詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころ(精神)は存在するか(12)

2024-02-15 17:43:38 | こころは存在するか

 ベルグソンは書いている。

ただ一つの実在的時間が存在し、他のすべての時間は虚構の時間である。

 「実在的時間」は「生きられた時間」を言いなおしたものである。個人個人によって「生きられた時間」だけがほんとうの時間であり、そのほかは虚構の時間である。
 私はこれを利用して逆に言いなおす。「実在的」とは「生きられたもの/体験されたこと」である、と。「実在的ことば」とは「生きられたことば」であり、その対極に「虚構のことば」がある。「実在的肉体(ベルグソンは、実在的身体、と書くかもしれない)」は「生きられた肉体」であり、その対極に「虚構の肉体」である。
 「虚構のことば」「虚構の肉体」であるにもかかわらず、私がそのことば、肉体に反応するとすれば、それはその虚構のなかに私の「体験」を直観するからである。実感するからである。

 また、こんなことを書いている。

「空間の剛い図形こそその諸条件を光の図形に課する」(略)。この命題を逆にして次のように言うことがある。「光の図形こそがその諸条件を剛い図形に課するのである」と。換言すれば、剛い図形は実在そのものではない、それはたんに精神の構造物にすぎない。

 「逆にして、言う」、つまり言いなおす。このとき、動いているのは「精神」であるが、精神が動くときは「肉体」が動いている、移動しているのである。肉体が「基準点」を変える。つまり「立場」を変える。
 「精神」あるいは「こころ」は存在しないと私は考えているので、そう「誤読」する。
 「精神の構造物」とは「ことばの構造物(ことばの運動が描き出す存在)」である。

 ここから、私は、きょうこんな詩のメモを書いた。

 Aにおいて枯れたバラ(虫食いのバラの造花)と表象されたものは、Aにおける内的荒廃を生きているとBは書き留める。しかしAにおいて内的荒廃、あるいは荒廃する内面というものは存在せず、鏡のなかでネクタイを結びなおすBの背中がもはや触れることのできないものとして世界、つまり外部を構成しているという事実があることはBは知らない。
 このことに関して、バラの造花が銅製であり、無着色のものであることに注目し、そこから別の注釈を試みた詩人がいたことを指摘しておく。
 一方、この私的に対して、詩人は次のように反論している。
 同じ物語はAとBによって、同じ空間、同じ時間に歪曲されることによって、その内部にとりかえしのつかない実在的時間が蓄積される。
 しかし、こうやって複数に複製される事実について、当のAが「私はもう鏡をのぞかない。鏡のなかからBの、私を見つめ返す視線が反射してくるから」と日記に書いたことは、Bの創作である。つまり、虚構である。

 

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こころ(精神)は存在するか(11)

2024-02-13 21:45:16 | こころは存在するか

 ベルグソンにかぎらないが、私がベルグソン、あるいは和辻哲郎を正しく理解しているかどうか(私の読み方を他人が正しいと思うかどうか)は、私には問題ではない。私は私の考え(ことば)を整えたいのであって、ベルグソンや和辻をだれかに紹介したいわけではない。私が紹介しなくても、ほかのひとが「正しく」紹介しているだろう。

 「連続」を、ベルグソンは「充足している流出と以降の連続性」と定義したあとで、「充足」を「流れるものを含まない、移行しない」と言い直し、そこから「持続=記憶」と再定義している。このときの「記憶」とは「変化そのものの内的な記憶」である。ここから「内的時間」というものが生まれてくる。
 そのあと、こう書いている。

われわれの内的生の各瞬間には、われわれの身体の、そしてそれと「同時」の回りの全物質の瞬間が、対応している。

 ここに「身体」ということばが出てくるので、私は安心する。私は「身体」ではなく「肉体」ということばの方を好むのだが。
 それから、ベルグソンのことばは、こうつづく。

そのとき、この物質はわれわれの意識した持続性の性質をいくぶん帯びているように見える。われわれはこの持続をだんだん物質世界の全体に広げて行く。というのはこの持続をわれわれの身体の直接の近傍に限るいかなる理由もわれわれは認めないからである。宇宙はわれわれにはただ一つの全体を形成しているように見える。

