲンゲとスミレに挟まれて「てんにんからくさ」は、とてもなめらかな響きで輝く。
 これが、もし「いぬふぐり」であったら、どうだろう。「いぬふぐり」は「天人唐草」の別称である。「意味」は同じである。でも、ゲンゲ・いぬふぐり・スミレ、では、音がまったく違ってしまう。
 さらに「ゲンゲ」ではなく「れんげ」「れんげ草(そう)」の場合も音が違ってくる。おもしろみが減ってしまう。        

 詩は「意味」のなかにあるのではないのだ。

 「熊野の海に吹く鯨のしおも」も、とてもおかしい。ごくふつうに「意味」をつたえるなら「熊野の海に(海で)、鯨の吹くしおも」だろう。(意味は少し違うが、熊野の海に、潮を吹く鯨も、という言い方もあるだろう。)「吹く鯨のしお」というのでは、「吹く」の主語を一瞬見失ってしまう。「鯨がしおを吹く」という基本的な「事実」が、どこかへ消えてしまう。そして、そこに音が残される。
 すべての追憶は去ってしまって、音が残される。「意味」を欠いた音が残される。そうしてみると、追憶とは「意味」かもしれないなあ。
 ほら。

 秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も

 この1行で思い出すのは何? ふと、「作者」(筆者)を思い出さない?
 でも、我慢しよう。「作者」を思い出し、その名前を口にすれば、そこに「意味」が生まれる。西脇は、その「意味」を拒絶して、秋刀魚も「ツァラトゥストラ」もというときの肉体のなかに広がる音を楽しんでいるのだ。





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誰も書かなかった西脇順三郎(195 )

2011-03-14 11:44:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「田楽」の最後の方にとてもおもしろい展開がある。

「まよ中におれが考えたことを
あの女にきかせるよりは死ん
だ方がましだ」
(そげなことを思いながら)

 西脇の詩には不自然な改行、ことばの「行わたり」が頻繁にみられるけれど、「死ん/だ方がましだ」は、とりわけかわっている。「死んだ/方がましだ」なら、まだ「死んだ」でいったん「意味」が完結し、それが次の行で破壊される(と、いうか、方向転換される)ので、強引な感じはしない。「死ん/だ方がましだ」は、どうみても強引である。
 でも、なぜ、強引に感じるんだろう。「意味」を追うからだろう。しかし、その「意味」とはなんだろう。「頭」で追いかける「意味」だ。
 「肉体」は、ほんとうはそんなふうにことばを追いかけないかもしれない。
 思わず「死」ということばを口にして、そこでいったん立ち止まる。勢いで「死ん」まで言ってしまうが、言いながら、いまのことばでよかったかな? 言っちゃいけないんじゃないかな? ふと、迷う。その迷いの瞬間を乗り越えて、急遽、ことばを別な方向に動かす。そういうことがある。
 そのリズムを、西脇のことの行のわたりは具体的に再現している。
 「意味」ではなく、呼吸。息。息がここにある。

(そげなことを思いながら)

 これは、いまの会話口語で言いなおすなら、「なんちゃって」ということになるだろうか。
 勢いで動いていくことば、肉体が自然に発してしまうことば--それを、状況の変化(まわりの反応)をみて、急に方向転換する。そういうとき、「論理的」なことばの運動ではだめである。「論理的」ではなく、脱論理--肉体の無意味さで、それ以前のことばをたたき壊すような乱暴さ(乱暴のやさしさ)が必要である。

 ことばにとって(日常のことばにとって)、「意味」は重要ではない。対話にとって重要なのは、呼吸、息。息が合えば、なんとかなるのだ。
 西脇のことばは、いろんな「出典」を抱え込んでいる。(そういう分析を熱心にしているひともいる。)「出典」を明確にすることで「意味」がわかることがある。けれど、「出典」では絶対にわからないものがある。なぜ、そこにその「出典」が、という根拠である。
 あらゆることば--西脇のことばにかぎらず、だれのことばでも、そのことばが発せられるとき、そこには独自の呼吸(息)がある。リズムと音楽がある。「意味」ではなく、私は、そういう音楽、呼吸にいつも誘い込まれる。





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誰も書かなかった西脇順三郎(194 )

2011-03-11 11:25:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 だれにでも起きることなのか、それともカタカナ難読症の私にだけ起きるのかわからないが、私にはときどき変なことが起きる。そこに書かれていることばが、そのことばの「意味=辞書の定義」とはまったく違ったものとして感じられることがある。
 「カミングズ」。

