詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(26)

2024-03-19 22:44:10 | こころは存在するか

 時間は存在する。
 しかし、過去を考えるとき、時間は存在しない。「過去」という時間は存在しないというか、「過去」を考えるとき、時間のなかで「過去」「現在」「未来」という区別はなくなる。
 言い換えよう。
 過去の行為がいつまでも苦痛であるのは、時間とともに「過去」が過ぎ去らないからである。いつも「現在」として、私のそばにある。私を取り囲んでいる。
 時間は人間の意思、感情を無視して、人間のなかで「時制」を破壊して存在し続ける。物理や数学のときにつかっている時間、人間の意思や感情とは関係のない時間について考えても、意味はない。
 時間は存在しない、とはそういう意味である。

 和辻は、カントは「有るものと、単に考えられるにすぎないものを区別する」というようなことを書いている。
 単に考えられるにすぎぬもの、とは何か。
 数学的、物理学的な時間も、それだろう。
 また、精神、こころとは、考えられるにすぎぬものではないのか。それは、ほんとうは存在しない。
 一方、ことばはどうか。ことばは声(音)であり、文字である。それは、たしかに存在する。その存在を、私という「肉体」は受け止めることができる。耳で、目で。そして、それをつくりだすこともできる。声(喉)で、手で。
 ことばのなかには、「精神」とか「こころ」とか、人間が名付けたものがあるが、それは、やはり「ことば」であって、それが「精神」あるいは「こころ」かどうかは、わからない。だいたい、「ことば」はほんとうのことを語るだけではなく、うそをも語ることができる。「うその精神」「うそのこころ」。それを存在させてしまう力。ことば自身がもっている力。
 ことばは生きていて、ことばをつかう人間と戦っている。

 

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こころは存在するか(25)

2024-03-17 12:37:10 | こころは存在するか

 カントの「実践理性批判」について、和辻がいろいろ書いている。それを読んでいる途中に、私はノートにこんなことを書いている。

人を殺す。それが善いことか悪いことかは、実際にそれが行われたあとで判断される。

 もちろん「人を殺すことは悪いことである」。しかし、こういう道徳というか、定義というか、よくわからないが、それが真実かどうか、私は自分の肉体をとおして語ることができない。私は殺されたくない。だから、それを悪いことと感じている。つまり、利己心から、自己中心的な感覚から言っていることになる。
 しかし、実際に「人を殺す」、あるいは「人を殺すことにかかわる」場合は違うだろう。
 私が「頭のなか」で考える善悪を超えて、実際に人を殺したひとの肉体に何かが押し寄せてくるだろうと思う。
 もし、その「殺人」がボタンひとつで可能ならば、これは「肉体」で「肉体」を「殺す」こと以上に大きな問題となって押し寄せてくるに違いない。私はまだ見ていないが、近く公開される映画「オッペンハイマー」は、この問題に向き合っていると想像している。
 動詞、「肉体の動き」が引き寄せる「世界」、和辻は「世間(世の中)」ということばを好むが、それは「私という肉体」と、「私の肉体」が存在するとき、その近くに引き寄せてしまう「ひと」との関係であり(和辻は「間柄」と読んでいる)、その「広がり(空間)」と、自分のなかにある「時間」、つまり「間柄」は、常に変化し続けるものである。そして、その変化は「言語化」することがむずかしい。「ことば」はいつでもおくれてやってくる。つまり「直観」は「ことば」よりも先に動き、「肉体」を支配する。

 「動詞」と書いて、こんなメモを残しているのにも気がついた。和辻は「ことば」を「日本語」のつかい方から切り開いていく。
 「幸せ」を「仕合わせ」と言い換えて(読み替えて)、それが一種の「共通項」になりうると書いている(ように、私は「誤読」する。)
 ひとは誰でも、何か「足りないもの」に囲まれて生きている。そして、その「欠けている」ものを補いながら生きているのだが、その「補う」という仕事をするとき、単にあるものを自分のものにするだけではなく(もちろん単独のものを自分に「組み合わせる」という方法もあるのだが)、何かと何かを組み合わせて補うことがある。Cが欠けているときAとBを組み合わせてCをつくり、それを自分のものにする。この「合わせる」という動詞、他動詞の動きに注目するならば、そこから「主体」という問題が浮かび上がってくる。他動詞には「主体=私(の肉体)」が必要である。「自発性」をもった「肉体」が必要である。まず「肉体」が必要であり、確実に存在するのは、その「肉体」だけである。「ことば=こころ(精神)」は、あとから付け足した何かである。あるいは「創造」した何かである。もちろん「創造したもの(創造されたもの)」が「ない」とは言わないが、それには「創造するもの」が必要である。だから、私は、そのことを意識するために、あえて「肉体」は存在するが、こころ(精神)は存在しないという。「ことば」は例外である。それは、声となり、文字となり、「肉体」で「いつ」「どこ」にあると確認できるのだから。

 

 

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こころは存在するか(24)