 ここから私は、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えが生まれる。いや、このベルグソンの考えは、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えを支えてくれると感じる。「意識の持続性」(意識の延長線上/意識のとどく限り)が「宇宙」である。「宇宙」は「意識の持続性」として「一つ」である。
 「肉体」があれば「意識」がある。そして「意識」は「肉体」とは切り離しては存在し得ない。「肉体=意識」ならば「意識=肉体」である。「イコール」とは「即」である。

持続する実在について人はそこに意識を導入することなしには語り得ない

 とベルグソンは書いているが、この持続から「語る」という一連のことばの運動を私は、語るということは意識を持続させることであり、その持続の中に「実在」が出現すると言いなおすのである。
 実存的な時間は知覚された体験であり、それは考えられた時間であるが、考えるということは「ことば」なしにはありえない。「語る」ことは体験を知覚することであり、それは時間を実在させることである。

存在するのはわれわれ各人の持続だけであろう

 とベルグソンは書くのだが、これは私にとっては「存在するのは私の持続だけである」という意味になる。「他人の持続」は「私が想定する持続」にほかならない。それが「他人の持続」と同一であるかどうかは判断のしようがない。
 こんなことはいくら書いても「無意味」かもしれない。
 私は、ほんとうは、こういう抽象的なことではなく、次のことを書きたいのだ。
 ベルグソンは、こう書いている。

意識は、ひからびて空間となった時間に生き生きとした持続を再び吹き入れるのである。

 私は、ここに「吹き入れる」という動詞がつかわれていることに、非常に刺戟を受ける。「吹き入れる」というのは「肉体」の動きである。たとえば、風船に空気を「吹き入れる」。人工呼吸で他人の肺に息を「吹き入れる」。人間の、肉体の動きが、ここにある。何かをするとき、自分以外のものに働きかけるとき、そこには肉体が動く。
 「意識」も「肉体」である。だから、「肉体」の動きをまねするのである。
 ベルグソンは、こうも書いている。

実在するものとしてわれわれに提供されるすべてのものに対して、知覚されるという特性あるいは知覚可能という特性をわれわれが要求するとしても、驚く人はいないであろう。

 「意識」は実在するか。それは「吹き込む」という「肉体」の運動がことばになって表現されるとき、たしかに実在すると、私は言いたい。では、「意識」が肉体」のどこにあるか、という問題があるかもしれない。どこだっていい。脳のなかでも足の裏でもいい。しかし「吹き込む」という比喩がつかわれるとき、それは脳でも足の裏でもなく、たとえば口であり、手の動きであり、肺の動きである。そういう「ことば」と「肉体」の「連続=結合」のなかにある。

 

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こころ(精神)は存在するか(10)

2024-02-12 21:06:33 | こころは存在するか

 ベルグソン全集3(白水社)、「持続と同時性」を読む。
 ベルグソンと和辻哲郎をつなぐ「ことば」は「直観」である。ベルグソンは「直観」と同時に「直接」ということばの方を好むかもしれない。アインシュタインの理論に触れながら、「知覚」について、こんなことを書いている。
 人が走るとき、人が地球の上を走るのだが、これは他者から見れば人の足の下を地球が動くととらえることもできる。これはもちろん物理(数学/論理)の可能性の問題である。しかし、実際に走る人(行為する人)は、自分の行為を「直接」知覚している。この知覚は意識と呼ぶこともできる。それは「内的絶対性」であり、「事実」である。運動する人(走る人)にとって、これはその人の内部で起きる「直接」の感覚(知覚)であり、この「直接」は「確実」であって、ゆるぎがない。
 そして、この「直接」こそが「持続」していくものである。だれにも「介入」されない「持続」というものがあり、そこから「連続」も生まれる。
 「直観」も誰からも「介入」されないものである。この直観を持続させ、そこから連続した世界を新しく描き出すことができるかどうかは、「ことば」の問題になってくるが、ことばにできなかったからといって「直観」が存在しなかったことにはならない、というようなことは、ベルグソンが書いているのではなく、私の付け足しなのだが。

 私の「ことば」が、いったい誰からいちばん影響を受けているのか、誰のことばの影響下で動いているのか、それを見極めるのはむずかしいが、私には何人かの大好きな著述家がいる。そのひとりがベルグソンだ。もちろん私はベルグソンをフランス語で読んでいるわけではないので、そのことば(翻訳)をどこまで動かしていいものなのかわからないが、「わからない」からこそ、私は「自由」にそれを動かしていく。