魚が
とけるときは
麦の中を行く
人間のへその
ひらめきの
海のきらめきを
弾く
コバルトの指は

 この最後の「コバルト」というのは「色」、日本語でいうと青という「意味」であるはずなのだが、私の意識は「コバルト」が「青」(色)にはすぐにたどりつけない。それだけではなく、「青」とわかったあとでも、「青」が目に浮かんで来ないのである。
 では、この詩から、その最後の行、「コバルト」から何を感じるかといえば、音なのである。ふいに湧き出てくる音楽の音符の錯乱のようなものを感じるのである。
 この詩が、具体的に何を書いているか、正確には言いなおせない。私は私の感じたままに、何を感じたかを書くと、西脇は麦畑を歩いている。麦秋。さわやかな五月だ。金色の麦の向こうには青い海がある。その海は若い女性の裸のようにつややかだ。海が和解女ならば、ちょっといたずら(?)をしてへそを弾いてみたい。からだの中心は、へそか性器か、難しい問題だが、へそを弾く方が性器にふれるよりも(クリトリスを弾くよりも)、婉曲的なだけエロチックである。
 そうすると、どうなるだろう。
 私のかってな解釈(誤読、--夢としてのあり方)では、女は笑う。男の幼稚さ(女に比べればいつでも男は幼稚である)を、明るく、五月の光そのもののような、軽やかな声で笑う。その笑い声の響きが「コバルト」というメロディーであり、リズムなのだ。(モーツァルトならきっと「ドレミ」で「コバルト」を軽やかな音階にしてみせるだろうと思う。)
 その音楽に色をつければ「コバルト」かというと--うーん。私は、やはりそうは思えないのである。「コバルト」に色はない。あるのは、「ひらめき」「きらめき」である。つまり、色を拒絶して反射する「純粋な光」である。

ひらめきの
海のきらめきを

 この2行で繰り返される「らめき」という音のなかにある光。それが、さらに純化されて、「コバルト」という音になる。
 「弾く」という動詞が出てくるが、「ひらめき」と「きらめき」を「弾く」と、そのふたつのことばのなかの違い「ひ」「き」という音がぶつかりあって、それまでそこに存在しなかった音、「○+らめき」ではなく、「コバルト」という音に変わる。
 なんでもいいけれど、弾くと、そのものから音が飛び出してくる。それと同じように「ひらめき」「きらめき」を弾くと「コバルト」という音が飛び出る。

 でも……。
 きっと、反論(?)が読者のなかに残ると思う。「ひらめき」「きらめき」を弾いて飛び出してくる音楽が「コバルト」というのは勝手だが、その「コバルト」は「コバルトの指は」と「指」を修飾している。「弾く」の主語が「コバルトの指」なのであって、弾かれて出てきたものが「コバルトの指」ではない。私の読み方では「主語」が無視されている、という指摘があると思う。
 そうなんだよなあ、そこが問題なんだよなあ。
 でもねえ。「弾く」という動作、そこから生まれる「音」というのは、では、弾かれた「もの」のもの? たしかにある「もの」が弾かれ、そこから音が出てくるとき、音は「もの」に帰属するようにみえるかもしれない。「もの」がないかぎり音は誕生しなかったのだから。けれど、音の誕生そのものについて言えば、「もの」だけでは音は誕生しない。弾かれることによって音が誕生する。そうすると、その音は、音を誕生させた「指」に帰属するとも言える。いま、この詩では「指」が弾いているが、何によって弾くかによって生まれる音が違うことを考えると、音は単純に弾かれた「もの」に帰属するとは言えない。弾かれる「もの」、弾く「もの」の両方に帰属する。
 で、私は、この詩の「コバルト」は、「指」そのものの「音」のように感じてしまうのだ。「コバルト」という音をもった指が弾くから、「へその/ひらめきの/海のきらめき」から「コバルト」という音が弾き出されるのだ。
 「指」は指であって指ではない。それは西脇(この詩の「麦畑を歩く人」)の指であって、指ではない。それは、世界を、この8行に結晶させる「中心」であり、同時にそれがたどりつくことのできるはるかな「永遠(遠心)」でもあるのだ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(193 )

2011-03-10 20:24:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 私は「意味」のわからないことばに出会うのが好きだ。「意味」がわからないと、肉体と精神はどう動くか。
 たとえば「元」。