2024-03-12 22:43:11 | こころは存在するか

 フォイエルバッハから和辻が引き出していることばでは、「思惟は有から出る。有が思惟から出るのではない」が刺戟的である。「有」と呼んでいるものは「人間存在」であるが、これを「肉体(あるいは実践)」と読み替えると、「思惟は肉体(実践)から生まれる。思惟から肉体が生まれるのではない」になる。
 人間とは、まず「肉体」なのである。「思惟」や「ことば」は嘘をつくかもしれないが、「肉体」は基本的に嘘がつけない。
 机の上にコップがある。水がある。喉が渇いている。その水が安全かどうか、わからない。しかし、目の前の相手がそれを飲んで見せてくれたら、「ことば」が通じなくても(相手が外国人だとしても)それは安全だとわかり(直観することができ)、飲むことができる。もちろん相手があらかじめ「解毒剤」のようなものを飲んでいて「安全」について嘘をついていることもありうるが、それは特別な場合である。たいていは「肉体」の「行為」を「真実」と判断していいだろう。「真実」はいつでも「ことば」として定着する前に、「肉体」が「直観」するものである。
 「ことば」が嘘を含むのは、ことばというものが人間関係のなかで生まれてくるものだからだ。「ことば」は、その「場(社会/共同体)」のものでもある。しかし、同時に「ことば」は個人が動かすことができるものである。だからこそ、相手が知っている「ことば」を利用して、ひとは「嘘」をつくのである。

 こう書きながら、私は、野沢啓の「隠喩論」を思い出している。
 「隠喩」が成り立つためには、すでに「ことば」が存在しなくてはならない。集団でつかっている「ことば」の「意味」を否定し、それを「個人的な意味」に変えるとき、そこに比喩というものが成り立つ。「共有されている意味」をゆがめてしまう。否定してしまう。そして、否定することによって、逆に「ことば」がその奥底に含んでいるものを生かして見せる。それが比喩の「いのち(運動)」である。
 だから、あらゆる「比喩(隠喩であろうと、暗喩であろうと、直喩であろうと)」は詩が特権的にもっている「技法」ではなく、あらゆるジャンルにおいて展開されるものである。もしどうしても「特権」を主張するなら、それは「個人/人間」の特権であって、「ジャンル(社会)」の特権ではない。
 ベルグソンは「ベルグソン語」で書き(私は、翻訳された日本語で読んでいるのだが)、和辻は「和辻語」で書く。そこに「同じことば(日本語)」が書かれていたとしても、それは「みかけ」のことである。ほんとうは、違うのである。それぞれが「絶対的な個人語」で書くからこそ、私はそれを「私語(谷内語)」に翻訳する。「誤訳」する。「誤読」する。その「誤読」を修正するのは、辞書ではない。「肉体」である。「動詞」である。「ことば」を読んだとき、そのことばが生まれてきたときの「肉体の動き」を想像できるかどうか、私の「肉体」で追いかけることができるかどうか。それが問題なのだ。
 精神は存在しない。ことばも存在しない。「思惟」というような、ひとをたぶらかすような奇妙なものもない。あるのは「ことば」である。そして、それは「肉体」が生み出したものである。

 

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こころは存在するか(23)

2024-03-11 22:52:12 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集9。「人間の学としての倫理学」のなかで、和辻は「歴史学」とは「実践哲学」である、と書いている。私が知っている「学校教育」では「歴史」は「ストーリー」で、たしかに誰が、いつ、どこで、何をしたかを教えられたが、それは「実践」ではなかった。歴史上の人物の「実践」について教えられたが、それは「私の実践」とは何の関係もなかった。「歴史上の人物」はいたが、個人はどこにもいなかった。だから、私には「学校教育の歴史」というのもがぜんぜん理解できなかった。
 私が「歴史」がおもしろいと感じたのは、和辻の「鎖国」を読んでからだ。そこには「歴史上の人物」のほかに、無名の「個人」がいた。スペインを出発し、世界を一周してきた船が、スペイン(だったと思う)近づく。スペインの船と出会う。そのとき、「きょうは何月何日」という話がでる。世界を一周してきた船の航海士は、日付が一日違っていることに気がつく。毎日日記をつけていたから、間違えるはずがないのに。この驚き、この発見のなかに「実践」がある。「毎日日記をつける」という、なんとも地味な「実践」だが、そこには「地味」な行為(実践=肉体の記録/記憶)だけがもっている「真実(事実)」がある。そして、それが「発見」につながっていく。「発見」といっていいのかどうか、まあ、わからないのだが「地球には日付変更線がある」という発見に。そのころは「日付変更線」とはいわなかっただろうが……。そして、その「日付変更線」は「ことば」としては存在するが、その「線」を実際には誰も見ていない。そういう「線」の発見。それは、その「線」の「創造」でもある。「実践=肉体の記録/記憶」が「ことば」を生み出しているのである。「肉体(行動/実践)」が「ことば」をつくりだしていく。「肉体」がその「ことば」を必要とするからである。

 ちょっと飛躍して。

 和辻はヘーゲルから「自己直観」ということばを導き出している。(「直観」はベルグソンが大事にしたことばである。和辻も、それを大事にしていると私は感じている。)そしてそこから「人倫=精神」という考えに発展させる。この「人倫」は「行動」であり、「精神」は「ことば」である。「肉体(行動/実践)」は「ことば」であり、それはときとして「ことば」を「創造する」、生み出す。
 和辻は

心の肉体化

ということばも書いている。「顔つき、身ぶり、姿勢」などを指しているのだが、私は、この「心」を「精神」と読み替え、「精神(心)=顔つき、身ぶり、姿勢」ととらえ直した上で、「ことばの肉体化」と「誤読」をすすめていく。「顔つき、身ぶり、姿勢」から私が聞き取るのは「ことば」である。「悲しんでいる」「喜んでいる」「驚いている」。なんでもいいが、「ことば」として、つかみとっている。