 「内的直観(内的直接生/内的直接知覚)」によるものだけではないが、運動はどのような運動であれ、加速する。(減速する、ということもあるだろうけれど。)この「加速」を支えるものはなんだろうか。「直観」といえば「直観」なのだろうが、それが「連続」につながるとき、そこには「構想力」が働いている。「直観的」に方向が存在する。この方向をベクトルといえばいいのか、ゲシュタルトといえばいいのか、私は知らないが、ゲシュタルトというのは新しいことばのようであって、意外と古いのだなあと感じたりする。和辻がどこかでつかっていたと記憶しているが、どの本だったかはっきりしない。

 少し脱線したが。
 運動を客観的に把握するだけではなく、「行為する人」の側からとらえなおすとき、そこにはどうしても「肉体」が介在する。「行為する人」を設定し、そこに「内的直接知覚/内的絶対性」を仮定する(想定する/想起する?)ベルグソンの考え方は、私には、和辻に似ていると思う。
 書かれている「対象」は違うのだが、「行為」に起点を置くというのが、似ている。
 和辻はいつも「行為」を見ている。「行為」を見るとは「人格」を見るということでもある。そこから「倫理」、あるいは「道」の問題が始まるのだが、そのことを私はベルグソンの文章をとおして「確認」するのである。

 ベルグソンのいう「直接」は、私にはまた「即」に通じるように思える。つまり、それは道元につながる何かがあるように「直観」する。

 


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こころ(精神)は存在するか(9)

2024-02-10 13:02:38 | こころは存在するか

 父が死んだ年齢に近づいてきたせいか、しきりに死について考えるようになった。私は父の死に目(臨終)には立ち会っていないのだが、葬式のあと、いや焼骨のあと自宅に帰ったとき、姉が「父が自宅の前の道から碁石が峰を見ていた」とぽつりと漏らした。それは死ぬ直前のことではなく、たぶん手術後、いったん退院したときのことなのだろうが、まるで碁石が峰を見ながら死んでいったという具合に聞こえた。私はすぐに父がいただろう道に出てみた。道の向こうに田んぼが広がり、その向こうに山が見える。いつも見える山である。見慣れた山である。しかし、驚いた。それは変わらぬ山であったが、何かが違う。違うものが見える。山を見ていた父の姿が消え、父が隠していたものが見える、と感じたのである。父の肉体の形が透明になり、その透明ななかに碁石が峰が見えた。それは碁石が峰というよりも、「透明」としか呼びようのない光のようでもあった。何かはっきりとはわからないが、そういうことが起きる。

 いま、それを「死から始まる世界」と感じている。
 これは、唐突な考えだが、すべては「死後」から始まるのである。
 私はいま和辻哲郎を読み返しているが、読み返しながら、和辻が考えたことはなんだったのかは、和辻が死んで、もう和辻が何か新しいことばを書かなくなったからこそ、私にとって問題なのだ。和辻が生きていれば、和辻が考える。しかし、和辻のことばはすでに本のなかで完結している。その終わったところから、私は考える。そのとき、和辻の「隠していたもの」が見える。私が、私自身で見なければならないものが、その「透明」が見えると感じる。
 これは、私が和辻を超えるという意味ではない。
 何も理解できずにただ和辻のことばのなかをさまよい歩くだけなのだろうけれど、そのとき見るのは、私にとっては、やはり「和辻のことばが隠していた世界」なのである。私が見なければならない「透明」なのである。

 どこに書いてあったのか忘れたが(いま読んでいる第七巻を読み返してみたが、傍線を引いた部分に出てこない)、和辻のことばのなかに、「死は、直観的な何か(たとえば魂)が存在することを求める」ということばがある。このときの「死は」というのは主語ではない。主語は書かれていないが「生(いのち=肉体)」である。その「肉体」が本質=思惟の純粋直観がとらえるものを求める。純粋直観が何かを探しに行くのである。
 死んでも動くものはある。しかし、それは「死」のなかにあるのではなく、また「死」から分離してあるのではなく、ただ「死んでも動くものはある」ということばのなかにこそある。そういうことを超越的に直観する、と書いて……。
 私は、これを「直観は超越的である」と書き直したくなる。書きながら、そう書くべきだったと思いなおす。
 このとき、なぜか私は道元を思い出している。道元は、たとえば「超越的に直観する」という文章に向き合ったとき、ことばの順序を入れ換えて「直観は超越的である」という風に書き換えていないか。「直観即超越」「超越即直観」。ことばは、いれかわることでさらに強く結びつく。区別がなくなる。融合する。「即」は「透明」かもしれない。
 「父は碁石が峰を見ていた」を私自身の肉体で反復し直したとき、「死」を破壊して、何かが瞬間的に見えた。それが、私の父が私に残してくれたものである。