あけぼのに開く土に
みみ傾けるとき
失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 2行目の「みみ傾けるとき」。「意味」がわからない。いや、「みみ傾けるとき」そのものの意味はわかる。聞く、という意味だ。けれど「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」とは、どういうこと?
 「あけぼのに開く土」も、ほんとうは「意味」がわからない。なんとなく、あけぼのになって、つまり夜が明るんできたとき、土がぼんやり見えてくるくらいの「意味」だと思う。そして、そう思うからこそ「みみ傾ける」がわからない。夜明け、夜の底がぼんやり明るくなり、土が見えてくる--なら、その「見えてくる」の「主体」は「みみ」ではなく「目」であるべきだ。と、私は思う。「あけぼのに開く土に/目を向けるとき」なら「意味」はすっきりする。
 けれど、西脇は「みみ傾けるとき」と書いている。
 このとき、私の肉体はどう動くか。
 目は一瞬見えなくなる。いま、目の前にあるもの、たとえば本のページ--それは見えているのだが、それを私は見ていない。見えているものと、「あけぼのに開く土」ということばが一致しない。さらに「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」となると、見えているものとことばがさらにかけ離れてしまう。何も見えない。
 そして、見えないことがわかると、次に私は目をつむってしまう。目が開いていてもことばと重なるものが何も見えないなら、目をつむって、いま見えているものを消してしまった方が「見る」という行為に近づくと感じるからだ。(あ、変な論理だねえ。)そして、目をつむると--不思議。耳の奥に、暗がりから浮かび上がる大地がぼんやり見えてくる。目をつむっているのだから目が見ているのではない。では、何が見ている? 「みみ」が見ている、私は瞬間的に思う。
 というより、思わされる、という方がいいか。「思わされる」というのは変な言い方だ。言いなおすと、西脇の「みみ傾けるとき」という行の「みみ」ということばが影響して、その「みみ」で聞くのではなく、見てしまうのだ。「みみ」で見てしまったと感じてしまうのだ。
 私の肉体は、「誤読」するのだ。肉体、その器官が、自分の役割を越えて、他の領域に入っていく。「みみ」が「聞く」という領域を越えて、「見る」のなかで世界をつかみ取っている。あ、「みみ」でも「もの」を見ることができるんだ、と私の肉体は錯覚する。「みみ」が「みみ」であることをやめて、「みみ」自身を「目」と誤読してしまう。
 「みみ」と「目」の区別がなくなってしまう。
 したがって、(したがって、というのはきっと変なつかい方になっていると思うのだが……)、「みみ」は「みみ」以外の領域へ突き進んでゆく。

失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 「郷愁の夢」。抽象的に書かれている。なんのことかよくわからない。けれど「夢」ということばに誘われて、肉体の主役は「みみ」から「目」へ戻って生きている。「目」が、失われた郷愁の夢を見るのだ。
 目、みみ、目が、気がつけば、次々に自己主張している。「わけがわからなくなる」。わけがわからないのだけれど、この目、みみ、というものをいちいち区別せずに、「目」で聞いてもいいし、「みみ」で見てもかまわないというのが、「肉体」なんだなあ、と思うのである。
 暗がりなら、手さぐりで場を見る、爆音で鼓膜が敗れたときは(私はそんな体験はないのだが)目でものの動きから音を聞くということもできる。それが「肉体」の力である。そういう力とどこかで触れ合っていることば--そのことばのなかには、きっと「こころ」というものがあるのだ。「肉体のこころ」である。

失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 このときの「追う心」--それは、私には、人間の手足をもったものとして見える。だから、そのことばのあとに、「足音」という表現が出てくるが、ごく自然なことに感じられる。

ああまた人間のそこ知れない
流浪の足音に
さそわれてあわれにも
ふるさとの壁にうつる
あたらしい露を桜の酒杯にのむ

 わからないものは、みんな「肉体」が消化する。もちろん「肉体」では消化できないものもある。それは、ほんとうにわからない。「頭」で考え直さないと、絶対にわからない。私は、まあ、そういうものに近づくだけの「頭」がないので、敬遠して、「肉体」でつかみとれるものにだけ接近して、それを楽しむ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(192 )

2011-03-06 12:49:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇のことばは、さまざまに乱れる。あることばの運動が、どうしてそんなところへ行ってしまうのかわからない部分がある。ことばとことばの脈絡に断絶がある。--というのは矛盾した表現になってしまうが、あることばの連続が、ふいに切断された瞬間に、ことばが「もの」のようにしてそこに存在する。それが私には美しく感じられる。
 「坂の夕暮れ」。前半は、ことばが「文学」っぽい。

あのまた
悲しい裸の記憶の塔へ
もどらろければならないのか
黄色い野薔薇の海へ
沈んでゆく光りの指で
そめられた無限の断崖へ
いそぐ人間の足音に耳傾け
なければならないのか

 ここには「日常」のことばにはないことばの動きがある。それを私はとりあえず「文学」っぽいと呼んだのだが、こういうことばを読むと、意識が研ぎ澄まされていくというか、意識が緊張していくのがわかる。緊張の中で、いままで見たことのないものが見えはじめる。
 これはたしかに詩である。
 そして、この詩が、後半にがらりとかわる。

頭をあげて
けやきの葉がおののくのを思い
うなだれて下北(しもきた)の女の夕暮の
ふるさとのひと時のにぎわいを思う
まだ食物を集めなければならないのか
菫色にかげる淡島の坂道で
かすかにかむ柿に残された渋さに
はてしない無常が
舌をかなしく
する

 「かすかにかむ柿に残された渋さ」。この具体性は、あまりにも具体的過ぎて、びっくりしてしまう。前半にあらわれた「沈んでゆく光りの指」という「比喩(文学)」の対極にある。そして、それはまた「日常」でもない。「日常」をたたきわったようなものである。それ自体が「日常」をたたきわったようなものであるが、そのことばは前半のことばの脈絡からかけ離れることで、ことばの運動自体に「断面」を誘い込む。それが美しい。この瞬間の「手触り」が私は大好きである。
 そして、そういうことばの運動のあと、「はてしない無常」がくる。「舌をかなしく/する」という不思議な「肉体」がくる。前半の「文学」(頭の中のことば--比喩)が、「肉体」そのものに、突然変わっている。

