『禮記』のつづき。「禮記」には、きのう読んだ「田園の憂鬱(哀歌)」の音(音楽)とはまた違った音楽がある。
ここには互いに反発して輝く音ではなく、深いところで手をつなぎ合う音がある。「このまなこのくらがりにつくつく/ぼうしのなくこの」という2行のなかに「この」が3回繰り返される。ただし、そのうちの1回は「まな・この」だから、その前後の「この」とは「意味」が違う。「意味」が違うけれど同じ音であるために、何か「意味」を越えて、しっかりと結びついてしまう。そして、その結びつきが「まなこ」ということばの「意味」を遠ざけてしまう。「まなこ」が「まなこ」でなくなってしまう。
その影響だろうか。「つくつくぼうし」は「つくつく」と「ぼうし」に切り離され、やはり「意味」を失う。ただし--あ、このただし、が変だなあ。ただし、「意味」を切り離されながらも、その「切り離された」という感覚が、不思議と、「意味」を呼び戻すのである。「つくつく/ぼうし」は「つくつくぼうし」と書かれていないけれど「つくつくぼうし」のことなんだ、と意識させる。
変だよねえ。
「まなこの」は「まな/この」に切り離され、「つくつく/ぼうし」は切り離されているはずなのに「つくつくぼうし」とくっつけられてしまう。
「音」は書かれていることばとは違った運動をしてしまうのである。「音」(声)は、書かれたことばの「意味」を越えてしまうのである。「意味」を越えて、遊んでしまう。遊びながら、音と音が手をとりあってしまう。
これは、いったいなんなのだろう。
私は書きながら、さっぱりわからない。
たとえば「つくつくぼうし」ということばは、「つくつく/ぼうし」という具合にばらばらにされてしまう。そうすると、そのばらばらな感じは、くっついているはずの「つくつく」さえも「つ/く/つ/く」という音にしてしまう。そこから、「なく」の「く」が手を結び合うきっかけが生まれ、それは音をさかのぼって「くらがり」の「く」とも結びつく。音というのは一瞬一瞬消えてしまい、そこには同時に存在しないのだが、繰り返されることで同時に存在しないはずのものが、その瞬間に存在してしまう。いま、ここにないものが、音のなかで、なぜか存在し--いや、存在を越えて、どこかへ強く引っ張られていく。
「いま」が「ここ」から消えていく。
「つ/く/つ/く」の「つ」は、「歴史のせんりつ」の「つ」になる。「旋律/戦慄」と書いてしまうと「つ」は消えてしまうから、西脇は、あえて「せんりつ」と書くのだ。そして「セメントをうつ雨」の「つ」にもなる。
同時に「せんりつ」と「セメント」が「せ」「ん」の繰り返しのなかで重なる。「戦慄/戦慄(せんりつ)」と「セメント」は無関係なものであるけれど、音のなかではとても近いものになる。その瞬間に「せんりつ」の「意味」も、「セメント」の「意味」もたたき壊されてしまう。
「意味」がたたき壊されてしまうから、何を読んでいるのかわからなくなる。
わかるのは、そこに消えてはあらわれる「音」があるということだけ。あらわれる「音」は不思議なことに、未来へも過去へも自在によびかける。ひとつの音から、それ以前のことばのなかの音が思い出される。また、ひとつの音から、いまとは無関係な別なことばが噴出してくる。
いま、ここにある音のなかで、過去と未来が出会ってしまう。
でも、それは「歴史」とは違うなあ。西脇が「歴史」ということばを書いているので、私は、そんなことをふいに考えてしまう。
それは一般に言う「歴史」とは違う。しかし、どこかで「歴史」以上のものを感じさせる。ひとはなぜ、いくつかの音を出すのか。その音をなぜ、それぞれ聞き分けることができるのか--そのときの、人間の、「歴史」を越えた、不思議な力を思い出させてくれる。感じさせてくれる。
このまなこのくらがりにつくつく
ぼうしのなくこの