 


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こころ(精神)は存在するか(8)

2024-02-08 13:13:58 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第七巻。「ボリス的人間の倫理学」。この本は、和辻によれば、先人の研究などをたよりに、その考えを「まとめたものにすぎない」(「序」、153ページ)。だから、これは意地悪い見方をすれば「剽窃」の部類かもしれないが、こうしたことを「剽窃」と呼ばないのは、林達夫の「タイスの『饗宴』」が書いている通り。林達夫と和辻は、この「剽窃」かどうかをめぐる「構想力」という考え方で共通していると思う。また、人間の「構想力」を考察するときに、個人を社会に還元しながらとらえるところで共通すると私は感じている。
 その「構想力」について、和辻は「構想力」ということばをつかっているわけではないのだが、183ページに、こんなことを書いている。

ポリスは(略)部族と部族との結合によって漸進的に成ったものとはいえない。それはむしろ氏族や部族の崩壊、従って氏族的段階からの飛躍によって、すなわち否定の契機の入り来たることによって、できあがったのである。

 「飛躍」を生み出すのが「構想力」であり。そして、その「飛躍」には、すでに存在するものを「否定する」ことによって成り立っている。先人の研究をまとめるとき、それをただ単に「集める」のではなく、あるものは「否定し」、あるものは肯定し、整理し(まとめ)、まだだれも書いていない「世界」へ「飛躍」するのである。「飛躍」するためには、「構想力」が必要なのだ。
 そして、この「構想力」を補足するのに、和辻は「原理」ということばをつかっている。途中を省略するが、こうつづいている。(183ページ)

ポリスは単に氏族が拡大されただけのものではなく、氏族の否定において、氏族と異なった原理によって発展してきたのである。

 その「原理」を見出すために、和辻はことばを動かしているとも言える。
 何かを「否定する」とき、その根拠になるのは、それまでと「異なった原理」である。「構想力」はその「原理」を直観的にとらえている。ここから「個人」というものの存在が浮かび上がるのだが、書いていると複雑になるので、きょうは省略。ただ、この「個人」が「倫理」と関係していることは、和辻の文章を読めば、おのずと理解できる。和辻は、こんな文章を書いている。(199ページ)

ポリス的人間はポリスにそむいて個人となることができる。この否定の契機にこそ倫理学が発生する地盤が存在するのである。

 私は、ここでも「否定の契機」ということばがつかわれていることに注目しているのだが、210ページには、こんな文章もある。

ポリスが人倫的組織であり、人倫の実現であるということは、私的存在の主張によってかえって明らかにされる。(略)ポリス的正義の意義は、私的な正義の主張と対比されることによってかえって発揮されるのである。

 「倫理」とは、そこに何らかの「飛躍」を含む、「原理」とはなんらかの「飛躍」を含むものである。そして、そこには「構想力」が常に働いている。
 どこに書いてあったか、急いで読み返していると見つけられないのだが、どこかに「道」ということばがあった。「道」は「倫理」であり、それは「生き方」でもあるだろう。私はいつでも「古寺巡礼」に出てきた「道」に引き戻される。

 

 

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こころ(精神)は存在するか(7)

2024-02-06 17:45:27 | こころは存在するか

 「日記」を書くというのも、なかなか時間がかかる。書きたいことはたくさんあったのだが、時間がとれない。

 和辻哲郎全集第七巻。「原始キリスト教の文化的意義」を読む。私はキリスト教徒ではない。和辻もキリスト教徒ではない。だから、キリスト教を、あるいは「聖書(新約、旧約)」を「宗教」としてではなく「作品(文学)」として読み進み、そこからことばを展開する。聖母マリアについて書いた部分がとても刺戟的だ。
 聖母マリアを「想像の所産」と断定し、こう書いている。

本質の把握にとっては、与えられているものが知覚的経験的に与えられているか、あるいは想像力によって与えられているかは問わない。(147ページ)