 「悲しい裸の記憶の塔」と、「舌をかなしく/する」の、ふたつの「悲しい」「かなしく」をつきあわせると、ことばの断面がよりくっきりと見える。

評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
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誰も書かなかった西脇順三郎(191 )

2011-03-05 09:12:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「半分」ということばは、「たそがれのまなこ」にも出てくる。知人を訪ねての帰り道。その「途中生垣をめぐらす/大きな庭を/向う側にみて」いる。その詩の後半。

ザクロの実が
重そうに枝から下がつている
なぜこの半分の風景が
心をさびしがらせるのか

 ここで「半分」と書かれているのは、ザクロに則して言えば、ザクロの全体が見えない。生け垣で半分は隠されている、ということだろう。「世界」は半分が見え、半分は見えない--そこに「さびしさ」があり、美しさがある。
 それは「意味」が完結しない、ということかもしれない。完結しないことで、「意味」の「断面」のようなものが見えるのかもしれない。その「見える」という感覚は錯覚かもしれないけれど……。きっと、半分であることで、もう半分を求めようとして何かが動くのである。その動くことのなかに、たぶん「さびしさ」と美しさがある。「動く」という運動そのもののなかに、美しさのすべてがある。

何人がこの乱れた野原のような
曲つた笛のような庭で
秋の来るのを
待つていたのだろう
この辺は昔ガスタンクを見ながら
苺に牛乳をかけてたべたところだ

 最後の2行は、この詩を「半分」にしてしまう。「現在」のなかに、突然、時間を突き破ってあらわれる「過去」である。そして、その「過去」は「この辺」というだけの理由で「現在」を突き破るのだ。
 「ガスタンク」も「苺に牛乳をかけてたべ」ることも、生け垣の向こうにある庭とは無関係である。
 無関係なものの闖入は、「乱調」である。そして、この「乱調」を促すのが「半分」という不思議な「断面」、あるいは「すきま」(間)の構造である。ここにかかれていることが、何かに完全に属していない、「半分」自由であるから、そこに乱調を誘い込むのである。




西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
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誰も書かなかった西脇順三郎(190 )

2011-03-04 10:05:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』。「タランボウ」という詩がある。

ハナズホウやマメいろにそめた
袖なしを着て四人の男が
タランボウの木の
みおさめに
雷のならないうちに歩いた

 の「タランボウ」が実はわからない。「タラノ木」というものが『宝石の眠り』に出てくるので、これだろうと、いいかげんな見当をつけている。音が楽しい。「ボウ」にはなんとなく親しいものに対する呼びかけのようなものがある。愛称、っぽい。それが、なんとなくうれしいのである。
 その書き出しの、少し後。

こわれた花瓶のような坂を越えた
トウダイグサやアザミの藪で
キリギリスは呪文をとなえる
人間の声におどろいて半分でやめる

 この「人間の声におどろいて半分でやめる」が、特に「半分」がとても好きだ。途中で、というのと「意味」は同じだろう。途中、といっても、それがほんとうに「途中」かどうかは人間にはわからないことである。同じように「半分」もそれがほんとうに「半分」かどうかなど、人間にはわかるはずがない。けれど、そのわからないものを「半分」と言い切ってしまうところがおもしろい。「途中」よりも「半分」の方が、全体(?)が見えそうでおかしい。それに、音がとてもいい。「途中」でやめるだと、奇妙に重たい。真剣というか、真面目な感じがする。「半分」は軽い。その軽さが「呪文」の重さを洗い流す。
 このあ、詩は、

人間の言葉は悪魔の咳にすぎない

 という行へとつづくのだが、このなにやら重大なのか、冗談なのかわからないことばの運動も「半分」のおかげで、とても軽く弾む。重大な意味にも、冗談にもならなず、「半分」のことばそのままに、その「真ん中(半分のところ)」を動いていく。
 あらゆることばが、「意味」から「半分」離れて動いていく。

ある粘土の井戸もなくなつた
コンクリートの電気ポンプになつた
ノビラ氏はものの涙のために
悲しい「ダ」の宴を開いてくれた
麦酒赤飯油いためのサヤマメやニンジン
青紫の皮のやわらかなナス
「菊」を「ジコウ」に酌んだ
主人とともに絃琴に合わせて
農業政策と物価論を歌つた

 「農業政策」「物価論」を「語った」ではなく、「歌った」--そんなものなど歌えないだろう。でも、歌ってしまうのだ。
 「歌った」の方が音がおもしろい。
 そして、このときの音というのは、現実に「耳」が聞く音ではなく、意識が聞く音である。「歌った」という、ありきたりのことばのなかにある音が、「農業政策」「物価論」という音とぶつかって、「農業政策」「物価論」を「意味」ではなく、音そのものにしてしまう。実際に何を語ったかは問題ではない。「のうぎょうせいさく」(のーぎょーせーさく)「ぶっかろん」という音が「意味」から剥がされて浮かんでいる感じが「歌つた」によって生まれてくるのである。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(189 )