 ここから「日付変更線」の発見(あるいは、創造)に飛躍するのは、飛躍のしすぎかもしれないが、何か人間が実践をとおして「共有してきたもの」が「ことば」になる。そして、それは何も「歴史的人物」の「肉体(行動/実践)」だけが生み出したものではなく、丁寧に生きてきた「無数のひとり」が「他の無数のひとり」と出会うことで生み出してきたものだと思う。
 「無数のひとり」を、私は「個人」と呼んでいるのだが。「無数のひとり」は「無数の肉体」として学校教育の「歴史」では切り捨てられているが、この「無数のひとり」がいなければ「ことば」もないのだと思う。

 「こころは存在するか」という問い、「こころは存在しない」という答えは、「肉体(無数のひとり)」の「実践」から出発しなければならないという私自身の「決めごと」なのである。

 

 

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こころは存在するか(22)

2024-03-09 23:26:36 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集9。「倫理」について考えながら、和辻は、こんなことを書いている。

〈間・仲〉は生ける動的な間であり、従って自由な創造を意味する。

 この「自由な創造」ということばを読みながら、私は、そこにベルグソンとの共通性を感じる。「生きる」とは「自由な創造」をすることである。

 和辻は「日本語」にこだわって、ことばの「意味」をおいかけているが、きょう読んだ部分では「存在」、「存」と「在」の区別が刺戟的である。「存する」「在る」は、ともに「ある」という意味でつかっているが、そのつかい方は微妙に違う。
 「存」の反対のことばは「失」であり、それは時間的な意味をもつ。「生存」ということばの反対のことばは「忘失」である。「生存」とは主体的な行動をすること(創造すること)である。その「創造」には「自己自身」と「もの」を含む。
 一方「在」の反対のことばは「去」であり、場所的な意味をもつ。「不在」とは「ある場所に人がいない」ということであり、それはつねに「社会的」な場所とかかわりをもつ。

 あるコスタリカ人(私は彼のもとで半年間スペイン語を勉強した)が、和辻の「風土」を読み、「日本人論だ」と言ったが、和辻は、人間を空間と時間とにおいてとらえている。人間の空間性と時間性は、人間の風土性、歴史性としてあらわれてくる。だから「風土」で和辻が書いているのは「日本人論である」というのは、確かにその通りだと思う。日本人は、日本の風土のなかで、どんなふうに日本人を「創造」してきたか。

 「存在」に似たことばに「有る」「ある」がある。「有る」は「所有」ということばがあるように「有(も)つ」ということでもある。ひとが己自身を有つ、「存」は自覚的に自分自身をもつことである。
 だから「心は把持すればあり、捨つればなし」というような言い方も成り立つ。
 これは、誰のことばだったか。
 私は「こころは存在しない」と考えている。で、その場合、その「心」と呼ばれているものに私は何をあてはめるか。「ことば」あてはめる。「ことば」は確かにある。私は、それを書いているし、読んでいる。
 「こころは存在しない」と書くことは、一種の矛盾だが、つまり「存在しない」ならそれを「ことば」にすることはできないのだから。私は「方便」として「こころ」ということばをつかっていることになる。「こころ」のかわりに、目や手や足がある。腹もある。性器もある。それは、いわゆる「こころ」と同じように、自分の意思で動かすことができることもあるが、意思では制御できないこともある。このときの「制御不能」の状態を、すべて「ことば」にすることができれば、とてもおもしろいだろう。「ことばの持続」として展開できれば、とてもおもしろいだろう。そのとき「創造」されるのは、「文学」か「哲学」か「心理学」かわからないが。

 

 

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こころは存在するか(21)

2024-03-05 14:48:26 | こころは存在するか

 行動は自分に欠けているものの獲得を目指すか、存在しないものの創造を目指す、とベルグソンは書くのだが、この「存在しないもの」を単にいまそこにないものではなく、「無」と考えるとどうなるか。
 「無を創る」。
 「無になる」とか「無我の境地」ということばが日本語にはあるが、「無を創る」というのは、それとは違う。「有」の否定(「有」からの解放)ではなく、「有」とは関係なく(「有」を踏まえず、「有」を基盤とせず)、「無を創る」。

 ベルグソンのなかに「絶対的な無」ということばが出てくる。これは「全体の観念」であり、しかもそこに精神のひとつの運動が加わっている。「否定」という運動だ。
 ある事物から他の事物へと飛び移る。飛躍する。ひとつのところに身を置くことを拒む。ひとつのところに身を置くことを否定する。そして、自分の「現在」の位置を、自分が立ち去った(拒否、否定した)位置との関係において規定する。
 その瞬間にあらわれる「無」というもの。それが絶対的。
 このメモは、どこまでがベルグソンのことばで、どこからが私のことばなのか、実はわからない。ノートのメモに、引用したことばのページが書いてないので、探し出せない。 私が注目したのは「運動」ということばである。「飛び移る」「飛躍する」は「運動」のひとつだが、運動するのは「肉体」である。ベルグソンは「精神」と書いていると思うが、「身を置く」の「身」には「肉体」にほかならないし、「精神」の運動であってもベルグソンはそれを納得するとき「身」を関係させている。「身を置く」は比喩ではない。現実であり、「精神」ということばこそ「比喩」なのだ。
 デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、ベルグソンなら「我行動する、ゆえに我あり」と言うのではないか、と私は想像している。

 いま書いていることは「比喩」か。比喩よりもなぞめいている「暗喩」か。
 「暗喩」とは何か。それは「構想」である。存在しないものを、存在するものによって描き出すことだ。それはつねに動く。肉体を動かす。
 この「比喩/暗喩」の反対のものは何か。「概念」である。「概念」の抽出。
 そうならないようにしないといけない。
 「概念」を書くこと、たとえば、ベルグソンを読み、そのことばを利用して体験以外のことを書くことは、「体験(肉体)」を殺すことである。--きょうの反省。