 聖母マリアが「歴史的人物」ではない、つまり「事実」ではないとしても、そこに「本質」があれば、それで問題ではない。人間にとって重要なのは「本質」であるということなのだが、そのときの「本質」は、どんな根拠に基づくか。
 「経験」ではなく、「本質的直観」である、と和辻は言う。
 人間が、母を経験する。母と子の愛を経験する。それは個別的な体験である。それが「普遍(完全なるもの)」にどうやって変化するのか。「直観」によってである。
 こんなふうにも書いている。

我々は現実の世界において完全なるものを経験することはできない。すなわち現実の世界には完全なるものは存在しない。(略)個々の母を経験しながら「母一般」を直観し、それをさらに他の直観と結合しつつ、ついに「処女にして母」なるものにおいて完全なる愛と美を直観するに至るのは、内に働くイデーのしわざでなくてはならない。(148、149ページ)

 「イデー」とは何か。
 私は「こころ(精神)」が存在しないと考える人間である。「イデー」も「精神」のようなものではなか、と考えると、和辻のことばを頼りに自分のことばを動かしている私の文章は矛盾していることになるのか。
 だが、私が頼りにしているのは、その「結論」ではない。
 いま引用した文章で言えば「内に働くイデー」とよりも、私は「現実の世界には完全なるものは存在しない」ということばの方につよく刺戟を受けている。「完全なるものは存在しない」なら、「イデー」も存在しない。それは「現実の世界」ではない。
 存在するのは「構想力」、あるいは「想像力」であり、しかもそれは「直観」なのである。論理的根拠を持たない。では、何を根拠とするのか。「肉体」である、と私は考えたいのだが、その「通路」というか「方便」は、まあ、見つからないなあ。
 しかし、手がかりはあるかもしれない。
 和辻は「内に働くイデー」と書いている。「イデーは働く」と読み直してみる。「イデー」は固定してない。「動く」だけでなく「働く」、つまり動詞であり、なおかつ何かに作用するときの動詞である。あらゆる「動詞」は肉体とともにある。「飛ぶ」という人間にはできないことさえ、「できない肉体」とともにある。もちろんこの「できない」を「できる」に変えるのが、たとえば飛行機であるが、そのために人間は「肉体」を動かし、素材に「働き」かけ、いままで存在しなかったものをつくる。
 「こころ(精神)」ではなく、ただ「肉体」だけが「現実」として存在する。

 

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こころ(精神)は存在するか(6)

2024-01-30 15:39:10 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。
 この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。
 私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同じ構という漢字がある)」である。「見渡す」そのものは(175ページ)に出てきて、それは「見とおす」(183ページ)ということばにもつながっている。
 和辻の文章の基底には、いつも肉体の動き、具体的な動詞が存在する。
 「編み込む」という動詞に関連しては、195ページで「手の働きが見出せる」と書いている。和辻には、「手」が見えるのである。「頭の動き」ではなく、「手の働き」として、ことばをとらえているのである。精神の動き、こころの動きというような、抽象的なものではなく、あくまで「手の働き」に引き戻して、ことばと肉体をつないでいるように感じる。私が和辻の文章に惹かれるのは、それがあるからだ。
 ついでに書いておくと、和辻は「手の動き」ではなく「手の働き」と書く。「動く」は単独で可能だが、「働く」という動詞は「相手(対象)」が必要である。そこには「具体的な接触」がある。自分の肉体が、何かと「接触」し、それを「動かす」。それは逆に言えば、「対象(相手)」しだいで、自分自身の「働き方」を変えないと何もできないということでもある。「働く」ということは、自分自身が変化することでもある。

 このことと関連すると私は考えているのだが、和辻は「思想」ということばを否定的な意味合いでつかっている。168ページ。

この作者にあるのは人間の運命が神々に支配されているという「思想」だけであって、神々の世界と人間界という二つのことなった世界の並行的なヴィジョン(幻視)ではない。

 和辻は、「思想」と鍵括弧付きで、このことばをつかっている。「固定化された考え方」(規定の考え方、動きのないもの)という意味であるだろう。それは「意図(結論が想定されている)」につながるかもしれない。動く「思考」ではなく、動いたにしろ「結論」が判明している何か、それにつながるものが「思想」である。そこでは、自分は動いていかない、変化しない。
 ここから、もう一度、43ページのことば読み直してみる