2011-03-03 12:47:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「坂」は前半と後半で、ことばの調子が変わってしまう。

崖のくぼみに
群がるとげのある
タラノ木に白い花が
つき出る頃
没落した酒屋の前の
細い坂を下つて行く
ジュピテルにみはなされて
植物にさせられた神々の
藪の腐つた臭いは
強烈に脳髄を刺激する
神経組織に秘む
永遠は透明な
せんりつを起す

 4行目の「つき出る」に驚く。花が咲く--それを花が枝から「つき出る」。それは突き破って出てくるということだろう。「咲く」も動詞なのだが、「つき出る」は「咲く」より激しい。過激だ。
 興味深いのは「ジュピテルにみはなされて/植物にさせられた神々の」という2行である。西脇の詩には「植物」がとてもたくさん出てくる。それも、この詩に出てくる「タラノ木」のように、どちらかといえば素朴な、観賞向きのものではないものが多い。それぞれの土地で深津根付いているものが多い。そういう「植物」に対して「ジュピテルにみはなされた」という修飾節を西脇はつけている。植物はジュピターに見放されている? それが事実かどうか(神話でそう書かれているのか?)、私は知らないが、まあ、それはどっちでもいいんだろうなあ。私がおもしろいと思うのは、その「ははなされている」という否定的なことばからはじまる不思議な運動(ことばの変化)である。
 みはなされて→腐る→強烈な臭い。それが脳髄を刺激する。そして、永遠が「せんりつ(戦慄?)」を起こす。その運動のなかで「腐る(臭い)」と「永遠」が出会う。「腐る(臭い)」には否定的なニュアンスがある。「見放されて」と通い合うものがある。それが「永遠」を浮かび上がらせる。「永遠」を「戦慄」として浮かび上がらせる。
 そのことばの出会い、「矛盾」したことばが出会い、輝く--その瞬間がとても美しい。私が見たものは、「腐る(臭い)」なのか「永遠」なのか、わからなくなる。この「わからない」という瞬間が、私は好きなのである。
 また、「ジュピテル」ということばからはじまる不思議な音の響きあいも、とても気持ちよく感じられる。「ジュピテル」「植物」「強烈」。「ジュピテル」という日本語ではない音が、前半のことばの「和ことば」を破って、「漢語」を引き出すのだ。「漢語」が連鎖して「脳髄」「刺激」「神経」ということばを引き出す。そこにも音の響きあいがある。のう「ず」い、し「げ」き、の濁音の呼び掛け合い。「し」げき、「し」んけい、の頭韻。その影響を受けながら「永遠」と「透明」が別の音楽を響かせる。「えーえん」「とーめー」。「漢語」のなかにある、その「音引き」の共鳴。「せんりつ(戦慄)」は「「旋律(音楽)」のなかで、忘れられないものになる。
 あ、これは「誤読」だね。強引な、ことばの分解だね。
 でも、「意味」とは無関係に、そういうことを私は感じてしまうのだ。





西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
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誰も書かなかった西脇順三郎(188 )

2011-03-02 09:25:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「くのみの木」。私はこの詩がとても好きだ。まったく個人的な理由である。私があそんだ田舎の川の、その崖の方にくるみの木があって、まだ緑色の皮のついたくるみを河原の石でごしごしやって剥いて、それから石でたたきわって、青っぽいくるみの実を食べたことを思い出すからである。

夏の河原に
水たまりはあせている
土手をよこぎるかまきりは
黒い宝石を動かして
私の来るのを見ている
くるみの木は石にしがみついて
天使の睾丸のような
果実を
みどりの皮に包んで
人間の中で繁殖を考える
たそがれの皮の昔

 遠い記憶と重なるのは、風景だけではない。「天使の睾丸のような/果実」という比喩も、性にめざめるころの記憶と重なる。10代のはじめというのは、「もの」そのものではなく、ことば自体にも欲情してしまう。睾丸ということばに欲情するというと、まるでゲイのようだが、そのころのことばへの欲情というのは女の肉体、男の肉体とは関係がない。肉体を感じさせれば、それだけで欲情の対象になってしまう。「もっと突っ込んで考えろ」とか「挿入」とか「深く」とか、あらゆることばを、まだ知らないセックスと結びつけ、頭が欲情してしまうのである。
 そして、くるみ。「天使の睾丸」。くるみ。そのしわしわの硬い皮は、たしかに睾丸である。その睾丸に天使ということばが重なる不思議。あ、そんなふうにみたことはなかった。そんなふうに感じたことはなかった。そして、それはほんとうは感じてよかったことなのだ。感じなければならなかったことなのだ。
 このことばのあと、西脇は、「繁殖」ということを書いている。それは、私のことばで言いなおせばセックスにつながるけれど、それもまた不思議なことに、遠い昔の、欲情につながる。
 とてもとても、とてもなつかしい。
 そして、