 

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こころは存在するか(20)

2024-03-02 12:34:19 | こころは存在するか

私は多なる一であり、一なる多である

 このことばがベルグソンのなかに出てくる。「なる」を「即」と「誤読」すれば「多即一、一即多」であり、「多」を「色」と、「一」を「理(空)」読み替えれば「色即是空、空即是色」になるだろう。このとき「なる」は英語で言えば「be動詞」になるのかもしれないが、「なる」を「なす」、つまり「為す」あるいは「生す」と読み替えれば、それはすべて「私」という「肉体」によって誕生する世界になる。
 私がベルグソンに親近感を覚えるのは、こういう「誤読」を誘ってくれるからである。ベルグソンのことばのどこかに、私が知らずになじんできた「東洋」のことばがある。
 「多」を「色」と私は書き換えたが、これは「私が出会った、私以外の存在」であり、それは「意識が存在として分類しているもの」というものであり、「私(肉体)」を抜きにしては存在し得ない。意識は単独では存在せず、常に「肉体」とともにある。むしろ「肉体(いのち)」が理解しているものを「ことば」にしたものが「意識(知性)」である。

 こんなことばもある。

直観は生命の方向に進み、知性は逆の方向に進む。

 「直観は生命の方向に進む」とは、直観はいのちを維持・継続・持続させることを目指す、ということ。そのために「知性」をつかう。つまり、「知性は逆の方向に進む」とは、知性は「もの」の方に進むということ。「もの」を「無機物」と言いなおすと(ほんとうは有機物も含むのだが、とりあえず)、それは、人間は「もの」を解体し、別のもの(いままで存在しなかったもの)をつくるとき、そこには知性が働いているということである。簡単に言えば、鉄鉱石から鉄をつくり、その鉄から橋をつくる、ビルの骨組みをつくる、あるいはさまざまな機械をつくる。鉄鉱石を鉄鉱石ではなくしてしまう。そうすることで、「いのち」の維持・継続・持続をはかる。「生きやすく」する。
 しかし、「人間」は解体できない。解体すると「殺人」である。鉄鉱石から、武器をつくり、戦争を有利に進めるということも、人間はしてしまうのだが、これは少し脇に置いておく。
 実は、「殺人」以外の、「人間の解体」も、あるには、ある。「いのち」を「労働力」に解体し、「肉体」を拘束することができる。ひとつの方向に「限定」して動かすことができる。しかし、これもまた別の問題である。
 ベルグソンが言っているのは、直観は持続を目指し、知性は切断を目指すということである。そして、その接点に「肉体」があると、私は考えている。「存在するのは肉体だけ」というのは、そういうことである。


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こころ(精神)は存在するか(19)

2024-02-27 12:31:56 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。
 「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。

母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。

 この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。
 ベルグソンの書いている「身をのりだす」というのは「比喩」なのだが、その「比喩」をとおして私が知るのは「意味」というよりも「欲望」である。母が「身をのりだす」ときの「欲望」。彼女の「肉体」を動かしてしまう力。「知性」の制御を無視して、暴走する「欲望」。そして、それを「欲望」と感じるのは、私自身に何かに対して「身をのりだした」体験があるからだ。それは私の「肉体」のなかに残っている。
 「つぎに続く世代」というのは、これもまた「比喩」である。実際にはまだ存在しない。その存在しないものに向かって「身をのりだす」とき、そこには何があるのか。ただ、新しいものへの「欲望」がある。「身をのりだす」欲望。そして、「肉体」そのものの、「動き」であって、「肉体」の「動き」をともなわない「欲望」というものはない。
 ベルグソンが書いていることは、私がいま書いたこことは関係がない。
 私がただ「追加」するかたちで考えたことばである。

 

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こころ(精神)は存在するか(18)

2024-02-27 12:30:46 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばは刺戟的である。
目は見るだけではない。目で見たものが有効だと判断すれば、そのときひとは存在に近づくのだが、このとき目は実質的に肉体を動かしている。

 ここに「脳が判断し、手足を動かしている(手足に動けと命令している)」ということばを挿入したとすれば、それは「付け足し」だろうと私は思う。
 あらゆる運動、それが激しい肉体の運動ではなくても、ある瞬間目だけが動くのではない。手だけが動くのでもないし、足だけが動くのでもない。ことによると性器も動くのである。それも同時に、いくつもの場所(肉体の部署)で動いている。
 心臓とか内臓とか、そういう「不随意」の器官(組織)だけではなく、あらゆる肉体が動いている。なかには動くのを怠けている部分もあるかもしれないが。

 

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こころ(精神)は存在するか(17)

2024-02-27 12:29:06 | こころは存在するか

 和辻のことばにヒントを得たのか、ベルグソンのことばにヒントを得たのか、はっきりしないが、たぶん和辻のことばだと思う。こんなメモがノートにあった。

 どんな独創的な比喩であろうも、それがいったんことばにされれば、それはその比喩をとりまくさまざまなことばによって説明、把握されてしまう。これは逆に言えば、どんな独創的な比喩・暗喩も、それを比喩・暗喩としてささえる「過去」を持っているということである。いいかえれば、すでに「ことば」が存在しなければ「比喩のことば」が生まれることはない。「ことば」とは論理でもある。そして、「ことば」とは肉体でもあるからだ。詩だけではない。小説も、哲学も。
 これは、野沢啓が書いている「言語暗喩論」への批判のためのメモだと思う。
 なぜ、和辻のことばの影響なのか、ベルグソンのことばの影響なのか、私がはっきり思い出せないのは、たぶん、いま私がベルグソンの「創造的進化」(ベルグソン全集4)を読んでいるからだ。和辻につづけて読んでいる。
 ベルグソンは、「序論」に、こう書いてる。