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 「思想」とは「哲学」である。「約束された世界(結末)」である。一方「文学」には「約束された結末」がない。ただ「構想力」があるだけで、それはどこへ動いていくかわからない。人間が、生きて、動いていく。
 和辻は文学の登場人物に人間の動きを見ると同時に、その作者にも「肉体の動き」を見ている。「まとめなおす」「見渡す」「見とおす」「編み込む」「手の働きが見出せる」ということばが、それを語っている。
 人間に精神とかこころとか呼ばれるものがあったにしろ、それは「目(で見る)」とか「手(で編む)」とか、肉体の動きに還元できるものである。

 これは、逆の言い方もできる。和辻のことばではないが、百人一首の平兼盛の歌、「忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。恋(こころの動き)は色(素振り、態度)になって、人にわかってしまう。見られてしまう。どんなときにも、人間には「肉体」がある。

 

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こころ(精神)は存在するか(5)

2024-01-27 22:29:22 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 これは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。
 私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。
 私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。

 この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に「約束」ということばである。
 「約束」とは何か。
 「論理的結論」と言いなおすことができるかもしれない。「哲学」は「結論」を持つ。しかし「文学」は「結論」を持たない。「おわり」があるが、それが「結論」とは言い切れない。
 「哲学」が「論理」だとすると、「文学」とは何か。
 和辻がよくつかうことばを借りれば「人格」かもしれない。「人格」は「結論」を持たない。しかし、その「結論」のない「人格」から受け取るものは非常に多い。和辻がケーベル先生から受け取ったのも「人格的影響」だろうと思う。
 「人格」の定義はむずかしいが、「人格」を含む文章に、こういうものがある。18ページ、「ケーベル先生」。

目下の者への高慢を「心根の野卑下劣」とし、人の真の教養と気高さとが小さきものへの態度において認識せられるとした先生自身の人格のしわざである。

 「人格のしわざ」の「しわざ」ということばが強い。それは「こころ」の動きというよりも、人間の肉体の動き(態度)そのもののように、私には感じられる。ひとは態度(肉体の動き)に肉体の動き(態度)で反応する。

 

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こころ(精神)は存在するか(4)

2024-01-22 12:09:56 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻。545ページ。

法華経は文学と哲学との合い子であって、純粋の文芸作品でもなければ、また純粋の哲学書でもないのである。同じようなことはプラトーンの対話篇についても言える

 読みながら、これは和辻の文章についても言えるのではないか、と思う。和辻の文章には、文学的魅力と哲学的魅力がある。逆に言った方がいいかもしれない。哲学的魅力と文意学的魅力がある。別な言い方をすると、哲学(論理)を追究して言って、ある瞬間に、論理を打ち破って感覚が世界を広げる瞬間がある、と私は感じる。そして、その感覚が押し広げた世界は、いままで存在しなかった論理を待っている感じがする。論理の予感がある。
 いま引用した文章にプラトン(対話篇)が登場するが、これも私が和辻に惹かれる理由である。私はいつでもプラトンを読み返したい。ここ何年か、毎年正月一日にはプラトンを読む。プラトンのことばを追いかけるのは、とても楽しい。

方便はあくまでも実践上の必要として出てくるのであって、理論上の必然としてではない。

 551ページの、このことばにも私は傍線を引いた。それは、こんなふうにつづいている。

諸説が一つの統一に達するとすれば、それは説かれた法における内容的な統一ではなくして 、むしろ法を説くブッダにおける主体的な統一だといわざるを得ない。

 「実践」は「主体的統一」と言いなおされている。「主体的統一」をもって行動(実践)するとき、そこには論理(法)ではなく「方便」が動く。「方便」とは「個別の事情」と言いなおされるかもしれない。
 「個別の事情」をそれぞれの個人の「肉体」と言いなおし、「法(論理)」を「こころ」と言いなおせば、そこからやはり「こころは存在しない(存在するのは肉体だけ)」というところへ、私のことばは動いていこうとするのだが、これは私が私自身で納得していることであって、他人を納得させる形では書き直すことはできない。
 このことと直接的な関係(論理的脈絡)を追うことは難しいのだが……。557ページ。

主題が動因であって、それが事件を産んで行く

 というのも、印象に残る。「動因」は「主体的統一」であろう。それが「肉体」だからこそ、そこには「事件」が起きる(生まれる)。和辻は、「生まれる」ではなく「産んで行く」と書いている。たしかにそれは「肉体」が「産んで行く」ものである。
 それは、どういうことかというと。560ページ。