土手をよこぎるかまきりは
黒い宝石を動かして

 この2行を、私は記憶のなかで、まったく別のものに作り替えていたことに気がつく。私は、かまきりではなくトカゲと記憶していた。土手ではなく、石の上と記憶していた。白く乾いた石の上をトカゲが動く。その影を、白い石の輝きとの対比を「宝石」と感じていた。そんなふうに記憶していた。
 それは、私の見た、ほんとうの記憶である。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(187 )

2011-03-01 10:24:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「イタリア紀行」の書き出し。

疲れた若い
労働者の夫婦が
窓のところへ椅子を
引き寄せて
トスカーナの野に沈む
太陽を
淋しそうに
見ていた

 すばやく書かれたスケッチのように感じられる。この連では「引き寄せて」という1行にひきつけられる。
 西脇は、若い夫婦が実際に椅子を引き寄せる瞬間を見たわけではないだろう。西脇が見たときは、すでに椅子は窓辺にあって、ふたりは椅子にすわっていただろう。けれど、それを「窓辺の椅子にすわって」にしてしまうと、とてもつまらなくなる。スケッチが止まってしまう。そこではひとが動いていないのだが、その動いていない現実の中へ「過去」をもってくる。過去という「下絵」をわざとすかしてみせる。そうするとそこに「時間」が生まれ、「淋しそう(淋しさ)」が時間に関係していることがわかってくる。

「ローマの休日」にも、肉体の動きを強く感じさせる部分がある。

烏も雀も鶏も
いないが
寺院のチャイムがある
踵の感覚は
材木から大理石へと変化した

 歩き回っている。そのとき足が感じる通りの変化。足裏ではなく、「踵」とより限定的にことばを動かすことで、まるで歩いている感じになる。そして、ここでは肉体の動きは、単に筋肉の動きではなく、肉体の内部を動く「感覚」というのもおもしろい。
 こういう感覚--感覚の覚醒が、そして、実は「脳髄」の運動へとつながっていくというのが西脇の特徴である。(逆もある。つまり脳髄の運動のあとに、それを解放する肉体の運動がくる、という動きもある。)
 詩のつぎき。

ニイチェのように眠られない
眠ることは芸術だ
芥子粒は魔術だ
今日は
マルコニー侯爵婦人の名前の
スペリングを間違えたから
謝りに行かなければ
ならない

 踵からニイチェへ。芸術へ。そしてスペリングのミス。この変化に、肉体の運動が響きあっている。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(186 )

2011-02-24 11:30:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』。
 西脇の詩にはいくつもの層のことばがあらわれる。それは地層の断面をみるような印象がある。
 「コップの黄昏」。

あさのウルトラマリンに
もえる睡蓮のアポロンに
目を魚のように細くする
バスを待つビルのニムフの
前をかすつてヘラヘラと
失楽の車が走る……

 これは「コップの黄昏」というタイトルに反して、朝の町の風景だろう。朝の町でみかけたものを、そのままの(名づけられているままの)ことばではなく、別のことばで書いている。「比喩」ではなく、比喩であることを拒絶して、「いま」「ここ」を破る「もの」として書いている。西脇の詩は、比喩を超越して、ことばそのものになろうとしている。
 こういう部分は、私の場合、精神状態が安定しているとき、とてもここちよく響いてくる。しかし、いろいろ忙しかったり、きょうのように、これから用事があるときには、ちょっといらいらする。(いま11時20分で12時前には家を出なければいけない。)ことばがうるさく感じる。
 こういうときでも、あ、おもしろいと思うのは、どこか。

あの深川のおねいさんは小さい鏡を出して
あの湿地と足もなくなつたことを
紅を漬け菜から嘆いている
人間はトカゲに近づいてくる
女神はやせて貝殻になる
真珠の耳飾りがゆれる時は
男への手紙を書いて切手をなめる時だ

 「切手をなめる」。このことばにはっとする。気持ちがよくなる。ふいにあらわれた「俗」。その前にも「おねいさんが小さな鏡を出して(略)紅をつけながら嘆いている」という女の描写が出てくるが、そうした「気取り」ではなく、生の「肉体」がふいにあらわれる瞬間、あ、おもしろい、と思うのだ。
 それは地層をあれこれ見ていて、あ、これは自分のつかっていた茶碗だ(そんなことはあるわけはないのだが)というような発見をするようなものだ。
 ふいに自分の生活が引っ張りだされるのである。

 こういうとき、どっちが「ノイズ」なのだろうか。
 「女神」や「真珠の耳飾り」がノイズなのか、「切手をなめる」がノイズなのか。
 「切手をなめる」という「俗」なもの(芸術からするとノイズになると思う)が、「真珠の首飾り」のなかにある高貴(高尚?)なもののノイズとぶつかり、目障りなものを吹き飛ばすような快感がある。
 こういうノイズを挟んで、詩はふたたび、