理解能力は行動能力の付属物である。

 「行動能力」をどう「誤読」するか。私は「肉体」と置き換えてしまう。「肉体」が動く。そして、その肉体と対象(存在)がうまく合致して動いたとき、私はその存在(対象)を「理解」していると考える。肉体でできること。それを肉体で理解できること、と思うのである。
 さらにベルグソンは、こう書いている。

意識をもつ存在者にとって、存在することは変化するということは、変化するということは成熟することであり、成熟することは限りなく自分を自分で創造することである。

 もの(対象)に働きかけ、対象を変化させ、同時に肉体の方も変化する。動ける範囲が広がる。それは「理解力」の成熟であり、理解力が成熟すれば、新しい行動が可能になる。「自分を自分で創造する」ことができる。
 しかし。
 ここにひとつ大きな問題が横たわる。
 「肉体」は自分自身でつくることができない。「肉体」は、まず、他者によってはじままる。他者によってつくられる。つまり「父」と「母」によってつくられ、「母」の「肉体」から分離されることによって、「ひとりの肉体」となる。
 この、せっかく母というひとりの肉体から分離された私というものを、どう動かしていけば、私は私を「創造する」ことになるのか。
 こんなことを考えるのは、私の「死期」が近いからだと思うが、どうも気になって仕方がないのである。

思考は生命の発散物もしくは一つの相貌にすぎないのである。

 ベルグソンは「生命」ということばをつかっているが、私はやはりこれを「肉体」と読み替える。思考とは肉体の発散物のひとつである。肉体がなければ生まれてこない。
 「生命」ということばと同時に、ベルグソンは「生きられる時間」ということばもつかっている。これは、言い換えだろう。そして「生きられる時間」とは「持続」のことだが。

時間の本性を深く究明していくにつれて、持続とは、発明を、形態の創造を、絶対に新しいものの絶えざる仕上げを意味する

 この文章の中に、「創造」が出てくる。それは「新しいもののたえざる仕上げ」であり、それは「限りなく自分を自分で創造すること」である。
 さて、ベルグソンと和辻は、どこで「交錯」するのか。

生命の諸特性は決して完全に実現されているわけではなく、つねに実現の途上にある。それらる特性は状態というよりも、むしろ傾向である。

 ベルグソンのつかっている「傾向」ということばは、和辻の「構想力」に似ている。私は、だから、これを「構想力」と「誤読」することで、和辻とベルグソンを結びつけるのである。
 さて。きょうの日記に書いた冒頭の文章だが。ベルグソンの、次の文章を「誤読」した結果が、あの文章かもしれない。

われわれる意識的存在の根底そのものは記憶であり、いいかえれば過去が現在のなかへ延長したものであり、要するに活動的で不可逆的な持続である

 どんな比喩・暗喩であれ、その根底には記憶がある。つまり記憶(過去)が現在のなかに噴出してきたものが「比喩・暗喩という新しいことば(表現)」である。私たちは、過去の時間のなかへ、「比喩・暗喩」を持ち込めない。「いまあることば」を「過去」に存在させることはできない。しかし、すでに存在することば、過去のことばを成熟(成長)させ、、それによって自分の意識(肉体)を新しく「創造」することができる。
 そして、そのときの「創造」を手助けするのは、あくまでも「肉体」である。「肉体」の動き(動詞)が、新しい意識の誕生に立ち合っているのである。

 

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こころ(精神)は存在するか(16)

2024-02-27 12:27:37 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8「イタリア古寺巡礼」。ミケランジェロとギリシャ彫刻の違いについて、303ページに、おもしろい表現がある。

この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかもしれない。

 和辻は、技術、技巧とは言わずに「態度」と言っている。これは、人間とどうやって向き合うか、人間の(肉体の)何を評価するかということ、「道」につながることばだろう。
 ミケランジェロ(あるいはローマの彫刻)が、表面的(外面的)であるのに対し、ギリシャの彫刻には「中から盛り上がってくる」感じがあると言い、「中からもり出してくるものをつかむ」とも書いている。
 「中から」は「肉体の中から」である。「中にあるもの」とは「生きる有機力」だろう。それを「つかむ」という態度(向き合い方/生き方/人間の評価の仕方)が違うと和辻はとらえている。
 「知識(技巧/技術)」と言わずに、あくまで「人間全体」の表現(態度)、つまり「目に見えるもの」として和辻は把握している。
 もちろん態度の「奥」には「意識」があるだろうが、それを「意識/技術」とはいわずに、目に見える「態度」ということばでとらえるところに、和辻の「直観」がある。存在するものは、まず、「目に見える」、あるいは「耳で聞き取れる」「手で触れる」「鼻で匂いを嗅ぐことができる」「舌で味わうことができる」。
 存在するのは「肉体」である。「意識」の本意はつかみにくいときがあるが、「肉体」の本意は、だれもが見分ける(識別する)ことができる。どんな子供でも、母親が自分を愛してくれているか、いま喜んでいるか、叱っている、そのときの「意識の論理構造/意識の運動」をことばで言い表すことはできなくても、それを感じ取り、「態度(肉体)」で反応することができる。
 ここで「態度」ということばをつかっていることに対して、私は、やっぱり、はっと驚き、同時に安心するのである。人間は「肉体」であり、「肉体の行動」が人間のすべてである。