思想の叙述を目ざしているプラトンの対話篇に対話者として現われてくる諸人物は、いずれも実に躍如として生きているように思われる。

 「主体的統一」は「生きる」ということなのである。

 きょう最初に引用した文章、文学(文芸)と哲学との融合は、558ページ以降の部分に結晶のように輝いている。

その展開は、いわば内へ渦を巻いて行くような展開であった。(略)それは思想の論理的展開ではないが、しかしそれによって思想的主題は著しく力を高めてくるのである。

 「思想」が人間の形をして動く。これは和辻の文章から私が受け取る印象そのものである。

 

 

 


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精神(こころ)は存在するか(3)

2024-01-20 21:16:28 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻の464ページ。

最後の一句は、乗門道人親戚工師細民とあって、わたくしにはちょっと読みこなせないのであるが、

 この「読みこなせない」ということばが、とてもおもしろい。「読めない」ではない。「読む」ことは、読む。
 このとき、いったい何が起きるのだろうか。
 先の引用とは直接関係があるわけではないのだが、476ページには、こういう表現がある。

思うにこの答えはそういう矛盾を示そうとするものではないであろう。

 「思うに」ということばがある。
 強引に言えば、「読みこなせない」とき、その「読みこなせない」部分を「思う」のである。想像するのである。「思う」ことで「道」をつくる。
 497ページには、こんな文章がある。

古い形の法華経を一つの作品として鑑賞し、分析し、この作品の構造や、その根底に存する想像力の特性等を明らかにしなくてはならない。

 和辻が「思う」のは、ある作品の「想像力」について「思う」のである。和辻が「読みこなしたい」と思っているのは、その作品の「想像力」の動きである。このときの「想像力」とは「道」のつくり方だろう。違った存在をイコール(=)で結びつける「想像力」。そして、ある作品が完成したとき、そこには何と何がイコールであるかは「説明」されず、ただ完成した形だけがある。形のなかに、想像力は消えてしまっている。
 消えてしまっている想像力を明らかにするために、さまざまな分析をするのである。さまざまな「ことば」を動かすのである。
 逆に言えば「読みこなせない」とき、そこには和辻の知らない「想像力」が動いており、だからこそ和辻は強引に「読みこなせない」けれども、読みこなしにかかるのである。

 「読みこなす」は「読み熟す」と書くかもしれない。「熟す」は「うれる」でもある。うまく「うれる(熟す)」のは、そのとき、和辻の「想像力」かもしれない。「熟す(こなす=うまく処理する)」と「熟す(うれる)」が、入れ代わるようにして交錯する。そういうことが起きるかもしれない。「熟す(うれる)=熟す(こなす)」、つまり「熟す(うれる)即熟す(こなす)」へ向けて、和辻の想像力(思う)は動くのである。
 この瞬間がおもしろい。言いなおすと、和辻が「わかっていること」を書くときよりも、「わかっていないこと(読みこなせないこと)」を書くとき、そこに、とても魅力的なことばの運動が展開するのである。
 「古寺巡礼」のどの部分がそれにあたるか、いま私は的確に指し示すことができないけれど、私が和辻の文章にひきつけられるのは、そうしたことばの運動を随所に感じるからである。

 もうひとつ。
 きょう読んだ部分では、489ページに、こんな文章が出てくる。

道元の著書は仏教哲学史の一通りの理解なしにはこれらの高僧の思想に近づくことの無謀なのを教えたが、さてその哲学史に触れようとすると、ギリシアの哲学があの戯曲的に優れた対話の中から流れ出てくるように、大乗仏教の哲学があの巨大な交響楽のような法華経から流れ出てくるのを、無視するわけには行かなかった。

 道元とギリシャ哲学の関係を書いたものではないのだが、私は、妙にこの文章が印象に残る。「ギリシアの哲学」ということばが唐突に挿入されていることに刺戟を受ける。それは、私がプラトン(ソクラテスと言ってもいいのかもしれない)に惹かれることと関係しているのかもしれない。私はどこかでプラトン(ソクラテス)と道元が出会う「場」を探しているのかもしれない。そして、その「手がかり」を和辻の文章に感じているのかもしれない。 

 