脳髄の重さはたえがたい
運命の女神の祈祷書を一巻
ほりつけた李の種子ほどの庭に
ソケイの花が咲いて
石の上に蝶がとまる頃

 とつづいていく。
 あ、もう一度、あの「切手をなめる時」ということばを読みたくなる。そういう欲望が私には湧いてくる。
 こういう瞬間が私は好きだ。あの「切手をなめる時」というのは透明なイメージであったなあ、「脳髄」とは無関係な「暮らし」の透明さがあるなあ、と感じるのである。



ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫
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誰も書かなかった西脇順三郎(185 )

2011-02-23 12:07:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅡのつづき。

 この詩には「哲学的」なことば、「永遠」をめぐることばがいろいろ書かれている。そこに「意味」はたしかにあるし、そうしたことばについて考えるのは楽しい。けれど、それと同様に、「無意味」なことば、「意味」を拒絶していることばも楽しい。

旅人のあとを
犬がふらふら
歩いている
夕陽は
シヤツをバラ色に
いろどる
町のはずれで
もなかと
するめを
買つた
がまぐちのしまる音は
風とともに
野原の中へ去つた

 「もなかと/するめを/買つた」がおかしい。どういうとりあわせ? それを一緒に売っている店ってどういう店? などということは、どうでもいい。もなかとするめというとりあわせが予想外でおかしい。予想外なので、読んでいて、私のなかで何かが壊れる。西脇のことばは乱調、ことばの破壊の音楽の楽しさがあるが、それはこんな短いことばでもできるのだ。もなかとするめはとりあわせがおもしろいと同時に、音も不思議と印象に残る。両方とも滑らかに動く。音がなめらかなので、そのとりあわせが不自然(?)なことを一瞬忘れてしまうほどだ。
 次の「がまぐちのしまる音は/風とともに/野原の中へ去つた」もやはり音がおもしろい。ここには「意味」など、ない。だいたいがまぐちのしまる音など、風が運ぶ前に、そのあたりに散らばって消えてしまう。それが「野原の中」まで「去る」ということなど、論理的にはありえないだろう。
 「わざと」そう書くのだ。
 そうすると、そのことばとともに「もの」が動く。意識のなかで「もの」が動く。「野原の中へ」の「中」さえも、まるで「もの」のように出現してくる。「野原へ去つた」と書いたとき(読んだとき)とはまるっきり違ったものが出現してくる。
 「意味」を追い、それが正しいかどうかというようなことを考えているときは見えてこない「もの」が突然あらわれて、私を驚かす。
 その瞬間に、詩を感じる。

もうレンゲソウも
なのはなもない
また川べりに来た
遠くにバスが通る
ひとりの男が
猫色の帽子をかぶつて
魚をつつている
それを
見ている男の顔は
スカンポのように
青い
のいばらの
えだの首環の下から
エッケー!








 この詩の終わり方。「エッケー、ホーモー」に「意味」はあるだろう。「日本語」に訳せば「意味」が生まれてくるだろう。だが、西脇は、そうしていない。「ホモ」(人間)に関することばが「意味」としてあらわれてくるだろう。けれど、西脇は、そうしない。ただ、その「音」を「音」のまま書いている。音引き「ー」や無音「・」を書くことで、ことばを「音」そのものにしてしまっている。
 「意味」は「意味」なりに、有効な何かなのだが、西脇は「意味」よりも「音」そのものを解放するために、音引きや無音だけの行を書いているのだ。
 「意味」ではない「音」が放り出されているのである。

 西脇は、いつでも「音」を詩の中に放り出しているのだと思う。「意味」はどこかに捨ててしまって、そこにある「音」の響きだけを楽しんでいる。こういう遊びが私はとても好きである。「意味」はわからなくてもいい。そのうち、ふいに「意味」を「誤読」する瞬間がくるかもしれない。こなくても、私は、気にしない。
 最後の「エッケー!ホーモー」ということばの前の「スカンポ」の突然の出現もうれしい。茎の中が空洞になった植物。私の田舎では、なにも食べるものがないとき、道端のスカンポをかじって歩いた。そういうようなことも思い出すのだ。西脇が書いていることと関係するかしないかわからないことを、かってに感じるのだ。スカンポというかわいた音とともに。





最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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誰も書かなかった西脇順三郎(184 )