 逆に読む。意識的に「誤読する」、そこから「飛躍」が生まれる。私は、こういうことも和辻から学んでいるかもしれない。和辻から学んだという意識はなかったが、こういう「無意識」こそ、「影響を受ける」ということなのだと思う。
 和辻は、どんな風に「誤読」するか。つまり「意識的に読み替える」ことで、ことばを「飛躍させる」。
 システィナ礼拝堂のミケランジェロの壁画、天井画について、こう書いている。それは本来、礼拝堂を装飾するはずのものである。しかし、

この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではない(略)。その位置を逆転しているのである。(316ページ)

 「通説」を逆転させている(これも、私にとっては「誤読」ということである)、そうすることで和辻は自分の言いたいことへと「飛躍」する。
 その上で、この考え(ことば)を次のように発展させている。さらに「飛躍」させている。

堂がおのれをむなしゅうして絵に仕えている結果、絵は完全にその効能を発揮して堂を飾り、堂の装飾の役目を果たしていることになる。

 これは和辻が最初に書いたこと(最初の引用部分)を、さらに和辻自身で「誤読」する形でことばを動かしたものである。つまり、ここには一種の「矛盾」があるのだが、それを止揚するかたちで、ことばは、こう動く。

両者が互いに生かせ合っているのである。

 「互いに生かせ合う」というのが「道」だろう。人と人の出会いのように、礼拝堂と絵が出会っている。その出会いにミケランジェロが立ち会っている。ミケランジェロの「肉体」のなかにある「生ける有機力」があふれ出て、礼拝堂(建物)と絵に分裂し、さらに統合されている。そういうドラマチックな展開があるのだが、こういう「飛躍(止揚)」の過程で「おのれをむなしゅうする」とか「仕える」とか、「互いを生かせ合う」という、私の両親で聞いて納得できることばをつかっているのが、私はとても好きである。
 和辻のことばの運動がたどりついた頂点としての表現も好きだが、その過程でつかわれる「態度」のように、誰もが知っていることばのつかい方が、私にはとても納得が行く。

 

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こころ(精神)は存在するか(15)

2024-02-27 12:24:25 | こころは存在するか

 人はだれでも、自分の求めていることばを探して本を読む。その求めていることば、探していることばとは、直観としてつかんでいるが、まだことばになっていないものである。それはたとえて言えば、昆虫の新種や、未発見の遺跡のようなものかもしれない。あるはず、と直観は言っている。
 和辻哲郎全集8。「風土」にも、そういうものがある。あ、このことばは和辻が探していたものに違いないと感じさせることばが。
 たとえば、ヘルデルの文章の中から引き出している「生ける有機力」ということば。それを引き継いで、和辻は、こう言いなおしている。

我々自身は知らずとも、我々の肉体の内にそれは溌剌と生きている。

 「知らず」は意識できない、ということだろう。
 だから、こうつづける。

理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を十分に知る力さえなく、いわんや肉体を作ったものではない。

 これは、逆に言えば、肉体は知性をつくる。あらゆるものをつくる、ということだ。さらに言いなおしている。

精神的思惟といえども肉体の組織や健康に依存するものであるから、我々の心情に起こるあらゆる欲望や衝動が動物的な暖かみと離し難いものであることは当然のことであろう。これらは何人も疑うことのできぬ自然の事実なのである。

 「自然の事実」には傍点が打ってある。「生ける有機力」から「自然の事実」への「飛躍」。あるいは「飛翔」。「有機力」の「力」は、エネルギーということだろう。それは、不定形。それ自身は、ただ使い果たされ、それを使い果たすときに何かが起きる。何かが生まれる。何かを生み出す。つまり「つくる」。
 そしてそれは「動物的な暖かみと離し難い」。かならず「動物的な暖かみ」を持っている。「動物的」は「人間的/肉体的」と言い換えることができる。この「暖かみ」には、和辻の、とても重要な「人柄」のようなものをあらわしている。

 「生ける有機体」の存在の仕方、風土や生活の仕方は、主体的な人間存在の表現であるというようなことも和辻は書いているが、その「主体的な人間存在の表現」には、そのひと独特の「人道の観念」を明示する。「人道」ということばのなかにある「道」。和辻の父が、和辻に向かってお前の道はどうなっているのか、と「古寺巡礼」のなかで問うているが、その「道」である。和辻はここから倫理へ、つまり歴史哲学へと入っていく。
 人間がつくってきた「道」が「歴史」のなかにある。「哲学」のなかにある。

 「古寺巡礼」のなかには、いろいろなことばが書かれている。そして、その主力は「道」ではなく、古い美術への鑑賞なのだが、私はなぜか、あの「道」ということばが忘れらない。そして、その「道」につながることばを探して、和辻を読んでいるのだと思う。

 

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こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-20 21:44:20 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」のつづき。大事なことは、だれでも、それを繰り返して言う。書く。そして、そのとき、そこには不思議な変化がある。飛躍がある。
 たとえば。

明朗なるギリシャ的自然が彼らの肉体となったとき、彼らはこの隠さない自然から「見る」ことを教わった。(81ページ)

 ここから、こう変わる。

「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだしていくことである。(89ページ)

 「見いだしていく」という動詞をつかっているが、この「見いだす」は「創造する」の方が近いだろう。私は「見いだす」を「創造する」と「誤読」して、理解する。
 最初の引用の「肉体」という表現も、私はとても気に入っている。和辻はここでは「身体」とは書かずに「肉体」と書いている。「肉体」で見る。「肉体」で「創造する」。「見いだす」を「創造する」と読み替えるのは、「創造する」の方が多くの「肉体」の部署がかかわると考えるからである。