歴史のせんりつが
セメントをうつ雨のように
きこえる
ここには互いに反発して輝く音ではなく、深いところで手をつなぎ合う音がある。「このまなこのくらがりにつくつく/ぼうしのなくこの」という2行のなかに「この」が3回繰り返される。ただし、そのうちの1回は「まな・この」だから、その前後の「この」とは「意味」が違う。「意味」が違うけれど同じ音であるために、何か「意味」を越えて、しっかりと結びついてしまう。そして、その結びつきが「まなこ」ということばの「意味」を遠ざけてしまう。「まなこ」が「まなこ」でなくなってしまう。
その影響だろうか。「つくつくぼうし」は「つくつく」と「ぼうし」に切り離され、やはり「意味」を失う。ただし--あ、このただし、が変だなあ。ただし、「意味」を切り離されながらも、その「切り離された」という感覚が、不思議と、「意味」を呼び戻すのである。「つくつく/ぼうし」は「つくつくぼうし」と書かれていないけれど「つくつくぼうし」のことなんだ、と意識させる。
変だよねえ。
「まなこの」は「まな/この」に切り離され、「つくつく/ぼうし」は切り離されているはずなのに「つくつくぼうし」とくっつけられてしまう。
「音」は書かれていることばとは違った運動をしてしまうのである。「音」(声)は、書かれたことばの「意味」を越えてしまうのである。「意味」を越えて、遊んでしまう。遊びながら、音と音が手をとりあってしまう。
これは、いったいなんなのだろう。
私は書きながら、さっぱりわからない。
たとえば「つくつくぼうし」ということばは、「つくつく/ぼうし」という具合にばらばらにされてしまう。そうすると、そのばらばらな感じは、くっついているはずの「つくつく」さえも「つ/く/つ/く」という音にしてしまう。そこから、「なく」の「く」が手を結び合うきっかけが生まれ、それは音をさかのぼって「くらがり」の「く」とも結びつく。音というのは一瞬一瞬消えてしまい、そこには同時に存在しないのだが、繰り返されることで同時に存在しないはずのものが、その瞬間に存在してしまう。いま、ここにないものが、音のなかで、なぜか存在し--いや、存在を越えて、どこかへ強く引っ張られていく。
「いま」が「ここ」から消えていく。
「つ/く/つ/く」の「つ」は、「歴史のせんりつ」の「つ」になる。「旋律/戦慄」と書いてしまうと「つ」は消えてしまうから、西脇は、あえて「せんりつ」と書くのだ。そして「セメントをうつ雨」の「つ」にもなる。
同時に「せんりつ」と「セメント」が「せ」「ん」の繰り返しのなかで重なる。「戦慄/戦慄(せんりつ)」と「セメント」は無関係なものであるけれど、音のなかではとても近いものになる。その瞬間に「せんりつ」の「意味」も、「セメント」の「意味」もたたき壊されてしまう。
「意味」がたたき壊されてしまうから、何を読んでいるのかわからなくなる。
わかるのは、そこに消えてはあらわれる「音」があるということだけ。あらわれる「音」は不思議なことに、未来へも過去へも自在によびかける。ひとつの音から、それ以前のことばのなかの音が思い出される。また、ひとつの音から、いまとは無関係な別なことばが噴出してくる。
いま、ここにある音のなかで、過去と未来が出会ってしまう。
でも、それは「歴史」とは違うなあ。西脇が「歴史」ということばを書いているので、私は、そんなことをふいに考えてしまう。
それは一般に言う「歴史」とは違う。しかし、どこかで「歴史」以上のものを感じさせる。ひとはなぜ、いくつかの音を出すのか。その音をなぜ、それぞれ聞き分けることができるのか--そのときの、人間の、「歴史」を越えた、不思議な力を思い出させてくれる。感じさせてくれる。
西脇順三郎詩集 新装版 (青春の詩集 日本篇 15) | |
西脇 順三郎 | |
白凰社 |