2011-02-21 23:05:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅡ。

永遠を象徴しようとしない時に
初めて永遠が象徴される

 この詩には、この2行のような「矛盾」したことばが何度も出てくる。詩は矛盾のなかにしかないからだ。
 この2行を引き継いで、詩は、動いていく。

パナマ帽をかぶつて
喋つている
あの男の肩ごしに
みえる若い男の顔は永遠を
呼びおこす
永遠を追わないほど
永遠は近づく

 「若い男」は「永遠」を追わず「いま」を生きるだけである。その瞬間に永遠があらわれる--というような意味よりも。
 「パナマ帽をかぶつて」という2行に、私は「永遠」を感じる。なぜ、パナマ帽? 説明はない。「意味」がない。ただ、その「もの」だけがある。だから、そこに永遠がある。永遠とは、なんでも(どんな考えでも--どんな説明でも)受け入れることのできるもの--ではなく、どんな考えも、どんな説明も拒絶して存在するものなのだ。
 次の「喋つている」も楽しい。話しているではなく、「喋つている」。「意味」は同じだが、「喋る」の方が「むだ」を連想させる。無意味を連想させる。そこにも「意味」の拒絶がある。

太陽が地平に近づく時
青いマントをひつかけ
ガスタンクの長びく影をふんで
どこかへ帰ろう
明日はまた
新しい崖
新しい水たまりを
発見しなければならない

 なぜ、「青いマント」? ここにも説明はない。けれど、「青い」が美しい。説明がないから美しい。「ガスタンクの長びく影をふんで」も意味がない。「どこへ帰ろう」というのだから「目的地」がない。ただガスタンクの影とそれを踏むという行為だけがある。こういう意味を拒絶したことばはいつでも美しい。拒絶のなかに、永遠がある--と言ってみたくなる。
 「新しい崖/新しい水たまりを/発見しなければならない」。これも理由はない。新しい崖を発見する、新しい水たまりを発見する、ということばのつながりが美しい。「発見する」ということばは、そういう具合にはふつうはつかわない。ふつうと違ったつかわれかたをしているから、美しい。「音」としてのみ、響いてくるから楽しいのだ。「新しい崖/新しい水たまり」の「新しい」という形容詞のつかいかたもとても変わっている。意味が消えて「新しい」という音の響きだけが強く浮かび上がる。「新しい」という音はこんなに美しい音だったのか、と思ってしまうのだ。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(183 )

2011-02-20 14:53:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。

探すのはマラルメ的な
オブジエではないだろう
もつとつまらないオブジエだろう
淋しさを探すだろう
町で聞く人間の会話
雑草の影が映る石
魚のおもみ
トウモロコシの形や色彩や
柱のふとさ
なにも象徴しないものがいい
つまらない存在に
無限の淋しさが
反映している

 ここには西脇の夢が結晶している。シンボルにならいなもの、意味にならないもの。そこに淋しさかある。淋しさとは「意味以前」なのである。
 --と、私のことばは、どうしても動いてしまう。「意味以前」という「意味」に触れてしまう。これは、こうの行を書きつづけた西脇にも起きる。
 さきの行につづけて、西脇はすぐに書いている。

淋しさは永遠の
最後のシムボルだ
このシムボルも捨てたい
永遠を考えないことは
永遠を考えることだ
考えないことは永遠の
シムボルだ

 しかし、どうしても「矛盾」になってしまう。堂々巡りになってしまう。これは詩の宿命なのだ。
 詩はことば以前を書く。意味以前を書く。しかし、書いた瞬間、それはことばになる。そして意味になる。だから、それを否定する。そして、その否定すらが、ことばになり、意味になる。
 問題は、それを自覚して書くか無自覚で書くかということになる。西脇はつねに自覚している。
 という、うるさいことは、もうやめにして、少し前に戻る。きょう引用した最初の部分、そのうちの、

雑草の影が映る石
魚のおもみ

 この2行が、私は非常に好きだ。
 「雑草の影が映る石」は夏の明るい陽射しがまぶしい。太陽そのもののまぶしさではなく、空気のなかに広がって散らばった光の美しさがある。石はきっと白い。そして影はきっと黒いのだが、その黒は、藍色に見えたり水色に見えたり灰色に見えたりするのだ。
 「魚のおもみ」。この1行は、私を不安にする。この魚の重みは、私にとっては手では測れない重みである。私は水のなかを泳いでいる魚を見てしまうのである。「雑草の影が映る石」から夏を想像してしまうのでそうなるのだが、夏の川で泳いでいる魚を私は思うのである。それは手で触れることはできない。つかまえようとしても逃げてしまう。逃げることができることをしてってい悠然と冷たい水の、その冷たさをここちよげに味わっている魚。その重さ。西脇は「重さ」ではなく「おもみ(重み)」と書いている。「おもさ」と「おもみ」のことばの違いも、私の想像力に影響しているのだと思う。
 触れえないものがある。確かめようがないものがある。これが「淋しさ」である。触れえない、確かめようもないとき、感じてしまうのが「淋しさ」である。
 しかし、その触れることができないもの、確かめることができないものにさえ、人間のこころは動いてしまう。動いて何かを感じてしまう。(だから、「淋しい」。)
 そして、その何かを感じさせるもの、感じさせる力が「シムボル」だとすれば、感じてしまう力、感じる動きこそが「永遠」かもしれない。「シムボル」と「永遠」はそんな具合にして出会うのだ。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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