 179ページには「商業銀行のニオベの娘」に関する美しいことばがある。その特徴を「内なるものを残りなく外にあらわにあらわしている」と要約しているが、これをさらに182ページで、こう言いなおす。

それは外にあらわになるもののほかに内なるものが存せぬことである

 この二つの文章の間にある「飛躍」、目眩を感じるくらいに大きい。はっきりと理解できるが、思わず、「いま、なんて言った? もう一度言って」と言いたくなるくらいだ。そして、「もう一度言って」と言われたら、和辻はきっと言い間違えるだろう。そんなことを感じさせる「飛躍」である。それは「直観」が動かしてしまうことばであり、どうやって動いたかはたぶん和辻にもわからないと思う。つまり、もう一度言いなおせば、また違ったことばになってしまうような、そういう「飛躍」である。
 それはたとえば100メートル走でボイトが世界記録を出したあと、もう一度走って見せてと言われても同じタイムで走れないようなものである。人間の「肉体」が理性だけで動いているわけではない(同じ状態にコントロールできるものではない)のと同じように、「ことばの肉体」もまた理性だけで動いているわけではなく、「肉体」そのもののように、何かコントロールできないものの影響を受けて動いているのである。
 この、私が「肉体」と呼んでいるものを、和辻は「気合い」と呼んでいるかもしれない。「気合い」で「飛躍する」。「気合い」は規則ではない。そして、それは「直覚的に得られた」ものであると、和辻は書いている。
 これは、端折りすぎた、私のためのメモである。この「日記」はメモなのだから、ときどき詳しく書いたり、突然端折ったりする。

 脱線したが。
 先に引用した文章は、さらに、こんなふうに言いなおされる。202ページ。

彼(ポリュクス)の日常寓目する人間の肉体は彼の想像力によって作りなおされ、高められ、類型化され、そうしてたとい現実には存せずとも彼の体験においては溌剌として生きている人間の姿として外に押し出されて来た。

 「想像力によって作りなおされ」は、単なる「修正」ではなく「創造」である。それは「対象」を描写したものではなく、ポリュクスの「肉体」のなかから、ポリュクスの「肉体の外」へと「押し出されて来た」ものなのだ。
 で、この最後の「押し出されて来た」という表現。これが、また、おもしろい。「押し出した」のではなく、「押し出されて/来た」。それは「抑制できない」なにかなのである。想像力には想像力の「肉体」があり、それが自律的に動くのだ。
 和辻のことばは和辻が書いているが、そこにはやはり「押し出されて来た」ことばがあると思う。その感じがあるからこそ、ポリュクスの彫刻を見ても「押し出されて来た」と反応してしまうのだと思う。
 私は大雑把にしか読まないが、もし、ていねいに和辻のつかっている「動詞」を分析していけば、ことばと肉体の関係が、もっとわかるかもしれない。

 

 


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こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-17 14:00:24 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」はハイデガーの「存在と時間」への批判として書かれたもの。空間性に排除した時間性は真の時間性ではない。ハイデガーのいう存在は個人にすぎない、という視点から「空間」を含めた「人間存在」を描こうとしたもの。このとき「空間」というのは「社会(生活)」を含む。人間は個人であると同時に社会的存在(他人といっしょに生きている)ということ。
 15ページに、ベルグソンに通じることばがある。

人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と統合とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし主体的な身体なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその根源的な姿において捕らえられ、しかも空間と時間との相即不離が明らかにせられる。

 ベルグソンの「時間=と=空間」を、私は「時間=肉体=空間」と言いなおした。「肉体」は「運動」の言い直しなのだが、和辻は「肉体」を「身体」、「運動」を「実践」と言っていると私は「直観/誤読」する。つまり、読み替える。
 和辻もまた「身体(肉体)と「実践(運動)」は切り離せないものと考えているから、人間が生きていることを「主体的な身体」よる「主体的実践」と読んでいると「誤読/解釈」する。
 こう読むと、あらゆる哲学者は、それぞれ「個人語」で同じことを言っているように感じられる。
 実際に、そうなのだと思う。どんな思想家が目指しているのも「人間はどうしたらみんなが幸福になれるか(幸福であることが人間の理想)」という問題への「答え」探しだからである。
 もし、そうだとしたら。
 問題は、こういうことである。
 私はいま和辻を読み、きのうはベルグソンを読んだが、「思想」は、彼らだけのものではない。あらゆる人間が「どうしたらみんなが幸福になれるか」と考えている。
 私の両親は、和辻もベルグソンも読まなかった(そもそも私の家には、学校の教科書以外の本はなかった)が、両親はそれでは「思想」を持たずに死んでいったと、私は考えることができない。何も話さなかったし、何も書き残さなかったが、ふたりが「思想」を持たずに、幸福になりたいと考えずに、何十年も生きられるはずがない。いったい何を考えていたのか。
 たとえば母は、何か困ったことがあると、必ず仏壇の前で「南無阿弥陀仏」を繰り返していたが、「念仏を唱えれば幸福になれる(問題が解決する)」という考えが、和辻やベルグソンの「思想」に比べて劣っているとは思えない。生きて、死ぬまで、それで生きて行くことができたのだから。
 私は、母や父の「思想」を私自身のことばで「取り戻す」ということができない。あるいは「回復」できない。ここには、なんとも言えず、不思議な「問題」がある。私はそんなに余命があるとは考えていないが、死んでいくためには、それを知る必要があると思う。わからないならわからないで、「私には何もわからない」ということを知った上で、死にたいと思う。