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精神(こころ)は存在するか(2)

2024-01-19 21:41:18 | こころは存在するか

 和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。

 「道」とは何か。

 いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせているのが「道」である。
 「道」は、あるときはある場所と別の場所をつないでいる。長いときもあれば短いときもあるが、ようするに「道」によってふたつの存在が結びつく。結びついた瞬間に「距離」は消える。「距離」を消してしまう、その結びつきが「道」。結びつきが「道」なのだけれど、結びついた瞬間「道」は消えてしまう。(それは「色即是空」の「即」に非常に似ている。)

 「道」には、時には「言う」という動詞が割り振られることもある。「言う」を名詞にすれば「ことば(言葉)」になるだろう。(「言葉」のなかに「言う」がある。)

 死ぬまでにもう一度読んでおきたいと思い、七十歳になったときから、中井久夫、林達夫、和辻哲郎と読み進んできた。三人の系列に、私は三木清も含めているのだが、この四人のことばは私のなかではつながりがある。
 中井久夫は、統合失調症について「目鼻のつかない病気などあるものか」と言ったが、このときの「目鼻をつける」が「道をつける」かもしれない。三木清は「構想力」ということばをつかうが、この「構想力」が「道」である。林達夫ならば「想像力」か。和辻も、類似のことばをつかう。ことばをとおして、そこに存在しなかったもの(意識化できなかったもの)が具体的に存在し始める。それを支える「力」。

 私は和辻の文章がとても好きなのだが、それには理由がある。和辻は、なんといえばいいのか、「専門外」の分野に足を踏み入れる。もちろん、その分野の勉強もするのだけれど、専門家から比べると、いわゆる「知識」が足りない。(専門家から、批判を受けている。)けれども、和辻は「間違い」をおそれずに、「未知」の部分を和辻の肉体のなかに動いているいのちを頼りに突き進んでいく。そこに、専門家がたどらなかった「道」ができる。
 「未知」がことばを動かすことで「道」になる。それは専門家から見れば「間違った道」かもしれないが、間違いというよりも専門家が見落としていた「可能性」であり、そこにはいつも「いのち」が存在している。「間違い」は、ある意味で「いのちの必然性」でもある。生まれてこなければならない、何かが、そこにはある。
 「道」は「いのち」なのである。

 

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精神(こころ)は存在するか(1)

2024-01-19 00:00:51 | こころは存在するか

2024年01月018日(木曜日)

精神(こころ)は存在するか(1)

 「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。

 仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。
 なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚)という「構図」にしなかったのか。仏教が誕生したころは脳は頭のなかに隠れていて見ることができない(触ることができない、存在を確認できない)から、目に見えない「精神(意識/こころ)」を割り振ったのか。そうだとしても、脳の存在が誰にもわかるものとして認識されてからも、その脳(頭)を組み込む形で、それまでいわれてきている仏教思想(東洋思想)を再編成しようとしないのはなぜなのか。
 私は、何も知らない人間の大胆さで、「目耳鼻舌身頭(脳)」と「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚(ことば=精神/こころ)」という「構造」で「世界」を整理し直したいと思っている。
 私は、「一元論」を、私なりに書いてみたいと思っている。
 私の「一元論」は簡単に言いなおしてしまうと、世界に存在するのは「私という肉体」だけであり、そのほかのものは「私の肉体」が、そのときそのときの必要に応じて、「存在すると知覚したもの/知覚しようとしているもの」ということになる。
 コップがある。水がある。そう認識する(知覚する)とき、それは「私という肉体」がコップや水を通してことばを動かし、何かを考えたいと思っているからである。別なことばで言えば、そのとき動いたことばの範囲(領域)が「世界」であり、コップや水を書いている瞬間、花や太陽は存在しない。花や太陽は存在しないと書いた瞬間(ことばにした瞬間)、存在するものとしてあらわれてくる。「肉体」は「ことば」とともにあり、「ことば」とともに、その瞬間瞬間に「世界」は形を変えながら存在する。
 こういうことを「無常」というのではないか、あるいはこの「肉体=ことば=世界」というときの「イコール(=)」を「法」と呼べばいいのではないか。

 結論(?)を先に書いてしまうと、もう書くことはないなあとも思うのだが、その「結論」までの「道筋」をどうデザインしていけばいいのか、よくわからない。よくわからないが、それを書きたいと思っている。

 

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