 脱線したが。
 「回復」と書いて、私は、ふたたび和辻に戻る。
 和辻の書いている問題は、時間、空間を考えるとき、あるいは「人間存在」を考えるとき、人間はどうやって生きているかを考えるとき、「個人/肉体」というものが、どんなふうに実現されるか。「個人/肉体」をどう「回復」するかということなのだろう。
 「個人/肉体」を「回復」できたとき(取り戻すことができたとき)、人間は幸福になることができる。(正しく生きることができる。)

 私の書いている「世界に存在するのは私の肉体だけ」という考えは、「人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する」と矛盾するか。
 傍から見れば「矛盾」に見えるかもしれない。
 しかし、私は「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えるけれど、その私が出会った肉体(他人)が同様に「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えることを拒まない。誰かと出会う(これも運動である)とき、「世界」はそのつど「新しくなる」。「世界」とは「時間と空間」であり、その「時間と空間」は「私の肉体」が「動く」とき、それまでとは違った「時間と空間」になって「出現」する。そうした「変化」のさなかにあって、存在していると確信できるのは「私の肉体」という存在だけである、と言いなおせばいいのかもしれないが。

 

 

 

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こころ(精神)は存在するか(13)

2024-02-16 22:11:59 | こころは存在するか

 ベルグソン・メモ(つづき)。
 誰もがつかうことばに「時間」「空間」がある。二つをあわせて「時空間」というときもある。これは「四次元」をあらわすと私は理解しているが、ベルグソンは、

時間=と=空間

 という表記をつかっている。(訳語だから、フランス語ではどう書いているか、私は知らない。私はベルグソンの研究をしているのではないから、厳密には考えない。というか、前に書いたように、私は私の考えを整えたいのだから、ベルグソンが言っていることよりも、そのことばが触発してくるものに関心がある。)
 どうして、ここに「と」が入ってくるのか。「と」とは何か。
 この「時間=と=空間」は「空間であるとともにまた時間でもある」と言いなおされ、さらに「時間であるとともに空間である」とも言いなおされる。言いなおすとき、何が変わっているか。

 ベルグソンの「キーワード」のひとつに「継続(持続)」がある。「実在的持続」は「生成」と言いなおされている。(「生成」を「実在的持続」と言いなおしていたのかもしれない。)
 そして、おもしろい「例」をあげている。
 「円を描く」と「描かれた円」は同じものか。円を描いた結果、そこに描かれた円が残ったとする。「円を描く」というとき、その「描く」は運動であり(円の「生成」であり)、そこには「時間」がある。しかし、「描かれた円」には、その「時間/生成」が排除されている。
 この「生成の排除」を指摘するために「時間=と=空間」という「わかりにくい」構文をつかったのだとわかる。
 この「排除された生成=時間(持続的時間)」をどうやって回復するか。それをベルグソンは考えているだろう。

 こういう「ややこしい」、けれど刺戟的な問題とは別に、たとえば、私は次の文章からも刺戟をうける。

継続と持続が存在するのは、まさに実在がためらい、手さぐりして、予知しがたい新しさをだんだんと作りあげるからである。

 この文章の「手さぐり」の「手」。なぜ、「手」ということばが必要なのか。「手」をベルグソンが書いているのか、翻訳者が付け加えたものなのか判断できないが、私は「手」に惹かれる。
 「手」さぐりということばとともに、私の手は動く。何も見えない闇のなかで、手が何かに触れたとき、「見つけた」と感じた喜び(安心)を思い出す。手には記憶(時間)がある。記憶は手である。そのとき記憶(意識=精神、あるいはこころ)は手である。つまり意識、精神、こころというような目に見えないものがなくても、手があれば記憶をたぐりよせることができるのである。
 「こころは存在しない」というのは、そういうことである。

 「有機」ということばから始まる次の文章の「身体」も、私にとっては、とても重要である。私は「身体」ということばをつかわず「肉体」というのだが。言いなおせば、当然のこととして、私はベルグソンの「身体」を「肉体」と言いなおして読んでいるのだが。これが「時間」と「行動」とともに書かれている。「行動」を私は「運動」と言いなおして、その文章全体を私のものにしたいともくろんでいる。

有機的なものが存在しており、意識的なものが存在している。自分の身体によって有機的世界の中に、精神によって意識的世界の中に挿入されているわたしくは、前方への歩みを漸進的豊潤化として、発明と想像の連続として知覚する。時間はわたしくにとっては、いっそう実在的で必然的なものである。それは行動の基本的条件である。--いや、それは行動そのものである。

 「肉体」が動く。運動する。そこに「時間」がある。それ以外に「時間」は存在しない。「肉体」が動く。そこに「空間(場)」がある。それ以外に「空間(場)」は存在しない。世界に存在するのは「私という肉体」だけである、というのが、私の考えである。
 「時間=と=空間」とベルグソンは書くが、私はこれを「時間=私=空間」と書き直す。「と」は「私」そのものである。ベルグソンがいなければ「と」は存在しなかった。だから、「時間=と=空間」とは「時間=ベルグソン=空間」と言いなおすことができる。これを利用して「ベルグソン」という固有名詞を「肉体」に書き換えると「時間=肉体=空間」になり、肉体が時間と空間を生み出すと私は考える。
 私がそう考えるようになったのはベルグソンを読んだからではなく、ほかのものを読んだからなのだが(それをもう一度読み直して確認するために、私は和辻を読み、ベルグソンを読んでいるのだが)、ベルグソンも同じことを考えている、と私は「誤読」するのである。ベルグソンをとおして、私のことばを整えるのである。

 

 

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